2006年2月20日
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人間稼業を半世紀以上もしていると、自分の事しか見えなかった若い頃に比べて
周囲が少し見えてきます。

例えば、国内での子育てにしても海外での子供の日本語教育にしても、その結果例から
自分の子供がこうできたからと言って、それが他にも当てはまるとは限りませんね。
ですから、spacesisの「帰国子女物語」については、「このようにわたしの場合は
出来たけれども」と言う前提で進めて参ります^^

さて、我が「もいける娘」が「ギョッの卒業式」後、どのような作戦を練って保護者に
戦いを挑んで来たかは、ちょっとお休みしまして。
今日は片親が日本人、そして日本で生まれ育ったわけではない彼女に、果たして
大学の学問に取り組んで行けるだけの、日本語理解力があったのか?につきまして。

もちろん、彼女の日本語理解のお脳部分は、あちこちプチプチとまっさらな白い斑点が散在する如く、斑(まだら)状態であったと確信するw
そのような斑状態は、実体験を経て新鮮な知識となり少しずつ埋められて行きます。
ある程度の基盤ができていると、その埋め立て(w)は、せっせと進められると思います。
その日本語的な基盤を作ることが、海外における子育ての難しいところでしょうか。

「英語ぺらぺら」という言葉を耳にすることが多くあります。
わたしもポ国に20数年もいると言うと、すぐ「じゃ、ポルトガル語ぺらぺらですね」と来るw
日本で生まれその教育を受けてきた日本人としてですら、「日本語ぺらぺら」
とは思っていない。どこの国の言葉でもそうだろうが、とりわけ日本語は
非常に奥の深い言語だと、思い始めたからです。
「○○語ぺらぺら」の評価には、なんとなく薄っぺらな感じを受けるのは、
こんじょ曲がりだからかしら(笑)

ま、この外国語談義は、またいずれの機会にするとしてw
そんなわたしですから、20数年もポルトガルに住んでいるというのに、ポルトガル語が
ぺらぺらでないのは誠に面目ない話ではありますが、致し方ない^^;

さて、ポルトガル語を全く知らずに来たわたしの伝達言語は、英語でした。
長男のJRが生まれるとなって、初めて、いったい子供とこの環境でどんな
言語で意思の疎通をはかれるのか、考えて見ました。
結論は即(笑)どんな言語もなにも、あぁた、英語では間もなく行き詰まってしまうことが目に見えています、自分の母国語である日本語!これしかないではありませんか。
日本人学校はない!ならば、母親の国語として自分がこの役割を務めて行くだけです。
単純簡潔、異議なし!
少なくとも母親のわたしと子供とのコミュニケーション手段は、まず決まったのでした^^

で、父親とはどうなるん?^^;

★本日の写真は世界遺産指定となっているポルト旧市街、
 サン・ベント駅周囲。
 路面電車線路上に堂々と駐車してるとは、さすが
 ポルトガル!等とは思わないで~~w
 路面電車はまだ開通しておりませんですw






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2006年2月21日
ダウンタウンにある市場「ブリャオン」

母親であるわたしと子供との伝達言語は日本語と決まったが、父親とはどうなるのか?
はい、この点はわたくしの決めることではございませんで、放って置いたのでありましたw

亭主は子供達とは、ポルトガル語よりも英語日本語で話しかけていたように記憶しています。
ポルトガル語の方は、同居していた義母や義母の姉妹たちから耳に入るのですから、
当初は大した問題ではないと判断したのでしょうか。

生れ落ちたとき、日本語、英語、あげくの果てはポルトガル語まで耳に
入って来たのですから、息子はさぞかしびっくりしたのではないかなw。
或いは「この世界では、これが極当たりまえのことだ」と、すんなり受け入れたのであろうか。
聞くよしも無しw

こういう具合に、ポ国での我が子の日本語教育は始まりました。
ちなみに付け加えますと、「わたしは日本へ帰るのだ」と宣言してその
実現を果たした娘と違って、長子の息子はポルトガルに住んでいます。

