2017年2月12日 

毎年、投票によって選ばれる「European Best Destination 2017」、つまり、「ヨーロッパで一番行ってみたい街」のコンペなのですが、2017年はポルトがトップに選ばれました。

ポルト

ポルトガルはこのコンペの上位常連になっているのですが、2012年、2014年に続き、ポルトは三度目のトップです。今回はアメリカ、ヨーロッパ諸国、南アフリカ、カナダなど、世界174カ国からの投票者の支持を得てトップの栄冠獲得となりました。

拙ブログ、また、別サイト「ポルトガル・ロマン(現在は休止)」では、ポルトをはじめ、自分が訪れたポルトガルの町々、またヨーロッパの国々をその都度紹介してきましたが、それもこの2月で12年目に入ろうとしています。ひょっとしたら、日本人観光客の勧誘に少しは貢献してるかな?と、一人嬉しい気分になっているのです。

地元ではポルトを別名で、「Cidade Invicta(シダーデ・インヴィクタ)」と呼びますが、「征服されざる街」という意味で、これは、19世紀始め、ナポレオン軍の三度のポルトガル侵入(イベリア半島戦争)の歴史に因む名称です。以下、歴史話です。

ポルトガルの18世紀、マリア一世の統治時代。フランス革命後、ナポレオンは皇帝を戴冠、イギリスを封じ込めるためヨーロッパ諸国にイギリス船への港閉鎖を通達します。が、イギリスとは古くからの同盟国であるポルトガルはこれに従いません。そこで、ナポレオンはポルトガル侵略政策をとります。

第一回が1807年、スペインを味方に引き込んだフランス軍ジュノー将軍の率いる3万の軍がスペインと国境を分かつベイラ・バイシャから浸入し、リスボンを手中に収めます。

このとき、マリア一世と後継者ドン・ジュアンは15隻もの海洋船に貴族や軍隊、大商人らおよそ1万人のポルトガル人を引き連れ、ブラジルへと逃れたわけです(なんちゅう・・・^^;腰が引けてましたぞ)。ポルトガル王室が再び本国ポルトガルの地を踏むのは、それから約20年後の1821年です。

リスボンを手に入れたものの、フランス軍の暴虐ぶりに、やがて各地で民衆蜂起が起こり、ポルトガルは盟友イギリス軍と合流してフランス軍を破り、ここで休戦協定を結び、フランス軍は撤退します。

しかし、ナポレオンは尚も諦めず、2度目の進入を試みます。1809年、今度は北部(スペイン、ガリシア地方)から浸入、ポルトに進入しますがイギリス・ポルトガルの連合軍、さらに民衆も参戦して、終にはフランス軍を敗退させました。 

ポルト
地図はwikiより

上図、赤線が第一回目、オレンジ線が2回目のポルト進入、青線が三回目。

ポルト、Boavistaロータリーの「Mouzinho広場」中心にあるモニュメントはこの時の戦いを記念したものですが、これは次回にご案内します。

さて、ナポレオンは、懲りずに三度目のポルトガル征服を試み、リスボンに再度兵を送るのですが、最後には敗退、1814年にスペインからも撤退することで、ナポレオン軍とのイベリア半島戦争は終了します。

ポルトガル独立戦争の時もそうですが、大軍を相手にいざという時にポルトガル人が出す底力は、愛国心のなす業でしょう。ワールドサッカーを見ても、それがどことなく表れているような気がます。

「ピレネー山脈から先はヨーロッパではない、アフリカだ。」と言ったのはナポレオンだったと記憶しますが、三度もポルトガル侵入に失敗した歴史上の事実を知ると、「ナポレオンの負け惜しみだな」とわた
しは思ってしまいます(笑)


長年、拙ブログで取り上げてきた我が街ポルトですが、写真も情報も一新したいと目下考えています。春なったら、何とか時間をと作って「spacesisが歩くポルトの街」を、再開するつもりです。みなさま、これからもどうぞよろしくお付き合いくださいませ!

最後に、「ヨーロッパで一番行ってみたい街」トップに選ばれたポルトの街の画像をお楽しみください。 そして、ポルトの町角でもしも、茶髪、グラサンのデジカメ、もしくはスマホを構えているわたしを見かけましたら、「spacesisさん」と、どうぞ、ご遠慮なく声をかけてみてください。

ではみなさま、また!







