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2020年2月17日 

先々週、2月8日は、ポルトで漢字検定試験が実施されました。
その週は午前中4時間ほどある日本語教室を休校にして、初級2年目のクラス6名の生徒を試験場である元私の職場に当たるポルト補習校へ引率しました。

受験級は10級なのですが、受験させるのが少し早かった気が今回はしないでもありません。
結果は40日後に分かるので、楽しみでもあります。

この漢検ですが、ポルトガル、ポルト補習校が受験会場に指定されており、我がモイケル娘も昔、当校で漢検3級まで受験しています。補習校に通ったのは週に一度の3時間、そのうち国語学習は1時間半でしたが、3級を受験したのは高校1年のときで、よく頑張ったなぁと思ったものです。日本の大学に行きたいという夢あったればこそでしょう。

しかし、そうして覚えた漢字は、日本で生まれ育った人たちの身についたものとは別問題のようで、漢字に関しては結構面白い失敗をしでかしているモイケル娘であります。

早稲田大学での2年目の終わり、選んだたコースがどうも合わないとかで、なにやら勝手に他大学編入試験を受けたときの話です。

手ごたえはどうだったの?」
(↑断固、転入編入反対していたのではあるが、とりあえず聞いてみた)
「う~ん、どうなんだろ・・・でも、英語を和訳するところで、漢字間違った。」
「漢字を?自信がない漢字はひらがな、もしくはカタカナで行こうよ。」

試験問題の和訳は「核」に関する英文だったそうだ。「nuclear」つまり日本語では「核」であります。その「核」が三箇所も出てきたのだそうで、間違った漢字というのは、「核」なんだって^^;どんな風に間違ったかと言うと、あっはっはっはっは!これが笑わずにおらりょうか!

もう腹が痛くて涙が出てきて、それを披露した当時のチャット仲間たちにも、「お前、それ落ちてるぞ。」と直言されプリプリしている娘をも構わず母はパソコン前で体よじって笑ったのでした。

で、どういう字を書いたかと言うと、木へんに玄。ぐっはっはっはっは!

そんな字、あったっけ?本人も既に調べたようで、「ない!」と(笑)
しかし、なんとなく似てるには似てるわ^^
帰国子女は往々にして、こういう間違いをします。どれどれと思ってわたしも調べて見ると、この「核」という漢字、2級で出題です。やっぱりねぇ^^ 2級まで挑戦してみましょう、もいちゃん^^

「核」の間違いに拘わらず、編入試験に通ってしまい、東京から遥か離れた本州南の外れに行ってしまった娘の話ではありました。

さて、大卒後、東京都内の某企業に就職し3年勤めて学費を稼いだ娘は今度はとんでもないことに挑戦すると言い出しました。近世文学専攻だと(大汗)。 

近世文学は徳川時代から明治維新間の文学で、古典に比べると文章も比較的分かりやすいとは言うものの、問題はくずし字でありました。

モイケル娘、当時、かように書いております。

こころは豚にひかるる大八車

いやー。参った。文字に襲われる夢を見ました。はっはっは。

自分のペースでできることをやるしかないと再度自分に念押しを。周りはどうあれもっと気楽に失敗しまくろう\(^o^)/ と思うことにした結果

ぶたにひかるる1

赤枠内の文字を「豚にひかるる大八車」と解釈して今朝発表して先生の盛大な苦笑いを頂きましたww正しくは「縁にひかるる」ですね。

いやー、おかしいとは思ったんだよ。でも他の字が浮かばなかったし、そもそも辞典の豚の字と似てたし、右のルビも「とん」に見えるし。「えん」だったんだねー。

ちなみにこれは1688年に増田円水に書かれた『好色大神楽』という浮世小説です。物語が井原西鶴のなんかの小説(忘れた)に酷似しているのがひとつ注目すべき点だとかなんとか。

ほんと気分は暗号解読者だよ。今日から暗号解読者を名乗ろうかな。

どうも。暗号解読者です。ディサイファー(decipher=判断が難しいものを読み解くこと)です。

豚は大八車をひきませんよ。


んで、ちょうどこの時、日本に帰国して子どもたちのところに滞在して、彼女と一緒に頭悩ましたわたしと言えば、次の如くなり。

いやぁ、参った参った。紀貫之さまではありませんが、「娘もすなるくずし字といふものを、母もしてみむとてするなり」でありまして、モイケル娘が生まれて初めて取り組む1600年代に書かれた小説の原文読みの講義、いやはや崩し文字の漢字もさることながら平仮名のややこしいこと。

