2016年10月5日 

今日はモンセラーを休んで、ポルトガルの歴史の話です。

毎年10月5日は共和革命記念日に当たり、休日のポルトガル。この日は「1910年10月5日革命」とも言われいます。スペインからの独立を果たし、アフォンソ1世初代国王を頂くポルトガル最初のブルゴーニャ王朝から始まり1910年10月4日で幕を閉じた最後のブラガンサ王朝で、ポルトガルは王国から共和国になります。ブラガンサ王朝は、1640年のジュアン4世からマヌエル2世のその日まで約300年続きました。

そこで、王国最後の様子を、拙文で再現してみたいと思います。題して「ペナ宮殿に住んだポルトガル王家最後の王妃」、この日、ドン・マヌエル2世と皇太后、ドナ・アメリアは、シントラにある王家の離宮ペナ城にいました。

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ドナ・アメリア王妃  Wikiより。

フランス、オルレアン家出身のアメリア王妃はポルトガルのカルロス1世に嫁ぎ、2人の王子と姫を設けますが、1908年2月1日、リスボンからヴィラ・ヴィソーザに構える宮殿に帰ろうとするところを、国王一家は共和党およびメーソンのメンバーに襲われ、アメリア王妃の夫である国王ドン・カルロス1世と後継者の長男を殺害されます。

次男で後のドン・マヌエル2世(ポルトガル最後の王)が王位につきますが、19世紀後半から台頭してきた共和党主義による革命が起こります。1910年10月5日の朝、ペナ宮殿でポルトガル共和党国樹立の報せを受けた王家は即宮殿を後にして英国へ亡命。

息子である、ポルトガル34代目のドン・マヌエル2世は1932年に英国で没、母であり、ポルトガル王家最後の王妃、ドナ・アメリアはフランスに移り1951年に87歳にフランスで生涯を終えます。

第二次世界大戦中にポルトガル国から帰国の招待を受けますがこれを拒否、王妃がポルトガルの地を踏んだのは亡命から35年後の1945年です。住む主もなく灰色に色褪せた35年ぶりの宮殿に足を踏み入れたアメリア王妃は、案内人にかつての自分の部屋でしばしの間、独りにしてくれるよう頼んだそうです。

昔の栄華に思いを馳せ時代の移り変わりを身をもって感じたことでしょうか。以後、ポルトガル王家最後のアメリア王妃が母国を訪れることはありませんでした。

王家の離宮ペナ城は、1990年代に修繕されたとき、ピンクと黄色に色塗りされた宮殿を見上げたシントラ市民は大いに驚いたと言われます。何しろ、それまで見てきた城は長い間放置され色彩を失って、ドナ・アメリアが最後に訪れたとき同様、灰色だったのですから無理からぬこと。

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王妃の悲運に比して、今、眼にも鮮やかなペナ城は、多くのツーリストを惹き付けて脚光を浴び、蘇ったように山頂にそそり立っています。しかし、その陰にある歴史を知ってみると人の世の栄枯盛衰を感じずにはおられませんね。

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2012年4月25日 

今日は4月25日、休日です。この日にちなんで過去に何度か書いてきたこ
とを三つほどあげて見たいと思います。長いです。

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抵抗の詩人:Zeca Afonso

希望はいいものだ。
多分なによりもいいものだ。
そして、いいものは決して死なない。

スティーブン・キングがその本「監獄のリタ・ヘイワース」(映画名:ショ
ーシャンクの空の下)の中で、残虐な刑務所長をしてやり、脱獄不可能な
ショーシャンクをついに脱出し、後に仮釈放になる相棒レッドに宛てた、二
人の秘密の場所に埋められた手紙に書かれていた、主人公アンディー・デュ
フレーンに言わしめた言葉だ。

わたしは時々、この「希望」を自由に言い換えてみる。そして、真の自由は、
わたしたちが思ったり想像したりするよりずっと質素で牧歌的で土に根ざ
したものではないかと思うことがある。自由を渇望したことがなければ、そ
の真髄に触れることはできない。

そういうことを改めて考えさせられる日が、年に二度ある。
そのひとつは、戦後生まれの私は経験してはいないけれども、その不自由
さが書物や人の話から多少は想像できる8月15日の終戦記念日。
もうひとつはポルトガルの4月25日の革命記念日だ。

