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2019年9月24日 

今日は、かれこれ15年位も前の息子の思い出話です。

その夏に大学を卒業した息子が、ついに仕事に就いた時の事です。彼の職種を聞いて、一瞬わが耳を疑ったのでした。

「え!中学校の先生?@@」想像だにしなかった仕事でありました。と、こんなことを書いていますが、若い頃の私を知っている人達が、21年も海外補習校の先生をしたなど聞くと、わたしも「うっそー」と目を丸くされることは間違いない(笑)。

息子は、服装には無頓着でした。つま先の口をバコバコ言わした靴を履いていることはよくあることで、お金が全くないわけじゃあるまいし、「靴くらい買ってよ!」「Tシャツ破れてるじゃないの。すっかり色落ちもしてるわよ!」と、母親が口うるさく言っても馬耳東風。

ホテル、企業での面接では、「Yシャツ、ネクタイ」と聞いたら、それで自分から辞退です。「ありゃ、ダメだわよ。髪形もさることながら(自分で散髪してる。これもわたしと同じw)、着ている物の第一印象からしてアウトね。」と、さんざん面接時の服装をうるさく言ってもきかないもので、夫もわたしも諦め気分でそう話していたのでした。

息子から電話で仕事を得た報告があった時、

「あんた、どんな格好でいったの?よく通ったわね。」
「うん、ネクタイはしなかったけど、シャツ。それにジャスパーから借りたズボン」
「あっはっはっはっは!」

もう、腹がよじれて笑いこけました。

ジャスパーと言うのは、アーティストを目指している幼稚園時代からの英国スクールの友達です。その時は、息子のアパートに転がりこんで、リスボンで何かのコースをとっていました。

その歳の10月までは父親は援助するけど、その先は自分で生活費を稼ぐ約束になっておりましたから、尻に火がついたのか、ようやく、服装に本の少しだけ気を配ったようです。それにしても借りないで買ってもいいではないの。

息子が時々、見かけない服を着ているとき、わたしは聞きます。すると「1ユーロで買った」と返事が来る。1ユーロですよ@@ 古着屋だとしてもいったいどんな値段なのよ・・・^^;

学校で何を教えたかと言うと、「information」つまり初歩のコンピューターのクラスです。それはよかったのですが、任されたクラスがなんとまぁ、7、8年生(中学2、3年)。おまけに、ほとんどの生徒が何度か落第している落ちこぼれクラスで、中に18歳の中学生もいるとのことです。

もっとも、こういうクラスは、考えようによってはやりがいがあるのですがね。こういうクラスの子がやる気を出した時に、先生という仕事の醍醐味を味わうわけですが。

ポルトガルでは、日本で言う教師用の「指導書」などありません。全て教師が独自に副教材を作成して、授業をすすめていきます。
聞けば息子の勤務時間は週8時間。2回の授業で一回がこれまたなんと!3時間ぶっ通し。

「7、8年生なんていい経験になる。自分がその年頃、どんなアホをやってたか目の前で見ることになるからね」と言って夫が笑ったものでした。

さて、授業が始まり、2週目にして、息子、すでに二人の生徒を教室から追ん出していました。
やるではないの。なめられたらいかんぜ!と応援しながらも、当時の日本の中高生の教師への殺傷事件がちらついて、なんだか不安な気持ちにもなったものです。

「どんな格好して行ってるの?」と聞くと、生徒と同じカッコ(公立の学校は高校まで一貫して制服がない)。 Tシャツにジーンズ。その方が安全だし、向こうも親しみ感じるでしょ。」

アメリカのアニメ、シンプソンズような、あの伸びた不ぞろいな息子の坊主頭を思い出しては、可笑しいような、不安なような、そんな複雑な気持ちで息子の働きぶりを見ていた頃の思い出です。

息子は今、東京の数校の大学で英語の非常勤講師をしていますが、こうして教えているというのが母親のわたしの過ぎこしと似ていなくもない。

親子って辿る人生も似たりするのでしょうかね。

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自分の作曲をひっさげて音楽活動をしていた上京時代の息子。(してみたら、素人音楽活動をした部分もわたしと同じだっけw)

本日もありがとうございます。では、また。

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2019年9月12日 

「なにごとも石の上に3年であ~る」と言い渡していたこともあってか、なくてか、大学を卒業して東京の某社に勤務すること丁度3年、お金を貯めたのでこれで大学院に行く、と突然言い出したモイケル娘であった。そうして、都内池袋のR大学院で2年、修論に取り組んでいた頃のこと。

