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2019年8月26日 

それぞれの国がもつ独特の文化音楽、フランンスにはシャンソン、アメリカにはカントリ・ウエスタン、日本には民謡の例にあるように、ポルトガルにも「ファド」と呼ばれる歌があります。

「ファド(fado)」はポルトガル語辞書を引くと「運命、宿命」とあります。ラテン語の流れを汲むポルトガル語は、ラテン語のfatum(運命)を語源にしています。

かつて日本の音楽の教科書にも、ポルトガル民謡の代表的な歌として取り上げられたのに「暗いはしけ」と言う歌があります。原題は「Barco Negro」(バルコ・ネグロ)、黒い舟という意味です。漁に出たまま再び帰らない愛する人を恋うる歌なのですが、ファド歌手が歌い上げると、教科書の楽譜からはとうてい伺えない、切々たる思いが聴くものの心に響いてきます。

ファドはfadistaと呼ばれる一人の歌手とポルトガルギター(12絃)、そして、ビオラ(通常のクラシックギター)の伴奏で、薄暗いライト照明の元で演奏されます。

ファド歌手は主に女性歌手に有名なのが多いですが、国内で人気のある男性歌手もいます。カルロス・ド・カルモは齢79歳になりますが、息の長い人気歌手です。女性のファド歌手は全身黒い衣装を身にまとい、多くは黒のショールを肩にかけます。

guitara.jpg amaria_1.jpg
12絃のポルトガル・ギターラ            歌うアマリア (Wikiより)


ファド歌手として世界に名を馳せたのはなんと言っても「アマリア・ロドリゲス(Amaria Rodriques.) ポルトガルでは単にAmaria と呼ばれて親しまれていました。1999年に79歳で亡くなりましたが、この時ポルトガルは三日間の喪に服しました。

彼女の葬儀にはファンのみならず当時の大統領も列席し国葬並みの扱いで、国民の誉として、エンリケ航海王子、バスコ・ダ・ガマや文豪カモインスなどの記念碑があり、ポルトガル歴代の英雄たちが埋葬されるリスボンの国立パンテオンに眠っています。

現在は、日本でも知られる若い女性ファドシンガーが新しいスタイルでファドを歌っていますが、アマリアを聞き続けた時代もあり、彼女を超えるファド歌手はいないだろうと思っています。

出稼ぎや移民が多いポルトガルです、異国の地でファドを耳にすると、「Saudade(サウダーデ=望郷)」
の思い止まず、ポルトガル人は涙すると言われます。ポルトガル人に限らず、聴くものの心に望郷の念を呼び起こさずにおかないのがファドなのです。

ファドにはこのように、ポルトガルのブルースとでも言えるようなSaudadeを歌ったものが多いですが、日常の生活をユーモアたっぷりに皮肉ったりなどの陽気な歌もたくさんあります。

さて、ではファドのオリジンはと言うと、これが「カステラ」の語源同様、今日でもはっきりしないようです。そこで、わたしが聞いている説をいくつかあげてみます。

そのひとつ、ファドの起源は11世紀から14世紀に遡り、運命論者のアラブ人がポルトガル・ガリザのことを歌に表わしたのがそうだと言われます。
 
この当時のファド歌手は男性に限られ、男が女性の気持ちを歌ったもの(これは日本の演歌でもよくありますね。森進一や美川憲一などは女の立場に立って演歌を歌っています)や、時の貴族への批判
を歌にしたりしました。

ガリザは、現在のスペインの一部、かつてのレオン王国の一部でポルトガル北部と隣接する地方です。
11世紀から14世紀といえば、ポルトガルは建国の幕開けから、レコンキスタの戦い(イスラム教徒との国土奪回戦争)に明け暮れ、国土の奪回がイスラム領土の首都、コルドバに移動して行ったころです。

もうひとつ、わたしが聞き及んでいるのは、船乗りたちの詩や歌がファドになったというもの。今のようにけして楽でもロマンチックでもなかった厳しい航海の旅、波に揺られては故郷を思いそれを歌にたくしたというものです。

