FC2ブログ
2020年2月29日 

息子も甥達も、もちろんわたしや妹も、我が一族には誰も馬に乗りたいなどと言った試しがないのだが、どういうわけか、モイケル娘は小学生の頃にそれを言い出し、ポルトにいた頃はしばらく乗馬クラブに通っていました。

mariana_uma2_1.jpg
9、10歳のころ。ポピーと。

指導員に手綱を持ってもらいゆっくり歩くのから始まり、一人で馬に乗って歩けるようになるまでの最初のうちは、こちらものんびりと、彼女の楽しむのを見ていました。

が、初歩の練習を積み、やがてトロット(速歩)に入り、ギャロップという駆歩(馬が一歩ごとに足4本全部を地上から離して走る最も速い走法。)になると、もう、怖くて怖くて(って、なんでわたしが怖いねん?^^;、いえ、心配で心配で、練習馬場を見下すことができるカフェから見ているこちらは心臓バクバク。


何が心配かって、落馬ですよ。
本人はけろりとして練習馬場を出て、馬を厩に連れていっても、こちとら、手に汗にぎったまま、緊張がほどけない(笑)顔もこわばっておりました。

すると、次はとんでもないことを言い出しました。
「障害をやりたい」
えー!どっからそんな考えが出て来るのよ!
しょ、障害レースってあぁた、昔、我がオヤジ殿がやっていたあれじゃん!と、もはや絶叫の心地でした。

mariana_uma1_2.jpg
写真は後年、ポルトの修学旅行時に乗馬を楽しんだときのスナップ。

そうなのです、鬼籍に入って30年ほどにねいますが、我がオヤジ殿は、その昔、岩手の地方競馬の騎手だったのです。

いつだったか、日本に帰国したとき、妹が嬉々として「面白い写真を見つけた」と持ち出して来た古い古い写真の一枚にこんなのが↓
chichi_jouba_1.jpg
右が親父殿です。

私たち姉妹が一度も目にした記憶のない、この写真。オヤジ殿の馬上姿です(向かって右側)。
レースで優勝したこともあると自慢話はさんざん聞かされていたものの、実は一度もその晴れ姿をわたしたちは見ていないのです。

見たのはと言えば、埴生の我が家には似つかわしくない立派な額に入ったカラフルな競馬服に身を包んで馬の手綱を引いて立つ優勝時の一枚の写真のみ。

その写真も、オヤジ殿の火の不始末から出た火事で焼けてしまい、残っていたこの写真は、どう言うわけか、亡くなった横浜のおばが保存していたのでした。

さて、モイケル娘はその後、どうしたかと言うと、始めたのです、その障害飛びとやらを。

当時まだ元気だった母に国際電話でそれを話しましたら、モイケルはたった一人の娘孫です、即、「止めさせよ!落馬して怪我でもしたらどうする!馬はおどさま(オヤジ殿のことです)だけで十分である」とのたもうたのでした。ごもっとも^^;

目をそむけたい気持ちを追っ払って、ジャンプするモイケル娘の姿を、しっかとその姿を見ることができず、わたしが見ていたのは馬場の土のみ。こちらは毎度生きた心地もなくひたすら、止めてくれることを願っていました。

ある日、もういいかな、との言葉を耳にした時は、ほっとしたものでした。

東京のW大学に入り、乗馬をまた始めたいと言ったのですが、入会金の高いことを理由に、聞かぬふり素知らぬふりしていたおっかさんでありました。

しかし、一度メッセで話してみると、なんとまぁ、既に日本で乗馬済みだと^^; しかもサラブレットに乗る機会に恵まれたのだと^^;

我が親父殿の血が娘に出たでありましょうか、トホホ。

このところ、日本ではやれマスクがないだの、トイレットペーパーがないだのと、武漢肺炎関連の話が尽きず、政府の対応にはもうちょっとなんかできないのかと胃が痛い数日でしたが、子供たちのこんな昔のことを思い出しては、なんとか気を紛らわせようとしておりました。

みなさま、本日はこれにて。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ にほんブログ村 シニア日記ブログへ
にほんブログ村
2020年2月23日  

