2018年2月24日 

「群盲象を評する」という諺がある。

盲人たちが一頭の象に触り、それぞれが象とはいったいどんな動物かと語ることを言う。英語では、It´s the elephant in your living room.となる。

足に触る者、耳に触る者、鼻に触る者と、触る箇所によって色々に言い、全体像が見えない。同じものを論ずるにしても、その印象も評価も人によって違い、一部分だけを取り上げただけでは、全体は見えないぞ、ということを言っているのである。

随分前の話になるが、日本人の怒りを買ったマッカーサー発言の「日本人は精神年齢12歳」の真意は侮蔑ではないと、前バンクーバー総領事多賀敏行さんという方が書いてあった。

この方は国立国会図書館へ出向き、その言葉が書かれてある箇所の前後10数ページを読み、日本人を侮辱したというニュアンスで引用されているこの証言が、どのような文脈で飛び出したのかを調べたのである。

証言録を読んだ氏は、「マッカーサー本人は、主観的に日本を守ろうとして、日本を軽蔑するつもりがなかったのは、文脈から明らかである」との結論に達したそうだ。

日本だけに限らないが、近頃の報道をみていると、人が言った事の一部を取り上げて節度なく騒ぎ立てる、つまり、揚げ足をとるとは報道関係者として余りにも品がないではないかと、わたしは少々うんざりしているのだ。自分の発言に責任を負うべきは当然だ思うのだが、それをスッポリ忘れていませんか、てんです。

わたしたちは、こういうエレファント的な判断を毎日のようにしているのかも知れない。瞬時に視覚に入ったもの、耳に入ったものを通して、浅はかな自己判断をしているのかも知れない。

故意に言葉尻をとらえて人を批判、攻撃する節が多いことにも眉をひそめるにいたる。全体像を見せずに、こっそり悪意を吹き込んで言葉尻だけ垂れ流されたらたまらんだろうなぁと、そういう批判にさらされた人を気の毒に思ったりするのである。

こうなってくると、報道のエレファント的吹込みにとらわれないで全体像を見るように、わたしたちも賢くならなければならないと思っている。

また、発言するときに、安易な言葉を使って人の気を引くような物事の例え方には気を払うべきだろう。あっという間に発言が拡散されてしまうツィッターのようなSNSなどは危険性を含んでいるものだと思う。

少し前に手にした本のページに↓実はドキリとして、象に触る群盲の一人のように、いとも簡単に物事を判断、評することを控え、全体像を見ないといかんなぁ、と思った次第である。

Elefante
小泉吉宏氏の「シッタカブッタ」より。
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2018年1月8日

「言った言わなかった」、「した、してない」と証人もいず提出できる確たる証拠が出されないようなバトルは無実な方の身にとっては、まったく辛いものがある。

昨今日本のメディアで取り上げられるこの類の記事には、「はぁ・・・」と、ため息がでるばかりです。
    
私事になりますが、20数年ほど前、わたしは職場でこれと似たようなドロ沼戦に陥れられ、苦い思いをしたことがあります。

わたしは性善説をとりたい人間です。面と向かって話をする人には、やはりある程度の信頼を置こうと思う。面と向かって平気で嘘を言うような人間は、なかなかいるものではないと信じたいと思っている。

しかし、あれは晴天の霹靂。我が人生では天地もひっくりかえるような突然の災難で、なにがなんだか分からない間に、職場関係者全てを巻き込んでの、言わば、証拠提出不可能な「した、しなかった」のバトルでありました。

正直者はバカをみる。うかつに人を信じたがために、してやられたのであります。友人だと思っていたその御仁でしたが、あちらは違っていたようで、陥没の穴を掘りまくるチャンスを迂闊にも彼女にあげてしまったのであります。
   
いえね、こちらも少し張り切りすぎて調子に乗り、妬まれたのかな、と思います。一生懸命燃えて調子よくやっている人に、ついつい妬み心を持ってしまう。同じように頑張ればいいのにと思うのですが、そこは、人間の欠点です。妬みにより伸びる芽も摘んでしまうのは、残念なことです。