また、ファドは「Lundu(もしくはLundum)と呼ばれるアフリカのダンス・ソングから来たという説もあります。このダンス・ソングことLundu=ルンドゥは、18世紀の終わり頃にポルトガルやブラジルでも知られるところとなり、ブラジルのサンバの起源だとも言われます。

こうして、ルンドゥとリスボンに寄港した船乗りたちの歌が一緒になったものがファドというわけです。

ファディスタの元祖Maria Severaについて

今でこそファドはポピュラーな音楽として色々な歌手に歌われていますが、リスボン・ファドの歴史をひもといてみると、ちょっと面白い。

19世紀初期、ファドはリスボンの波止場や色々な人種が住み着くあまり柄のよくない地域のタベルナで、浮世の憂さ晴らしとして歌われていました。その中にMaria Severa(マリア・セヴェラ)というジプシーの人気ファディスタがおりました。セヴェラは愛らしい高級娼婦でもあり、愛人も数人おったそうな。

mariasevera.jpg
Maria Severa (1820~1846) Wikipediaより

そのSeveraに裕福な貴族、Vimioso伯爵が恋し、セヴェラを闘牛場の公の場に伴ったりしていたのが、彼女は26歳の若さで結核のため命を落とします。後、伯爵はファドを貴族のサロンへと持ち込みます。

こうして、ファドは人々に知れ渡り、王室のサロンですら歌われるようになり、歌の内容もSaudade(郷愁)、Amor(愛)をテーマにした詩的な歌詞がメランコリなメロディーで作られるようになりました。

現在ファドはリスボンのツーリスト用のレストランなどで聴かれます。
ポルトでは、「Fado na Baixa」毎日夕方6時から7時半まで、わたしが行った事があるファドの聴ける有名レストランには、リベイラの「Mal Cozinhado(こしらえが悪い料理の意味)」があります。

・Fado na Baixa  Rua do Outeirinho 13 Porto
・Mal Cozinhad Rua de São João, 99A Porto 
 月~土 21:00~24:00  食事付きで一人30ユーロほど。a o Outeirinho, Nº13

下記ではファドの中でも最も知られる名曲のひとつ、「Cancao de Mar(海の歌)」 現在ポルトガルを代表するファド歌手、Dulce Pontesの歌で聴けます。
 http://www.youtube.com/watch?v=Qy9fzZqJGYM&feature=related

歌のプロローグがどこかアラブ風な感じを受けるのですがいかがでしょうか。ポルトガル語の意味が分からなくても思わず引き込まれる歌です。この歌はイギリスのサラ・ブライトマンが「ハーレム」と題しても歌っていますが、やはり声量、迫力に差があり、俄然Dulce Pontesに軍配あり。

早とちりな性格なもので、記事中に勘違い等がありましたら、お詫びいたします。

ところで、ファドにはもう一種類、リスボンのとは違った趣のファドがあるのをご存知ですか?

次回はそれについて。

ではみなさま、本日はこれにて。
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2018年1月6日

「金曜日(つまり昨日)夕方6時から、Reitoria(ポルト大学学長執務室がある建物)で、Janeirasがあるから、行って見ない?」と夫から誘われたのですが、泣く泣く断りました。

夕方の日本語個人レッスン、それに翌日の土曜日(今日)は図書館で今年初の日本語授業です。金曜日の夜なんて、普通は、花金だ!TGIF!(Thank Gad. It´s Friday! 助かった、金曜日だ!花金と似たような意味合いでアメリカでよく使われる)と、パーティーなり映画なりイベントなりに出かける人が多いのですが、私の場合、補習校時代から今日まで、翌日授業があるので、実は準備に追われる曜日なのです。

昔は金曜日の夜を楽しめる人たちを多少羨望的な横目で見てきたのですが、長年の土曜日の補習校を退職して、さて、土曜日が休みであるという状況になったとき、実を言うとわたしは慌てました。手持ちぶたさになり落ち着かず、それで結局、図書館で日本語教室の土曜日コースを開いてしまったのであります。

