2017年8月18日 

今週3、4日間、帰省中の息子とわたしたち夫婦の3人で中部のスペイン国境あたりを旅行する予定を組んでいたのですが、中止です。なんとならば、この写真をご覧あれ。

ブラガ

我が家の4匹ネコで紅一点の13歳になるチビが、2週間ほど前にお腹の腫瘍二つを摘出したのですが、その一箇所の傷口が抜糸後だというのに、どうもよろしくない状態で、掃除のおばさんに世話を頼んで行くのも気になることではあり、結局、旅行キャンセルとあいなったのです。

ブラガ
ソファで横になっている息子の腹の上に横たわるチビ。

そんな訳で今年の夏休みは家でゴロゴロしているのですが、ご飯が大変ですぞ・・・^^; そこで、昨日は3人で、ブラガの山頂にある聖地ボン・ジェズスのホテルのレストランで昼食に出かけてきました。

というのも、6月の夫の誕生日のプレゼントだと、ホテルレストランでの昼食を二人分、息子から招待券としてもらっていたのでした。ですから、息子の分は実費なのですが、そろそろ料理係のわたしがブツブツ言い始めるのを見越してでしょう、食べに行こうということになったのです。

ボン・ジェズスは2012年10月に一度、雑誌の取材で行った事があり、山の麓から山頂まで116メートル、581の石段を上ったのですが、盛夏の盆地のブラガです、日差しがきつく今回は車で山頂へ。

ブラガ
山頂のボン・ジズス教会

ブラガ
山頂

ブラガ
麓からはこの石段581段をのぼってくることになる。

ブラガ
Elevadorと呼ばれる登山電車の種類。傾斜42度と怖そうだ。

ブラガ
山頂のカフェはたくさんの人でにぎわっていた。

ブラガ
ホテルロビーからレストランへ。

ブラガ
ホテルのレストランからの展望。ブラガの街。

ブラガ
ホテルの庭園。

食べ物は今回は省略で、下はGruta(洞穴)。わたしの推測ではこの手の洞穴は錬金術のシンボル。

ブラガ
久しぶりに息子と。

ブラガ

吸い込まれそうな真っ青なひたすら真っ青な空。

食べて軽く飲んで、車で小一時間の距離にあるブラガから帰宅後は、シェスタでありました。ゆるゆる生活はどうも性に合わないと言いながら、これがポルトガル式休みというものかしら?いつまでたってもこればかりは慣れないのよね。

下記にて詳しくボン・ジズスを紹介しています。どぞ。

聖地ボン・ジズスの謎
ソロモン王と蜘蛛考

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2017年8月9日 

これまで訪れていながら、画像では案内していなかったロカ岬ですが、今日は娘夫婦と訪れて3度目になる昨年の画像で紹介します。   

六大陸の中でも、アジアとヨーロッパを合わせたユーラシア大陸は最大で、語源はEuroとAsia(EuroAsia)から来ています。ポルトガルのロカ岬はそのユーラシア大陸の最西端にあります。

ロケーションは北緯38度47分、西経9度30分、リスボン、シントラ、ナザレ、オビドスがある「エストゥラマドゥーラ・リバテージュ地方」です。

ロカ岬

Caboは岬、Rocaは断崖を意味し、航海が盛んだった15~19世紀にはイギリス人にThe Rock of Lisbonとして知られていました。

ロカ岬

岬は140メートルの断崖になっており、海を臨んで頂上に十字架を掲げた石造りの碑がぽつねんと突っ立っているばかり。

ロカ岬

石碑には、「Aqui onde a terra se acaba e o mar começa(Camões)」ここに陸尽き、海はじまると、「」Ponta mais ocidental do Continente europeu(ヨーロッパ大陸の最西端)の文字がポルトガル語で刻まれています。

ロカ岬

さよう。ここは、まさにユーラシア大陸の地の果てであります。
前方にはただただ茫洋と大西洋がひろがり、打ち寄せる波の音と吹き付ける風の音のみが、最西端の名誉を孤高として守っているかのように思われます。

