2017年6月19日

山火事のニュースが流れると、また今年もか、一体国は本気で国土焦土化の予防対策を考えているのかと腹立たしい思いになります。

毎年夏になると、乾燥気候と山中の清掃をしないがために大々的な山火事が起きるのです。自然発火が原因になることもありますが放火も多いのです。まだ、本格的な夏到来ではあるまいし、今回も放火の類かと、しかめ面でニュースを見ていましたら、どうも樹木への落雷が出火原因のようです。

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火災現場はポルトガル中部山間部のペドロガオン・グランデ一帯で、17日午後、強烈な熱波と雨の伴わない雷と嵐の最中に発火しました。1600人の消防隊態勢で昼夜の必死なる消火活動にも拘わらず、火はなかなか鎮圧されませんでした。

報道によると、この山火事での死者はこれまでに子どもを含み62人に上るとのこと。半数はペドロガオン・グランデの住人ですが、幹線道路に向かう路上の車内で30人、炎から逃げようと車外に出たと見られる17人の遺体が発見されています。

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消火活動の合間に束の間の休息をする消防士たち↑↓

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死者62人の中には4人の消防士も入っています。近年最悪の森林火災悲劇です。ポルトガル政府は18~20日まで3日間を国喪とする政令を出しました。

ペドロガオン・グランデの位置を地図で見てびっくり、実は近い内に訪れようかと夫と話していたPenela城はなんと、すぐ近くではありませんか。これから乾燥気候に入るポルトガルです、このような火災は山間部であればどこにでも起こりそうに思われ、国内の旅行は山岳地方を夏の間は避けたほうがいい、「Penela」は行きたくないとごねているわたしです。

近年にない痛ましい山火事惨事に、ポルトガルは泣いています。
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2017年6月18日
 
元気なうちは異国暮らしも悪くはないが、ちょっと風邪を引いて数日寝込んでしまうなどすると、てき面弱気になります。

自分が台所に立てないのですから、無理して起き上がり、普段着のまま行ける近くのレストランに出かけても、こういう時はまず油っこくそしてボリューム一杯にドサッと出されるポルトガルの食べ物が口に合わない。見ただけで食欲減退です。

これが日本だったら出来合いのお惣菜とか、お弁当とか、お寿司とか、あれとかこれとか、なんとでもできるのになぁ、とつくづく日本食が、いえ、真実は日本が恋しくなるのであります。おっとっと、これ以上言い募ると、つまらない愚痴記事になりますので、この辺で止めて置きましょう。

さて、わたしの日本語の仕事は、月曜日から金曜日までは自宅と某企業の個人授業、土曜日は市立図書館で2クラスを教えるという日程です。終日ではありませんが、一日3レッスンもあれば授業準備時間も入れると5時間くらいにはなります。企業での個人授業が入る日は、車での往復の時間も加わり。帰宅してすぐ次のレッスンにとりかかる、という風になります。

体調が優れない場合は、個人授業に関しては事情を説明してキャンセルができますが、土曜日のグループ授業はそうはいきません。生徒に前日に連絡しても、全員がメールボックスを開くとは限りません。Hotmailなど、送ったメールが届かないこともよくあるのです。

故に土曜日は多少の事情は押して、なんとか出かけることになるのですが、昨日がそうでした。

前夜は授業準備ができず、エイヤ!と早朝起床、シャワーを浴びて準備完了、出勤です。夫には「帰ってきたらきっとすぐさま寝ることになるだろうから、悪いけど昼ごはんは私を待たないで、一人で外で食べてね」と言い残して出かけました。

クラスでは、「風邪気味ですから、今日はわたしの側に近寄らないようにしてください」とあらかじめ警告して授業を無事終え、いつもの如く2時近くに帰宅、ドアを開けたところ、「お帰り」と夫。あら?ご飯まだ食べにいってないの?すると、「一緒に食べようと思って、今日はTake Awayを用意したよ」(Take awayは英国、Take outは米国で、どちらも「持ち帰り」の意味)。

リビングにはすでにテーブルがセッティングされて、串焼き肉とライス、それにサラダが。これは食べないわけにはいかないでしょう。調子が悪くなると食事を抜くのが常のわたしです。なぜかと言うと、しんどいのを押して自分が料理する上に後片付けもそのまま後に回すということができない性分ですから、体調も更に悪化し不機嫌も増加、と相成りますw