一言で言えば、情けないことに土曜日をゆっくり過ごせない貧乏性^^;。ははは

さて、「Janeiras」とは? 10年ほど前に拙ブログで一度とりあげていますが、今回は夫が撮影した新しい写真と共に紹介したいと思います。

ポルトガル語で1月を「Janeiro」と言います。英語と似ています。「Janeiras(ジャネイラス)」は、キリストの誕生を祝うと同時に新年を祝って、各家の玄関を古くから伝わる歌を歌い歩く1月の数人のグループのことで、これはポルトガルの伝統文化です。

ポルトガルJaneiras
ポルト、Reitoriaの前のPraça dos leões(ライオン広場。正式名はPraça de Gomes Teixeira)で歌うジャネイラス。

ポルトガルの昔のコスチュームをつけたReitoria内のジャネイラス。

Quinta de Sao Roque

ご近所や友達がグループを作る訳ですが、ギターやアコーディオンなどの鳴り物はあってもなてもよろしい。ジャネイラスが歌い終わった後は、しきたりとしては栗やクルミなどの木の実、果物、ポルトガル独特のソーセージなどをお礼としてあげるのがしきたりですが、昨今はチョコレートやお金をあげることが多いようです。

これは、ハロウィンで子供たちが「Trick or Treat(お菓子をくれないといたずらするぞ」と唱えて一軒ずつ家を訪ねるのに似ています。ただし、Janeirasの方はTrickはなしです。

↓学生たちのJaneiras。う~ん。こっちは見た目から、なにやらいたずらっぽい雰囲でTrickが出てきそうな気がしないでもない(笑)
ポルトガルJaneiras
Wikiより

いかにも伝統的なJaneirasたちです。
ポルトガルJaneiras
Wikiより

ポルトガルJaneiras
Wikiより
さて、この「Janeiro,January」についてですが、いったい何ゆえ1月にこうやってドアからドアを歌い巡るのか?と不思議に思い、調べてみたところが面白いことに出会いました。

古代ローマのJano神(←ポルトガル語。英語ではJanusと書いてヤヌスと読む)にまつわるのだそうです。ヤヌスは頭の前と後ろに顔をもった神で、過去と未来、つまり事の終わりと始めの間を司り、天界の門番でもあります。それで門や入り口の守護神とされているのだそうです。

Janeiro、Januaryはこのヤヌスの名が由来で、「ヤヌスの月」と言う意味です。一月に家々の門から門へと歌い渡るジャネイラスは、この守護神の意味もあるのでしょう。

で、この名前を最近どこかで目に、耳にしたことがある・・・と思っていましたら・・・なんと!ダン・ブラウンのベストセラー、「ダヴィンチ・コード」の映画のシーンと「天使と悪魔」で使われていたではありませんか!

映画「ダヴィンチ・コード」では、最後には本性を表すティーヴィング教授の書斎に飾られているヤヌス像が映し出されます。ヤヌスは二つの顔を持つので、「Janus-faced(ヤヌスの顔を持った)」つまり、「two-faced」。二心のある、とか、人を欺くとかの意味にも用いられるようです。ティーヴィング教授その人もヤヌスの顔のように、もうひとつの隠れた顔を持っていました。

昨10月バチカン訪問で撮影してきたヤヌス像
ヤヌス神

また、「天使と悪魔」では、ヴァチカンの次期教皇候補4人の殺害指令を次々に出すアサシン(暗殺者)の背後の者のコードネームとしても登場します。こういう言われ等を知っていれば、推理映画、小説も深い読みができ、もっと面白くなること、請け合いです。

