2018年5月5日

息子が妹のモイケル娘夫婦、従兄達を集めてパーティーができないかなと言う
ので、一年に一度あるかないかのチャンス、しかもわたしがいる時は今しか
ない。それで、昨日息子とパートナーが住むアパートで開催となりました。

ポルトで年に一度日本語学習者と呼んで開催するNihongo wo Hanasu Kaiこと
NHKパーティーと称し7年ほど家庭料理を提供してきたので、そのメニューを
利用してみました。

買い出しをして前日夜に準備できるものは作ってしまい、よく朝つまり昨日の
朝7時には再度、料理に取り組みました。

が、なるべく物を増やさないようにしたい主義の息子、人数分の皿等があるか
どうかと、料理をどうやって運ぶかです。

幸い、彼のアパートが妹宅の同沿線で池袋よりの駅のすぐ側にあるので、食器
類は、自分がポルトガルから持ってきたキャリーバッグに入れ、料理はタッパ
ーに詰め込んで、握りを買って出発です。

左肩に料理の袋をかけ、握りの弁当袋を同じ手に持ち、右手ではキャリーバッ
グを引きづり、今時田舎でも見かけないような格好でした。

ゴールデンウィークで来て欲しくても来れなかった従兄たちもいましたが、
ひょうきんな息子の話に盛り上がって大笑いした愉快なパーティーでした。

jr-party2018.jpg

聞けば我が東京息子、その前日も自宅で友人を集めバーベキューパーティーを
開き、今日は今日で大学関係のバーベキューパーティーに、とのこと。

休暇は旅行などで過ごす息子ですが今回は暇を持て余してか、三日連チャンの
言ってみれば飲み会ではありませんか。

おいおい、息子よ、大丈夫かい?

少しもじっとしていない息子を目の当たりにして、若き我が姿を見た思いで
ありましたとさ。

息子、性格はどこか母親似なところが多いのでありました^^;
ちょっとしんどいのを頑張ってみたら、腰痛は大分軽くなっていました。
あとは椅子の脚にぶつけた右足の中指の完全回復を待つのみ。

さて、明日早朝から車で故郷弘前へ向かいます。桜は散ってしまったけれど、
なぁに、りんごの花があるのだ!それに、高校時代の恩師を始め母校の同窓
生たちが集まってくれる!

ではみなさま、報告は後ほどに。楽しんでまいりますれば。

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2018年4月23日 

あらよと言う間に帰国してもう一週間、4分の1が過ぎました。
もったいないなと思うものの最初の一週間は休養だと自分に言い聞かせ、都心
には出ず、妹夫婦とおしゃべりしたり近場をまわったりします。

楽しみは妹の手料理「おふくろの味」であります。そうなんです、妹なのにお
ふくろの味、故郷津軽の味がふんだんに出されます。

亡くなった母は60歳頃から長いこと妹家族と同居していましたから、旬の筍や
わらび、ふきのとうなど、その他たくさんの昔ながらの味を妹に伝え残して
行ったようです。

エッセイにも綴ったことがありますが、母は山菜採りの名人でした。これに
ついては後記に再掲載します。

妹のつくった「おふくろの味」を肴に、実は毎晩「我らが人生に再会に乾杯」
とビール、日本酒で祝杯をあげておる義弟姉妹です。言ってみれば毎日が花金
となりまする^^日本滞在はわたしにとり一ヵ月の休暇ということです。

夫が来られないのが少し残念ですが、4匹もねこがおってはなかなかそれもで
きません。だれの猫かと言えば、もともとはわたしが拾い集めてしまったので
あって^^;それを黙って引き受けてくれる夫には感謝しなければなりません。

夫よ、いつもありがとう、と面と向かって言うべきを、それが照れくさいもの
でここでこっそり(笑)

では、下記再掲載のエッセイです。

「海の幸、山の幸」

大正14年生まれだった母は9人兄弟であった。

その長兄は太平洋戦争で若くして死んだと聞くから、戦後生まれのわたしは
その叔父を知らない。
母を筆頭に8人兄弟となり、7人がわたしの叔父叔母になる。
わたしと妹は、このうち二人を除いた5人の叔父叔母と一緒に、祖母が構える
弘前下町の大所帯で幼い頃を共に暮らした。

