2017年5月17日 

ポルトガルのファティマに於ける奇跡は、カトリック教世界では今世紀最大の幻視者出現の出来事です。

シスター・ルシアは、聖母マリアとの約束を守って、長い間「三つ目の秘密」を口外しないで来たのです。予言のひとつは第一次世界大戦がまもなく終わるということ、二つ目は第二次世界大戦の勃発です。

第3の予言をテキストに書き下ろすことを非常に恐れたシスター・ルシアの前に再び聖母マリアが出現し、テキストを書く時期が来たことを知らせます。テキストは、シスターの死後、もしくは1960年以前には開かないことを条件に、封書されてファティマ大司教に手渡されます。

この時、シスター・ルシアは二種類のテキストを書いたと言われています。

ひとつは、公開を許されたテキストは

これは、
   幻視を記述しているが、聖母の言葉は含まれていない。
   宛名がなく、シスターの署名がない。しかし、シスター・ルシアの
   帳面の記載として書かれてある。 
   1957年4月にバチカン聖省に移管され教皇ジョン・パウロ二世は1981年に読んだ。

もう一つあるといわれるテキスト。
   幻視の記述とともに、聖母マリアの言葉が含まれている。
   宛名書きがあり、シスターの署名がある。
   教皇のベッドの側の箱に保存された。
   1978年に教皇ジョン・パウロ二世は読んだ。
 
教皇ジョン・パウロ二世は、これまでのどの教皇よりも精力的に世界中を駆け巡り(その旅行距離は地球を数周した距離になる)、危険をおかして社会主義国まで訪問し、世界の平和に貢献した人として知られています。

JP2
Wikiより。空飛ぶ教皇と呼ばれたジョン・パウロ二世

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Wikiより。266代フランシスコ現ローマ教皇

不治の病に冒されつつも、死の直前まで病をおして伝道を続ける姿に、宗教人としてだけではなく、人間としても深い感銘を受けたものです。テレビに映し出される病をおしてのつらそうな姿を目にするたびに、「こんなに深刻な状態になっているのに、なんで休まないのかなぁ。」と不思議でしようがなかったのです。

一時はファティマ第三の予言は1981年に起きた教皇の暗殺未遂のことであるとの話も出ましたが、確かに大きな事件ではあるものの、大いなる秘密の予言にしてはいまいち納得が行きません。

2000年にバチカンはファティマ『第三の秘密』に関する最終公文書として、第三のメッセージを正式に発表しています。
公開されたテキストに書かれてあるシスターの幻視は、アポカリプス(黙示録)終末記だと思われます。
が、これは聖書を一度なりとも読んだ事がある人には秘密でもなんでもありませんので、恐らく本当のテキストは未だ未発表のままであろうとわたしは推測しています。

法王のベッドの側にある箱は、法王のみ開けることができるものです。この箱の中にあるテキストを読んで卒倒してしまった教皇もいるとのこと。病苦を押して死の間際まで使命を果たそうしたジョン・パウロ二世は、いったいなにを知っていたのか。

シスター・ルシアが書き下ろした第3の予言テキストに書かれてあるのは一体なんなのか。まさに「ルシア・コード」でありましょう。

と言うことで、この数日間、検索しながら読んだものをまとめてみましたが、イスラム諸国の過激な思想と欧米の(キリスト教世界)衝突、さらにイスラエルも絡み、世界の状況を見ていると、いつどんなことが起こっても不思議がない現代です。

世界的に理解の出来ない事件や出来事が多く起きており、自分が若いころにしてきたいろいろな失敗を棚に上げて言うのはなんですが、なんでもありの世の中になってしまった現代社会には、恐怖に似た感情を覚えないわけには行きません。

これと言った特別の宗教には属していないわたしですが、しかし、常日頃から、この世界には、人知を遥かにしのぐ偉大なる力があることを、拒否する者では決してありません。現代の社会を見ていると、旧約聖書にあるソドムとゴモラの町を思い描いてしまいます。

