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2019年8月23日 

今日はナザレの礼拝堂(Ermida da Memória)地下から。

小さな礼拝堂に入り、地下へおります。
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美しいアズレージュの階段を少しおりたところ、この地下の洞窟に長い間黒いマリア像は眠っていたのでしょうか。左側にマリア像のレプリカが置かれています。

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と、・・あれ?レプリカは白いマリア様に変身させられていますぞ。だめじゃないですか、これと、多少がっかり。勝手に肌の色を変えてしまうなどレプリカとはいえないと、一言苦情を言いたいところです。

さて、ここからは件のポルトガル唯一だと言われるSantuário de Nossa Senhora da Nazaréの黒いマリア像です。

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教会内部。

祭壇の写真を撮っていると、黒いマリア像が置かれている祭壇の上を人が時々通ります。
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聞けば、祭壇に向かって左側から、1ユーロで裏に回り、目の前で見ることができるとのことで、夫と息子は興味なし、わたしが一人で入ってきました。

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祭壇の裏側も美しいアズレージュが施されています。この階段から入ります。
 
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こちらは明らかに黒いマリア様です。

「ノッサ・セニョーラ・デ・ナザレ:AD714年にメリダ(スペイン)から運ばれ468年間この岬の洞窟に隠されていた。1182年以来Alma Portuguesaとして崇められている」と説明されています。

木製で高さ25cm、最古の黒いマドンナ像のひとつと考えられるのだそうで、言い伝えによれば、ナザレの大工のジョゼフ(イエスの父にあたる)がイエスが赤ん坊のときに作り、数十年後に聖ルカが色付けをしたのだそうな。

すると、ジョゼフがグノーシス派でもないかぎり、ナザレの黒いマリア像を神秘主義者たちのシンボルとするには無理がでてくるのだが。とは、わたしの突っ込み。

ナザレのマリア像は左ひざの上に赤ん坊を抱いていますが、典型的なエジプトのイシスとホルス像の形であり、頭部のヴェールは東地中海の伝統を表しています。

ちょっと比べてみましょう。

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イシス女神とホルス  いわゆるカトリックの聖母マリアとイエス

ここからは、黒いマリア像も含むシンボルの謎に対するわたしの考えです。

キリスト教が古代の異教から多くの行事を取り入れていることを見ると、エジプトの神秘主義との間に類似性があっても不思議はないでしょう。異教徒とみなされることから逃れるために、神秘主義者たちが聖母の白い肌の色を黒にし、数世紀もの間、密かにそれを崇め続け、その結果今の時代までそのシンボル残されてきたとしたら、歴史の大いなる一面だと思います。

黒いマリア像をわたしはイエスのただ一人の女弟子、マグダラのマリアと捉えているのですが、今回のナザレの黒いマリア像については、突っ込み部分もあり、果たして神秘主義者が崇めるマグダラのマリア像を意味するのかどうか、不明です。

ローマカトリック教が強大な権力を持ったヨーロッパ中世、カトリックにあらずんば人にあらず、と社会的に存在を否定された時代に、自らの思想を貫かんがため、同志だけが分かるシンボルを建築物や作品に密かにしたためた抵抗者たちがいたことを知るのは意味があると思います。

厳しい環境に身をおきながら、いかにして自分の信念を後世に伝えることができるか、その方法を編み出す知恵者と絶対権力者たちとの競合には、手に汗握るものがあると思うのですが、みなさまはいかがでしょうか。

カトリック教会に反骨精神逞しい人と言えば、ミケランジェロを思い浮かべますが、興味のある方は下記をどうぞ。

・バチカン:システィナ礼拝堂の隠されたミケランジェロ暗号

・バチカン:システィーナ礼拝堂の隠された暗号(2)

・ローマ編:ミケランジェロのポルタ・ピア門

・ミケランジェロ:システィーナ礼拝堂の隠された暗号(2)

・ミケランジェロ:システィーナ礼拝堂の隠された暗号(3)

