2016年8月15日 終戦記念日:忘れてしまったもの

今日は71回目の終戦記念日です。世界のどこかでまだ戦争が行われているという悲しい事実はあるのですが、終戦後に生まれ育ち、少なくとも今、戦争がない国に住んでいる自分の幸運を噛み締めています。
この幸せは、過去の歴史で命を落とした人たちの犠牲に立っているものだと、わたしは思っています。

そして、8月になるといつも思い出される話があります。2007年に産経新聞の「やばいぞ日本」で紹介された終戦直後のアメリカ人による体験談です。記事をプリントアウトしていますので、自身のための戒めとして今日はその記事を二つ載せたいと思います。長文になりますが読んでいただけたらと思います。

【忘れてしまったもの】靴磨きの少年・一片のパン、幼いマリコに

81歳、進駐軍兵士だった元ハワイ州知事、ジョージ・アリヨシ氏から手紙(英文)が、記者の手元に届いたのは今年10月中旬だった。親殺し、子殺し、数々の不正や偽装が伝えられる中、元知事の訴えは、「義理、恩、おかげさま、国のために」、日本人がもう一度思いをはせてほしいというものだった。終戦直後に出会った少年がみせた日本人の心が今も、アリヨシ氏の胸に刻まれているからだ。
 
手紙によると、陸軍に入隊したばかりのアリヨシ氏は1945年秋、初めて東京の土を踏んだ。丸の内の旧郵船ビルを兵舎にしていた彼が最初に出会った日本人は、靴を磨いてれくれた7歳の少年だった。言葉を交わすうち、少年が両親を失い、妹と二人で過酷な時代を生きていかねばならないことを知った。
 
東京は焼け野原だった。その年は大凶作で、1000万人の日本人が餓死するといわれていた。少年は背筋を伸ばし、しっかりと受け答えしていたが、空腹の様子は隠しようもなかった。

彼は兵舎に戻り、食事に出されたパンにバターとジャムを塗るとナプキンで包んだ。持ち出しは禁じられていた。だが、彼はすぐさま少年のところにとって返し、包みを渡した。少年は「ありがとうございます」と言い、包みを箱に入れた。
 
彼は少年に、なぜ箱にしまったのか、おなかはすいていないのかと尋ねた。少年は「おなかはすいています」といい、「3歳のマリコが家で待っています。一緒に食べたいんです」といった。アリヨシ氏は手紙にこのときのことをつづった。「この7歳のおなかをすかせた少年が、3歳の妹のマリコとわずか一片のパンを分かち合おうとしたことに深く感動した」と。
 
彼はこのあとも、ハワイ出身の仲間とともに少年を手助けした。しかし、日本には2ヵ月しかいなかった。再入隊せず、本国で法律を学ぶことを選んだからだ。そして、1974年、日系入として初めてハワイ州知事に就任した。

のち、アリヨシ氏は日本に旅行するたび、この少年のその後の人生を心配した。メディアとともに消息を探したが、見つからなかった。「妹の名前がマリコであることは覚えていたが、靴磨きの少年の名前は知らなかった。私は彼に会いたかった」
 
記者がハワイ在住のアリヨシ氏に手紙を書いたのは先月、大阪防衛協会が発行した機関紙「まもり」のコラムを見たからだ。筆者は少年と同年齢の蛯原康治同協会事務局長(70)。五百旗頭真防衛大学校長が4月の講演で、元知事と少年の交流を紹介した。

それを聞いた蛯原氏は「毅然とした日本人の存在を知ってもらいたかったため」と語った。記者は経緯を確認したかった。
 
アリヨシ氏の手紙は「荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概と心情を思いだす。それは『国のために』という日本国民の精神と犠牲を象徴するものだ」と記されていた。今を生きる日本人へのメッセージが最後にしたためられていた。
 
「幾星霜が過ぎ、日本は変わった。今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。ほとんどの人びとは、両親や祖父母が新しい日本を作るために払った努力と犠牲のことを知らない。すべてのことは容易に手に入る。そうした人たちは今こそ、7歳の靴磨きの少年の家族や国を思う気概と苦闘をもう一度考えるべきである。義理、責任、恩、おかげさまで、という言葉が思い浮かぶ」

