2017年4月6日

これは、今から30数年ほど以上も前の、わたしが住んでいたポルトの通りでの話です。

この頃は、ポルトの街の至る所で野良犬を見かけました。当時はまだ犬を放し飼いにしてはいけない、という法律ができていなかったのです。ちょっと見だけでは、野良犬なのか飼い犬なのか見分けがつかないことも多かったのでした。犬はたいていは、近所の子供たちの良き遊び相手でした。

今では、日本同様、近所の子供達が外で遊んでいる姿も見かけなくなりましたが、当時は表通りで、サッカーをしたり祭りの焚き火をしたりして、子どもたちは暗くなるまで大声を出して遊んでおり、野良犬たちも一緒にボールを追いかけたり、焚き火の周りをぐるぐる走り回って喜んでいたものです。しかし、ご近所みなさんが犬好きだと思うのは間違いです。

決まって、とある犬嫌いのおばさんが、定期的に保健所へ電話をするのです。そうやって捕獲されて二度と通りに帰らない犬はたくさんいました。

さて、わたしのお気に入りだった野良犬の「クラウディウ」がそうやって捕獲されて、夫と二人で、(この事件については、次回に^^)とある病院からこっそり救出した事件以来、誰が言い出したのか、いつのまにかこの通りでは次のような不文律ができあがっていました。

すなわち、保健所の犬捕獲車を見かけたら、すぐさま表通りに面したそれぞれの家の小さな鉄格子ドアを開けて、路上の野良犬たちをドアの内側に引き入れること。ドアの内側にはたいてい小さな庭があり、そこは私有地になるのですから、捕獲車は侵入するわけにはいきません。

野良犬と言えども近隣の大人子供たちから、どの犬もめいめい勝手な名前をつけられて呼ばれ、えさを差し入れてもらっているのです。飼い犬ではないにしろご近所共有の路上に住む犬たちです。

通りに放されていない限り、犬を捕獲することはできないのですから、なかなかいいアイディアではありませんか^^で、捕獲車が去ってしまった後に、再びドアを開けて通りへ出す、というわけです。

ある日のこと、やってきました捕獲車!目ざとく見つけた人から順繰りにドアを開けて、早々とそこら辺の犬たちを呼んで各々の庭に招き入れました。これで安心だと思いきや、一匹が入り遅れてウロウロしてるではありませんか!しまった!と皆思ったものの、時すでに遅し。

黄色い制服を着た犬獲りびとが二人、大きな捕獲網を張りながらジリジリとその犬を追い込んで行きます。窓から顔を出しながらこの光景をわたしたちはみな固唾を飲んで見ていました。
「おお、coitadinho!」(コイタディーニュ=可哀相に)。
ポルトガル語で哀れみを表す言葉があちこちの窓辺やベランダから聞こえてきます

追い詰められてとうとう網にかかってしまった犬は網の中でまだ必死にもがいて抵抗していました。しかし、敵は扱い慣れて見事なものです、あらよあらよという間に網を絡めたまま、捕獲車の方へ運んで行き、檻に入れようと二人の犬獲りびとが網を空中に持ち上げた、まさに瞬間、奇跡は起こった!

犬が暴れて網が破れでもしたのでしょうか、スルリと犬が地面に投げ出されるように抜け落ちたのです!その瞬間、固唾を飲んで見ていた人々の口から、「ワー!」っと大きな歓声と拍手があがりました。もちろんわたしもその一人です。九死に一生を得たその犬は、一目散にいずこかへと逃げ去ったのでした。

大きな歓声があがった方向をギロリ睨みながら、苦虫をつぶした顔をして二人の犬獲りびとは我が通りを後にしたのでした。

今はと言えば、野良犬への規制もすっかり厳しくなり、路上で見かけることはなり、かつて生ごみは路上に置いていたのが、コンテナに入れて出すようになり、野良犬、野良猫、カモメまで、餌を得るのは簡単ではありません。

