2017年11月22日 

前回に引き続き、ちょいと空のお話をば。

「宇宙に思いを馳せることは哲学である」と、わたしは思っている。わたしのように粗忽な人間は、肝心の大切なことを見落としてしまいがちで、哲学者には向いていないが、空を仰ぎながら自由に思索することがわたしは好きだ。

わたしが中学生の頃、弘前から何度か大阪への家出を繰り返したのに呆れ果ててか、当時転勤で大阪に住んでいた叔父夫婦が、わたしを1年間ほど大阪に引き取ってくれた。
その叔父の団地社宅で、夏の夜、彼は時々わたしを屋上へ連れて行き、星空を見上げては、「あれは北斗七星、あれはカシオペアだ。」と星座の見つけ方を教えてくれたものだ。

わたしが夜空の星を見上げることに興味を持つようになったのは、それからずっと後のことだが、案外この頃のことが、記憶のどこかに残っていたのだろう。

今から40年以上も前になるが、偶然書店で手にした一冊の文庫本、エーリッヒ・フォン・デニケンの「未来の記憶」という、一見風変わりな題の本が、わたしを宇宙考古学という世界へ導いてくれた。著者のデニケンその人は科学者でも考古学者でもなく当時はスイスのホテルの経営者であった。
  
この本を振り出しに、わたしは聖書やシュメールの神話などに興味を持ちその手の本を探し求めるようになった。デニケンのファンも増え「デニケニスト」という言葉ができたくらいだが、わたしが夢中になって宇宙への果てしない夢を見始めたあの頃は、こういう類の本を著す彼も変人と思われたことだろう。

「宇宙にこのほかにも何百万の惑星があるのは、我々の責任ではない」というデニケンの言葉もあながち嘘ではないかも知れない、とわたしは当時思ったものだ。これは、後にアメリカの宇宙科学界第一人者となった故カール・セーガン博士も言及していることである。(カール・セーガン博士は映画「コンタクト」の原作者でもあり、わたしは彼の大ファンだった)

さて、こういう読書熱が昂じてか、わたしの目は、わたしの思いは、時折ふと何気なく天上へと向けられたりするのでありました。

我がモイケル娘が中学生の頃でありましょうか、空一面鉛色にどんより曇ったある日の夕暮れと夜の間。雨こそ降ってはいなかったが、肌に触る空気は濡れて感じました。そんな日には、表通りのベランダに出ることはまずないのに、どういうもののはずみでか、出てみることになったのです。

そしてその時ヒョイと北の空に目を見やると、「むむ、あれはなんなのだ?」一面の鉛色の北の空に、ボワ~ッとまぁるい白っぽい大きな影がふわ~っと 浮かんでおりました。
  
すると次の瞬間その影はサーッと一瞬にして移動したのです。え?え?胸が高鳴りました!うそだうそだ。目の錯覚だ!いえいえ、目の錯覚ではありません。その証拠にその丸い白い影、今度はまた瞬時にして別の場所に移動!

「おーーい、むすめ!カメラカメラ!」お暇な娘、即座にカメラを持って参りました。
「あれを見よ!動くでしょ!あんなデカイ物が瞬時にしてあれだけの距離を移動できるはずありまへん!」すると、モイケル娘も、「はいはい。母じゃの仰せの通り、左様にございます。」と相槌。

わたしは、その、正に未確認飛行物体なる物に(w)カメラを向けてバチバチとカメラのシャッターを切ったのでありました。(当時はデジカメがありませんでした。)

興奮も冷めやらず、夫、息子が帰宅して囲む夕食卓で、披露したその話、盛り上がると思いきや、息子が言下に

「ぎゃっはっはっ!ママ。それ、ダウンタウンのディスコティック(踊る店)の丸い大型ライトを使った宣伝だよ。」
 
し~~~~ん・・・ あ、そ。束の間のはかない夢ではありました。

後日、その事件を忘れたころにできあがって来たその写真は、悪天候で丸い白い大きな影も写っておらず、画面が、ただただ灰色の数枚の写真。それを見ては自分のおアホさを思い出し、プッと吹き出すのでありました。

お粗末さまでございました^^;