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2017年1月19日 夢をおいかけて(2)

わたしの日本語教室の生徒は15才から85才と年齢層が広い。

85才は先日拙ブログでも取り上げたドイツ系ポルトガル人のアルフレッドさんで、目下、わたしと一緒に「日本の心で読む百人一首」なる本を読んでいる人だ。ポルト、ドイツとそれぞれ離れて暮らした10年ほどを入れると、随分長い付き合いになる。

他は、高校生、大学生、サラリーマン、医者、料理人さん、空手道場の人達など、職種は様々だが、中には是非日本で働きたい、という若者たちもいる。

その中に、日本で働くことを夢見、わたしの元に通い始めて三年少しになる若者がいる。大学を出ていて英語ができるならば、日本で講師の仕事を得ることもさほど難しくないと思われるのだが、彼は大学向きではないようである。しかし、自分が興味を持つことには、実に熱心に取り組むタイプで、日本語の勉強はしっかりとして来る。

わたしは生徒が自分から言い出さない限り、彼らの職業云々はあまり質問しない。時に、日本語の授業をすすめる中で、その方面に話が向いたりすることがあり、若者H君の職業は、そういう話の成り行きで知ったのである。

意を決したように話したH君は、夜10時から明け方4時まで、市から請け負うゴミ収集処理業者での仕事をしているとのことであった。雨の日も風の日も、週6日、日曜日を除いては毎晩の仕事である。 「何も恥ずかしがる仕事じゃないですよ。」と言うと、「母も、何もしないで家にいるよりもしっかり仕事をする方がはるかに立派だと、言います」と返してきた。

ポルトガルで決められた最低賃金で働くのだが、いつか日本へ行きたいとの夢があり、そのための日本語勉強なのだと言う。大学は出ていないので、ゼロから始めなければならないのは承知だと、覚悟の言葉であった。

この話を聞いたとき、わたしは、随分昔のTVドラマだが、倉本聡が手がけて絶大な人気を得た長期ドラマ「北の国から」の主人公黒板五郎の息子、純と姿にH君を重ねた。

「北の国から95・秘密」で、純はH君同様、市のゴミ収集員の仕事をしており、ドラマの中で自分の匂いをしきりに気にした。H君もわたしのところに来ると、かすかにコロンの香りがしており、匂いを気にしてるんだな。匂いなどしないのに。と密かに思っているのである。

最低賃金で働き、わたしのところには週2回通いたいという。個人レッスンもわたしはかなり安く設定しているのだが、それでも彼の月の稼ぎの2割以上になることを知ったとき、「レッスン料半分値引き」を申し出た。
遠慮するH君に「値引きの分は日本行きの資金として貯めなさい」

こうして1年2年と教えていうるうちに、人擦れしておらず真面目、時におっちょこちょいの性格も分かり、普段はよそ様に対してあまり世話を焼くことをしないわたしが、何か手伝ってあげられることがないかと、ネット検索をし始めたのが、事の始まりである。

わたしのアメリカ行きは、もちろん、誰の手も借りなかったと言えばウソになるが、全て自力だったため、都会で一人暮らしをしながらの留学資金到達には時間がかかった。手が届くのに難しい夢も、ちょっとした手助けで実現に至ることもある。

H君とわたしとで、話し合ったり検索しあったりして、日本に1年間滞在でき、その間、バイトもできるというワーキングホリデイビザをようやく得、この春にH君は日本のとある場所で働くことができる。

H君、これがね、羽田空港のロビー、こっちは品川駅構内の地図、新幹線のホームはこっちの方向だよ、など等、ネットから地図を探し出しては、あれこれ口を挟んでいる近頃、世間をあまり知らなさそうなH君に、彼の母親同様、わたしも実は心配で仕方がないのだ。

が、若いのだ、夢を追って今できることを目一杯してみるといい。なぁに、ダメだなと思ったら、いつでも日本同様に美しいポルトガルに帰ってくればいいのだ。

porto

身長190センチのH君が、ひょろひょろと日本で活動する姿を思い浮かべると、どんな人生を拓いていくのか、楽しみでもあるのだが。渡日まで後6週間ほど、最後まで日本語授業で出来る限りのことを仕込みたいと思っている。

昨年結婚した娘には、「息子がひとり増えたみたいだね」と言われる始末であった。
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2017年1月17日 

小学生の頃は、毎晩奇抜な夢ばかり見ていたが、わたしはああなりたいこうなりたいとの夢は持たなかった気がする。この辺の記憶はあいまいなのだ。

ただ、一度読んだ本、「怪盗ルパン」に憧れて、「ルパンのように、わたしも世界をまたに架ける大怪盗になりたい。」という風なことを作文に書いて朗読し、担任に母が呼ばれたことがあるが、それは夢と言える類のものではない。