娘から送られてきた修論の一部を目にして即、「なんじゃいな?この黒人て?江戸時代に日本に黒人がおったとは思えないぞ」と言ったら、笑われたのであった。「おっかさん、コクジンじゃなくて、クロウドと読むのじゃ」。

そう言えば、江戸時代の狂歌師をテーマに取りあげて、数ヶ月、市立図書館や大学の図書館に通い詰めで、ほとんど悲鳴をあげんばかりの娘であった。それはそうだろう。大学4年間は英語系だったのを、いきなり院で近世日本文学だと言うのだから。おまけに、テーマとして取り上げた浜辺黒人なる狂歌師についての資料はほとんどないということを、その時になって発見した娘ではあった。

18歳までポルトガルに生まれ育った彼女にしてみれば、英語、ポルトガル語、日本語のトライリンガルに、もうひとつ、「江戸時代の日本語」という外国語が加わるようなものです。

古文などは、週に1度の補習校の中学教科書で、「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」と言うようなさわりの部分を目にしたくらいで、知らないと同様の状態で取り組んだのですから、その大胆、かつ無鉄砲なるところ、その母の如し(爆)

狂歌師浜辺黒人なんて、「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ」の歌人、山部赤人(やまべのあかひと)のもじりではないか(笑)

良く知られた狂歌には、わたしの高校時代に日本歴史の教科書に出てきた「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」がある。

江戸時代中期、賄賂政治の田沼意次(たぬま・おきつぐ)に代わって、元陸奥白川藩主だった松平定信が敷いた「寛政の改革」、あまりにも厳しすぎて、前の田沼(田んぼや沼にかけている)賄賂政治が恋しい、という意味だ。

狂歌は和歌をパロディ化したものらしい。そこで、ちょいとネットで検索してみると、あはははは。狂歌師たちの狂名に笑ってしまった。

朱楽菅江(あけらかんこう=「あっけらかん」のもじり)、
宿屋飯盛(やどやのめしもり)、
頭光(つむりのひかる)、
元木網(もとのもくあみ)、 
多田人成(ただのひとなり)、
加保茶元成(かぼちゃのもとなり)、
南陀楼綾繁(ナンダロウアヤシゲ)
筆の綾丸(ふでのあやまる)
↑これなどはしょっちゅうキーボードでミスタイプしてブログで誤字を出すわたが使えそうだ。わたしの場合は「指の綾丸」とでもなろうか(笑)

筆の綾丸(ふでのあやまる)は、かの浮世絵師、喜多川歌麿の狂名だという。中には、芝○んこ、○の中には母音のひとつが入るのだが、これなどには唖然としてしまう。

おいおい、モイケル娘よ、こんなヘンチクリンな狂歌師たちとその作品を相手の修論、資料が少ないともがき苦しんでいたなんてホンマかいな。腹を抱えて笑うのにもがき苦しんでいたんではないか?等と勘ぐったりしているのはこのおっかさんで、当たり前だが修論はいたってまじめに仕上げられている。この研究が生活にはすぐ役立たないが、そういう学業を教養と言うのかもしれない。高くついた教養ではあるが(^^;)

夫は娘がその専門を活かした職業に就かなかったのが多少不満のようだが、おっかさんは、焦らないでもいいぞ、人生は長いのだから。そうして学んだことがいつどこでどのような形で役立つかはわからないものだから、と、伝えたいのである。

気がつけば、ポルトガルの高卒国家試験受験結果を携え、東京の大学を目指して日本へ行ったモイケル娘だが、早や15年が経つ。

006-1.jpg
この頃は、今日の結果が予想できるわけもなく、ひたすら子育てを楽しんだ時期だった。

思えば、補習校中学校の卒業式答辞で、「わたしは日本へ行くのではありません。日本へ帰るのです」と言って、わたしを始め出席していた人たちを驚かせたモイケル娘であったが、それもふた昔ほど前のことになり、彼女の夢は実現してなんとかダンナも見つけ日本定着15年。

娘よ、そして、息子よ、若いうちは失敗を恐れるな。失敗のない人生こそ失敗であるぞ、とポルトから応援している母である。

本日も読んでいただき、ありがとうございます。ではまた明日!
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2019年9月2日 

ちょっとかったるいなぁ、という時は、子どもたちが日本に上陸して間がない頃のいろんな笑い話を思い出しては、気を取り直し、がんばります。

そこで、今日はそれらの一部を披露して、よかったら一緒に笑ってください。

娘は15年、息子は10年になる日本生活です。兄妹が合流して南行徳に居を構え、やっとネット接続ができ、なんとなく人が住む部屋らしくなってきたときのこと。

息子が早速メッセンジャーで言うことには、今日周囲の人たちに笑われたのだと言う。なんで?と期待満々の心で聞く母(笑)

