2015年2月1日
  
たまたま目にし、一瞬「ゥワオ!」と飛びついたこの写真。ご覧あれ。

サラマンカ

この彫り物が、スペイン、サラマンカにあるゴシック建築の大寺院ファシャーダ(正門)に見られるというから、さぁ、大変。思わず身を乗り出したのでした。

ポルトガルのマヌエル建築様式の代表とされ、かつてはテンプル騎士団の町と言われたトマール(Tomar)にあるテンプル騎士団修道院(後にキリスト騎士団修道院と改称)のシンボル解明に挑戦しているわたしとしてはこの手のオーパーツには目がない!
サラマンカはスペインで一番古い大学がある町として知られます。サラマンカ大学は現在も約32000人程の学生を抱える総合大学です。かの有名な「ドン・キホーテ」の著者、セルバンテスも正規の学生ではなかったにしろ、ここで学んだと言われます。
サラマンカには12世紀に建てられた旧大寺院と16世紀から18世紀に建てられたゴチック・バロック様式の新大寺院のふたつの大寺院がありますが、上述の宇宙飛行士の彫り物が見られるのは新大寺院の方。こうなるとわたしなどはウッホッホです。

現代科学の先端を行く宇宙飛行士の姿が中世の大寺院に見られるとはこれいかに?あな、摩訶不思議と踊る心でこの話を追跡して行くと、件の大寺院ファシャードにこんな彫り物もある。

サラマンカ

ライオンか,はたまたドラゴンか。しかも、手にコーンに盛り付けられたアイスクリームを持っているではありませんか!え?え? ここまで来ると、いかな乗せられやすいわたしでも、ちょいとお待ちよ、と相成ります。こうなると徹底して調べる作業に駆られます。

新大寺院とは呼ばれるものの、16世紀から18世紀にかけて建築されたのですから、今では「新」とも言えません。大寺院のファシャード(正門)はこの数世紀でかなりの損傷を受け、1992年に修繕作業が入りました。この時に、彫刻家がその道の許可を得て「宇宙飛行士」と「アイスクリームコーンを持つドラゴン(ライオン?)」とを付け加えたのだそうです。これはどういうことかと言うと、慣習として、大寺院の修繕では度々、修繕する時代の象徴的な物が付け加えられるとのこと。現代の象徴として「宇宙飛行士」が選ばれたとあります。

サラマンカ

サラマンカは、昔、子供達を連れて車でピレネー山脈を越え、アンドラ王国から南フランスに入って家族旅行をしたときに通ったことがありますが、これが1992年に付け足されたのだったら、見られたはずもなし。
しかしながら、別説もあり、修繕以前の写真がないことから、この彫像が後で付け加えられたという確証はない。「宇宙飛行士」は修繕以前にあった可能性もあるとの別の説もある。
う~~む。ここで言われる「慣習」ってスペインだけのことだろうか?と、ポルトガルのシンボル追っかけとしてはいささか不安になってきますのぉ。

さて、この宇宙飛行士ですが、2010年にバンダリズムこと破壊行為を受けて片方の腕がなくなっていました。
サラマンカ

トップの写真は、見てお分かりのように右腕が修繕されたものです。

「なんでこんなものを今さら大寺院に付け加えるのだ!」との反対意見もあるでしょうし、また、歴史観点からもこれらの彫り物は困惑を招くので、気持ちは分かりますが、バンダリズムはいただけません。

サラマンカには他にも興味深いシンボルがたくさん見られるそうです。そのひとつが下のサラマンカ大学正門にあるもの。蛙を頭上に乗せたドクロ。これを見たものは学業成就するとのジンクスがあるそうです。左横にはユニコーンも見られます。ドクロもカエルも錬金術のシンボルであることを一言付け加えておきます。

サラマンカ

今回、大寺院とシンボルについても調べてみたところ、意外やサラマンカ大寺院のようにモダンなガーゴイルシンボル(Gargoyle怪物などをかたどった雨樋の機能をもつ彫刻)が加えられているところが意外や、あるのに驚きました。それら中から面白いものをいくつか拾い上げてみました。

gargois1.jpg

この辺はまだいい。

フランス、ナントの近くにある小さなベツレヘム礼拝堂のガーゴイルたち。
PaisleyAbbey _Scotland
エイリアン!