昨今の日本から流れて来るニュースにも、わたしには、「なんでや?」と理解に苦しむことが多く、何かが狂っているとわたしには見えます。わたしたちは、自由、個性、平和の言葉に踊らされて、随分意外なところまで来てしまったのではないか、との感が否めません。

恐怖のないところに信仰は生まれない。ゆえに宗教者は世の終末の恐怖を人々に植え付け、教え説いて信者を募るのだ、との考えもありますが、歴史に目をむけると、人間のしてきたことは、たいてい身勝手なことです。それは、環境汚染、人間汚染、核兵器保持等等、現在形で更に加速して進んでいることを見て分かります。

ファティマの奇跡など、あまり興味のない人もいるでしょう。しかし、「教皇だから、美しい衣装を見に纏い、多くの信者に囲まれてお祈りをし、キリスト教世界の国々から敬われて、楽々の権力を得ていいだろうな」とのそれまでのわたしの印象をガラリと変えたのが、ジョン・パウロ二世の姿でした。

そのジョン・パウロ二世が、時々ファティマに姿を現していたことから、シスター・ルシアの第三の秘密を知るにいたり、興味本位で今回こういうことを調べてみたのですが、この世界に、一生を信義にかける人間がまだ多々いるということは、希望につながることなのではないかと、不信心なわたしが今回考えさせられたことでした。

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Wikiより。巡礼者で埋められたファティマ聖地

「ファティマの奇跡」を続けて辛抱強く読んでくださった方たち、ありがとうございました。

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2017年4月25日(火)

思えばわたしもポルト在住丸38年を過ぎようとしており「あなた方は知らないでしょうけど」と、自由を喫している今のポルトガルの若い生徒たちに自分が来た当時のポルトガルの光景を話すことがままある。20数年間勤めた補習校時代にも日本でのわたしの子供時分のことを国語授業の単元によってはとりあげて語りきかせた。

わたしは戦後生まれで周囲の多くがまだまだ貧しかったこと。テレビが無くてラジオ放送ドラマで育ったこと。いじめられっ子だったしいガキ大将でもあったこと。トイレが水洗式でなくてぼっとん式だったこと。

風呂は銭湯で、田舎の冬は家にたどり着く頃洗った髪が凍りがちだったこと、トンボとり、蛍がりをしたこと、蚊帳というものがあったこと、おやつは畑からとりたてのキュウリだったこと、など等、時には図入りで、まるで孫に話しかける祖母の如しではあった。親達からはその日の授業内容よりもY先生の子供時代の話をよく覚えていますわと報告されたものだ。

計算の仕方や漢字の読み書きを覚えてもらうことは勿論大切だが、そう遠くない昔の歴史を知ることは意義があるし必要である。本で学ぶよりも当時を知る人の口から直に聞くことは記憶に残るだろう。幾時代、幾世代を経て今の平和が培われたのだと年頃になって知ってくれたらと願うものである。

さて、4月25日の今日、「Vinte cinco de Abril (ヴィンテ・スィンコ・デ・アブリル=4月25日)」、カーネーション革命とも言われるが、42年間ものサラザール長期独裁政権を壊滅させて無血革命記念日で休日で、今年は40周年を迎える。無血革命とは言うが、これにたどり着くまでには革命にはつきものの、独裁者側による多くの血が流されたことは言うまでもない。

今日は独裁政権時代を扱った映画、2本を取り上げてみる。
一つはジェレミー・アイアンズ主演の「Night Train to Lisbon」。スイス、ベルンの高校教師グレゴリウス(ジェレミー・アイアンズ)は、ふとしたきっかけから、アマデウ・デ・プラドというポルトガル人作家の著書を手に入れ、その本に挟まれていたリスボン行きの切符で夜行列車に飛び乗り、独裁政権下でのアマデウの足取りを追うことになる。

Night_Train_to_Lisbon_2013_Poster.jpg

独裁政権下での地下抵抗組織運動、秘密警察、アマデウとジョージ、そして一人の女性を巡るミステリーを追って過去と現在を行き来するグレゴリウス。彼が訪ね歩くロケ地になったリスボンの古い街並はよく捉えられている。

