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2018年8月4日 

つい先週まで、涼しい涼しいと言っていたのが、8月に入るなり急に気温があがり、屋外では生ぬるい空気が澱んで、ポルトガルの自慢の真っ青な空もどこへ行ったやら、空気同様、どろ~んとしております。

今朝のポルトは午前8時台で気温25度。日中はそれを上回りますから35度くらいになる予測です。夏のポルトガルは乾燥気候なので、日本のような湿気がありません。それで、気温が高くてもクーラーなしでなんとかやり過ごせるのです。

しかし、35度を超えた昨日は、さすが厳しかった。ベランダのガラス戸を開けるとワッと熱気が押し寄せ、これは覚悟をしないと、というので、まだ30度を越えないうちに植物の水遣りを済ませ、リビングと台所を除き、部屋は全部ブラインダーを下ろして、リビングのクーラーを付けてドアは開け放し。こうすると、冷たい空気が家全体に流れます。この方法は、乾燥気候であればこそで、湿気の多い日本だと熱気が屋内にこもり大変なことになるのではないかと思います。

さて、日は少し古い話を持ち出します。
ポルトに来て40年になるわたしですが、子供達が中学校を終えるころまでは、生活の中心は彼らでした。

家で二人ほどの日本語学習者はとっていましたが、子供が学校に行っている時間帯です。また土曜日の補習校の講師の仕事の依頼が来た頃は、息子はちょうど就学年齢でいっしょに登校しましたが、我がモイケル娘はまだ1歳未満で、土曜日は夫に彼女の面倒をバトンタッチして補習校にでかけたものです。

20メートル離れた同じ通りに夫の母親がいたものの、子どもはわたしたち夫婦で育てようと思っていたもので、極力、義母に世話のお願いはしないようにしていました。

子育て期間中、したいことがなかったわけではありませんが、「それを犠牲にして」なんて気持ちは毛頭ない。わたしは子育て時代に、子育てする事によって自分自身が育てられたと言った方が適切。(笑)過言ではないです。
       
子供達の学校生活を通じて経験したことですが、日本という異文化には、みなさん多少の興味を示します。
                                    
ところがです、その母親のわたしときたら、日本にいた若い時代は目を外へ向けるばかり。少し反骨精神を持ってましたから、それを振り回して、いわゆる日本社会の常識ごときものは、伝統文化から習慣までうっちゃってしまい、「ヘッ!そんなもん」くらいに思っていたのです。
                                           
これがです、こちらでの生活が長くなっていくに連れて、このままでは、どうもいけないぞと感じるようなことが多々出てきたのです。
                                          
例えば、こんな具合のリクエストが舞い込みます。

「日本の伝統文化を紹介してもらえないか」  
(↑しょ、紹介できるもんは折り紙の鶴くらいしかおまへん^;紙風船もだまし船も本を見ないとできない・・・^^;お茶?お花?とんでもない!木彫家で我が親友のMichikoが両方とも教える免状を持って現在もお弟子さんを取っているので、話を聞いていますが、人様の前で紹介できるまで行くには、何年もの修業と多額なお金がかかるざますよ。都会での女一人暮らしの身でお月謝支払いができるわけがございませんでした)

「着物を着て結婚式に来てくれないか」         
(↑来たあぁぁ!せめて母に着付けを教えてもらって着物を受け取るんだった。着物があるにはあるが、一人で着たことがないでぇ。はい、誰も知らぬをいいことに、勝手気ままに着ていきました。後日そのときの写真を母に送りましたら、「なんという着方をしとるの!」と叱られ笑われました。
                                   
「その理由も含めて、日本はどういう新年の迎え方をするのか」
(↑これ、その当時は当然パソコンなど持っていませんでしたから、手持ちの日本文化の大雑把な説明が書いてある英語の本まで読み漁って勉強する羽目になりましたぞ。逆だっちゅうのよ^^;)
                                               
「日本人はこういうときに、なぜこのような行動をとるのか」
(↑これは、背景となる日本文化の知識がないと説明するに歯がたちません。一般論でいいますが、
「~~~だからだとわたしは思います」で結びます。逃げ道を一応つけるなんて、ずるい(笑)
                                        
リクエストでぬぬ?と思ったのには「国歌を歌って録音して欲しい。紹介したいから」というもの(笑)
伴奏なしで大きな声で歌って録音しましたです、はいw(←これはどこぞの学校の要望でした)

つまり、日本人である個人のわたしを通じて、日本、日本人を知りたい、となるのです。 いい加減なわたしも、これらには、びびって考えさせられました。海外で生活すると言うのは、勿論一般の日本人としては、非常に個人的なことなのですが、外国の人たちは個個の日本人としてよりも、その人を日本人全体の姿と見るような気がします。