Chapelle-de-Bethlehem-Alien.jpg
もどき、ダーツヴェーダーと思ったらこちらには本当にダーツ・ヴェーダーが(笑)↓

darthvader1.jpg
ワシントン国立大寺院に。んで、こちらは、カマを手にしたヨダ?ET?↓

gargois6-1.jpg

グレムリンのギズモじゃん!
Gizmo-1.jpg

なんか笑っちゃいますよ。人が真面目にシンボルの謎解きに取り組んでいるのに、なんじゃいな、これはw おふざけじゃござんせん^^;

本日の画像は全てWikiからです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
では、また!

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2015年1月13日 

前回、ボルサ宮前の小さな広場にあるエンリケ航海王子の立像に話題が逸れましたが、逸れついでに、アップロードし忘れていた「エンリケ航海王子が目指した先は?」のPart2をあげます。Part 1はこちらでどぞ↓

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-454.html> 「エンリケ航海王子が目指した先は(1)」

14世紀初頭、フランス王フリップ4世のもと、異端、偶像崇拝の罪名を科せられ、弾圧を受けたテンプル騎士団はジャック・ド・モレーを最後の総長(グランドマスター)に壊滅するわけですが、騎士団の財宝はどこぞへと消え、残った団員たちも他の騎士団に加わったり、引退するものがいたりしましたが、ポルトガルのテンプル騎士団はローマ法王の許可を得て国王の庇護の下、「テンプル騎士団」から「キリスト騎士団」と名前を変え生き残りました。

なにしろ、数世紀にも渡ったレコンキスタ運動(イベリア半島のイスラム教徒占領からキリスト教徒の手による奪回運動の戦いのこと)の成就は、テンプル騎士団の助力無くしては実らなかったのですから、ポルトガル王はこのあたりを突いてローマ法王に話を持ち出したのではないか?もちろん、トマールのテンプル騎士団修道院に秘匿され騎士団の財宝の一部が法王には献上されたことであろう、と言うのはspcersisの勝手推測です(笑)

テンプル騎士団については、左カテゴリメニュー欄の「spacesis, 謎を追う」で綴っていますが、興味のある方はどぞ。

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1072.html 「トマール:テンプル・キリスト騎士団修道院(1

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1074.html 「トマール:テンプル・キリスト騎士団修道院(2  

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1094.html 「テンプル騎士団聖堂、再び
 

さて、テンプル騎士団の後継、キリスト騎士団の総長となったエンリケ王子は、騎士団の財産を冒険事業の資金源とし、新しい船の造船にも力を注ぎました。

エンリケ航海王子
大航海時代に使われたastrolabio(アストロラービオ)こと、天体観測儀。我が家にはこのレプリカがある。    

エンリケ航海王子
遠洋航海用として開発された三角帆と三本マストを持つカラベラ船(carravela)。

大航海時代初期、エンリケ王子の命を受け初の海外遠征隊としてサグレスから未知の大海に船を漕ぎ出した王子の従者、ジョアン・ゴンサルベスとトリスタン・テイシェイラたちは、大西洋中のマデイラ諸島を、そして後に大西洋の中央にあるアソーレス諸島を発見します。(現在もこの2諸島はポルトガル領である)

1444年に遠征隊はカーボ・ベルデとセネガル川(現在のダカール近辺)に到達しアフリカ南部から大量の金を得ることになります。1444年から1446年にかけ、約14隻ほどの探検船がエンリケ王子の命にてポルトガルから出港し、1460年にはシエラ・レオーネ(ギニア)に到達。この年、エンリケ王子はサグレスにて66歳の生涯を閉じるのですが、王子の騎士団はアフリカ沿岸遠征のシエラ・レオーネまでの2400キロメートルを南下したことになり、ポルトガルはこうして大航海時代の幕開けとなります。

さて、エンリケ航海王子のこのアフリカへの果てしない冒険、探検事業への夢を駆り立てた源泉はいったい何だったのか?

