2017年10月18日 

「先生、ぼくのケンドー、見に来ませんか?」と日本語生徒のD君に誘われたのは何年か前だ。

昔、大阪の堂島で会社勤めをしていた頃、みんなが「ブーヤン」と呼ばれていた同僚Sの剣道稽古を見に行った時の「ヤー!ットゥー!」と強烈な印象が残っている。子供時代に棒っきれを振り回してチャンバラごっこに明け暮れたわたしは、ケンドーの名に惹かれ、夫を引っ張ってポルトの剣道場に行った事がある。

場所はBessaのサッカー場の隣、ボアヴィスタのパビリオン内です。その日は特別の稽古日で、リスボンから日本人の師範が指導に来ていた。

剣道

その日の稽古は面も胴もなし。二列に向かい合って並び、一技終わるごとにずらして対面する相手を変えて行きます。稽古場の両側の壁は一面鏡になっている。

これは神道、ひいては武士道につながる「鏡は人間の心の表現であり、心が完全に穏やかで、一点の曇りもないとき、そこに神明の姿をみることができる」を期しているのだろうかと、新渡戸稲造著「武士道」を思い出した。

「ヤー!ットー!」の掛け声とともに、竹刀がバシンとぶつかる激しい稽古を期待していったのですが、それはありませんでした。みな、真剣に師範の動作を見、話に耳を傾け、動作はいたって静かだ。

静寂な稽古場に時折響く「ヤー!」の声は、時に自信たっぷり、時に自信なさげで、個人の気合の入れ方がそのまま出ていて、面白い。ポルトガル女性が二人と、日本女性が一人(時々稽古相手に指導していましたから恐らく師範の代理)がいた。

さて、ここから本題です。近頃ではさっぱり音沙汰がなくなったが、アメリカ、カリフォルニアに住み、中年になってから剣道を始めた友人がこんなことを言っていた。

「防具をつけてからと言うもの、死ぬ思いだ。こてー!と叫んで、しこたま手首を打ってくれる。痛いのなんのって、ほんとに頭にきて、竹刀を捨ててなぐりかかってやりたいぐらいなのだ。華麗どころか喧嘩ごしだ。」

「練習が長いと息が続かない(なんしろ中年だからね。笑)、足が動かない、汗びっしょりで頭痛が始まる。練習始めの早や打ち百篇でもう帰りたくなる。」

一緒に剣道を始めた長男が「お父さん、なんでそんなに苦しんでまで剣道へ行くの?」との問いに、アメリカ人の奥方いわく、「お父さんはね、仏教でいう苦行をしてるのよ!」(爆)

剣道を始めたきっかけはというと、ある日、多少出てきた腹を吸い込み、横文字新聞紙を丸めて子供たちと太刀さばきを競ったところが、おとっつぁん、気が入りすぎ、力任せ。それをまともに面にくらった息子が大声で泣き出し果し合い中止。

「いい年して、何ですか!」とまるで、小学生を叱る先生のごとき威圧と、こんなショウ-もない男となぜ結婚したとでも言いげな奥方の呆れ顔だったのだそうな(笑)

わたしは手紙で彼の剣道の話を読むと、昔、我がモイケル娘と取り合って読んだ「ちばてつや」の漫画、「おれは鉄兵」シリーズを思い出して、おかしくて仕様がなかったものだ。

kendo.jpg
Wikiより

「試合でさ、竹刀構えてしばらくシーンと向き合うだろ?それでよ、突然、デカイ声で、あっ!と言いもって、床に目を向けるのだ。すると、人って面白いぞ、釣られて相手も下をみる。そこを狙っておめーーん!」

おいおい、お前さん、それはだまし討ちじゃんか。することがまるで鉄兵そっくりだ、と言いながら、その光景を想像すると鉄平のハチャメチャな場面が思い出され、おかしいったらない。そ、くだんの彼も、鉄兵のようにチビなのではあった。

「剣道も人生も同じです。小さいとか歳だとか、言い訳はしないことです。数年前の少年部の日本チャンピョンは片腕の少年でした。」(片腕の少年チャンピョンの話は、わたしもどこかで読んだことがある)
と自分より10歳以上も若い師範の話を聞き、以後、かれは奥方の毒舌、失笑にもめげずに遣り通すと決めたらしい。

企業家としてアメリカである程度成功したその後の彼の姿を、時折わたしはネットでグループ写真の中に見ることがある。今では剣道から拳法に移ったようだ。自分を棚に上げて言うのもなんだが、相変わらず小柄で髪も口ひげも白くなり、しかし、贅肉が見れらず、どことなしに飄とした感がしないでもない。

