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2018年9月21日 

今日はポルトガルの大航海時代にまつわる話をあげます。

エンリケ王子1
ポルトのボルサ宮前に建つエンリケ航海王子の像。生地はポルトです。

ポルトガル大航海時代の礎を築いたエンリケ王子は英国人の血を引き、イギリスでも人気があるポルトガルの歴史人物の一人です。その生涯は一見華やかな印象を受けがちでしが、どんなに華麗な歴史にも陰があります。
                              
テンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団初代総長となったエンリケ王子は、騎士団の富を資金源に、新しい船の造船にも力を注いぎました。テンプル、キリスト騎士団員は独身でいることを求められ、王子も生涯独身を通しましたが、ヨーロッパの小国ポルトガルに大航海時代という黄金時代をもたらしたのは、このエンリケ王子です。

北アフリカのセウタ攻略後、セウタ総督を任ぜられ、またアルガルブ地方の統治も任せられたエンリケはラゴスに拠点を置き、国家事業の航海計画に専念しました。

父王ドン・ジュアン一世没後、長兄ドン・ドゥアルト王の時代にはこの事業をめぐって対立する勢力がありました。エンリケ王子は、長兄ドン・ドゥアルト王の命で、セウタ確保のため、次兄ドン・ペドロの反対を押し、末弟フェルナンドとともに北アフリカのタンジール攻略に入るのですが失敗します。
 
末弟フェルナンド王子は休戦協定のためアラブ側の人質となり、彼は6年間の幽閉後アフリカで亡くなります。セウタはこのドン・フェルナンドの犠牲で確保されたと言えるでしょう。

後に、次兄ペドロ王子と前王ドゥアルトの息子アフォンソ5世の王位争いが始まりますが、エンリケはこの権威争いには組せず、アフリカの地で人質として弟フェルナンドを死なせた心の傷もあってか、サグレスに引きこもり天体観察に打ち込み、ヨーロッパ各国、イスラム国からも航海知識者を招き、船員の教育に努めたといわれます。

sagres
断崖のサグレス岬

サグレスにエンリケ王子の航海学校があったと言われるのはこの所以です。実際に学校が存在したかどうかは明確ではありません。

エンリケ王子はサグレス隠遁前、航海時代の中心地、ラゴス(サグレスの近く)に居を構えていましたが、ラゴスはヨーロッパ最古の奴隷市場があったところでもあります。ポルトガル国内では奴隷はほとんど使われませんでしたが、ラゴスはアフリカからの奴隷船の入り口でした。

エンリケ航海王子は1460年にサグレスにて没。
sagres4.png
 
その後、O Africano(=アフリカ王)の異名をもつエンリケ王子の甥、ドン・アフォンソ5世王は北アフリカ入り口を征服し、やがて時代はポルトガル・スペインの大航海時代に入ります。

sagres5.png
横に膨張して今にも海と接触せんとする太陽。

空に余韻を残し海に沈む太陽。右に見えるのはサン・ヴィセンテ岬。数世紀前、エンリケ王子もこの岬から同じ夕日を日々眺め、日が落ちてからは天体観測をしたことでしょう。孤高の人エンリケ航海王子は果たしてどんな思いで落日を眺め星を求め、陸路の果ての断崖岬で生涯を終えたのだろうか。


また見つかった、なにが?
永遠が。 海と溶け合う太陽が。(アルチュール・ランボー「永遠」)
                               
こんな1節が思い出される落日の一瞬です。
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2018年9月17日 

今頃ですが、今年の夏は暑かった!
わたしは紫外線アレルギー体質で外出時は車を運転するときも長袖とスカーフが離せません。それでも右腕の前腕が弱点なのか、毎年湿疹に襲われます。ところが、今夏はあまりの暑さに両腕をやられてしまいました。長袖を着ていたにも拘わらず、です。
一度も半袖に手を通さなかった夏でした。