一人で布団を買いに行った。宅配してもらうとお金をとられるので自分で運ぶことにしたのだそうだ。息子が電車に運び込んだその荷物とは、「マットレス、敷布団、掛け布団、毛布、それに枕」
おい@@、お前、それを全部持って歩いたんか(爆)

しかし、考えてみれば、大してお金を持ってもいない身分の息子、ちょっと頑張ればできるようなことなのだから、重いだのカッコ悪いだので払うのは無駄なお金として、できるだけ使いたくないというのだろう。

彼の名誉のために言うが、息子はケチなのではない。リスボン時代の仕送りもできるだけ親に負担をかけないようにと心がけてきたようで、経費等の無心は一度たりともなかった人である。

今時、日本ではそんな大きな荷物を持って町を歩く輩はおらんわい。周囲が見て笑うのもごもっとも!
と思いながらも、大都会でイナカッペ丸出しの息子の話を聞いて、わたしはなんだか楽しくなった。

息子よ、あんたはえらい!周りがどうのこうのというより、迷惑をかけないのであれば、そういう範囲内なら大いに自分の主義を通してください。

息子のこんな話を聞きながら、晴れて日本の大学生となり、日本で一人暮らしを始めた頃のモイケル娘の愉快な話を思い出さずにはいられなかった。

当時、日本行きを前にして、一人ポルトに残る母親になんとか夢中になれるものを、との彼女の配慮で、ヤフージオの無料ホームページとやらを運営していたのだが、へたくそな画像をドンドン掲載しすぎて容量限度にせまり、どうしようかと悩んでいた。

すると、有料のアカウントにするといいとのこと。が、そのためには銀行口座を開く必要がありました。
機械類を通してお金を動かすのが嫌いな古いタイプのわたし(笑)、そういうのには手をださない。
我がもいける娘がもうひとつ、ヤフー指定の銀行に彼女の名義で口座を開いてもくれることになった。

その日メッセンジャーで話したら、口座は開いてあるとのこと。なんぼいれたの?と聞くと、

「最初は200円」
「え?」と、メッセンジャーに打ち出されているその数字を疑った。
「200円じゃなくて、20000円じゃないの?」
「いや、200円。銀行へ行ったその日、お金下ろすの忘れて、財布をみたら200円しか
なかった。1円からできますよ、って銀行の人、言ったし」

もいけるよ、あんたはえらい!(爆

2011年3月三陸沖地震のときのこと。
計画停電だというのに、懐中電灯もろうそくもないという我が子達、懐中電灯をネットで注文したら品切れでないと言う。大阪の我が親友Michikoが食べ物を含むそれらの物資を届けてくれました。

子供たちの住む区域、夕方6時から10時まで停電の今日、間もなくその時間がくるという前の少しの間、スカイプでモイケル娘と話しました。

おっかさん  懐中電灯、手元に用意してる?
モイケル   うん。ヘッドライトをつけてる
おっかさん  へ、ヘッドライト?
モイケル   そ。みっちゃんが送ってくれたのを頭につけてる。
        鏡で今自分の姿を見たら、マヌケだった^^;

↓こ、こんなんを頭につけてるんか、と思ったら、停電を待機しているのが気の毒だとは思ったが、おかしくてつい大声で笑ってしまった。
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笑っている間に停電が来た様で娘はスカイプから落ちていた。夫にもヘッドライトの話をし、このところ、わたしたち夫婦の会話はずっと心配な話題か津波の映像を黙って見るばかりでしたが、こんな小さなことだが久しぶりに笑った気がします。

娘のブログタイトル「がぁーん( ̄□ ̄)!!」

今住んでる部屋に来てもうすぐ2年。私は特に大きな不満はないが、兄の5畳+光が全く当たらない残念な部屋がかなりかわいそうなので更新料がかかってしまう前に引越すことにした。

そんなわけで昨日は二人で不動産に足を運んで物件探し。何軒か部屋を見せてもらい、そろそろ帰ろうかと話していたところ。

最後の一軒から出ようとして足をいれたら、履いてきたブーツのジッパーがなかなか上がらない。長年使ってるため、前から上がりづらかったのだがこの時はなかなか手ごわく。思い切って力を入れたらビビーーーーッと片方のジップだけで上まで上がってしまったあああああ 

かんっぜんに壊れたぁああ 。・゜・(/Д`)・゜・。うわぁぁぁぁん
長年履いてきたブーツのジッパーがぶっ壊れたー;;

日本に移るちょっと前にポルトガルで買ったんです。母に買ってもらった思い入れがあるブーツだったんです。

不動産の人も苦笑い・・

・・・・

その後コンビニでセロハンテープ買って無理やりブーツを足に巻いて帰りました。。ほんとセロハンテープやらガムテープやらよく使うな私・・

さよならお気に入りブーツ(TT)


これを読んだときのわたしの反応はと言うと、あの膝までの長ブーツですよ、そのジッパーが壊れて、スーパーまでバコンバコンさせて歩いたのかと想像すると、ただただ笑うのに苦しく。

それぞれに伴侶との生活をしている兄妹だが、この手のズッコケ話を聞かなくなったから、少しは日本社会に慣れてきたのだろうか?

