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2019年5月31日

Lapaと聞けば、わたしには懐かしい響きの言葉です。

ラパ教会の向かいにあるのはラパ私立病院(Hospital da Lapa)なのですが、二人のわが子はこの病院で生まれました。
当時は夫の医学生時代の恩師教授がここの産婦人科におりましたが、産気づいて病院に行った時、教授は休暇中で、実際にわが子たちを取り上げてくれたのは、別の先生でしたけどね(笑) 

hospital_Lapa.jpg

1900年初期に造られ歴史が古い。 ただひとつ、わたしの不満は、院内に入るまで階段があることです。救急車で運ばれる場合に利用されるであろう出入り口が恐らく横にあるのでしょうが、実は、この階段で、危うく転がり落ちそうになったのです。

息子が生まれて3日ほど個室入院し退院の日、赤子を胸に夫に手を添えられて階段を降り始めたとき、2、3段滑り落ち、危うく赤子を落としそうになりました。夫が抱えてくれたのでよかったものの、あのまま落ちていたらどうなっていただろうかと、今、思い出してもぞっとします。

未だに、時々この病院に診察に行くことがありますが、その度に、1980年の冷や汗をかいたことを思い出します。粗忽なのは昔も今もかわらず、なんですがね。

さて、 ラパ教会があるRua de Antelo Quental(アンテロ・ケンタル通り)には、写真の小さなカペラ(礼拝堂)があり、車で通るたびに気になりながら横目でみてきたのですが、ある日、この辺りを探検してみました。カペラは「Capela do senhor do soccoro」が正式名ですが、一般に「Capela do Olho Vivo」と呼ばれています。

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ポルトの歴史家Germano Silvaによると、この通りは昔、北部ブラガへ通じる道になり、泥棒が横行したので、ここを通るときは「よく気をつけて(=Olho vivo)」と言われていたためにこの名前が定着したとのこと。カペラは通常閉鎖しています。

カペラの側の坂道を上ると、狭い石畳の道が入り込んでいる。この辺りはIlha(イーリャ)と呼ばれる区域で、Ilhaはポルトガル語で「島」の意味だが、ここでは、日本語で言えば「長屋」となろうか、古くからの集合住宅地区である。

カペラの側の坂道を上ると、狭い石畳の道が入り込んでいます。この辺りはIlha(イーリャ)と呼ばれる区域で、Ilhaはポルトガル語で「島」の意味だが、別の意味があり、日本語で言えば「長屋」となろうか、古くからの集合住宅地区です。

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迷路のような細い小道を上へと歩いていくと、小高い丘に出ました。

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上ったここが言うところのMonte da Lapa。

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狭い足場だが、ここからはポルトの町、その向こうの町も一望できるのは発見でした。

monte_lapa1[1]
 
さて、ここで前回の海辺のオベリスクと関係するポルトの歴史話になるのですが。

1829年から34年まで 、ポルトガルは絶対王政主義者のドン・ミゲルと自由主義者のドン・ペドロ4世(ブラジル皇帝ドン・ペドロ1世と同人物。ドン・ミゲルとドン・ペドロ4世は兄弟)との間に起こった王位争いでポルトガルは内戦に陥る。北部ポルトが一時期、圧倒的多数のドン・ミゲル軍に包囲され、自由主義陣営は1年にわたる篭城を強いられたが、これを「Cerco do Porto(ポルトの包囲)」と呼びます。

このとき、ブラジル皇帝ドン・ペドロ1世の位を息子に譲り、ポルトガルに入ったドン・ペドロ(ポルトガルではドン・ペドロ4世になる)は、このMonte da Lapaにある粉引き小屋に登り、街を眺めては作戦を練ったと言われます。今回調べて分かったことです。

上に見える丸い建物は粉引き小屋です。
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もちろん、ドンペドロ4世が上って街を見渡した当時の原型はあるものの、造りかえられています。