凛とした日本人たれ。父母が福岡県豊前市出身だった有吉氏の“祖国”への思いが凝縮されていた。

焼き場の少年

終戦直後、米海軍カメラマンのジョー・オダネル氏(今年=2007年8月、85歳で死去)の心を揺さぶったのも、靴磨きの少年と似た年回りの「焼き場の少年」であった。(この物語は日本の中学生の国語教科書でも紹介されており、ポルト補習校時代に担当の子どもたちと学んだことがある)

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Wikiより

 原爆が投下された長崎市の浦上川周辺の焼き場で、少年は亡くなった弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待っている。素足が痛々しい。オダネル氏はその姿を1995年刊行の写真集「トランクの中の日本」(小学学館発行)でこう回想している。

 「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。(略)
 
少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足下の燃えさかる火の上に乗せた。
(略)
 私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。私はカメラのファインダーを通して涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った」
 
この写真は、今も見た人の心をとらえて離さない。フジテレビ系列の「写真物語」が先月映した「焼き場の少年」に対し、1週間で200件近くのメールが届いたことにもうかがえる。フジテレビによると、その内容はこうだった。

 「軽い気持ちでチャンネルを合わせたのですが、冒頭から心が締め付けられ号泣してしまいました」(30代主婦)、「精いっぱい生きるという一番大切なことを改めて教えてもらったような気がします」(20代男性)。
 
 1枚の写真からそれぞれがなにかを学び取っているようだ。オダネル氏は前記の写真集で、もう一つの日本人の物語を語っている。
 
激しい雨の真夜中、事務所で当直についていたオダネル氏の前に、若い女性が入ってきた。「ほっそりとした体はびしょぬれで、黒髪もべったりと頭にはりついていた。おじぎを繰り返しながら、私たちになにかしきり
に訴えていた。どうやら、どこかへ連れていこうとしているらしい」
 
それは踏切事故で10人の海兵隊員が死亡した凄惨な現場を教えるための命がけともいえる行動だった。オダネル氏は「あの夜、私を事故現場まで連れていった日本女性はそのまま姿を消した。彼女の名前も住所も知らない。一言のお礼さえ伝えられなかった」と述べている。
 
苦難にたじろがない、乏しさを分かつ、思いやり、無私、隣人愛・・・。こうして日本人は、敗戦に飢餓という未曾有の危機を乗り切ることができた。それは自らの努力と気概、そして米軍放出やララ(LARA、国際
NGO)救援物資などのためだった。
 
 当時、米国民の中には、今日はランチを食べたことにして、その費用を日本への募金にする人が少なくなかった。日本がララ物資の援助に感謝して、誰一人物資を横流しすることがないという外国特派員の報道が、援助の機運をさらに盛り上げたのだった。

 こうした苦しい時代の物語を、親から子、子から孫へともう一度語り継ぐことが、今の社会に広がる病巣を少しでも食い止めることになる。(中静敬一郎)

2007.11.06産経新聞「やばいぞ日本」より
                                     
本日はこれにて。
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2016年6月3日 

6月4日、5日のポルトガルグッズ・イヴェントです。最寄の方、興味のある方はどうぞ!

~ペンギン翻訳特別企画~

【東のポルト屋】限定オープン!

8.jpg


ペンギン翻訳オフィスオープン記念特別企画として、
ポルトガルアイテムプチ販売会を行います。

並ぶのはどれも現地で買いつけた一点もの。
日本では手に入らない、ユニークでカラフルなポルトガルならではの
デザインは、手に取った人を笑顔にします。

当日はポルトガル生まれポルトガル育ちの買い付け担当スタッフも
おりますので、商品にまつわるエピソードも詳しく聞けるかも?

会場となるオフィスは、東京駅から約20分、豊かな自然に囲まれ、
永井荷風、幸田露伴や北原白秋などの文人が好んで住んだという
歴史ある街、市川に位置しています。

広々としたフラワーガーデンや美術館、おしゃれな商店街や古刹など、
たくさんのお散歩スポット、こだわりの雑貨屋さん、おいしい飲食店などが
集まっていますので、休日のお散歩がてら、ぶらりとお立ち寄りください。