ポルトガルに住むことがなかったら、わたしは相変わらず自分の国の文化に大して興味ももたず、調べもしないでいたかも知れません。日本では普段の生活でその必要性を感じる機会が少ないですから。
                              
また、こういう経験も度々ありました。
自分の国のあれも悪い、これも悪いと欠点を揚げ連らねていたのが、いざ、他国の人達が一緒になって、「そうだそうだ」と攻撃し始めると、自分が言っていたのは棚に上げて、「あんたに言われたくないわ!」と俄然腹が立ってくるのですね(笑)
       
母国の外にいて、つくづく感じます。良い所も悪い所も「オラが国」。

今日こんなことを綴ったのは、近年自分の国を公の場であしざまに言う人たちが結構いるのを毎日のようにニュースを通じて目にし、君ら、本当にそれでいいのか!と、思うところがあったからです。

ま、わたしごときが何を言おうとどうと言うことはないのでしょうが、発言の権利自由があるからとて、故意に言葉尻をとらえては、忌まわしい言葉で言いがかりをつける近頃の学歴ある人たちに、品位も感じられず、大きな失望感を味わっているのです。

これは酷暑のせいでありますように、なんまんだぁ。

本日は愚痴の類になりました。暑さゆえにとご勘弁の程を。
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2018年7月12日 

インターネットが広く普及した今日、わたしたちはその気になれば、これまでの歴史、特に現代史に関して、おびただしい情報を手に入れることができます。それらを情報源にして、望むならば更なる詳細を論説する著書をあれこれ読むこともできます。

わたしは、日本に住んでいる場合もそうですが、特に海外に住む日本人としては、現代史について出来る限りたくさんの情報を手繰り、それを自分で再分析しておく必要があると思います。押し付けられた一方的な歴史観を鵜呑みにするほど愚なものはないと考えるのです。

歴史は、緻密な一枚の織物のようだと思います。しかも、見る方角によって、その色合いや光沢を変える織物です。種々の事情、状況が絡み合い、わたし達が目にするのは出来上がった一枚の布です。

その布を織り成す、一筋一筋の糸を引きほどいていかないと真実に近いものは見えません。「真実に近いもの」とわたしが言うのは、世界の多くの出来事の真実は多様であるように思われるからです。

祖国は、母国、そしてまた、とても僭越な言い方ではあるけれど、わたしたちの子孫に及んでいく、言わば、我が子のようなものではないかと、思ったりします。 どのような過ちを犯そうとも、親は我が子を見放したり、けなしたり、人の言うなりにさせるばかりではないでしょう。

子のために、なんとかしたいと努力するのが心ではないでしょうか。昨今の母国を見ていると、我が子が、自分の国が可愛くはないのか、と暗澹たる気持ちになります。

国会議員、官僚、大学教授、社会的に高い地位にある人等々、仮にも高等教育を受けたであろう人々の嘘があまりに世にはびこるのを見るにつけ、また、国会の質疑に於ける非常に失敬なもの言い、街頭演説では口汚く人を罵るなど、とても文化人のすることとは思えない人を多く目にし、ニュース類を読むのも苦しくなるような近頃の日本です。

こういう人たちに窺える特長は、「アベガー」族です。安倍が安部がと何でも人のせい、現政権のせいで、昔よく言われた「郵便ポストが赤いのも、みんな安倍が悪いのよ」です。自分たちのことは棚に上げ(https://snjpn.net/archives/58745)、相手を引き摺り下ろすためなら、いかなる手段でも使おうとします。卑しい根性ではありませんか。

今回も西日本豪雨による被害者救助のため、与野党一致団結ではなくて、あげくは現政権不信任案を提出しようかと、まるで火事泥棒の如き稚拙な政治手法には開いた口もふさがりません。

こういうことも、わたしたちの子孫が目にするであろう、教わるであろう歴史という一枚の布を織り成す一筋の糸として混じることをしかと見ておくのは大切なことです。

現政権の政策、全てに賛成するわけではありませんが、予党の一部もそうですが、特に野党のあまりの質の低さに、日本の将来に不安を感じるわたしです。
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2018年6月7日 

2300年ほど前の中国戦国時代、盧生(ろせい)と言う青年が、人生の迷いを晴らしたいがため、楚の国、羊蹄山の聖者に会わんと遥か旅をして、趙(ちょう)の国の都、邯鄲(かんたん)に宿を求める。 宿のおかみが出してくれた枕で昼寝をするうちに、盧生は出世し、その内、冤罪で投獄され、疑いが晴れ、やがて栄華を極め、楚の帝となる。子にも恵まれ、50年を過ごし、ついに年老いて死を迎える夢を見る。

