2011年05月29日 (日)
2011年5月29日
自分が追っかけをして見慣れている言葉だと、ついつい説明不足になりがち
です。
前回取り上げた海岸通りFozの崩れ落ちかけた館の記事で、わたしは「マヌ
エル建築様式」を言及しましたが、みなさんにはあまり聞き覚えのない語彙
だったかも知れないと反省。
因みに、Fozも説明を加えると、この場合、ポルトの海沿いの区域を言うので
すが、言葉そのものはポルトガル語で「河口」と言う意味。スペイン北部を
水源とするドウロ川はポルト、隣町ガイア市の間を縫いFozに辿り着き、そこ
で大西洋と合流するというわけです。
それで、もう少し説明を書き加えようと思ったら、あ!っと長い間すっかり
忘れていたことを思い出したのでした。
つまり、そのマヌエル建築といえばこれを除いてはいかんぞと言う、しかも
わたしが追っかけしているポルトガルのテンプル騎士団とは切って離せない
ポルトガルの世界遺産建築物なのでした。
これが、一昨年の秋口に、ポルト市と国際親善協会の共催の大イベント、
「Japan Week 2010 Porto」のコーディネーターの話が来て以来1年間多忙
で、従来の好きな追っかけがすっかり放ったらかしになっていたのでした。
もちろん、今回の4月の帰国でも、それ系の書籍は買い集めてきたのですが、
用意したままアップロードを忘れていた記事が幾つかあり、マヌエル建築様
式の話が出たところで丁度いい機会とあいなり、本日は、数年前の画像に
なりますが、テンプル騎士団の町、トマールを案内させてください。
マヌエル建築様式については、このシリーズの途中でお話となります。
テンプル騎士団の町・トマール(Tomar)

町の小高い丘の頂上にあるテンプル騎士団修道院城壁の一部
初めに。
イギリス、フランス、ローマを中心とした話題のベストセラー「ダヴィンチ・
コード」や「天使と悪魔」(ダン・ブラウン著)、またフランスのレンヌ・ル・
シャトーを舞台にした「テンプル騎士団の遺産」(スティーブ・ベリー著)は、
騎士団のミステリーをあますところなく描いています。
読む者を興奮させてくれるテンプル騎士団は架空の結社ではなく、過去の歴
史上実在し、その興亡は謎に満ちているというところがたまらない魅力でも
あります。そして、意外と世界の注目を浴びていないのが、ポルトガルのレ
コンキスタ(アラブ人からの国土奪回戦争)に於けるテンプル騎士団の歴史
上の活躍です。
2007年夏、訪れて来たモンサラース、アルモルロール城も騎士団の土地
になるのですが、テンプル騎士団(後にキリスト騎士団)の指令本部となっ
た小さな町トマールではたくさんの興味あるシンボルを目にし、変興味のあ
るものでした。(地名をクリックすると記事に飛びます)
トマールの修道院については、写真とあわせて少しずつ紹介したいと思って
いますが、今回の「テンプル騎士団の町」そのものをご案内します。
トマールの町

商店街から丘の頂上にテンプル・キリスト騎士団修道院が望まれる。

トマール、レパブリック広場にある市庁舎とドン・グァルディン・パイス
(ポルトガルテンプル騎士団初代マスター)の銅像。

トマールでは民家のベランダにまでテンプル騎士団のシンボルの十字架が。

ぺロリーニュ(pelourinho=罪人の公共さらし台)。
そのトップには騎士団のシンボル、地球儀が据えられてある。

町の中にあるアークの遺跡
ショッピングストリートでは美しいアズレージュ(azulejo=青タイル絵)が
たくさん見られる。


キリスト騎士団修道院で最も有名なマヌエル建築様式、巨大な不思議な窓の
アズレージュ。解説はいずれ修道院案内の際に。

次回はトマールの町の有名なタブレイロス祭を案内します。
今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。
自分が追っかけをして見慣れている言葉だと、ついつい説明不足になりがち
です。
前回取り上げた海岸通りFozの崩れ落ちかけた館の記事で、わたしは「マヌ
エル建築様式」を言及しましたが、みなさんにはあまり聞き覚えのない語彙
だったかも知れないと反省。
因みに、Fozも説明を加えると、この場合、ポルトの海沿いの区域を言うので
すが、言葉そのものはポルトガル語で「河口」と言う意味。スペイン北部を
水源とするドウロ川はポルト、隣町ガイア市の間を縫いFozに辿り着き、そこ
で大西洋と合流するというわけです。
それで、もう少し説明を書き加えようと思ったら、あ!っと長い間すっかり
忘れていたことを思い出したのでした。
つまり、そのマヌエル建築といえばこれを除いてはいかんぞと言う、しかも
わたしが追っかけしているポルトガルのテンプル騎士団とは切って離せない
ポルトガルの世界遺産建築物なのでした。
これが、一昨年の秋口に、ポルト市と国際親善協会の共催の大イベント、
「Japan Week 2010 Porto」のコーディネーターの話が来て以来1年間多忙
で、従来の好きな追っかけがすっかり放ったらかしになっていたのでした。
もちろん、今回の4月の帰国でも、それ系の書籍は買い集めてきたのですが、
用意したままアップロードを忘れていた記事が幾つかあり、マヌエル建築様
式の話が出たところで丁度いい機会とあいなり、本日は、数年前の画像に
なりますが、テンプル騎士団の町、トマールを案内させてください。
マヌエル建築様式については、このシリーズの途中でお話となります。