別名を「カーネーション革命」とするこの無血革命の記念日は、制定されて
から38年になる。ポルトガルが独裁政権から自由を奪回してからまだた
った38年ということである。

4、5年前に日本からやってきた大学生の甥を旧コインブラ大学に案内した
とき、昔のままの姿を残す、大学周辺の細い路地に並ぶ下宿屋を散策した。
その折に見つけた一軒の下宿屋の外壁に、人の顔の青タイル絵がはめ込まれ
ているのを見つけた。

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「Zeca Afonsoがコインブラの大学生時代にここに下宿していた」
と書かれていた。

彼の名はカーネーション革命に欠かせない。

Zeca Afonso(ゼカ・アフォンソ)若しくは単にZecaとして知られる。
幼い頃から健康に恵まれず、裁判官として当時のポルトガル領アフリカ・モ
サンビークに赴任した親兄弟と離れて、本土の親戚の家で育った。

学生時代にコインブラ・ファドを歌い、地方の人々の暮らしや伝統にまつわ
る音楽を自作した。やがて、アルコバッサの高校でフランス語と歴史の教師
を勤めながら(この職もやがて追われる)、社会問題を取り上げた作品を多
く自作して歌い、この頃からサラザール独裁政権に対する反ファシスト地下
運動のシンボルとなって行く。

彼の歌は放送禁止となり、コンサートの多くは政治警察によってキャンセル
され投獄される。その名前も検閲にひっかかるようになり「Esoj Osnofa」
というアナグラムを使ったりレコーディングもフランスやロンドンでしたり
する。この間、コミュニストへ入党に招待されているが、断っている。

1974年3月29日、満席のリスボンのコリゼウ劇場で催された、Zecaを
始めその他多くのミュージシャン共演コンサート最終幕で彼の歌「Grândla ,
Vila Morena」(you tube)が全員で高らかに歌われた。

このとき会場には密かに4月革命の準備をしていたMFA(国軍運動)のメン
バーが聴衆に混じっており、革命の「カウンターサイン」としてこの「Grândla」
の歌を選んだと言われる。
註:Grândla =グランドラは、アレンテージュ地方にある小さな町の名前。
Zeca Afonsoはローカル色豊かで素朴なこの歌でグランドラの人々の同胞
愛を歌っている。

1974年4月24日午後10時55分、革命開始の合図として最初にPaulo
de Carvalhoの歌、「E depois do adeus」(そして、さようならの後で)がラジ
オで流され、革命は静かに始まった。
約1時間後の翌4月25日真夜中00:20、ラジオルネッサンスで流された
「Grândla 」は、「全て順調。行動に移れ」の二度目の合図で、これを聴いて
左翼の若手将校たちが先頭になり無血革命の出撃が始まったのである。

4月25日朝、クーデターを知った民衆は続々と町へ繰り出し、リスボンの
アベニーダ・ドゥ・リベルダーデ(自由通り)は民衆と革命軍で埋め尽くされ、
兵士たちの銃にはこの自由の勝利を祝って、民衆が投げたカーネーション
の花が挿し込まれていた。以来、ポルトガルではカーネーションは自由の
シンボルとなった。

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1983年、Zecahahはかつて追われた教師の職を再認定され復帰する。
またこの年には政府から功労賞が与えられたが辞退している。
1987年2月23日Setubalにて病没。3万人が葬列をなし、棺は遺言通
りなんのシンボルも持たない真っ赤な旗に覆われた。

ポルトガルの春

1974年4月25日明け方、リスボンにて革新派の少壮軍人たちによる
無血クーデターが起こり、42年間続いたサラザールの独裁政治に終
止符が打たれました。
1960年代から長年にわたる、アフリカのギネ、アンゴラ、モサンビー
クの独立をめぐる植民地戦争に、この当時ポルトガル政府は国家予算
の40%を投じており、国家の疲弊感は免れないものでした。民衆から
も、そして軍内部からも、終わりの見えない戦争に対する反抗の気運が
高まり、ついにこの日の無血革命にいたったのです。
その日、リスボンの中央を貫く大通り、アベニーダ・ドゥ・リベルダーデ
(自由通り)は迎合する民衆と革命軍で埋め尽くされ、革命軍の勝利を
祝って民衆が手向けたカーネーションが兵士たちの銃に挿し込まれて
いました。以来、カーネーションは自由のシンボルになり、この日はカ
ーネーション革命とも呼ばれます。
1974年と言えば、わたしがポルトガルに来るたった5年前のことです。
それまではこの独裁者のもと、国のあちこちに政治警察が置かれ、人々は
言論の自由を奪われていたと聞きます。ここに来た1979年のこと。
近所のまだ年端もいかない子供が、棒っきれを手に振り上げて、野良犬に
「ファシスタ!ファシスタ!」(独裁者)と叫んでいる光景に出会い、ギョッと
した覚えがあります。