息子が3歳、「この国でどんな学校教育を授けるか」の方針を決めるべき時です。
家のすぐ裏にある公立学校の様子を垣間見てきたわたしは、
「子供たち、バス停で喫煙してても、先生、注意しないではないの!
それに、なぜだか、しょっちゅうパトカーが学校に走ってるし^^;
こりゃ、まずいです。」

増して日本人中国人の東洋系がほとんどいなかった20数年前です。
わたしは、ポルトに住み着いた最初の日本人でしょう。
街を出歩くたびに、「シネーザ、シネーザ(chinesa=中国人女性)」と
指さされ、これがまた、頭にくることに、最初の頃は言葉が分からないもので、
「死ね~死ね~」と聞こえたのであります(爆)ク○ッ!

我が子は、東洋系の容貌を持つと言う、自分が望んだものでもないことで、
囃されたりいじめられたりすることは、目に見えています。
公立の学校へはやらない。私立の学校も当時はどれもカトリック系です、
これもやらない。そして、日本人学校はない・・・
これは言葉の勉強ではなく、我が子の人生に大きな影響を与えることに
なるであろう、
学校教育の選択問題です。

亭主とは随分話し合うことになるのでした。


★本日の写真は、ポルトの街の中心にある大きな市場「Bolhão(ブリャオン」
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2006年3月1日
海岸通りの洗濯物

ポルトの吹く風は、とても冷たく乾いていますが、春の匂いを運んで来る
今日この頃です^^

さて、今では成人に成長した長子、息子の教育問題は、のほほん者のわたしでも、
少し悩みましたw 前回述べましたように、ポルトガルの公私立には入れない、
日本人学校はなし、の環境です。
では、他にどんな教育施設があったかと言いますと、まず、
   ①フレンチスクール(←こりゃ全くだめ。亭主は少々分かるようだが、わたしゃ
皆目分からん。ポルトの土産物店で、わたしが抱えてる品物をフランス人に
「それ、どこにあるの?」と聞かれて(と思うw)、「フランス語話せません」を
ポルトガル語でフランス語風に答えて相手の目を白黒させた人間であるw)

   ②ジャーマン・スクール/ドイツ人学校(←ビアハウスで毎晩ドイツ語でビアソングを
歌っていたのだが、フランス語同様ドイツ語もチンプンカンプンw
せっせと生ビール飲んでただけでした^^;よってここもダメ)

この2校は、当時のポルトガルに於いて、まだ英語が第二外国語の確たる地位を
占めていなかった時代で、小学校でも英語よりフランス語/ドイツ語が第二外国語
とされ、英語は選択科目になっていました。

子供がいったいどんなことを学校で学んで来るのか、わたしは興味深々、
あわよくば一緒に学びたいと思ったりしてたのでしたw
自分が理解できない言葉では無理です。

ところが、もう一校あったのです、Oporto British School!
調べて見ると、あらら、かなり入学が難しい学校ではござらんか!
何が難しいかと言うと、子供は当然のこと親も英語を理解しないといけないと言う。
更にイギリス国籍を持つ子供を優先的に入学させるので、必然ポルトガル人の数は
限られる。聞いて見ると、ウエイティング・リストにズラリ入学希望者が並んで
いるとのこと。さぁ、おっかさん、亭主に「ここがいい~~!」

問題が生じたのです。亭主が渋りましたw
①スクールバスがないではないか!(当時は朝の出勤時間とぶつかり、家から車で
毎日登校に1時間はかかったw)
②幼稚園部と言えども、高額授業料。これを11年も継続できるか!
(ポルトの私立小高大学全ての中でダントツ^^;)

当時はわたしは今のように仕事をしていませんでした。
日本語の生徒は二人ほど、友達ということで頼まれてとっていたものの、大した
謝礼は受け取りませんでした。(あ、今も同じですよん^^)
義母、おばたちの大家族を抱えていたので、渋る気持ちは分かるものの、
一旦決めると簡単には後に引かないのが「おっかさん」w