町の小高い丘の頂上にあるテンプル騎士団修道院城壁の一部
初めに。
イギリス、フランス、ローマを中心とした話題のベストセラー「ダヴィンチ・
コード」や「天使と悪魔」(ダン・ブラウン著)、またフランスのレンヌ・ル・
シャトーを舞台にした「テンプル騎士団の遺産」(スティーブ・ベリー著)は、
騎士団のミステリーをあますところなく描いています。
読む者を興奮させてくれるテンプル騎士団は架空の結社ではなく、過去の歴
史上実在し、その興亡は謎に満ちているというところがたまらない魅力でも
あります。そして、意外と世界の注目を浴びていないのが、ポルトガルのレ
コンキスタ(アラブ人からの国土奪回戦争)に於けるテンプル騎士団の歴史
上の活躍です。
2007年夏、訪れて来たモンサラース、アルモルロール城も騎士団の土地
になるのですが、テンプル騎士団(後にキリスト騎士団)の指令本部となっ
た小さな町トマールではたくさんの興味あるシンボルを目にし、変興味のあ
るものでした。(地名をクリックすると記事に飛びます)
トマールの修道院については、写真とあわせて少しずつ紹介したいと思って
いますが、今回の「テンプル騎士団の町」そのものをご案内します。
トマールの町

商店街から丘の頂上にテンプル・キリスト騎士団修道院が望まれる。

トマール、レパブリック広場にある市庁舎とドン・グァルディン・パイス
(ポルトガルテンプル騎士団初代マスター)の銅像。

トマールでは民家のベランダにまでテンプル騎士団のシンボルの十字架が。

ぺロリーニュ(pelourinho=罪人の公共さらし台)。
そのトップには騎士団のシンボル、地球儀が据えられてある。

町の中にあるアークの遺跡
ショッピングストリートでは美しいアズレージュ(azulejo=青タイル絵)が
たくさん見られる。


キリスト騎士団修道院で最も有名なマヌエル建築様式、巨大な不思議な窓の
アズレージュ。解説はいずれ修道院案内の際に。

次回はトマールの町の有名なタブレイロス祭を案内します。
今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。


2011年05月31日 (火)
2011年5月30日
お、spacesisさん、更新が続いて調子がいいね、なんて声が聞こえて来るよ
うな
いえね、もう原稿はできあがってたのでありまして、アップロード
を忘れていたのでした^^;
では、参りましょう。前回に引き続き、トマールです。
リスボンから鉄道で2時間ほどにあるリバテージュ地方のトマール(Tomar)
は、13世紀のポルトガル、レコンキスタ(イスラム教徒からの国土奪回運動)
時代からテンプル騎士団の町、またはキリスト騎士団の町として知られてい
ます。
この小さな町が、ごったがえしの観光客で埋まる祭りがあります。4年に一
度町をあげて催されるタブレイロス祭(tabuleiro=木のお盆)がそれです。
わたしがトマールを訪れた2007年は6月30日から7月9日が前回から
4年目のタブレイロス祭にあたりました。が、既に7月も下旬で祭りそのも
のを見ることはできませんでしたが、まだここかしこにかすかな祭りの名残
が見受けられました。
タブレイロス祭は、スペインのアラゴンから農業王と呼ばれたディニス王に
嫁いだ信心深いイザベラ王妃の篤い精霊信仰に基づくとされています。
「エストレモスの項」でも案内していますが、イザベラ王妃はポルトガルの
歴史の本に必ず載る「奇跡の薔薇」と言う伝説にもあるように、聖イザベラ
王妃の別名を冠し、各地で貧しい人々に施しをしました。
タブレイロス祭(=お盆・tableiroの複数)の所以はイザベラ王妃がパン等の
食べ物をお盆に載せて配ったことからくるそうです。
では、写真を見ながらタブレイロス祭を紹介しましょう。
タブレイロス祭の行列

行列は男女一組で、女性がタブレイロ(頭に乗せている)を運びます。
服装は決まっています。女性は白いドレスを着、赤、黄色、緑などのリボンを
写真のように掛けます。
男性は白シャツに黒のズボン、肩にはリバテージュ地方独特の「barette=
バレッテ」と呼ばれる三角頭巾帽子をかけます。ネクタイは自分が組む女
性のリボンと同色のものを。
下は、筆者が昼食をとったレストラン内の絵。

タブレイロについて

これがタブレイロです↑
運良く、祭が終わった後もまだショーウィンドーに残っていたのを撮影。
タブレイロの構成は、まず、下はコリ柳で編んだかごを白刺繍の入った布で
包みます。
その上に5本か6本の軸を立て、それぞれが一個につき小麦粉400gで作った
パン30個と紙の造花で軸を飾ります。
パンの形も下の写真にあるように決まっています。↓

タブレイロのトップには王冠と十字架か聖霊の象徴である白い鳩を乗せます。
タブレイロはこれを運ぶ女性の背丈と同じでなければなりません。
1個400gのパンが30個ですから、12kg以上の重さです。
自分の身長と同じ長さのタブレイロを頭上に乗せて運ぶことになります。
祭りの期間中、トマールの町は民家の窓から裏通りまで花一色です。
(下記5枚はGoogle画像から)