母のすぐ下の叔父は当時すでに結婚していて独立、そして、女姉妹で
一番若い叔母が東京に出ていて結婚も間もなかったころであろう。

昭和も20年代の頃、日本の地方は貧しく母は食い扶持稼ぎに、なにかとその
日の小さな仕事を見つけては家を空けることが多く、留守を守る祖母が母代わ
りでもあった。わたしは祖母の初孫にあたるのだ。

その祖母は、秋になると山菜採りに山に入るのであった。
弘前の町からバスで昔なら2時間も走ったのであろうか、岩木山の麓の嶽
(だけ)へ温泉に浸かりがてら、キノコ、筍、ワラビなどの山菜を求めて
入山する。

祖母が採る山菜は毎秋ごっそりとあり、それらは塩漬けにされ長期保存食料
となり、時折食卓に載る。中でも断然おいしかったのは、細い竹の子を入れ
たワカメの味噌汁であった。

後年この祖母の慣わしを引き継いだのが母と母のすぐ下の弟だ。
母も叔父もその季節になると、山へ入って行った。そしてどっさり採った
山菜をカゴや袋に入れては抱えて帰って来る。

だが、面白いことに二人が一緒に同じ場所へ行くことは決してない。
それぞれ自分だけが知っている秘密の場所を持っているのでだ。

これは釣り人が他には打ち明かさない「穴場」と同じである。
叔父は釣り人でもあったので、山菜採りがない週末などは、家人を
連れて早朝に川へ車で乗り付ける。

その叔父は、やがて採った山菜を知り合いの工場に頼み込んで瓶詰め缶詰に
するに至った。わたしが帰国する度に、弘前から缶詰の細長い竹の子やワラ
ビなどが宅急便で届けられるのである。

さて、母は60を過ぎてからの晩年を所沢にある妹夫婦の家族と共に暮らし
たのだが、そこでも近隣の林や森に入って山菜探しが始まり、いつの間にか
しっかりと自分の秘密の場所を見出して、秋になるとキノコやワラビを採って
きては所沢のご近所に配るようになった。

毎年それを楽しみにするご近所も出てきたものだ。所沢に移ってからも、
70半ばまで脚が元気なうちは、弘前の田舎へ帰り毎年のように山での山菜
採りは続いていた。

母より若い山菜ライバルの叔父が先に身まかった時、言ったものである。
「とうとうわたしに秘密の場所を明かさないで、あの世へ持って行った。」と。
そういう母も生前の叔父に自分の持ち場を明かすことはなかったようだ。

母が亡くなった今、祖母からの、いや、恐らくはそれ以前のご先祖様の代
からの山菜の見つ方、見分け方、そして秘密の場所の秘伝は母の代で途絶
えてしまったことになる。

都会に出たわたしは、母や叔父が採ってきては、味噌汁や煮物にしたかの
細長いしなやかな竹の子を一度も見かけることはなかった。

母も叔父も隠し通し、あの世まで持っていってしまった二人の宝の秘密の
場所はいったいどこだったのか、と考えると、なんだか可笑しさがこみ
上げて来る。

そして、そんな可笑しさを胸に留めながら、わたしはいつも、倉本聡の
ドラマ「北の国から」最終回のワンシーンを思い浮かべる。
生きるのに不器用な主人公、黒板五郎が二人の子供に遺言をしたためる
場面である。
「金など欲しいと思うな。自然に食わせてもらえ。」

海の幸山の幸を自ら捨て去り自然の恩恵を受けて生きることを葬って
来たわたし達現代人には到底書けない、素朴でありながら、しかし、
ずしんとを重みのある遺言だ。

祖母も母も叔父も、海の幸山の幸を知る人であった。

本日もありがとうございました。
慣れないパソコンを使用していますので、遅筆、誤字脱字があると思います。
また、接続の関係上、画像も載せられないのでFBでつながっている方以外は
写真をお見せできないのが残念です。
が、ポルトに帰るまでご勘弁くださいませ。
.
では、みなさま、また!
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2018年3月15日 