[東のポルト屋]
●日時: 6月4日(土) 12:00~18:0
   5日(日)12:00~17:00
    (販売アイテムがなくなり次第終了となります。)
●会場:ペンギン翻訳
  千葉県市川市真間1-15-21真間ビル401
※JR市川駅から徒歩5分、京成市川真間駅から徒歩1分。
  和菓子屋「市川ちもと」の道路を挟んで向かいのビルになります。
  一階に「第一クリニック」の表記があります。
※入り口階段の上り下りにご注意ください。
お問い合わせ:info@penguin-translation.com
          http://www.penguin-translation.com/       
  (明快・クリエイティブな英日仏翻訳を提供するペンギン翻訳)

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2016年4月21日

更新もすっかり無沙汰をしてしまい、何度か拙ブログを訪れていた方がおりましたら、お詫びいたします。

4週間ほど前から、日本に滞在しておりますが、ご存知のように、九州熊本は先週来、多大の地震の被害をこうむっており、日本滞在のわたしの方には、「大丈夫か」と、ポルトガルの心配してくれる知人たちから連絡が入っております。

当方、東京近郊に滞在していますので、直接的な影響はなく、相変わらずせわしくで出歩いていますので、どうぞご安心ください。

今回の日本帰国は、娘の婚約がために、相手の方のご両親への挨拶が主要でしたが、それも無事済み、明日、夜にはポルトに向けて羽田空港を発ちます。

日本滞在記はポルト帰国後、ポルトガル情報と併せて、ぼちぼち記事にしてして行こうと思っております。

それでは、みなさま、次回の更新はポルトからになりますが、今後もどうぞよろしくお願いいたします!

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2016年3月15日 

日々、思うことはあれど、以前していたようにそれを整理してブログにしたためる時間がないのが残念です。忙しくて、ポルトデジカメ探検もさっぱり行っておらないのであります。

しかし、このところ、自分が今まで思っていた日本とあまりにも隔たりがあるようなニュースに度々出会うもので、実は困惑気味なのです。世代が、時代が違うと言って片付けてしまうには危うすぎる問題ではないでしょうか。

そのひとつが、「保育園落ちた、日本死ね」ツィッターです。

そもそものきっかけは、政府が「輝く女性」「1億総活躍社会」を持ち出し女性の社会進出を煽ったからだ、という意見もみられますが、働けと言われたから働くのか?輝けと言われたから輝くのか?と、あまりにも大人気ない騒ぎように、めまいを起こしそうな気分なのです。

1億総活躍というのは、なにも老若男女、外へ出て働くことだけではないとわたしは思っています。自分の持ち場で責任を持ってなすべきことを成就するように努力することではないでしょうか。「保育園は入れなかった、連鎖で仕事を辞めなければならなくなった、政府よ、どうしてくれる、1億総活躍を言ったのはそっちではないか、国が子供産ませないでどうする」では、子供を産んだり育てたりする責任はいったいどこにあるのでしょう。

少子化だからと言われ、本当に国のために子供を産んであげたんだ、20万よこせだなんて、おいおい、ちょっと待ってくださいよ。

これは女性のツィッターだと言われていすが、そうだとしたら、残念ながらこのツィッター主にわたしは子供への愛情や、自分が母親になったという思いが感じられないのです。反現政権のプロパガンダかも知れないとの思いを、わたしは頭から完全に払いのけることができないでいるのですが、それなら、ここで取り上げること事態、無意味になります。

が、そうでないと言う仮定で話をすすめます。
個人的な意見ですが、経済的に苦労があっても、できれば子供は4歳くらいまでは母親が手元に置いて育てるほうにわたしは同意します。

この時期は、わが子の成長を日々目の辺りにする喜びがあります。寝たままでいた赤ん坊がやがて歩き始めるまでの過程を見るのは大きな喜びです。言わずもがなですが、こんな喜びを見出せるのは、もう二度とないのです。

どうしても共稼ぎをしないと生活が成り立たない、どうしてもキャリアを積みたいというのなら別ですが、二人のうち、どちらか一人の収入でなんとかやりくりできるのであれば、わたしなら過去にしてきたように、もう一度、そちらをとります。

子供を育てることは、自分の再教育にもつながるような気がします。忍耐力を学びます。子育てはロングランです。わたしの場合は母親を必要とする時期に、自分の持てる時間を全てを子育てに費やしようと腹を括ったのですが、ふとある日、自分が子育てを大いに楽しんでいることに気がつきました。