DSC_0799-1.jpg

40分ばかりいた間にも写真から分かるように、岬は霧に被われ太陽が白く化したかと思うと突然青空が現れ、天気の変化が目まぐるしい魔の岬とも呼べるような気がします。


ロカ岬の案内書では少々の手数料を払うと日付、名前入りで「ユーラシア大陸最西端到達証明書」を発行してもらえます。
ロカ岬証明書

証明書は見事なゴチック体のポルトガル語で書かれ、青と黄色のリボンの上にシントラ市のcarimbo(カリンボ)と呼ばれる蝋(ロウ)印が押してあります。裏面にはフランス語、英語、ドイツ語、イタリア語などの訳が印刷されています。現在では日本語も入っているようです。


石碑に刻まれているここに陸尽き、海はじまるとは、ポルトガルの16世紀の国民詩人、ルイス・ドゥ・カモインス(Luis de Camões)の書いた大叙事詩「Os Luíadas」の一節なのです。「Os Lusíadas」(ウズ・ルズィアダス)とは「ルズィターニアの人々」、つまりポルトガル人の古い呼称です。

「Os Luíadas」は9000行からなる大叙事詩で、ポルトガルを、バスコ・ダ・ガマの偉業を讃え、大航海時代の歴史を謳いあげたものです。叙事詩集は10章に分かれており、先の「ここに陸尽き、海はじまる」は第3章20で謳われています。ちょうど我が家に素敵な装丁の「Os Lusíadas」があったのでその箇所の写真を載せて見ます。

Os Luíadasの本

Lusiados
美しい装丁が施された限定版の本です。 

Lusiados
各章ごとの歴史にちなんだイラストが内装もカラフル。  

Lusiados
第3章20の扉

Lusiados
20(XX) 上から3行目。

Lusiados
「Onde a terra se acaba e o mar começa 」 「ここに陸尽き、海はじまる」とある。
 
「Os Lusíadas」 は膨大な叙事詩で、ポルトガルの学校では全編ではありませんが、必ず読むことになっています。わたしは今のところ、本を開いては美しい装飾に目を奪われるのみで、残念ながらまだ読んでいません。


さて、カモインスについて。

15世紀の冒険家Luis de Camoes(ルイス・デ・カモインス)カモインスの生涯は謎に包まれています。いつどこで生誕したかも不明です。そして、芸術家の多くがそうであるように、カモインスもまた、生存中はあまり名の知られた存在ではなかったようです。

当時の知識人と比較しても該博な知識を持っていたらしく、コインブラ大学で聴講したという話はありますが、その知識をいつどこで身につけたのか明らかではありません。

またカモインスは無類の冒険家であり、恋多き人でもありました。リスボンでは傷害事件で投獄の憂き目にあったり、アフリカ、東洋を廻り難破にあったりもしています。

カモインスは片目なのですが、15世紀初期、北アフリカのセウタでムーア人と戦った際に右目を失ったと言われています。

カモインス
Wiki より

「セウタの戦」とは、15世紀のドン・ジュアン一世の時代でポルトガルの大航海時代の扉を開くことになる戦いです。王の3人息子、ドアルト王子、ペドロ王子、そして後、トマールのテンプル騎士団修道がキリスト騎士団修道院に改名した時にその騎士団のマスターとなり、航海王子の異名をとることになる三男のエンリケ王子も参戦しました。この様子は、ポルト、サン・ベント駅構内のアズレージュ絵に見られます。

ceuta


もうひとつ、付け加えるならば、ポルトの有名な伝統料理「Tripas(トゥリーパス)」はこの「セウタの戦」に由来します。 (これについては下記の案内からどうぞ) 
            
恋と冒険とそして貧困のうちに、ポルトガル文学の偉大な遺産「Os Lusiadas」を残し、1580年6月10日、カモインスはその生涯を閉じます。毎年6月10日は、カモインスの命日を記して「ポルトガルの日」とし、この日は祭日。

最西端のロカ岬は、訪れる観光客の浪漫的な予想からは遠く、波打ち寄せ風吹きつけ、大航海時代の栄華のかけらも見えず、ただ荒涼としているだけです。それでも、石碑に刻まれたカモインスの一節に、いにしえのポルトガル人の果てしない未知への冒険心をかいまみることができるでしょうか。