4年に一度のトマール・タブレイロス祭は花祭りのオリンピックと言えるで
しょう。 次回の4年先は2011年、つまり今年です。
テンプル・キリスト騎士団修道院については2007年に撮影して来たもの
の見逃してきたものがたくさんあるのと、その後、聖堂(円堂)の壁画の修
繕がなされていましたので、今回是非、行ってみたいと思っています。
さて、最後に面白い物を。
トマールのこの幟(のぼり)のシンボルをご覧ください。

異端のシンボル、鳩の背景はピラミッドと輝く太陽、そしてピラミッドのト
ップにはなんと、「all-seeing eye」(全てを見通す目)が!
これらは紛れもないフリーメーソンのシンボルでもあります。
次回のトマールシリーズはいよいよミステリアスな騎士団の聖堂(円堂)を
ご紹介します。
お、spacesisさん、更新が続いて調子がいいね、なんて声が聞こえて来るよ
うな

を忘れていたのでした^^;
では、参りましょう。前回に引き続き、トマールです。
リスボンから鉄道で2時間ほどにあるリバテージュ地方のトマール(Tomar)
は、13世紀のポルトガル、レコンキスタ(イスラム教徒からの国土奪回運動)
時代からテンプル騎士団の町、またはキリスト騎士団の町として知られてい
ます。
この小さな町が、ごったがえしの観光客で埋まる祭りがあります。4年に一
度町をあげて催されるタブレイロス祭(tabuleiro=木のお盆)がそれです。
わたしがトマールを訪れた2007年は6月30日から7月9日が前回から
4年目のタブレイロス祭にあたりました。が、既に7月も下旬で祭りそのも
のを見ることはできませんでしたが、まだここかしこにかすかな祭りの名残
が見受けられました。
タブレイロス祭は、スペインのアラゴンから農業王と呼ばれたディニス王に
嫁いだ信心深いイザベラ王妃の篤い精霊信仰に基づくとされています。
「エストレモスの項」でも案内していますが、イザベラ王妃はポルトガルの
歴史の本に必ず載る「奇跡の薔薇」と言う伝説にもあるように、聖イザベラ
王妃の別名を冠し、各地で貧しい人々に施しをしました。
タブレイロス祭(=お盆・tableiroの複数)の所以はイザベラ王妃がパン等の
食べ物をお盆に載せて配ったことからくるそうです。
では、写真を見ながらタブレイロス祭を紹介しましょう。


行列は男女一組で、女性がタブレイロ(頭に乗せている)を運びます。
服装は決まっています。女性は白いドレスを着、赤、黄色、緑などのリボンを
写真のように掛けます。
男性は白シャツに黒のズボン、肩にはリバテージュ地方独特の「barette=
バレッテ」と呼ばれる三角頭巾帽子をかけます。ネクタイは自分が組む女
性のリボンと同色のものを。
下は、筆者が昼食をとったレストラン内の絵。



これがタブレイロです↑
運良く、祭が終わった後もまだショーウィンドーに残っていたのを撮影。
タブレイロの構成は、まず、下はコリ柳で編んだかごを白刺繍の入った布で
包みます。
その上に5本か6本の軸を立て、それぞれが一個につき小麦粉400gで作った
パン30個と紙の造花で軸を飾ります。
パンの形も下の写真にあるように決まっています。↓

タブレイロのトップには王冠と十字架か聖霊の象徴である白い鳩を乗せます。
タブレイロはこれを運ぶ女性の背丈と同じでなければなりません。
1個400gのパンが30個ですから、12kg以上の重さです。
自分の身長と同じ長さのタブレイロを頭上に乗せて運ぶことになります。
祭りの期間中、トマールの町は民家の窓から裏通りまで花一色です。
(下記5枚はGoogle画像から)





4年に一度のトマール・タブレイロス祭は花祭りのオリンピックと言えるで
しょう。 次回の4年先は2011年、つまり今年です。
テンプル・キリスト騎士団修道院については2007年に撮影して来たもの
の見逃してきたものがたくさんあるのと、その後、聖堂(円堂)の壁画の修
繕がなされていましたので、今回是非、行ってみたいと思っています。
さて、最後に面白い物を。
トマールのこの幟(のぼり)のシンボルをご覧ください。

異端のシンボル、鳩の背景はピラミッドと輝く太陽、そしてピラミッドのト
ップにはなんと、「all-seeing eye」(全てを見通す目)が!
これらは紛れもないフリーメーソンのシンボルでもあります。
次回のトマールシリーズはいよいよミステリアスな騎士団の聖堂(円堂)を
ご紹介します。


2011年06月04日 (土)
2011年6月3日

テンプル・キリスト騎士団修道院入り口
テンプル騎士団(聖堂騎士団)について
聖堂騎士団(テンプル騎士団)にまつわる話はその結成から終焉に至るまで
ミステリーに満ちている。
聖堂騎士団は西欧中世期に於ける宗教三大騎士団の一つであり、正式名を
「キリストの清貧騎士団・ソロモン神殿の騎士団」(The Knights of the
Temple ・the Poor Soldiers of the Temple) と称される宗教的軍事的団体
です。(註:Templeとは古代エルサレムにソロモン王が建設し、後に破壊され
た神殿のこと)

