2017年2月3日 

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トップにこんな写真なんぞを載せると、「spacesisさん、ついにお孫さんが!」と来そうです(笑)

そうではなくて、これらのベビー服は赤ん坊の我がモイケル娘に着せた物で、ほとんど新品に近いのでずっと今日まで取ってきた衣服の一部です。写真は全て一歳未満の時に着せた服です。

それを今、こうして懐かしんでお蔵入りだったのを引っ張りだしてきた、という訳ではありません。

少し前に、日本へ行くのが目標だった日本語の生徒、H君の話を書きましたが、日本へ行くとなると色々物入りなのと、できるだけ渡日前に散在しないようにと、今わたしが使っていないキャリーバッグの寄付を申し出たのです。それを渡すために中身を取り出したら、出てきたのがこれだったということなのです。

「ひゃ!なんてちっちゃい、なんて可愛い!」と並べて、思わず写真を撮らずにはおられませんでした。子どもたち二人がそれぞれ所帯を持ったら、手渡そうと手元に置いてきたアルバムがあります。

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アルバムは写真入の成長の記録です。息子、誕生時の体重は3300g、モイケル娘3200gとあり、どちらも問題なく生まれ、大病することなく成長してきました。息子の記録は比較的細かにとってあるものの、6年後に生まれた娘の記録は、二人の子育てにおおわらわで、いい加減になってしまいました。

内容はどんな風になっているかと言うと、こんな感じで、初めての誕生パーティーのお客さんやもらったプレゼント、それに体重、身長の記録、初めての言葉、初めての友達(娘の場合は、当時買っていたネコ、息子は犬のクラウディウ)などなど、この記録を満載に持っていけなかったのが、今にして見れば少し残念です。

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息子のベビーアルバム

保存するものに関しては、どちらかと言えばアナログ思考のわたしです。かつて補習校で、年に一度発行する学校の写真アルバムを、CDに切り替えようと言うデジタル提案がもちあがりました。予算節約と編集の手間がかかるということ、それに、CDの方が現代的であるというのが理由でしたが、子どもの記録をパソコンで見る老いた自分の姿を想像するにつけ、なんだかなぁと、大いに反対したことがありました。

写真そのものならば、手近にあるアルバムを開けばすぐ見られるのに、CDに収めると、まずパソコンを開かないといけない、そして、パソコンの前でアルバムを見るというのも、感慨がいまいちやなぁなんてわたしには思われたのですが、時代の流れに適わず、結局、多数決で押し切られてしまったものです。

書棚に並んである何冊もの補習校の写真アルバムは、折々手に取り開いて懐かしんだりするのですが、パソコンは毎日のように開くとくのに、CDに収められた写真集は、正直なところ、どれもまだ一度とてパソコンに挿入したことはなく、薄いケースに入ったままです。人の好き好きによるのでしょうか。

こんなにもちっちゃな靴下、こんなにもちっちゃな服、そしてベビーアルバムを開きながら、息子よ、娘よ、思えば無事に大きくなったものです。娘は昨秋、ようよう片付きましたが、後は、意外と癖の多い息子、愚や愚や、汝をいかんせん。おーっと、字違いなり!虞や虞や汝をいかんせん、でありましたっけ(笑)

モイケル娘よ、これは、項羽と劉邦の中国楚漢戦争の折、劉邦の漢軍に囲まれた「四面楚歌」の最後の場面、別れの宴席で、心残りになる愛妾の美女、虞美人と愛馬の騅(すい)を思い、「虞や虞や、お前をいったいどうしたらいいものか」と涙した項羽の歌なのであるよ。

断捨離を始めたと言いながらも、捨てられないものがあるのであります。

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人からは駄作と思われようと、我が人生の傑作なり(笑)

本日もお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは!



