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2020年6月15日 

本日の記事は、自分のメモにしておきたいと思い、書いております。

元モンシーク修道院がどんなホテルに変貌したのか知りたくて、行ってきました。
ドウロ川沿いに面した四つ星Neya ホテル です。もともと修道院は斜面に建てられており、spれを利用して恐らくどの部屋からもドウロ川の景観が望めると思われます。

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さて、それでは坂道の突き当りCalçada de Monchiqueにある部分はどうなったのか。

cidade11_1.jpg

むむ。依然と同じ状態のようです。

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が、鉄柵は少しきれいになっています。そして、

以前は閉じられていたアーチ上のサンタ・マリア像が置かれている窓も修繕され、像そのものがきれいになっています。下が10年ほど前にわたしが撮った画像です。アーチの向こう側も緑が見られ、人の手が入っている気配がします。
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10年前の撮影
monchique3.jpg

アーチの向こうはこうだったのです。
monchique2.jpg

ここの修繕はかなり時間を要することでしょう。ホテル側がそれをするかな?と疑問に思い、色々検索してみましたが、なかなかヒットせず。

ようやく、一件のブログの、「モンシーク修道院は二つに分断されて買われたとの情報にたどり着きました。一つがNayaホテル、もうひとつは修道院の教会を含む土地で、飼い主については言及されていませんが、現在修繕中なのだそうです。

そのブログ主とは、わたしがファンで、ポルトガル語のDias先生と読んでいるGerman Silva氏でした!武漢ウイルス拡大前までに、先生と読んでいたGerman Silva氏のポルト歴史本は3冊目でした。氏は古書を読んで紹介してくれるので、さすがだなと嬉しい思いでした。

修繕中のモンシーク教会の完成を目にすることができるや否や?と楽しみでもあり、少しの不安もあるわたしです。何しろ、歴史的建物の修繕には時間とお金がかかり、更にポルトガルのことですからね(笑)

お付き合いいただき、ありがとうございました。
では、また。

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2020年6月10日 

ポルトにある「モンシーク修道院=Convent de Madre Deus de Monchique)」を探しに行ったのは、かれこれ10年ほども前になります。

見捨てられて荒れ放題の修道院の建つ場所が現在ホテルになったというので、いったいどうなったのかと気になり、見てきたのですが、まず、以前あげた記事を再掲します。以下。


実はあまり人に知られていないポルトのモンシーク修道院。検索してもこのあたりにある、とは書いてあるのですが、はっきりした所在地が当時はネットでも見つかりませんでした。

そこで週に一度、わたしがポルトガル語のレッスンを受けているDias先生に、モンシーク修道院がどこにあるかとたずねてみました。

Dias先生はかつてポルトのロザリオ私立学校の高校部の先生で、我が子達のポルトガル語も見てくださった方です。10年ほど前に定年退職し、インターネットなどもしっかり勉強して、悠々自適の生活、話題が豊富な方で、わたしは大好きなのですが、その昔、神学を学んでおられたのです。

神の愛をとるか、愛の神をとるか、とタイスのごとく悩んだ末、愛の神を選んで結婚し(と、勝手にわたしは思っている)、教職に長年就かれたお方です。子供はいません。(註:タイス=オペラ「タイス」の主人公。ただし、タイスは女性。「タイスの瞑想曲」は追記で聴けます)

尋ねてみたところ、
「それはアルガルブ(ポルトガル南部)にあります」
と夫と同じことをおっしゃる。
「先生、ポルトにもあるとどこかで読んだ記憶があるのです」
「ふ~~む。聞いたことがないぞ」

翌週レッスンに行くと、
「オ・ドナ・ユーコ!これは参ったな。ポルトにもあるとは!」
「正確な住所はわからないが、ドウロ川沿いの方だね。」

先生もわたしとの話の後、ネットで検索したのだそうな^^うほほほほ。モンシーク修道院に関しては、先生よりわたしの方が、先であったのよ^^

さて、ドウロ川に面した並びは小高い地所になる。夫が車をゆっくり走らせながら、あれかもこれかもと、修道院らしき古い建物を見つけては、車を止め、急な坂道を2、3度上り下りしてが、どれも見当違い。

さて、長い石段を上った先にたどり着く人魚の館(Palacio das Serreias)右に仰ぎ、あたりを歩くとふと横の坂道の突き当たりの建物のトップに像が乗っている古い建物が目に入った。
「ん?あれはなんだ?」と、どんどん上に上るわたし↓
monchique1.jpg