現在は関東近辺の数か所の大学で英語講師をしている我が東京息子がリスボンに住んでいた頃の話をば。

夏休みを返上して、丸一ヶ月9時から6時までTEFL(テフル=Teaching English as a Foreign Lauguage=外国人に英語を教える教授法)コースをとり、めでたく英語教師免除をとった息子が、リスボンのとある語学学校で英語の特別個人教授をしていたときのこと。

生徒は日本からやってきた30代の女性だそうで、「ポルトガルで英語かぁ」と、ちょっと違和感があったのだが、それは置いといて。教本には書かれていない教授法のコツのようなものがあるので、そのツボを押さえておくと、授業はいいものになると思い、補習校での20数年間と日本語講師のこれまでの経験があるわたし、息子にあれやこれやメッセで話しながらアドバイスしていた。

その息子が再び日本語を勉強するきっかけに或いはなるかもしれないと思い、ある日、外国人のための日本語教本英語版をコピーして息子に送った。この教本は、英語を教えるのにも意外と役立つと思ったのである。

その日も、彼の個人授業はうまく運んだか(一回のレッスンが3時間ぶっ通しである)とメッセで聞くと、ずいんぶんうまく行ったとのこと。送った日本語教本が英語授業に役立ってるらしい。

「ねね。BOINってどういう意味になる?」と息子が聞く。

ネットでの会話は今でこそ息子とは日本語だが、当時のメッセ会話はすべてローマ字だった。
「ボ、ボイン?^^;」・・・・

「そ、そりゃあんた、maminha(マミーニャ=オッパイ)の大きいのを言うのだよ。」と、俗語も知っておいたほうがいいと思ったので一応ちゃんと説明をつける。

「"ボインちゃん"なんて言ったりして使うのだ」とわたし。(←残念ながらわたしではないw)
と、せんでもええのに、余計な例まで上げて^^;

息子「じゃ、HAN-BOINって?・・・・ママ、それじゃ、意味が通じないよ。
    第一、これは日本語言語の言葉だぁ~!」
母  「うげ!@@@@か、勘ぐりすぎた!」

息子よ、先にそれを言ってくれぃ。

ボイン 母音 拇印と色々あって、ローマ字でBOINっつったって分からんぞ、と自分の早とちりを棚に上げて(笑) 息子の言うのは「母音、半母音」だったのでした(汗)

いやぁ、日本語も色々ですわ。
ん?あんたが早とちりなだけだって?@@ は、はい、さようでござんす。

とっつばれ。(津軽弁で「おしまい」の意味)

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ にほんブログ村 シニア日記ブログへ
にほんブログ村
2020年2月17日 

先々週、2月8日は、ポルトで漢字検定試験が実施されました。
その週は午前中4時間ほどある日本語教室を休校にして、初級2年目のクラス6名の生徒を試験場である元私の職場に当たるポルト補習校へ引率しました。

受験級は10級なのですが、受験させるのが少し早かった気が今回はしないでもありません。
結果は40日後に分かるので、楽しみでもあります。

この漢検ですが、ポルトガル、ポルト補習校が受験会場に指定されており、我がモイケル娘も昔、当校で漢検3級まで受験しています。補習校に通ったのは週に一度の3時間、そのうち国語学習は1時間半でしたが、3級を受験したのは高校1年のときで、よく頑張ったなぁと思ったものです。日本の大学に行きたいという夢あったればこそでしょう。

しかし、そうして覚えた漢字は、日本で生まれ育った人たちの身についたものとは別問題のようで、漢字に関しては結構面白い失敗をしでかしているモイケル娘であります。

早稲田大学での2年目の終わり、選んだたコースがどうも合わないとかで、なにやら勝手に他大学編入試験を受けたときの話です。

手ごたえはどうだったの?」
(↑断固、転入編入反対していたのではあるが、とりあえず聞いてみた)
「う~ん、どうなんだろ・・・でも、英語を和訳するところで、漢字間違った。」
「漢字を?自信がない漢字はひらがな、もしくはカタカナで行こうよ。」

試験問題の和訳は「核」に関する英文だったそうだ。「nuclear」つまり日本語では「核」であります。その「核」が三箇所も出てきたのだそうで、間違った漢字というのは、「核」なんだって^^;どんな風に間違ったかと言うと、あっはっはっはっは!これが笑わずにおらりょうか!

