2018年2月19日 

鍵二つって、そりゃSpacesisさんはそうでしょよ。二つどころか三つ四つあっても住む人が同じだから、自分の家から自分を締め出すのは再三起こりますってば。
なんて、だれだぃ、そんなことを言ってるのは(笑) 意味が分からんという方はこちらでどぞ。

迂闊者にはしんどい鍵社会

今日はそれじゃないんです。
先週から、大学講師の仕事が休みの東京息子が帰国しているのですが、昨日は雨もあがり天気がよかったので、急遽、以前から見たいと思っていた教会を見にオヴァール(Ovar)まで探して行って来ました。ポルトガルでも美しい教会のベスト10に入ると言われておりずっと興味をもっていたのですが、機会がなく今日まで来ました。

オヴァールの町中にあると思いきや、探して行ったふたつの教会はどちらもかなり奥まったところにありました。今日はそのひとつ、Igraja Mátriz de Cortigaçaの紹介です。

igreja14-1.jpg

Cortigaça(コルティガッサ)というオヴァールの村にある教会は、ポルトのイルデフォンソ教会のように建物の外側が全てアズレージュで被われています。12世紀のものであろうと言われます。残念ながら昨日は閉まっていて中が見学できませんでした。

アズレージュは向かって左が聖ペトロ(ポルトガル語ではサン・ペドロ)、その下がアッシジのサン・フランシスコ、右が聖パウロ、その下がサンタ・マリア(聖母)が描かれています。

教会入り口中央の上部にはサン・グラールこと聖杯が見られます。その下にも聖杯と十字架が交差しているシンボルが見えます。写真を撮っていると、ぬぬ?サン・ペドロは二つの鍵をもっているではないか。

igreja16-1.jpg

サン・ペドロはイエス・キリストの12使徒の一人で、昨年初秋にわたしたちが旅行してきたバチカンの初代教皇でもあり、「天国の鍵」を手にしています。

すると、息子と一緒に後ろにいた夫も「あれ?鍵がふたつあるぞ」と言う。「あ、ほんとだね。ふたつって?」とわたしが応じると、夫、すかさず、「スペアキーだよ、君同様、サンペドロも時々自分を締め出してしまうので、天国に入るのに合鍵が要るんだろ」・・・・

側で我ら夫婦のやりとりを聞いて息子がぷっと吹き出している。この間の締め出し事件を彼に話して「また、やってたの?梯子のぼるの危ないよ」と息子に言われたところであった。

夫のこの手のジョークは毎度のことで、言い得ているのが、これまた腹が立つのであります。ちがうわ!なんでサン・ペドロが、天国に入るのに合鍵がいるんだぃ!と、いきり立ち、よし!家に帰ったら早速調べてみようと思い、したのでありました。

サン・ペドロが天国の鍵を持つ、というのは知っている人も多いかと思います。かつては国民のカトリック教徒が多かったポルトガルです、夫もカトリックではありませんが、こと聖書に関してはやはり色々知っています。

しかし、日本語では単数複数の表現はなく「鍵」です。ポルトガルの伝統陶芸家ローザ・ラマーリュのサン・ペドロも手に一つの鍵を持っているし、わたしは昨日までサン・ペドロの鍵は一つだと思っていました。

saoPedro.jpg
陶芸家ロザ・ラマーリュの作品「サン・ペドロ」

調べた結果がこの絵で分かりました。

saopedro2-2.jpg

上の絵はバチカンのシスティナ礼拝堂にある壁面画の一枚です。下に拡大しました。

saopedro2-1.jpg

確かにイエスから二つの鍵を受け取っています。

「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」( マタイ伝 16:18)