ソロモン神殿画像の一例。神殿正面の二本の柱は右がヤキン、左はボアズと
呼ばれ、フリーメーソンのシンボルでもある。
12世紀の初めにフランス人ベルナール・クレヴォー(後の聖ベルナール。
シトー会クレヴォー修道院の創立者。)により任命を受けたユーグ・ド・パ
イヤンをグランド・マスターとする9人(11人と言う説もある)からなるこ
の騎士団が後に聖堂騎士団として知られるようになります。
表向きは聖地エルサレムへの巡礼路警護としていましたが、彼らの行動はそ
の目的から逸脱しており、専ら彼らがしたことは、ソロモン神殿の跡地に宿
営して、9年近くもの時間を神殿の丘の地下発掘に費やたことだと言われます。
生涯独身であることを強いられた聖堂騎士団は、やがてフランスのプロヴァ
ンスを始め、シャンパーニュ、イングランド、トスカーナ(イタリア)、更
にアラゴン、ガリシア(スペイン)、スコットランド、ノルマンディ、ポル
トガルが騎士団勢力の主だった中心地となり、騎士団に寄進された彼らの不
動産はバルト海から地中海、大西洋岸から聖地にまで及ぶ広大なものでした。
しかし、聖堂騎士団が大きな城を所有できたのは、アラブ人との戦い(アラ
ブ人からの国土奪回戦争=レコンキスタ運動)に不可欠であったスペイン、
ポルトガルに限られていました。
トマールの「テンプル・キリスト騎士団修道院」がそのひとつで、ポルトガ
ルに於ける騎士団の総本部でした。

ポルトガル・テンプル騎士団の城のひとつ、アレンテージュ地方のアルモウ
ロール城。(こちらにて案内)
ポルトガルの歴史で「テンプル騎士団」の名前が言及されるのは、ポルトガ
ルがまだ独立国として建国されておらず、「ポルトカレンス」と呼ばれてい
たスペイン・レオン王国の領地だった1120年代のことです。
当時ポルトカレンスは、領主亡き後で、後にポルトガル建国初代王となる
「ドン・アフォンソ・エンリケス」(D.AfonsoHenriques)王子の母、ドナ・
テレザが統治していました。
1120年代のとある日、ドナ・テレザは、徐々に騎士修道会として頭角を
現してきたフランスのテンプル騎士団初代グランドマスター(総長)「ユー
グ・ド・パイアン」から、「ポルトカレンスでのテンプル騎士団居留地の
提供依頼」の書状を受け取ります。
イベリア半島は、レコンキスタ運動と称して(レコンキスタ=再び征服する)
イスラム教徒からの国土奪回戦争がこの時まで既に400年近くも展開され
ており、ドナ・テレザはこの要請に応じて、中部、現在のコインブラ近くの
Soureに駐屯地を与えたことから、ポルトガル・テンプル騎士団の歴史が始
まることになります。
テンプル騎士団の総長、グランドマスターは終身制、各国にはマスター(管
区長)が置かれ、ポルトガル初代のマスターは、トマールの銅像に見られる
ように「Guardim Pais(グァルディン・パイス)」です。

テンプル・キリスト騎士団修道院は12世紀の初期テンプル騎士団時代から
16世紀まで4世紀を経て増築され、ロマネスク建築、ゴチック建築、マヌ
エル建築、ルネサンス建築の不思議な併合は訪れる人を飽きさせないでしょう。
わたしが訪れたのは4年前になり、画像もその時のものですが、当時はテンプ
ル騎士団の歴史を独学し始めた時期で、この修道院内に散りばめられているた
くさんのシンボルを見落としています。
今夏、もう一度訪問する予定でおり、新発見については改めて再度、綴って
みたいと思っていますが、今回、このシリーズの初めはテンプル騎士団が建
築に携わった円堂を。
お詫び:一部画像が鮮明でないのは、当時使用していたデジカメと撮影者の
未熟な腕ゆえご勘弁を。今夏の訪問後には画像の一部を差し替える予定で
います。

テンプル騎士団が建てた修道院の円堂。外見は16角形、内部は8角形にな
っている。ポルトガルテンプル騎士団初代グランド・マスター(総長)グァ
ルディン・パイスが1160年に建てた。円堂は、エルサレム神殿の丘に建つ
「オマール・モスク(岩のドーム)」をモデルにしたと言われる。
「オマール・モスク」は、エルサレム神殿の名残と信じられている。
↓
オマール・モスク(又はDome of the Rock)

wellcome images サイトより
テンプル・キリスト騎士団修道院外部のあちこちで見かける石球の意味する
ところはまだ不明ですが、モデルとなったオマール・モスクの絵にあります。
ポルトガル語で「charola(シャローラ)と呼ばれるテンプル騎士団聖堂。

2007年訪問時にはまだ修繕がされておらず、色彩が色褪せていました。
それでもかつての聖堂の豪華絢爛さが十分にうかがわれます。この静寂さに
この豪華絢爛さのミスマッチは不思議な雰囲気です。

その昔、この聖堂で祈りを捧げ戦場に赴いて行ったことを想像すると、遥か
な時の流れを経たとは言え、わたしはテンプル騎士団の大いなるロマンを
感じずにはおられません。

↑円堂の周囲のあらゆる部分が中心のシャローラ(聖堂)一点に集中するよう
に構成されている。(wiki画像)
下はキリストの十字架の下の三脚の台。

台の中央にはくぼみがある。ここは騎士団参入の洗礼堂でも
あるのだろうか。(三脚台、三本柱はフリーメーソンのシンボルでもある。)
聖堂から即、外部へつながるつ門。

いにしえの騎士たちは馬上姿のままこの門から聖堂に入り祈りを捧げて戦場
へ向かったと言う。
トマールのテンプル・キリスト騎士団修道院はシリーズで数回続きます。
テンプル騎士団については、筆者が得た知識から推測して書いている部分もあり
ますので、その点をご了承ください。
本日も当ブログを読んでいただき、ありがとうございます。