もう腹が痛くて涙が出てきて、それを披露した当時のチャット仲間たちにも、「お前、それ落ちてるぞ。」と直言されプリプリしている娘をも構わず母はパソコン前で体よじって笑ったのでした。

で、どういう字を書いたかと言うと、木へんに玄。ぐっはっはっはっは!

そんな字、あったっけ?本人も既に調べたようで、「ない!」と(笑)
しかし、なんとなく似てるには似てるわ^^
帰国子女は往々にして、こういう間違いをします。どれどれと思ってわたしも調べて見ると、この「核」という漢字、2級で出題です。やっぱりねぇ^^ 2級まで挑戦してみましょう、もいちゃん^^

「核」の間違いに拘わらず、編入試験に通ってしまい、東京から遥か離れた本州南の外れに行ってしまった娘の話ではありました。

さて、大卒後、東京都内の某企業に就職し3年勤めて学費を稼いだ娘は今度はとんでもないことに挑戦すると言い出しました。近世文学専攻だと(大汗)。 

近世文学は徳川時代から明治維新間の文学で、古典に比べると文章も比較的分かりやすいとは言うものの、問題はくずし字でありました。

モイケル娘、当時、かように書いております。

こころは豚にひかるる大八車

いやー。参った。文字に襲われる夢を見ました。はっはっは。

自分のペースでできることをやるしかないと再度自分に念押しを。周りはどうあれもっと気楽に失敗しまくろう\(^o^)/ と思うことにした結果

ぶたにひかるる1

赤枠内の文字を「豚にひかるる大八車」と解釈して今朝発表して先生の盛大な苦笑いを頂きましたww正しくは「縁にひかるる」ですね。

いやー、おかしいとは思ったんだよ。でも他の字が浮かばなかったし、そもそも辞典の豚の字と似てたし、右のルビも「とん」に見えるし。「えん」だったんだねー。

ちなみにこれは1688年に増田円水に書かれた『好色大神楽』という浮世小説です。物語が井原西鶴のなんかの小説(忘れた)に酷似しているのがひとつ注目すべき点だとかなんとか。

ほんと気分は暗号解読者だよ。今日から暗号解読者を名乗ろうかな。

どうも。暗号解読者です。ディサイファー(decipher=判断が難しいものを読み解くこと)です。

豚は大八車をひきませんよ。


んで、ちょうどこの時、日本に帰国して子どもたちのところに滞在して、彼女と一緒に頭悩ましたわたしと言えば、次の如くなり。

いやぁ、参った参った。紀貫之さまではありませんが、「娘もすなるくずし字といふものを、母もしてみむとてするなり」でありまして、モイケル娘が生まれて初めて取り組む1600年代に書かれた小説の原文読みの講義、いやはや崩し文字の漢字もさることながら平仮名のややこしいこと。

ただ眺める分には、美しいなぁで済ませるものの読むとなると、これは殆ど苦行であります。

2豚に光るる

二人して迷路に入り込んだ心地して、面白いもののその結果、いと恥ずかしき(笑)

江戸時代に「豚」っておったのかな?いや、ブタとはイノシシのことかも知れんぞ・・・しかし、なんで「心」なのだ?と不可思議に思ったものの時間切れ。

えぇい、分からん、しないよりはましだという母娘二人の結論が「ブタにひかるる」と相成りそうろう(爆)これからが恐いような楽しみなような、とこれまたいい加減で能天気な母。

大学から帰宅した講師からの正解を聞き、ガハハハと爆笑してしまったくずし文字探りテイタラクでありました。この母にしてこの子あり。

お粗末さまでございました。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ にほんブログ村 シニア日記ブログへ
にほんブログ村
2020年2月9日 