一つには12世紀十字軍遠征の時代から語り継がれて来た「プレステ・ジュアン」伝説です。(Preste Joao。英語ではプレスター・ジョンと言う)

イスラム勢力との苦しい戦いの中で、「プレステ・ジュアン」と言うキリスト教徒がアフリカに王国を作っており、やがて彼の軍が十字軍の援助にやって来てイスラム教徒を敗北に追いやると言う噂が十字軍兵士達に希望をもたらしたことから始まります。この噂は時を経て伝説となり17世紀までキリスト教徒の間で流布されました。

イベリア半島をイスラム勢力に長い間支配されていたスペイン、ポルトガルは、国土奪回運動(レコンキスタと言う)を展開し、ついにイスラム教徒を半島から追い出すことにこぎつけたわけです。

キリスト騎士団のグランドマスターでもあったエンリケ王子はプレステ・ジュアン王国の力を借りて、キリスト教徒の(と、取りあえず書くのだが、騎士団のマスター、エンリケ王子は果たしてキリスト教徒か?もしかすると、テンプル騎士団同様、キリスト教徒と言うのは隠れ蓑であって、事実はローマ・カトリックからする異教徒の可能性はないかと思うところあり)ひいてはポルトガルの勢力を拡大したいと考えていたようです。エンリケ王子のアフリカ沿岸遠征は、「プレステ・ジュアン王国」を探すことでもあったのでしょう。
 
エンリケ航海王子
プレステ・ジュアン王国が描かれているアフリカの古代地図。エチオピアの辺りに位置している。                    
エンリケ航海王子
12世紀にプレステ・ジュアンが使者を通してビザンチン皇帝に送ったという手紙が出回った。その絵。

二つ目は、マルコ・ポーロの「東方見聞録」に書かれてあった「黄金の国・ジパング」、わが国です。黄金はいつの世にも権力者を魅了してきました。エンリケ王子はアフリカに沿って行けばインド洋に出て、やがて中国大陸にたどり着き、その東方のジパングを発見できると考えていたようです。
                             
黄金への夢はアフリカ南部から大量な金を獲得できるようになったことでとりあえず叶えられたわけですが、エンリケ航海王子の死後もポルトガルは更にインド航路発見を経てポルトガル世界海洋帝国となって行きます。ちなみに、インド航路発見をしたヴァスコ・ダ・ガマもキリスト騎士団の騎士でした。

ポルトガル語でO Navegador(オ・ナヴィガドール=航海者)という代名詞を冠するエンリケ王子の目指した先は、あるいは黄金の国と言われたジパングであったのかも知れません。 
     
さて、最後にエンリケ航海王子は、キリスト騎士団総長、グランドマスターとして騎士団に多くのアフリカ沿岸遠征命令を下したのですが、意外なことに、遠征航海そのものには参可してはいないのです。王子は机上で夢を描き、駒を動かしていた、という事実にわたしは少し驚かされたのでした。   

下記、航海王子が人生の後半期を過ごしたと言われるサグレス旅行記です。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1118.html「サグレス・航海王子の夢の跡」                                               
では、明日はボルサ宮です。
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2014年8月2日 

8月に入ったといは思えないような気候です。昨夜からの小雨で今日の気温は19度。昨年夫にねだって取り付けてもらったエアコンもほとんど出番がありません。今年のVindima(ヴィンディーマ)こと、ブドウの収穫も気になるところではあります。

先週は会社が3週間の休暇に入るのと、出張がないとのことで、某企業のお偉いさん、マセラティの君から毎日日本語レッスンのお呼びがかかり、毎朝通勤の様を呈し、かつての日本でのオフィス時代を思い出しました。

週日の日本語教室も5月の我が帰国で一ヶ月休講にしたが故、生徒たちの要望で8月も続けている状態なのですが、土曜日の教室二クラスは今週から夏季休暇に入り、少しのんびりした週末、久しぶりにゆっくりと調べものをしながらブログを書いています。

7月に日本から来た妹夫婦を連れて2年ぶりにシントラを訪れました。シントラはポルトの次にわたしが愛する町で、今回の訪問が5回目でしょうか。妹も「車とユウ(わたしのことである)の案内で、ガイドブックにはない、普通であれば気づかないものをいっぱい見せてもらえた!」と我が案内を大いに面白がってくれました。行く度に新たな発見があり、わたしにとっては実に興味深い町シントラです。夫の多少食傷気味な顔を横目に、今度は秋が深い頃に来て見たいなぁとねだっています。

今日はわたしが少し面白いと思ったものをご紹介します。久しぶりの、「spacesis、謎を追う」シリーズの一環とお思いくだされ。シントラの中腹にある「Chalet Biester」の紹介です。恐らく日本語ブログでこの館を取り上げるのはわたしが初めだと思います。エヘン^^