夫の知り合いの皮膚科専門医に行っても、「これは紫外線アレルギーねぇ」と、塗り薬の処方箋をもらうだけです。塗ったからとて夏の間中直る兆しもなし。来年度は早期から気持ちと着る物の準備だ!と今から息巻いています。

さて本題の「あイタタタ」ですが、子どもたちもそれぞれ日本へ帰ったところで、9月に入り、どれ、少しゆっくりできるかな?と思いしな、2、3日、どうも右腹の下がシクシク痛い。おかしいなと思った矢先に、真夜中、おなかの右側にまるで線でつながるかのように、湿疹のごとき水ぶくれの群れが横に三箇所できているのを発見!うげ!なんでんねん、これ?

これが、美智子妃殿下、雅子様もかかったという帯状疱疹であると知るのに時間はかかりませんでした。帯状疱疹は通常3週間から一ヶ月を目安に直っていくのだそうですが、その間の水ぶくれができたところの痛みといったらありません。

痛みにはからっきしダメなわたし、一日中、突如襲ってくる針でつっつくような痛みで、「あイタタタ」の連発です。毎夜中にもその痛みで目が覚めて消毒するもので、このところ熟睡できず。発症から1、2週間が一番辛いのだそうですが、この痛み、いい加減去ってくれないかなと、心底願っています。

そう言えば、補習校時代の昔、同僚のI氏がかかったことがあり、「痛いんですよねぇ」と言っていたのを思い出しましたが、この手の痛みは、かかった人でないと分からないだろうな、と一見、たいして気にもしてくれてない夫を横に、処方してくれた薬、効いてるんかぃ!と心中で毒づいている次第であります。これを八つ当たりいうのだが(笑)

帯状疱疹が発症する原因は、水疱瘡を引き起こすウイルスだそうで、水疱瘡にかかったことがある人はみな、このウイルスをもっているとのこと。それが、歳をとり抵抗力がなくなって、ストレスや疲れが溜まったときに、突如、活動しはじめるのだそうです。年齢に関係なく若い人もかかると言っています。

たいがいの無理は、なんとかやり過ごせてきたのが、70歳のここに来てさすが気力だけでは行かなくなってきたのだと実感。しかし、もう少し現役で行きたいと、本日も「あイテテテ」を心中でつぶやき、日本語、がんばっています。

ではみなさま、また。
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2018年9月13日 

9時から5時まで仕事をし、夫がいて、その上、オンラインショップを運営するのはなかなかたいへんだろうと思います。
その夫と言うのは、我が婿殿に当たるわけですが、共稼ぎゆえ、家事は二人で分担して、先に帰宅したほうが料理当番になるという娘夫婦、男も料理ができるほうが、いざという時に助かるし本人にとってもいいとは、わたしの意見です。

自分では決して包丁を持たない我が夫、こちらがくたびれてしんどい時などは、どないかならんものかなぁ、と、時々不満に思ったりするのが本音ですぞ。我が家は和ポ折衷料理でありますから、それを夫に望むは無理というものと知ってはおるのですがねw

一生死ぬまで料理当番かぁ、だって、こっちもある程度仕事してるんだよねぇ、とふと漏らした日にゃぁ、夫曰く、「いいよ、一週間交代でも。その代わり、僕の当番の週は外食だ」って^^; 毎日油っこいポルトガル料理もいやだぁ、となるのであります。日本のようにポルトガルではできあがりの惣菜が皆無なので、ご飯作りは楽ではないのです。

あら、モイケル娘のオンラインショップを宣伝しようと書き始めたのですが、愚痴にそれちゃったよ(笑)
というので、閑話休題、話を本題に戻しまして、以前にも紹介させていただいたポルトガル雑貨オンラインショップ「東のポルト屋」、新着商品を案内しております。

店長ソデとその母親の自己満足テイストで紹介していますが、お時間あらば、どうぞ一度ご足労いただきたい。まったく宣伝していないので、知る人は少ないと思うのですが、ひょっとすると気に入るものに出会えるかもしれませんぞ^^