ただ眺める分には、美しいなぁで済ませるものの読むとなると、これは殆ど苦行であります。

2豚に光るる

二人して迷路に入り込んだ心地して、面白いもののその結果、いと恥ずかしき(笑)

江戸時代に「豚」っておったのかな?いや、ブタとはイノシシのことかも知れんぞ・・・しかし、なんで「心」なのだ?と不可思議に思ったものの時間切れ。

えぇい、分からん、しないよりはましだという母娘二人の結論が「ブタにひかるる」と相成りそうろう(爆)これからが恐いような楽しみなような、とこれまたいい加減で能天気な母。

大学から帰宅した講師からの正解を聞き、ガハハハと爆笑してしまったくずし文字探りテイタラクでありました。この母にしてこの子あり。

お粗末さまでございました。
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2020年2月15日 

ずいぶん前のことですが、東京駅で外国人に間違えられた経験があります。

ガラガラとキャリーケースを引きづって今と同じく度付きサングラスに茶髪です。大阪駅で友達のゴッチと待ち合わせしていたのですが、予定の新幹線に乗り遅れてしまいました。

当時は今のようにスマホも日本でのレンタル携帯電話も持ち合わせておらず、仕方ない、公衆電話でゴッチの携帯に連絡しようと、東京駅構内を探したものの、なかなか見つからず。

ちょうど、新幹線構内の広い場所の真ん中で立ち台の上に立って案内をしていた制服の駅員さんに、
「すみませんが、公衆電話はどちらにありますか?」と訪ねたところ、返ってきたのがなんと!電話のある方向を指さして、「It´s over there!(あっちだ!)」

一瞬のけぞったわたし、「さ、サンキュウー」と答えたのでありました。
後で思うに、あれはわたしの姿格好より、もしかしてわたしの日本語だったのかもしれないと。

どちらかと言うと早口のわたしが、できるだけゆっくりはっきりした発音で日本語を話すことを意識しだしたのは、土曜日の補習校で講師をし始めてからです。また、日本語を教え出してからも、もぐもぐ言っていたのでは、生徒たちに分かってもらえないからです。

もちろん、友人たちと話すときはいつもの自分の早口にもどっていますが、日本では店員さんや見知らぬ人には、無意識に日本語学習者に話すのと同じになっているのに気づきました。

よく当時はデパートの売り子さんからも、「きれいな日本語を話しますね。」と言われたものです。しかし、これもまた、ひょっとしてわたしは日本人ではなくて、日本語を学習しているアジア系外国人だとでもj思われたのかな?と。

少しゆっくり話すというのは、近頃、会話の途中で適切な日本語単語が口から出てこなかったりする時、ちょっと助かったりします。早口だと、そこでパタッと話が止まってしまうもので(笑)

さて、本題ですが、この春で、ポルトガルでの生活が丸41年・日本で生活した31年の年月よりずっと長くなります。この補習校も10年ほど前に退いたもので、現在は日本人社会ともあまり接触がなく、日本語で話す相手と言えば、2、3カ月に一度の割合で気の合う仲間4人との食事会くらいです。たまに電話で話すこともあるのですが、それも用事があるときで、意外と稀です。

夫との会話は一応日本語ですが、相手不足だ、が本音です(笑

ブログを極力続けるように心がけているのは、我が子たちへのメッセージも含め、なんとか日本語力を落とさないようにとの目的もあるからですが、読書はそれを養うための一方法だと思います。

毎晩、就寝時に小一時間ほどしていた読書ですが、歳でしょうか、近年その力が衰え、よほど興味を引く内容ででもない限り、ものの20分もできればいい方で、本を顔に載せたまま寝入っていることが度々です。

また、わたしは、心に残る文を「片言隻句」として書き留めるのですが、最近読む本の中にそのような言葉をあまり見いだせないのは、自分の選ぶ本にあるのだろうか、と思ったりしています。