Chalet_biester2014

ポルトガル語では「シャレ・ビエステール」と読みます。Chaletと言うのは建築様式でアアルペンスタイルの家のことだそうですが、「Chalet Biester」はむしろ「シャトー」と呼ぶのが適切ではないか。19世紀の建築様式イギリスのクィーン・アンスタイルとネオゴチック、ネオロマネスクが混同しています。建築は19世紀の有名なポルトガル人建築家Jose Luis Monteiroです。

Biester館の存在を知ったのは、昨年、ジョニ・デップ主役の「The Ninth Gate(邦題:ナインスゲート)」をテレビで偶然観たときです。Ninth Gateと言うのは「影の王国への九つの扉」の意味。原作は、1993年に書かれたスペインの作家、アルトゥーロ・ペレス=レベルテの「デュマ倶楽部」で映画監督はロマン・ポランスキー。う~む、デュマ、ポランスキーと聞いただけでも摩訶不思議な作品と思えます。
the-9th-gate-1.jpg

ジョニ・デップが演じるCorsoは稀覯本(きこうぼん)を発掘してはそれを売り込むことを生業にしています。ある日、世界に3冊しか現存しないと言われる祈祷書『影の王国への九つの扉』のうち、どれが本物なのか調査を依頼されます。捜査をするうちに不可解な殺人事件が起こり、やがて本物の本を見つける鍵は堕天使ルシファーの署名が入った挿絵の版画にあること突き止めまる訳ですが、3冊の稀覯本を捜し求めて行く先がパリ、トレド、そしてシントラのこの屋敷です。
Chalet_biester2014

シントラが出てくるのでこの映画を観たのではなく、見ている途中で「あれ?知ってるジャン、この道・・・」と相成ったのでありました。以来今日まで時間なく、そのままになっていたのです。

わたしが調べる限り、シントラは太古の昔から「月の山」と呼ばれてきたエソテリックで多くの神秘思想主義者を魅了してきた町ですから、この映画の1シーンに取り上げられたのはさもありなん。

トップのBiester屋敷の写真は今回探して門外から撮ったものです。と言うのは、この屋敷はかつても現在も個人住宅で入ること叶わず^^; よって下記にネットで拾った画像をアップして見ます。

Chalet_biester2014
森の中にあるBiester屋敷。

Chalet_biester2014
正面。映画を観たからか、どことなく妖気が漂っているような気がする単純なわたしであります。映画では屋敷の前の噴水の中で、稀覯本の一冊を持った館主の死体が浮かびます。外見もさることながら、内部をもネットで拝見してみました。

Chalet_biester2014
最初の持ち主はドイツ系のコルク大商人、Ernest Biesterと言われます

この部屋などはじっくりと観察して探ってみたい思いに駆られます↓
Chalet_biester2014

Chalet_biester2014
屋敷内にある礼拝堂。色具合がフランスの「レンヌ・ル・シャトー」に似通っていないか?

chalet_biester6.jpg
神秘主義には定番のドラゴン。

ジョニ・デップの映画そのものはシンボル探索好きのわたしには面白いものでしたが、断っておくと、わたし自身は特別にオカルトに興味があるわけではないのです。昔から残されて来たシンボル読解と、それらを未来の人々に伝えんとした人間の心理に興味をもつ者です。

いかにしてキリスト教が欧米社会を支配してきたか、キリスト教から見る悪とはなんだったのかとヨーロッパ圏に住んでみて、これを知らずして文化は理解できないだろうとの結論に達し、追っかけ始めた謎シリーズではあります。

Ninth Gateに興味がある方は映画のCorsoの各シーンと本の挿絵を併せて意味を考えてみてください。シンボル解きのダヴィンチコード好きには面白いかもしれません。

私たち人間そのものが善と悪を内に持つミクロコスモス、されば、宇宙全体、マクロコスモスも然り。神、悪魔は言葉として知っているものの、それに対する欧米人の考えはキリスト教文化を背景に持たないわたしにはなかなか理解し難いものがあります。