ポルト人:その名はトリペイロ

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2017年6月26日 

サン・ジュアン祭りの起源をちょっと置いといて。

何年も前から写真を保存したままになって、やっと数日前に紹介したポルトのラマルダ館同様、これも何度も撮影しながら、ついぞ記事にあげて来なかった、ブサコ宮殿を今日は紹介します。

今回の画像は全て、我がモイケル娘が提供してくれました。と言うのは、何度も行って撮影していながら、ハードディスクに保存する作業を怠り3年ほど前にパソコンのこれまでの画像を消失してしまったのであります。かなり古いものはCDに保存していたので助かりましたが、近年のものは失ってしまい、思い出したくもないショックでありました。

コインブラから北へ30キロほど行くと、国立森林公園Mata Nacional do Buçaco(Mata=森林)があります。ブサコ宮殿はその森の中にありますが、現在はブサコ・パレスホテルという高級宿泊施設になっています。
 
ブサコ

一帯はカルメル修道会が切り拓き、17世紀にはここを「地上の天国」と呼び、修道院「Convento de Santa Cruz do Buçaco(ブサコのサンタクルス修道院)」が建てられ、ポルトガルが修道会などの宗教団体を国内から追放することになる1834年まで森林を所有しました。今でもその修道院の一部が見られます。

ブサコ
宮殿のすぐ横にあるカルメル会独得のシンボルを装飾した修道院は現在一般公開されています。

ブサコに関するポルトガルの歴史を少し紐解いてみましょう。

時は1810年、ナポレオンのイベリア征服野望のフランス軍は、ピレネー山脈を越えて1807年にリスボン、1809年にポルトを襲ったものの、いずれも失敗し、3度目の軍を送った年です。

フランス軍の侵入により、農業を始め商業産業は荒廃し、宮殿や教会の貴重品を略奪され、貴族の館は焼かれました。3度目は既にフランス占領下に置かれていたスペインの中部からポルトガルのAlmeidaに入り、リスボンを目指しViseu、ブサコに進んでいました。このブサコ山脈は最高度550メートルの峰がある15キロに渡る険しい「ポルトガルで最悪の道」だったのです。

さて、この時、2度目のナポレオン軍侵入以来、イギリス・ポルトガル連合軍の指揮をとっていたのがイギリスのウエリントン公爵です。ナポレオン軍の進路を妨害するため、ウエリントン公爵はブサコのカルメル修道院に基地を置き、敵に奇襲攻撃をしかけます。

1810年9月21日、ポルトガルイギリス連合軍5万、片やフランス軍6万5000のブサコの戦いは7日間の激戦となり、フランス軍は5人の将軍を失い、4500人の兵を死なせたと言われます。

ブサコ

フランス軍は苦戦の末、ようやく活路を開くものの1811年には終にポルトガルを撤退します。「ブサコの戦い」はフランス軍を追い払うことはできませんでしたが、素晴らしい防衛戦術の見本とされています。

1834年、カルメル会が森を退去したあと、ドン・ルイス1世国王と后ドナ・マリア・ピアは修道院を王家の離宮に改造を計画、これは王子こと後のドン・カルロス1世に引き継がれます。1888年にブサコ離宮はイタリアの建築家、ルイジ・マニニによって建築が始まりほぼ20年をかけた1907年にようやく完成するわけですが、ルイジ・マニニとブサコ宮殿について次回に続きます。

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2017年5月15日 

ここ一週間ほどポルトガルのテレビニュースを賑わしていたのに「ファティマ巡礼」があります。

ファティマはポルトから南下することほぼ190km、リスボンからは120kmほど北上するポルトガル中央部にあるのですが、カトリック教会の重要な聖母巡礼地のひとつです。今年はファティマに聖母が出現して100年目にあたるというので、フランシスコ教皇がその聖地を訪問し5月13日に、巡礼者でぎっしり埋まったファティマ聖地の広場で祈りを捧げられました。

100年目というのと教皇訪問というので、これまでにもましてファティマを目指す巡礼者を町で見かけました。巡礼者は写真のように、黄色の目立つベストを着衣します。

ファティマ巡礼
wikiより

ではファティマはどうのようにして聖地になったのか、書いてみたいと思います。

妹夫婦が仕事の関係で、サウジ・アラビアに3年ほど滞在したことがある。その頃、土産でもらったのに変わった形をした金のペンダントがあります。その時は知らなかったのですが、これは「ファティマの手」と言うのだそうです。下記写真がそれです。