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2017年11月20日

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三十年ほど前に日本から引っさげて来て、乗り換え地点の税関でひっかかりそうになったところを、心優しい空港の職員さんの「いいよ、通してあげな」の目配りで無事ポルトに辿りついたミニ反射式天体望遠鏡です。

使い方は知らず。いじってるうちに何とかなるだろと、この辺はまったく能天気なわたしです、なんとかなったんですね(笑) 家族が寝静まった真夜中過ぎ、ベランダに持ち出して、焦点を合わせるのに四苦八苦。三脚が短いもので半分寝そべった姿勢です。首が痛くなりつつも、ついに月面のクレーターに焦点を合わせるに至ったのでした。

更に、本のデータから探し出した木星の周囲に衛星と思われる並んだ点を見つけたときの興奮は大きかった。こんなミニ天体望遠鏡ですから、点としか見えません。しかし、見えた点はガリレオ衛星と呼ばれる4つの衛星のひとつなのです。

夜空に星座を探すには、北斗七星、北極星、カシオペア、オリオン座は形からしてすぐ見つけられますが、その他は毎夜の如く星空を眺め、星座表との睨めっこを続けないと、なかなか見つけられないものです。

当時はポルト在住の日本人の子どもが通う土曜日の補習校を持つのみで、ほぼ専業主婦だった故、時間的に、また気持ちの上でも余裕があり、夏には、デネブ、アルタイル、ベガを結ぶ夏の大三角等を空に探したものです、今ならさしずめ、シリウス、プロキオン、ベテルギウスを結ぶ冬の大三角が見られます。

二つの大三角は比較的見つけやすいのです。夏は天の川にまたがる十字型の白鳥座を探し、その中で一番輝いているデネブに目をつけます。

hakucho.png
Wikiより

冬の大三角はオリオン座が目印。三つ並んだオリオンの帯の左上がベテルギウスです。

orionza.gif
Wikiより

しし座流星もさることながら、この冬の大三角もちと目にしたいと思い、明け方近くに起きて明かりもつけないまま台所に入ったのが、前のめり転倒の結果を招いたわけですが^^;

この時期にはまた決まって、 昔、学校で習ったこんな歌が浮かんできます。

♪木枯らし途絶えて 冴ゆる空より
地上に降り敷く 奇(くす)しき光よ
ものみな憩える しじまの中に
きらめき揺れつつ、星座は巡る

ほのぼの明かりて 流るる銀河
オリオン舞い立ち 昴(すばる)はさざめく
無窮(むきゅう)をゆびさす 北斗の針と
きらめき揺れつつ 星座は巡る       -冬の星座―


この歌を習うのは中学生のころだったしょうか。恐らく意味を全部理解して当時歌っていたとは思えませんが、今なら説明なくして分かります。語調、語彙ともに美しく、日本語の豊かな表現に目を見張るばかりです。

文部省愛唱歌になっている「冬の星座」、お聞きください。

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2017年11月19日 

大きな家でもないので、夜中に起き出しても明かりを点けずとも歩くことができます。が、今回は思わぬ障害があって、つんのめって転んでしまった!

明け方、一度目が覚めるともう寝付かれない性分です。ちょうどこの2、3日は例年の如く、獅子座流星群が見られるはずです。時間的には遅いだろうなと思いながらも起きて台所へ行きました。台所のベランダからは、全空ではないけれど、夜空が仰げるのです。

いつものように明かりをつけずに、台所のドアを開け、そのまま真っ直ぐベランダへ向かおうとしたところが、がーーん!つんのめってしまいました。ぎゃ!と思ったものの、感触jからしてあれだ!と、すぐ置きあがり台所の電気をつけると、やっぱりそうだった!

nekokago.jpg

我が家の猫たちの寝床です。寝るときには4匹とも台所で寝るのですが、いつもならこの寝床がドアを入って左横にあるべきなのですが、わたしは先に休んでしまったため、昨日に限って,夫、台所の真ん中に置いてあったのです。

写真に赤線3本入れてありますが、その線の如く足を進め覆いかぶさるように前のめりに転びました。もちろん、猫たちが寝ていたわけでして。猫たちも突然何が降ってきたのかと驚き、寝床から飛び出しました。

