2017年10月29日 

サン・ロック公園のラビリンスを後に更に進むと椿園があり、その真ん中にはライオン像の浮き彫りを持った噴水が置かれています(秘儀思想者、メーソンの邸宅には必ずといっていいほどライオンの噴水が見られる)。

Quinta de Sao Roque

Quinta de Sao Roque

公園の別入り口があるRua da Lameira(ラメイラ通り)に面して古い館が建っています。

Quinta de Sao Roque

この館と周辺については後日述べますが、今日は館の後ろにある人口洞窟について。 ポルトガル語ではGrutaと言うのですが、シントラのレガレイラの森を始め、この手の洞窟はポルトでも古い館の庭に見られ、必ず小さな池の側に造られています。ラメイラ館の洞窟もその例に漏れず。

Quinta de Sao Roque

洞窟は秘儀思想、アルケミスト、新プラトン主義のシンボルであろうとわたしは解釈しています。わたしたちの住む世界がこの洞窟であり、英知という光を求めてその闇を抜け、光ある外界へ出ることで囚われていた己の魂を開放する、となるのでしょうか。「英知」なるものがいったいなんであるのかよく理解していない凡人のわたしではあります。

サン・ロック公園のラビリンスと洞窟には興味があり、これまでも何度か訪れているのですが、この日は12時からの日本語レッスンの急なキャンセルが入り、いつもあちこちを散策する午前中ではなく、昼間に行きました。

洞窟も館の周辺も一通りぐるりと回り、さて、帰ろうかともう一度この洞窟に入ろうと近づいた時のことです。

Quinta de Sao Roque
洞窟の中の岩の一部が光っているのに気が付きました。光った部分はやがて段々と範囲を広げていき、とても不思議な現象でした。

空に目をやると丁度太陽の木漏れ日を池の水が受け、それが岩(恐らく花崗岩)に反射してでしょう、もわ~っとあたかも岩が光を放ち始めたような状況に、思わず鳥肌がたったのでした。

そこで、素人腕ではありますが、スマホの録画撮りをしてきました。実は録画が終わってから気が付いたのですが、草刈機のうるさい音が盛んに入っているではありませんか。それも気にならなかったほど、夢中で録画したのでありました。動画初投稿ですので、見にくい点がありましたらご勘弁。

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なんだかエラく得をしたような気がして、この日は午後もずっと清清しい気分でした。これの状況が起こることは全て計算づくめで池も洞窟も造られたのは間違いないでしょう。

豊かな物質文明に身を置くわたしたち現代人の堕落面は否めず、忘られつつある古の哲学者たちの思想を読んでみようと思っているこの頃です。

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2017年10月28日 

個人レッスンのキャンセルが入った先週、近くのサン・ロック公園(Parque de São Roque)を歩いてきました。

Quinta de Sao Roque

サン・ロック公園はポルト東部Antas、ドラゴンサッカー場近くにあり、かつてQuinta da Lameiraと呼ばれ、ポルトワイン業者のイギリス人Cálem一族が代々所有していたのをポルト市が買い取ったとのこと。18世紀に建てられたラメイラ館を含んだ公園全体の広さは4ヘクタールで園内をゆっくり散歩すると所有時間1時間ほどです。

入り口はTravessa das AntasとRua da Lameiraの二箇所にありますが、わたしはいつもTravessa das Antasから入ります。車が止めやすいのです。

Quinta de Sao Roque

この日の目的は散歩を兼ねて園内にあるラビリンスと洞窟の写真をとることでした。1.5mほどの高さのツゲで造られた迷路で何度か行き止まりにぶつかりました。
Quinta de Sao Roque

Quinta de Sao Roque

ラビリンス(迷路)に入りデジカメを上に掲げて撮った写真ですが、たどりついた中方には石柱があります。

5.jpg

下図はWikipediaで拾ったサン・ロック公園のラビリンスを上空からみたものです。

Quinta de Sao Roque

これを見て、ふとフランス、シャルトル大聖堂内にあるラビリントとの共通点はないだろうかと探っているのですが、目下分かった共通点はリング様式でリングの数が同じく11ある、中世のパターンだということです。

shrtre.png
Wikiより。

11世紀初期、シャルトル大聖堂は巡礼の中心地になると同時に新プラトン主義の学びの場となり秘儀を教えたと言われます。その教えと伝統は慎重にしかし確実にヨーロッパ社会に浸透していったと言われます。