金の鍵は天の国における権威を示し、銀の鍵は縛ったり解いたりする地上の教皇の権限を意味しているのだそうです。鍵の先は上(天)を指し、鍵の握り部分は下(この世)に向き、これらはキリストの代理人の手にあることを示唆しています。 二つの鍵をを結んだ紐は天国とこの世に渡る二つの権威の関係を示す、とあります。

vatican_crest.gif

上記バチカンの紋章にもペドロが授かった金銀の鍵が描かれています。現フランシスコ教皇はサン・ペドロから数えて266代目の天国と地上の権威を現す二つの鍵を預かる教皇ということになります。

ということなんだよ、うちのダンナ!合鍵じゃないわ・・・
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2018年2月16日 

今日は、ポルトガルの文化と暮らしの情報、それに、ポルトガル雑貨を紹介するサイト「東のポルト屋」の紹介です。

前にも紹介しているのですが、その後、店長こと我がモイケル娘は新装したいと言うので、しばらく工事中でしたが、数日前にめでたく開店できたようです。

ネットショップを開くに至ったいきさつを少し話させてください。
伝統工芸界はいずこも後継者の問題を抱えています。ポルトガルもその例に漏れず、かつては街のあちこちで見かけることができた北部工芸品の多くが、今ではすっかり店頭から姿を消してしまいました。それらを手に入れようと思ったら、探さなければなりません。

ポルトはこの数年観光客がたくさん訪れるので、ツーリスト向けに手ごろな値段でいわゆる観光土産はあるのですが、わたしが言う伝統工芸品はあまり目にすることがなく、あっても量産できないのでどうしても値が張ります。

ボルダーロ社の陶器、金銀を使って繊細な細工がなされる装飾品フィリグラーナを始めとする北部工芸品に限らず、南部の手作りのアライオロシ・カーペット、そしてポルトガルで新たに開発されたコルクを使った製品など、他にもたくさんあるのですが、わたしは長い間、これを独り占めにするのはもったいない、なんとか日本に紹介できないかとずっと思ってきたのでした。

ボルダーロ社の有名なキャベツ皿。
ポルトガルの伝統工芸

ポルトガルの伝統工芸
夏も冬も 足に触る感触がいいアライオロスカーペット。

ポルトガルの伝統工芸
可愛い「恋人たちのハンカチ」。素敵ないきさつがあります。東のポルト屋にて説明しています。

特にわたしが惹かれるものにポルトガルの布物があります。ポルトガルの一般家庭ではたいていどこの家でも、あちこちにレースや伝統的な織物の横長 クロスが敷かれています。小さなスペースでも、ちょっとしたところにちょっとした心遣い、というので、小さなレースのモチーフもよく使われます。
ポルトガルの伝統工芸

わたしがこれを同じように我が家でもするのは、ポルトガルに来た最初の6年間を同居した夫の母の影響です。彼女も同居していた夫のおばも、よく暇を見てはレース編み等に手を動かしていました。当時はバスの中や診療所の待合室でも、レース編みをしている女性をたくさん目にしたものです。

これらの布製品も今は市内ではあまり見かけないもので、年に一度の遠くのリネン工芸フェアにも足を運びます。手織りのリネンには飽きが来ない質素な美しさがあります。

あれやこれやと紹介したい思いが今回のモイケル娘の「東のポルト屋」オープンに結びつきました。まだまだご紹介できる品数は少ないですが、徐々に増やしていけると思いますので、どうぞ覗いてやってくださいませ。また、布物についてはご興味あらば、「東のポルト屋」まで、お問い合わせください。出展はしていませんが、数点在庫であると思いますので。

下記、「東のポルト屋」サイトです。
http://www.higashinoportoya.com/

本日はこれにて。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2018年2月15日 

キターー!と喜んでホクホクしています↓

omiyage1.jpg

イエイエ、写真のドラ焼きなどではなくて、息子がキタのが、ですよ、喜んでいるのは(笑)

2月後半から3月いっぱい大学の講義がないので、目下、我が東京息子が帰国している。羽田空港からもう少しで飛行機に乗るけど、明太子いくつ欲しいの?と聞いてきたので、二つ三つでいいよ、と言ったら、1キロ持って来た^^; ドラ焼きも2箱持ってきて、期限があるから毎日食べないとだめだよ、と言う。