本日はこれにて。
「spacesis, 謎を追う」シリーズにお付き合いいただき、ありがとうございます。

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2019年8月21日 

イエスが最高の霊知を授けたと言われる秘蔵の弟子、マグダラのマリア像は、「神の知恵のシンボル」とされます。なぜ「黒」なのかというのには数説あります。

黒は知恵を象徴する、黒い聖母は異教的には浅黒い肌を持つエジプトの女神イシス(永遠の処女でありオシリスの死後、処女のまま神、ホルスを身ごもったとされる。キリスト教の聖母マリア、イエスと同じ話である)からくる、などなど。

グノーシス主義の人々が崇拝するその異教徒の黒いマリア像は、世界に160以上あるとのことで、フランスが圧倒的に多く、イタリア、スペインが続きます。

そして、ポルトガルでは唯一、ナザレの丘陵区域Sítio da NazaréにあるSantuário de Nossa Senhora da Nazaré(Santuário=聖地、教会とも訳せると思う)で見ることができます。

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しかし、地元では黒いマリア像とは呼ばず、土産物店で売られているコピーも白いマリア様になっています。
羊皮紙に書かれた古書によると、この黒いマリア像は初期キリスト教時代のパレスチナ・ナザレで崇拝されてきたとあるのだそうです。

5世紀に起こった偶像破壊運動から逃れて、黒いマリア像はスペイン、メリダ近郊にあった修道院に運ばれ、711年までそこに安置されていました。その後、ムーア人のイベリア侵入が始まり、ロマノ神父が聖宝の黒いマリア像を持ってポルトガルの大西洋沿岸(現在のナザレ)まで逃れ、崖の洞窟にそれを置きました。それゆえ、この地はナザレ、そして黒いマリア像は「Nossa Senhora de Nazaré」と呼ばれます。

ここまでが、黒いマリア像がパレスチナのナザレからポルトガルに辿りつい経路なのですが、現在教会の中に納められているこのマリア像は、最初、崖淵の小さな礼拝堂、Capela da Memóriaに安置されていましたが、この崖にもうひとつ、12世紀後半の伝説があります。

戦士Dom Fuas Roupinho(ドン・フアス・ローピーニュ。恐らくテンプル騎士だと思う)はある日、馬に乗り狩に出、深い霧の中で不思議な黒い影を見ます。鹿だと思いそれを夢中で追いかけるうちに崖っぷちまで来てしまい、一瞬マリア様に助けを求めます。すると、危うく海に落ちるところを馬のぎりぎり脚の踏ん張りで命拾いをします。

その場所は、ちょうどかの黒いマリア像が安置されてある洞窟のすぐ横だったとのこと。そこで、感謝の印としてDom Fuas Roupinhoはその場所に礼拝堂を建てます。
 
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ピラミッド型の屋根を持つ礼拝堂はまさに崖っぷちに建てられています。

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礼拝堂横は見晴台になっており、この壁の向こうは崖で入ることができない。ここから眺められる景色がこれ↓
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古い礼拝堂の外壁にはDom Fuas Roupinhoの伝説の場面がアズレージュで描かれている。
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14世紀に入ると、噂を聞いた巡礼者が増大し、ドン・フェルナンド王は礼拝堂の広場向こうに教会を建て、黒いマリア像もそちらに移動されます。それが、Santuário de Nossa Senhora da Nazaré教会、トップの写真になります。

礼拝堂内部、黒いマリア像もまだ続きます。
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2019年8月19日

ナザレの黒いマリア(聖母)像を書くにあたり、関連するテンプル騎士団について、思うところを少し書きたいと思います。

これといった宗教を信仰しないわたしですが、旧約聖書はひとつの壮大な物語本として興味深く読んできました。

ダン・ブランのベストセラー「ダビンチ・コード」がきっかけで、強大な力を持つカトリック教一色に染まったヨーロッパの中世時代に、ミケランジェロ、ダビンチ、ガリレオのような宗教を鵜呑みにしなかった人達はどのように生きたのかということに深い興味を覚え、暇を見ては本を読んだりして追ってきました。

宗教には寛大な日本に生まれ育ったわたしには、カトリック教信者ではないということがどういうことなのか、いまいち理解できなかったわけですが、 調べて行くうちに、「信者でない者は悪魔である」という制裁を受ける社会だったであろうということです。