もう一本は31年もの恐怖独裁政治をとった南米ドミニカ共和国のトルヒーユを扱う「The Feast of the Goat(原題はLa fiesta del chivo=チボの狂宴。Chivoはヤギの意味。日本では未公開のようだ)。主演のイザベラ・ロセリーニの語りで少女時代の残酷な回想を取る形で物語りは進む。政敵、批判者の暗殺、国外追放等を始め、35、000人ものハイチ系住民を虐殺したと言われるトルヒーユ反政府活動側による襲撃までを描いている。

feast_of_goat.png


この種の映画は観た後数日、ズシリと重くのしかかるのであまり好まないのだが、かような歴史があることを知るのは自由と平和に甘んじているときには必要なのかもしれない。右派左派関係なしに、人間の自由を抑圧することは誰にも許されないはずである。「自由とはいったい何か」と、この年齢にいたって未だ思い巡らすことがある。

生まれながらにして自由であるのと、自由を渇望してそれを得た時代の人とは自ずと「自由であること」の重さが違うであろう。が、いずれの場合も自由とは責任が伴うものだとわたしは思っている。ともすればわたしたちはそれを忘れ、己の思い通りにすることが自由だと錯覚しがちだ。そんなときに気分が重くなる自由のなかった時代の歴史に目を向けてみる事は意味があると思う。

ポルトガルのカーネーション革命記念日に自由を噛みしめてみる。自由に甘んじていてはいけない。希望のなかに自由を夢見、ついに手に入れた自由を決して手放してはならぬと嚙みしめる。

本日のエントリー題はスティーブン・キングの本「監獄のリタ・ヘイワース」(映画名:ショーシャンクの空の下)の中に見出される一文からです。

希望はいいものだ。
多分なによりもいいものだ。
そして、いいものは決して死なない

(本文は2014年の書き直しです)
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2017年4月24日 (月)

今日明日と、4月25日の休日に因んで、二つの過去記事に少し手を加えたエントリーをあげたいと思います。

4月25日の明日は、俗にVinte-cindo de Abril(ヴィンテスィンコ・デ・アブリル=4月25日)、或いはカーネーション革命と呼ばれ、ポルトガル人に取って特別の日にあたります。

1974年に、ヨーロッパでも最も長かった独裁政治を終わらせた無血軍事クーデターが起こった日です。わたしがポルトに来たのは1979年の春でしたから、ポルトガルがサラザール独裁政権から自由を奪回してまだたった5年しか経っていなかったことになります。

当時のポルトを振り返れば、街全体が薄汚れた感が否めず、好きな人の国とは言え、「大変なところに来ちゃったなぁ」と索漠とした思いを抱いたのが正直なところです。近所の年端もいかぬ子供の口から、野良犬を相手に棒っきれを振り回しながら「ファシスタ!」と言う言葉が聞かれたのには、ギョッとしたものです。その野良犬は、後にわたしの愛犬になるというオチがあるわけですが。

日本語を学ぶわたしの若い生徒たちはそんな時代のポルトを知らないわけで、時に授業の流れで当時のポルトを語ることもあり、今やわたしは語りべのグランマ(Grandmother)もどきです。また、同年代の生徒さんたちとは、あんな時代があったと話し合えたりして、授業の潤滑油になること、しばしばです。

一度、日本からポルトガルにやってきた甥をコインブラ大学に案内した際、学生下宿が多く並ぶ昔のままの姿を残す大学周辺の細い路地を散策したことがあります。夫もコインブラ大学医学部に籍を置き学んでいたのだそうですが、その折に一軒の下宿屋の外壁に、人の顔を描いた青タイル絵がはめ込まれているのを見つけました。 

「Zeca Afonso、学生時代にここに下宿」と書かれてありました。カーネーション革命に彼の名は欠かせないのです。

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本名はJose Manuel Cerqueira Afonso dos Santosですが、Zeca Afonso(ゼカ・アフォンソ)若しくは単にZecaとして知られます。