ある日、強力な味方を見つけたのであります。
「どうしても日本語を学びたい」と言って、人づてでわたしの所に来ていた
Fernandaさん^^わたしとは親子ほども歳が離れていましたが、とても気が合いました。
息子が生まれる以前からのお付き合いで、彼女は「Povoa de Verzim」という
町からポルトまで電車、そして更にバスを乗り継いで、週に2回我が家に
勉強に来ていたのです。
ブラジルはサンパウロの人で、ご主人はポルトガル人、子供はいません。
彼女自身もサンパウロでは、英国教育を受けた人だったのです。
いわく、
「少々苦しくてもBritishに入れなさい。子に施す教育は投資です。
バイリンガル、トライリンガル、心配しないでよろし。早く始める程に
問題は少ない。わたしがその良い例です」
(↑ブラジル語は当然ながら、英語、ドイツ語、イタリア語をこなし、更に日本語を
勉強していた。彼女が自分につけたニックネームは「papgaio=パパガイウ(オウム)^^

おおおおお、心の友~~!
我が子のおつむ具合も考えずに、フェルナンダさんの言葉を単純に信じて、
日本語一本で息子に話しかけて来た「しゃもじペンペン母さん」は、
Biritish School入学準備として、我が子に、「え、英語をも何とかする」ことに
相成ったのでありました^^;

★本日の写真は、世界遺産指定になっているポルト旧市街。
 世界遺産の洗濯物?(笑)

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2006年3月7日(火曜日)
quiosq

人口約263,000の現在の地方都市、ポルとには、わたしが住み着いた27年前の1970年代
終わり頃と比べてどエライ違いが幾つかある。

30年も経てば、人も変わるし都市も変わる。
かつての商店街は土曜日の午後と日曜日祝日はどこもかしこも閉まっていた。
本当に一軒も開いてるところはなかったのだ!
それが、ポルトガルがECに加入する少し前くらいから、あれよあれよと言う間に、市内の
数箇所にファッショナブルなショッピングセンターがお目見えし、今ではどの
ショッピングセンターも地階にハイパーマーケットを構えて上階はファッションショップと
ファーストフードショップがズラリと立ち並ぶ。

映画もこのショッピングセンターへ行くと、映画館ならず、「映画室」が10室近くあり、
切符を買って入り口をくぐり、自分の観たい映画を上映する部屋に入るのだ。
これは日本のカラオケ・ボックスを大きくしたものと想像してください。


これらの大手ショッピングセンターは、土日祝日でも開いていて、この小さな街の市内郊外に、
知っているのだけでも9軒はある。
更に今春5月にはスペインのデパート「El Corte Englês」がオープンされることに
なっている。

ヨーロッパ共同体はご存知のように国境がなくなり、物質流通は自由。
世界中のブランド品が、
金さえあれば、ポルトでいながらにして手に入れることができる時代になったのだ。

中身の程は知らないが、ポルトガルも都市を見る限りは、生活は80年代に比べると随分
便利に、そして豊かになったように見える。

しかし、人間とは不思議な生き物だ。
これまで手間暇かかってきた事物が改善され、便利になった途端に、自由な時間を楽しむ
どころか、更に輪をかけて、己を忙しい生活に追い込むようである。

ですから、わたしがこれから述べて行く、我が子たちの「日本語教育」法は、もしかしたら、
多忙な現代の方たちには、さっぱり役立たないかも知れませんが、何かのヒントになれば
嬉しいと思います。

ポルトガルに渡って来た当時のわたしは、日本語と、少し英語が理解できるくらい。
ポルトガル語の理解力は皆無でしたw
今のようにポルト大学での外国人向け・ポルトガル語コースもなく、市内にある語学学校での
ポルトガル語コースは個人レッスンのみで、企業がらみの方たちじゃあるまいし、とても
個人で払えるような授業料ではありませんでした。

さて、これがわたしの状況でしたから、仕事など探すにも探しようもなく、舞い込んで
くるはずもなし^^;息子が生まれた時、仕事もお金もなかったけれど、実は「時間」だけは
イヤというほどたっぷりあったのでした(w)