聖堂内のラビリンスのみならず、ゴチック様式の聖堂そのものに多くの神秘的なシンボルが見られるのは当然といえましょう。そして、聖外部にはヨーロッパ最初の秘儀参入者ピタゴラスの姿も彫られています。

これらを考え合わせるとサン・ロック公園も恐らくその神秘的な思想に基づいて建造されたのではないかと推測しています。
次回はわたしがそう推測する理由のもうひとつの園内にある建造物を見てみましょう。
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2015年2月1日
  
たまたま目にし、一瞬「ゥワオ!」と飛びついたこの写真。ご覧あれ。

サラマンカ

この彫り物が、スペイン、サラマンカにあるゴシック建築の大寺院ファシャーダ(正門)に見られるというから、さぁ、大変。思わず身を乗り出したのでした。

ポルトガルのマヌエル建築様式の代表とされ、かつてはテンプル騎士団の町と言われたトマール(Tomar)にあるテンプル騎士団修道院(後にキリスト騎士団修道院と改称)のシンボル解明に挑戦しているわたしとしてはこの手のオーパーツには目がない!
サラマンカはスペインで一番古い大学がある町として知られます。サラマンカ大学は現在も約32000人程の学生を抱える総合大学です。かの有名な「ドン・キホーテ」の著者、セルバンテスも正規の学生ではなかったにしろ、ここで学んだと言われます。
サラマンカには12世紀に建てられた旧大寺院と16世紀から18世紀に建てられたゴチック・バロック様式の新大寺院のふたつの大寺院がありますが、上述の宇宙飛行士の彫り物が見られるのは新大寺院の方。こうなるとわたしなどはウッホッホです。

現代科学の先端を行く宇宙飛行士の姿が中世の大寺院に見られるとはこれいかに?あな、摩訶不思議と踊る心でこの話を追跡して行くと、件の大寺院ファシャードにこんな彫り物もある。

サラマンカ

ライオンか,はたまたドラゴンか。しかも、手にコーンに盛り付けられたアイスクリームを持っているではありませんか!え?え? ここまで来ると、いかな乗せられやすいわたしでも、ちょいとお待ちよ、と相成ります。こうなると徹底して調べる作業に駆られます。

新大寺院とは呼ばれるものの、16世紀から18世紀にかけて建築されたのですから、今では「新」とも言えません。大寺院のファシャード(正門)はこの数世紀でかなりの損傷を受け、1992年に修繕作業が入りました。この時に、彫刻家がその道の許可を得て「宇宙飛行士」と「アイスクリームコーンを持つドラゴン(ライオン?)」とを付け加えたのだそうです。これはどういうことかと言うと、慣習として、大寺院の修繕では度々、修繕する時代の象徴的な物が付け加えられるとのこと。現代の象徴として「宇宙飛行士」が選ばれたとあります。

サラマンカ

サラマンカは、昔、子供達を連れて車でピレネー山脈を越え、アンドラ王国から南フランスに入って家族旅行をしたときに通ったことがありますが、これが1992年に付け足されたのだったら、見られたはずもなし。
しかしながら、別説もあり、修繕以前の写真がないことから、この彫像が後で付け加えられたという確証はない。「宇宙飛行士」は修繕以前にあった可能性もあるとの別の説もある。
う~~む。ここで言われる「慣習」ってスペインだけのことだろうか?と、ポルトガルのシンボル追っかけとしてはいささか不安になってきますのぉ。

さて、この宇宙飛行士ですが、2010年にバンダリズムこと破壊行為を受けて片方の腕がなくなっていました。
サラマンカ

トップの写真は、見てお分かりのように右腕が修繕されたものです。

「なんでこんなものを今さら大寺院に付け加えるのだ!」との反対意見もあるでしょうし、また、歴史観点からもこれらの彫り物は困惑を招くので、気持ちは分かりますが、バンダリズムはいただけません。

サラマンカには他にも興味深いシンボルがたくさん見られるそうです。そのひとつが下のサラマンカ大学正門にあるもの。蛙を頭上に乗せたドクロ。これを見たものは学業成就するとのジンクスがあるそうです。左横にはユニコーンも見られます。ドクロもカエルも錬金術のシンボルであることを一言付け加えておきます。

サラマンカ

今回、大寺院とシンボルについても調べてみたところ、意外やサラマンカ大寺院のようにモダンなガーゴイルシンボル(Gargoyle怪物などをかたどった雨樋の機能をもつ彫刻)が加えられているところが意外や、あるのに驚きました。それら中から面白いものをいくつか拾い上げてみました。

gargois1.jpg

この辺はまだいい。

フランス、ナントの近くにある小さなベツレヘム礼拝堂のガーゴイルたち。
PaisleyAbbey _Scotland
エイリアン!