ふっふっふ。冷凍という一手があるのだぞ^^ これで4月中旬の自分の帰国まで、日本食が恋しくなっても、なんとか持つのである。

と言うので、今日は息子に関する話。

★東日本大震災の年2013年
息子、娘は千葉にアパートを借りて共に住んでいたが、気が気でならず、震災の一ヵ月後には、子どもたちの様子をこの目で見んがため、帰国した。その時のこと。以下。
2011年4月27日
未だ時々余震の揺れを感じたりするものの、精力的に東京と家の中を動き回っています。起床7時、モイケル娘を職場に送り出し、掃除洗濯、アイロンあてをしているうちに、午後から英語講師の仕事を持つ東京息子がやがて起床。で、またご飯の用意なんです^^;

この家事ですが、いやいやもう、子供たちの住まいはかなり光ってまいりました。なにしろ、わたしは亡くなったポルトガルのピカピカ好きのお姑さん仕込み、それに我が家で長年働いてくれているお掃除のおばさんこと、ドナ・ベルミーラ仕込みの腕です、トイレ、風呂場、台所、冷蔵庫とお掃除はお任せあれ。

子供たちを見るにつけ、働きながら家の中を整頓するのはなかなか大変なことのようで、共働き女性の負担たるもの、さぞかし苦労なことだろうと思われます。わたしもポルトガルでは、一応共働き主婦のお仲間に入るとは言え、たいていが自宅での日本語教室ですから、仕事の合間を縫ってちょこっと家事ができるのは嬉しいところです。

都内へ出かける予定がない日中は、午後の食料買出し。これがポルトでは普段車を使っているもので、重い買出し荷物をぶらさげての歩け歩けは結構疲れる、いや、運動になりますわ(笑)人目も構わず、ヨイショコラショと思わずかけ声が出ます。

夕方6時少し過ぎには、退社後まっすぐ帰宅するモイケル娘です、ポルトにいたらとても考えられない7時台の晩ご飯。この後片付けが済むころの10時に息子の帰宅で再び食事の用意。久しぶりに母親業をしっかりやっております。

日本とポルトガル、遠く離れていてもメッセンジャーやスカイプのあるご時世です。女同士のモイケル娘とはほぼ毎日のようにチャット交換してきたのですが、息子とのそれは、「元気?」「うん。そっちは?」「問題なし。仕事はちゃんとできてる?」「うん、」「なにか必要なものはない?」「Nothing special」と短いものです。だが、三つ子の魂百まで。子供のころからの息子の性格からして、きっと大笑いされるような話が山ほどあるに違いない。

そんなことを思っていた今日、遅い夕食をしながらの息子の話に腹を抱えて笑い転げていたのでした。

週に何度か近くのジムに通っている息子、力いっぱい、筋トレをしていたら、係員が顔を青くして飛んで来て、「お客さま、もう少しヤサシクしてください」と言われたのだそうだ。

筋トレ用具を壊さんばかりに思い切りガンガンやっていたのだろう。まったくいい年をして加減と言うことを知らないヤツではあると思いながら、その様子を想像し、ジムには悪いが可笑しくて笑い転げていたら、そんなのがいくらでもあると息子が言うのだ・・・・・

年末に福引がすぐ近くの商店街であった。例のガラガラポンを一回まわすのだが、あれを衆人の目の前でいい歳をして力いっぱい何回も回して、とうとう玉いっぱい外へ飛び出してしまったって・・・・
息子いわく、
「おれ、知らなかったんだ、一回しか回さないってこと。てへへ^^;」

そこに居合わせた日本人たちのあっけに取られた顔を思い浮かべると、「お前というヤツは~」と言いながら、これが笑わずにおらりょうか(爆)
日本の皆様、息子がご迷惑をかけておりますが、どうぞ長い目でみてやってくださいませ。

