2012年10月3日 

前回の記事「大阪」が出てきたところで、本日は随分と長い間放置してきた
カテゴリ、「あの頃、ビアハウス」にカムバックです。

長くお付き合いいただいているブログ友のみなさまはもうご存知かと思いま
すが、不才わたくしがあつかましくも歌を歌って多少稼いでいた頃の思い出
話シリーズなのです。

当節、大阪ではドイツのビアフェストこと、オクトーバーフェストが盛大だ
と聞きます。かれこれ30数年前の先駆けて1970年代、我が歌姫バイト先
の梅新(梅田新道)交差点にあった大同ビルの地下、「アサヒビアハウス」
では既に年に一度の10月にオクトーバーフェストが催されていたのでした。

当時としては国内で唯一のオクトーバーフェストであったと思います。ドイ
ツ領事やちょっとした著名人、それにたまにTV局が入ったりしていました。

普段はアコーディオンとリズムボックスのみで歌うビアハウスもこの日は
オーケストラもどきのドイツの民族衣装を着た楽団が入り、前売りチケット
は売り切れになります。

わたしが「先輩」の定冠詞をつける只一人の御仁、歌の大先輩こと宝木嬢と
わたしの歌い手二人の「梅新アサヒ」もこの日は他店からも歌い手さんが
合流します。歌い手さんたちはみな音大出身で、その中に宝木嬢にスカウト
されて歌い始めた素人のわたしが紛れ込みます。ホールは人でぎっしり、
ビアソングと人の熱気と喧騒でにぎやかなことこの上ありません。

アサヒビアハウス・フェスト
写真左はベルリンオリンピック(!!)の水泳競技金メダリストの葉室鉄雄
(てつおは古い漢字)氏。アサヒビアハウスの常連でした。


我が声域はアルトと低くに、コーラスでは高校時代からいつも低音でした。
低音で声が大きいものですから、数人の高音でも一人の低音で、かかってこ
い!という具合でした。

故にモイケル娘からは、
「おっかさん、地声の低音でドス効かしたらこわいよ・・・」
と言われる始末^^;なんでぃ、これでも一応女の子だい。

このビアハウスの歌姫バイトがあったからこそ、5年ほど昼夜働き、わた
しは30をちょっと過ぎた頃にやっと長い間の夢だったアメリカ留学が果
たせたのですが、意思あるところに道は拓けるであります^^

解体されるまえの梅新アサヒビアハウスは大きな大理石柱も有名で、四季
を通して欠かさず通ってくる何人もの常連さんで毎夜9時まで賑わったもの
です。歌われる歌はビアソングもさることながら、オペラのアリアやオペレ
ッタからもたくさん歌われていました。

シャンソンやカンツォーネもわたし用にとOKが出ていました。どの歌にして
も、悲しいのはしめっぽくなりビールがまずいのでダメw、場を盛り上げる
陽気な歌で、客も歌い手も毎晩ビールで乾杯ですからね、楽しくないはずが
ない(笑)梅新アサヒビアハウスは当時は日本でも数少ないドイツ式を装っ
た老舗でもあったわけです。

現在は改築された同和火災ビルの名もフェニックスタワーとなり、その同じ
場所の地下にこれも店名を変えて「アサヒスーパードライ梅田」となって
いますが、我が脳裏に忘れえぬ姿で残るのは1970年代そのままの「梅新
アサヒビアハウス」なのです。

大阪時代、20代も後半でしたが、我が青春まっさかりのビアハウスの思い
出を常連さんを描く事で綴っておこうと思い立ったのは随分まえのことで
す。記憶が薄れないうちにとダーッとめくら滅法に綴ったのが誤字だらけ
の第一弾多分20章くらいでしょうか。そして誤字を直し言い回しにもう
少し手を加えてみたのが第二段。つまり、ここに載せつつある分なのです。

なんだかんだと話題の手を広げるうちにいつの間にか忘れておりましたが
今後、時折取り上げてまいりますので、よろしくお願いいたします。
なお、これまでの7エピソードは左カテゴリの「あの頃、ビアハウス」を
クリックいたしますと、読むことができます。

本日のエピソードは、アサヒビアハウスから遠く離れ、かれこれ25年ほ
どもたったある日に、風の噂で耳にしたかつての常連さんの思い出話です。
以下。

あの頃、ビアハウス「A.D.」

アサヒビアハウスの常連で名物男の一人に「AD」と皆から呼ばれていた
おじさんがいました。毎日顔を出すわけではないのですが、ちょっとした
風貌で人気者でした。その風貌と言うのが、 いつも広島カープの赤い帽
子をかぶり、ガニまたで歩く足に履く赤い靴だけはやけにピカピカ光って
いるのです。
  
けっこうなお歳で当時はもう70近くだったかも知れません、小柄な人で
した。赤い帽子をとると頭はこれまた靴と同じくツッルツルのぴっかぴか!