どこかで目にした、「悪魔には問題があるが 神にも疑問がある」がわたしの正直な気持ちでしょうか。

最後にNinth Gateの中からの言葉「Every book has a life of it’s own life」ということで、本日は閉じます。

それでは、また明日。
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2014年6月5日 

4日、羽田を午前1時の夜間飛行便にて出発、フランクフルト経由で、同日、当地時間午前11時頃にポルトに到着しました。一ヶ月ぶりのブログ更新です。

時差をまともに引きずり、今朝は4時半に目が覚めて起床しました。家の中をゴソゴソ動き回ると夫の睡眠を妨げるので、久しぶりにゆっくりパソコンに向かい、留守中の出来事をネットから拾って読んでいます。

我が家はベルミーラおばさんのお陰で家の中は出かける前と変わりなく、ただブーゲンビリアと小薔薇がベランダを賑やかに彩っているのが女主人への歓迎でしょうか。日本滞在中、30度を越す異常気温の最後の一週間に比べ、ポルトの涼しさもまた少し異常かな?うっかり日本のつもりで夏服に着替えると風邪など引きそうです。

滞在中、少し歩くと腫れあがり、どこへ出かけるにもかばっていた右足小指も、昨日今日であまり気にせずに歩くことができるようになりました。予測通り、ポルトの帰る頃に治ったということです^^; 今回の妹宅滞在はこれまで子供達の住まいにいたのと違い、食料買出し、炊事掃除洗濯の家事の類はほとんどさせてもらえなかったので、動き回るのは自由だったはずが、この小指のせいでどうしても行動を制限されてしまい、残念至極!

しでかしたこと、出会ったこと等はボチボチ、取り上げて参るといたしました、今日はポルトガル帰国中に機内から撮影して、偶然ファンタジーな出来上がりになった画像を載せたいと思います。
  
月

月

月

月
雲海に映る飛行機の翼。

サイズを除いては修正なしです。夜間飛行中、ふと窓の外に目をやると、暗闇の中、右側に真ん丸い月が青く美しい姿で独り煌々と光を放っていました。飛行機の窓が2重(或いは3重?)であるのと、自身のデジカメが夜景用ではないのとでしょうか、こんな色をかもし出してくれました。

実際に見た景色は紫色ではありませんでした。右が月の反射、左は・・・?2重の窓で反射された月の姿?
そして、ふと思い出したのに、日本を去る前に眺めた月は三日月だったと記憶しているのがある。地上からは三日月でも、地球上からかなりの高度から眺められる月は満月なのだろうか。
う~む・・・これはちと調べてみないと!

え?おっちょこちょいのあんさんのことだ。何かと見間違えたのと違うか?
ち、ちがうよ。だってちゃんと証拠写真が、ほら、これでっしょ?
どなたか、説明してくださる方、いらしたら嬉しいです^^

それでは、I am back !ということで、できるだけ更新をして参りたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。
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2014年3月10日 

昨日、日曜日はこの時期恒例のポルトの椿祭りへ夫と出かけて来ました。

昨年のカメリアフェスティバルも当ブログで案内していますが、これまで会場はわたしが日本語教室を開いているアルメイダ・ガレッテ市立図書館のギャラリーだったのを、今年はポルト市庁舎での開催です。

2010年のJapan Weekのコーディネーターの仕事で市のスタッフとの打ち合わせのため、何度もこの市庁舎に出入りして知っていたので、わたし個人の意見としては市立図書館のギャラリーの方が市庁舎内の行事スペースよりも広さ、明るさがあり、展示会場としてはあちらの方が適しているのになぁ、なんて思っていたのです。

ポルトは昨年暮れの選挙で、これまで長年市長を務めてきたRui Rio氏が二期の任期完了となりRui Morreira氏が現市長です。どうやら「市庁舎をもっと市民に開放したい」との市長の意向のようです。ポルトでは市民を対象としたIDカード発行、パスポート、健保関係、免許証等の多くの手続き関係は市庁舎とは別場所のLoja de Cidadaoというところでなされ、市庁舎に一般市民が出入りするには、用件相手と予約を取り付け受付を通して内部に入ることになりますから、ともすると一般市民からは堅苦しい場所という感が否めません。ですから、今回の趣旨からすればなるほどと頷けます。

Cameria

中に入ってみました。
Camelia
市庁舎の表玄関。
Camelia
たくさんの人で賑わっていました。
Camelia


今年は例年と少し趣向がちがい、展示にカメリアこと椿がポルトガルに入ってきた歴史を取り上げていました。ポルト市内の小学校数校がその歴史を折り紙で表現したディスプレイが掲げられています。
Camelia