日本人の友達からは「ジュアン君て原始人みたいだね」と言われるのだと言う。げ、原始人^^;「粗にして野」か・・・・

すると横からモイケル娘、「おっかさん、うちでも外でも変わらない、裏表のない人間に育って欲しいと
願ったんでしょ?その通りじゃん、はははは」(エピソードはこちら↓)
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-287.html

そ、それはそうだけど、微妙にちがうんだよね^^;今更意見を言っても始まるまい、息子よ、城山三郎氏ではないが、粗にして野、しかし、「卑」にはなるなや。


ポルトに帰った翌日の昨夜は、早速、学校時代の友人たちが集まってくれたのか、自分が号令をかけたのか、出かけて午前さまの息子が今部屋で眠っている。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2018年2月13日 

「三丁目の夕日」はもう何年前になるでしょうか。ブログ友ちゅうさんと話が盛り上がったことがあり、ネットでそのオフィシャルサイトを何度ものぞきながら、観たいなぁと思ってきた映画のひとつです。涙腺が弱いわたしは、ホームページのノスタルジックな音楽を聴いただけで、胸がいっぱいになりました。カーニバル休みを利用して今日もう一度観て見ました。

三丁目の夕日
画像はWikipediaから。

原作は1955年から1964年までの東京近郊にある「夕日町三丁目」を描いた漫画とのこと。わたしの8歳から17歳までの昭和が背景で、東京タワーが、まだできるかできないかの時代です。

この映画の町並み、アスファルトではない土の道、オート三輪車、キューピー、フラフープ、タバコ屋の「新生」にいたっては、名前を耳にしてあっ!です。久しく忘れていたいたことでしたが、亡くなったわが母が愛したタバコの商標だったのを思い出しました。

青森から列車で上野に着く集団就職の「六子」ちゃん。中学時代のわが友にもこうして集団就職列車で石川県に行った人がいます。なんだか切ないのです。

映画の中心のひとつとなる「鈴木オート」には、母の9人兄弟の中でも一番出世したといわれる弘前の我が叔父の「マツダオート」と姿を重ねてしまいました。モダン生活の三種の神器(じんぎ)と言われた、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が少しずつ、一般家庭に浸透していったのもこの時代です。
わたしも初めてのテレビは、この映画の中にあるように、ご近所へ観に行かせてもらったものです。

子ども時代から10代の終わり頃まで自分が生きたのがこんな時代だったとの思いで見るものですから、たまらなく懐かしく、ちょっと感傷的になりました。

わたしが我が子達へのメッセージとして書き留めているエッセイ「昭和時代の思い出:思い出のアルバム」があります。この映画が1955年から1964年までとうたってありますが、丁度その1964年の夏に、わたしは今回の映画を見た懐かしい思いとは別の、挫折したような心地で東京の夕日を眺めたことがあります。

後のわたしの歩く道を決めることになった出来事ですが、この夏の落胆はのしかかる岩のように大きかったです。翌年からのわたしは、これまでの多くの人とのつながりを断ち切ったようなところがあります。

今にして見ればそこまでしなくてもよかったと思われるのですが、若さゆえ、そうすることで新しい道を自ら切り開くのだとの思いがあったような気がします。

A君という中学時代からのペンフレンドが東京にいました。1964年、高校生活最後の夏、東京の新聞専売店の配達体験中の休みの日を見て、手紙にある住所を頼りに、なんの前触れもなしにわたしはそのペンフレンドを訪ねたことを覚えています。いいのか悪いのか、思い立ったらぱっと行動に移す、落ち着きのない、そんなことを繰り返す10代の頃でした。

Aさんとその時どんな話をしたのか、その後どうなったのか、何年も文通していながら、いい加減なことにわたしはよく覚えていないのです。1964年の夏前後の記憶を、1964年の江東区の夕日がさらって行ってしまったのか。