 「くそ、仕事を止めてやれ!」と思ったときに、「止めたらやっぱり、と後々まで言われるよ」サポートしてくれたのが夫です。
そこで一晩かけて、汚名を払う必死の思いで声明文を作成、翌日皆さんの前で申し開きをさせてもらいました。言うなれば、記者会見でしょうね(笑)
    
もちろん、その一件発覚以来、天敵となった捏造元の主も出席。まさか、わたしがそのような挙動にでると予期していなかったであろう、その相手に、いささか返礼をさせてもらったのでした。

この経験から思ったものです。 人間いくつになっても、世の中のこと、学ぶものだなぁ。いろんな悪い人がおるんやなぁ、世界は腹黒いわと(笑)

申し開きをしてそれで終わり、ということには勿論なりませんでした。真実が明るみに出るには、時間がかかるのです。わたしの場合、数年、職場では針のむしろに座っているような思いではありましたが、やがて御仁の化けの皮は少しずつはがれていき、周囲もさもありなん、と納得に漕ぎつけたと思っています。
    
この時期のわたしの座右の銘は「天知る 地知る 我知る」。 これを内心で唱えて耐え抜きました。
    
ま、自分の人生史ですらこうですからね、国の歴史となると人によって多様なとらえ方があるわけで、よく勉強しないとうっかりとんでもない方向に引きずられてしまいます。主義思想の違いは、堂々論議をつくして論破して欲しいと思うばかりです。
    
今日は抽象的な記事になってしまいましたが、「言った、言ってない」、「した、してない」レベルの諍いは、たくさんある昨今、どちらかが虚偽を言っているわけです。やられた方はたまらないだろうなと、自分の経験から同情します。

わたしのように、数年後、真実が日の目を見ることになったのは、恐らく幸運なことなのだろうとも思いつつ、世界の腹黒さには、みなさまもお気をつけくださいませ。

本日はこれにて。

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2017年10月6日 

夫が運転する車中で「カズオ・イシグロが今年のノーベル文学賞受賞」のニュースが流れました。

「英国人と言ってるけどカズオ・イシグロって日本人の名前じゃない?」と夫が聞く。
そそ、日本人だったけど家族と英国に移って後に英国人の国籍を取得した作家よ。作品に映画化されたものがあるし、わたしは彼の短編「Family Supper」を読んだ事がある。日本人というよりむしろ英国人かな、と夫が知らなさそうなので、実は少しばかり自慢っぽく説明したのでした。

カズオ・イシグロという日系英国人作家をちょっとしたいきさつで知ったのはかれこれ10年以上も前のことです。

この区域の高校で先生をしている我がフラットの前に住む女性が、「英語を教える同僚がいて、教科書でフグという毒魚を食べる短編を授業でしたのだが、日本文化に生徒が興味を示している。誰か日本人を知らないかと聞かれた。ユーコさん、してもらえない?」と申し出があったのでした。

してもらえないかというのは、つまり日本文化紹介の授業です。それが2004年だったと思います。その時に参考にもらった教科書のコピーがKazuo Ishiguroの短編「Family Supper(邦題は夕餉)」でした。

作家の名前は初耳でした。話が来たときは、日本文学の英訳したものを授業で使っているのか、あまり褒めたものではないじゃないか、などと鵜吞みにしたのですが、調べてみると、この作家は幼児期に家族と渡英した帰化人とあるのです。

その作品がポルトガルの高校の英語教科書に載るなんて、名誉なことだなぁと感心し、結果、わたしは胸ドキドキの思いで、ポルトガルの高校生相手に初めて教室で英語で授業をすることになったのでした。