笑いは百薬の長だと思うわたしだ。

ではみなさま、本日はこれにて。

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2019年8月22日

ポルトガル時間午後5時過ぎ、日本時間で午前1時過ぎに「今家に着いた。雨が降ってたからびしょ濡れだぁ。」と、我が東京息子からメッセが入りました。アンちゃんによろしくね、と返信する。この3週間、賑やかな息子がいたのですが、我が家は今、火が消えたかのようで、こういう寂しさはちょっと堪りません。

相手をしてくれる友人はたくさんいるので、一日中、家にいる息子ではないのですが、晩御飯は一緒に食べるのか、それなら量は多めに作らないといかんとか、今日は誰に会うのか、おアホなことをしでかさないかとか、そうやって気にかかるのが、息子が家にいるという証拠です。

もう放っておきなさい、子どもじゃないんだから、と夫は言いますが、息子が側にいて気にかけられるというのが、嬉しいのです。

日本とポルトガル、遠く離れていてもメッセンジャーやスカイプのあるご時世です。女同士のモイケル娘とは、彼女の独身時代には毎日のようにチャット交換してきましたが、息子とのそれは、「元気?」「うん。そっちは?」「問題なし。仕事はちゃんとできてる?」「うん、」「なにか必要なものはない?」「Nothing special」と短いものです。

だが、三つ子の魂百までと言います。子供のころからの息子の性格からして、きっと大笑いするような話が山ほどあるに違いない。

そこで、今日は息子の話をば。こうして書いていると笑えて寂しさも紛れるというものです。

まだ、息子と娘が千葉のアパートに一緒に住んでいたころのこと、帰国しては、二人のアパートで嬉々として年に一度の母親業をしていました。夕食時の息子の話には笑うばかり。以下、いくつかあげます。

週に何度か近くのジムに通っている息子、力いっぱ、筋トレをしていたら、係員が顔を青くして飛んで来て、「お客さま、もう少しヤサシクしてください」と言われたのだそうだ。

筋トレ用具を壊さんばかりに思い切りガンガンやっていたのだろう。まったくいい年をして加減と言うことを知らないヤツではあると思いながら、その様子を想像したら、ジムには悪いが可笑しくて笑い転げてしまった。そんなのがいくらでもあると息子は言う・・・・・^^;

年末にすぐ近くの商店街で福引をした。例のガラガラポンを一回まわすのだが、あれを衆人の目前で力いっぱい何回も回して、回す部分が台から外れてしまい、玉いっぱいが外へ飛び出してしまったって・・・・息子いわく、「おれ、知らなかったんだ、一回しか回さないってこと。てへへ^^;」

そこに居合わせた日本人たちのあっけに取られた顔を思い浮かべると、「お前というヤツは~」と言いながら、これが笑わずにおらりょうか(爆)日本の皆様、息子がご迷惑をかけておりますが、どうぞ長い目でみてやってくださいませ。

ある日、ネットで見かけたこの写真に思い当たり、わたしは可笑しくて仕方がなかったものだ。

choimachi2.jpg
「まだじゃ。まだ早いのじゃ」

息子の幼い頃の様子がいかにも分かるという一枚です。ご覧くだされ。
東京息子

「裏面に1983年3月、ポルト」と記されています。夫の友人の別荘で誕生パーティーに招待され、記念写真を撮るところ、いや、撮ったのであります。

他の子どもたちはみなおとなしく並んで待っている中、我が息子のジョン・ボーイだけが砂遊びのショベルを持って、ちょろちょろ動き周り、やっとひっ捕まえて並ばせ、「はい、ポーズ!」とカメラのシャッターを切った瞬間逃げ出し、「あ、こりゃー!」