よく気をつけて見ると、両目がアンバランスなのですね。それで片足が
少し不自由で、足を引きずって歩いていました。若い頃はボクサーだった
と聞きました。

多く話す人ではないのですが、話し始めると江戸っ子弁かと思われるような
べらんめぇ調が入ってきます。^^顔いっぱいに浮かべる笑みは、どこか
少年のような無邪気さがあってとても魅力的な小さいおじさんでした。
  
独り身だとのことで、当時は大阪のどこかのボクシング・ジムに住んでい
ると噂されていました。が、ADについては、誰も多くを知らないのです。
他の常連たちのように9時半までの長居をしたことはなく、ビールを1、2
杯飲んだ後、片足をひきずって地下にあるビアハウスのドアを出て行くAD
の背中には一抹の寂しさが漂っている気がしてならないのでした。

ビアハウスの歌は6時半から30分間が第1ステージ、歌姫は30分休憩で
す。7時半から第ステージで再び3分の休憩、そして8時半からの30分
が第3ス
テージで、ステージの終了時には、わたし達二人の歌姫が合唱で「Auf
Wiederseh´n」(アウフ・ヴィーダゼーン=ドイツ語、また会いましょう
の意味)と、ドイツ語で歌い、マイクで挨拶をして9時に終了です。ラス
トステージの「アウフ・ヴィーダーゼン」についてはいずれ綴るつもりです。

ステージが終わり休憩に入ると、わたしは時々呼ばれもしないのに両腕に
自分の歌の楽譜を抱えてADの立ち席まで行ったものです。(彼はけして
座りません)
 
 「おじさん、元気?」と声をかけると、決まって、
 「おお、あんたも元気かい?」
  
ADのアンバランスな目が、なぜかウインクしたように見えたりするのでした。

あれからふた昔以上が過ぎていましたが、ポルトガルに来てからこのかた、
一度もADのことを思い浮かべたことはありませんでした。

それがしばらく前のある日、ひとづてに、そのADのことが耳に入りました。
ADが何歳で、そしていつのことだったかは知らないけれども、亡くなって
いたのです。路傍での孤独死だったと聞きます。

誰も引き取り手がなく、アサヒの常連の一人が引き取り彼を知る常連たちが
集まっての見送りになったそうです。
  
わたしは少し堪えました。
随分若い頃、20代も半ばを過ぎる頃までのわたしは、若気の至りで「例
え明日、この身の命が無くなってもいい」くらいの無茶な意気込みで、日々
を、あの頃にしてみたら一生懸命、しかし、今振り返って見ると無謀にしか
思えないような生き方をしていたものです。「例え路傍死しても」との思い
があったのも若さゆえだったと、今にして思います。

「路傍死」
その言葉に記憶があるわたしは、A.D.のその孤独な死が堪えまして涙が後
から後から出て止まりませんでした。
  
ADが若い頃どんなボクサーだったのか、誰か覚えている人はいないのか、
今となっては知る由もありません。

「アサヒは人生のるつぼ」だとわたしが思うひとつのストーリーではあり
ます。

A.D.に、心をこめて、合掌します。


ドイツ語が見つからず。イギリスの国民歌手Vera Lynnが英語で歌ってい
るノスタルジックな「Auf Wiederseh´n」をクリックしてYoutueでどぞ。
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2010年10月31日 

前回の我がブログ記事を読んだ友人たちから、「だ、だいじょうぶ?」との
メールや電話が舞い込みました。
いやね、その大丈夫?ってのは事故じゃなくて、わたしの頭がですってよ(爆)

我が「永遠のペンフレンドI氏」からは、
「単に車がガ~ンだけでなく、頭がガガ~ンでは・・・。一時的に打ち所が
悪かったのかなぁ」
・・・・・・・・

君らねぇ(笑)まぁ、しかし、自分が事故記事を書いた翌朝、読み返して見て、
「ぎょ!なんなんだ、この記事は@@」と驚愕した、記事とは言えない
恐ろしいものではありました。

ブログ記事にアップする以前にわたしは原稿を書きます。
その原稿をブログ記事にコピーペーストして載せる訳ですが、どういうわけか
今回は、とんでもないコピペの仕方で、読んでいて途中から、「あれれ?おろ?
この文章、もう既に二度ほど出てきたではないか?ぎょ・・・・」
となったのでありました。