子供が眠っている時間は、それまでしたこともない編み物を独学したり、すきな木彫をしたり。そうそう、
おむつは、洗剤でかぶれるのを防ぐために、なんどもなんどもすすいで全て手洗いでした。一人で外出など、できたものではありませんでした。それでも、気にならなかったのです。子育てはわたし自身を大いに成長に導いてくれた感があります。

日本語教室で結構忙しくしている昨今ですが、言うなれば63歳を過ぎてからのキャリアです。
人それぞれ、生き方が違いますが、子供がある程度成長して、あまり手がかからなくなった時から
始められる仕事もあるのです。

世代の違いと嫁姑の確執に心労した3世代の共同生活から核家族生活が当たり前になった現代社会ですが、どちらにも長短があることを知ったわたしたちは、全て自分の望むように物事は運ばないということを学ばなければなりません。

どのようにするかは個人個人の選択になりますが、自己責任を忘れてはいけないでしょう。子供は自分が、自分たちが育てるのです。そして、その自己責任と選択は、子供と自分の将来に必ずつながるとわたしは思っています。

件のツィッター主は保育園に入れない場合を想定して、別の選択技を考慮したのでしょうか。入るのが難しいという実感がなかったのでしょうか。保育所増築には国や市がしようとしても思うようにはかどらない他の問題、たとえば、建築する地域住民の、子供の声がうるさいという反対、保育士の確保が難しいなどもあるようです。いたずらに「日本死ね」はダメでしょう。


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2016年1月17日 

新春から始まったNHK大河ドラマ「真田丸」第一話を見ましたが、久しぶりに心がうきうきしました。

真田丸って船?と一瞬思ったものの、待てよ、だって、真田一族は信濃の国に城を築いたわけであるから、船というのでは話が合わないと思い、早速調べてみますと、大阪冬の陣のときに、豊臣方についた真田幸村が徳川方の攻撃を防ぐために大阪城の南方に築いた半円型の城とは呼び難い「出城」なのだそうです。

(追加:このエントリーを書いた後で、真田丸を取り上げたNHK番組ヒストリアを見た結果、俗に言われてきた半円型ではなくて、四角だったをの説が有力だそうです。その作戦や、思わずほぉ!と膝も叩かんばかりに喜んだわたしでした)


fuyunojin.jpg
大阪冬の陣図。赤丸が真田丸、青丸が大阪城(Wikiより)

この真田丸により、徳川軍は散々な目にあったと言われますが、大阪玉造周辺が真田丸跡になり、幸村は大阪城と玉造の三光神社をつなぐ抜け道を作ったとの言い伝えもあるとのことで、にわか、大阪城がらみの歴史が面白くなりました。

sankojinja.jpg
(Wikiより)

歴史ミステリーはわたしの好きなところですが、この抜け穴の話は、以前読んだ万城目学のミステリー「プリンセス・トヨトミ」にも出てきます。現代を舞台にした物語ですが、豊臣家の子孫を守る「真田家」子孫も出てくるゆえ、もう一度、このフィクション本を読み返してみようと思っているところです。「プリンセス・トヨトミ」は映画化されているとのこと、興味のある方は、ネットで検索してみてください。

ドラマ「真田丸」の面白さは、主演男優、堺雅人さんにもあるかと思います。彼の作品の順序はしりませんが、ドラマ「半沢直樹」「リーガル・ハイ」「大奥」と、こなしてる役柄があまりにも違いすぎ、この役者さんにはいつもドッキリさせられるのですが、今回はその彼がどんな幸村を演じてくれるか。また、猿飛佐助(第一話で既に登場)、霧隠才蔵などの真田十勇士の登場も待たれ、久しぶりに楽しみにしている時代劇です。

このような戦国ドラマは、現代のようにツールをふんだんに使った遊びがなかった昭和20年代、女だてらにもっぱらチャンバラごっこに明け暮れたわたしの子供時代を懐かしく思い出させます。
以下、過去ログですが、どぞ。

「思い出のバスに乗って(1)赤胴鈴之助

「オリャー!」 「ッとー!」
「え~い、ちょ、ちょこざいな小僧め。名を、名をなのれぇ!」(大人の声)
「あかどうー、鈴之助だ!」(と、元気な少年の声)