転倒した際にしたたかに胸を打ち、猫の寝床が竹細工だったからまだ良かったものの、顔でも打っていたら大変なことです。んもう!だんなメ!どうして昨夜に限ってこんなところに!これからは、自分がこの役割をしよう。即、夫をたたき起こしてブツブツ言うのもなんだし、肋骨でも折ってなけりゃいいな、と思いながら、ベランダの大窓を開け天を仰ぎますと、明け方の澄んだ空にはオリオン星座が煌々と輝いていました。

トピック「七十路」とは、この17日で齢70を迎えたのであります。一昨日から、夫から祝いにもらった花束を食べようとする猫たちを追い払うのに四苦八苦。

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とうとう、花束は猫たちが食べられないようにと、就寝中にドアを開け放し、日中は閉めている息子の部屋に置く羽目になりました。それでも記憶力のいいゴロー君、今朝、一番に息子の部屋のドアへ飛んで行き、花束が入っているのを知っているのでしょう。部屋の前で「開けろ、開けろ」とうるさく鳴き、少しだけ~、と開けると花束のところに飛んで行ってはこうです。
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食うんじゃないぞ、ゴロー。

さて、七十路(ななそじ)になっての抱負はなんぞや。健康を保つことは大事でしょうが、そのために特別の食事法、運動法を今のところ取っていません。なにしろ日本食好きのわたしです、ポルトガルにいてそんなことはあまり望めないので、普段から簡素な食事であります。が、夫がそれでは物足りないので、ついつい使ってしまうのが「油」です。

油を使わない料理はまずないと思われるほど、ポルトガル料理はふんだんに使います。これを数年前から少し高くつくものの、オリーブオイルに変えました。後はこちらでは食材が少な故、全体的に和食のみは無理ですが、昔に比べ、最近は酢味噌和えやゴマ醤油和えなどに使える食材も大手スーパーマーケットでは見られるようになったので、極力、夕食の一品に油を使わない、そういうものを添えるようにしています。

運動は、まぁ、転んだりするのはちょこちょこありますが、これは歳を取って反射神経が鈍くなったのではなくて、元来が粗忽者だということに発し、今回の転倒を除いては避けがたい点ではありますが、ちょっと気を配ろうと思っています。

で、あと2点、記したい抱負があるのですが、長くなりますので、これは明日に回しましょう。

本日はこれにて。みなさま、お付き合いいただきありがとうございます。

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2017年11日15日 

真っ青な秋晴れの日曜日の午後、夫の兄も誘って、隣町のサンチアゴ館で開催されている日本人の芸術家展覧会へ行こうとなりました。
ポルトガル語ではQuinta de Sãotiagoと呼ばれますが、何年も前から行って見たいと思いながら今日まで来てしまいました。展覧会が丁度いいきっかけになりました。

館の建築は19世紀後半にポルトガルに住んだヴェネツィア出身の建築家Nicola Bigaglia。ネオマヌエル、ネオゴチックを装った館は当初は裕福な一族の別荘でしたが、現在は隣町Matosuinhos(マトズィーニュス)の小さな博物館になっています。

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入り口

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館の全容。

入り口左には「S」と聖人サン・チアーゴ(聖ヤコブ)の絵が丈夫に見られる。剣を持った馬上のサンチアーゴはスペインの守護聖人です。
キンタ・デ・サンチアゴ

入り口左側の階段が展覧会場になっています。階段で見られるステンドグラスが美しい。
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キンタ・デ・サンチアゴ

ところが、上階の部屋数室をぐるり回ってみたのですが、肝心の日本人芸術家、綿貫氏の作品がひとつも見当たりません。
おかしいなと夫と二人言いもって、階下へ降り、案内係に聞いてみました。すると、「実はその展覧会は中止になった」と言う。なんとまぁ、それならそうと玄関口に、それらしきことを書いて知らせるべきではなかろうか?

10月半ばから12月半ばまで催されると日本大使館からの案内にはあって、まさか、キャンセルなどと思いもしなかったもので、大使館サイトの再確認をしないで来たのです。やっぱ、ポルトガルやーー!と夫と義兄相手に愚痴ることしきり。

綿貫翁がこの夏、リスボン、コインブラ、マトズィーニュスと足を運んでおり、紙面でその姿を懐かしい思いで拝見していたのですが、どんな事情があったにしろ、ほんま、なんちゅうこっちゃの!