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2016年11月16日 

大切な子どもが二人います。異国で二人の子育てをしながら多くを学んできました。子育てから特に忍耐力と前向きの姿勢で生きることを培うことができ、彼らと共に自分も成長してきたと思います。子育ては自分育てだとわたしが言う所以です。この子達がいなかったら、わたしの今日はポルトガルになかったであろうかと時折思ったりします。

ポルトガルに生まれ育ち、息子はポルトガルの大学卒業後、モイケル娘は高校卒業後、二人とも母の国である日本へ向かって以来、むすこは8年、娘は12年の滞在になります。夫婦二人の生活になり、家族4人が住めるようにと求めたフラットが一時はだだっ広く感じられましたが、彼らの部屋にはわたしの日本語関係の本や、影絵作成の資料等が占領し、今では子供たちが帰国してくるたびに、それらを別の場所に移動するのでおおわらわです。

その二人のうちモイケル娘が、先だってこれまでのMMSだった頭文字をMMIに変え、お嫁に行きました。頭文字が三つあるのは、ファーストネームが二つあるからです。

去る4月にはあちらのご家族に会い、9月に、娘は婚約者を伴ってポルトに戻り、シェラトンホテルでポルトガルの近しい親戚と顔合わせしました。そして、ポルトガル南部を、言うなればハネムーンともいえるのですが、娘たちとわたしたしたちとで旅行しました。
なんのことはない、遠い昔にわたしと夫が、広島大学病院で夫が親しかったドクターと3人でポルトガルでハネムーンをしたのを思い出し、娘も似たようなことを繰り返しているのが、おかしいったらありませんでした。

今日はモイケル娘の成長を写真を通じて振り返ってみたいなと思います。言うなれば親バカさせていただきます。写真については、こうして掲載するのが少し気になるところもあるのですが、当ブログも気が付けば足掛け11年。ブログを通して長い間、お付き合いくださっている方たちもおりますので、二日ほどで大人になってからの数枚は削除しますが思い切って掲載することにしました。

子どもたちの色々なハプニングはブログ左メニューのカテゴリ、「家族ねた」や「帰国子女ねた」「バイリンガル物語」「ポルトガル日常生活ねた」または、別サイト、Spacesisのホームページに綴ってありますので、興味のある方はそちらの日記へどぞ。

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息子と娘5月の明るい日に生まれました。      

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生後3~4ヶ月。

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日本人の友達と遊ぶのが本当に楽しかったみたいです。表情に溢れています。
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大好きだったポピーと
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少し大人っぽくなってきたころ。  
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ポルトの土曜日だけの日本語補習校小学校卒業です。

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たった一人の習校中学部卒業生。

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18才、ポルトの空港で。そして、とうとう日本の大学入学を目指して日本へ飛び立ちました。

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大学入学後、夫がとうとう娘に会いに一人で日本へ(笑)初めてのことでした。

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東京で一人暮らしの時代。

これからは独身時代とは違った苦労があるでしょう。でも、持ち前の「エイヤ!」という前向きの気持ちで良く生きてほしい。おっかさんこと、わたしがHPやブログで綴ってきたことが、いつの日にか何かの役に立つとしたら、本当に嬉しい。
ありふれた言葉ですが、娘よ、おっかさんは感無量です。結婚おめでとう。
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2016年3月1日 

たいして上手くもない文章ではありますが、拙ブログは、わが子たちに母親がどのようなことをし、どんなことを考えて生きたかを伝えたいと思い、始めた日記形式のブログでした。それが足掛け12年ほどにもなっていることに気づきました。ブログは2006年2月に始めていますが、それ以前は2年ほどホームページで日記を綴っています。

ホームページ開設は2004年6月とあり、ちょうど我がモイケル娘が日本の大学受験を目指して旅立った頃で、タイプだけは早打ちできるものの、パソコンの、ネットの何たるかを皆目知らず、モイケル娘に手ほどきを受けながらやっと開設に漕ぎつけたものですが、当初はホームページ更新に随分苦労したものです。

このホームページ開設は、自分が日本へ行った後の母親のことを慮った娘のわたしへの置き土産だと思っています。実際に、ホームページやブログのお陰で、子供たちが家を出た後の寂しさから随分救われてきました。また、それらを通して、新しい友人や旧友との再会もあったりして、文明の利器とはかくあらん、と頷いています。

時には、もう少しゆっくりしたいと思うこともあれ、近頃はブログを始めた当時と比べ、日々、日本語教室で忙しい生活が送れるようになったのも、夫と二人きりの暮らしになったことが関係していると考えています。しかし、時折、年に一度しか会えない子供たちに思いを馳せるとき、古い日記を紐解いてみるのです。先日の寒い日曜日の午後はそんな日でした。