中学時代から歌うことが好きではあったが、歌手になりたいという切実な思いは持たなかった。歌手になれるほどの歌の上手さも容貌もないと、子供ながらに身の程を知っていたのか。しかし、今ならこう言える。身の程を忘れて夢を耕す人に、その夢の実現は来る、と。

子ども時代から大人になるまで、わたしたちは色んな夢を着ては脱ぎ捨てる。 私の場合を見れば、カラオケなどなかった当時だが、歌うのが好きでよく一人でギター片手に歌っていたのが、「芸は身を助く」とは言ったものである、プロとは言いがたいが素人にちょっと毛が生えたような歌いぶりでビアハウスの歌姫パートで稼ぎ(後記にて案内)、それを資金に、これもまた夢であった渡米を果たした。

わが子たちに日本語や初級英語を教えているうちに、楽しく教えるノーハウを自己流で身につけ、気が付けば補習校の講師をしていた。これなどは、なまじっか頭がよかったら考えが及ばなかったかも知れないと今でも思ったりしている。

つまり、「できない」というのが、子供のころ「できなかった」わたしには手にとるように分かり、では、自分ならどうしてもらったら「できるようになるか?」と反問できるのであり、そこから自分で指導資料を作成するのだ。

そして、その後は、「日本語ってほんま、奥深いんねぇ」と今ではポルトガルの生徒に教えながら自分も学べることを楽しんでいる。

2010年にはびびりながらも、ポルト市と日本の国際親善協会の共催で催された一週間を日本文化祭で市内を彩る「Japan Week 2010」の大プロジェクトのコーディネーターの仕事を約1年かけて引き受けさせられ、ラジオCMの声出演もしたりと、「豚もおだてリャ木の登る」を地でやったこともある。

こうして振り向けば、大学進学の夢こそ砕かれたが、わたしは幸いにして、夢のかけらを少し手にした部類だということが言える。なんだか自慢のオンパレードになったみたいだが、今日の本題はこれではなくて、息子達なのであります。

あれ?「たち」って、spacesisさん、息子二人いたっけ?まぁまぁ、ちょっとお聞きくだされ。

子供たちが小学校3年生くらいまでは、ベッドタイムストーリーと称して寝付く前のひと時、ずっと日本語英語の本を読んであげていた。とある冬の日に、息子に読んで聞かしたのは、ノルウェーの探検家で、イギリスのスコット大佐と競い、人類初の南極点到達を果たしたアムンゼンの子供時代の話であった。

北欧では寒さを防ぐために二重窓になっていると言う。少年アムンゼンは、体を鍛えるために冬の最中、その窓を開けっ放しにして上半身裸で寝たというような話だった。黙って聞いていた息子、その日もいつもとおなじように「おやすみ」と明かりを消してわたしは彼の部屋を出た。

しばらくすると、息子の部屋から灯りがもれている。ん?眠れないのかな?と思い、ドアを開けて見ると、あらら、息子!上半身裸でベッドに座り、なんと、部屋の窓を開けっ放しにしているではないか!説得してやっと息子が寝静まった後で、夫とわたしは腹を抱えてひとしきり笑った、遠い昔の我が家のアムンゼン事件であった。

宇宙考古学云々とわたしが言い出すと、今では長じた息子から、からかわれてしまうのだが、碌な知識もないのに、真夜中に起き出してわたしがミニ天体望遠鏡で月面を見たり、木星の衛星を見たりしてきたことは子供たちも知っている。

息子が子供のころは、ちょびっとであるけれど、おっかさんは自分のできない宇宙への夢を息子に重ねてみたことがあるのだ。

宇宙飛行士は虫歯があってはならない、とどこかで読んだ。それで、虫歯をつくらないためにチョコレートやジュースは子供のころはクリスマスの時期を除いては口にさせなかった。これはモイケル娘も同様であった。我が家の二人がジュースやコーラを口にするようになったのは、恐らく高校生になってからではないかと思う。それまでは、幼い時からの習慣で他所で出されても飲まなかったのである。

わたしが見る宇宙関係の映画は小さいころから息子を一緒に連れていったし、銀河系宇宙やスペースシャトル、パイオニア10号、そして、そのパラボラアンテナの裏にとりつけられたカール・セーガン博士の「宇宙人への手紙」なども一緒に遊びながら勉強したものだ。

息子は小学時代にブリティッシュ・スクールのプロジェクトで「Spaceship」に取り組み、見事学校長賞を射たことがある。かほどまでに、我ら母子の宇宙熱は盛んだったのだが・・・・