実は、高校を定年退職して15年ほどになるポルトガル語のディアス先生と、毎火曜日、ポルトの歴史を勉強しているのですが、この「ポルトの包囲」が少し出てきたところだったので、奇遇な発見ではありました。

時にわたしの方が、あそこにあれがあって、あの通りがあれで、などと、ディアス先生より知っていることもあったりするのだが、よし!今度はこのことを話してみよう、と密かにMonte do Lapaの発見を喜んでいたのでありました。

めったに人が足を運ばない場所ではありますが、歴史に興味がある方はいかがでしょうか。

本日はこれにて。
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2019年5月29日 

車ででもないと訪れにくいのが、たまにきずと言える、今日はポルトの歴史に関係したオベリスクの話です。

オベリスクは古代エジプトの神殿などに建てられた記念碑で、側面には王の名や神への讃辞がヒエログリフで刻まれ、太陽神と共に王の権威を示す象徴とされたものです。

戦利品として略奪された古代エジプトのオベリスクは世界に30本ほど現存するとのこと、よく知られたものがフランスのコンコルド広場、バチカンにあるものですが、ポルト近郊のMatosinhos(マトズィーニュス)のメモリア海岸(Praia da Memória)にあるのは、ポルトガルの旧時代から新時代交代の象徴と言えるべき記念碑です。スペインからのポルトガル再独立独立200年を記念して1840年から24年かけて造られました。

matosinhos-obelisc6-1[1]

案内板には、
「Onde o Portugal velho acaba e o nove começa」
「ここにポルトガルの旧時代が終わり、新時代が始まる」とあります。
      
どこぞで聞いたフレーズだと思ったら、ユーラシア大陸最西端「ロカ岬」の記念碑にも彫られている16世紀の大詩人カモインスは「ウズ・ルズィーアダス」の詩の一節、「Onde a terra se acaba e o mar começa」(ここに陸尽き、海はじまる)をもじったものですね。

さて、ポルトガルが大航海時代の栄華を経て、絶対王政が疲弊し始め、政治の中心が議会に移る頃の話です。

1807年から1814年の間に、ポルトガルは三度にわたりナポレオン軍の侵略を受けたのですが、最初の侵略時に、当時の王室、マリア一世と後継者ドン・ジュアンは15隻もの海洋船に貴族や軍隊、大商人らおよそ1万人のポルトガル人を引き連れてブラジルへと逃れました(トホホ^^;)
ポルトガル王室が再び本国ポルトガルの地を踏むのは、なんとそれから約20年後の1821年です。

イギリスの援軍とその駐留によりナポレオン軍の侵略を防ぐことはできたものの、換わりにポルトガルはイギリスに対し、政治的経済的に弱い立場に置かれます。今の中国がアフリカ諸国やその他、経済的に弱い小国に、インフラ支援と称して高利でお金を貸しまくり、最後には自分たちの思い通りに囲い込んでしまうというやり方は古今変わりないということを知らされますね。
  
1821年、ブラジルで王位に就いたマリア一世の息子ドン・ジュアン6世は、ドン・ペドロ王子にブラジルを任せリスボンへ帰国するものの、本国ポルトガルの政治状況はかつてとは大きく異なっていました。

フランス革命やイギリスからのフリーメーソンの自由主義が人々の間に広がりつつあり、1822年にはポルトガル憲法が制定され、絶対王政に終止符が打たれます。(いやぁ、自由主義思想のフリーメーソンの活躍はアメリカ独立、フランス革命のみならず、このポルトガルでもなされていたのですね。一説には明治維新に活躍した坂本竜馬もフリーメーソンに関わっていたとも言われます。)

また、同年にブラジルに残ったドン・ペドロ王子がポルトガルからの独立を宣言し、ドン・ペドロ一世としてブラジル皇帝に即位します。やがてポルトガルの父王ドン・ジュアン6世の没後、ドン・ペドロ一世はドン・ペドロ四世としてポルトガル国王の王位にも就きます。ドン・ペドロ1世(ポルトガルではドン・ペドロ4生)自由主義者であります。