Chapelle-de-Bethlehem-Alien.jpg
もどき、ダーツヴェーダーと思ったらこちらには本当にダーツ・ヴェーダーが(笑)↓

darthvader1.jpg
ワシントン国立大寺院に。んで、こちらは、カマを手にしたヨダ?ET?↓

gargois6-1.jpg

グレムリンのギズモじゃん!
Gizmo-1.jpg

なんか笑っちゃいますよ。人が真面目にシンボルの謎解きに取り組んでいるのに、なんじゃいな、これはw おふざけじゃござんせん^^;

本日の画像は全てWikiからです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
では、また!

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2015年1月13日 

前回、ボルサ宮前の小さな広場にあるエンリケ航海王子の立像に話題が逸れましたが、逸れついでに、アップロードし忘れていた「エンリケ航海王子が目指した先は?」のPart2をあげます。Part 1はこちらでどぞ↓

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-454.html> 「エンリケ航海王子が目指した先は(1)」

14世紀初頭、フランス王フリップ4世のもと、異端、偶像崇拝の罪名を科せられ、弾圧を受けたテンプル騎士団はジャック・ド・モレーを最後の総長(グランドマスター)に壊滅するわけですが、騎士団の財宝はどこぞへと消え、残った団員たちも他の騎士団に加わったり、引退するものがいたりしましたが、ポルトガルのテンプル騎士団はローマ法王の許可を得て国王の庇護の下、「テンプル騎士団」から「キリスト騎士団」と名前を変え生き残りました。

なにしろ、数世紀にも渡ったレコンキスタ運動(イベリア半島のイスラム教徒占領からキリスト教徒の手による奪回運動の戦いのこと)の成就は、テンプル騎士団の助力無くしては実らなかったのですから、ポルトガル王はこのあたりを突いてローマ法王に話を持ち出したのではないか?もちろん、トマールのテンプル騎士団修道院に秘匿され騎士団の財宝の一部が法王には献上されたことであろう、と言うのはspcersisの勝手推測です(笑)

テンプル騎士団については、左カテゴリメニュー欄の「spacesis, 謎を追う」で綴っていますが、興味のある方はどぞ。

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1072.html 「トマール:テンプル・キリスト騎士団修道院(1

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1074.html 「トマール:テンプル・キリスト騎士団修道院(2  

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1094.html 「テンプル騎士団聖堂、再び
 

さて、テンプル騎士団の後継、キリスト騎士団の総長となったエンリケ王子は、騎士団の財産を冒険事業の資金源とし、新しい船の造船にも力を注ぎました。

エンリケ航海王子
大航海時代に使われたastrolabio(アストロラービオ)こと、天体観測儀。我が家にはこのレプリカがある。    

エンリケ航海王子
遠洋航海用として開発された三角帆と三本マストを持つカラベラ船(carravela)。

大航海時代初期、エンリケ王子の命を受け初の海外遠征隊としてサグレスから未知の大海に船を漕ぎ出した王子の従者、ジョアン・ゴンサルベスとトリスタン・テイシェイラたちは、大西洋中のマデイラ諸島を、そして後に大西洋の中央にあるアソーレス諸島を発見します。(現在もこの2諸島はポルトガル領である)

1444年に遠征隊はカーボ・ベルデとセネガル川(現在のダカール近辺)に到達しアフリカ南部から大量の金を得ることになります。1444年から1446年にかけ、約14隻ほどの探検船がエンリケ王子の命にてポルトガルから出港し、1460年にはシエラ・レオーネ(ギニア)に到達。この年、エンリケ王子はサグレスにて66歳の生涯を閉じるのですが、王子の騎士団はアフリカ沿岸遠征のシエラ・レオーネまでの2400キロメートルを南下したことになり、ポルトガルはこうして大航海時代の幕開けとなります。

さて、エンリケ航海王子のこのアフリカへの果てしない冒険、探検事業への夢を駆り立てた源泉はいったい何だったのか?