テンプル・キリスト騎士団修道院入り口

聖堂騎士団(テンプル騎士団)にまつわる話はその結成から終焉に至るまで
ミステリーに満ちている。
聖堂騎士団は西欧中世期に於ける宗教三大騎士団の一つであり、正式名を
「キリストの清貧騎士団・ソロモン神殿の騎士団」(The Knights of the
Temple ・the Poor Soldiers of the Temple) と称される宗教的軍事的団体
です。(註:Templeとは古代エルサレムにソロモン王が建設し、後に破壊され
た神殿のこと)

ソロモン神殿画像の一例。神殿正面の二本の柱は右がヤキン、左はボアズと
呼ばれ、フリーメーソンのシンボルでもある。
12世紀の初めにフランス人ベルナール・クレヴォー(後の聖ベルナール。
シトー会クレヴォー修道院の創立者。)により任命を受けたユーグ・ド・パ
イヤンをグランド・マスターとする9人(11人と言う説もある)からなるこ
の騎士団が後に聖堂騎士団として知られるようになります。
表向きは聖地エルサレムへの巡礼路警護としていましたが、彼らの行動はそ
の目的から逸脱しており、専ら彼らがしたことは、ソロモン神殿の跡地に宿
営して、9年近くもの時間を神殿の丘の地下発掘に費やたことだと言われます。
生涯独身であることを強いられた聖堂騎士団は、やがてフランスのプロヴァ
ンスを始め、シャンパーニュ、イングランド、トスカーナ(イタリア)、更
にアラゴン、ガリシア(スペイン)、スコットランド、ノルマンディ、ポル
トガルが騎士団勢力の主だった中心地となり、騎士団に寄進された彼らの不
動産はバルト海から地中海、大西洋岸から聖地にまで及ぶ広大なものでした。
しかし、聖堂騎士団が大きな城を所有できたのは、アラブ人との戦い(アラ
ブ人からの国土奪回戦争=レコンキスタ運動)に不可欠であったスペイン、
ポルトガルに限られていました。
トマールの「テンプル・キリスト騎士団修道院」がそのひとつで、ポルトガ
ルに於ける騎士団の総本部でした。

ポルトガル・テンプル騎士団の城のひとつ、アレンテージュ地方のアルモウ
ロール城。(こちらにて案内)
ポルトガルの歴史で「テンプル騎士団」の名前が言及されるのは、ポルトガ
ルがまだ独立国として建国されておらず、「ポルトカレンス」と呼ばれてい
たスペイン・レオン王国の領地だった1120年代のことです。
当時ポルトカレンスは、領主亡き後で、後にポルトガル建国初代王となる
「ドン・アフォンソ・エンリケス」(D.AfonsoHenriques)王子の母、ドナ・
テレザが統治していました。
1120年代のとある日、ドナ・テレザは、徐々に騎士修道会として頭角を
現してきたフランスのテンプル騎士団初代グランドマスター(総長)「ユー
グ・ド・パイアン」から、「ポルトカレンスでのテンプル騎士団居留地の
提供依頼」の書状を受け取ります。
イベリア半島は、レコンキスタ運動と称して(レコンキスタ=再び征服する)
イスラム教徒からの国土奪回戦争がこの時まで既に400年近くも展開され
ており、ドナ・テレザはこの要請に応じて、中部、現在のコインブラ近くの
Soureに駐屯地を与えたことから、ポルトガル・テンプル騎士団の歴史が始
まることになります。
テンプル騎士団の総長、グランドマスターは終身制、各国にはマスター(管
区長)が置かれ、ポルトガル初代のマスターは、トマールの銅像に見られる
ように「Guardim Pais(グァルディン・パイス)」です。

テンプル・キリスト騎士団修道院は12世紀の初期テンプル騎士団時代から
16世紀まで4世紀を経て増築され、ロマネスク建築、ゴチック建築、マヌ
エル建築、ルネサンス建築の不思議な併合は訪れる人を飽きさせないでしょう。
わたしが訪れたのは4年前になり、画像もその時のものですが、当時はテンプ
ル騎士団の歴史を独学し始めた時期で、この修道院内に散りばめられているた
くさんのシンボルを見落としています。
今夏、もう一度訪問する予定でおり、新発見については改めて再度、綴って
みたいと思っていますが、今回、このシリーズの初めはテンプル騎士団が建
築に携わった円堂を。
お詫び:一部画像が鮮明でないのは、当時使用していたデジカメと撮影者の
未熟な腕ゆえご勘弁を。今夏の訪問後には画像の一部を差し替える予定で
います。

テンプル騎士団が建てた修道院の円堂。外見は16角形、内部は8角形にな
っている。ポルトガルテンプル騎士団初代グランド・マスター(総長)グァ
ルディン・パイスが1160年に建てた。円堂は、エルサレム神殿の丘に建つ
「オマール・モスク(岩のドーム)」をモデルにしたと言われる。
「オマール・モスク」は、エルサレム神殿の名残と信じられている。
↓
オマール・モスク(又はDome of the Rock)

wellcome images サイトより
テンプル・キリスト騎士団修道院外部のあちこちで見かける石球の意味する
ところはまだ不明ですが、モデルとなったオマール・モスクの絵にあります。
ポルトガル語で「charola(シャローラ)と呼ばれるテンプル騎士団聖堂。