しかし、海を隔てたポルトガル王国の統治は困難な壁にぶつかります。この時、ドン・ペドロ1世(ポルトガルではドン・ペドロ4世)は打開策として、まだ幼かった娘マリア・グローリア(後のドナ・マリア2世)を王位継承者とし、亡命していた実弟のドン・ミゲルを呼び戻し摂政にすえるのですが、ドン・ミゲルは絶対王政主義者ですから、自由主義者を弾圧し始めます。

ここから旧勢力をバックにするドン・ミゲルと新勢力のドン・ペドロ4世との間で内戦が始まるのですが、このとき、ドン・ペドロ4世はブラジル皇帝の座を降り、ヨーロッパでの傭兵を雇い、ポルトガルに上陸します。

1832年7月8日、ドン・ペドロ4世が7500の傭兵を率いて上陸したのが、このPraia da Memoriaです。

matosinhos-obelisc9-1[1]
 
2年間続いた内戦は、ドン・ミゲルの降伏で終止符を打つものの、内戦で荒れ果てたポルトガルは、新しい時代が始まったとは言え、政治が落ち着くのに19世紀後半まで待つことになります。
   
追記:
よく、ドン・ペドロ4世が上陸したのはもっと北部にある「ミンデロ」と間違われるようですが、このPraia de Memoriaが正しいそうです。
    
ナポレオン軍がポルトに侵入した時の民衆決起の記念碑につてはこちらまで。↓
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1807.html

本日もありがとうございました。
では、また。

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2019年5月15日 

息子はリスボンで、娘は日本で学業をとなり、子供たちが家から離れた時期から日本語教室で忙しくなる前までの数年間、ポルトの街を歩き回りました。

カフェ・マジェスティックは、その頃、よく一人で訪れ、カフェとスコーンを注文したものです。
多少オーヴァーツーリズムの気があるな?と思われる今日のポルトと違い、その頃のマジェスティックで過ごせたのは贅沢な時間を持つことだったと、今振り返ります。

今日はあそこを探索してみようと、朝10時くらいからポルトの街を2時間ほど歩き、昼近くに入るマジェスティック・カフェは人もまばらで、新聞を広げてゆっくりくつろいでいる男性たちを度々見かけました。
カフェの値段は他と比べて俄然高かったが、制服のウエーターのサービスがよく、落ち着けました。

イージーリスニングやクラシックのBGMも耳障りにならず心地よかった。後でも書いていますが、ハリー・ポターの著者J.K.ローリングがここでペンを走らせていたのも、当時のカフェを知っているわたしには頷ける話です。ツーリストで常に満席の今は、BGMがあるのでしょうか。

というので、下記、カフェ・マジェスティックです。

ベル・エポック(フランス語 belle=美しい、良い epoque=時代 )と言う言葉をご存知だろうか。パリを中心に新しい文化や芸術が栄えた19世紀末から20世紀初めにかけての時代を言う。女優のサラ・ベルナール、ロートレック、詩人ランボー、ボードレールなどが活躍した時代だ。
 
パリの一番最初のカフェのお目見えは1667年と聞く。1715年には300ほどのカフェがパリにあった。これらの中でも最も有名なのは「カフェ・ド・プロコープ」。ボルテールやルソーが常連客だった。

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ルソーが愛用したテーブル。

 
フランス革命時期には、政治家やマラー、ロベスピエール、そして若き日のナポレオン・ボナパルトも集っていたと言われる。このカフェは現在では「ル・プロコープ」としてパリでも老舗のレストランとして営業おり、わたしは2007年秋にパリを訪れた際、そこで夕食を楽しんで来た。

さて、パリにはかなり遅れてではあるが、ポルト1921年、ポルトの目抜き通りSanta Catarinaに建築家ジュアン・ケイロス(João Queirós)によって開店された「カフェ・エリート」が、カフェ・マジェスティックの前身になる。(1922年改名)