まだまだ色々な品があるはずなのですが、本人曰く、「撮影する時間がな~い!」
ダメじゃん、それじゃ商売にならんぜ、と思うおっかさんでありますが、ふと我がことを振り返れば、ぬぬ?どこぞで聞いたことがあるセリフである。

日本語教室やってますが、同僚のご主人をして「これじゃぁ、もうからないねぇ。君ら二人じゃ、放っといたら赤字になる」と言わしめているのであります。

いや、もう知ってますって。安い授業料に出世払いにしている生徒も何人かいたりして、これに税金を払ってガソリン代、駐車料金等を入れると、多分そんな具合でしょう。

加えて、「どうしても日本語を続けたい」11人のグループを引き連れて、今回は小さなレンタルスペースを借りて続けることにしましたが、長年教えてると生徒も我が子のように思われ、そろそろこの辺で終わろうという気になれないのです。ここがわたしのダメなところかも知れない。生徒には色々な先生にあたって、教えてもらったほうがいいかもなぁ、と思いながら、つい情に引きずられてしまいます。

商売になっとりませんが、教えることを楽しんでいる自分がいます。ま、これでいっか!と、似たもの親子のすることであります。

と言うので、おっかさんのほうは、自宅の個人授業はほぼ全員夏季休暇から戻ってきましたが、グループ授業も来週から新たな場所で出発することになっています。

モイケル娘の方は、今回はこんなのや↓
pi-man.jpg

こんなのも↓出しておりますので、ちょっと覗いてやってくださいませ。
prato_galo.jpg

あ、そうそう、名付けてねずみのアナトール」のチーズトレイもあるんだが、お~い、もいちゃん、それはどないなっとるのん? アズレージュのトレイも出してくれぃ!

 「東のポルト屋」サイト、まずは店長のプロフィールからどうぞ。
http://www.higashinoportoya.com/about/

いや、プロフィールは結構、トップページをと言う方はこちらからどうぞ。
http://www.higashinoportoya.com/

では、本日はこれにて
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2018年9月12日 

息子のガールフレンドによると、「Salamanca」はフィリピンの言葉で「Magic=魔法」という意味なのだそうです。
そこで、フィリピンとサラマンカの繋がりを少し調べてみると、フィリピンは19世紀から20世紀にかけての米国の植民地になる前はスペインの植民地でした。ですから、「サラマンカ」がフィリピンの言葉を語源にするというのは、十分考えられると思ったのですが・・・さて、本当は。

こんなことを取り上げたのは、夫の提案でサラマンカにある洞窟「Cueva de Salamanca」なる所を訪れたからです。洞窟と呼ばれる石の建物は、元は聖シプリアン教会の地下室だったようですが、16世紀後半に破壊されました。

聖シプリアンと言うのは、3世紀のカルタゴの主教キプリアヌスで、ローマ帝国の迫害により殉教した聖人です。さて、入り口をくぐってすぐ左にあるのがサラマンカ洞窟で、これには伝説があります。

cave4-1.jpg

昔、この地下室(洞窟)では夜になると、サタンが7人のサラマンカ大学生に7年間、黒魔術を教えたのだそうです。教えが終わったところで、サタンは7人の学生にくじを引かせ、そのうちの一人が7年間の7人の授業料を払う義務を負わせられます。支払えない場合は、一生をこの洞窟で過ごしサタンに使えなければならないのです。その悪運くじを引いてしまったのはMarqués de Villenaです。お金を持たない彼はこの洞窟に住むことになります。

が、ある日のこと、Marqués de Villenaは洞窟のドアから逃亡することに成功します。サタンは彼を捕まえようとするのですが、捕まえることができたのは、Marqués de Villenaの影だけでした。こうして彼は影を持たない者として生きなければならず、それを人に悟られないために常に日陰を歩いたということです。影を持たないというのは、サタンの債務者であることを意味します。