若い時は翻訳文のような文章にも興味を持ちましたが、今は俄然、美しい日本語の文章に大いに惹かれます。

美しい日本語、美しい物腰、たおやかな美、どれもわたしが持たない独特な日本美です。そして、季節の変化や夕焼け、風の匂い、忘れ去られんとする古い言葉・・・

齢70を過ぎて、自分の中にある限りない日本美への憧憬を発見して、実は自分でも少し驚いている近年です。

「何事の おわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」

武士を捨て出家した漂流歌人、西行が伊勢神宮を参拝した時に詠んだとされる歌ですが、この歌に無宗教のわたしが感じ入るのは日本人の心でしょうか。

何十年と海外に住めども、生まれながらにして備わった日本人の血が体内にひたひたと流れていることを改めて感じ、自分は永遠に日本人なのだと。それを感じればこそ、近頃の日本政府の大陸寄りの政策、その緩さ、隙だらけに、頭から湯気が立っているのです。

え?それを言いたかったのかって?そうなんです!これを言いたいがためにウダウダと長く書いちゃったんです。はい。
本日はみなさま、これにて御免。

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2020年2月14日 

今日はよくコメントを残してくださる「やまひろ」さんのリクエストで、かれこれ10年以上も前に書いたエッセイを再掲します。
以下。

墓参もご先祖の霊の迎え火送り火も容易にできないほどの遠国に住んでしまったわたしではあるが、8月は遠く過ぎ去った夏にひとりしきり思いをよせる時期である。

10年以上も前になるが、横浜のおばがみまかったのを最後に、おじおばである我が母方の9人兄弟はみな鬼籍に入ってしまった。

父は岩手県雫石の出身だったが、どうやら若い時から家族のもてあまし者だったようで、父の存命中もその親族とはあまり行き来がなく、我が両親亡き後はそれっきりプッツリのままであるから、わたしの思い起こすお盆はいつも弘前である。

故郷を後にして長年大阪に住んだのだが、今思ってみれば誠に残念なことに盆とてわたしは大阪在住時は一度もお盆正月の帰郷をしていなかった。

田舎の土臭さ、線香の放つ古臭さに、言うなれば因習にあの頃のわたしは精一杯抗っていたのである。古い因習に囚われずに、自由な精神、生き方は、流浪の旅の中にあると本気で考え、そういうことに憧れていたものだった。

この憧れは、高校時代に読んだヘルマン・ヘッセの「知と愛(ナルチスとゴルトムント)」のゴルトムントの生き方に影響を受けていないとは言い切れない。

青春の彷徨時代を経て、やがて人並みに結婚し、二人の子育てもほぼ一通り終えのだが、この間の異国での暮らしは、それまでのわたしをゆるく大きなうねりを描くように別の人生面を学習せしめ、再び故郷に向かう心を取り戻させたような気がする。

「子を持って親の心を知る」 わたしは遅まきながらこの言葉を今噛み締め、祖母や母の心に、故郷に、思いを馳せる。

次男坊だった父がその昔、彼を獣医にしたいという地主の父親の元を出奔したのは10代だったと聞く。思春期には黙した態度で目一杯父に反抗し、弘前から大阪への家出を繰り返した14のわたしは、何のことはない、しっかりとこの父のDNAを引き継いでいるではないか。

競馬騎手だった父がその職を諦めるべき年齢になり、盛岡から弘前に来て親子四人がともに暮らし始めたのだが、両親の仲良い姿があまり記憶にないのであった。

南部生まれの競馬騎手だった父が異郷の地、津軽に生きるのは難しかったこともあろう、昭和30年代も半ば、その日食うのにも苦労する貧しい家庭はいくらでもあり、父が無職がちだったわたしの家族もそのひとつであった。

その日食べるために、母はできうる限りのことはなんでもし、父はよく酔っては暴れていたものだ。

帰国したある都市、横浜のおじに叔母の遺品の整理を頼まれた妹が、それらの中から出てきた言って持ち出してきた、わたしたちが見たこともない古い数枚の写真の中にこんな一枚があった。

父と母

弘前の新町を背景に、父と母の、恐らく40代前半の写真であろう。なんにしても、「乗る」のが好きな人であった。このバイクで、あんな時代に父はモトクロスまがいのことをしては周囲の眉をひそめさせていたのであろう。

写真を撮ってあげるとおだてられて、「いごすじゃ。」(いいわよ、遠慮しとくわ、の意味)としり込みする母を無理やり乗っけでもしたのだろうか?仲良く写っているではないか。