その後、更に2度に渡り同高校で毎年「Family Supper」の単元がやってくる毎に、ボランティア授業をしてきました。

これがわたしの日本文化紹介ボランティア活動の出発になったと言えます。そのような訳でわたしのボランティア活動とカズオ・イシグロは切り離せないものなのです。

彼の作品で映画化された「The Remains of the Day(邦題:日の名残り)」は、アンソニー・ホプキンス主演の旧英国の卿に仕える頑固なまでプロフェッショナルな黄昏時期に達した執事の人生を描いた秀作です。原作者の感性は日本人ではなくイギリス人そのものだと思いました。

下記、3度目のボランティア授業の様子を過去日記から引き出します。

2008年2月12日(火) 日本文化紹介ボランティア

行って参りました、高校でのボランティア授業。
夕べ午前2時まで下準備。それでも終わりきれず今日の午前中ギリギリまでタイプを打ったり、展示する物を引っ張り出したり。下が持っていったもの一式です。

日本文化授業

左に丸めてある大きなポスターは我が同窓生が送ってくれた弘前公園の桜まつりの写真。その他、言葉で伝えるよりも目で見た方が分かりやすいものの大きな写真コピーも。

もちろん、夕べから今日の午前中ギリギリまでタイプした授業のための英文トラの巻き5枚もしっかりと^^
これを見て棒読みするわけではないのですってば^^;こうしてタイピングすることで話したいことがだいたい頭に入るのであります。

日本文化授業3

我が家から車で10分ほどのところのErmesindeという区域にあるリセウです。写真は校門を入った正面にある校舎の一部で、そこから校内に入りました。

「2年前に入った校舎と違うな?」と思いながら、ここでフランス語とポルトガル語を教えている友人から依頼してきたポルトガル人の英語の先生を紹介され、授業をしてもらう場所ですと、彼女に案内されたところが・・・↓ここ・・・

2日本文化授業

うげ!オ、オーディトリウムじゃないの!

そんな話は聞いていなかったぞぉ~。それにプロジェクターはあるが、わたしの好きな黒板がないではないか!簡単な漢字も三つ四つほど覚えてもらおうと準備してきたのに@@
家を出るときに自分の黒板を持っていこうかな?と一瞬その考えが頭をかすったのだが、やっぱり我が勘は正しかった^^;と、しつこく黒板にこだわるspacesisではある(その訳はこちら。笑)

ああだらこうだら言ったところで仕方がない。授業開始時間までの15分ほどの間に、持ってきた小物を並べ、弘前公園や京都の庭園、紅葉のポスターを壁に貼る。
日本文化授業4

小物は雰囲気を作るためにこんな風に並べて出来上がり。

「生徒さん、入りますよ。」と声がかかり、ゾロゾロ入ってきた生徒の数は70人ほど。後で聞いた話が3クラス合同だったそうで。これも予期してませんでした。てっきり2年前同様、普通の教室で20人ほどの授業だと思い込んでいたのです。

授業の内容は
1.日本の重要な行事。
2.日本が大きな技術発展を遂げた理由は?
3.日本文化と日本社会について。
4.日本社会が閉鎖的な理由
5.日本の物価
6.伝統的スポーツ、気候
7.フグについて。(授業の課題がイシグロ・カズオの短編「Family Supper」。この物語にフグが
  出て来る)等等。

ちなみにこちらは英語の授業は英語で行われますから、わたしも英語でとの依頼。しかし、今回資料作成でタイピングしてみて、スペルの訂正表示がい~っぱいでした。話すときはスペルを気にしないでいられるものの、これはいかん・・・

言葉は生き物。使わないと日々こぼれ落ちて行くことを実感。息子の日本語のこと、あまり言えません・・・

お喋りすること1時間ちょっと、終了後は花束と有名店のチョコレートを頂いて来ました。そして、前回J-ポップを紹介しようとチャゲアスの歌、「On your Mark」CDを持っていったつもりが、間違って別のを持っていき、ガーーンでしたので、今回は確認してラジカセごと持って行ったのですが、寝不足がためか、CDをかけること自体しっかり忘れておったのでした^^;