この話はやがてスペインの領土だった中央アメリカ南アメリカに伝わり、それらの国では黒魔術を行う場所や洞窟、暗い場所を「サラマンカ」と呼ぶようになりました。つまり、冒頭にわたしが言った、、「サラマンカ」はフィリピンの言葉を語源にするのでは?とは逆になります。

入場料は無料、夏の間は毎週金曜日土曜日の夜は、この伝説に基づいたミニ芝居が見られるのだそうです。
わたしたちが行った日は洞窟に入れず、かわりにその少し向こうにある塔まで上りました。街の見渡せてきれいでした↓

cave2-1.jpg

本日はこれにて。
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2018年9月9日 

本日は自分のメモとして書きますが、お付き合い願えたら嬉しいです。

ポルトの街が「Cidade Invicta」なる別名を持っているのを知っているだろうか。CidadeはCity, Invictaは「敗れざる、征服せざる」の意味だから、「征服せざる街」となる。

この呼び名は、8月に拙ブログで取り上げたポルトガルの歴史、19世紀初期の3回に渡るナポレオン軍侵入戦争の第二回目、ポルトを襲ったナポレオン軍を撃退した出来事と、この後の自由主義派と王政派が激突したポルトガル内戦で、リベラリスト派が多かったポルトがブラジルから北部に漕ぎついたドン・ペドロを中心にして、王政派を破ったということに因みます。

Tripeiro(トリペイロ=臓物を食す人)という名もポルトの人は冠しますが、これもやはり歴史の出来事からきます円は後記にて「Cidade Invicta」「Tropeiroはポルトの人たちの愛国心の表れでもあります。下記のようにポルト市の紋章にも「Invicta Cidade do Porto」と書かれています。

brasao_porto1.png
Wikiより

さて、Invictusはラテン語ですが、この単語を目にしたのは、南アフリカを舞台にしたクリント・イーストウッドが製作に携わった映画「Invictus」ででした。南アのアパルトヘイト政策が撤去され、27年もの獄中生活から解放されたネルソン・マンデラが南ア史上初の全人種参加選挙で最初の黒人大統領に選出されたころの、南アとニュージーランドのラグビー決勝戦までのストーリーです。

映画ではマンデラをモーガン・フリーマンが、ラグビーチームのキャプテンをマット・デイモンが演じていました。


獄中での結核や呼吸器官疾患の病を抱えながら石灰石採掘場での27年間の重労働を強いられたマンデラを支えたのは一編の詩でした。
「I am the master of my fate, I am the captain of my soul」

この最後の一節にひどく惹かれ、検索してみると、これは1875年に出されたイギリスの詩人William Ernest Henleyの詩「Invictus」ということでした。

テキストは下記の如し。

「Invictus」
Out of the night that covers me,
Black as the pit from pole to pole,
I thank whatever gods may be
For my unconquerable soul.

In the fell clutch of circumstance
I have not winced nor cried aloud.
Under the bludgeonings of chance
My head is bloody, but unbowed.

Beyond this place of wrath and tears
Looms but the horror of the shade,
And yet the menace of the years
Finds and shall find me unafraid.

It matters not how strait the gate,
How charged with punishments the scroll,
I am the master of my fate.
I am the captain of my soul.

最後の節は、
いかに門がせまかろうと、いかなる罰に苦しめられようと、
我が運命の支配者はわたしであり、我が魂の指揮官はわたしである

マンデラはこの言葉に胸に刻み、獄中生活を絶え抜いたのです。苦境にあって、素晴らしい言葉に出会えるのは人間を希望へつなぐ一筋の光になります。

希望はいいものだ。
多分なによりもいいものだ。
そして、いいものは決して死なない  

スティーブン・キングの本「監獄のリタ・ヘイワース」(映画名:ショーシャンクの空の下)の中に見出される一文から。

では、また。

★「臓物を食す人」はこちらで→「ポルトびと、その名はTripeiro
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