わたしが昼食を抜くのを見越してのことだと思うのです。食べる前から「後片付けが~」と言い出すわたしに、いいからいいからとテーブルにわたしを促す夫。何とか昼食を終えて、微熱と安堵と満腹とでわたしはすぐさまソファに横たわり、そのまま寝入ってしまったのでした。


ふと、窓から差し込む赤い光で目覚め、外を覗くと、んまぁ、真っ赤な夕焼け空!
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やおら起き出して、スマホを手に台所のベランダへ。
少し汗ばんだので後2日ほどで、体調はもとにもどるかな?と感じつつ、寝てる間に、珍しくきれいに片付いた台所を見て、夫にありがとうの思いでありました。

夫が用意してくれた昼ごはんと美しい夕焼けに力を少しもらい、この後作り始めた野菜たっぷりのスープとパン、それに果物が、夜10時半の晩御飯でした。この夕焼けはポルトガル夏時間の9時半なのであります。

本日はこれにて。
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2017年5月17日 

ポルトガルのファティマに於ける奇跡は、カトリック教世界では今世紀最大の幻視者出現の出来事です。

シスター・ルシアは、聖母マリアとの約束を守って、長い間「三つ目の秘密」を口外しないで来たのです。予言のひとつは第一次世界大戦がまもなく終わるということ、二つ目は第二次世界大戦の勃発です。

第3の予言をテキストに書き下ろすことを非常に恐れたシスター・ルシアの前に再び聖母マリアが出現し、テキストを書く時期が来たことを知らせます。テキストは、シスターの死後、もしくは1960年以前には開かないことを条件に、封書されてファティマ大司教に手渡されます。

この時、シスター・ルシアは二種類のテキストを書いたと言われています。

ひとつは、公開を許されたテキストは

これは、
   幻視を記述しているが、聖母の言葉は含まれていない。
   宛名がなく、シスターの署名がない。しかし、シスター・ルシアの
   帳面の記載として書かれてある。 
   1957年4月にバチカン聖省に移管され教皇ジョン・パウロ二世は1981年に読んだ。

もう一つあるといわれるテキスト。
   幻視の記述とともに、聖母マリアの言葉が含まれている。
   宛名書きがあり、シスターの署名がある。
   教皇のベッドの側の箱に保存された。
   1978年に教皇ジョン・パウロ二世は読んだ。
 
教皇ジョン・パウロ二世は、これまでのどの教皇よりも精力的に世界中を駆け巡り(その旅行距離は地球を数周した距離になる)、危険をおかして社会主義国まで訪問し、世界の平和に貢献した人として知られています。

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Wikiより。空飛ぶ教皇と呼ばれたジョン・パウロ二世

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Wikiより。266代フランシスコ現ローマ教皇

不治の病に冒されつつも、死の直前まで病をおして伝道を続ける姿に、宗教人としてだけではなく、人間としても深い感銘を受けたものです。テレビに映し出される病をおしてのつらそうな姿を目にするたびに、「こんなに深刻な状態になっているのに、なんで休まないのかなぁ。」と不思議でしようがなかったのです。

一時はファティマ第三の予言は1981年に起きた教皇の暗殺未遂のことであるとの話も出ましたが、確かに大きな事件ではあるものの、大いなる秘密の予言にしてはいまいち納得が行きません。

2000年にバチカンはファティマ『第三の秘密』に関する最終公文書として、第三のメッセージを正式に発表しています。
公開されたテキストに書かれてあるシスターの幻視は、アポカリプス(黙示録)終末記だと思われます。
が、これは聖書を一度なりとも読んだ事がある人には秘密でもなんでもありませんので、恐らく本当のテキストは未だ未発表のままであろうとわたしは推測しています。

法王のベッドの側にある箱は、法王のみ開けることができるものです。この箱の中にあるテキストを読んで卒倒してしまった教皇もいるとのこと。病苦を押して死の間際まで使命を果たそうしたジョン・パウロ二世は、いったいなにを知っていたのか。