椿の歴史は後で触れるとして、この折り紙ディスプレイに関しては市当局から「折り紙ワークショップ」も兼ねて参加してもらえないかとわたし宛に連絡があり、それならいっそのことと、我が古巣ポルト補習校を紹介したのでした。補習校は現地の小学校を毎土曜日借用しており、こんな時の協力こそ感謝の気持ちが伝えられるいい機会ではないかと勝手判断(笑)

そうして補習校の生徒、父母、先生方が協力して出品したのが下の二作品です。
Camelia

Camelia


わたしは残念ながら直接協力できませんでしたが、オープン当日の午後はポルト在住の数人の日本の人たちが海上で折り紙ワークショップをしたそうです。展示会はカメリアのコンクールでもあるのですが、今年は小学校の展示物もその対象になったそうで、現地小学校と合同で出品した補習校の作品が入賞しました。

そして入賞したもう一点、他校のものですが、これはポルトガルの黄金時代である大航海の帆船(ポルトガルではNau=ナウと呼ぶ)を浮き上がらせ、周囲に椿の花をめぐらしています。上部には日本語とポルトガル語がみれれるでしょう?この日本語部分は日本語の生徒さんに頼まれてわたしがしました。

Camelia

これを作りながら子供達は椿がポルトガルに入る経路と歴史を学んだことでしょう。そこでわたしもポルトガル語からそれを学んでみました。ここから久しぶりのspacesis歴史の謎解きです。

椿はポルトガル語では「Camelia(カメリア)」と言いますが、Japoneira(ジャポネイラ)やrosa de Japao(日本のバラ)の俗名があります。特にポルトガル北部ではJaponeiraがよく使われます。
これは、ポルトガルでは椿が酸性土、雨の多い地方に適しているため、北部に多く見られるのだそうです。

Cameliaの語源はというと、18世紀に、モラビア(現在のチェコの東部)生まれのジェスィット団宣教師ゲオルグ・カーメルに因みます。彼が中国から椿の種をヨーロッパに送ったとの記録があるそうです。カーメルの死後30年してから椿はヨーロッパで人々に知られることとなりカメリアと名づけられました。

すると、ここであれ?となります。では、ポルトガルでは何故Japoneiraと呼ぶのか。

わたしがポルトガルサイトで検索していると、同様に疑問を取り上げて書いているExpresso紙の記事にぶつかりました。「カメリアなのか、ジャポネイラなのか」、つまり18世紀のカーメルが中国から送ったのが元なのか、それとも16世紀に偶然種子島に漂着して以来のポルトガル人航海者が日本から持ち帰ったものか、と疑問を呈しているのです。

ポルトガル人航海者が日本へ持ち込んだ物は鉄砲だけではありません。オリーブ、ブドウ、いちじく、マルメロなどの果樹も運ばれました。古来から日本人に愛されてきた椿が彼らの興味を惹かないわけはないでしょう。
Camelia


椿は遣隋使の小野妹子が隋帝国第二皇帝に献上したと言われ、隋では、海の向こうから来たざくろ、海石榴(うみざくろ)と呼んだと書かれてあります。また、7~8世紀の万葉集には既に「ツバキ」の表記があり、ツバキを詠んだ歌もあることから、元々は日本古来の植物であったと言えます。

一般的にはカメリアがヨーロッパに紹介されたのは18世紀で19世紀には園芸植物として流行したと言われますが、わたしは16世紀にはポルトガル人によって日本から運ばれた「Japoneira」説を支持します。件のExpresso紙記者は1668年頃(カーメルが生まれる前)に建てれたリスボンのPalacio dos Marques de Fronteira(マルケス・デ・フロンテイラ宮殿)の青タイル(Azulejo)にはツバキの絵が見られると記事でも取り上げています↓(画像はWikiより)

Camelia

単なる花の展示に終わらず、学校ぐるみで自国の歴史を絡め、遠い昔に遥か極東の国から渡ってきた椿の経路を学んだ子供たちは、日本にどんな思いをいだいたであろうか。そう思う時、教育目的を含んだ今回の市庁舎での展示会は、会場が暗い、狭いの難はあったとしても初トライとして成功を収めたと思うのであります。

よし、今夏は是非、リスボンの宮殿にあるカメリアのタイル絵を見に行ってみよう!


本日もお付き合いくださり、ありがとうございます。

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