ある日見た宇宙関係の映画で、息子の宇宙熱は即、冷却・・・・(笑)8歳の息子の夢は、映像から伝わった恐怖で、あっけなくボツ、宇宙飛行士の夢はしぼんでしまった。何事もほどほどに・・であるわぃ^^; 以後、アメリカへ行って宇宙飛行士云々は一言も言わなくなった息子だ。

息子はその後どれだけの夢を見ては捨ててきただろうか。彼が望む人生は、世間一般で言う、ネクタイを締め月曜日から金曜日まで勤務し、その給料で暮らし、時にはおしゃれしたり旅行したり、趣味にお金をつぎ込んだりの生活ではないらしい。

「平凡な生活が退屈なようだけれど、それを持続させるのは本当はなかなか大変なのだよ。」と、わたしは思っているのだが、彼には彼の夢があろうと、時々口を挟みたくなることを抑えて、今は黙って見てることにしている。

さて、次回はもう一人の息子についてである。

「あの頃、ビアハウス」は、こちらで。エピソードを始めから読むには日付を遡っていただかなければなりません。

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2017年1月3日

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新年明けましておめでとうございます。
旧年と変わらず本年度もよろしくお願いいたします。

クリスマス、元日といい天気だったのが、昨日今日は小雨の静かな正月です。

ポルトガルの正月は元日のみが祭日で、昨日の月曜日から会社員は仕事始め、学校も今日から登校です。わたしも明日からいつも通りの日本語教室開始、新しい年の到来をしみじみ噛み締める間もなく、今年もあたふた出発と相成ります。

ところで、考えて見ますと拙ブログも早や11年目に、手始めにと訳も分からぬまま盲滅法始めたホームページ時代も数えますと13年目というネット暦になり、我ながら長期続いたことに少し驚いています。

当初はポルトガルから日本へ行った遠く離れて住む子どもたちへの遺言代わりのつもりだったのと、自分が日本語を忘れないがために、日々考えたことや、彼らとの思い出話、自らの青春時代を記録として綴っていたこのブログですが、いつの間にか途中からポルトの街の写真撮影と案内が主の、ガイド風になっていたりもしました。

その頃は、今日のように日本語授業も多く受けておらず、子どもたち不在の寂しさを紛らわすために、ポルト一人探検と称して暇を見ては街へ繰り出しました。長年住むものの、子育てに夢中になり見向きもせず生きて来たポルトでの生活でしたが、街をほっつき歩いては様々な発見に出会いブログ記事にせっせとあげてきました。

おかげさまで、ロンドンを拠点とする、とある会員雑誌の編集者に拙ブログに興味を持っていただき、ポルトガル案内記事執筆の仕事が舞い込むという幸運に恵まれ、恐々引き受けたライター歴も今に及んで10年になりますが、続ければ続けるほど、文章を書く才のない自分に四苦八苦しております。

が、ブログは自分の好きな文体で書けますゆえ、皆様にはつたない記事であると思いますが、その点はどうぞお見逃しの上、本年度もお付き合いのほどを宜しくお願いいたします。

また、これまで忙しさにかまけて、ついつい更新が長く滞ったりしましたが、今年は毎日とは行かないでしょうが、できるだけ綴りたいと思っておりますゆえ、乞うご期待!

本日は新年のご挨拶にて。では、みなさま、また明日!
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2016年12月31日 

おおつごもりの今日、例年通りであれば、ふぅふぅ言いながら、ひとりで大掃除をしているところなのですが、昨日、30日まで仕事をしていたゆえ、今年は早々に掃除を引き上げ、夫と昼食、買い物がてら、ダウンタウンへ出てみました。

年の終わりにダウンタウンなど、ポルトに住んで以来、多分始めてのことではないかな?

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街は地元の人間、ツーリストで溢れ、暖かめの大晦日の午後、たくさんの人がオープンカフェでくつろいでいました。

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さて、市庁舎通りことアリアードスに来ると、突然腹にびんびん響くビートがものすごい音量で聞こえてきます
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今宵、ロックコンサートを聴きながら年越ししようと、この市庁舎通りの中央歩道レーンを埋め尽くす若者たちに用意される野外ステージです。除夜の鐘がうるさいどころじゃ、あらへんで(笑)

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腹にも頭にも心臓にもビンビン響いてくるこのビート、自ずと体がリズムに乗りそうですが、この音を数時間聞くのは持たないな、と、そそくさと用を済まし、賑やかなダウンタウンを後にしました。

さて、日本は新年を迎えたことでしょう。本日はこれを2016年の最後の記事にいたします。
この1年、拙ブログにお付き合いくださり、ありがとうございました。

ではみなさま、Bom fim do Ano!(よいお年を!)
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