幼い頃から健康に恵まれず、裁判官として当時のポルトガル領アフリカ・モサンビークに赴任した親兄弟と離れて、本土の親戚の家で育ちました。

学生時代にコインブラ・ファドを歌い、地方の人々の暮らしや伝統にまつわる音楽を自作し、後にAlcobaça(アルコバッサ)の高校でフランス語と歴史の教師を勤めながら(この職もやがて追われる)、社会問題を取り上げた作品を多く自作して歌い、この頃からZecaはサラザール独裁政権に対する反ファシスト地下運動のシンボルにされて行きます。

やがて、Zecaの歌は放送禁止となり、コンサートの多くは政治警察によってキャンセルされ、投獄されます。その名前も検閲にひっかかるようになり、そのため「Esoj Osnofa」というアナグラムを使ったり、レコーディングをフランスやロンドンでしたりします。この間、共産党入党に招待されているも、彼は断っています。

1974年3月29日、満席のリスボンのコリゼウ劇場で催されたZeca を始めその他多くのミュージシャン共演コンサートの最終幕で、彼の歌、 「Grandola ,Vila Morena」(you tube)が全員で高らかに歌われましたが、この時会場には密かに準備されていた4月革命のMFA(国軍運動)のメンバーが聴衆に混じっており、革命の「カウンターサイン」として、この「Grandola 」の歌を選んだと言われます。


  
註:Grândola =グランドラは南部アレンテージュ地方にある小さな町の名前。Zeca Afonsoはローカル色豊かで素朴なこの歌でグランドラの人々の同胞愛を歌っています。始めの部分は無音から入っていますが、辛抱強く待ってみてください。

1974年4月24日午後10時55分、革命開始の合図として最初にPaulo de Carvalhoの歌、「E depois do adeus」(そして、さようならの後で)がラジオで流され、それを合図に革命は静かに始まりました。約1時間後の翌4月25日真夜中00:20、ラジオルネッサンスで流された「Grândola 」は、「全て順調。行動に移れ」の二度目の合図で、これを聴いて左翼の若手将校たちが先頭になり無血革命の出撃が始まったのです。

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4月25日朝、クーデターを知った民衆は続々と町へ繰り出し、リスボンのアベニーダ・ドゥ・リベルダーデ(自由通り)は民衆と革命軍で埋め尽くされ、兵士たちの銃にはこの自由の勝利を祝って、民衆が投げたカーネーションの花が挿し込まれていました。以来、ポルトガルではカーネーションは自由のシンボルになりました。

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Zecaは1983年に、かつて追われた教師の職を再認定され復帰しています。この年にはその功労をねぎらう行賞が与えられましたが辞退し、1987年2月23日Setubal(セトゥーバル)にて病没。3万人が葬列をなし、棺は遺言通り何のシンボルも持たない真っ赤な旗で被われたと言われます。

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享年58才、どんな党への所属なく勲章なく、ポルトガルの自由を夢見、歌を武器に闘った抵抗の歌人です。

思想の右、左関係なく、貧しくとも自由のある生活をわたしは望みます。生活を向上させたいとがんばり努力できる自由。書物を選び読みすることができる自由。枠にとらわれず自己表現ができる自由。国の政策を言葉や態度で批判できる自由。

この当たり前に思われる自由を、わたしは今毎日空気のごとく全身で吸っています。、ポルトガルが40年ほど前は言論の自由がない国だったとは思えないほど、それは歴史の一部になりました。秘密警察がいたサラザールの独裁政治時代をわたしは知りませんが、おぞましい社会であったろうことは想像してみることができます。

自由であることがどんなに素晴らしいかを今再び思い出すために、わたしたちは歴史を振り返る必要があるのです。

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2017年4月6日

これは、今から30数年ほど以上も前の、わたしが住んでいたポルトの通りでの話です。

この頃は、ポルトの街の至る所で野良犬を見かけました。当時はまだ犬を放し飼いにしてはいけない、という法律ができていなかったのです。ちょっと見だけでは、野良犬なのか飼い犬なのか見分けがつかないことも多かったのでした。犬はたいていは、近所の子供たちの良き遊び相手でした。