古い日記をあれこれ読むにつけ思うのは、わたしってホンマ、アホなことをして来てるかもなぁ、と、笑わずにおられず、読みながら一人、あははは、あはははとやっていました。そばから夫が何がおかしいのかとイブカシゲに聞いてきます。これが、日本語の機微をつかめていない人にはうまく伝わらんのです。えらそうにw

というので、何を笑っていたかのと、言うと、閑話休題、題して「ズッコケエイリアン」。

「文章の書き方のコツ」の授業で、英語の短い作文の宿題が出たと、昨日、モイケル娘。とにかく、脚色していいから面白いものを書けという米人講師の話に乗って、彼女がさっさと書き上げたと言う文章を読んで、思わず「おいおい^^;」のわたしでした。

「作文のネタに困ったときは、おっかさんをダシにする。いっくらでも書けるんだよ。」って、知らない人が聞いたら、あたしゃ、なにかい、ズッコケてばっかりじゃないの・・・^^;

人に話すと「いい歳コイて」と蔑みの目で見られかねないと、ずっと言わないでいる話がある。
が、妹や我が家族は知っていて、時々彼らのからかいの的にされてはわたしがプンプン怒る羽目になる話ですが、それを暴露しているのであります(笑)ブログやホームページ記事では、わたしもせっせとモイケル娘や息子の暴露記事を書いているので抗議できない。

で、モイケル娘、わたしの好きな「宇宙考古学」から宇宙人話を引っ張りだして来ている(笑)
この手の本はわたしが日本から持ち込むと、熱中して読むので他のことはほったらかしになることが往々にしてあり、夫も子どもたちも「まぁた、始まったか・・」とほぼ諦めの境地のようであります。
ひとり密かな楽しみとして読んでおればいいものを、家族にはついつい本で得た知識を披露しないではおられず、それをしては息子などに「ぐははは」と毎回笑われてしまうのでした。
「おまいら、そうやって笑っておけぃ・・・。シュリーマンだって、周囲にさんざん嘲笑されながらも、見てみぃ、最後には見つけたのだ、トロイの遺跡を・・・」と面白くないわたしは、途中で口をつぐみ、悔し紛れに心中この言葉を繰り返すのであります(笑)

ところが、わたしと同じ趣味の人が夫の親戚にいたのですね。今はもう定年退職した、夫の叔父にあたる人ですが、彼も数十年来こういう本を集めて読んでは面白がっているのです。職業は医者であった笑)ねぇ、だから、あながち、わたしがねじ一本抜けているとは言えないでしょ?

さて、内輪だけが知ってて言わないで来たその話とは。

娘が高2で、東京練馬区にある大泉学園高校に一月ほど体験入学した年の事。
相変わらずわたしは、宇宙考古学の本を買いあさっていたのですが、ある夕食時、なんの拍子にか、ずっと以前から気になっていた、自分の左耳にある小さな穴について話したのです。当時は母がまだ元気で、記憶もしっかりしていました。母は覚えていて、「子どもの時から、あったのだよ」と言う。

ふ~んと、そんなことはあるわけもないだろうと思いながら、遊び半分の気持ちで、続けて

わたし「おかあちゃん、わたし、子供のころ、行方不明になった、なんてことないわよね?」
母   「いや、あるよ。3歳くらいの時に。近所のもう一人の子といなくなってしまって、警察、
    ご近所で大騒ぎで探し回った。夕方にやっと見つかったその場所が、裏の田んぼのずっと
    向こうにある大きな墓地内で、墓石にチョコンと二人座っていた。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この時のわたし、鳥肌がたったのでありましたっけ。うわ!abduction!(拉致)w

もちろん、本人であるわたしに全く記憶はなし。この話を夫や息子に話して以来、我が家でのわたしのあだ名は「エイリアン」・・・・

モイケル娘の作文のコメントは、米国人講師のお言葉で「Is your mother OK?」@@ご~~ん
お、おふざけじゃござんせん^^;ジョークもほどほどで行こうよ、ほどほどで。事実をちょっと脚色したものだと、しっかり言っといてよ・・^^;んもう!