2007年訪問時にはまだ修繕がされておらず、色彩が色褪せていました。
それでもかつての聖堂の豪華絢爛さが十分にうかがわれます。この静寂さに
この豪華絢爛さのミスマッチは不思議な雰囲気です。

その昔、この聖堂で祈りを捧げ戦場に赴いて行ったことを想像すると、遥か
な時の流れを経たとは言え、わたしはテンプル騎士団の大いなるロマンを
感じずにはおられません。

↑円堂の周囲のあらゆる部分が中心のシャローラ(聖堂)一点に集中するよう
に構成されている。(wiki画像)
下はキリストの十字架の下の三脚の台。

台の中央にはくぼみがある。ここは騎士団参入の洗礼堂でも
あるのだろうか。(三脚台、三本柱はフリーメーソンのシンボルでもある。)
聖堂から即、外部へつながるつ門。

いにしえの騎士たちは馬上姿のままこの門から聖堂に入り祈りを捧げて戦場
へ向かったと言う。
トマールのテンプル・キリスト騎士団修道院はシリーズで数回続きます。
テンプル騎士団については、筆者が得た知識から推測して書いている部分もあり
ますので、その点をご了承ください。
本日も当ブログを読んでいただき、ありがとうございます。


2011年06月07日 (火)
2011年6月6日
本日はspacesisの勝手謎解きです。
現代に残される宗教のシンボルは、いったいどんな意味があるのか、由来は
何なのか。その中に隠された古(いにしえ)の賢者たちはメッセージを通し
て、現代人に、或いは彼らの子孫たちに何を訴えようとしているのか、と思
うと、わたしはそれらのシンボルに不思議な魅力を感じてワクワクしてきます。
テンプル・キリスト騎士団修道院、聖堂内で見かけたいくつかのシンボルを
取り上げて見ました。
今回は、わたしがゴチック建築シンボルの魅力にハマり出した初期の頃、
2007年の訪問からの画像です。見落として来たものはたくさんあります。
今夏、2011年中にこの修道院を再訪してじっくり見学して来るつもりで
いますが、本日はとりあえず4年前の感動と同時に、趣味の粋を出ないも
のではありますが、目に付いたシンボルの素人考察を述べてみたいと思いま
す。考えて推測するのは楽しいものです^^

聖堂中心の天井にある金箔の天蓋。その中心には「XPS」とキリストの象徴文
字があります(ボケ画像、申し訳ない。堂内は撮影可ですしたが、暗い上に
フラッシュ禁止、おまけにわたしの当時所有のデジカメと撮影腕稚拙でまし
な画像ができなかったのでした)
「キリスト」の呼び名は「救世主」を意味するギリシャ語の「クリストス=
ΧΡΙΣΤΟΣ」に由来します。これから、「XP」「XPS」(←こちらはポ
ルトガル語式表示)、また単に「X」の文字はキリストの象徴文字になります。
あれ?すると、おいおい「Windows XP」はいったい?と思い、早速検索(笑)
「Windows XPは「経験、体験」を意味するexperienceから由来する」なぁん
て書いてありますが、それなら素直に「Windows EX」でいいんじゃないの?
これって本来の「キリスト=救世主」の意味をもじってないかなぁ?なんて、
謎解きマニアのわたくしは、勘ぐったりするのでした(笑)
聖堂内の壁画にはたくさんのシンボルが紛れ込んでいるはずです。壁画画像
の多くは失敗で、今回はごく一部しか紹介できませんが、次回訪問時にはも
う少しいい撮影ができることを期待しています。

聖堂の天井画。右端の絵に着眼↓

柱上方には旧約聖書の創世記に出てくるはしごが描かれています。
このはしごは「ヤコブのはしご(Jacob's Ladder)」また「天使のはしご」と
呼ばれ、天使が地上と天国を行き来するのをヤコブが夢に見たことに由来し
ます。「はしご」は精神と肉体、真実の姿とエゴのコミュニケーションを表
す異端、錬金術のシンボルでもあります。
またわたしは時々見かけるのですが、太陽光線が雲の切れ間から帯状に指す
(薄明光線)自然現象を言います。
聖堂横にあるのはミーティング・スペースか?


天井から下がる鉛筆状のものは謎。伝達用のマイク?
テンプル騎士団の紋章

「一頭の馬に乗る二人の騎士」はテンプル騎士団の紋章。
騎士団の特徴は修道士であると同時に戦士であった。このシンボルはその二
元性を表していると言われる。
紋章の起源説には、発足当時、騎士団は貧窮で各騎士が自分の馬を持てなか
ったことだとある。後に騎士団の規律で一頭に二人の乗馬は禁じられる。
次回は修道院内とこの寺院の目玉、マヌエル建築様式の大窓の紹介です。
本日もブログを読んでいたただきありがとうございます。
本日はspacesisの勝手謎解きです。
現代に残される宗教のシンボルは、いったいどんな意味があるのか、由来は
何なのか。その中に隠された古(いにしえ)の賢者たちはメッセージを通し
て、現代人に、或いは彼らの子孫たちに何を訴えようとしているのか、と思
うと、わたしはそれらのシンボルに不思議な魅力を感じてワクワクしてきます。
テンプル・キリスト騎士団修道院、聖堂内で見かけたいくつかのシンボルを
取り上げて見ました。
今回は、わたしがゴチック建築シンボルの魅力にハマり出した初期の頃、
2007年の訪問からの画像です。見落として来たものはたくさんあります。
今夏、2011年中にこの修道院を再訪してじっくり見学して来るつもりで
いますが、本日はとりあえず4年前の感動と同時に、趣味の粋を出ないも
のではありますが、目に付いたシンボルの素人考察を述べてみたいと思いま
す。考えて推測するのは楽しいものです^^