今では、日本同様、近所の子供達が外で遊んでいる姿も見かけなくなりましたが、当時は表通りで、サッカーをしたり祭りの焚き火をしたりして、子どもたちは暗くなるまで大声を出して遊んでおり、野良犬たちも一緒にボールを追いかけたり、焚き火の周りをぐるぐる走り回って喜んでいたものです。しかし、ご近所みなさんが犬好きだと思うのは間違いです。

決まって、とある犬嫌いのおばさんが、定期的に保健所へ電話をするのです。そうやって捕獲されて二度と通りに帰らない犬はたくさんいました。

さて、わたしのお気に入りだった野良犬の「クラウディウ」がそうやって捕獲されて、夫と二人で、(この事件については、次回に^^)とある病院からこっそり救出した事件以来、誰が言い出したのか、いつのまにかこの通りでは次のような不文律ができあがっていました。

すなわち、保健所の犬捕獲車を見かけたら、すぐさま表通りに面したそれぞれの家の小さな鉄格子ドアを開けて、路上の野良犬たちをドアの内側に引き入れること。ドアの内側にはたいてい小さな庭があり、そこは私有地になるのですから、捕獲車は侵入するわけにはいきません。

野良犬と言えども近隣の大人子供たちから、どの犬もめいめい勝手な名前をつけられて呼ばれ、えさを差し入れてもらっているのです。飼い犬ではないにしろご近所共有の路上に住む犬たちです。

通りに放されていない限り、犬を捕獲することはできないのですから、なかなかいいアイディアではありませんか^^で、捕獲車が去ってしまった後に、再びドアを開けて通りへ出す、というわけです。

ある日のこと、やってきました捕獲車!目ざとく見つけた人から順繰りにドアを開けて、早々とそこら辺の犬たちを呼んで各々の庭に招き入れました。これで安心だと思いきや、一匹が入り遅れてウロウロしてるではありませんか!しまった!と皆思ったものの、時すでに遅し。

黄色い制服を着た犬獲りびとが二人、大きな捕獲網を張りながらジリジリとその犬を追い込んで行きます。窓から顔を出しながらこの光景をわたしたちはみな固唾を飲んで見ていました。
「おお、coitadinho!」(コイタディーニュ=可哀相に)。
ポルトガル語で哀れみを表す言葉があちこちの窓辺やベランダから聞こえてきます

追い詰められてとうとう網にかかってしまった犬は網の中でまだ必死にもがいて抵抗していました。しかし、敵は扱い慣れて見事なものです、あらよあらよという間に網を絡めたまま、捕獲車の方へ運んで行き、檻に入れようと二人の犬獲りびとが網を空中に持ち上げた、まさに瞬間、奇跡は起こった!

犬が暴れて網が破れでもしたのでしょうか、スルリと犬が地面に投げ出されるように抜け落ちたのです!その瞬間、固唾を飲んで見ていた人々の口から、「ワー!」っと大きな歓声と拍手があがりました。もちろんわたしもその一人です。九死に一生を得たその犬は、一目散にいずこかへと逃げ去ったのでした。

大きな歓声があがった方向をギロリ睨みながら、苦虫をつぶした顔をして二人の犬獲りびとは我が通りを後にしたのでした。

今はと言えば、野良犬への規制もすっかり厳しくなり、路上で見かけることはなり、かつて生ごみは路上に置いていたのが、コンテナに入れて出すようになり、野良犬、野良猫、カモメまで、餌を得るのは簡単ではありません。

道路が清潔なことに、勿論異を唱えるのではありませんが、あの頃のことを思い出すにつけ、環境がきれいになって住みよいのは確かにいいのだけれど、あまりにも整然としてしまうと、犬猫好きなわたしなどは、どこか冷たく感じられたりします。