覚めてみると、寝る前に仕掛けられた宿の粟粥が、まだやっと炊きあがろうとしているところだった。盧生は、人生は束の間の夢だと悟り、故郷へ帰っていく。

これは中国の故事のひとつで、「邯鄲の枕」とも呼ばれ、日本では能の演目のひとつとされる。故事では宿のおかみが、仙人になっている。ちなみに「邯鄲」は小さいコオロギをも意味し、中国では「天鈴」と呼ぶと言う。

この話を知ったのは数年前の、とある本でだが、読後わたしはこの歌を思い浮かべたのだった。

Row, row, row your boat,
Gently down the stream.
Merrily, merrily, merrily, merrily,
Life is but a dream.

英語を習い始めに、誰もが耳にする子供の歌だが、これがメタファー(隠喩)だと気付いたのは大人になってからだ。 Boatはわたしたちの人生を指し、 Streamはわたしたちが逆らうことのできない時間の流れである。最後の「Life is but a dream」は他説もあるが、わたしは「人生は束の間の夢のように短いものなのだ」と思っている。

上述の盧生が、人生は束の間だと悟り帰郷したのをなるほどと頷けるたは、わたしも60半ばの齢を既に越していたからであろう。盧生のように人生を悟り、故郷へ戻ると言うのは、若い者には似合うまい。人生に迷いあり、夢あってこそ若さだと。故事に異を唱えるつもりは決してないが、若いうちに人生を悟ってしまうのは面白くないような気がする。

と、こんな長い前書きと故事まで引き出してしまったが、わたしは時折、記憶を辿って昭和の子供時代をブログに綴ったりしている。、それは今日まで前へ前へとなりふり構わず生きて来たから、あちこちに置き忘れて来たものを、今になって懐かしく思い出し、記憶の糸を探って手に取って眺めてみたい気持ちがある。

この春日本へ帰国した際、3年ぶりに妹夫婦と車で東北自動車道路を走って弘前へ帰郷してきた。行きが9時間、帰路が12時間の旅だっ^^; 義弟も弘前出身である。故郷を後にして半世紀が経とうとするが、その間、わたしが訪れたのは数えるほどで、それもここ、数年のことである。ある年まで36年近くも故郷にまともに足を踏み入れることがなかったのだった。

9人兄弟だった母の兄弟もみな鬼籍に入り、いとこたちとの交流も途絶えてしまっていたのだが、今回はその途絶えてしまっていた弘前の親戚を訪れるための帰郷でもあった。

昨年の夏のことだが、月に1、2回の割りで国際電話で話す妹から珍しくメールが入った。

弘前に住む吉崎のおばさんからめったにない電話が来てどうしたのかと思ったら、おばさん曰く「Yukoの夢を見た。何かあったんじゃないか」と。

吉崎は9人兄弟であった亡き母の旧姓でおばは既に鬼籍に入って長い母の弟の連れ合いだ。妹の話を聞いてわたしは大笑いした。だって、わたしは古希ですよ。古希になって未だおばの夢に現れ心配をかけているとは!

そのおばに最後に会ったのはいつだったか、もう思い出せないほど歳月が経ってしまった。

「ポルトガルで元気でがんばっているから心配ないと言っておいた。それでね、来年は二人で会いに行くと約束したよ。5月のこの日から3日間、弘前のホテルの予約ももうしたからね。」 こうして今年の帰国日程は決まったのであった。

さて、3泊4日の帰郷だったが、着いたその日の午後、ホテルの部屋に荷物を置き、顔を洗ってすぐ吉崎家へ向かった。千城おじも(おじの名前で「ちしろ」と読む)生きていたなら、きっと喜んでくれたであろう。わたしは、おじ、おばたちからすれば、たくさんいる甥姪の中で一番年長にあたり、若い頃から女だというのにフラフラ落ち着かず、千城おじにもよく心配をかけたのであった。

「おじさん、ただいま」と、懐かしいおじの家の前にて心の中で挨拶する。

入ると、すっかり少し足元がおぼつかないおばが、双子の息子、そして娘の3人の子どもたちと共にわたしたちを迎えてくれた。従妹たちにまともに会ったのは、恐らくわたしは今回が初めてであろう。おばの顔は覚えているものの、従妹たちの顔はほとんど記憶にないのである。
しかし、千城おじの面影をしっかり宿している従妹たちであった。わたしたちの訪問のために集まってくれたようで、話は尽きず。