なんだか、事故が起きたその日の我が心のごとく、ぐるぐる頭が回るような
ひどい記事ではありました。
こんなこともしでかすわたしですが、皆様、愛想を尽かさず今後ともどうぞ
よろしくお付き合いくださいませ。

車
その車、こんな感じでございますねん^^;

思うに、これは完全なるオーバーワークのなすところでござんす(笑)
脳内シナプスが、なにかな?そのオーバーワークで接続どころを間違った
かもでありますよw

明日は万聖節ことオール・セインツ・デイで休日、近頃の忙しいのを
あの世から見ていた我がご先祖様たち、あの事故で、
「孫よ、曾孫よ。目を覚まさせ!気合を入れよ!あと少しじゃ!ガツン!」
ということだったのかもしれません。

もう少し、後三週間だ!と気合を入れた横から夫が、

「うん。始まるまではね。Japan Week終了まではまだ4週間だ」

ガビ~~ン。そういう水をさすようなことを言うんじゃないってば・・・

さて、こんな状態でしたから、昨日は土曜日の日本語教室が終わってから
夫がIKAE側のショッピングセンター内にあるタパス・レストラン「Flying 
Datchman」(以前にこちらで紹介済み)へ連れて行ってくれました。
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2010年3月8日

酒屋
故郷を離れ、恐らく我が終の棲家になるであろうポルトの街の小さな酒屋

「思い出のグリーングラス」昨日の続きです。

翌朝、台風はどうにかそれてくれたようだ。
夕べの一回生たちとの再会の興奮も冷めやらず、結局頭が冴えて早朝に起き出
してしまった。
大事なお役目を終えることができたし、一路東京へ向かう準備をし始めたので
あります。

荷物を引っ張り出し、衣類を畳み込んで旅行かばんに入れ始めたのだが、念の
ためにとバッグの中身をふとチェックしてみた。

「あ、あれ?デカイ財布が見当たらんぞ・・
 確かバッグの底に入れてたはずなんだが・・・」
バッグをひっくり返してみた。が、あるはずの、そのデカイ財布がない・・・
「えぇぇぇ!だって、あれには帰路のためにとユーロ札と、それよかパスポート
 が入ってたのだよ。ウソやん!なんでやの~~!」
と、ほぼ悲鳴に近い独りごと!

もしかして、タクシーでお金を払うときに座席に落ちたかも・・・
あぁあぁぁぁ、タクシー会社の名前、覚えとらんわ~!
さぁ、大変!朝の7時からフロントのおっさんに頼み込んで、あちこちのタク
シー会社の電話番号を調べてもらい、公衆電話からかけまくった。
どこもその時点では、落し物の届け出はないとのこと。
 
フロントのおじさん、
「あのね、警察に届けたほうが一番早いかもしれないよ。」
アドバイスに従って警察にも電話してみた、が、それらしい物は出ていない
ようだ。
おまけにあったところですぐに手渡しはできなくて、数日かかるのだそうな。
そんなん、待っておられまへんて^^;

うぬ?待てよ。そう言えば、
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2010年3月7日

hirosaki
★我がふるさとの山。「岩木山」画像はwikiから引用

今日は2004年の自分の記事をRewriteしたものを。

♪汽車からおりたら ちいさな駅で
 迎えてくれるママとパパ~
 手をふりながら呼ぶのは 彼の姿なの
 思い出の Green Green Grass of Home
  
 まぶたを閉じれば 聴こえてくるわ
 懐かしい古里の歌が 
 子どもの頃、遊んだ山や川 そして
 思い出の Green Green Grass of Home 

   
もともとはカントリーソングである。
明るいメロディーで故郷に降り立つ主人公が家族や恋人に迎えられる、と始ま
るのだが、英語の歌詞を聴くと最後の方には、こんな語りが入る
 
 そして俺は目が覚めた。四方を灰色の壁に囲まれた部屋で
 俺は故郷の夢をみていたんだ
 看守と神父さんに両腕を引かれ、
 夜明けに俺はグリーンマイルを歩いていく
           註:グリーンマイル:アメリカの死刑囚が
             歩く緑色の絨毯が敷かれた死刑台に続く道

 俺はもう一度、故郷のグリーングラスに触れるんだ
 そうさ、みんな俺に会いに来る。
 古い樫の木の下で
 故郷のグリーングラスの下に埋められるとき
           ーspacesis 勝手翻訳ー
 
