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2019年9月11日 600年の伝統を持つポルトガルの新入生しごき

9月は欧米では新学期です。
ポルトガルの大学は6月の高校卒業資格兼大学入学資格となる国家試験の結果と、高校2年間の成績を持って、各大学に願書を出し成績の上位順に入学が許可されます。

希望大学や学部に入れなかった場合は、第二希望学部、若しくは他都市の大学へ再度願書を提出し、新学期が始まるまでに学籍が決定されます。

希望に胸膨らませて大学新入生の第一歩、授業開始前の9月にあるのが、「Praxe Académica」なる行事です。

この時期になると街のあちこちで見かける光景ですが、黒マントを羽織っているのは大学学部の先輩、地べたにはべっているのが新入生です。場所はJardim do Passeio Alegre ドウロ川沿いの側の公園です。

praxeacademica2_1.jpg

写真に見えるのは18世紀のイタリア人建築家ニコラウ・ナゾニの作品のChafarizと呼ばれる噴水。Wikiより

こちらはAliados 市庁舎前でわたしが見かけたものです。

praxeacademica1.jpg

しごきには写真のようなものもあります。

praxe4-2[1] praxe5-2[1]
小麦粉を振りかけられている。       腕立て伏せ
             
          praxe6-2[1]
             紙おむつを顔に貼り付ける。

praxe3.jpg

praxe6.jpg

笑って済ませられる間はいいのですが、近年、だんだんとしごきの仕方がエスカレートし、見るからに屈辱的なものが増えてきました。公衆の面前でするわけですからね。先輩たちといっても19歳からたかだか21、2歳までの若者たちです。配慮が足りないところがあります。

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男性だったら大変だなぁ、たのむわ、と思われるものの一つ。

praxe7.jpg

これもどうかと。すぐシャワーを浴びられるわけもなく週日こうして歩くわけで。ペンキ、ちゃんと落ちるのだろうか・・・
我が息子がポルト大学経済学部に入学した年のこと。(翌年彼はポルト大学を退学、学部もITに変えてリスボン大学に入学し直しました)

このpraxeのために指定された店でTシャツその他身につける道具が入った一式を下げて出かけたその日の夕方、帰宅した息子のひざを見てわたしは激怒したのでありました。

ジーンズのひざはほとんど破れんばかりになり、ひざそのものは皮膚がむけて血だらけ!「いたた、いたた」と悲鳴をあげそうな息子のひざを消毒しながら問いただすと、新入生全員、大学構内をひざで歩かされたのだそうな。構内はコンクリですよ、コンクリート!

「そんな伝統祭なんて、行く必要なし!なんなのこれは。人の大事な息子のひざをこんな風にして、遊びにもほどがある!行きすぎだ!」と、途中で放り出して来なかった息子にも腹を立てたのでした。

このPraxeは2週間ほど続くのですが、翌日、大学へ再び一式の衣裳を持って行くと言う息子のひざが心配で、「今日同じ事したら、ひざ、壊れるわよ!そうなったら上級生と喧嘩してでもいいから、止めて帰って来んさい。」と、ひざに分厚い当て布をさせて出したのでした。中に女子もいたと言う・・・いったい何を考えているのか!

「新人しごき」をする側に回るためには、新入生の年にしごかれていない者は資格はないのだそうな。
こんな種類のしごきなら、する側に回ったところで何が面白いものか!

コインブラ大学に4年、ポルト大学に2年籍を置いた亭主に聞きますと、昔は、「今晩、全員ガールフレンドを連れて来い」とか、いたって単純なカワイイものだったそうです。夫も当然、こんなのはやりすぎだと、当時は二人で息巻いたのでした。

そのうち、Praxeの行き過ぎが原因で他県の海岸で数人の新入生が海に入り、そのまま行方不明、死亡する大事故が起き、新聞で取り沙汰になり、大学も人権を無視したような屈辱的なものは許さないとの通達も出て、少しナリをひそめたようです。

これは、かつての日本の大学生の「一気飲み」強要を思い出させます。それまで一滴もアルコールを口にしたことのない新入生、急性アルコール中毒で病院に運ばれたり、亡くなった学生もいましたよね。

所沢の我が妹は、一気飲みの場合に備えてと、息子たちが高校3年生のころから夕食に少しずつビールを飲ませて練習するということをしていました。

Praxeの起源は14世紀、ディニス王の創ったコインブラ大学に発するようです。ポルトとリスボン中間に位置するコインブラの街は学生街として古い歴史を持っています。

コインブラ大学は、ディニス王が法皇ニコラウ4世に承認されて創立したリスボンの高等教育学校が元になっています。リスボンの人口、学生の数も増えたところで、思い切ってコインブラに学校を移し、以後コインブラ大学と称され、パリ大学、オックスフォード大学と並んでヨーロッパでは一番古い大学のひとつです。