しばらくすると、従妹の一人が「腰と足の指、大丈夫?」と聞くではないか。「え?え?なぁ~んでそんなこと、知ってるの?」と、キョトンのわたしに言う。「ブログ、読んでる」 えーーー!己の粗忽なんがチョンばれジャン!てへへへ。

ふと、千城おじが我が母校弘前南高校のPTA会長をしたことがあるとの話を昔聞いたのを、これを書きながら今思い出した。さすれば、従妹たちは我が後輩ということだ(笑) 千城おじがかつて、わたしの土産としてくれた「伊奈かっぺい」さんのライブテープと著書がきっかけで、わたしはあらためて、かっぺいさんが同窓生であること、そして、津軽弁の面白さを彼の語り口から再認識したのであった。

2005年の帰郷時には彼に会っており、その時のことは下記に記している。
津軽行・かっぺいさんと同窓生たちと校長先生

心配をかけたわたしが言うのもなんだが、家族に囲まれ大切にされているおばに会い、心温まる思いで親戚の家を後にしたわたしたちであった。

弘前の我が従妹よ、このブログを目にしていたら、おばを始め家族のみなさんによろしくお伝えのほどを! そして、本日、写真を併せてメールを送ったことを付け加えて。いつか、我がポルトの街を訪れる日を待っていますれば。

本日はこれにて。
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2018年5月28日 ハロ現象

今回の弘前訪問でのこと。
まだ名残りの桜が見られるやもしれぬと、妹夫婦と車で岩木山麓まで出かけた帰りのことです。

ところどころで咲いている桜を見かけはしたものの、山中でぽつりぽつりと咲く桜を目にするのは寂しいものだなぁと思いつつ、ふと車中から見上げた空に、あれ、にかけらか?

虹 ハロ現象と環水平アーク

見ると、これまで見たアーチ型とは反対の凹型ので、一瞬、え?と思ったものだが、窓から身を乗り出して上空を見上げて、あっと驚く。

虹 ハロ現象と環水平アーク

なんと、二重のでしかも太陽を取り囲んでいます。太陽の周りの虹、つまり光の輪は「ハロ現象」と呼ばれるそうで、わたしは初めてなのですが、とても珍しいというものではないとのこと。しかし、今回はその輪の下にもう一つ見られる虹は「環水平アーク」と言い、 この二つの現象が同時に現れるのは非常に珍しいのだそうです。

ハロ現象だけをとらえてみました。神秘的です。まるで天使でも飛んでいるかのような錯覚に陥りました。

虹 ハロ現象と環水平アーク

虹 ハロ現象と環水平アーク

「車、止めてとめて!」と同乗していた妹夫婦に告げ車外に出てカメラのシャッターを切り騒いでいたのはわたしたちだけで、周囲のリンゴ園や農家は気もつかず、のんびりした光景でした。ringoen1-1.jpg

珍しい現象に興奮冷めやらず、空を見上げてはしばし息を呑むような思いで感動していたのでした。

虹 ハロ現象と環水平アーク

古代の中国人は虹を「天上に住む巨大な虫」だと考えたと、読んだことがあります。巨大な虫とは龍を意味します。雄を虹(コウ)、雌を霓(ゲイ)と言い、二重の虹は「虹霓(コウゲイ)」。今回わたしが見たのは、さすづめ天上の龍の「コウゲイ」と呼べるのでしょうか。

「虹」の漢字にどうして「虫扁」がつくのか、なるほどと分かったものです。 虹を良き事の予兆と思っている人が多い現代ですが、古代の中国では虹は不吉の前兆とされていました。

この記事を書くにあたりネット検索してみると、5月7日に青森近辺にこの珍しい二つの現象が見られたとが話題になっていたようです。ハロ現象は下り天気のサインだそうですが、環水平アークは地震の予兆とも言われ、東日本大震災、小笠原沖地震にも見られたとのことで、古代の人たちに不吉の前兆だと信じられていたのには、それなりの理由があったことになります。

この世にあらざるような美しいものは、時にわたしたちに不安を与え裏切ったりすることがあるゆえ、見た見たと喜んでばかりもいられないのかも知れません。

では、みなさま、また。
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2018年5月15日

一ヵ月の休暇も終わり、今晩ポルトに夜間飛行で逆帰国です。

滞在中の後半は故郷弘前行きと我がモイケル娘の祝い事とで
少し忙しかったのですが、それについてはポルトから発信いたします。

何度か拙ブログを訪問なさった方には記事更新が思うようにでき
なかったことをお詫びいたします。

次回は再びポルトより発信いたしますので、今後ともどうぞよろしく
お願いいたします。

それでは、また!
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