それにしても、始まりと終わりの鍵をにぎるヤヌス神が、現代ではあまりいい象徴に使われないのには、神なりとも天界で歯軋りしているのではないでしょうか。

本日はこれにて。
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2016年12月1日 

独立回復記念日で休日の今日、昼食を兼ねて夫とダウンタウンへクリスマスプレゼントの買い物に行って来ました。

そして入った店が「Burel(ブレル)Factory」ブティック。

burel

ブレルというのは古くから独得の製法で作られたポルトガルの伝統的なウール100%の布のことです。
ポルトガル北部、セーラ・ダ・エストレーラ(星の山脈の意味)にあるMangeigasという小さな村で生まれました。
しっかりした糸で織り込まれた布は固く、昔から雪が多く風が強い北部の山間部でマントやコート、チョッキやズボンなどを作るのに用いられて来ました。、

burel

展示されてあるマントやコートに触ってみましたが、これなら風を通さないだろうと思われるくらいゴツッとした手ごたえがありました。

burel

この丈夫なブレル布を利用して、ブレルファクトリ社ではファッションやハンドバッグ、カーペット、スツールなどの室内装飾関係にも進出しました。

burel

ポルトガル語でMochila(モシーラ)と呼ばれるバッグパック。
mochilauprotatedbaggray.png

フード付きのMochilaも面白い。↓
mochilaCapuz-1.png

その中に、今回わたしたちがクリスマスのプレゼントにと数枚選んだ「マンテカ(Manateca=)」と呼ばれる軽くて柔らかいショールがあります。

burel
何よりも暖かい点がいい。ショールにもひざ掛けにも使用できます。


burel

写真撮影の許可を得ましたら、階下もどうぞというので、見てきました。

burel
↑ブレル布とその布を作り出す糸↓

burel

布物には目がないわたしです、 取材に年内にもう一度この店に来ることになりそうです。
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2015年6月10日

今日は「ポルトガルの日」で休日です。
わたしがポルトガルに来た30数年前の昔は、「Dia de Camões=カモインスの日」と呼ばれいましたが、正式には「Dia de Portugal,de Camoes, de Comunidades=ポルトガルとカモインスとポルトガル人の日」と言う長い名前です。

カモインスとはポルトガルを代表する16世紀の大詩人、「Luis de Camões」のことで、この日が彼の命日であることに因みます。今日はその詩人について、過去にも案内していますが、書きます。以下。


首都リスボンを含む、「エストゥラマドゥーラ・リバテージュ」地方は、ポルトガルの政治経済の中心地です。

この地域には、イギリスの詩人バイロンをして、「エデンの園」と言わしめたシントラ、猟師達の独特な模様をしたシャツで知られる伝統的な漁村「ナザレ」、王妃が愛した城壁に囲まれる小さな小さな町「オビドス」と、訪れてみたい所は数えあげればきりがなく、この地方はポルトガルの宝石とも言えるかとわたしは思っています。

さて、この地方に観光客をひきつけるもうひとつのハイライト、それがユーラシア大陸の最西端と言われる「ロカ岬」(Cabo da Roca)です。

北緯38度47分、西経9度30分、海抜140メートルの断崖のロカ岬は、海に臨んで、頂上に十字架を掲げた石造りの碑がぽつねんと立っているばかり。石碑には、「ここに陸尽き、海はじまる(Onde a terra se acaba e o mar começa」の文字がポルトガル語で刻まれています。
   
ロカ岬は、まさにユーラシア大陸の地の果てであります。前方にはただただ亡羊と大西洋がひろがり、打ち寄せる波の音と吹き付ける風の音のみが、最西端の名誉を孤高として守っているかのように思われます。

冒頭に掲げた石碑に刻まれている言葉は、ポルトガルの国民詩人、ルイス・ドゥ・カモインスの書いた詩の一節からとられています。カモインスを抜きにしてポルトガル文学は語れません。また、「Os Lusíadas」(ウズ・ルズィアダス=ルズィターニアの人々、ポルトガル人の古い呼称)を抜きにしては、カモインスを語ることはできないのです。 

「Os Luíadas」はポルトガルを代表する16世紀の詩人カモインスが書いた9000行からなる大叙事詩です。バスコ・ダ・ガマの偉業を讃え、ポルトガルの大航海時代の歴史を謳いあげたものです。叙事詩集は10章に分かれており、先の「ここに陸尽き、海はじまる」は第3章20で謳われています。ちょうど我が家に素敵な装丁の「Os Lusíadas」があったのでその箇所の写真を載せて見ます。