20年代には文人や芸術家たちが集い、討論に花咲かせたマジェスティックは、ベル・エポック時代の歴史を語る「ポルトのエスプリ」とも言えよう。マジェスティックはその古きよき時代の名残を今に残している。

マジェスティックカフェ
 
60年代に入ると、時代の変化に抗えずに衰退。80年代に入って市の文化遺産としてポルトっ子たちの関心を集めるになった。10年の年月をかけてオリジナルの華麗なアール・ヌーボースタイルを見事に復元した。

マジェスティックカフェ

美しいファシャーダ(正面入り口)をくぐると、店内には小さな白大理石のテーブルにアンティークの椅子、木彫り細工の大鏡が訪問者を別世界に誘う。

マジェスティックカフェ

マジェスティックカフェ

マジェスティックはフランスのシラク元大統領を始め国内外の著名人が多く訪れている。かのJ.K.ローリングは、ポルト在住中にここが気に入り、第一巻「ハリー・ポッターと賢者の石」の一部をここで書いたと言われる。

ローリングがどのテーブルに着いてどの章を綴ったのか、とエスプレッソをすすりながら想像してみるのも魅力的ではないか。

カフェ
マジェスティックのエスプレッソ。チョコレートもついてくる。

本日も読んでいただき、ありがとうございます。
ではまた明日!
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2019年5月12日

ダウンタウンをポルトガル語では俗にBaixa(=バイシャ。下の意味)と言います。 そのダウンタウンの目抜き通りが歩行者天国のサンタ・カタリナ通りです。

クリスマスの時期には、人でごった返し、通りは身動きができないほどのにぎやかさでしたが、郊外の大手ショッピングセンターの数軒もの出現で、往年の賑やかさはなくなっていました。

が、ポルトは2014年に、ヨーロッパで一番訪れてみたい都市に選ばれるなどして、ここ数年、観光客がうなぎのぼりに増え、サンタ・カタリナ通りは再び賑わっています。

ブティックが軒を並べている中、古い歴史を持つハイライトも幾つかあります。そのひとつが、Capela das Almas(カペラ・ダス・アルマス。Capela=礼拝堂 almas=魂、精神)です。

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18世紀初期に建てられた小さな礼拝堂ですが、外部を覆うAzulejo(=アズレージュ。青タイル絵)が完成したのは20世紀に入った1929年。総数15947枚のアズレージュが語るは、サンタ(聖女)・カタリナとアッシジのサン・フランシスコの生涯です。
 
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さて、聖女カタリナとは?と、わたしはこういうことにすぐ興味をそそられるのです。カトリック信者が多い国には、聖人聖女がたくさんおり、これらの名前と伝説を整理して覚えるのは生半可なことではありませんが、それを知らずしてこのアズレージュを見てなんとしよう!というので、以下。

サンタ・カタリナとは?

聖人、聖女の名はあまたあり、国によっては同じ聖人聖女なので呼び方が違ったりします。わたしはカトリック信者ではありませんが、現代に残る気になる名前の由来をたずねるのが好きで、よく調べます。

「カタリナ」はポルトガル人の女性名にもよく使われのですが、サンタ(聖)・カタリナはどうも二人いるようです。

そのひとりは、アレキサンドリアの聖女カタリナ、もうひとりがイタリア、トスカーナ地方、シエナの聖女カタリナです。二人の物語は一部似通ったところもあり、混乱を招くようです。

アレキサンドリアのカタリナは4世紀に名家に生まれ、高い教育を受けました。才女と美貌の誉れ高く、皇帝からの改宗命令を拒み投獄されます。車輪に手足をくくりつけられて転がされるという拷問が命じられますが、カタリナが車輪に手を触れると車輪はひとりでに壊れてしまったがため、斬首、19歳で殉教しています。サンタ・カタリナのシンボルは、壊れた車輪、足元の王冠、剣、本、異教の哲学者と論争する女性、などなど。