おぬし、何かを掴んだかなと思われる。この具合だと真夜中の酔っ払い国際電話ももう入ることはあるまい。
幸いだと思う反面、心のどこかで不意打ちの電話を待っている自分に気づき、少し寂しい気がしないでもない。

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2017年10月17日 

ポルトガルに住んでかれこれ40年近くになろうとしている。この間、自分がしでかした失敗は自慢にはならないが、両指の数を遥かに超える。今日の話はそのひとつである。

深夜も3時を回ったころ、電話が鳴った。そういうときのわたしはガバと反射的に起き上がる。さっさと電話にでないと、我が家は3箇所に親子電話があったので、そのうちのひとつがFaxにつながってしまい、ピーピーと鳴ってうるさいことしきりである。

真夜中の電話はだれも不吉な思いに襲われるもので、この時間帯に入る電話は、たいがいアメリカからのアイツであった。酔っ払って人恋しくなり、時差もかまわずかけてくるのである。その酔っ払い電話が途絶えて久しい。まさか、ヤツではあるまいの?そう思い応答した。(ヤツとのエピソードは次回にアップします)

「Dr.santosのお宅ですか?」と女性の声。「あのぉ、お宅、水出っ放しになってません?車庫のところに水がずーっと落ちてきてるるのですが・・・」

なんだとて?水が?バスルームを見たら異常なし。台所へ行くと、台所は異常な・・・おろ?なんかすごい音がしとるぞ。ゴーッと音のする先は台所の側のベランダであるよ!えええ!足を踏み入れようとしたら、おーっとっとっと!水浸しだ。

ぐは!ベランダの洗濯場タンクの水道から水が音を立ててゴーゴーと・・・・・床はタイルを敷いているのだが、その床を洗った後、ふき取る必要がないように水を流し出すために床と外壁が接する所にさな穴が開いている。タンクから水が溢れ出てその穴から下の車庫のある庭へと雨が降る如く落ちていたのでございますよ。

お~~い、ダンナ!と夫を起こし。小さな穴から水が落ちきるまでにはかなりの時間がかかりそうです。とりあえずバケツで床に溜まった水をちょぼちょぼと汲みあげること半時間(どんだけ溜まってたのだ?)、仕上げはモップでふき取り。

台所に寝ていたネコタチは「なに?なに?どったの?」とこわごわ覗いていましたが、あんたらね、水が出てるの気づかなかったノン?んもう、役立たず!

夫、「君、ここの水道、使ったの?」
「え~っと、コーヒーを沸かすのに、ここから水を汲んだ。でも栓を閉めたと思うがなぁ。それは12時近くで、その後、エデンの東=映画、を見て、5匹ネコたちを台所に運んで来た時は、こんな水の音、しなかったと思うがなぁ」←いかにも自信なげだ(笑)

変だなぁ。それにあんなふうに 目一杯に水道の栓をひねらないと思うがなぁ。なにかの拍子で、ネコでもやったんだろか・・・さっぱり覚えてないや。起こっちゃったことは、ま、仕方ないか。

「で、君、なんでコーヒーのお湯を沸かすのに、台所の水道からじゃなくて、ここから水を汲むわけ?」と夫が聞く。
「あらん、だって、あなた、台所には蛇口にはフィルターを取り付けられないからって、こっちの方に取り付けたでしょ?だからよ。」
「開いていた栓は、フィルターの方じゃなくて、台所の水道の水と同じのが出る栓だったよ」
「そんなことないわよ、これがフィルターがついてる水道の栓でしょ?」
夫「・・・・・・・・・」沈黙。「フィルターの栓は別にあるよ。ほら、上のこれだ。」
今度はわたしが「チ~~~ン・・・」沈黙。

水道

なに?それじゃ、わたしはここへ引っ越して以来ずっと、そこからのをフィルターの水だと思い込み、やっぱり台所の水道の水とは違うわねと、せっせコーヒー飲んでたと言うのぉ?
「そう言うことになるね」  なんてこった、 どーーーん。奈落の谷に蹴落とされた・・・・
ちゃんと説明してよね!と無理を吐いたあと、己のバカさ加減が可笑しくて真夜中に大声出して笑ったのでありました。あほらし。

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2017年10月16日 

長年の友人知人には既知のことなのですが、1970年代の大阪時代はアメリカ留学の資金調達のため、
梅田新道にあった「アサヒビアハウス」でわたしはパート歌姫をしていました。
その懐かしいよき時代については「あの頃、ビアハウス」と題して、当時のビアハウスに通いつめていた個性豊かな常連たちについて綴っています。