Os Luíadasの本

       os lusiadas
       美しい装丁が施された限定版の本です。 
camoes_livro.jpg  
        各章ごとの歴史にちなんだイラストが内装もカラフル。

os lusiadas
                  第3章20の扉

     os lusiadas
          20(XX) 上から3行目。

   「Onde a terra se acaba e o mar começa 」 「ここに陸尽き、海はじまる」とある。
     os lusiadas


「Os Lusíadas」 は膨大な叙事詩で、ポルトガルの学校では全編ではありませんが、必ず読むことになっています。わたしは今のところ、本を開いては美しい装飾に目を奪われるのみで、残念ながらまだ読んでいません^^;ロカ岬の案内所では有料で「ユーラシア大陸最西端到達証明書」を発行してくれます。古典文字で書かれており、carimbo(カリンボ)と呼ばれる蝋(ロウ)印が押されます。現在では日本語もあるようです。

さて、カモインスについて。

15世紀の冒険家Luis de Camoes(ルイス・デ・カモインス)カモインスの伝記は謎に包まれている。いつどこで生誕したかも不明である。そして、芸術家の多くがそうであるように、カモインスもまた、生存中はあまり名の知られた存在ではなかったようだ。

当時の知識人と比較しても該博な知識を持っていたらしく、コインブラ大学で聴講したという話はあるが、その知識をいつどこで身につけたのか明らかではない。

またカモインスは無類の冒険家であり、恋多き人でもあった。リスボンでは傷害事件で投獄の憂き目にあったり、アフリカ、東洋を廻り難破にあったりもしている。

カモインスは片目だが、15世紀初期、北アフリカのセウタでムーア人と戦った際に右目を失ったと言われている。

os lusiadas
Wiki より

「セウタの戦」とは、ドン・ジュアン一世の時代でポルトガルの大航海時代の扉を開くことになる戦いである。王の3人息子、ドアルト王子、ペドロ王子、そして後、トマールのテンプル騎士団修道がキリスト騎士団修道院に改名した時にその騎士団のマスターとなり、航海王子の異名をとることになる三男のエンリケ王子も参戦した。この様子は、ポルト、サン・ベント駅構内のアズレージュ絵に見られる。

azulejo_saobento.jpg

もうひとつ、付け加えるならば、ポルトの有名な伝統料理「Tripas」はこの「セウタの戦」に由来する。 (これについては下記の案内からどうぞ) 
            
恋と冒険とそして貧困のうちに、ポルトガル文学の偉大な遺産「Os Lusiadas」を残し、1580年6月10日、カモインスはその生涯を閉じる。毎年6月10日は、カモインスの命日を記して「ポルトガルの日」とし、この日は祭日になる。

最西端のロカ岬は、訪れる観光客の浪漫的な予想からは遠く、波打ち寄せ風吹きつけ、大航海時代の栄華のかけらも今は見えず、ただ荒涼としているだけである。それでも、石碑に刻まれたカモインスの一節に、いにしえのポルトガル人の果てしない未知への冒険心をかいまみる。

★ポルトびと、その名はトリペイロはこちらにて。→http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1167.html

本日も読んでいただき、ありがとうございます。


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2012年11月11日

今日はサン・マルティーニュの日でした。
Sao Martinhoとは聖人マルティーニュのことです。過去にも紹介していま
すが、今回はもう少し手を入れて書き直してみましたので、どぞ。

11月は1日の「Dia de Todos-os-santos(万聖節)」や、この日には
その年採り立ての焼き栗をほおばりながらこの年の9月10月に収穫したぶ
どうで造られたできたてのワインやAgua-pe、Jeropiga(=醗酵前のぶど
う液にAguardento という焼酎を加えたもの。アルコール度18度)、もし
くはポルト・ワインを味わいます。
サン・マルティーニュ サン・マルティーニュ
     アグア・ぺ           ジェロピーガ(Wiki引用)