大阪京橋から少しバスで行った所に住んでいた二十歳の頃、わたしは今で言う究極のミニマリストでした。家電家具類は布団を除いては一切なかったが、小さなプレーヤーとレコードだけは持っていました。わたしの生活から音楽を切り離すことは考えられないことでした。

玄関土間に続く3畳、6畳の部屋、それに当時ではめずらしい4畳半のフローリング台所がある文化住宅と呼ばれた住居です。一人暮らしのミニマリストにはとても広く感じられました。夫と出会う10年も前のことです。

福島区の小さな印刷会社の事務員をしていましたが、大胆にも京橋界隈で遊び、時々会社をズル休みもしたものです。すると、人情のある部長さんが都会で一人暮らしをしている若い娘を心配して、翌朝は車で出勤に迎えに来てくれるのです。事務所では営業の人たちにもよく可愛がってもらいました。

どんな夜遊びをしていたかと言うと、もっぱらサマセット・モームの作品ばかり上演する素人劇団のメンバーのシナリオライターや作家、役者希望の若者たちとつるんでいたのであります。劇団長は一度は劇団四季に席を置いたと言う人で、当時は京橋の繁華街に「エリーゼ」(と思う)と言うスナックバーを持っていました。みんなのたまり場は必然そこになります。

会社が退けてから彼らとつるんでは明け方まで営業しているカフェスナックなどで幼稚な人生論や芸術論を彼らと語り明かして遊んでいたのです。時に、シナリオライターから、ちょっとここのセリフ、読んでみてよ」などと頼まれることもありました。彼らの劇では「雨」「エドワード・バーナードの堕落」を観劇しました。

モームは表向きは作家としたがイギリスのM16の諜報員としても活動しています。わたしが最初に出会った彼の作品は、高校の英語教科書の「The luncheon(昼食)」という短編でした。

ファンだという女性とパリの格式あるレストランで昼食に誘うことになるのですが、彼女は「ひとつの料理しか昼食には食べないことにしてるの。~は特別だけど。」と言いながら貧乏作家の目の前で、次々と高級料理をたいらげていき、主人公は支払いに冷や汗をかくことになる「ランチ」を描いた作品です。

そんなわけで、モームには身近な思いを抱いていたのですが、彼を縁に面白いことが展開しようとは二十歳頃は想像だにしなかったのであります。

moghum2-2.jpg

画像は手元にあるモームの短編集で実は知り合った頃の夫が大阪のアサヒや書店で買い求め、
わたしがプレゼントにもらった分厚い原語のペーパーバックです。本の扉、右上には「Para Yuko do Carlos(カルロスからユーコへ)。1977年8月10日」と日付も書いてあり、下には彼のサインが見えます。

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それで、今思い出したのですが、この日付、大阪の梅新の交差点でクソ暑い中、わたしが夫を2時間待たしたときだったのでしたっけ^^;(爆)

もう絶対いないだろう。でも、いちおう行って見ようと、実はこの日が初デートだったのでした(笑) 40年前になりますわな(笑) あのとき彼がしびれを切らして2時間後に待ち合わせ場所にいなかったら、今日のわたしはポルトガルにいなかったわけです。すると、息子も我がモイケル娘もこの世に存在しなかったわけで、よくぞ、夫、炎天下をじっと待ってくれたものだと、ひたすら感謝するのみです。

その一ヶ月後、夫は広島大学病院へ研究で移動し、会うのは大阪か広島で、一月に一度か二度の遠距離。やがて年が変わって1978年の1月に、今度はわたしがアメリカへ移住の夢を見て出発し、大遠距離に離れ離れになったのが、今こうして日本とポルトガルの文化の衝突もなんとか誤魔化しては、本日、結婚39年を迎えたのです。乗り越えて、って言う表現は合いませんね、わたしたちの場合。

乗り越えるためには、ぶつかり合って納得するところまで行かなければならない気がしますが、「フン!なんでぃ!いいわぃ」と、流すことが多いですから、やはり誤魔化してってことになりましょう。