わたしが来たのは、革命がホンの数年前に起こったということで、やはり、まだ
独裁政治時代の影をこの国はひきづっていたように思えました。
サラザールの時代、一部のブルジョアにとってはさんさんと輝くポルトガルの日
の光のもと、民衆にとっては暗い時代だったのです。
38数年たった今、ポルトガルの前途があまり明るいとはいえないにしろ、
少なくともここに自由はある。


ポルトガル、カーネーション革命に思う

今年もVinte-cinco de Abril(ヴィンテスィンコ・ド・アブリル=4月25日)が
やって来ました。ポルトガル人にとって4月25日は特別の日です。
ブルジョアジーにも民衆にも。

お金には不自由したわたしですが、自由そのものには高校を出てから
不自由しませんでした。若かった日々の時間は、下宿時代、アパート時
代と、食うものも食わずのことが多かったのですが、とびきり自由だった
ように思います。

わたしの時代の自由と言うのは、今の若者たちのそれとは少し違うかも
知れません。

酒も酌み交さず明け方まで(皆、金がなかった。笑)、しらふで狭いひとつ
部屋で仲間たちと青臭い人生論を戦わし、恋をし、失い、夜更けの町を
さまよったり、川べりで野宿したり。ビルの屋上で真夜中のギターの音に
耳を傾け月や星を仰いだり。操車場に眠る夜更けの電車の並ぶのを眺
めたり。 あの時代の夜は、今よりも遥かに神秘的で魅力的で、どこか
人間をそのとばりで包みこむ優しさがあったように思います。

今のように24時間オープンの店などなく、スナックバーの片隅で閉店ま
でねばり、ちびりちびりウイスキーを飲みながら、やはり仲間と語り明か
したものです。
語っても語っても語り足りない人生というものに大きな不安と希望を抱い
ていました。

見たり(テレビ)聴いたり(音楽)、画面で遊んだり(ゲーム、パソコン)の
類のものはなく、なんだか皆、ひたすら読書と議論に明け暮れていまし
た。そうそう、この頃の深夜番組には「ヤンリク」(ヤング・リクエスト=音
楽リクエスト番組)があり、わたしが入っていた男女200人近くもの下宿
屋の仲間内では、白戸三平のマンガ「カムイ伝」がま回し読みされてい
ました。

上記以外にあの頃のキーワードと言えば、「明日のジョー」「寺山修司」
「歌声喫茶」「ドクトル・ジバゴ」「三島由紀夫」エトセトラエトセトラ。
加藤登紀子さんが歌っている「紅の豚」主題歌、「時には昔のように」
(you tube)そのものでした。

金銭的には誰の世話にもならず、多くのものも持たず、だからこそ思いき
り自由だったと言える気がします。人はものを持てば持つほどそれにとら
われ、不自由になるものだというのは本当かも知れないと近頃うなずい
たりします。

今日こんな風にあの頃を思い出し、こうしてブログに載せることができる
自由。生活を向上させたいとがんばり努力できる自由。
書物を選び読みすることができる自由。
枠にとらわれず自己表現ができる自由。
国の政策を言葉や態度で批判できる自由。

左翼右翼関係なく、自由のない社会はわたしはごめんです。安定した
自由のない生活よりも、貧しくとも自由のある生活を望みます。

この当たり前に思われる自由を、わたしは今、空気のごとくこの身全身
で吸っているのですがポルトガルが38年ほど前は言論の自由がない
国だったとは思えないほど、今ではそれは歴史の一部になりました。
秘密警察がいたサラザールの独裁政治時代はわたしは知りませんが、
恐らくおぞましい社会であったろうとは、想像してみることはできます。

自由であることがどんなに素晴らしいかを今再び思い出すために、わた
したちは歴史を振り返る必要があるのです。

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