「おいおい!優さん、それはないぜ、ったくもう」とAさんの声が頭のてっぺんに落ちてきそうです。はい。
落ちてきそうだというのはちょいと現実味があるでしょう?実はそのAさんとは偶然が偶然を呼ぶ形で、ほぼ半世紀ぶりに、再会し、文通もメールの形で再開したのですが、もちろん、ひっそりと色っぽく文を交わしてるわけじゃ、ございません。

だいたいが物事をうまく隠したり、嘘をついたりができない性分です、「半世紀ぶりで昔のペンフレンドが見つかった!会ってくるよ!」と夫、モイケル娘、(息子は母のこういうことにはあまり興味がなさそうでw)に宣言し、所沢に住む我が妹にまで、

「ねね。覚えてる?ペンフレンドのA君。今度会うんだべさ~」なんて派手に騒いだわけで。
「おまえさん、そろそろ少しは大人になったであろうか、人生は捨てたもんではないよ。」と、1964年に眺めた江東区の夕日が、あの頃をもう一度、今度は別な方面からちらっと見せんがために、姿を現したような、そんな思いにさせてくれた「Always三丁目の夕日」、いい映画でした。

「一期一会」(いちごいちえ)は茶道の精神性から来ることばですが、その説いているところは理解するとしても、「この人とは再び会うことはないだろう」と、常に一生一度、誠心誠意で接していると疲れてしまうわたしなどは、いいように勝手解釈しています。

わたしたちのただ一度の人生、一度は途絶えてもいつかどこかで再び遭遇し得る、点と点をつなぐ出会いもまた、一本の線となる。「一期とはひとつの人生、一会とはその人生で一本の線となる出会い」と
言えるかもしれないと。

ネット経由でわたしを見つけてくれたAさん、そしてブログ友や昔からの知り合いのみなさんは我が人生の「一期一会」です。ええ加減なところのあるspacesisではありますが、どうぞ今後もよろしくお願いいたします。

って、なんだい、こりゃ(笑) センチメンタルジャーニーじゃあるまいし、三丁目の夕日がこんな風になっっちゃいました^^;

さて、実は一昨年、急にこのブログにアクセス、更新ができない状態が一ヶ月以上続き、慌てたことがあります。そこで、このブログのミラーサイトとして、「ポルトガルの空の下で」と題して、過去ログをランダムにピックアップし手を入れて書き直しています。興味のある方は足を伸ばしていただけると嬉しいです。

ポルトガルの空の下で

また、Always三丁目の夕日はこちらで見られます。→ https://vimeo.com/30893348

では、本日はこれにて。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2018年2月12日 

2月は母とおばが身まかった月でもあります。母は83歳、叔母は70代後半でした。
日本国内に住んでいるとすぐ飛んで行ける距離もポルトガルからだと直行便はないので、「すぐ帰れ」
の報せには実におろおろしてしまいます。親の死というのは普段から親不孝をしてきた者には、いつまでたっても整理して心の引き出しにしまえないような気がします。

母については明日にでも話そうと思いますが、今日は、中学生時代に弘前から何度か家出をして、ついには引き取ってもらい、中学時代の最後の一年間をに大阪の西宮で共に暮らした叔母の連れ合い、伯父の話です。

ある日のこと、所沢に住む妹からのメールで、話したいことがあるからメッセで声かけてね、とありました。ぬぬ?モイケルめ、何かやらかしたのであろうか(この頃我がモイケル娘は日本の大学受験のために妹宅に下宿)、と恐る恐る、オンしてみますと、「お~~~い、ゆう。待ってました」聞いて聞いて、と始まりましたw

叔母が亡くなって横浜で一人暮らしの江戸っ子の伯父、それでも元気この上ないらしい。伯父には時々ポルトから電話をするのだが、こちらの時間の都合上、どうしても伯父の夕食時間とか、スイミングクラブに行ってる時間とかにかち合うようで、ここしばらく電話に出た試しがない。