時折、わたしは母のこの話を思い出しては、一緒に行方不明になったというそのもう一人の子に会って聞いてみたいと思うことがある。「ねね。あなた、耳に小さな穴、もってない?」

その子が近所の誰なのか、母が亡くなった今は知る術もない。 
下の写真は60年ほども前の古いものだ。母が言った、「裏の田んぼのずっと向こうにある墓地」の「裏のたんぼ」とはこんなところなのです。
   
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我が故郷、弘前の同窓生たちには分かるであろうが、彼方右に突き出て見えるのは「仏舎利塔」である。

写っているのは、我が祖母タマばぁちゃん、後ろの三姉妹が向かって右から我が母、その横の二人が叔母たちの若き日の姿だ。左が姉妹で一番下の、わたしが中学時代に一時期大阪で一緒に住んだ叔母で、わたしはこの叔母にとてもよく似てると言われたものである。

左端に移っている坊主は、もう何十年も会っていないわたしの従兄妹。下町のタマばぁちゃんのうちは大所帯で、少なくとも4家族が同居していたのであった。この従兄妹の家族も同居家族であった。
こうして今、改めて昔の写真を見ると大きかったと思われていた小川がなんとまぁ、小さいこと!川に渡してある板橋に腰掛けて、妹と二人で水草を足に引っ掛けて遊んだのは夏の遠い遠い日々のことだ。
この川の辺りでたくさんの蛍をとって持ち帰り、蚊帳の中に離してひと時の夢に浸った遠い夏の日々だ。

わたしは今でもカナヅチだが、この浅い川底に両手、腹をついて(笑)泳ぎの真似の如きをして、得意がったものだった。田んぼの向こうにうっそうと茂る林の辺りが墓地になるのだが、小学生の頃は空になった炭俵を背負い、この田んぼを通ってではなく、表通りの道からグルッと遠回りしたところにある坂道を上り、墓地で薪の燃料となる落ちた杉の枝拾いをしたものだ。

この写真を見ても思うのだが、広い田んぼを越え、恐らくは崖をよじ登りでもしないと辿り着けない墓地まで、三歳のわたしがどうやって行ったのか不思議でならない。

表通りを歩いて行ったとしても、今と違い、町内同士親も子も顔見知りであったあの時代に、昼日中誰の目にも触れず、二人の幼児が誰かに手を引かれでもして行ったのだろうか。いくら、記憶を掘り起こそうにも三歳のことでは、掘り起こしようがない。

この写真にあった田んぼも川も、ある年、みぞれの降る中、同窓生のタコ君の車で40年ぶりに訪れたのだが、今ではつぶされて跡形もなく、あたりは新興住宅街になっていた。

わたしの左耳にある、ちょっと見では他人に気づかれない小さな耳穴は、今ではこうやって家族の笑いのネタにされてしまったが、本当のところはというと、どうにも分からないのである。

「is your mother ok?」娘の米人教授の声が、また聞こえてきそうだが、してみると、子供たちに残さんがため綴るこのブログ日記は、「ズッコケエイリアンの遺書」とも言えそうな気がしてきた(笑)


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2015年9月13日 

9月に入り、通常通りの日本語グループ授業、個人授業が始まり、夏の間、少し不調だった体調も元に戻りました。体調不良の原因はというと、言うも恥ずかしいところですが、食事会での暴飲暴食であります^^;

気の合った夫の医者仲間が、連れ合い同伴で8人ほどのメンバーを作っており、年に2、3回、集まって食事会をするのです。

ポルトガル語が皆目分からなかった始めの頃、少しずつ耳だけは肥えていき、なんとなく話の内容が想像できるようになり、と、この段階までの食事会は、ちっとも楽しめませんでした。話に加われず、「Sim(ええ)」「Não (いいえ)」「Mais ou menos(まぁまぁ)」の三語以外は黙々と食すのみです。何しろ、3時間は続く食事会、「早く終わってくれ~」と、心中で叫んでいたものです。

この頃は子育てと主婦、土曜日の補習校の仕事で、時間的にも経済的にも手一杯。子供たちの弁当作りから始まり、学校が私立で遠くにあったため、毎日の送迎(わたしは迎え専業)、稽古事の送迎、学校からの宿題、土曜日補習校の宿題、日本からの4教科の通信教育と、これらを子供たちと共に時間を過ごしていた日々でした。ゆえに、自分のポルトガル語教育に投資する余裕なし。好きな読書が就寝前にできたのが嬉しかったものです。いい訳がましくなりますが、そんな事情でポルトガル語を学習し始めたのは、60を過ぎてからです。