わたしの古巣「梅新アサヒビアハウス」は今では建て替えられたビルの同じ場所に「アサヒスーパードライ梅田」と名を変え、ビアソングが聴ける店として、往時の名残を少しだけとどめています。

が、目をつぶると浮かんでくる我が梅新アサヒビアハウスは、古い大理石の柱と手当てが行き届きピカッと光った年期の入った木製のテーブルと椅子、春秋常連たちで賑わうホール、アコーディオンとリズムボックスの小さなステージ、歌姫が歌うオペレッタ、ビアソング、その合間を縫ってカンツォーネやオペラのアリアを歌う常連たちの姿で溢れていました。

あれは、あの時代は幻想だったのか?と40年もたった今、ふと自分に問うてみたりします。ポルトガルでの日々は歳をとるごとに忙しくなっているような近頃のわたしですが、梅新アサヒビアハウスをひと度思い出すと諸々の思い出に一気に襲われ、しばしわたしを離すことがありません。

昨日のことです。フェイスブックでつながっている知人が投稿したYahooニュースに、え!と驚かされました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171015-00000030-mai-spo

<訃報>葉室三千子さん97歳=マスターズ水泳世界記録保持、とありました。

ご主人の葉室鉄夫先生とともにアサヒビアハウスの常連の一人で、皆して葉室ママと呼んでいたのでお名前が「三千子」さんだったなど知りませんでした。ご主人の葉室先生2005年にお亡くなりになっており、その後の葉室ママは「マスターズ大会(60歳以上を対象としたスポーツ大会)」で活躍なさっており、2014年には100メートル平泳ぎ95~99歳の部で世界記録を果たされたとのこと。このニュースを目にするまでわたしは全く知りませんでした。

葉室ママにはアサヒビアハウスで時々声をかけていただきましたが、親しいお付き合いはないのですが、ビアハウスでは、むしろご主人の葉室先生とよく歌をデュエットした思い出が大きいです。

今日は葉室ママを偲んで、直接の思い出ではありませんが葉室先生との思い出を再掲したいと思います。以下。

「あの頃、ビアハウス:知床旅情」

「知床旅情」は「琵琶湖周航の歌」とともに、わたしがアサヒビアハウスでよく歌った歌である。この歌はわたしの青春の彷徨の歌でもある。

数十年たった今でも「知床旅情」を歌うとき、心は19の歳の彷徨時代にもどるのだ。

♪知床の岬に はまなすの咲く頃
  思い出しておくれ 俺たちのことを
  飲んで騒いで 丘にのぼれば~

アサヒビアハウスでは「知床旅情」はベルリンオリンピック水泳競技ゴールドメダリストで常連の葉室鉄夫氏が披露する歌で、わたしも一緒にステージにあげられ、よく氏とデュエットをしたものだ。「♪君を今宵こそ抱きしめんと~」のところで、氏はそっとわたしの肩を引き寄せるだが、まことに紳士的な方であった。

1ビアハウス
だきしめんと~で、こういう具合に↑笑

加藤登紀子さんが歌って大ヒットした歌だが、実はこの歌、ヒットする以前にわたしは森繁久彌の歌として知っていた、好きな歌だった。

大学進学を諦めきれずグズグズしていたわたしは就職の機会も取り逃がし、お金もないのに高校卒業後上京したり帰郷したりの繰り返しだった。親の心配をよそにフーテンの寅さんの如くウロウロしていたのです。この親の心配はその後を経ても後を絶たず、イギリス、アメリカ、果てはポルトガルくんだりまで流れ着くこととなってしまったわけではありますが。

spacesis19の歳の9月、親に告げることもなく青森港から連絡船に乗り函館を抜けて汽車で札幌に辿り着いたのはもう夜であった。この時わたしは札幌の豊平川のほとりで生まれて初めて野宿とやらを経験するのでした^^;  

川のほとりに腰を下ろし、一晩中水の流れに聞き入って夜を過ごしたのです。 芭蕉の「奥の細道」のようだ、なんてとても気取っておられまへんよ。内地ではまだ残暑ある9月も、北海道では冬支度に入る月だということを、このとき知ったのである。 とにかく寒かったです・・・・

札幌には一月ほどいました。その間、行きずりの親切な人たちと知り合いになり、すすき野界隈の歌声喫茶に入ったりして知ったのが「知床旅情」と「白い思い出」だったと思う。後年、加藤登紀子さんが歌いヒットしたのを耳にしたときは、「ほぇ?」と思ったものである。