シスター・ルシアが書き下ろした第3の予言テキストに書かれてあるのは一体なんなのか。まさに「ルシア・コード」でありましょう。

と言うことで、この数日間、検索しながら読んだものをまとめてみましたが、イスラム諸国の過激な思想と欧米の(キリスト教世界)衝突、さらにイスラエルも絡み、世界の状況を見ていると、いつどんなことが起こっても不思議がない現代です。

世界的に理解の出来ない事件や出来事が多く起きており、自分が若いころにしてきたいろいろな失敗を棚に上げて言うのはなんですが、なんでもありの世の中になってしまった現代社会には、恐怖に似た感情を覚えないわけには行きません。

これと言った特別の宗教には属していないわたしですが、しかし、常日頃から、この世界には、人知を遥かにしのぐ偉大なる力があることを、拒否する者では決してありません。現代の社会を見ていると、旧約聖書にあるソドムとゴモラの町を思い描いてしまいます。

昨今の日本から流れて来るニュースにも、わたしには、「なんでや?」と理解に苦しむことが多く、何かが狂っているとわたしには見えます。わたしたちは、自由、個性、平和の言葉に踊らされて、随分意外なところまで来てしまったのではないか、との感が否めません。

恐怖のないところに信仰は生まれない。ゆえに宗教者は世の終末の恐怖を人々に植え付け、教え説いて信者を募るのだ、との考えもありますが、歴史に目をむけると、人間のしてきたことは、たいてい身勝手なことです。それは、環境汚染、人間汚染、核兵器保持等等、現在形で更に加速して進んでいることを見て分かります。

ファティマの奇跡など、あまり興味のない人もいるでしょう。しかし、「教皇だから、美しい衣装を見に纏い、多くの信者に囲まれてお祈りをし、キリスト教世界の国々から敬われて、楽々の権力を得ていいだろうな」とのそれまでのわたしの印象をガラリと変えたのが、ジョン・パウロ二世の姿でした。

そのジョン・パウロ二世が、時々ファティマに姿を現していたことから、シスター・ルシアの第三の秘密を知るにいたり、興味本位で今回こういうことを調べてみたのですが、この世界に、一生を信義にかける人間がまだ多々いるということは、希望につながることなのではないかと、不信心なわたしが今回考えさせられたことでした。

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Wikiより。巡礼者で埋められたファティマ聖地

「ファティマの奇跡」を続けて辛抱強く読んでくださった方たち、ありがとうございました。

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2017年4月25日(火)

思えばわたしもポルト在住丸38年を過ぎようとしており「あなた方は知らないでしょうけど」と、自由を喫している今のポルトガルの若い生徒たちに自分が来た当時のポルトガルの光景を話すことがままある。20数年間勤めた補習校時代にも日本でのわたしの子供時分のことを国語授業の単元によってはとりあげて語りきかせた。

わたしは戦後生まれで周囲の多くがまだまだ貧しかったこと。テレビが無くてラジオ放送ドラマで育ったこと。いじめられっ子だったしいガキ大将でもあったこと。トイレが水洗式でなくてぼっとん式だったこと。

風呂は銭湯で、田舎の冬は家にたどり着く頃洗った髪が凍りがちだったこと、トンボとり、蛍がりをしたこと、蚊帳というものがあったこと、おやつは畑からとりたてのキュウリだったこと、など等、時には図入りで、まるで孫に話しかける祖母の如しではあった。親達からはその日の授業内容よりもY先生の子供時代の話をよく覚えていますわと報告されたものだ。

計算の仕方や漢字の読み書きを覚えてもらうことは勿論大切だが、そう遠くない昔の歴史を知ることは意義があるし必要である。本で学ぶよりも当時を知る人の口から直に聞くことは記憶に残るだろう。幾時代、幾世代を経て今の平和が培われたのだと年頃になって知ってくれたらと願うものである。

さて、4月25日の今日、「Vinte cinco de Abril (ヴィンテ・スィンコ・デ・アブリル=4月25日)」、カーネーション革命とも言われるが、42年間ものサラザール長期独裁政権を壊滅させて無血革命記念日で休日で、今年は40周年を迎える。無血革命とは言うが、これにたどり着くまでには革命にはつきものの、独裁者側による多くの血が流されたことは言うまでもない。