聖堂中心の天井にある金箔の天蓋。その中心には「XPS」とキリストの象徴文
字があります(ボケ画像、申し訳ない。堂内は撮影可ですしたが、暗い上に
フラッシュ禁止、おまけにわたしの当時所有のデジカメと撮影腕稚拙でまし
な画像ができなかったのでした)
「キリスト」の呼び名は「救世主」を意味するギリシャ語の「クリストス=
ΧΡΙΣΤΟΣ」に由来します。これから、「XP」「XPS」(←こちらはポ
ルトガル語式表示)、また単に「X」の文字はキリストの象徴文字になります。
あれ?すると、おいおい「Windows XP」はいったい?と思い、早速検索(笑)
「Windows XPは「経験、体験」を意味するexperienceから由来する」なぁん
て書いてありますが、それなら素直に「Windows EX」でいいんじゃないの?
これって本来の「キリスト=救世主」の意味をもじってないかなぁ?なんて、
謎解きマニアのわたくしは、勘ぐったりするのでした(笑)
聖堂内の壁画にはたくさんのシンボルが紛れ込んでいるはずです。壁画画像
の多くは失敗で、今回はごく一部しか紹介できませんが、次回訪問時にはも
う少しいい撮影ができることを期待しています。

聖堂の天井画。右端の絵に着眼↓

柱上方には旧約聖書の創世記に出てくるはしごが描かれています。
このはしごは「ヤコブのはしご(Jacob's Ladder)」また「天使のはしご」と
呼ばれ、天使が地上と天国を行き来するのをヤコブが夢に見たことに由来し
ます。「はしご」は精神と肉体、真実の姿とエゴのコミュニケーションを表
す異端、錬金術のシンボルでもあります。
またわたしは時々見かけるのですが、太陽光線が雲の切れ間から帯状に指す
(薄明光線)自然現象を言います。
聖堂横にあるのはミーティング・スペースか?


天井から下がる鉛筆状のものは謎。伝達用のマイク?


「一頭の馬に乗る二人の騎士」はテンプル騎士団の紋章。
騎士団の特徴は修道士であると同時に戦士であった。このシンボルはその二
元性を表していると言われる。
紋章の起源説には、発足当時、騎士団は貧窮で各騎士が自分の馬を持てなか
ったことだとある。後に騎士団の規律で一頭に二人の乗馬は禁じられる。
次回は修道院内とこの寺院の目玉、マヌエル建築様式の大窓の紹介です。
本日もブログを読んでいたただきありがとうございます。


2011年07月25日 (月)
2011年7月24日
7月も20日を過ぎたと言うのに、今年のポルトガルは20度を数度上がる
くらいで少しも暑くならない。新聞によるとこれは27年ぶりの冷夏だそう
です。
節電で厳しい夏が予想される我が子たちが住む日本を思えば、こういう年こ
そ、冷夏の日本にならないものかと、農作物への影響をそっちのけに考える
身勝手な親です。
それにしても昨今の世の中を見回してみると、日本の大地震、原発問題、
北朝鮮系過激派政治団体に総額2億円の支援金を寄付したという民主党
を与党にいただく日本の不幸を始め、昨日の死者90人を出したノルウエー
テロ、中国の高速鉄道事故、ギリシャ、ポルトガルを始めとする世界的経済
危機と混迷を来たしている世界情勢、なんだか不気味な気がします。
そんなニュースに耳を傾けながら、この数日間、しばらく前に夫と再訪、撮影
してきた写真と首っ引きで、テンプル・キリスト騎士団修道院の謎を追っかけ
ておりました。気になると夜中でも起き出して確認したりする性格です、我が
子、モイケル娘にはとうとう「オタクだね」と言われる羽目に。
いいではないか、探究心が強いがための勉強オタクです
では、参りましょう。
現在は正式には「Convento de Cristo(キリスト騎士団修道院)」と呼ばれ
るトマールの修道院、前章で既に述べたように、テンプル騎士団により12
世紀に建設されたのが、15世紀16世紀のエンリケ航海王子、ドン・マヌ
エル一世時代を経て現在のキリスト騎士団修道院が完成されました。
今回はその中でも聖堂に次ぐハイライト、ドン・マヌエル一世の「大窓」の
シンボル謎解きに挑戦してみました。

12世紀から16世紀にかけて増築されたキリスト修道院は建築様式もロマ
ネスク建築、ゴチック建築、マヌエル建築と多様に渡ります。
特にマヌエル建築様式は別名「ポルトガル・後期ゴチック建築」と呼ばれ、
ドン・マヌエル一世が作り出したポルトガル独特の建築様式です。
大窓の大きさがこれだけではつかみにくいでしょう。下の画像を参考にして
ください。