口に出しては言いませんけど、粗忽者で直行型のわたし共に忍耐力でこの人生を一緒に歩いて来てくれて、ありがとう。

40年前に夫からプレゼントされたモームの短編集はわたしとともにアメリカへ渡り、日本へ一時期帰国しポルトガルへ来て、今わたしの本棚に納まっています。

モームよ、お前もページがすっかり黄ばんでしまったけれど、わたしたちもお前同様、40年の歳月を重ねたよ。
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2018年3月11日 

東日本大震災から7年経ちました。3月11日は9・11と共に忘れることが出来ない日です。いても立ってもおられず、2011年4月に入るやそうそうと我が子たちの様子を見に帰国したのでした。

今日はあの日、あの頃を思い出し、祈りといざという時の心構えをわが子たちに持って欲しいがため7年前の日記を再度起こしてみました。

2011年3月12日

地震の被害にあわれたみなさまに、こころからお見舞い申し上げます。

我が子たちも所沢の妹たちも無事だったとは言え、ニュースで繰り返し放映される画像を見るにつけ、手放しで喜べない気持ちです。目を覆うばかりの惨状に愕然とし、泣きたい気持ちになります。みなさまのご家族、ご親戚、お知り合いの方々はご無事でしょうか。

昨日の午前中はいつもの日本語教室がキャンセルされていたので、前夜は新しいクラスの準備で少し夜更かししてしまい、いつもなら起床している時間にまだ寝入っていたのでした。

それが、7時半過ぎに電話が鳴り、こんな朝早い時間にいったい誰だろうと思いベッドから飛びおりて玄関ホールの電話を置いている所まで小走りに向かいました。

受話器を取るなり「あんた!東京が大変なことになっとるで!子供たちおるやろ!ニュース見てみー!」と大阪出身の友人の一声です。

同じ人からこれと同じ声の調子で、かつて突然の恐ろしいニュースを知らされたことことがあるの一瞬を思い出しました。1995年1月17日の関西大震災の時でした。

ギョッとして大慌てでテレビをつけると同時にパソコンのスイッチを入れました。朝からテレビをつけるなんてことは大事件でもない限り我が家ではまずありません。

そうして目に飛び込んできた画像に、しかも即それを東京だと思ったものでもうその後は大変でした。すぐ子供たちのケータイに電話を入れたもののつながらない、所沢の妹宅の固定電話もダメ。

今日本は何時よ!娘は?息子は?と不安は募るばかり。何度も何度もダイヤルを回せど応答なしです。ウェブ新聞で更なる情報を得ようと慌てふためいてパソコンに走りました。すると、スカイプで息子が「ママ、地震があった、こわかった」と、声をかけてきました。ケータイはつながらねど、ネットは大丈夫なのですね、こういうとき・・・

息子はその日仕事が休みで、地震が起きたとき、外で自転車を走らせていたそうです。急いで帰宅し、やったことが、なんと!3匹の猫たちをそれぞれのカゴに入れて外へ運び出したことだそうです。(あんたら幸せなねこやで!)

モイケル娘は?と聞くと、「まだ会社だと思う、けどケータイが通じない」と言う。ダメもとでケータイにメールを送ろうとメールボックスを開くと、モイケル娘からのメールの件名、

「かあちゃん、地震起きました」

この件名を見た瞬間、わたしの心臓はぎゅぎゅっとしぼみました!そして、短い文面を読んだ瞬間、安堵に胸をなでおろしたのでした。

まだ会社にいるが、都内の電車が前線ストップしているので帰れない。いわゆる帰宅難民になっていたわけです。

そのうち、「同期の人たちで歩いて帰ろうという話が出てる」と言うではないか。おいおい、待て!それは危険なことだよ。止めよ、とメールを打ったが、息子から「She's comming back. 家に向かってる」と入る。

「シ、シーズ カミング バックって、あんた!止めるのよ~」と叫べど既に遅し。

すると間もなしに娘からの返事、
「今歩いてる。心配しなくていいよ。グループで歩いてるから」こういうときは、余震もさることながら、狼男も心配なのだよ、おっかさんは!