わたしが勝手に「翁」と呼びし綿貫氏、1926年生まれとありますから御歳91。1956年にリスボン大学に外交史研究のために留学したものの、ポルト、コインブラ、バルセロナなどで絵の個展を開き、リスボン国立近代美術館を始め欧州、アフリカの美術館にもその作品が収蔵されているそうです。日本では絵画のみにとらわれずデザイン、彫刻、篆刻などを展開し、独自の世界を作り上げた芸術家です。

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今年、ポルトガルの新聞より、コインブラでの氏

その若い時期に、マトズィーニュにも住んだと言われ、今回、リスボン、コインブラでの個展に続き、ポルト近辺でもという運びになっていたようですが・・・

実は、氏はお忘れになっておられるでしょうが、日本でわたしは2、3度綿貫氏にお会いしているのです。この日、展覧会に同行した義兄はポルトの美大を出ており、彼の恩師が当時ポルトガルにいた綿貫氏と知り合いだったようです。夫が日本に留学するにあたって、時間があればこの人を訪ねてみよ、と紹介されたとのこと。
もう40年以上も昔のことではあります。

月に一、二度の週末のデートで「今日、この人のお宅を訪ねるのだが一緒にいかないか」と誘われ、のこのこついて参ったのが、当時は神戸の御影(みかげ)にあったご自宅でした。お茶をいただきながら、綿貫氏と夫は初対面だというのにポルトガル語で弾んでおり、全く言葉が分からなかったわたしは手持ち無沙汰でありました。

やがて、氏がこう言いました。「晩御飯に君たちを誘ったんだけどね、彼、明日は広島へ帰るから、今日はずっと君と過ごしたいと言ってるよ。」・・・

のろけるようで気恥ずかしいのですが、綿貫氏から聞いたこの言葉は嬉しかったものではっきり今でも覚えています。夫と知りあったのは6月も終わりで、彼が大阪外大で留学生として日本語コースを受講していた時です。その年の9月、わたしたちば知り合って2ヵ月後、夫は広島大学病院の研究生として移動しました。

わたしは、と言えば、歌姫バイトのお陰で目標の貯蓄額を達成し、長年の夢が叶い、翌年の1月にはアメリカのアリゾナ大学でESL(Engilish as a Second Language)コース受講の段取りがついており、そのままアメリカに居残る計画でした。

その先どうなるか二人の将来は見えない状態で、彼は日本に、片やわたしはアメリカにと離れ離れになっていたのが、アリゾナ大学のコース終了後、一大決心をして半年後には日本に帰国し、大阪の親友のご両親宅に転がりこんでいたわたしでした。

氏と夫がポルトガル語でそんな会話をしていたなど思いもよらなかったわけですが、わたしはその後も2度ほど氏からお声がかかり御影に足を運んでいます。その後、綿貫氏は有馬の方へ移られ、91歳になった現在もアトリエを起点に氏独得のデザインで活躍しておられます。

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Wikiより。氏の作品の一部。一度見たら忘れられない独得なデザイン。

氏の隣町での展覧会が中止だと知っていれば、コインブラの会場まででかけたものを、と残念に思っています。
綿貫先生、どうぞお元気で更なるご活躍をポルトガルから願っております。

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2017年11月14日 

今日はかつて書いた思い出エッセイに少し手をくわえてみました。以下。

酒癖の悪い父のていたらくを見ては思ったものである。
「自分は飲む人になるまい。酒を飲む人を生涯の相手には絶対選ぶまい。」と。

しかし、大概の人間は、年月を経てコロッと考えが変わったりするものだ。わたしもその例にもれず、二十歳ころから飲み始めたお酒歴は恥ずかしいながら、ちょっと自慢できるかもしれない。

日本酒、ひれ酒から始まって、ストレートウイスキー、カクテル、アブサン、ブランディ、カルヴァドス、シュタインヘイガーシュナップス、そして最後に辿りついたのが、生ビールだ。

シュタインヘイガーシュナップスはドイツの焼酎とでも言えばいいのだろうか、男性的なお酒である。わたしがバイトの歌姫として歌っていたアサヒ・ビアハウスで時々味わったのだ。これはビールの合間に飲むのであって、凍らんばかりに冷えて氷霜で真っ白になった陶器のボトルから、ぐい飲み盃くらいの大きさの小さなグラスに注いで一気に飲む。