大窓の上にある丸窓(Oculo)を後ろにしているテラスは修道院の3階。
2007年訪問時の夫と息子です。

こちらのテラスは2階。(2011年撮影)
マヌエル建築様式の特徴は石細工に見られる下記に示す例のような様々な
アイコンです。
1 船や航海に関係するもの。錨、鎖、地球儀。特に地球儀はドン・マヌエル
の紋章で、「コスモス=宇宙」を意味し、現在もポルトガル国旗に使われ
ている。
2 海に関係するもの。貝、真珠、珊瑚、海草が連なったもの。
3 テンプル騎士団/キリスト騎士団のシンボルの十字
4 繁殖のシンボルのざくろ、再生のシンボル、アーティチョーク、不死の
シンボル、松かさ。
5 結ばれた太縄、鈴のついた首輪。
6 乾いた大きな木。これは後期ゴッチック建築にも見られますが、フラン
シスコ会や自然主義者の象徴だと思われるが、他説もある。
などなど。
マヌエル建築様式の代表的建物としては、べレンの塔、ジェロニモス修道院、
シントラの王宮、バターリャ修道院などがあり、いずれもよく目を凝らして
みると、数箇所に隠れるかのように不思議なシンボルがあるのが分かります。
今回はこの大窓のミステリアスなシンボルを紹介しましょう。
まず、トップ大窓の右側の木から。

乾いて根をむき出しにした大木の巻かれたバックルつきのベルトです。前回
の訪問時にはこれを見逃したのでした。

更に根元の下に目をやると↓

これはドラゴンの顔だと言われています。

ベルトの意味は?ドラゴンはなぜここに?
この二つのシンボルの謎解き、spacesisの推論を次回紹介します。
本日もお付き合いいただき、ありがとうございました。
7月も20日を過ぎたと言うのに、今年のポルトガルは20度を数度上がる
くらいで少しも暑くならない。新聞によるとこれは27年ぶりの冷夏だそう
です。
節電で厳しい夏が予想される我が子たちが住む日本を思えば、こういう年こ
そ、冷夏の日本にならないものかと、農作物への影響をそっちのけに考える
身勝手な親です。
それにしても昨今の世の中を見回してみると、日本の大地震、原発問題、
北朝鮮系過激派政治団体に総額2億円の支援金を寄付したという民主党
を与党にいただく日本の不幸を始め、昨日の死者90人を出したノルウエー
テロ、中国の高速鉄道事故、ギリシャ、ポルトガルを始めとする世界的経済
危機と混迷を来たしている世界情勢、なんだか不気味な気がします。
そんなニュースに耳を傾けながら、この数日間、しばらく前に夫と再訪、撮影
してきた写真と首っ引きで、テンプル・キリスト騎士団修道院の謎を追っかけ
ておりました。気になると夜中でも起き出して確認したりする性格です、我が
子、モイケル娘にはとうとう「オタクだね」と言われる羽目に。
いいではないか、探究心が強いがための勉強オタクです

では、参りましょう。
現在は正式には「Convento de Cristo(キリスト騎士団修道院)」と呼ばれ
るトマールの修道院、前章で既に述べたように、テンプル騎士団により12
世紀に建設されたのが、15世紀16世紀のエンリケ航海王子、ドン・マヌ
エル一世時代を経て現在のキリスト騎士団修道院が完成されました。
今回はその中でも聖堂に次ぐハイライト、ドン・マヌエル一世の「大窓」の
シンボル謎解きに挑戦してみました。

12世紀から16世紀にかけて増築されたキリスト修道院は建築様式もロマ
ネスク建築、ゴチック建築、マヌエル建築と多様に渡ります。
特にマヌエル建築様式は別名「ポルトガル・後期ゴチック建築」と呼ばれ、
ドン・マヌエル一世が作り出したポルトガル独特の建築様式です。
大窓の大きさがこれだけではつかみにくいでしょう。下の画像を参考にして
ください。

大窓の上にある丸窓(Oculo)を後ろにしているテラスは修道院の3階。
2007年訪問時の夫と息子です。

こちらのテラスは2階。(2011年撮影)
マヌエル建築様式の特徴は石細工に見られる下記に示す例のような様々な
アイコンです。
1 船や航海に関係するもの。錨、鎖、地球儀。特に地球儀はドン・マヌエル
の紋章で、「コスモス=宇宙」を意味し、現在もポルトガル国旗に使われ
ている。
2 海に関係するもの。貝、真珠、珊瑚、海草が連なったもの。
3 テンプル騎士団/キリスト騎士団のシンボルの十字
4 繁殖のシンボルのざくろ、再生のシンボル、アーティチョーク、不死の
シンボル、松かさ。
5 結ばれた太縄、鈴のついた首輪。
6 乾いた大きな木。これは後期ゴッチック建築にも見られますが、フラン
シスコ会や自然主義者の象徴だと思われるが、他説もある。
などなど。
マヌエル建築様式の代表的建物としては、べレンの塔、ジェロニモス修道院、
シントラの王宮、バターリャ修道院などがあり、いずれもよく目を凝らして
みると、数箇所に隠れるかのように不思議なシンボルがあるのが分かります。
今回はこの大窓のミステリアスなシンボルを紹介しましょう。
まず、トップ大窓の右側の木から。

乾いて根をむき出しにした大木の巻かれたバックルつきのベルトです。前回
の訪問時にはこれを見逃したのでした。

更に根元の下に目をやると↓

これはドラゴンの顔だと言われています。

ベルトの意味は?ドラゴンはなぜここに?
この二つのシンボルの謎解き、spacesisの推論を次回紹介します。
本日もお付き合いいただき、ありがとうございました。