一つには12世紀十字軍遠征の時代から語り継がれて来た「プレステ・ジュアン」伝説です。(Preste Joao。英語ではプレスター・ジョンと言う)

イスラム勢力との苦しい戦いの中で、「プレステ・ジュアン」と言うキリスト教徒がアフリカに王国を作っており、やがて彼の軍が十字軍の援助にやって来てイスラム教徒を敗北に追いやると言う噂が十字軍兵士達に希望をもたらしたことから始まります。この噂は時を経て伝説となり17世紀までキリスト教徒の間で流布されました。

イベリア半島をイスラム勢力に長い間支配されていたスペイン、ポルトガルは、国土奪回運動(レコンキスタと言う)を展開し、ついにイスラム教徒を半島から追い出すことにこぎつけたわけです。

キリスト騎士団のグランドマスターでもあったエンリケ王子はプレステ・ジュアン王国の力を借りて、キリスト教徒の(と、取りあえず書くのだが、騎士団のマスター、エンリケ王子は果たしてキリスト教徒か?もしかすると、テンプル騎士団同様、キリスト教徒と言うのは隠れ蓑であって、事実はローマ・カトリックからする異教徒の可能性はないかと思うところあり)ひいてはポルトガルの勢力を拡大したいと考えていたようです。エンリケ王子のアフリカ沿岸遠征は、「プレステ・ジュアン王国」を探すことでもあったのでしょう。
 
エンリケ航海王子
プレステ・ジュアン王国が描かれているアフリカの古代地図。エチオピアの辺りに位置している。                    
エンリケ航海王子
12世紀にプレステ・ジュアンが使者を通してビザンチン皇帝に送ったという手紙が出回った。その絵。

二つ目は、マルコ・ポーロの「東方見聞録」に書かれてあった「黄金の国・ジパング」、わが国です。黄金はいつの世にも権力者を魅了してきました。エンリケ王子はアフリカに沿って行けばインド洋に出て、やがて中国大陸にたどり着き、その東方のジパングを発見できると考えていたようです。
                             
黄金への夢はアフリカ南部から大量な金を獲得できるようになったことでとりあえず叶えられたわけですが、エンリケ航海王子の死後もポルトガルは更にインド航路発見を経てポルトガル世界海洋帝国となって行きます。ちなみに、インド航路発見をしたヴァスコ・ダ・ガマもキリスト騎士団の騎士でした。

ポルトガル語でO Navegador(オ・ナヴィガドール=航海者)という代名詞を冠するエンリケ王子の目指した先は、あるいは黄金の国と言われたジパングであったのかも知れません。 
     
さて、最後にエンリケ航海王子は、キリスト騎士団総長、グランドマスターとして騎士団に多くのアフリカ沿岸遠征命令を下したのですが、意外なことに、遠征航海そのものには参可してはいないのです。王子は机上で夢を描き、駒を動かしていた、という事実にわたしは少し驚かされたのでした。   

下記、航海王子が人生の後半期を過ごしたと言われるサグレス旅行記です。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1118.html「サグレス・航海王子の夢の跡」                                               
では、明日はボルサ宮です。
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2014年8月2日 

8月に入ったといは思えないような気候です。昨夜からの小雨で今日の気温は19度。昨年夫にねだって取り付けてもらったエアコンもほとんど出番がありません。今年のVindima(ヴィンディーマ)こと、ブドウの収穫も気になるところではあります。

先週は会社が3週間の休暇に入るのと、出張がないとのことで、某企業のお偉いさん、マセラティの君から毎日日本語レッスンのお呼びがかかり、毎朝通勤の様を呈し、かつての日本でのオフィス時代を思い出しました。

週日の日本語教室も5月の我が帰国で一ヶ月休講にしたが故、生徒たちの要望で8月も続けている状態なのですが、土曜日の教室二クラスは今週から夏季休暇に入り、少しのんびりした週末、久しぶりにゆっくりと調べものをしながらブログを書いています。

7月に日本から来た妹夫婦を連れて2年ぶりにシントラを訪れました。シントラはポルトの次にわたしが愛する町で、今回の訪問が5回目でしょうか。妹も「車とユウ(わたしのことである)の案内で、ガイドブックにはない、普通であれば気づかないものをいっぱい見せてもらえた!」と我が案内を大いに面白がってくれました。行く度に新たな発見があり、わたしにとっては実に興味深い町シントラです。夫の多少食傷気味な顔を横目に、今度は秋が深い頃に来て見たいなぁとねだっています。