ディニス王は、できの悪い学生を大学に監理させたのですが、これがpraxeの始まりとなりやがて新入生に適用されるようになります。18世紀には新入生の死により、1727年当時の王ジュアン五世がpraxe禁令を発布しています。なんだ、結局、現代においても同じことを繰り返してるなんて、人間は進歩がないなぁ、とつくづく思います。

若い人たちが、古い習慣にのっとって少々羽目をはずすのは大目に見るとして、せいぜい笑って済ませるものにとどまって欲しいものです。

ちなみにリスボン大学では、praxeは行われません。ま、それが原因で我が息子、リスボン大学に移ったとは思われませんが(笑)


本日の画像は一枚を除き、全てWikipediaからです。では、これにて。
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2019年8月24日 

ナザレついでに、今日はナザレをロケ地にした映画「過去を持つ愛情」にちなんだファドBarco Negroについて。

この記事は2018年3月に一度あげていますが、新しい情報と一部訂正して書き換えたいと思います。

亡き母の影響で若いときから古い洋画に興味を持ち、機会を見ては観てきましたが、それだけでは多くの名作を知ることができず、猪俣勝人氏の「世界映画名作全史」文庫本3冊を手に入れて、時に開いては古い映画のストーリーを読んで楽しんできました。

eiga.jpg

今では本のページが薄茶色に色褪せてしまっています。3冊のなかでよく開いたのが、マレーネ・ディートリッヒの表紙の「戦前編」です。「地と砂」「第七天国」「西部戦線異状なし(これは今DVDで持っている)」「嘆きの天使」「モロッコ」「巴里の屋根の下」「間諜 X27」「巴里祭」「一日だけの淑女」と、気に入りの古い映画は限りなく、探しては観たものです。

さて、作品「過去を持つ愛情」は1955年のフランス映画ですから、戦後編で確認しようと開いたところ、猪俣氏が見落としたのか、残念ながらこの映画は掲載されてありませんでした。

原題は「Les Amants du Tage(テージュ川の恋人たち)」。テージュ川はイベリア半島最長の川でスペイン中央部からリスボンに流れ込み大西洋に入ります。

第二次世界大戦中は中立国だったポルトガルです。映画「カサブランカ」でも触れられていますが、当時のリスボンはアメリカへ向かう難民たちの主要な国際港でした。ナチスの手を逃れて多くの難民がリスボンからアメリカへ渡ったそうです。
映画はそれから10年ほど経ったリスボン、ナザレが舞台です。

leamants du Tage
テージュ川で。Wikiより

パリから逃れリスボンでタクシー運転手をしているピエールと夫を事故で失ったカトリーヌがリスボンを旅で訪れます。その暗い過去の傷を持つ男と女がリスボンの酒場で出会うシーンで歌われるのがBarco Negro」(黒い舟)です。

amalia.jpg

1999年に没したファドの女王、アマリア・ロドリゲスを世に出した歌です。

日本語では「暗いはしけ」と訳されていますが、少し意味合いが違うように思います。「はしけ」は貨物や客を運ぶ小さな舟のことですが、「Barco Negro」は歌っている意味からして漁船です。

アマリアの歌の中でも名曲といわれるファド、と思ってきたのですが、なんと、原曲はブラジルの歌だったのです。

これには少し驚きました。 ポルトガル人も知らない人が多いのではないでしょうか。夫に、この知識をひけらかすと「まさか?」の顔で言うことには、「ネットにあることが全て正しいとは限らんぞ。」でありました(笑)
そんなことはもちろん承知ですよ。 しかし、まぎれもない原曲を今度はポルトガルの人気歌手「ドゥルス・ポンテス」が歌っています。その原曲は「Mãe preta」(マイン・プレタ。直訳:黒い母=黒人の乳母の意味)。

♪黒人の乳母が主人の赤ん坊を揺りかごであやしている。
  こんな風にして白人の子供を育ててきたが、
  その間に、黒人の我が子は農園で鞭打たれながら働いている。

と、黒人の母の悲しみを歌ったものですが、映画「過去を持つ愛情」では、歌詞をすっかり変えて原曲をはるかに上回るファドの名曲にのし上げています。ブラジルで作られた歌ですが、実はポルトガルでは
この歌詞が禁じられたもので、全く意味の違ったポルトガル語歌詞に書き換えられたのだそうです。本来はファドではなかったとは、驚きでした。