この写真一枚を見るにつけ、もしもわたしがあの頃、もう少し素直で優しいい心根をもった少女だったら、もう少し気の利く少女だったら、わたしたち家族の肖像は、もう少し違っていただろうかとふと思うことがある。

子どもに責任はないと言うけれど、そうは思うが、そして無理なことではあるが、あの頃に今の心根を持つわたしを置いてみたいと、家族4人が「あっはっは」と心から笑ってみたいとの見果てぬ夢を見る。

失って長い時間がたたないと見えてこないものが人生にはある。

(2007年のエッセイを書き直しています。)
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2020年1月13日 
 
ポルトガル人の知人数人から、「道でポルトガル人から意識的に避けられたりしてない?」と、気を遣ってもらってます。

なんでかと言うと、COVID19(コロナウイルス)騒動で中国人と間違えられて、欧州では時々、アジア系の人が罵声を浴びせられり避けられたりしているとのニュースが広まったからです。

幸いにして、わたしはこのウイルスの話が出たとき以来、ツーリストが多いダウンタウンには足を運んでいませんし、外出時の行動範囲は行きつけのデパートやマーケット、外での日本語教室ですが、それも公共交通機関は利用せず自分の車を使うもので、今のところ、差別のようなことは受けていません。

加えて、目が悪いもので、外を歩くときは度付きのサングラスをかけ、髪は相変わらず茶髪ですから、中国人に間違えられることはないと思っているのですが、日本国内でも感染が拡大してきた今、この先は日本人とて「近寄らず」と避けられるかも知れません。

中国に隣接する台湾や韓国でほとんど感染者がでていないのは、初期段階で中国人入国拒否をしたからですが、それを我が国ときたら、武漢をこそ除きはすれ、どんどん中国人ツーリストを入れてきたことのわけです。

コロナウイルスがニュースに上がった時点で、武漢からは多くの人が逃げており、その人たちが既に中国国内のあちこちで感染させているということを、政府が知らぬはずもない。我が国の政治家の不甲斐なさ、危機感、決断力の無さ、とうとうここまで来てしまったかと。
与党もまとまっているわけではなく、親中親韓派は力を持っているようで、首相といえども逆らえないところがあるのでしょうか。こんな国の一大事の時に、首相が親中派に折れてしまうんだったら首相はいらないやん。

と、この数日は腹ばかり立って、ブログの文章もまとめられない状態でした。

遅きに失した感ではあるが、我が子たち、我が親族、我が友人知人たちがいる日本です、政府には今からでも中国全土からの入国を禁止してほしい。

本日は走り書きのようで、申し訳ない。
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2020年2月9日 

今日は我が母の命日です。
17年前のこの頃、辛い思いで日本に向かいました。機内で一睡もできずにいたら、スチュワーデスさんにこっそり告げられて、夜間飛行の機内の窓から、眼下に初めてオーロラを見たのでした。

以来、オーロラという言葉を耳にすると母に最後に会うために日本へ向かった日のことを思い出します。
   
昔、ポルトガルへ嫁ぐと決めたときに、アリゾナ・ツーソンに住んでいたアメリカ人の夫を持つ年配の日本女性に言われた一言を今更のように思い起こした時でもありました。 「Yuko、異国の人に嫁ぐということは、親の死に目に会えないということです」

父親の場合がそうでした。死に目どころか、諸事情で葬式にも出ることも叶いませんでした。
   
我が母のときは、現在のフラットを購入し引越ししてすぐのこともあり、経済的にも大変な時期で、帰国をもう少しあともう少しと引き伸ばしていたのです。

その頃、頻繁に母の夢をみました。すると、間もなしに妹からの連絡で、もう待てない、すぐ帰って来いとの連絡が入りました。

わたしが日本に到着して二日目に、まるでわたしを待っていたかのように、母は病院で静かに息をひきとりました。母の目からこぼれ落ちる一筋の涙をふき取ったのが最期でした。

その後、2年間は、母の写真が飾れませんでした。親がいつまでも元気でいるわけではないことを頭では分かっていたつもりが、あれをしてあげればよかった、これもしてあげればよかったと後悔し、亡くして後、実感したのでした。