咄嗟にひっつかまえようと地面に片手片膝ついてつんのめりながら息子のズボンをひっぱっているのが、わたくし^^;息子と同い年の双子の兄弟もお口あんぐりです。

日本でも知り合う人からは「ジュアン君て原始人みたいね」と言われんだと言う。げ、原始人^^;「粗にして野」か。

すると横からモイケル娘が言う。
「おっかさん、家でも外でも変わらない、裏表のない人間に育って欲しいと願ったんでしょ?その通りじゃん、はははは」(エピソードはこちら) http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-301.html#more

そ、それはそうだけど、微妙に違うんだよね・・・と少し焦る母。

日本社会に入り混じって今は少し大人になったかと思うのだが、いや、まだまだか(笑)今更意見を言っても始まるまい、息子よ、城山三郎氏の「疎にして野だが卑ではない」の如く、せめて「卑」にはなるなや。
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2019年8月17日 

我が父は岩手県雫石出身の人で、若い頃は地方競馬の騎手をしていた。

家族のわたしたちを弘前に残したきり、自分は雫石に住んで好きなことをしてきた人だったが、歳をとり体重も増え、いよいよ馬に乗れないとわかったわたしが中学生になる頃に、やっとこさ、弘前に来て共に暮らすことになったのである。

仕送りもなく、祖母の大所帯の家でわたしたち親子三人は同居し、母がずっと苦労をしてきた姿を目の前でみてきたので、わたしは父にはどうしても気持ちを開くことが出来ず、どこかで他人のような目を向けていたところがなきにしもあらずだった。

加えて酒癖が悪くすぐに手があがる人でもあり、思春期のわたしはそういう父が嫌いだった。

わたしが高校生の頃だ。再三の酒癖の悪いのにとうとう辛抱の緒が切れ、わたしたち母子3人は、父が酔いつぶれて寝ている間に、身の回りの物と一式の布団をリヤカーに積み、母はリヤカーを引き、わたしと妹はその後押しをして、母の知人の屋根裏部屋に逃げたことがあった。

その時に、わたしと妹は母に勧めたのだ。「おかあちゃん、親父と別れちゃいなさい。3人で何とかなる」と。一ヶ月ほどその屋根裏部屋で生活して、結局わたしたちは父の元へ引き返すことになったのだが、それを決心した母はこう言った。「戸籍が片親となると、就職でも結婚でもお前たちが苦労することになる。」

母のあの決心が良かったのかどうか分からない。当時母は保険の外交員をしていて、なんとかわたしたちの日々の生活は成り立っていたのだが、やがて高校を卒業したわたしは、チャンスとばかりに父のいる嫌な家を飛び出した。その2年後には東京の夜間大学へ進むことで妹が家を出た。

父の元に残った母は保険の外交員を続け、60歳の退職を機にもらった退職金の一部を父にあげて、さっさと、当時既に結婚して東京に住んでいた妹夫婦の元へ移ったのであった。

その話を聞いたとき、母のしたことにわたしは笑ってしまった。これは逆・三行半(みくだりはん)じゃないか。

思うに、母は今で言う「熟年離婚」のハシリだったかも知れない。夫の退職金を待って離婚をつきつける現代女性と違って、母の場合は逆に、たかが知れてる自分の退職金の一部を夫に手切れ金として手渡して別れたのだから、堂々たるものだ。誰にも文句を言わせない自立した女性であったと言える。

別れたといっても戸籍はそのままで、女性関係も多かった父に、「あんたさ好きな人ができて、結婚するという時はいつでも籍をぬくから」と結局、別居の形になったのだが、父が亡くなった時には喪主として、借金しか残していなかった父の葬式をちゃんとあげたのであった。

ポルトガルに住んで子どもを持ち、少し自分の生活も落ち着いてくると、わたしは、南部出身の父からすれば異郷の津軽弘前に一人人住んでいる父のことを時折思い出した。異国に住むということが孤独であると分かり、口下手な父の行動が少し分かりかけたような気がした。

そして、それまでは一度も書いたことがなかったのだが、短い手紙に我が子たちの写真を入れ、年に2度ほど航空便で送った。ローマ字を読めない書けない父からは一通の返事も届いたことはない。

母の兄弟の間でも評判は悪く、わたしは時々親戚が父の陰口をいうのを耳にした。親戚が言うことは普段からわたしも思っていることで、もっともな話だ。が、忌み嫌う父ではあれど、その父が悪く言われるのには、親子の血のなす業だろうか、「分かってるけど、人には言われたくない」と、わたしは無性に腹が立ったものだ。

その父は60代で脳溢血を起こしそのまま亡くなったのだが、さて、納骨場所にもすったもんだがあり、結局妹夫婦がまだ必要としない墓地を購入することになった。苗字が違うというのに父はちゃっかりそこに納まっている。血は水よりも濃し。
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