今日は独裁政権時代を扱った映画、2本を取り上げてみる。
一つはジェレミー・アイアンズ主演の「Night Train to Lisbon」。スイス、ベルンの高校教師グレゴリウス(ジェレミー・アイアンズ)は、ふとしたきっかけから、アマデウ・デ・プラドというポルトガル人作家の著書を手に入れ、その本に挟まれていたリスボン行きの切符で夜行列車に飛び乗り、独裁政権下でのアマデウの足取りを追うことになる。

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独裁政権下での地下抵抗組織運動、秘密警察、アマデウとジョージ、そして一人の女性を巡るミステリーを追って過去と現在を行き来するグレゴリウス。彼が訪ね歩くロケ地になったリスボンの古い街並はよく捉えられている。

もう一本は31年もの恐怖独裁政治をとった南米ドミニカ共和国のトルヒーユを扱う「The Feast of the Goat(原題はLa fiesta del chivo=チボの狂宴。Chivoはヤギの意味。日本では未公開のようだ)。主演のイザベラ・ロセリーニの語りで少女時代の残酷な回想を取る形で物語りは進む。政敵、批判者の暗殺、国外追放等を始め、35、000人ものハイチ系住民を虐殺したと言われるトルヒーユ反政府活動側による襲撃までを描いている。

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この種の映画は観た後数日、ズシリと重くのしかかるのであまり好まないのだが、かような歴史があることを知るのは自由と平和に甘んじているときには必要なのかもしれない。右派左派関係なしに、人間の自由を抑圧することは誰にも許されないはずである。「自由とはいったい何か」と、この年齢にいたって未だ思い巡らすことがある。

生まれながらにして自由であるのと、自由を渇望してそれを得た時代の人とは自ずと「自由であること」の重さが違うであろう。が、いずれの場合も自由とは責任が伴うものだとわたしは思っている。ともすればわたしたちはそれを忘れ、己の思い通りにすることが自由だと錯覚しがちだ。そんなときに気分が重くなる自由のなかった時代の歴史に目を向けてみる事は意味があると思う。

ポルトガルのカーネーション革命記念日に自由を噛みしめてみる。自由に甘んじていてはいけない。希望のなかに自由を夢見、ついに手に入れた自由を決して手放してはならぬと嚙みしめる。

本日のエントリー題はスティーブン・キングの本「監獄のリタ・ヘイワース」(映画名:ショーシャンクの空の下)の中に見出される一文からです。

希望はいいものだ。
多分なによりもいいものだ。
そして、いいものは決して死なない

(本文は2014年の書き直しです)
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2017年4月24日 (月)

今日明日と、4月25日の休日に因んで、二つの過去記事に少し手を加えたエントリーをあげたいと思います。

4月25日の明日は、俗にVinte-cindo de Abril(ヴィンテスィンコ・デ・アブリル=4月25日)、或いはカーネーション革命と呼ばれ、ポルトガル人に取って特別の日にあたります。

1974年に、ヨーロッパでも最も長かった独裁政治を終わらせた無血軍事クーデターが起こった日です。わたしがポルトに来たのは1979年の春でしたから、ポルトガルがサラザール独裁政権から自由を奪回してまだたった5年しか経っていなかったことになります。

当時のポルトを振り返れば、街全体が薄汚れた感が否めず、好きな人の国とは言え、「大変なところに来ちゃったなぁ」と索漠とした思いを抱いたのが正直なところです。近所の年端もいかぬ子供の口から、野良犬を相手に棒っきれを振り回しながら「ファシスタ!」と言う言葉が聞かれたのには、ギョッとしたものです。その野良犬は、後にわたしの愛犬になるというオチがあるわけですが。

日本語を学ぶわたしの若い生徒たちはそんな時代のポルトを知らないわけで、時に授業の流れで当時のポルトを語ることもあり、今やわたしは語りべのグランマ(Grandmother)もどきです。また、同年代の生徒さんたちとは、あんな時代があったと話し合えたりして、授業の潤滑油になること、しばしばです。