やがて、共通の話題が子育てや子供たちの進学、進路のこととなり、わたしもポルトガル社会に慣れて行き、たどたどしいポルトガロ語で少しずつ仲間の話に加わっていきました。今では、文法的な間違いはいいや、ここでは外国人だし勘弁してもらおうと開き直っています。

7月も終わる頃、定例の食事会の声がかかりました。皆、歳をとりました。話題は子、孫の話でもりあがり、「さぁ、飲め、食べよ」と勧められるままに、自分の小食を忘れ、飲み食いしたのが祟ったのであります^^;

冷たいワインもおいしく、コップにつがれては飲みつがれては飲みと、年甲斐もなくついつい・・・以来、夏中ずっと、調子が悪かった(涙)

わたしは大してできた人間ではないので、体調が悪いときは、まじめに物事を考えないようにします。心と体は互いに影響しあうのです。そして、こういうときは、時折、パソコンの側に置いてあるプラスティックの正六面体に目をやります。

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これは我がモイケル娘の手作りです。「作:マイケル・じゃっくそん・コスタ・サントス 11-11-2002」と、別面に書かれてあります。「マイケル、モイケル」は、彼女の日本名を、同級生がポルトガル語で発音すると、そんな風に聞こえることから、彼女に付けられたアダ名なのです。

2002年は、彼女がポルトのブリティッシュ・スクールからポルトガルの私立高校に移った頃で、既に日本の大学で勉強したいとの希望を抱いて、学校環境の変化を克服しようと苦労していた頃です。

幼稚園から中学3年まで、全て授業は英語でなされていたのが、転校することにより、ポルトガル語での授業に切り替わったということで、わたしはこれを密かに「国内帰国子女」だなぁ、と呼んでいました。

日本での進学のためには、父親を説得し、学費捻出を考えなければいけないと、色々知恵を絞るバトルの時期です。夏休みに帰国した折に耳にしたであろう、お千代さんの「人生いろいろ」の歌詞がある面、

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植木等の「金がない奴ぁ~俺んとこへ来い!」の面、

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「明日があるさ、明日がある」は坂本九ちゃんの歌です。

そしてこちらの面には、ドラマ「一つ屋根の下」の有名なセリフ、「心にダムは あんのかい!」
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どれもみな、彼女の年齢にしては古びた歌、ドラマですが、おっかさんであるわたしの影響です。これらの六面体には、日本の大学受験をしたい、及び、合格した後の学資をどう捻出したものだろうか、との、彼女と、彼女の夢実現の手伝いをしたいおっかさんの、毎日毎日、思い巡らしていた希望的観測の思いが表れています(笑)

2006年の「金欠病親子の帰国子女受験奮闘記」にこう書いています。

エピソード2:「お金がないじょ!」

さてはて困ったもんです。
日本へ帰るったって、日本の大学へ行くったって、もいける娘よ、あぁたの親の 生活基盤はポ国であるぞ。

物価が安く、それまで日本のほぼ半分の生活費で暮らしができたお国である。 日本からポ国へ来るのならいざ知らず、その逆コースであるから、これはあぁた、 並大抵なことではございません。

我が家ではその頃、六つ歳が離れた息子は、リスボンで大学生活です。 リスボンと言えば、住居賃貸料の高さでは、なぜかヨーロッパでも1、2を争うという、 どうでもいいようなことで有名な都市です。 法外な家賃を5年間も払って(ポルトガルの大学は5年制)ドブに捨てるよりも、 建て直ししたのでいいからリスボンにアパートの一室を買った方がいい、と夫は判断。

ローンを組んだばかりの頃です。ポルトの自宅とリスボンのアパートのローンと・・・・・・ 日本の大学受験は無理だってば^^;

娘が父親に面と向かって宣言できなかった理由は、ここにあるのでしたw 夢です。夢ならば見ることは自由だ、娘よ。

しかし、かえるの子はかえる。 「いつかアメリカで」と高校時代からの夢を見続け、卒業後都会で一人暮らしをしながら、 オフィス、歌バイトと数年間働いて、ついに夢を叶えた、そのおっかさんこと、 わたくしの、さすが娘(笑) もっとも、自力でその夢を実現できたのは、三十路を過ぎてたが^^;