そうこうして行くうちにテンプル騎士団、錬金術、グノーシス、神秘主義と多岐にわたる学習を独学することになり、そこでわたしがたどり着いたのは、カトリック教会に秘密裏に反抗、抵抗して編み出されたのがシンボルコードだ、です。

アラブ人に占領されていたイベリア半島がテンプル騎士団によるレコンキスタ運動で国土奪回を得たのは、意外と知られていないような気がします。テンプル騎士団の大きな助力でポルトガル国が成されたとも言えるとわたしは思っています。

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12世紀の初めに、キリスト教集団の皮を被り、エルサレムのソロモン神殿跡地に宿営した7人の騎士によって結成されたのが「キリストとソロモン神殿の貧しき騎士たち」、後のテンプル騎士団です。

やがて強大な権力、富を持ち、影響力も大きかったテンプル騎士団の莫大な財宝に目がくらんだフランス王フィリップ4世の陰謀により14世紀初期に、騎士団最後のグランドマスター、ジャック・ド・モレーの処刑で終焉を迎えます。

フランス王が横取りしようとした騎士団の財宝は、跡形もなく消えて行方知れず。ヨーロッパのテンプル騎士団は弾圧され、残った騎士団の大部分は消息不明になりました。

この時、ポルトガルのテンプル騎士団(トマール)は国王の庇護の下、キリスト騎士団と名を変え存続しました。ポルトガルはこの後、大航海時代に入っていくわけですが、フランス王が手にできなかったテンプル騎士団の財宝の一部は、ポルトガルの大航海時代に遣われたのでは?とは、わたしの推測です。

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トマールのキリスト・テンプル騎士団修道院

さて、このテンプル騎士団が崇拝するのが「黒い聖母」だと言われます。

この項、更に続きます。

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2019年8月18日 

古い漁村ナザレですが、近年はサーフィンで世界に知られるようになりました。

ナザレ沿岸は海底谷の地形が世界でも有数の深さを持つため、非常に大きな波が生まれます。地元ではこの波のことを世界中のサーファーに知ってもらうため、サーファーの呼び寄せキャンペーンを展開してきました。

米国人サーファーのギャレット・マクナマラが2011年には24メートルの、2013年には30メートルの巨大な波いのることに成功し、サーファーの世界記録をつくったと言われています。

ナザレ
2011年ナザレ、24メートルの波乗り(Wikipediaより)

この時の感想をCNNのインタビューで「いつまでも落ち続けて両足はストラップから外れかけていた」「全身が粉々になるような感覚だった。本当に難しかった」と答えています。

ナザレ
2013年ナザレ、30メートルの波乗り。(Wikipediaより)

ポルトガルにはもう一箇所、リスボンから北東へ35kmほどにある、Eliceira(エリセイラ)はサーフィンの聖地と呼ばれ世界中からサーファーが集まるそうです。

「波乗り」なんて聞くと、わたしなど年に一度帰国するときに口にする「波乗りジョニー」をついぞ思い浮かべてしまう無粋ものではございます^^;

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Wikipediaより


「ナザレのイエス」と聖書にも出てくるこの地名には由来があります。その昔、パレスチナのナザレから、海を経て一人の聖職者が「マリア像」を持って流れ着いたという伝説から来ます。

この手の話だとよく聞かれるのですが、この「マリア像」、「黒いマリア像」なのですと!

「黒いマリア像」は、わたしがテンプル騎士団がらみの謎解きのために読んできた本でもよく取り上げられており、これは「聖母マリア」ではなくて、中世からローマカトリックに糾弾されてきた「異端者」(バチカンが宗派として認めない)が崇拝する「マグダラのマリア」だと言われます。

わたしが「異端教の殿堂」と解するフランスのシャルトル大聖堂の「黒いマリア像」は有名ですが、ポルトガルでの「黒いマリア像」は初耳です。

何度か行っているナザレに黒いマリア像があるというのを知り、もう一度行かなければならないと思っていましたが、今回、サンタクルスの帰路、ちょっと寄って寄って~と寄り道してもらいました。

事前に確認しなかったもので、果たしてどの片にあるのか、わたしの第六感に頼ってなのですが、夫は自動車道路からこれまで通り海辺に続く町の通りに入りました。ところが、ひゃ~、小さな町の細い道はどこまでも続く車の停滞です。ナザレでのこんな停滞もあったことがありません。