人間の生活もそこそこに整い、抜けているところがあった方が生きやすい、というのがわたしの思うところであります。

本日もお付き合いくださりありがとうございます。
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2017年4月1日

昨年9月まで30年ほど狭い我が家を掃除に来てくれたお手伝いさんの、今日は話です。

週に2度、もう解雇したくも解雇できず、ずるずる今日まで19年間午前中の3時間、大きくもない我がフラットの掃除を頼んでるDona Belmiraが(ドナ・ベルミーラ)おります。倹約のために、もういいかな?と思ったりすることもあるのですが家族の一員みたいなもので解雇などもう出来なくなってしまいました。

Donaと言うのは、ポルトガル語で既婚女性の名前の前につけられます。例えばわたしの場合は、「Dona Spacesis」と言う具合です。奥さんということでしょうか。

さて、そのD.(Donaの略)Belmira、今朝我がフラットのドアを入るなり、自分が先日行った血液検査クリニックでの不満をまくし始めた。

ポルトガルでは血液検査は病院ではしない。それ用のクリニックがあり、そこで採血してもらい、後日検査結果を受け取けりに行き、それから、その結果を病院の担当医にもって行って診断を仰ぐのである。

何に立腹してるかといいますと、こうです。

どこもそういう検査のクリニックは人でいっぱいになるのは目に見えているので、家を朝早く出た。それでも自分の番号札は44番。じ~っと我慢の子、自分の番号が呼ばれるのを待っていたのだそうです。

段々44番に近くなり42番が呼ばれた。いよいよ自分の番だと思いきや42番から43番、44番をスッ飛んで50番と54番を看護婦さんが呼んだのだそうだ。

実を言えばこういうことはよくあるのです^^;
看護さんが番号を間違えるのではなくて、間に例えば知り合いとか、知り合いの紹介とかの人をサーッと間にいれるのでして^^;言うなればコネですね(笑)

しかし、D.Belmira、黙っておりませんです(笑)なんでよ。なんで43の次が50になるの!早速その場で看護婦をひっつかまえて、一席ぶった。

「ちょ、ちょっと、看護婦さん、お待ちよ。今、呼んだ番号、何番と何番?」
「この番号札、順番でしょ?」 「そうですよ」と看護婦。
「あたしゃ、44番なのよ。43の次がなんで50になるの?」
「あたしの里じゃ、43の次は44が来る。50は49の後と学校で習った。ここは違うのかい?」

ここまで聞いてわたしはキャハハハハと大笑いしてしまった。D.Belmiraは続ける。

さすがの看護婦もこれには抗しきれず仕方なく43、44と呼びなおした。しかし、Dona Yuko,その後がいけまへん。

「見てくださいよ、D.spacesis」と採血の痕がついてる腕をつきだして、「あの看護婦ったら、腹いせに2度も間違った振りして、針が通らないとこに突き立てて!」  見ると、腕の同じ箇所に3つの注射針の痕が確かにある。

必ずしも故意にしたとは思われないが、なんともわかりません^^; えらい気の毒なことではありましたが、わたしは、D.Belmiraがプリプリ怒っているに拘わらず、「あっはははは」と大声で笑わずにおれないのでした。

こういう小さなことから大きなことまで、ポルトガルがコネ社会であるのは間違いない。フェアじゃないと知っていながら、夫の同業の医者や看護婦から、わたしも時々夫の七光りを受けて、43番の次に50番が来るようなことをしてもらってることが残念ながら・・・ある。そのようなことを自ら頼みはしないが、夫を知っている人たちは知らぬ間にそういう計らいをしてくれてるはずです。

そう思ったら、「あっはははは」とひとしきり笑った後で気がひけてしまいましたっけ・・・
いやぁ、わたしもエラそうなことは言えませんて。

ベルミーラおばさんが我が家を去って後、新しいお手伝いさんが通って来ていますが、こんな楽しい話が聞けたりするようないい関係になるといいなと、楽しみにしているわたしです。

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