ポルトの高校生にJ-ポップを聴かせられるのはいつのことやら・・・


とまぁ、相変わらずトホホなわたしでありましたが、カズオ・イシグロ氏、ノーベル文学賞受賞、おめでとうございます。そして、小さなことですが、イシグロ氏の作品がきっかけで貴重な体験を得ることができた幸運に感謝するものであります。

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2017年9月27日 国際社会では「沈黙は金、謝罪は美徳」ではない

Olimpic-1.jpg

「spacesisには政治が分からぬ。spacesisはポルトの一主婦である。けれども祖国に対しては人並みに敏感である。」とまぁ、今日は太宰治の「走れメロス」冒頭部分を拝借。

「沈黙は金、謝罪は美徳」は、日本国内でこそ通用することだと知ったのは、ポルトガルに住んでからです。
私たち日本人は、相手とことを構えるのを避けるため、ついつい「すみません」を安易に使いがちなのですが、国際社会においては、旅行者ならいざ知らず、いえ、たとえ旅行者であったとしても、ことに寄っては「ごめんなさい」は迂闊に使うものではないらしいのです。

「すみません、ごめんなさい」の言葉は、全面的に自分の落ち度を認めることを意味するもので、自動車事故などでも、そう言ったが最後、あとで言い逃れは効かなくなり、負担は全て最初に謝罪した者にかかります。勿論、明らかに自分に非がある場合は別です。

ポルトガルに住み始めた当時は「嫌!」と意思表示するのが、まったく苦手でした。これ以上はもうどうもならん、がまんならんというところまで行って、「嫌だ!」と初めて意思表示ができたのは、夫の家族や親戚とポルトガルに住んで四年も過ぎてからです。

嫌いです、を「余り好きではありません」と自然に口から出てしまう自分は、いくら外国のことを少し知っているとカッコつけても、典型的な日本人であると悟ったものでした。「ごめんなさい」や、少ししんどいけど頑張ってニコッと笑顔をつくることが、人間関係の潤滑油になると、信じて疑わなかったのですから。

もちろん、それが功を奏すこともありますが、肝心な問題点に来たときは、それではダメなのだ、少しも解決にはならないのだと数年もしてから理解しました。

今ならさしづめ、ブログに書いたりツィッターで呟いたりして鬱憤を晴らすことができるでしょうが、当時はパソコンなどなし。
国際電話も一年に一度するかしないかで、せいぜい手紙を親兄弟、友人たちにせっせと送るが関の山。 それでも手紙に愚痴は一言も書けませんでした。愚痴を書き始めても、それを読み返すうちに自分がその時の哀しい気持ち以上に惨めになるのです。

我が亡き母も愚痴をこぼさない、人の悪口を言わない人でしたから、そういうことを文字に表すのをわたしもよしとしませんでした。わたしのポルトでの最初の6年間の苦難を知る人は、ですから、夫を除いては誰もいません(笑)

自分の意見をはっきり表示するということは、そこにいる人たちがその習慣を身につけている場では、自分も非常にスッキリします。相手の考えていることも明確にわかりますし。そういう場でユーモアを使って相手をギャフンとやり込めることができればもう文句なしです。

わたしは日本人同士の間では、やはり日本人としての美徳を失わないようにしたいと思いますが、ポルトガル社会でとなると、少しはきつくならなければならないのかな?と思ったりします。

ただ、これをそのまま調子に乗って日本人社会に持ち込むとなると、今度は逆に摩擦が起こるわけです。

こういうことを経験を通して少し学んだもので、日本の政治家には国際社会に出たときに、国際マナーと言うか、国益にのっとった立場で議論が広げられるノーハウ、テクニックを学び、国内国外でのマナーのTPOを身につけてもらって、それを使いわけられたらいいのではないのかなぁ、などと思うのですが。

近年は安倍首相が日本人トップとして、なかなかに旨く国際社会で渡り合っているように見えます。それなのに国内のメディアの安倍叩きは安倍憎しの一筋で酷いものです。安倍首相の政策全てに同意するわけでは
ありませんが、国難ともいえる今、海外のトップと互角で談話できる日本人が誰かいますかいな?