今日はわたしが少し面白いと思ったものをご紹介します。久しぶりの、「spacesis、謎を追う」シリーズの一環とお思いくだされ。シントラの中腹にある「Chalet Biester」の紹介です。恐らく日本語ブログでこの館を取り上げるのはわたしが初めだと思います。エヘン^^

Chalet_biester2014

ポルトガル語では「シャレ・ビエステール」と読みます。Chaletと言うのは建築様式でアアルペンスタイルの家のことだそうですが、「Chalet Biester」はむしろ「シャトー」と呼ぶのが適切ではないか。19世紀の建築様式イギリスのクィーン・アンスタイルとネオゴチック、ネオロマネスクが混同しています。建築は19世紀の有名なポルトガル人建築家Jose Luis Monteiroです。

Biester館の存在を知ったのは、昨年、ジョニ・デップ主役の「The Ninth Gate(邦題:ナインスゲート)」をテレビで偶然観たときです。Ninth Gateと言うのは「影の王国への九つの扉」の意味。原作は、1993年に書かれたスペインの作家、アルトゥーロ・ペレス=レベルテの「デュマ倶楽部」で映画監督はロマン・ポランスキー。う~む、デュマ、ポランスキーと聞いただけでも摩訶不思議な作品と思えます。
the-9th-gate-1.jpg

ジョニ・デップが演じるCorsoは稀覯本(きこうぼん)を発掘してはそれを売り込むことを生業にしています。ある日、世界に3冊しか現存しないと言われる祈祷書『影の王国への九つの扉』のうち、どれが本物なのか調査を依頼されます。捜査をするうちに不可解な殺人事件が起こり、やがて本物の本を見つける鍵は堕天使ルシファーの署名が入った挿絵の版画にあること突き止めまる訳ですが、3冊の稀覯本を捜し求めて行く先がパリ、トレド、そしてシントラのこの屋敷です。
Chalet_biester2014

シントラが出てくるのでこの映画を観たのではなく、見ている途中で「あれ?知ってるジャン、この道・・・」と相成ったのでありました。以来今日まで時間なく、そのままになっていたのです。

わたしが調べる限り、シントラは太古の昔から「月の山」と呼ばれてきたエソテリックで多くの神秘思想主義者を魅了してきた町ですから、この映画の1シーンに取り上げられたのはさもありなん。

トップのBiester屋敷の写真は今回探して門外から撮ったものです。と言うのは、この屋敷はかつても現在も個人住宅で入ること叶わず^^; よって下記にネットで拾った画像をアップして見ます。

Chalet_biester2014
森の中にあるBiester屋敷。

Chalet_biester2014
正面。映画を観たからか、どことなく妖気が漂っているような気がする単純なわたしであります。映画では屋敷の前の噴水の中で、稀覯本の一冊を持った館主の死体が浮かびます。外見もさることながら、内部をもネットで拝見してみました。

Chalet_biester2014
最初の持ち主はドイツ系のコルク大商人、Ernest Biesterと言われます

この部屋などはじっくりと観察して探ってみたい思いに駆られます↓
Chalet_biester2014

Chalet_biester2014
屋敷内にある礼拝堂。色具合がフランスの「レンヌ・ル・シャトー」に似通っていないか?

chalet_biester6.jpg
神秘主義には定番のドラゴン。

ジョニ・デップの映画そのものはシンボル探索好きのわたしには面白いものでしたが、断っておくと、わたし自身は特別にオカルトに興味があるわけではないのです。昔から残されて来たシンボル読解と、それらを未来の人々に伝えんとした人間の心理に興味をもつ者です。

いかにしてキリスト教が欧米社会を支配してきたか、キリスト教から見る悪とはなんだったのかとヨーロッパ圏に住んでみて、これを知らずして文化は理解できないだろうとの結論に達し、追っかけ始めた謎シリーズではあります。

Ninth Gateに興味がある方は映画のCorsoの各シーンと本の挿絵を併せて意味を考えてみてください。シンボル解きのダヴィンチコード好きには面白いかもしれません。

私たち人間そのものが善と悪を内に持つミクロコスモス、されば、宇宙全体、マクロコスモスも然り。神、悪魔は言葉として知っているものの、それに対する欧米人の考えはキリスト教文化を背景に持たないわたしにはなかなか理解し難いものがあります。

どこかで目にした、「悪魔には問題があるが 神にも疑問がある」がわたしの正直な気持ちでしょうか。

最後にNinth Gateの中からの言葉「Every book has a life of it’s own life」ということで、本日は閉じます。

それでは、また明日。
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