母の葬儀は、仏教式ではなく、読経のない花と音楽の葬でした。同居していた妹の話では、費用の高い戒名もいらぬ、自分の葬儀はそのようにできたら嬉しいと洩らしていたようでした。

わたし達は市の斎場の一室を借り、棺の周りをたくさんの花で飾り、母の好きだったタンゴ音楽を流し続けました。
蒼空、黒い瞳、ブルータンゴ、奥様お手をどうぞ、ラ・クンパルシータ、真珠採り・・・

それらを聴くと、一人でまるでそれがパートナーがいるかのように、わたしたちの前で踊っていた母の姿を思い起こすのでした。
2タンゴ
Wikiより

もうひとつ、母の葬儀でわたしたち姉妹が決めたことは、「お香典をいただかない」ことでした。当時はまだ花葬式など珍しかったようで、「このようなお葬式、初めてさせていただきました。良かったです。」と、葬儀を取り仕切ってくれた人の言葉でした。

母は妹夫婦の家族と都会に20数年住んだのですが、母の故郷は弘前で、年に1、2度は帰郷し、山菜取りに山に入ったりして友人たちと交流していたようでしたが、みな、歳をとっており、無理をおして来て頂くのもいけないと思い、故郷の母の友人たちには敢えて連絡しませんでした。 

さて、葬式も終わって母の一番の友達のOさんには連絡せねばなるまい、となり、妹とわたし、どんな風に切り出したらいいかしらね、と言いながら電話のダイヤルを回しました。

娘さんが応答し、「実は・・・」と話し出したところが、「あの・・・母は2週間前に亡くなりまして」との返事を聞いたのには、絶句したものでした。

仲のよかった友達同士、「あんた、そろそろ逝こうかね」とでも言いながら、二人仲良く逝ったのだね、と妹となんだか哀しいような切ないような。

そんなことを思い出しながら、母の好きだったタンゴを聴くことがあります。母の影響だけではなく、わたし自身も若い時にはアルフレット・ハウゼ・オーケストラでたくさんのタンゴ音楽を聴いたものです。

タンゴにはコンチネンタル・タンゴ(ヨーロッパ・タンゴ)とアルゼンチン・タンゴがありますが、エレガントなコンチネンタルに比べ、アルゼンチン・タンゴは情熱的です。わたしは踊れませんが、見るだけでも「ふーッ」っとため息がでてきます。
タンゴ3
Wikiより

タンゴ音楽が使われる洋画も数えてみると結構あります。知っているだけでも、シンドラーのリスト、パブロ・ネルーダの郵便夫、Scent of Woman(「邦題:夢の香り」だそうです)等など。

シンドラーのリストとScent of Womanで使われている音楽は同じものでアルゼンチンタンゴでも有名な「Por Una Cabeza」。スペイン語で、「馬の首の差で」という意味。

下にScent of Womanで盲目の退役軍人扮するアル・パチーノが軽くタンゴを踊るシーンをアップしてみました。アル・パチーノはこの映画でアカデミー主演男優賞を獲っています。



こちらは、映画「Take the Lead」の1シーン。日本では未公開の映画だそうですが、実話に基づいており、わたしの好きな映画のひとつです。

アントニオ・バンデーラスが本格的に踊っています。
NY、とある高校のおちこぼれたちに社交ダンスを通じて、生きる情熱を学んで欲しいとボランティアを申し出るダンス教師をバンデーラスが、演じています。なかなか授業に乗ってこない生徒たちに、情熱的なアルゼンチンタンゴを披露し、ヒップホップ生徒たちの目を白黒させる圧巻的な場面です。



また、最近見たのには、アルゼンチン出身のバンドネオン・タンゴ奏者、アストル・ピアソラのドキュメンタリー映画がありますが、わたしの好きな一曲、ピアソラが亡き父に捧げた「Adiós Nonino(Farewell Father)」を下に。



してみれば、昔、わたしがバイトで歌っていた大阪は梅新の旧アサヒ・ビアハウスの常連さんに、来るや必ずタンゴを踊るカップルがいました。雑誌記事にも取り上げられたのが下の写真です。ヨシさんのアコーディオンでマイクを手に歌っているのは若き日のわたし。
タンゴ

ピアソラの「Adiós Nonino」は、わたしの場合、母を思い切なくなる曲です。

ではみなさな、また。
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