思うに、我が娘、絶対ネコのことが心配で歩いて帰る気になったに違いない。同じ環境だったらわたしも同様のことをしていたこと確実であります。

夫も勿論起き出しておりましたが、気になるとて患者の仕事を休むわけには行かない。間もなく出勤しましたが、残ったわたしは、新しいクラスの準備も手に付かず、そのうち、友人たちから、親戚から、知人からと電話が一日中なりっぱなしです。

娘が一緒に歩いたグループは会社の寮の人たちで、実はその寮が偶然我が子たちのアパートの一つ駅違いのところにあるのだそうな。たまたま、社員に寮から築地にある会社まで、1時間ほどかけて自転車通勤をしていたツワモノがいたのだとか。それで道を知っていたので、皆で徒歩で、との決断を下したそうだ。

自転車で1時間が、歩いてなんと4時間半!たはーー!どんな靴でそんな長時間歩いているのだろうか、足、大丈夫だろうか・・・そんなことを思い巡らしながら、気が気でならず新しい出張日本語クラスを終えて帰宅し、息子から娘が家に無事たどり着いたことを確認して、ひとまず安心したのでした。

2011年3月20日

我が家にはポルトガル国内にいるたくさんの知人親戚から毎日のように子供たちの、日本の安否を気遣って電話がきました。

特に我が子たちを幼いころから可愛がってくれた夫の姉、子供たちからするとルイーザおばさん、そして84歳で現在地方の老人ホームで生活している夫のいとこのアルダおばさんは、涙声で毎日電話をくれ、わたしが「大丈夫!心配ないで!」と慰める側に(笑)

今回、計画停電を体験した方々も多いことでしょう。今でこそ、ポルトガルもそこそこに便利な生活を享受できるようになりましたが、わたしが来たころの38数年前のポルトガルはこんなものではありませんでした。

予告なしの停電、断水はしょっちゅうで、年末、新年にかけての三日間ほど断水に見舞われたこともあります。旧年の垢を体にまとっての正月なんて、物心ついて以来初めてではなかったでしょうか。

まだ、こどもたちが赤ん坊の時の断水もしょっちゅうで、当時は紙おむつがあまりなかったものですから、オムツを洗うのとオムツかぶれを防ぐために、常時気をつけて貯水の準備していたものです。

日本の便利な生活に慣れていたわたしは、エラい国に来てしまったと当時は少なからず思ったものです。そういう体験から、そんな時にも慌てないイライラしない忍耐力を学んだと思います。

子供たちも「停電だから今日はできませんよ」とわたしに言われ、それこそ「がびーーん」の体験を少しは覚えていることでしょう。
ですから、ポルトガルでは、まぁ、停電はままあること、小さな赤ちゃんや病気のお年寄りがいるわけではなし、数時間の停電は彼らはなんとでもなります。

ただ、停電に備えて懐中電灯がなかったというのは抜けておりました。モイケル娘いわく、「どこにも売ってない、ネットで見つけて注文しようとしたらもう売り切れだった」

さもありなん。我が家では停電用にと、キャンプ用のガス灯や懐中電灯、更にはろうそくまで暗闇でも常時手の届くところに置いてあります。豊かな文明生活を享受している、特に若い世代は恐らく懐中電灯など常備していない人が多いのではないかしら?

日本からポルトに来る日本人からは、よく不便だ遅れている、物事がちゃんと機能していない、などの不満を耳にしますが、全ての事物は二面性を持っていることを思い出していただきたい。文明の利器も同じです。自分が住んでいた生活環境をそのまま他国に持ち込んでは、その国での生活を楽しむことはできないし、国際感覚は学べない。

国際感覚とは語学ができることではなく、自国と他国との違いを学び、受け入れ、理解し合うことだとわたしは思います。

今日のポルトは雲ひとつない真っ青な空です。夕べは大きな満月が煌々と空にかかり、主のいない子どもたちの部屋にも窓から月光が差し込んでいました。大好きな音楽もこの一週間ずっと聴いていないことに気づいた今朝、久しぶりにモイケル娘の作曲した音楽を聴いています。

水が飲め、そこそこに食べ物があり、電気があり音楽がきける。会いたい人に会いたい時に連絡がとれる手段がある、そんな基本的な幸せがあるだけでも生きているという充実感を改めて感じさせられた一週間でした。