やっとのこ停滞から抜けて、海岸はだめだこりゃ。で、わたしの感はまだ行った事がないSítio da Nazaré、海岸左側に見える丘陵のある町へと方向転換しました。夫はポルトに引き返そうとしたのですが、あっちに行ってみようと提案。感のなすところです(笑)


ナザレの丘陵、Sítio da Nazaréから見下ろした、この日は穏やかな波の海岸地区。
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Sítio da Nazaréの崖っぷち。

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海岸区域からはケーブルカーでスィーティオ(Sítio=場所、区域の意味)へ上れる。

この項、次回に続きます。

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2018年8月10日 

これまでに何度か訪問したボルサ宮(Palácio da Bolsa)ですが、2014年から2015年に渡り、入り口に面した「ナショナル・パテオ(Pátio das Nações)」の壁画修復が始められたところ、一つの紋章の下から別の紋章が現れ、それが「日本の紋章」だとのニュースが流れました。

ニュースのその年1月に、わたしは雑誌記事取材のためにボルサ宮を訪れたのですが、「日本の紋章」が現れたのはその後の3月のようで、残念ながらその時は知らなかったわけです。

それがこの度、精密なレプリカが公開されたというので記事を読んでみると、なんと日本の紋章とは「葵の紋」のこと。

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Wikiより

ポルトガル人の手によるものゆえ、デザインが多少違うような気がしますが、この紋章がなぜポルトの旧証券取引所のボルサ宮にあるのかという謎にぶつかります。

ボルサ宮の詳細については既に書いてありますので、後記で案内しますが、1842年に施工、完成まで70年近くを要しています。
皇室の紋章である十六菊花紋でなく、葵の紋章があるということは、徳川時代にポルトと何らかの関わりがあったことになります。

ボルサ宮は完成まで70年を費やしたのですから、その間の歴史を調べようと思ったところで、ふと、先日、拙ブログにて取り上げた「クリスタル宮殿公園の記事を思い出しました。

1851年の第一回ロンドン万博へ出かけたポルトのブルジョアたちや旧証券取引所関係者たちが、会場として建設されたクリスタル宮殿の素晴らしさ圧倒され、ポルトにも是非とそれを模倣して建設し、1865年にはそこでポルト国際博覧会が開催されたのです。

その際、欧米諸国に加え日本も参加しているのを知り、へぇ~と思ったのですが、クリスタル宮殿に目が行っていたもので、日本の参加については調べることもせずそのままになっていました。

1865年といえば、大政奉還がなされ徳川幕府の時代が終わる2年前です。ペリーの黒船来航により日本が開国して後の1860年に日本ポルトガル間では日葡和親条約と日葡修好通商条約が結ばれ、215年ぶりに通商が再開されています。

ボルサ宮のナショナル・パテオの上部にの壁に描かれてあるのは、当時、ポルトと深い関わりがあった国々の紋章だといわれ、件のポルト国際博覧会には、1962年に幕府が初めて欧州へ送った文久遣欧使節団が訪れたようです。

さすればこの使節団は福澤諭吉も含む38名となっていますから、大規模な使節団として、羽織、袴、まげを結った一行の姿は人々の記憶に残ったことでしょう。これで、とりあえずボルサ宮にある徳川家葵の紋の謎は一通り解けたと言えます。

それにしても、奇遇が重なり面白い謎解きができたものです。そして、今から150年ほど昔に自分が住むポルトに福澤諭吉達に日本の大使節団がしばし足を停めていたと思うと、静かな感慨が湧いてくるのであります。いやぁ、これだから歴史は面白い!

本日もお付き合いくださり、ありがとうございます。お時間あらば、ランキングクリックをしていただけると嬉しいです。

下記、ボルサ宮関連の過去拙ブログ記事です。クリックしてどぞ。

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1535.html「ボルサ宮1」
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1537.html「ボルサ宮2」
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1540.html
  「ボルサ宮:エッフェルの部屋」
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  「ボルサ宮:アラブの間」
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  「長崎ポルト姉妹都市30周年記念・ポルトぶらぶら歩き」」
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