道路が清潔なことに、勿論異を唱えるのではありませんが、あの頃のことを思い出すにつけ、環境がきれいになって住みよいのは確かにいいのだけれど、あまりにも整然としてしまうと、犬猫好きなわたしなどは、どこか冷たく感じられたりします。

人間の生活もそこそこに整い、抜けているところがあった方が生きやすい、というのがわたしの思うところであります。

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2017年4月1日

昨年9月まで30年ほど狭い我が家を掃除に来てくれたお手伝いさんの、今日は話です。

週に2度、もう解雇したくも解雇できず、ずるずる今日まで19年間午前中の3時間、大きくもない我がフラットの掃除を頼んでるDona Belmiraが(ドナ・ベルミーラ)おります。倹約のために、もういいかな?と思ったりすることもあるのですが家族の一員みたいなもので解雇などもう出来なくなってしまいました。

Donaと言うのは、ポルトガル語で既婚女性の名前の前につけられます。例えばわたしの場合は、「Dona Spacesis」と言う具合です。奥さんということでしょうか。

さて、そのD.(Donaの略)Belmira、今朝我がフラットのドアを入るなり、自分が先日行った血液検査クリニックでの不満をまくし始めた。

ポルトガルでは血液検査は病院ではしない。それ用のクリニックがあり、そこで採血してもらい、後日検査結果を受け取けりに行き、それから、その結果を病院の担当医にもって行って診断を仰ぐのである。

何に立腹してるかといいますと、こうです。

どこもそういう検査のクリニックは人でいっぱいになるのは目に見えているので、家を朝早く出た。それでも自分の番号札は44番。じ~っと我慢の子、自分の番号が呼ばれるのを待っていたのだそうです。

段々44番に近くなり42番が呼ばれた。いよいよ自分の番だと思いきや42番から43番、44番をスッ飛んで50番と54番を看護婦さんが呼んだのだそうだ。

実を言えばこういうことはよくあるのです^^;
看護さんが番号を間違えるのではなくて、間に例えば知り合いとか、知り合いの紹介とかの人をサーッと間にいれるのでして^^;言うなればコネですね(笑)

しかし、D.Belmira、黙っておりませんです(笑)なんでよ。なんで43の次が50になるの!早速その場で看護婦をひっつかまえて、一席ぶった。

「ちょ、ちょっと、看護婦さん、お待ちよ。今、呼んだ番号、何番と何番?」
「この番号札、順番でしょ?」 「そうですよ」と看護婦。
「あたしゃ、44番なのよ。43の次がなんで50になるの?」
「あたしの里じゃ、43の次は44が来る。50は49の後と学校で習った。ここは違うのかい?」

ここまで聞いてわたしはキャハハハハと大笑いしてしまった。D.Belmiraは続ける。

さすがの看護婦もこれには抗しきれず仕方なく43、44と呼びなおした。しかし、Dona Yuko,その後がいけまへん。

「見てくださいよ、D.spacesis」と採血の痕がついてる腕をつきだして、「あの看護婦ったら、腹いせに2度も間違った振りして、針が通らないとこに突き立てて!」  見ると、腕の同じ箇所に3つの注射針の痕が確かにある。

必ずしも故意にしたとは思われないが、なんともわかりません^^; えらい気の毒なことではありましたが、わたしは、D.Belmiraがプリプリ怒っているに拘わらず、「あっはははは」と大声で笑わずにおれないのでした。

こういう小さなことから大きなことまで、ポルトガルがコネ社会であるのは間違いない。フェアじゃないと知っていながら、夫の同業の医者や看護婦から、わたしも時々夫の七光りを受けて、43番の次に50番が来るようなことをしてもらってることが残念ながら・・・ある。そのようなことを自ら頼みはしないが、夫を知っている人たちは知らぬ間にそういう計らいをしてくれてるはずです。