被災者の方たちはこれから苦難を強いられますが、どうか生きていることの幸せを噛み締め、再び立ち上がって欲しいと願わずにおられません。

2011年3月23日 笑っちゃいけないが、なんだか可笑しい

原発問題がまだ明確な見通しがついておらず、現場では今日も危険を承知で必死な作業が続けられています。ニュースを通して被災者たちのエピソードも聞こえてき、気の毒で涙が出てきます。しかし、人生は続く。日本人の、人間の生命力の逞しさを信じたいと思います。

「おっかさん、今日はパンが買えた!」とモイケル娘。日本は物が豊富だ、というより、豊富を過ぎて贅沢だとフッと思うことがあります。今回の被災地だけでなく、世界には食料不足に困っている人たたくさんいるのですが、贅沢に慣れてしまうことは怖い気もします。パンが買える喜びを、娘よ、覚えておいて欲しい。

計画停電だというのに、懐中電灯もろうそくもないという我が子達、懐中電灯をネットで注文しようとしたら品切れでないと言う。大阪の我が親友Michikoが食べ物を含むそれらの物資の差し入れが届けてくれました。

子供たちの住む区域、夕方6時から10時まで停電の今日、間もなくその時間がくるという前の少しの間、スカイプでモイケル娘と話しました。

おっかさん  懐中電灯、手元に用意してる?
モイケル   うん。ヘッドライトをつけてる
おっかさん  へ、ヘッドライト?
モイケル   そ。みっちゃんが送ってくれたのを頭につけてる。
        鏡で今自分の姿を見たら、マヌケだった^^;

↓こ、こんなんを頭につけてるんか、と思ったら、停電を待機しているのが気の毒だとは思ったが、おかしくてつい大声で笑ってしまった。
ヘッドトーチ

笑っている間に停電が来た様で娘はスカイプから落ちていた。夫にもヘッドライトの話をし、このところ、わたしたち夫婦の会話はずっと心配な話題か津波の映像を黙って見るばかりでしたが、こんな小さなことだが久しぶりに笑った気がします。

長い記事になりましたが、時に思い出して気持ちを引き締める必要があると考えたのでした。息子よ、娘よ、いざという時の準備はしてるかい?

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2018年3月1日 

いえね、台風つったって時期はずれってもんで、ましてポルトガルにはございません。我が東京息子が、ってことでございます(笑)

息子の帰省中は母の頭の中は@@←こんな具合なのであります。30も半ばですから大して手間をかけるわけではありません。世話をやこうとしても自分の朝食、昼食はさっさと作りますし、放っとかれる方が気が楽なようで、世話のやきようもありません。

幸いにして、息子の2週間の帰省中は某企業おエライさんの出張続きで日本語個人レッスンはなし、自宅での授業もキャンセルが多かったので、母子で少しゆっくりと話もできたはずなのですが、本人が家におらんのです。毎夜の如くブリティッシュ時代の友人たちとつるんでは飲んで食べて午前様でした。これは彼のいつものパターンなのです。

友人たち相手に自分の日本での体験をあれやこれやと面白おかしく話しているのかと思うと、息子の話す時の様子が目に浮かんで、内心可笑しくて笑っております。

そう言えば、今回は翻訳の仕事も持ってきており、パソコンで三つほどこなしていました。

夫と二人で今朝、空港まで送って来ましたが、このTufão(トゥファォン=台風)、8月にはまた来るとの予報でありました。

空港を後にしながら、こうして子どもたちを何度送り迎えしていることだろうと、ふと思いましたら、なんと、息子がリスボンのリセウ(中高校)の臨時講師を辞め、ポルトを後にして日本へ行ったのは9年前のこと、ちょうど今頃でした。以下、過去記事を引っ張り出し、振り返っております。

以下、2009年3月4日記「行きました、息子」とあります。

衣服は二の次で、分解したpc接続音楽機器のパーツを箱二つを大事にバックパックに詰め込んで背負い、ノートパソコンを持って。

大きな旅行カバンは、関空に着くや新しい住まいとなる千葉の新住所に宅急便で送ることになるので、パジャマくらいは手荷物に入れろというのに、音楽機器で重量目一杯、パジャマなしでも寝られると言って聞くものではない。