ふ~む。廃墟で、表の鉄柵戸には錠がおろしてある。
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鉄柵戸越しに少しカメラを上方にずらしてみると、あっ!
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ここだ!ここに間違いない!アーチの上壁の窓の中にはサンタマリアの像が見えるではないか。
 
モンシーク修道院の正式名は「Convento de Madre Deus de Monchique」.
Madre Deus とは、聖母のことです。それにしてもこの荒れ放題振りはあまりに気の毒ではないか。

正門になるファシャーダ(fachada)もその跡もないのだが、モンシーク修道院のそのファシャーダが、現在どこにあるか、わたしは偶然のことから知っているのであります。

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↑画像が多少ぼやけて見えるのは、ガラス戸越しに撮影したからなのです。これがモンシーク修道院にあったファシャーダですが、現在、ポルトのSoaresdos Reis国立美術館の庭に置かれていました。

2010年11月にポルトで開催されたJapan Weekのコーディネーターの仕事を依頼された時、国立美術館との会合で、Japan Weekの展示会場のひとつとなるギャラリーを見せてもらったのですが、ふと目に入った庭のマヌエル様式の美しいファシャーダ。

「あれ?すみません。あのファシャーダは・・・?」と問うと、「モンシークのファシャーダだ」と教えてもらいました。庭には、もうひとつ、一連のモンシークの遺跡と思われる細工のある壁がデンと置かれていたのですが、まさか仕事をほったらかしてそっちの撮影に走るわけには行かず、かろうじてこれだけ撮ることができました。

さて、ここからやっと表題の「ポルトガル文学・破滅の愛」であります。原題は「Amor do Perdição」.。19世紀の文学者カミーロ・ブランコ(Camilo Castelo Branco)の作品のひとつで何度か映画化されている、ゆうなればポルトガル版の「ロミオとジュリエット」です。

このモンシーク修道院を探そうと思い立ち、検索している途中で、この物語の舞台だったことを知ったわけで、私自身は本そのものをまだ読んでいませんが(まだポルトガル語で文学を読める時間がない)、ネットで探してかなり古い映画は見ました。

ざっと次のような内容。

家族から乱暴者と疎まれるシモンは父親のライバルの娘、テレザと恋に落ちます。ある日、シモンはテレザを連れ去ろうとする彼女の許婚の従兄弟を誤って死に至らしめてしまいます。二人は引き裂かれ、テレザはこのモンシーク修道院に幽閉、シモンはポルト港から船で去ることを余儀なくされます。シモンの乗る船をモンシーク修道院の窓から見送り、傷心のあまり息を引き取るテレザ。その幻影を見てシモンもやがて重い病にかかり船中で亡くなります。

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↑モンシーク修道院の建つ場所からはドウロ川がよく眺められ、この本の舞台に選ばれたのはなるほどとうなずけます。

荒れ放題のモンシーク修道院は、財政的にも苦しかった市当局です、長年放置されてきてついにポザーダとして復活したニコラウ・ナゾニの「フレイシュ宮殿」とは違い、もう修復不可能だと思われ、恐らくファシャーダなど一部の遺跡は、国立美術館に移されたのでしょう。

わたしがこの修道院を見つけた当時は資料が見つからず、上記に書いたことがせいいっぱいだったのですが、少し見つけましたので、加えておきます。

モンシーク修道院は1533年に、祈願のために富裕のPedro da Cunha Coutinhoとその妻によってミラガイア地区に建てら、ポルトでも重要な修道院のひとつでした。17世紀には70人の尼僧と富裕層の子女、それに伴った召使が住んでいました。

が、19世紀初期のリベラリスト、ドン・ペドロ4世と絶対王政主義者ドン・ミゲルとの間に起こったポルトガル内戦でドン・ペドロが勝利して後、国内から宗教団体は追放され、モンシーク修道院も閉鎖、放置されてきました。

もし、カミーロ・ブランコが「破滅の愛」を書かなかったら、恐らく多くの人はモンシーク修道院の存在を知らなかったかもしれませんね。

現在、売られた修道院の一部はホテル建築に当てられ工事中とのこと。 これもポルトがにわかに観光客の人気スポットになったからだと言えましょう。

次回に続きます。

下記のアドレスは「タイスの瞑想曲」。近頃好きな2CELLOSの一人、チェロ奏者Hauserの演奏です
https://www.youtube.com/watch?v=Hvno17nl7vg&feature=emb_logo
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2020年3月21日
  