そう思ったら、「あっはははは」とひとしきり笑った後で気がひけてしまいましたっけ・・・
いやぁ、わたしもエラそうなことは言えませんて。

ベルミーラおばさんが我が家を去って後、新しいお手伝いさんが通って来ていますが、こんな楽しい話が聞けたりするようないい関係になるといいなと、楽しみにしているわたしです。

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2017年3月29日

日本滞在中であちらこちらと出歩いているのと、慣れない他人のパソコンを使用しての更新は大変故、更新が滞りがちです。
せっかく拙ブログを訪れてくださる方には申し訳なく、日本滞在中は過去記事を掲載していますので、ご了承ください。

さて、今年はいよいよ70の大台に乗るわたしです。これといった大きな病なく過ごしてこれたことに感謝する日ごろですが、今日はそんなわたしの年齢を遥かに超えた二人の対照的な女性についての過去記事を引き出します。以下。

安楽死が法律で許可されている国は、勿論それなりの条件があるのですが、世界にオランダ、ベルギー、そして国ではないが、アメリカのオレゴン州だそうです(現在はもっと増えている可能性もあります)。

この問題に関して、わたし自身の結論は出ていないので、それについて書くことは今日は避けるのですが、4,5日前にこんな二つの話を耳にしたのです。

ーベルギー、アントワープに住む93歳の安楽死を希望する女性が、法律的にその希望が受け入れてもらえず、ハンガーストライキに入った。93歳のこの女性は、病気をしているわけでもないのだが、「もう生きているのがイヤになった」のだと言う。ー

すると、その翌日、ポルトガルのラジオ番組で、ポルトガル南部、アルガルヴ地方に住む91歳のアンゴラ(アフリカ系)女性の話が話題にのぼりました。アンゴラからの移民で苦労のしづくめ。学校へ行くこともなくずっと文盲で来たところ、一念発起、小学校1
年生から勉強を始めるのだそうです。

91歳の女性が、果たして小学校での勉強にちゃんとついて行いけるのか、体力面で継続できるのかなどの疑問は別として、わたしはこの二つの話に、なんと言う人生のとらえ方の違い!としばらくの間、考えさせられたのであります。
そして、わたしも時々、いっちょ前に人を励ますときに使うこんな例え話を思い出したのでした。

自分の好きなスピリッツ(お酒)が3分の1入ったグラスを手に、「あと三分の1しか残ってない^^;」と見るか、「あと3分の1も残っている^^」と見るか。これは、物事をネガティブにとらえるかポジティブにとらえるかの違いでしょうか。どちらのとらえ方をするかによって、人生もまた大きなうねりを見せて違っていくような気がします。

アントワープの女性については、もっと詳しい情報が入ってこないのでなんとも言いがたいのですが、ふと、この女性は子供とか孫とかの家族は、愛する人はいないのだろうか、これまでどんな人生を送って来たのだろうか、と、苦労の連続の人生だったであろう、ポルトガルのアンゴラ女性のそれよりも、わたしは興味を覚えてしまいます。

そして、長年寝たきりの夫の母を思います。14年間寝たきりの彼女は94歳で亡くなりましたが、後半の7、8年は流動食も飲み込むことができなくなり、鼻チューブを通して栄養をとり、家族が話しかけても反応がなく、意識がないようで眠る月日でしたが、時々そういう義母のことを知っている人のなかには、「それは生きているとは言えない。死んだほうがましかも知れない。」というのもいました。

言うことが分からないわけではありませんが、ただ、それに対してわたしは言ったものです。「死んだほうがましかどうかは、周囲のわたしたちは分からない。なぜなら本人は言葉を発することも、なにかの意思信号を送ることもできないのだから。

14年も寝たきりの義母を見ながらわたしは思ったものです。意識がなく眠っているだけだと思っているのは周囲の人間の思違いであって、実際には周りで何が起こっているのか、周囲の人間がどんな話をしているのか、彼女は全て知っているのかも知れない、と。