「うるさいから、しつこいから、ま、この辺で謝っておきましょう、手を打っておきましょう。」などの安易な謝罪は、従軍慰安婦問題の根拠とされる河野談話でも見られるように、そのときは一旦治まったかのように見えても、国際社会では必ず後で大きなしっぺ返しとなって、こちらに撥ね返ってきます。

「しつこい」も言い様では、「粘り強い」になります。これも日本には身につけて欲しい点です。隣国たちのように巧みなロビー活動までできないとしても、国の威厳に関わることは、理論と証拠を示してエレガントに堂々と、しつこく打ち出して欲しいと思います。

今回トップに掲げた世界地図ですが、これを見て気づいたことがありますか?
実はこの地図、韓国のピョンチャンで行われる2018年の冬季オリンピック公式サイトに掲載されていたもので、日本列島が消えているのです。

韓国側は担当者の間違いで政治的意図はないと弁明していますが、地球上の普通あまり知られていない小さな国や新しく独立した国だと言うなら話は分かりますが、(それでも主催国としては失格です)日本は隣の国です。それが抜けるわけがなく確信犯に間違いないでしょう。これが逆に、日本が彼の国の消えている地図を載っけたら、どんな罵りを受けることか。

今回は発見後すぐ政府が是正要求して修正されましたが、慰安婦問題や南京問題、軍艦島問題もこんな風に国が「違うぞ、出されてる証拠に偽りがあるぞ」と反論の一つもしなかったことが、今日これらの問題をこじらせてしまった原因のひとつだとわたしは思っています。

その場しのぎのいい加減な謝罪や誤魔化しが後で大きなツケになって返ってくるのです。政府が反論しないことに、いつもイライラしているわたしであります。

なんではっきり「ここにこうして証拠書類がありますねんで。これらの証拠写真とされるものは全て捏造なんでっせ」と突きつけへんねん!歯がゆいったらありゃしません。

なんや、段々腹立ってきましたんで、今日はこの辺で。
ほな、また明日。

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2016年4月25日 

今日は「Vinte-cinco de Abril(ヴィンテスィンコ・デ・アブリル=4月25日))で、休日です。ブルジョアジーにも民衆にもポルトガル人にとって4月25日は特別の日です。

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別名を「カーネーション革命(Revolução dos Cravos=Cravosはカーネーションのこと)」とするこの無血革命は、1974年にヨーロッパでも最も長かった独裁政治を終わらせた軍事クーデターです。わたしがポルトに来たのは1978年の春でしたから、ポルトガルが独裁政権から自由を奪回してまだたった4年しか経っていなかったことになります。

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当時のポルトを振り返れば、町全体が薄汚れた感が否めず、好きな人の国とは言え、「大変なところに来ちゃったなぁ」との索漠とした思いを抱いたのが正直なところです。近所の年端もいかぬ子供の口から、野良犬を相手に棒っきれを振り回しながら「ファシスタ!」と言う言葉が聞かれたのには、ギョッとしたものです。その野良犬は後にわたしの愛犬になるというオチがあるのですが(笑)

日本語の若い生徒たちは、そんな時代のポルトを知らないわけで、時に授業の流れで当時のポルトを語ることもあり、今やわたしは語り部のグランマ(Grandmother)もどき。また、同年代の生徒さんたちと、あんな時代があったと話し合えるのも、授業の潤滑油になること、しばしばです。

数年前に日本からやってきた甥をコインブラ大学を案内した際、昔のままの姿を残す大学周辺の細い路地に並ぶ下宿屋を散策しました。その折に一軒の下宿屋の外壁に、人の顔の青タイル絵がはめ込まれているのを見つけました。 「Zeca Afonso、大学生時代にここに下宿」と書かれてありました。カーネーション革命に彼の名は欠かせないのです。
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本名はJose Manuel Cerqueira Afonso dos Santosですが、Zeca Afonso(ゼカ・アフォンソ)若しくは単にZecaとして知られます。