         
こんな明るい曲にはまったく似つかわしくない、故郷を出たまま帰らなかった
死刑囚の最後の夢を歌ったのが「思い出のグリーングラス」なのですね。                               
外国の歌はできれば日本語訳しないで、原語で歌うのが個人的には好きなのだ
が、この歌は本語歌詞がとても気に入ってアサヒで歌い始めた。

わたしがラジオで日本語版を耳にしたのだが、覚えることができたのは一番目
の歌詞だけで、残りの部分は今のようにネットで検索などということはなかっ
た時代、アサヒで歌うために自作したのであるから、いい加減なものだ^^;
   
わたしは度々こういうことをやっている。わからない歌詞は自分で作るので
ある。誰に遠慮がいるものか~~。「作詞:spacesis」やもんね。
   
わたしの故郷は弘前である。
もう5、6年ほども前になるだろうか、アメリカへ移住して今ではカリフォル
ニアに居を構えてすっかりそこの住民として腰をおろしてしまっている、大阪
時代の男友達と彼の娘、そしてわたしとモイケル娘の4人で東北を回ったこと
がある。

その折に、彼が気を利かしてか、四半世紀以上も帰っていないわたしの故郷、
弘前立ち寄ろうと言い出し、一晩宿に泊まったことがある。
   
ホームから駅舎を出て駅前に降り立った時には度肝を抜かれてしまった。
駅舎も駅前も、なにもかもが新しく計画建築され、様子はすっかり変わって
しまって、まるで見知らぬ町に足を踏み入れた気がしたものだ。
それもそのはずであろう、わたしが故郷を出たのは札幌放浪の19の春、以来、
盆正月も両親に顔を見せることもせず、帰郷したのはポ国に来るまでに、たっ
た2度ほど。30年近く帰郷していなかったのだから・・・

しかし、故郷を思うとき、わたしは、今でもこの歌にあるように、心の中の
東北の田舎の小さな駅に降り立って入っていくのだ。
パパもママもとうに鬼籍に入り、もう迎えてくれるわけではないが、この歌を
口ずさむとき、わたしはセンチメンタルになり、二番目の歌詞で自ら書いた
ように、「まぶたを閉じれば浮かんでくるわ」なのである。

今年、2004年10月、2年ほど前に亡くなった母の法要代わりに、弘前に
住む親戚へのあいさつ回りで、妹夫婦と車で帰郷してきた。
たまたま2泊3日のその一夜が、高校の「一期会」との知らせを京都に住む
同窓生から聞き、わたしは「舞踏会の手帖」をほどくごとく、やおら出席を
決した。

   参照:「舞踏会の手帳」(1938年の映画) 
    夫に先立たれた女主人、クリスティーヌが古い荷物の
    中から出てきた一冊の手帖を見つける。
    それは彼女が初めて社交界にデビューした夜の、
    舞踏の相手の名を記しておく手帖だった。
    思い出が泉のように心に染み広がり、ふとこの舞踏会の
    相手を一人一人訪ねてみようとする。今その人たちは
    どうしているだろう・・・
    その「舞踏会の手帖」を頼りにかつての相手を
    訪ねて行く、と言うようなお話なのですが・・・
        (猪俣勝人著:世界映画名作全史引用)

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2008年8月8日

夫の今夏休暇の半分は7月後半で終わり、わたしたち夫婦は今、
ふたりとも毎朝先になったり後になったりの出勤である。

後に家を出る方が、まずは5匹の猫の数を確認(笑)、それから
キチン・ヒーターが消えているのを見届けて出かける。
出がけに猫の数を数えるのは、万が一ワードローブ(洋服ダンス)
の中にでも入っていたり(ぶら下がってる洋服をひっかかれる)、
ベランダに締め出されたりしていたら、(階下に落っこちて探すのに
苦労する)帰宅後、顔を真っ青にしなければならなくなるからである。

そんなことを確認しながら、今朝、
「あ~ぁ、今日でやっとこの仕事の3分の1、終わりになるぅ^^
毎朝、仕事に出るというのは、ほんまに大変だわね。昔、自分が
これをしていたなんてまるで嘘みたい。」
と言うと、ニタッと笑った夫、こう言う。
「3分の1終わるって、4分の1じゃない?」
え?え~~@@

思わず台所に掛けてあるカレンダーの下へ走った!
うげ!3週間の集中コースとなぜかすっかり思い込んでいたが、
4週間ではないか!どこでどう勘違いしてしまったのだろうと、相変
わらずのおトンマなspacesisであります。

まだ3週間あるんか・・・・と、思わずため息(笑)
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