わたしたちは毎日生きているには違いないけれでも、確実に日々死という未来に向かって時間を刻んでいるのもまた事実です。
彼岸のことは、誰一人として帰ってきた者がいないので、「死」が果たしてどういうものであるかは、想像する以外はないのですが、
ベルギーの93歳の女性は、どんな風に想像して、「安楽死を希望するのかと、この数日、なにかの拍子に頭をよぎって離れない
対照的な二つのニュースではありました。

spacesisさんはどっちのタイプかって? う~ん、実際に自分の身に起こってみないと分かりませんが、案外、91歳くらいになって、「どれ、孫も一人前になったところで、経済的に余裕もできたし、念願の大学へ行くべか^^」てなことも、言い出しかねないかしら(笑)

そそ、その頃には、我がモイケル娘が日本での大学進学を目指した時に約束したの「MSFEこと、麻衣子老人支援財団」が出来ておりますようになんまんだ~~(笑)

それについては下記にありますので、どぞ。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-82.html

本日はこれにて。

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2017年3月7日 

土曜日の展示会報告は別の日にするとしまして。

一昨日、日本語生徒の一人、H君を日本へ送り出しました。と言っても、4時半くらいには空港へ出向いていなければならない早朝の出発だというのと、できれば家族が別れを惜しむのを邪魔したくないというのとで、わたしは見送りを遠慮したのでした。

来なくてもいいのだよと言うのに、H君は忙しいなかお母さんを連れて金曜日に我が家へ、土曜日には展示会場へとわざわざ二日続けて挨拶にきてくれました。

ふと思い出してみると、偶然にも8年前に長男を見送った日にちとたった一日違いで、H君は旅立ったのでした。ありきたりの言葉ですが、当時の息子同様に、希望に胸膨らませて出立したことでしょう。何しろ、子どもの頃からの夢が日本に住むことだったと言うのですから。
だもので、日曜日は、フランクフルトについただろう、乗り換えてるだろう、機中だろう、背丈が高いので窮屈だろう、そろそろ日本に着くころだ、新幹線の乗り継ぎは無事にできただろうか、と日がな一日、そんなことを考えながら、あれこれをしていたのでした。

ポルトガル時間の午後11時半頃、無事日本到着とのメッセージが入り、lineで少し話すことができました。万が一、日本到着後、何かが起こって連絡があるやも知れぬと、普段寝る時はオフにするケータイをオンのまま枕元に置き、実は夜眠れずに悶々としていたのでありました。

午前3時ちょっと過ぎ、ついに起き出し、或いは?と思いFBを開いてみると、おお!品川駅の動画だ!そしてやがて、目的地に着いて迎えの人に会ったとのメッセで終わり。

長男のときも同じ具合のわたしで、何度も寝返りを打っては一睡もせず、翌朝は目に見事な隈を作ったのでした。当分は、わが子たちがしたように、慣れない日本の生活で色々な冒険をすることになるだろうH君、時には初心を思い出し、がんばってねと、願わずにはおられません。

H君の出立を思うにつけ、息子が旅立った8年前に思いを馳せ、当時の日記を引っ張りだしてみました。どぞ。

2009年3月4日 行きました、息子

衣服は二の次で、分解したpc接続音楽機器のパーツの箱二つを大事そうにバックパックに詰め込んで背負い、ノートパソコンを持って。

大きな旅行カバンは、関空に着くや、新しい住まいとなる千葉の新住所に宅急便で送ることになるので、何かの時のたま、パジャマくらいは手荷物に入れろというのに、音楽機器で重量目一杯、パジャマなしでも寝られると言って聞かない。

出発前々日まで、画家の友人ジェスパー君の引越し先となるアパートのペンキ塗りを手伝いに行き、夜な夜な出かけては午前様。出発の前夜、翌朝は4時起きと言うに、まだ出かけようとするので、さすがにのんきなおっかさんも、 「バカたれめが!いい加減にせぇ!」と爆弾落とし(爆)