その話を妹にすると、伯父の携帯電話に連絡を入れたらしい。、「おじさん、ちょうど飲んでる最中で、元気ご機嫌だった」。

で、ゆうこは今年来るのか、と聞くから、

妹、「お金がないから今年は来れない、来年だってよ」(子どもたちの教育費が大変だった)
叔父「おい、待ってるんだぞ。いくらだ?4、50万かかるのかい?」
妹「そんなにはかからないわよ。飛行機代、20万ほどじゃないかしら」
叔父「よし!出してやるから、今年来いと、メールで言え」
妹「あら、おじさん、飲んだご機嫌で調子よくなっちゃってもう。」
叔父「んなことないよ。ちゃんと出してやる!」
妹「ほんとにそう言っていいの?」
叔父「おおよ!江戸っ子だい!」

・・・・・・・・・
で、我が妹、伯父の気が変わらないうちにと、すぐさまメールを入れてきたのだそうな(笑)

前年、伯父を横浜に訪ねたときは、もいける娘のアパート探しで忙しく一泊もできず、横浜に訪ねたものの、お焼香して、ちょっと話をして日帰りで所沢にとんぼ帰り。

その時、叔父に「叔母さんのもの、全部とってあるんだ。お前、整理してくれないかい?」と言われ、「いいわよ。でも、今年はだめ。泊まれないもの。この次の帰国には必ずします」と言ってポルトに帰ってきて、早や2年。

妹によると、「おばさんの衣類やその他、虫干しするのも大変なんだぞ」と愚痴ってるのだそうな(笑)わたしの帰国を当てにしていたらしい。

うひょ~!しからば切符代を出していただこうか!と一瞬喜んだものの・・・・ま、待てよ。あたしゃ、いったい幾つになるのだ?この歳になって、まだお小遣いやら、飛行機代やら、人様に出してもらうのか?

妹いわく、「いいじゃない。おじさんの気が変わらないうちにさっさと切符予約して、ありがとうさんと電話しなさいよ」
・・・・・・
い、いや。なんぼなんでもそれは・・・ちと考えてみるわ・・・
おじさんには「あと1年、がんばってせっせと虫干ししとけ~~」と言っといてw

叔母の生存中は、伯父と二人でちょっと飲みにでも行こうものなら、フクレられてなかなかできなかったw今度帰ったら、久しぶりに一緒に飲もうと思ってます。

と書いてから数年経ち、かくしゃくとしていた伯父も80をとうに過ぎ、昨年訪れたときは、スイミングクラブにも行かなくなり、粗忽でよく転ぶわたしが言うのもなんだが、足元がちょっと怪しげに感じられました。

聞くと、先年、朝起きようとしたらグラッとめまいが来て起き上がれなかった。しばらく休んで後、一人でがんばって、近くの総合病院までよろよろ歩いて行ったと言う。軽い脳梗塞を起こしたらしい。安易に人を頼らないのが伯父なのだが、危ないじゃないの!

三菱石油の現役時代は転勤が多く、東京から大阪(子どもがいなかったこの時代に中学生のわたしが居候した)、福岡、東京、再び福岡と最後は横浜に自家があったので単身赴任でした。叔母夫婦は後に息子に恵まれましたが、わたしはすっかり大人になってからも、ポルトガルへ渡る前の3ヶ月ほどを居候したのでありました。

去年聞いた話では、もう、元の会社仲間との年に一度の慰安旅行も昨年で終わり、「俺が一番若いんだよなぁ」ですって(笑)

春が来たらまた帰国しますが、妹夫婦を誘って伯父の顔を見に行こうと決めているのです。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
Click for Porto, Portugal Forecast 
ポルトガル ポルトの口コミ
ポルトガル ポルトの口コミ にほんブログ村 外国語ブログ マルチリンガルへ
にほんブログ村