ポルトに住んで42年目に入ろうとしています。そのポルトで初めてマスク姿を見かけました。
なんと、我がフラットの玄関ドアを開けて鉢合わせした向かいに住む女性でした。ちょうど出勤するところだったのでしょう、彼女は看護婦さんです。

今現在で、マスクは一般人には手に入りません。マスクは、向かいの女性のような医療関係者、公的施設関係者、警官、もしくは感染者がすることになっていますが、それでも不足しています。
わたしたちも取り寄せ注文はしているのですが、まだ、ポルトガルが武漢ウイルスに襲われる前にモイケル娘に送った一箱が入手した最後です。

今日でひきこもり4日目。
夜、野良猫にエサを運ぶ5分以外は外へ出ていません。何をしているかと言うと、これが困ったもので、家の中の整理、日本語関係の書類整理とすることはたくさんあるのに、なぜだかウロウロしていることが多いのです。

それに、夫が夕方まで家にいなかったのと違い、夫婦ともにひきこもり中なもので昼ご飯がラーメン、そば類、お茶漬けでは済まされません。準備からあと片付けまで日に2回台所に立つわけで、どうしても時間も細切れになり、整理を中途半端にしがちです。

おまけに一昨日は朝早く起きたはいいが、カーペットに足をひっかけ右足の筋肉を傷めてしまうドジを踏んでおります^^; そんなわけで、ササっと動くに支障あり、「いててて」と思うような整理ができない状態であります。トホホ。

さて、本日は昨日のポルトの動画にある「Cidade Invicta」について、書いてみます。

地元ではポルトを別名で、「Cidade Invicta(シダーデ・インヴィクタ)」と呼びますが、「敗れざる、征服されざる街」という意味です。

19世紀初期の3回に渡るナポレオン軍侵入戦争の第二回目、ポルトを襲ったナポレオン軍を撃退した出来事と、もう一つはこの後の自由主義派と王政派が激突したポルトガル内戦で、ポルトがブラジルから北部に漕ぎついたドン・ペドロを中心にして、王政派を破ったということに因みます。

以下、歴史話です。

ポルトガルの19世紀、ドナ・マリア一世の統治時代。フランス革命後、ナポレオンは皇帝を戴冠、イギリスを封じ込めるためヨーロッパ諸国にイギリス船への港閉鎖を通達します。

が、イギリスとは古くからの同盟国であるポルトガルはこれに従いません。そこで、ナポレオンはポルトガル侵略政策をとります。

第一回が1807年、スペインを味方に引き込んだフランス軍ジュノー将軍の率いる3万の軍がスペインと国境を分かつベイラ・バイシャから浸入し、リスボンを手中に収めます。

このとき、ドナ・マリア一世と後継者ドン・ジュアン6世は15隻もの海洋船に貴族や軍隊、大商人らおよそ1万人のポルトガル人を引き連れ、ブラジルへと逃れたわけです(なんちゅうこと^^;腰が引けてましたぞ)。

こうして、ポルトガル王室が再び本国ポルトガルの地を踏むのは、それから約20年後の1821年です。

フランス軍はリスボンを手に入れたものの、その暴虐ぶりにやがて各地で民衆蜂起が起こり、ポルトガルは盟友イギリス軍と合流してフランス軍を破り、ここで休戦協定を結び、フランス軍は撤退します。

しかし、ナポレオンは尚も諦めず、2度目の侵入を試みます。1809年、今度は北部(スペイン、ガリシア地方)から浸入、ポルトに入りますがイギリス・ポルトガルの連合軍、さらにポルトの民衆も参戦して、終にはフランス軍を敗退させました。 

これがポルトが「Cidade Invicta」と呼ばれるゆえんの一つです。

guerrapeninsular_mapa.jpg
地図はwikiより

上図、赤線が第一回目、オレンジ線が2回目のポルト侵入、青線が三回目。

ポルト、Boavistaロータリーの「Mouzinho広場」中心にあるモニュメントはこの時の戦いを記念したものですが、これは後記にて案内しています。

さて、ナポレオンは、懲りずに三度目のポルトガル征服を試み、リスボンに再度兵を送るのですが、最後には敗退、1814年にスペインからも撤退することで、ナポレオン軍とのイベリア半島戦争は終了します。

ポルトガル独立戦争の時もそうですが、大軍を相手にいざという時にポルトガル人が出す底力は愛国心のなす業でしょう。ワールドサッカーを見ても、その意気がどことなく表れているような気がます。