ちなみに、この歌は「地の涯に生きるもの」という知床を舞台にした森繁久弥主演の映画撮影のときに、彼によって作られ北海道から広まった歌だと聞く。

やはり、であります。「地の涯に生きるもの」は遠い昔、子供のころに学校の映画教室で見たのだが忘れられない映画です。春が来て再び猟師たちが知床を訪れるまでの長い冬の間、たった独り、番屋で猫たちと暮らす森繁演ずる老人が、流氷に乗って流されて行こうとする猫を救おうと、足を踏み外し氷の間から海に落ち、誰にも知られず命を落とす。忘れることができないラストシーンであった。

♪知床の岬に はまなすの咲く頃
思い出しておくれ おれたちの彷徨を・・・

わたしが19の頃は、知床はまだ人跡未踏のさい果ての地ではありました。

葉室先生については、2005年の日記に書いてあります。

2005年10月31日(月曜日)(1)

今朝はネットで小泉第3次内閣の記事を読み終え、何気なく下段へ目をやりますと、スポーツ欄で、知っている方の名前を見かけ、思わず「え!」と声を出てしまいました。

「ベルリン五輪の金メダリスト・葉室鉄夫さん死去」とありました。この年、女子競技では前畑秀子も(ラジオアナウンサーの「前畑がんばれ前畑がんばれ!」の声援があまりにも有名です)メダルをとったのです。

葉室先生は、我が青春のビアハウス時代のお仲間でした。昨年(2004年)の帰国時に、当時の仲間が集まってくれましたが、その時にはお目にかかれませんでした。でも、数年前に、ビアハウスの歌姫先輩、堺の宝嬢宅におじゃましたときには、随分久しぶりに電話でお話しすることができました。

温厚で笑顔が絶えない葉室先生でした。「あの頃ビア・ハウス:知床旅情」に少し登場していただいてますが、この歌は、先生がいらっしゃるときは、(しょっちゅういらしてましたがw)必ず歌われました。

「君を今宵こそ 抱きしめんと~」で、そぉっとわたしの肩を引き寄せるのです。いえね、これは、わたしだけではなくて、わたしが歌えないときは、先輩歌姫の宝嬢がこの役を仰せ使うわけでして^^。 要はステージでのサービスなのです。

奥様ともよくいらっしゃいました。
2ビアハウス
左から、ドイツ民族衣装を身に付けた我が先輩歌姫「宝木嬢」、葉室先生夫妻。

毎年ビアハウスで行われた「オクトーバー・フェスト」(ドイツのビア祭)では、普段の伴奏はヨシさんのアコーディオンだけなのが、この日はドイツの民族衣装をつけた楽団が入り、ドイツ領事、その他のドイツ人が入ったりと、まさに、ドイツ形式そのままのお祭になるのですが、このとき、乾杯の音頭をとるのは決まって葉室先生です。

3ビアハウス

1970年代、旧梅新アサヒビアハウスでの定例オクトーバーフェスト

何年か前に「文芸春秋」で偶然先生が書かれた記事を読んだことがありますが、ベルリン五輪で間近にヒットラーに会ったと言うことに触れておられました。

今朝は早速、宝嬢宅へ電話を入れてみましたが、返答がありません。恐らく彼女は、先生のご自宅の方へ行っているのでしょう。今年はアサヒ・ビアハウス黄金時代の店長だった塩さんに続き、葉室先生も、あちらのお仲間になられました。

知っている仲間が一人また一人と、地上から姿を消して行くのは、寂しいことではありますが、歌とビールをこよなく愛したみなさんです、きっと天上の星となり、彼岸の向こうで再会を祝って、「Ein Prosit ein Prosit der Gemutlichkeit!」(ドイツ語、乾杯!の意味)と杯をあげていることでしょう。


フェイスブックでつながっている件の知人とは、「また一人アサヒビアハウスの常連スターが逝かれましたね。
今頃、葉室ママを迎えてさぞかし天上のビアハウスは賑わっていることでしょう」と話したのでした。

あの頃の常連さんたち4分の3は天界で毎晩「Ein Prosit」と杯をあげているのが目に浮かぶようです。
葉室ママ、そしてみなさん、またあちらでお目にかかりましょう。
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2017年10月15日

現在は東京の大学、数箇所で英語講師をしている我が東京息子がリスボンに住んでいた頃の話をば。以下。

夏休みを返上して、丸一ヶ月9時から6時までTEFL(テフル=Teaching English as a Foreign Lauguage=外国人に英語を教える教授法)コースをとり、めでたく英語教師免除をとった息子が、リスボンのとある語学学校で英語の特別個人教授をしていたときのこと。