ここから主題曲が
♪剣をとっては日本一の 夢は大きな少年剣士
  親はいないが元気な笑顔弱いものには味方する  
  お!がんばれ強いぞ 
  僕らの仲間 赤胴鈴之助

と、始まります。
みなさんはご存知ないでしょうねぇ(笑) 

幼い頃を青森県は弘前の下町で過ごしたわたしは、何を隠そう、近所のガキ大将だったのでした。
学校が退けて家へ帰り、することはと言えば、宿題などほとんどなかった、いやしなかったあの頃です。
よって、夕方まで子供達は外で遊びほうけることができたのでした。

テレビは当然なかった時代ですから、もっぱら自然を相手のちっともお金のかからない遊びばかりでした。その最たるものが、チャンバラごっこ。チャンバラと言っても、木刀とか竹刀とかそんな上等なものを持つのではなくてちょっと長めの棒っきれをその辺から探し出して来ては振り回すんです。

当時は今では無くなってしまった「東映」時代劇の最盛期で、片岡千恵蔵、市川右太衛門、大河内伝次郎、月形龍之介、東千代之助、中村錦之助(後の萬屋錦之助)、大川橋蔵、大友柳太郎、などの花形スターの黄金時代で、名を挙げていけばきりがない。そうそう、美空ひばりさんを忘れてはいけません。ひばりさんはよく男役を演じており、そのカッコよさにわたしは随分と憧れたものです。

机龍之介の必殺技音無しの構えや眠狂四郎の円月殺法の剣法を見よう見まねでカッコつけしてみたのもこの子供の頃で、チャンバラには本当に、今風に言えば「ハマッタ」ものでした。
あの頃近所ではわたしを打ち負かす子はおらんかったです。

ところがです、これがあぁた、学校へ行きますと押し黙った貝です。ひと学期に一回もしゃべらなかったとか、一度も手を挙げなかった、とかそういうことが、通信簿に書かれてきますねん。
言うなれば、究極の内弁慶だったわけですね。

冒頭に掲げた節、これは当時のNHKラジオドラマ、「赤胴鈴之助」の毎回のプロローグなのです。毎夕方6時から15分間(だったと思う)、子供達は各家庭のラジオの前に集まって、時には手に汗握りながら、また時には主人公と情を同じくして悔しさを噛みしめながら、ラジオから流れてくる朗読に耳を傾けます。

こうして聴いたラジオドラマは今でもわたしの心に残っています。この「赤胴鈴之助」のみならず、「紅孔雀」「黄金孔雀城」「オテナの塔」「ああ、無情」そして、これまた大好きだった「怪人二十面相」。

わっはっはっは。これじゃぁ、すっかりおん歳がバレちまいます。

怪人二十面相にいたっては、ドラマを真似て、ご近所の子供たち、手下どもを集めては「下町少年探偵団」なるものまで結成したお調子ものではありました。

子供の世界とは言え、犬や猫にあるのと同様、それぞれ子供グループの縄張りがあるのでして、その縄張りを侵す危険までして探検した「下町少年探偵団」!これはスリル満点の遊びでした。

視覚に訴える現代の映像教育は、たしかにわたしたちをあたかもその場にいるかのような錯覚を与え、リアリティに富みます。教育現場、家庭などでも視覚教育が取り上げられてから久しい。
しかし、テレビのなかったわたしの幼い頃、子供達はラジオで朗読を聴き、自分の想像を拡げていったように思います。

それは、テレビをひねれば、電源を入れれば、自ずと映像が目に脳に入ってくると言うような受動的なものではなく、自らが想像で創りだす能動的な世界でした。

映像のなかった時代の方が、わたしには遥かに想像力、かつ創造力を拡げることができたような気がしてしまうのは不思議なことです。

思い出のバスに乗って
黄色い帽子の子が走ってくる
人差し指の 向こうの坂道  
(詠み人知らず。遠い昔の友人の作ではなかったかと思うが)

わたしは、今でも時折、こうして遥かな過ぎ越しの時間を思って、この歌が詠むように思い出のバスにヒョイと乗ってみます。思い出の坂道の向こうには、父母が、祖母が、大所帯で一緒に住んだ叔父叔母が、従兄弟たちが、そして、下町少年探偵団がニコッと笑っているのが見える気がするのです。

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