胃が「クァー!」と熱くなるくらいに強い!それもそのはず、アルコール度数は40度なのだから^^;

カルヴァドスは我が日記でしつこく何度も出てくる思い出の酒である。フランスのブランデー、りんご酒で、「Pomme d‘Eve、イヴの林檎」と言われる。

レマルクの書いた本、「凱旋門」に度々出てくるお酒の名前だ。「凱旋門」は、ドイツの強制収容所から脱走してフランスに不法入国し、その練達の腕を見込まれ、闇の手術を請け負って不安な生活を送っている医師ラヴィックと、失意に生きる端役の女優ジョアンを中心に、第二次世界大戦中のパリを描いた物語である。

この本を読んでカルヴァドスというお酒があるのを初めて知った。そして、一度は口にしてみたいと望んだものの、それが国内では不可能と分かり、ある日、仕事でパリへ寄ると言う勤め先の本社の上司に、無理矢理頼み込んで、買って来てもらったのが始まりであった。

その後、海外に出る機会があるたびに、上司は土産にと、持ってきてくれたものだ。この上司は、当時社員として初めてイギリス語学留学のためにと、一ヶ月の休暇を申し出たわたしに、その許可が出されるようにと、アドヴァイスをくれた人でもある。

カルヴァドスは甘酸っぱい林檎の強い香りとともに、わたしには苦い恋の味もしたお酒である。

わたしが幾つの時なのだろう。覚えていないのだが、小学校にあがった頃ではないかと思う。当時、父は岩手の競馬場で走っていた頃で、母とわたしと妹の母子3人は弘前の下町にある祖母の家にたくさんの叔父叔母、その家族たちと同居していた。裕福とは言えないまでも、その日その日の食うことだけはなんとか困らないで生きれた頃だった。

4月の終わりから5月初めにかけての、弘前の「観桜会」今で言う「さくら祭り」の頃である。祖母はその頃、観桜会の期間だけ、公園内で蕎麦屋の屋台を出しており、母を含めた家の他の大人たちも、それぞれに仕事をもっていて外へ出ていた。

その日は何故か、わたしの従兄弟にあたる他の子供達が家におらず、わたしと妹だけだった。

ふと水が飲みたくなったのだが、当時の田舎にはまだ水道というものが通っていなかった。台所の水場には長い取っ手を上下に動かして水を汲みあげるポンプがあった。まだ小さいわたしと妹の力では水を汲み上げることができなかったのであろうか、わたしたちは家の中のどこかに水はないかと、探し回ったのである。

と、「あった、あった!」机の上の高い棚の上に、瓶に入ったきれいな水を見つけたのだ。妹と二人、机の上に椅子まで乗せてやっと手が届き、一息にグーッと飲み干したその水・・・・その後のことをわたしは全く記憶していないのである。

結論を言えば、水と思って飲み干した瓶の中身は、実は日本酒だったのだ。外へ出て、自分と同じ年頃の近所の子供達を追い回し、「鬼さんこちら、手の鳴る方へ!」と囃し立てられ、フラフラ千鳥足でふらついていたわたしを見つけ、自分の家に運び込んで医者を呼んだのは、はす向かいの畳屋のおばあちゃんだそうだ。

わたしは「急性アルコール中毒症」で危うく命を落とすとこだったのだ。かすかに記憶にあるのは、明るい日差しを浴びた縁側のある広い畳の部屋で、自分が布団の上に寝かされて、冷たい手ぬぐいを額に当ててくれている畳屋のおばあちゃんが、ぼんやり見えたことだけである。後はなにも覚えていない。

後年、時計屋をしていた人のいい叔父が、保証人として判子を押した相手が夜逃げしてしまい、その負債のため祖母は下町の家を売り払わなければならなくなり、わたしたち大家族は以後ちりぢりになったのだが、少し大きくなってから時々下町を訪れると、わたしは決まって畳屋のおばあちゃんや近所の人たちから言われたものである。「あの時の酔っ払ったゆーこちゃんがねぇ~」

「自分は酒飲みにはなるまい」とは大きく出たものだ。6、7歳にして既にわたしは酒飲みの洗礼済みであった。

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