生徒は日本からやってきている30代の女性だそうで、教本には書かれていない教授法のコツのようなものがあるので、そのツボを押さえておくと、授業はいいものになると思い、補習校での20数年間と日本語講師のこれまでの経験があるわたし、息子にあれやこれやメッセで話しながらアドバイスしていた。

ある日、彼が再び日本語を勉強するきっかけに或いはなるかもしれないと思い、外国人のための日本語教本英語版をコピーして息子に送った。この教本は、英語を教えるのにも意外と役立つと思ったのである。

本日も、授業はうまく運んだか(一回のレッスンが3時間ぶっ通しである)とメッセで聞くと、その日はずいんぶんうまく行ったとのこと。送った日本語教本が英語授業に役立ってるらしい。

「ねね。BOINってどういう意味になる?」と息子が聞く。
(ネットでの会話は今でこそ息子とは日本語だが、当時のメッセ会話はすべてローマ字だ)
「ボ、ボイン?^^;」・・・・
「そ、そりゃあんた、maminha(マミーニャ=オッパイ)の大きいのを言うのだよ。」と、俗語も知っておいたほうがいいと思うので一応ちゃんと説明をつける。
「"ボインちゃん"なんて言ったりして使うのだ」とわたし。(←残念ながらわたしではないw)
と、せんでもええのに、余計な例まで上げて^^;

息子「じゃ、HAN-BOINって?・・・・ママ、それじゃ、意味が通らないよ。
    第一、これは日本語言語の言葉だぁ~!」
母  「うげ!@@@@か、勘ぐりすぎた!」
息子よ、先にそれを言ってくれぃ。

ボイン 母音 拇印と色々あって、ローマ字でBOINっつったって分からんぞ、と自分の早とちりを棚に上げて(笑)
息子の言うのは「母音、半母音」だったのでした(汗)

いやぁ、日本語も色々ですわ。
ん?あんたが早とちりなだけだって?@@ は、はい、さようでござんす。

とっつばれ。(津軽弁で「おしまい」の意味)
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2017年10月11日 

adam_eva.jpg
Wikiより

ユダヤ教の解釈では楽園に描かれる禁断の果実はりんごではなくいちじくだと言う。ミケランジェロはシスティナ天井画のいたる箇所に痛烈な教皇、バチカン批判を暗号として描き残したわけだが、ここでは紹介しきれないので、解説に興味のある方は本、「ミケランジェロの暗号・早川書房」を読むことをお勧めする。

その才能を見込まれ、ミケランジェロは10代の頃からカトリック一色の中世にあって、カトリックの説く教義と異なった自由思想を育む環境である、当時ヨーロッパ随一の大富豪フィレンツェのメディチ家に迎えられ過ごした。

メディチ家は芸術家たちの生活を援助し後ろ盾となって古代神秘主義、ギリシャ哲学、ユダヤ教の思想を自由に学べる場所として広大な館を彼らの塾の如く提供していたのである。

システィナ礼拝堂はユダヤ教の神殿を再現して建てられたと言われる。反ユダヤ主義をとりながらユダヤ教の神殿に似せカトリック教皇自身の権力を誇示しようとする天井画計画を言いつけどおりには、到底承服できなかったミケランジェロだ。彼の一徹な性格は教会の腐敗、欺瞞に我慢がならなかったようだ。

この反骨の芸術家は自分しか考え付かない天井画の構想を練り続けた。バチカン宮殿で日常的に目にする数々の偽善や権力の乱用にたいして、日頃から感じていた激しい思いを、投獄されたり処刑されたりせずに伝えることができる方法を、である。

システィーナ天井画がカトリック教義を表す作品であるのに、天井に描かれた300人を超す人物の中には、実は一人もキリスト教徒がおらずキリスト教的な含みはことごとく欠けているのだ。中世時代であるので高さ約20メートルの天井画であれば、ミケランジェロの絵画の意図は容易には見破られなかったのであろうと、
実際にシスティナ礼拝堂に入るまでそう思っていたのだが、暗号を含むと言われる絵画がはっきり見えたのは思いのほかであった。

現在わたしたちが目にするのは色彩鮮やかな修繕されたものだが、出来上がった当時はきっと同じだったはずだ。天井画を目にした教皇が絵画に秘められた数々の暗号に気づかなかったのがまたミステリーなのである。ユリウス2世教皇は目が悪かったのだろうか。この教皇は天井画完成後4ヶ月もしないうちに息をひきとったのである。

教皇とぶつかりながら、頑固な面構えで時には教皇たちの虚栄心をくすぐらなければならなかったにしろ、ミケランジェロは見事なまでにバチカンにしてやったのだ。

続きます。
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