「ピレネー山脈から先はヨーロッパではない、アフリカだ。」と言ったのはナポレオンだったと記憶しますが、三度もポルトガル侵入に失敗した歴史上の事実を知ると、「ナポレオンの負け惜しみだな」とわたしは思ってしまいます(笑)

ポルトガル北部から始まった武漢ウイルスですが、是非とも遠からずこれに打ち勝って欲しいと切に願っています。

もうひとつのゆえんは次回にて。
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2020年2月21日 

実は武漢肺炎で子供たちが心配、内心キリキリしている。
が、それを書いても解決策にはならないし、うかつに書くとペルソナ・ノン・グラータ(Persona non grata)なる人に家族情報を公開される可能性大なので、今はまだ記事にしない。

これまで結構自由に書いて楽しんできたブログやSNSですが、まっこと、やりにくくなってきた感があります。目下様子をみているのですが、しばらくは既にブログに上げた記事の再掲が続くかも知れませんので、ご勘弁ください。

さて、本日は久しぶりにポルト関連記事、サン・ラザロ公園についてです。以下。

ポルトガルの春は早い。
春の訪れをいち早く告げるのは公園だが、中でも町の中心部、人や車の往来が多い「サン・ラザロ公園」は、向かいに旧市立図書館と美術大学があり、3月になるや、近隣の住民や親子連れ、テーブルを持ち込んでカードゲームに興じる年配者たちでにぎわう。

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2003年に開通したPonte do Infante(ドン・インファンテ橋)はガイア市とポルトダウンタウンとを結ぶ橋だが、建設時にはこの公園をつぶす計画が上り市民の反対運動で今に残されることになった。

この辺りはかつてサン・ラザロと呼ばれ、年に一度大きな「市」が開かれた一帯で、ドン・ペドロ国王の命により1834年に「サン・ラザロ公園」がお目見え。当時はセレブ専用の公園だった。 

その名残で今でもこの公園は柵で囲まれ、市内では唯一、四方に門が取り付けられ、開閉時間がある。

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現在では、「マルケス・デ・オリヴェイラ公園」が正式名だが、市民からは昔ながらの「サン・ラザロ公園」と呼ばれ、市民に親しまれている。

園内には可愛いバンドスタンド(小さな野外音楽堂)が往時の郷愁を誘う。地上最古の花といわれる大きなマグノリアの樹が12本、池の周りを取り囲み、春にはその爛漫の花で、市民の目を楽しませてくれる。

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今年は色とりどりのチューリップが植えられて、春はすぐそこまで来ている。

この公園でもうひとつ興味深いものは、壊滅した13世紀のサン・ドミンゴス修道院の遺跡と泉水がここに移動されていることだ。

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赤いベンチに腰をおろし、パソコンを開いている美大生の姿も見られる多世代の市民が憩うワン・ラザロ公園、ポルト市内の公園では最も多くの訪問者を迎える。さながら町の中の小さなオアシスだ。

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2019年11月30日 

過去160年以上にわたりポルトガル北部のぶんかや歴史に名を遺した貴族、女優、詩人作家芸術たちが多く眠るアグラモンテ墓地はポルト氏に市のボアビスタ地区にある。

12ヘクタールの敷地内の道は思いのほか広い。季節によってマグノリアや椿の花びらが通路や墓碑を埋めるさまな幻想的だ。ところどころに美しい彫刻が見かけられ著名人の墓碑の前には小さな説明版がある。まるで自然の中に置かれた芸術作品をながめているような錯覚に陥る。

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特に美しく嘆く女性の彫刻があしらわれたサントス・デュモン家の墓碑は、訪れる人の目を奪うだろう。ヨーロッパにおける航空パイオニアと呼ばれた発明家で飛行家でもあるアルベルト・サントス・デュモンの一族である。

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上の墓はポルトガルきっての彫刻家だったアントニオ・テイシェイラ・ロペスの作品だ。また、生存中29本の映画を撮り2015年には「世界の現役最高齢の映画監督」との称号を与えられたマヌエル・ド・オリヴェイラもこの墓地に眠る。

「ヨーロッパで訪れてみたい街」のトップに何度か選ばれているポルト、わたしが歩いたときは人影もなかったが、今ではこの墓地を訪れる旅行者も増えてきた。旧市街を見た後は少し足をのばして、過去に生きた人人をしのぶ彫刻作品に会え穴場として紹介しておきたい。
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