幼い頃から健康に恵まれず、裁判官として当時のポルトガル領アフリカ・モサンビークに赴任した親兄弟と離れて、本土の親戚の家で育ちました。

学生時代にコインブラ・ファドを歌い、地方の人々の暮らしや伝統にまつわる音楽を自作し、後にAlcobaça(アルコバッサ)の高校でフランス語と歴史の教師を勤めながら(この職もやがて追われる)、社会問題を取り上げた作品を多く自作して歌い、この頃からサラザール独裁政権に対する反ファシスト
地下運動のシンボルとなって行きます。

やがて、Zecaの歌は放送禁止となり、コンサートの多くは政治警察によってキャンセルされ、投獄されます。その名前も検閲にひっかかるようになり、そのため「Esoj Osnofa」というアナグラムを使ったり、レコーディングをフランスやロンドンでしたりしますが、この間、共産党入党に招待されているが、断っています。

1974年3月29日、満席のリスボンのコリゼウ劇場で催されたZeca を始めその他多くのミュージシャン共演コンサートの最終幕で、彼の歌、 「Glandra ,Vila Morena」(you tube)が全員で高らかに歌われましたが、この時会場には密かに準備されていた4月革命のMFA(国軍運動)のメンバーが聴衆に混じっており、革命の「カウンターサイン」として、この「Grandla 」の歌を選んだと言われます。
  
註:Grândla =グランドラは南部アレンテージュ地方にある小さな町の名前。Zeca Afonsoはローカル色豊かで素朴なこの歌でグランドラの人々の同胞愛を歌っている。

1974年4月24日午後10時55分、革命開始の合図として最初にPaulo de Carvalhoの歌、「E depois do adeus」(そして、さようならの後で)がラジオで流され、それを合図に革命は静かに始まりました。約1時間後の翌4月25日真夜中00:20、ラジオルネッサンスで流された「Grândla 」は、「全て順調。行動に移れ」の二度目の合図で、これを聴いて左翼の若手将校たちが先頭になり無血革命の出撃が始まったのです。

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4月25日朝、クーデターを知った民衆は続々と町へ繰り出し、リスボンのアベニーダ・ドゥ・リベルダーデ(自由通り=息子のアパートがかつてあったこところ)は民衆と革命軍で埋め尽くされ、兵士たちの銃にはこの自由の勝利を祝って、民衆が投げたカーネーションの花が挿し込まれていました。以来、ポルトガルではカーネーションは自由のシンボルとなったと言う訳です。

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Zecaは1983年、かつて追われた教師の職を再認定され復帰しています。この年にはその功労をねぎらう行賞が与えられたが辞退し、1987年2月23日Setubal(セトゥーバル)にて病没。3万人が葬列をなし、棺は遺言通り何のシンボルも持たない真っ赤な旗で覆われました。

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享年58才、どんな党への所属なく勲章なく、ポルトガルの自由を夢見、歌を武器に闘った抵抗の歌人です。

思想の右、左関係なく、貧しくとも自由のある生活をわたしは望みます。生活を向上させたいとがんばり努力できる自由。書物を選び読みすることができる自由。枠にとらわれず自己表現ができる自由。国の政策を言葉や態度で批判できる自由。

この当たり前に思われる自由を、わたしは今、空気のごとく全身で吸っているのですが、ポルトガルが本の40年ほど前は言論の自由がない国だったとは思えないほど、それは歴史の一部になりました。秘密警察がいたサラザールの独裁政治時代をわたしは知りませんが、おぞましい社会であったろうことを想像してみることはできます。

自由であることがどんなに素晴らしいかを今再び思い出すために、わたしたちは歴史を振り返る必要があるのです。

希望はいいものだ。多分なによりもいいものだ。そして、いいものは決して死なない。(スティーブン・キング、「監獄のリタ・ヘイワース」(映画名:ショーシャンクの空の下)より」

本日もお付き合いくださり、ありがとうございます。

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