ファティマ巡礼
wikiより

わたしの持っていたのは手の平の形の真ん中に小さな赤いルビー石がついています(モイケル娘の手元に今ある)。

ファティマはイスラム教祖モハメドの娘で、今では献身的な女性の代名詞です。「ファティマの手」は、その彼女の左手をかたどり、魔よけや幸運を呼ぶ印として、イスラム国では装飾品に用いられるようです。「ファティマ」はまたポルトガルでも女性の名前としてよく使われます。

まだ高速道路が発達していなかった昔のこと。今なら3時間でたどり着けるポルトーリスボン間は、国道を走って5時間も近くかかったころのこと、5月ともなると、その国道に沿った脇沿いの道を数人のグループが歩いて行くのを車からよく見かけました。
                
年齢はまちまちで、若いのからお年寄りまで、背中にはリュックを背負い杖をついたりして固まって歩く群れを幾グループも見かけました。夫に尋ねると、彼らは願をかけてポルトガル東西南北から聖地ファティマ参りをする巡礼だと言います。
                
その時期、よく注意して見ると、巡礼たちはポルトの街中でも見られました。彼らは、日中は歩き夜になると安宿で寝、翌日また聖地ファティマを目指して、何日も行脚でたどり着くのです。

ファティマはリスボンとポルトのほぼ中間に位置するオレン地域にある、人口およそ1万人の小さな町です。町名の由来は、12世紀にイスラム教からカトリック教に改宗したの姫、ファティマが来たことに因みます。 ファティマは、後に名を「Oriana=オリアナ=ポルトガル名」と変え、それが群の首都名オレンになりました。

宗教を信ずるかどうかは別として、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教、仏教、神道でも、わたしはその成り立ちや言い伝えに、深い興味を覚え、ついつい調べるにいたるのです。

毎年の5月13日、10月13日には盛大なミサがここで行われるのですが、時々、願をかけて巡礼した人たちの中から、奇跡が起こったとの話がニュースになったりします。願をかける信者のなかには、大広場から聖堂前までの長い道のりを膝で歩く人もいます。

ファティマ巡礼
wikiより

その様子は、ポルトのサン・ベント駅構内のazulejo (青タイル絵)にも見られます。

ファティマ聖地は、前法王ジョン・パウロ2世も何度か訪れていますが、ここには100年前の奇跡が現代にも脈脈と受け継がれているのです。

1917年5月13日昼過ぎ、当時はだだっ広い単なる小さな農村であったCova da Iriaで、羊飼いをしていた3人の子供、ルシア(10歳)とその従兄弟に当たる、フランシスコ(9歳)、ジャスィンタ(7歳)が、遊びながら石を拾い集めて積み立てた小さな石の家の前で祈りを捧げていると、突然眩しい雷光が空から差して来ました。
     
それを見た3人は怖くなり、急いで野原を降りて家へ帰ろうとしたところ、その道のすぐ下で再びパッと光が落ち、辺りを照らしました。見ると、小さな木の側に、白い数珠を手にした太陽よりも明るく光り輝く夫人の姿が、そこにありました。
     
光り輝く夫人は3人の子供達に、「以後、5ヶ月の間、毎月13日のこの時間にこの場所に来るように」と告げました。こうして、6月、7月、9月、10月の13日、同じ時間に光り輝く夫人は現れました。

8月13日が抜けているのは、この噂が町中に広まり、3人の子供は、この日、首都オレンま尋問されるのため、連れて行かれ、約束の場所へ行くことができなかったからです。

光り輝く夫人はこの日、500m離れたValinhosと言う場所に姿を現しました。

最後の10月13日の出現には、この噂を聞きつけて、人目これを見ようと7万人の人がこの場所にやってきました。この日も3人の目の前に現れた光り輝く婦人は、自分はサンタ・マリアであることを告げ、この場所に小さな教会を建てるようにと伝えました。