今日は我が母の命日です。
17年前のこの頃、辛い思いで日本に向かいました。機内で一睡もできずにいたら、スチュワーデスさんにこっそり告げられて、夜間飛行の機内の窓から、眼下に初めてオーロラを見たのでした。

以来、オーロラという言葉を耳にすると母に最後に会うために日本へ向かった日のことを思い出します。
   
昔、ポルトガルへ嫁ぐと決めたときに、アリゾナ・ツーソンに住んでいたアメリカ人の夫を持つ年配の日本女性に言われた一言を今更のように思い起こした時でもありました。 「Yuko、異国の人に嫁ぐということは、親の死に目に会えないということです」

父親の場合がそうでした。死に目どころか、諸事情で葬式にも出ることも叶いませんでした。
   
我が母のときは、現在のフラットを購入し引越ししてすぐのこともあり、経済的にも大変な時期で、帰国をもう少しあともう少しと引き伸ばしていたのです。

その頃、頻繁に母の夢をみました。すると、間もなしに妹からの連絡で、もう待てない、すぐ帰って来いとの連絡が入りました。

わたしが日本に到着して二日目に、まるでわたしを待っていたかのように、母は病院で静かに息をひきとりました。母の目からこぼれ落ちる一筋の涙をふき取ったのが最期でした。

その後、2年間は、母の写真が飾れませんでした。親がいつまでも元気でいるわけではないことを頭では分かっていたつもりが、あれをしてあげればよかった、これもしてあげればよかったと後悔し、亡くして後、実感したのでした。

母の葬儀は、仏教式ではなく、読経のない花と音楽の葬でした。同居していた妹の話では、費用の高い戒名もいらぬ、自分の葬儀はそのようにできたら嬉しいと洩らしていたようでした。

わたし達は市の斎場の一室を借り、棺の周りをたくさんの花で飾り、母の好きだったタンゴ音楽を流し続けました。
蒼空、黒い瞳、ブルータンゴ、奥様お手をどうぞ、ラ・クンパルシータ、真珠採り・・・

それらを聴くと、一人でまるでそれがパートナーがいるかのように、わたしたちの前で踊っていた母の姿を思い起こすのでした。
2タンゴ
Wikiより

もうひとつ、母の葬儀でわたしたち姉妹が決めたことは、「お香典をいただかない」ことでした。当時はまだ花葬式など珍しかったようで、「このようなお葬式、初めてさせていただきました。良かったです。」と、葬儀を取り仕切ってくれた人の言葉でした。

母は妹夫婦の家族と都会に20数年住んだのですが、母の故郷は弘前で、年に1、2度は帰郷し、山菜取りに山に入ったりして友人たちと交流していたようでしたが、みな、歳をとっており、無理をおして来て頂くのもいけないと思い、故郷の母の友人たちには敢えて連絡しませんでした。 

さて、葬式も終わって母の一番の友達のOさんには連絡せねばなるまい、となり、妹とわたし、どんな風に切り出したらいいかしらね、と言いながら電話のダイヤルを回しました。

娘さんが応答し、「実は・・・」と話し出したところが、「あの・・・母は2週間前に亡くなりまして」との返事を聞いたのには、絶句したものでした。

仲のよかった友達同士、「あんた、そろそろ逝こうかね」とでも言いながら、二人仲良く逝ったのだね、と妹となんだか哀しいような切ないような。

そんなことを思い出しながら、母の好きだったタンゴを聴くことがあります。母の影響だけではなく、わたし自身も若い時にはアルフレット・ハウゼ・オーケストラでたくさんのタンゴ音楽を聴いたものです。

タンゴにはコンチネンタル・タンゴ(ヨーロッパ・タンゴ)とアルゼンチン・タンゴがありますが、エレガントなコンチネンタルに比べ、アルゼンチン・タンゴは情熱的です。わたしは踊れませんが、見るだけでも「ふーッ」っとため息がでてきます。
タンゴ3
Wikiより

タンゴ音楽が使われる洋画も数えてみると結構あります。知っているだけでも、シンドラーのリスト、パブロ・ネルーダの郵便夫、Scent of Woman(「邦題:夢の香り」だそうです)等など。