リスボンから引き上げて来たこの二週間、ひと時もじっとしていることのない息子ではありました。

出発前、「お前、千葉に宅急便で送るはいいけど、漢字は大丈夫?」と聞くと、「うげ!ローマ字じゃダメかな。漢字書かなきゃダメだったら、書いてもらうから、プリントしてよ。」っとっとっとっと、マジかい、息子^^; こりゃ先が思いやられること、目に見えし。(その息子も今は日本語能力試験1級の勉強をしている)

9年間、毎週土曜日の日本語補習校に通い、通信教育も同じく9年間しっかり修めたとは言え、中3を卒業して以来今日まで13年間、わたしと話す以外は日本語からずっと遠ざかって来た彼、無理からぬことではあります。

さて、3月3日、昨日の朝6時の便でフランクフルト→関西空港→福岡→下関へと26時間の長旅です。やっと日本時間で今日の夕方、下関にあるモイケル娘のアパートに到着でした。

着くなりモイケル娘、「兄貴、関空でタコ焼きと納豆巻きを食べて、今、コンビニで肉まんとカルピス買ってきて食べてる・・・」カルピスは、1年に一度、クリスマスとお正月にマドリッドから取り寄せる貴重な飲み物で、息子の好物なのであります。肉まんも然り、この手の日本食はこちらではとても高いもので、そうそう買えるわけではないのでした。

息子よ、分かる分かる^^

で、更にモイケル娘が続けるには、「アパートに靴履いたまま、あがったんだよ~」これにはわたし、あっはっはっはと大笑い。だって、これ、昔、わたしたちが帰国して所沢の妹宅に滞在する度に、「ジュアン君!また靴履いたまま家にあがってる~」と彼女をしょっちゅう泣かせていたのであり、あぁ、成長のないヤツめ、あの頃のまんまではないか@@

昨日まで息子の気配があった彼の部屋は、もぬけのカラ。使い古された数本のエレキギターが、おっかさんとおとっつぁんの気持ちを反映するように、生気を失い寄り集まって立てかかっています。

今晩、妹こと我がモイケル娘のいる下関で一眠りして、明日の朝はいよいよ、二人は、いえ、「二人+3匹の猫+それぞれのパソコン+それぞれのバックパック」らは、一路新幹線で関東へ移動です。

その格好を想像するにつけ、噴出さずにはおられないおっかさんであります。


2009年3月6日 ズッコケ兄妹の東京移動

「昨日ね、(下関の)ショッピングセンターへ行って、マッサージチェア(電気あんま椅子だよ、それ^^;)座ってみたら、いつの間にか眠っちゃった。」「そしたらね、靴を脱いでください、それにここは寝るとこではありません、て言われた。あはは」
ん?と思い、話をよく聞いてみました。

わたし 「モイケルはその場にいなかったの?」
息子  「いたよ。モイケルも別のに座ってた。で、ぼくの前に中年の男の人も座ったんだ。 その人もちょっと寝てたけど。」と言う。

モイケルは靴を脱いだが、その中年の男の人は靴を履いてあんま椅子に座ったいたのだそうだ。
それでこの母、のんびり者とはいえ、そこは海千山千(笑)、アッと思い、

「お前、ここを出たときのあの靴履いてたんじゃないの?」
「うん。穴があいてたし、それにジャスパー(ポルトに住む幼友達。発つ前の日まで彼の新居のペンキ塗りを手伝っていた)のとこでもそれを履いてたから、ペンキもあちこち付いてた。」

思ったとおりだ。長旅でひげも剃ってないだろうし(パジャマ同様、電気シェーバーも手荷物に入れろと言ったのに、聞かなかったw)、頭の髪だっていい加減な自己床屋だし、その上、穴あきペンキ付きの靴とくれば、これはもう立派なホームレスじゃん・・・