一度、日本からポルトガルにやってきた甥をコインブラ大学に案内した際、学生下宿が多く並ぶ昔のままの姿を残す大学周辺の細い路地を散策したことがあります。夫もコインブラ大学医学部に籍を置き学んでいたのだそうですが、その折に一軒の下宿屋の外壁に、人の顔を描いた青タイル絵がはめ込まれているのを見つけました。 

「Zeca Afonso、学生時代にここに下宿」と書かれてありました。カーネーション革命に彼の名は欠かせないのです。

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本名はJose Manuel Cerqueira Afonso dos Santosですが、Zeca Afonso(ゼカ・アフォンソ)若しくは単にZecaとして知られます。

幼い頃から健康に恵まれず、裁判官として当時のポルトガル領アフリカ・モサンビークに赴任した親兄弟と離れて、本土の親戚の家で育ちました。

学生時代にコインブラ・ファドを歌い、地方の人々の暮らしや伝統にまつわる音楽を自作し、後にAlcobaça(アルコバッサ)の高校でフランス語と歴史の教師を勤めながら(この職もやがて追われる)、社会問題を取り上げた作品を多く自作して歌い、この頃からZecaはサラザール独裁政権に対する反ファシスト地下運動のシンボルにされて行きます。

やがて、Zecaの歌は放送禁止となり、コンサートの多くは政治警察によってキャンセルされ、投獄されます。その名前も検閲にひっかかるようになり、そのため「Esoj Osnofa」というアナグラムを使ったり、レコーディングをフランスやロンドンでしたりします。この間、共産党入党に招待されているも、彼は断っています。

1974年3月29日、満席のリスボンのコリゼウ劇場で催されたZeca を始めその他多くのミュージシャン共演コンサートの最終幕で、彼の歌、 「Grandola ,Vila Morena」(you tube)が全員で高らかに歌われましたが、この時会場には密かに準備されていた4月革命のMFA(国軍運動)のメンバーが聴衆に混じっており、革命の「カウンターサイン」として、この「Grandola 」の歌を選んだと言われます。


  
註:Grândola =グランドラは南部アレンテージュ地方にある小さな町の名前。Zeca Afonsoはローカル色豊かで素朴なこの歌でグランドラの人々の同胞愛を歌っています。始めの部分は無音から入っていますが、辛抱強く待ってみてください。

1974年4月24日午後10時55分、革命開始の合図として最初にPaulo de Carvalhoの歌、「E depois do adeus」(そして、さようならの後で)がラジオで流され、それを合図に革命は静かに始まりました。約1時間後の翌4月25日真夜中00:20、ラジオルネッサンスで流された「Grândola 」は、「全て順調。行動に移れ」の二度目の合図で、これを聴いて左翼の若手将校たちが先頭になり無血革命の出撃が始まったのです。

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4月25日朝、クーデターを知った民衆は続々と町へ繰り出し、リスボンのアベニーダ・ドゥ・リベルダーデ(自由通り)は民衆と革命軍で埋め尽くされ、兵士たちの銃にはこの自由の勝利を祝って、民衆が投げたカーネーションの花が挿し込まれていました。以来、ポルトガルではカーネーションは自由のシンボルになりました。

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Zecaは1983年に、かつて追われた教師の職を再認定され復帰しています。この年にはその功労をねぎらう行賞が与えられましたが辞退し、1987年2月23日Setubal(セトゥーバル)にて病没。3万人が葬列をなし、棺は遺言通り何のシンボルも持たない真っ赤な旗で被われたと言われます。

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享年58才、どんな党への所属なく勲章なく、ポルトガルの自由を夢見、歌を武器に闘った抵抗の歌人です。

思想の右、左関係なく、貧しくとも自由のある生活をわたしは望みます。生活を向上させたいとがんばり努力できる自由。書物を選び読みすることができる自由。枠にとらわれず自己表現ができる自由。国の政策を言葉や態度で批判できる自由。

この当たり前に思われる自由を、わたしは今毎日空気のごとく全身で吸っています。、ポルトガルが40年ほど前は言論の自由がない国だったとは思えないほど、それは歴史の一部になりました。秘密警察がいたサラザールの独裁政治時代をわたしは知りませんが、おぞましい社会であったろうことは想像してみることができます。

自由であることがどんなに素晴らしいかを今再び思い出すために、わたしたちは歴史を振り返る必要があるのです。

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