シンドラーのリストとScent of Womanで使われている音楽は同じものでアルゼンチンタンゴでも有名な「Por Una Cabeza」。スペイン語で、「馬の首の差で」という意味。

下にScent of Womanで盲目の退役軍人扮するアル・パチーノが軽くタンゴを踊るシーンをアップしてみました。アル・パチーノはこの映画でアカデミー主演男優賞を獲っています。



こちらは、映画「Take the Lead」の1シーン。日本では未公開の映画だそうですが、実話に基づいており、わたしの好きな映画のひとつです。

アントニオ・バンデーラスが本格的に踊っています。
NY、とある高校のおちこぼれたちに社交ダンスを通じて、生きる情熱を学んで欲しいとボランティアを申し出るダンス教師をバンデーラスが、演じています。なかなか授業に乗ってこない生徒たちに、情熱的なアルゼンチンタンゴを披露し、ヒップホップ生徒たちの目を白黒させる圧巻的な場面です。



また、最近見たのには、アルゼンチン出身のバンドネオン・タンゴ奏者、アストル・ピアソラのドキュメンタリー映画がありますが、わたしの好きな一曲、ピアソラが亡き父に捧げた「Adiós Nonino(Farewell Father)」を下に。



してみれば、昔、わたしがバイトで歌っていた大阪は梅新の旧アサヒ・ビアハウスの常連さんに、来るや必ずタンゴを踊るカップルがいました。雑誌記事にも取り上げられたのが下の写真です。ヨシさんのアコーディオンでマイクを手に歌っているのは若き日のわたし。
タンゴ

ピアソラの「Adiós Nonino」は、わたしの場合、母を思い切なくなる曲です。

ではみなさな、また。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ にほんブログ村 シニア日記ブログへ
にほんブログ村
2020年1月26日 

今年は6月中旬過ぎの帰国を予定しています。
今回はこれまでよりも長い滞在になるので、夫と日程を相談しているのですが、「あなた、大丈夫?猫たちも大丈夫かなぁ」と言ったところ、「猫たちの方が心配なんじゃないの?」ですって。 わ、分かってるやん(笑)

いえね、これまでだとせいぜい長くて4週間の日本滞在でしたから、家猫は夫に任せ、野良猫たちのエサは帰国前に猫缶を買いまとめて、お掃除にくるおばさんにバイト代を払い、世話を依頼していたのです。

しかし、今回のように長期になると、バイト代もバカにはならんなぁ。夫には野良猫の世話までは頼めません。払ってお願いするしかありませんな^^;

今は夫の母親も鬼籍に入り、夫の世話をする人はいないので、やはり気になるというものですが、数カ月に渡るわたしの日本滞在は、我が東京息子が幼い頃に2度ほど、ありまして、本日はその思い出話をば。

トピックにある、「曽根崎署始末記」でござんす。以下。


大阪は曽根崎と聞けば、わたしなどはすぐ「曽根崎心中」と「曽根崎警察署」を思い浮かべる。

「曽根崎心中」は、近松門左衛門の文楽で知られる。

この世のなごり 夜もなごり。死にに行く身をたとふれば
あだしが原の道の霜 一足づつに消えて行く 夢の夢こそ あわれなれ。
あれ 数うれば暁の 七つの時が六つ鳴りて 残る一つが今生の
鐘の響きの聞きおさめ。寂滅為楽とひびくなり。


大阪商家の手代徳兵衛と遊女おはつの道行(ミチユキ)の場面である。この世で結ばれぬ恋をあの世で成就させようとする二人が、手に手を取って心中へと連れだって行く姿の哀れさは、人形劇と言えども真に迫り、見る者の心を濡らさずにはおかない。

若い時に観たこの人形浄瑠璃の美しさに目を、心を奪われ、わたしは近松の本を手に取り、更に「女殺し油の地獄」「心中天の網島」と観に行ったものである。上の道行の部分は、今でも間違えずにそらんじている。

しかし、なんでまたこれに「曽根崎警察」?これが、まったく面目ないことで^^;