「お前、ホームレスと間違えられたんだよ! 」「うはははは。」と笑う息子、はい、母親も一緒に笑ってしまいました
です^^;

発つ前に、靴もポルトガルのは履きやすいし、物がよくて値段も廉価、買っていけ、床屋くらい行っておけと言うたのに、なんだらかんだらと出歩いてちっとも家におらず、結局、日本で買うからいいや、と件(くだん)の穴あきペンキ付き靴を履いて行ったのでありました^^;

こんな具合ですから、いったいこれからどんな展開になるのか、困ったような可笑しいような。
職場ではスーツを着ることになっているので、当分は着付けなくて借りてきた衣装を身に付けた感じであろうと想像すると、もう腹がよじれてきます(笑)

日本上陸第一日目がこんな風で、翌朝には東京へ向かった「二人+3匹の猫+それぞれのパソコン+それぞれのバックパック」らですが、頃合を見計らってモイケル娘の携帯電話にメッセージを入れますと「つかれた~~」と返信一言。

その後すぐに引越し荷物が到着し、アパートの4階まで引き上げたようで。ちなみにアパートはエレベーターなし。よくやるよ(笑)

少し前に所沢の妹と二人の引越しについて話したのですが、その際にそれぞれがパソコンも運ぶので3匹猫をどうやって運ぶか?となり、今でこそあまり使われないでしょうが、わたしの若い自分にはキャリーカート(↓)なるものが重宝されたものでモイケル娘に

これを買え!と勧めてあったのでした。
1カート

一人はペットケージをひとつ持ち、もう一人はこのキャリーカートにペットケージ二つをくくりつけて運べばよか~、と考え^^

すると、この話を聞いた我が妹、なにげにか、クスッと笑い、「面白いね、ゆう(彼女はわたしをそう呼ぶ)が昔したことと、似たようなことを、子供たちもするんだわ。おっほっほっほ」
 
に、似たようなこと・・・
 
あぁ、思い出せば遥か遠い昔、2歳の息子を連れて3年ぶりの初めての里帰り。当時、ポルトガルから日本へ帰国するには、必ずヨーロッパの乗り継ぎ都市で一泊しなければなりませんでした。
 
ロンドンのガトウィック空港ホテルで一泊し、翌朝リムジンバスでヒースローへ移動。ロンドンから日本まで18時間、ポルトからは2日がかりの旅でした。

旅行カバンは紙おむつと離乳食とでパンパン(笑)よちよちと歩き始めた2歳の息子を腕に抱きかかえるのはとても体力なく、思いついたのがこういうのでした↓

カート2


そ、そうです^^; ショッピングカート(笑)
    
これに荷物の如く息子を入れて、ヒースロー空港、成田空港、そして、一日の仕事も終わった人出でごった返す夕暮れの池袋の街中を、「あーっはっはっは!」と指差され笑われながら、ゴロゴロひきづって妹宅へたどり着いたのでありました。

恥も外聞もなく、されど母は強し(笑)しかし、このショッピングカートをポルトで調達するのも苦労したのでありまっせ^^妹はこの時のことをしっかり覚えておったのでした。

歴史は繰り返すってかい!お粗末さまでした。―――日記、ここまで。


H君の出発にあたり、ひとしきり、8年前の子どもたちのことを思い出して、あれから、モイケル娘は13年、東京息子となった彼は9年目を迎える日本滞在です。月日の流れにしみじみ思いを寄せていたのでした。おっかさんも年取るはずですわぃ。

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2017年2月12日 

毎年、投票によって選ばれる「European Best Destination 2017」、つまり、「ヨーロッパで一番行ってみたい街」のコンペなのですが、2017年はポルトがトップに選ばれました。

ポルト

ポルトガルはこのコンペの上位常連になっているのですが、2012年、2014年に続き、ポルトは三度目のトップです。今回はアメリカ、ヨーロッパ諸国、南アフリカ、カナダなど、世界174カ国からの投票者の支持を得てトップの栄冠獲得となりました。