Agua-peは、サン・マルティーニュの時期に焼き栗と一緒に飲む、ブドウか
ら造られるアルコール含有量の少ない(16度くらい)少し甘みのあるポル
トガルの伝統的な飲み物。Agua-peはかつては自家製で売られていなかった
のですが、自家醸造が法改正で禁じられて以来、商品化され近頃ではマーケ
ットで見かけることがあります。    

各家庭でもオーブン等で栗を焼きいて食べますが、ところによっては祭りを
催します。この祭りをポルトガル語でMagusto(マグースト)と言います。

サン・マルティーニュ
(Wiki引用)

本来は上の写真ように、家族親族友達などが集まって焚き火をで栗を焼いて
食べることから始まったと言われますが、現在こんな風にイベントが催され
るのは恐らく地方だけだと思います。

かつて我が子たちが通ったBritish Schoolでは、学校の行事としてこの前
後の土曜日はMagusto祭が催されました。子供たちはこの日のために準備さ
れた色々なゲームに興じたりくじ引きをしたりして楽しみ、大人はPTAが用意
した栗とワインに舌鼓をうちます。もちろん行事は夕方からですが、焚き火は
やはりありませんでした。

マグースト
(Wiki引用)
 
わたしもボランティアで得意のパイナップルケーキを提供したものです。これ
らボランティアが提供したケーキは一切れいくらいくらと値段がつけられ売ら
れます。売り上げ金は学校の教育費の一環として使われました。
 

さて聖マルティーニュ(マルティン)」とはどんなことをしたのか?
これには4世紀終わりころの古い言い伝えがいくつかあるのです。そのうち
のひとつをご紹介します。

ローマ帝国軍の兵士としてマルテーニュが馬上の人としてイタリアからフラ
ンスへ向かっていたときのこと。悪天候でとても寒く強風も冷たく吹き付け
る11月のある日、目の前に、着ている衣服もボロボロの貧しい男が現れ、
物を乞うたのであります。

施し物を持たないマルティーニュは、やおら剣を取り出し、身にまとってい
た当時のローマ兵が着る真っ赤な自分のマントを真っ二つに裂き、半分をそ
の男にあげたのでした。

サン・マルティーニュ
(Wiki引用)                      

その夜、その時はまだ異教徒だったマルティーニュの夢の中に赤い半分のマ
ントを着けたキリストが現れ「ここにいる、洗礼を受けていないローマ兵士
のマルチーニュがわたしにこのマントを着せてくれた」と天使に話している
声が聞こえ、周囲が急に暖かくなり寒さにこごえるマルティンの体を温めま
した。

以来、秋にも拘わらず11月11日前後の3日ほどは良天候に恵まれ、まる
で夏のような暑さになると言われています。

そうして見ると、確かにこの2、3日は外へ出ると暖かく、まさに「サン・
マルチーニュの夏」と言われる所以がわかる気がしますね。これは英語では
「Indian Summer」、日本語では「小春日より」に当たります。

世界の国々のそれぞれの習慣は違っても、どこか似たようなつながりが見え
て面白いなぁと、わたしは思っているのですが、こういうことは探してみる
とたくさんあるような気がします。

さて、この夢を見て後、マルティーニュは18才で洗礼を受けやがてフラン
ス、トゥールの大司教になり81歳で没したと言われます。マルティーニュ
はヨーロッパで最初の殉教なくして聖人に列せられ、フランス、ドイツの
守護聖人、イタリアではワインの守護聖人になっているそうです。

この週末は街門でいつも以上にたくさんの栗やさんを見かけました。
ちなみに我が家では焼き栗の代わりにゆで栗を食べます。
寒い折、ホクホクした甘いゆで栗を頬張りながらのポルトワインは格別です
ね。

なお、本日の画像は全てWikiから引用しています。
本日はこれにて。
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テーマ:ポルトガル
ジャンル:海外情報
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