もう一人、シエナのカタリナは14世紀の人で幼児期から幻視体験を持つといわれ、長じてドミニク修道女となります。興味のある方は検索してみてください。

で、件のアズレージュ絵はシンボルから、アレキサンドリアのサンタ・カタリナであると判断します。

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シンボルの剣と本をもっている。  

下は異教の哲学者との論争場面と推察。 

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聖女サンタ・カタリナ伝説は、場所がアレキサンドリアということ、才女と美貌の誉れが高い、ということ、惨殺されたという点から、わたしは、4世紀のアレキサンドリアの数学者、天動説に疑問をいだいた天文学者であり、新プラトン主義哲学者でもあった女性「ヒュパティア(Hypatia)」を思いおこします。

分裂していた東西ローマ帝国を統一して治めたただ一人のローマ帝国皇帝テオドシウス1世はキリスト教徒でした。哲学学校の校長であり、学術的、科学的な哲学を持つヒュパティアはキリスト教徒からすると、異端とみられていました。皇帝の異端迫害方針により、エジプトの非キリスト教宗教施設や神殿、有名なアレキサンドリア図書館と共にヒュパティアの学校も破壊され、彼女は修道士たちに惨殺されます。これにより、多くの学者たちがアレキサンドリアを後にします。学問が繁栄したアレキサンドリア凋落の引き金になったのです。

ヒュパティアについては、2009年カンヌ映画祭で受賞した「Agora」(芳名:アレキサンドリア)があります。タイトル「Agora」についても、知ってみるとなかなか面白い。 「アゴーラ」と読み、語源はギリシャ語。古代ギリシャの政治的人民集会や、その広場の意味になりますが、スペイン語では「予言する」の動詞、さらにポルトガル語の「agora」は「今、現在」の意味です。なんとも意味深な映画のタイトルではありませんか。 

中世期にヨーロッパを制覇したキリスト教ですが、実は異端教(キリスト教以外の全ての宗教)から拝借していることも多いのです。最たるものは「イースター(復活祭)」です。これについては後記にて案内します。

それを考えると、アレキサンドリアのサンタ・カタリナの伝説はひょっとして異教徒であり哲学者であったヒュパティアをモデルにしたのではないかと、思ったりするのですが、果たしてどうなのでしょう。

下記は「Agora」予告編です。



下は「イースター謎考」について。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1566.html
(イースター、なぜタマゴ?)

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-905.html(復活祭の謎考)
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2019年4月10日 

リスボンから列車で橋を渡って入ってくると両脇に開けるドウロ川のパノラミックな展望にまるで「魔女の宅急便」の一シーンに出会ったような錯覚を味わうことだろう。

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そのドウロ河畔がリベイラ(Ribeira=川岸)だ。世界遺産指定区域でもあり四季を通じて訪れる人々を魅了し続けるリベイラを下流から歩いてみよう。

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左手上方には川に面して建ち並ぶ色とりどりのカザリオ(casario)と呼ばれる古い家々が見られ、天気のいい日にそこにたなびく洗濯物はポルトの風物詩でもある。川岸にはオープンカフェ、ポルトガル料理レストランの老舗や土産店もぎっし並べんでいる。また二重橋鉄橋のドン・ルイス一世橋が前方に美しい弧を描き、橋の上段を黄色のメトロがゆっくりと渡って行くのが見られる。

ribeira

道の中ほど、壁に埋め込まれている「Alminha da Ponte(アルミニャ・ダ・ポンテ)」青銅版は1809年3月29日のナポレオン軍侵入時に対岸へ逃げようと押し寄せ川で命を落とした多くの市民の慰霊碑で現在でも鎮魂のろうそくが灯される。見逃し易いので要注意。

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二重橋を渡って対岸の隣街、新しい観光スポットとして近年人気を集めるガイア河岸へ行ってみよう。古くからのポートワインセラーが軒を並べる。見逃せないのはガイア対岸から眺める、赤レンガの屋根が段々畑のように重なった絵のようなポルトの最たる景色だ。歩き疲れたらガイア河岸からテレフェリコに乗ってたゆとうドウロ川の絶景を眼下に橋を渡って旧市街に出るのもよい。

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