母子で3年ぶりに初めて帰国したわたしは夫を7ヶ月もポルトガルにほったらかして、堺のアサヒ・ビアハウスの先輩歌姫、宝木嬢宅に同居し、ビアハウスでも週に何回かバイトで歌っていました。

それができたのは、当時、私たち親子は夫の母、夫のおばたちと同居しており、夫の世話をあまり心配する必要がなかったこともあります。

いつ帰るとも分からぬわたしと息子に、とうとうシビレを切らした夫が日本へ迎えに来ました。

そうして、ビアハウスで常連さんたち仲間たちがわたし達家族3人の送別会を開いてくれた、息子がまもなく2歳になろうかという夏の夜のできごとです。

sakai1.jpg
↑大阪堺の宝木嬢たくの界隈で。後ろに見える自動販売機がいたく気に入ったようで、しょっちゅうここに連れていけとせがまれたものです。ご近所に皆さんもにとても可愛がってもらいました。

ビアハウスのステージも終わり閉店の夜9時半、夫、息子、それに数人のアサヒ仲間と帰路に着き、ゾロゾロ数人連れ立って梅田地下街を歩いていました。

夫がちょっと用足しに行くと言い、「はいはい、ここで待ってます」とわたし。10時頃の地下街はまだまだ人通りが多く、同行していた宝木嬢とホンの一言二言話をして、ひょいと横をみたら、い、い、いない!息子がおれへんやん!

えーー!慌てて周りを見回したものの、見当たりまへん。え~らいこっちゃです!即座に同行していた仲間と手分けして、地下街のあっちこっち走り回って探したものの、あかん・・・
  
トイレの目の前にはビルの上のオフイス街へと続く数台のエレベータードアがズラリ^^;真っ青になりました。このどれかにヨチヨチと乗っていったとしたら、いったいどうなるのだろう^^;
もう泣かんばかりの心地です。すぐビルの夜勤管理人に連絡をし上へ下へのてんやわんや。
  
かれこれ1時間半も探し回りましたが、見つかるものではない。心配と探し回ったのとで皆くたびれ果てたころ、管理人の電話が鳴りました。

「おかあさん、ちょっと出ておくんなはれ」と管理人さんに差し出された受話器の向こうから、ウェ~ンウェ~ンと大声で泣いてる息子の声が。

「あ、もしもし、こちら曽根崎警察署です。この子ハーフちがうのん?○色のちっちゃなリュックしょって。もうオシッコでビショ濡れやで。」
万が一を思い、管理人さんに頼んで曽根崎警察署に連絡を入れていたのでした。

息子は通りかかった若い数人の男女のグループに連れて行かれたのか、あるいはついて行ったか。だとすると、そのグループが地下街から外へ出て置いて行ったとも考えられます。

そうして見ると、丁度わたし達とすれ違いざまに、若いグループが通り過ぎがてれ、「うわ!この子可愛い!」と言っていたのを思い出しました。息子はまったく人見知りしない子だったのです。ニコニコと若者のグループについていったのでしょうか。

わたしたち夫婦と、その日、お宅に泊まることになっていた先輩歌姫、宝木嬢たちと曽根崎署まで急いだ。署内2階で、涙と鼻水とオシッコでグショグショのジョンボーイ(ポルトガルではこう呼ばれていた)を引き取り、曽根崎署でしかとお小言をいただき、始末書を書いたのでありました。
  
いや~、これにはさすがのわたしも肝がつぶれる思いでした。

大騒動のその間もその後も、夫は一言とて、わたしを責める言葉を口にしなかったのでありました。この時はまったくもって面目なかった。以来、外で子供たちから目や手を離すことあるまじ、と心に決めてきたのでした。

このことは息子の記憶にないだろうな。

本日も読んでいただき、ありがとうございます。
お時間あらば、ポチっとランキングクリックをしていただけると嬉しいです。

では、また。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ にほんブログ村 シニア日記ブログへ
にほんブログ村
Click for Porto, Portugal Forecast 
ポルトガル ポルトの口コミ
ポルトガル ポルトの口コミ