出発前々日まで、画家の友人ジェスパー君の引越し先となるアパートのペンキ塗りを手伝いに行き、夜な夜な出かけては午前様。出発の前夜、翌朝は4時起きだと言うに、まだ出かけようとするので、さすがにのんきなおっかさんも、 「バカ息子!いい加減にせぇ!」と爆弾落とした(爆)

リスボンから引き上げて来たこの二週間、ひと時もじっとしていることのない息子ではありました。

出発前、「お前、千葉に宅急便で送るはいいけど、漢字は大丈夫?」と聞くと、

「うげ!ローマ字じゃダメかな。」
「いいよ、漢字書かなきゃダメだったら、書いてもらうから、プリントしてよ。」
っとっとっとっと、マジかい、息子^^; こりゃ先が思いやられること、目に見えし。

9年間、毎週土曜日の日本語補習校に通い、通信教育も同じく9年間しっかり修めたとは言え、中3を卒業して以来今日まで13年間、話す以外は日本語からずっと遠ざかって来た彼、無理からぬことではあります。

さて、3月3日、昨日の朝6時の便でフランクフルト→関西空港→福岡→下関へと26時間の長旅です。
やっと日本時間で今日の夕方、下関にあるモイケル娘のアパートに到着したようです。

着くなり、スカイプでモイケル娘、「兄貴、関空でたこ焼きと納豆巻きを食べて、今、コンビニで肉まんとカルピス買ってきて食べてる・・・」 カルピスは、ポルトガルの我が家では1年に一度、クリスマスとお正月用にマドリッドから取り寄せる貴重な飲み物で、息子の好物なのであります。

肉まんも然り、この手の日本食はマドリッドから来るトウキョウ屋さんではとても高いもので、そうそう買えるものではありませんでした。

息子よ、分かる分かる^^

で、更にモイケル娘が続けるには、
「アパートに靴履いたまま、あがったんだよ~」
これにはわたし、あっはっはっはと大笑い。だって、昔、わたしたちが帰国して所沢の妹宅に滞在する度に、「ジュアン君!また靴履いたまま家にあがってる~」としょっちゅう我が妹を泣かせていたのであり、あぁ、成長のないヤツめ、あの頃のまんまではないか@@

昨日まで息子の気配があった彼の部屋は、もぬけのカラ。使い古された数本のエレキギターが、おっかさんとおとっつぁんの気持ちを反映するように、生気を失い寄り集まって立てかかっています。

今晩一眠りして、明日の朝はいよいよ、二人は、いえ、
「二人+3匹の猫+それぞれのパソコン+それぞれのバックパック」らは、一路新幹線で関東のアパートへ移動です。

その格好を想像するにつけ、噴出さずにはおられないおっかさんであります。

修了したリスボン大学のITコースとは全く畑が違う英語講師免許を所得して、9年前に自分で探し出し、スカイプ面接を受け採用されて出かけた都内のアメリカの英語学校で2年ほど教えただろうか。

その後は大学での非常勤英語講師を始め、今では月曜日から金曜日まで、終日ではないが毎日、あちらこちらの大学で教えている。この数年、飲むのは金曜日だけと、初めて「花金」なるものを実感しているらしい。

合間を見ては翻訳にも手をつっこんでいるのだが、本人もまさか日本語が理解できることが、こういう風に役立つとは、昔思ってもいなかったことだろう。おっかさんの日本語スパルタ教育に感謝するんだぞ、とは思っていても口には出しません(笑)

そんなわけで、本日も、息子が去った9年前と同じく、「今朝まで息子の気配があった部屋は、もぬけのカラ。使い古された数本のエレキギターが、おっかさんとおとっつぁんの気持ちを反映するように、生気を失い寄り集まって立てかかっている」んであります

息子が下関で妹のモイケル娘と合流後し関東へ移動の話はこちらにて↓

★「ずっこけ姉妹の東京移動
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-717.html

本日はこれにて。

★ミラーサイト「ポルトガルの空の下で」にて「あの頃、ビアハウス」シリーズの書き直しをアップしています。興味のある方はどうぞ。
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