つまり、そう簡単には諦めず、頑固に色々計画をコネorごね回したのでありまし た。


この6面体の歌を見ながら、心で歌いながら、物事をポジティブにとらえて自分を励まし、目標に向かっていたのだな、と思うと、あの頃の娘を愛おしく思い出します。六面体が作られてから13年になりますが、その後、彼女は父親を説得し、受験し、目標大学への入学を果たし、夢を実現しました。このポジティブ思考を忘れないでほしい。

今、いつでもわたしの目のつくところに置かれた「希望の六面体」は、小雨降る今日のポルトのわたしの前で、歌っています。

「人生 いろいろ~チャチャチャ ♪」

「ズッコケ親子の受験戦記:めざせ夢、日本の大学!」はこちらでご覧になれます↓
http://www.geocities.jp/spacesis_pt/html/kikoku/kikoku_top.htm
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2015年5月22日 

某大学の非常勤講師に加え、もうひとつ仕事を得てこの4月からは二箇所を掛け持ちで教える我が東京息子もポルトガルを後にして7年目に入ります。

同じ環境で育った兄妹と言えども、妹のほうは心中で思っていることとは多少違っていても、なんとか日本人に合わせてやって行けそうなのに比べ、兄貴の方は考え方が100%ポルトガル人です。己の意をなかなか曲げない父親譲りの頑固さも入ってますので(いや、わたしの分も受け継いでるかもw)、果たして日本社会に馴染めるのかと当初は心配していたのですが、なんとか、日本で生き延びる術を彼なりに多少身に着けたかに見えます。

もっとも日本滞在期間では先輩にあたるモイケル娘に言わせると、本来の息子の性格からして、大分辛抱しているとのこと。そう言われてみると、今でこそ、多少の角がとれて少しは丸くなったものの、若いときのわたしも、あからさまに態度には出さなかったが、周囲の慣習に、ことごとく反発を感じていたものでした。そういうわたしの部分がモロに出たんだなぁ。その生き方はしんどいのだがねぇ、息子よ、と思いつつ・・・

我がモイケル娘はと言うと、修士論文提出後の口答試験も済み、2月末には院卒業が確定し、授与式も3月に終わり、めでたく院を修了しました。また、手こずっていた自動車免許証もついに取得!本人も肩の荷がおりたようです。後は就職活動まっしぐら。なのだが、就活時期外と、20代前半ではない年齢もひっかかり、これが一番大変な現実でしょうか。諦めずに粘って欲しい、と願って来たのが、やっと決めたようです。

自動車免許取得に手こずったのは、夫が「オートマでなくマニュアルをとれ」と忠言したからであります。本人も万が一ポルトガルに帰国しないとも限らない将来のことも考え合わせて(ポルトガルはMT車が主要)、MT免許を選択したのですが、なかなかに大変だったようです。途中で根をあげそうになり、「誰が車なんか運転してやるか!」なんて罵っておりましたっけ(笑)

AT免許は「エンスト」がないし、運転が簡単、MTの方は、わたしもそうでしたがモイケル娘もさんざん「エンスト」をやらかしたようであります(笑) そんなとこまで親に忠実に似なくたってええのにw
ただね、MT免許は両手両足を使うので、車との一体感を味わえるぜ、娘よ^^ と、車の運転に関しては、エラそうなことを言えないおっかさんが言っております(笑)

日本にいると、車の運転ができないのはたいして不便なことではないですが、運転の可不可はポルトガルでは大きなメリット、デメリットにつながります。わたしが自宅、外でと家を出たり入ったりして日本語を教えることができるのも車の運転ができることによって公共交通機関に時間を合わせなくて済むからです。さもなくば、体力的にも自宅と外の掛け持ちは恐らく無理ではなかったか。

わたしが運転免許を取ったのには、息子の学校が遠いところにあり、夫が出勤前に連れていくのはいいとして(それでも当時はゆうに1時間はかかった)、迎えが不可能だというので、その学校に通わせるには、どうしてもわたしの免許と車を必要としたからです。

息子同伴で数ヶ月の帰国時に大阪で自動車学校に通いましたが、40歳近くでもあり、娘同様てこずったが度合いが違う(笑)何度投げ出そうと思ったか知れません。が、取っておいて本当によかった。
人間、いつどこで何が役立つか分かりません。

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羽田昼到着後すぐ池袋で子供たちと待ち合わせ。夫もともに、日本で家族が顔を合わせるのはいつになるだろう。

今朝も時差ぼけで午前3:30起床。まいったな^^;

本日はこれにて。
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