息子の学校の選択については、「やりくりして、なんとか頑張ってみよう」と、最終的には
亭主が折れたのでした。
(ウヒヒヒ。わたしはこの時、亭主をいかに説得するかの方法を発見したのであります^^
以後、かなり難しいことでも、亭主はいつの間にか、こちらの陣地に引きずりこまれて
ウンと言わざるを得なくなるw この方法は、娘の日本行きにも効をなしたと思っています)

ということで、いよいよ次回は、どのようにして、息子と二人三脚、日本語英語を
仕入れていったかを綴りたいと思います。

★今日の写真は、ポルトで見かけるキオスク
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2006年3月7日(水曜日)
fonto1

今でこそ我が家には、ヨーロッパ、日本のビデオシステムの違う(例えばポルトガルはPAL,
日本はNTSC)録画両方を見ることができる、「マルチシステム・タイプ」のビデオデッキを
備えているが、1980年代初期の息子の幼児期にはなかった。
パソコンなどの言葉もなかったころの二昔も前にバックします(笑)

「子供にどのような手立てで日本語を、英語を教えるか」、ノーハウなどありません。
今ならさしづめ、幾つかのキーワードを打ち込んでインターネットで検索すると、それ用の
サイトがワンサとひっかかってくることでしょう。後は、少々高くつくかもしれませんが、
お金を払って取寄せる。
しかし、この頃は自分でやるっきゃないのでしたw

OLとビアハウスの歌姫バイトで数年かけて貯めた貯金は、ポルトに嫁いで来た時には、
アメリカはアリゾナ州ツーソンの大学の語学コースと生活費、そして、ポルトまでの飛行機の
足代で、全て使い果たしてしまったのでした^^;
(亭主がもっと早くに決断してプロポーズしてくれてたら、渡米せずに終わり、この貯金、
当時のポルトガルでは、少し価値があったのにw 長年の我が夢を中断させて、けっこう
自由に生きていた日本娘を、あの頃のポルトガルに連れて来る勇気がなかったようでありました)

嫁入り道具どころか、提げる「鍋釜」もなかったんでありますw
そういう状態での、我が子の、「英国教育」と言う、げに恐ろしき志を持った母w
しかし、ヒントはありました。

せんだってから、正確なタイトルを忘れてしまい、車庫の中を探し回っているのですが、
重くて自分の力では下に下ろすことができない、古い本の入ってるダンボール箱、
そこに入っていること間違いなしの、そのヒントの一式。
これをわたしは知人を通して、当時イギリスから取寄せたのでした。

その一式とは、「How to teach your child to read」のようはタイトルであったと思います。
これと同じタイトルの本がネット検索で出てきましたが、わたしが参考にしたのとは、
少し違います。
これは英語圏の幼児に言葉を覚えてもらうためのガイドブックで、なぜ、その時期が
いいのか、とられているその方法が効をなすであろう理由が説明された一冊の本、そして、
背景が真っ白な用紙に、真っ赤な色で、どデカイ単語が書かれた、50枚くらいの薄い
カード。 こういう感じです。↓
    mammy あるいは  daddy

びっくりするくらいの大きな字です。
白の背景に赤文字ですから、インパクトがある。
この大きなカードを、日に何度かちょっとした機会を見ては、3歳の息子の前に、両手で
広げて、「マミー」と言って見せます^^

始めは、ポカンとしていた息子が、ゲームとでも思ったのか、やがてわたしが「マミー」と
言い出す前に、彼の口から「マミー!」と出るようになり、こうして始まったreading、以後、
覚える言葉はドンドン増えて行きます。

最初のmammy、daddyのカードは、たて20cm横80cmくらいは、あったでしょうか、それ
くらい、大きな文字でしたが、そのサイズは、読める単語が増えていくうちに、少し
ずつ小さくなって行きます。
こうして、3歳の息子が読める(?)単語の数が増えていくのが、わたしは嬉しくて
たまりませんでした。

★今日の写真は、ポルトに残っている幾つかの昔の公共水汲み場のひとつ。素晴らしい^^
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