ファティマ巡礼
wikiより

この日、集まった7万人の目撃者は言います。太陽が不思議な輝き方をし、その太陽を直視しても目が焼けることはなかった。その太陽はまるで銀の円盤のように天空を動き回り、聖母マリアとイエス、聖ヨセフ(マリアの夫)の姿を映し出し、世界を祝福した、と。

この日、3人の子供達の後ろに控えて、この様子を見ていた人々の間には多くの奇跡が起こったと言われ、このニュースはたちまち、国中の新聞で報道されたのでした。この奇跡以来、世界中から人々がファティマに集まるようになり、現在に至っていると言うわけです。

ファティマ巡礼
wikiより。右から、ルシア、フランシスコ、ジャスィンタ。ファティマの3人の牧童の幻視者

さて、この話、これで終わりではないのです。ファティマの奇跡には、もうひとつ有名な「ファティマの三つの秘密」と言うのがあります。

聖母マリアは、ポルトガル語では、「Nossa Senhora=ノッサ・セニョーラ」(わたし達の母)と呼ばれるのですが、Nossa Senhoraは3人の牧童に「誰にも話してはいけない」という三つの秘密を打ち明けています。
     
そして、マリアがフランシスコとジャスィンタに、間もなく天国に行くでしょうと告げたように、二人は幼くして天に召されるのです。3人の中で一番年長のルシアは、長じてシスターになりその一生を神に祈ることに捧げ、2005年2月13日、97歳で生涯を閉じました。現在はファティマに眠っています。
     
3人の子供の中では、ルシアが一番年長ですが、実際にマリアの話を聞くことができたのは、この10歳だったルシアだけで、他の二人は姿を見ただけでした。シスター・ルシアは、「ファティマ唯一の生き残り幻視者」と呼ばれました。幼いフランシスコとジャスィンタは2005年にジョン・パウロ2世により列福されています。
     
聖母マリアから、「誰にも話してはいけない」といわれた、シスター・ルシアが生涯胸に抱えた三つの秘密。実はこれ、調べて見ると、とんでもなく面白いものになってしまいました^^

これは、「ダヴィンチ・コード」ならぬ、「シスター・ルシア・コード」になりそうです!

次回に続きます。

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2016年9月8日 

アソーレスはまだ続くのですが、今日は休んで。
息子と入れ替わりに、東京で働く娘が今度はフィアンセを伴って滞在中です。

近頃はスカイプとやらで、ウエブカメラを通せば遠国にいながらにして、顔を見ながら話ができ、わたしたちもこの文明の利器にあやかっているのですが、身近に見るというのは別です。年に一度、日本へ帰国するわたしと違い、4年ぶりの娘の帰国は夫にとっても4年ぶりの娘との再会になります。

8月には息子とそのガールフレンド、9月は娘たち、と我が家の賑やかな食卓は2ヶ月続いていますが、友人から「子供たちが帰った後のリバウンド、気ぃつけや」と言われています。

ええのよ。それは今考えない。その時はその時、それを考えて、今を楽しまないでなんとする!というので、
本日は家族4人で昨日行ってきた、ポルトから車で2時間ほどのオビドスの写真をば。

オビドス

オビドス

オビドス

オビドスを訪れるのは今回で5度目くらいでしょうか。これまで行ったのは春先と7月で、9月の訪問は初めてです。案内はその都度、書いてきましたので町については後記にサイトリンクを貼ります。

オビドス
9月ともなれば、花咲き村のオビドスも少しずつ色あせ始めたブーゲンビリアが目に付きました。


オビドス
 
観光客もさほど多くなく、歩くのにちょうどよい。

でも、今回は新しい発見がありました。
オビドス

ボザーダ(ホテル)の横の教会が、なんと書店になり代わっていました!

オビドス

普通はこ1時間で回れるのですが、2時間ほどかけて後、定番のジンジーニャ・バー「IbnErrikRex」に立ち寄り、
4人でチーズとショリースで、今回はジンジーニャならずビールで昼食。

オビドス

ここのメニューはこれのみ。そして、年取った店主も息子の代に変わっていました。

オビドス

オビドス

歴代のポルトガル王妃に愛された花の町オビドスの城。

オビドス

城内では、ギター曲「アランフェス」が流れていて雰囲気がありました。

下記、当ブログのオビドス過去記事です。

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1490.html
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1489.html


本日はこれにて。

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