拙ブログ、また、別サイト「ポルトガル・ロマン(現在は休止)」では、ポルトをはじめ、自分が訪れたポルトガルの町々、またヨーロッパの国々をその都度紹介してきましたが、それもこの2月で12年目に入ろうとしています。ひょっとしたら、日本人観光客の勧誘に少しは貢献してるかな?と、一人嬉しい気分になっているのです。

地元ではポルトを別名で、「Cidade Invicta(シダーデ・インヴィクタ)」と呼びますが、「征服されざる街」という意味で、これは、19世紀始め、ナポレオン軍の三度のポルトガル侵入(イベリア半島戦争)の歴史に因む名称です。以下、歴史話です。

ポルトガルの18世紀、マリア一世の統治時代。フランス革命後、ナポレオンは皇帝を戴冠、イギリスを封じ込めるためヨーロッパ諸国にイギリス船への港閉鎖を通達します。が、イギリスとは古くからの同盟国であるポルトガルはこれに従いません。そこで、ナポレオンはポルトガル侵略政策をとります。

第一回が1807年、スペインを味方に引き込んだフランス軍ジュノー将軍の率いる3万の軍がスペインと国境を分かつベイラ・バイシャから浸入し、リスボンを手中に収めます。

このとき、マリア一世と後継者ドン・ジュアンは15隻もの海洋船に貴族や軍隊、大商人らおよそ1万人のポルトガル人を引き連れ、ブラジルへと逃れたわけです(なんちゅう・・・^^;腰が引けてましたぞ)。ポルトガル王室が再び本国ポルトガルの地を踏むのは、それから約20年後の1821年です。

リスボンを手に入れたものの、フランス軍の暴虐ぶりに、やがて各地で民衆蜂起が起こり、ポルトガルは盟友イギリス軍と合流してフランス軍を破り、ここで休戦協定を結び、フランス軍は撤退します。

しかし、ナポレオンは尚も諦めず、2度目の進入を試みます。1809年、今度は北部(スペイン、ガリシア地方)から浸入、ポルトに進入しますがイギリス・ポルトガルの連合軍、さらに民衆も参戦して、終にはフランス軍を敗退させました。 

ポルト
地図はwikiより

上図、赤線が第一回目、オレンジ線が2回目のポルト進入、青線が三回目。

ポルト、Boavistaロータリーの「Mouzinho広場」中心にあるモニュメントはこの時の戦いを記念したものですが、これは次回にご案内します。

さて、ナポレオンは、懲りずに三度目のポルトガル征服を試み、リスボンに再度兵を送るのですが、最後には敗退、1814年にスペインからも撤退することで、ナポレオン軍とのイベリア半島戦争は終了します。

ポルトガル独立戦争の時もそうですが、大軍を相手にいざという時にポルトガル人が出す底力は、愛国心のなす業でしょう。ワールドサッカーを見ても、それがどことなく表れているような気がます。

「ピレネー山脈から先はヨーロッパではない、アフリカだ。」と言ったのはナポレオンだったと記憶しますが、三度もポルトガル侵入に失敗した歴史上の事実を知ると、「ナポレオンの負け惜しみだな」とわた
しは思ってしまいます(笑)


長年、拙ブログで取り上げてきた我が街ポルトですが、写真も情報も一新したいと目下考えています。春なったら、何とか時間をと作って「spacesisが歩くポルトの街」を、再開するつもりです。みなさま、これからもどうぞよろしくお付き合いくださいませ!

最後に、「ヨーロッパで一番行ってみたい街」トップに選ばれたポルトの街の画像をお楽しみください。 そして、ポルトの町角でもしも、茶髪、グラサンのデジカメ、もしくはスマホを構えているわたしを見かけましたら、「spacesisさん」と、どうぞ、ご遠慮なく声をかけてみてください。

ではみなさま、また!







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