下記のリンクからこの2曲を是非聴き比べてみてください。

アマリアの「Barco Negro」


漁に出て行き帰って来ない愛する男への「あなたはわたしの胸の中にいつも生きている」との思いを切なく歌っています。
  
ドゥルス・ポンテスの「Mae Preta」 


アマリアの前にも後にも、素晴らしいファド歌手はなし、とは、わたしの思うところです。

下はわたしが10年ほど前、ナザレを訪れたときの写真。人影なく寂れた漁村でした。

ナザレ2009

ポルトガルで始めて、鯵の干物を見ました。この老女からたくさん買いこんだのですが、日本のとは違い、とにかく固かくて食べるのに苦労しました!

mulherNazare.jpg

映画「過去を持つ愛情」のストーリーは下記にて読めます。
https://movie.walkerplus.com/mv13577/

ナザレについては、これでお終いにします。
ではみなさま、また。


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2019年7月17日 

ポルトは悠久の街である。大西洋に流れ込むドウロ川べりから市外中心にむかって、幾重にも丘陵が重なり、段々畑の様を呈して赤レンガの屋根がぎっしり並んでいる。
この街では時間はゆっくり流れる。人々は素朴で子供たちは路地裏で日が暮れても遊びまわり、ときおり焼き魚の匂いが漂ってくる。

と、ポルトに来た当時の40年前にわたしは日記に書いています。しかし、近頃はポルトガル人の生活も忙しく変わって来ましたが、それでも日本とは比べられないのんびりさでしょう。

長崎にある石畳の道は、そのロマンチシズムで人気のあるスポットだと思われます。もしかすると、この長崎の石畳の故郷はポルトガル・スペインではないのかとわたしは推察するのですが、どうなのでしょうか。

石畳もホンの一部であれば、雨にぬれてもロマンチックであるけれど、気をつけないと人も車も滑るんですネ。ハイヒールのかかとはと言えば、まるで石畳に噛みつかれでもするかのようで、どうもいけません。

その石畳も今では道路が発達したポルト、最近は姿を消しつつありますが、まだそこかしこに残っています。我が家が面する通りもその一つ、石畳を敷き詰めた道です。

この石畳はさいころ型の石を敷き詰めたもので、ひとつの面は20年ほどの耐久性があると言われています。

道路モザイク2

一面が減ってきたところで掘り起こし、面を変えるのです。そしてさらに20年、また掘り起こし面を変えて20年。
この単純な繰り返し作業で行くと、さいころ面は6面あるのだから、最後の6面目が減った暁には石畳の道の齢(よわい)は120年!!!

たいしたものです。ひょっとすると目の前に石畳道が100年ほども経っているかもしれません。そこを日常的に歩いているというこを考えると感動的でもあります。

たかが1、2年帰らなかったというだけで、目まぐるしく景観が変わってしまう日本と比べると、なんというこの悠長さ、この頑固さ。
え?新道路工事の金がポルトにないんじゃないの、って?それを言っちゃぁ、おしまいよw

時には、ハイヒールのかかとに噛み付き、車もその振動で痛みが早いのではないかと気が気でならない石畳も、ポルトを「悠久の街」とわたしに言わせしめる一因ではあります。

因みに石畳をポルトガル語では「calçada portuguesa」と言い、モザイク模様の石畳も含みます。おしまいに、ヘタクソな一首をば。^^

わが家の前を流れる悠久の時はゆったり石畳になり 
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2019年7月3日
 
古いことゆえ、取り上げようか上げまいかと迷っていたのですが、やはり、自分のメモとして書いておきたいと思い、今日はかつてサンデマン入り口に見られた金属板こと、プレートについてです。
sandeman1.jpg

ドウロ沿岸、ポルト対岸のCais da Gaiaに林立する数あるワインセラーの中でも、一際目立つのが「Sandeman(サンデマン)。黒いハットに黒いマントの男性がトレードマークです。

トレードマークは「The Sandeman Dom」と呼ばれます。Sandeman社はスペインでシェリー酒を、ポルトガルではポルト・ワインを造ることから、二国の特徴を活かし、ドンがかぶる帽子はつばSpanish Caballero´s hat表し、黒いケープはポルトガルの大学生がまとう黒マントを表しています。

下は2005年9月の入り口の写真です。

sandeman_cheias1.jpg sandeman_cheias2.jpg

この年9月、夫の友人のご子息の結婚式が行われたポルトのCatedral da Sé(12世紀に建築された大寺院)での厳かな挙式の後、対岸にあるワインセラー(ワインの酒蔵)地帯を車で、ワインセラー庭園での披露宴開場へと移動していた時、夫に「待って待って!ちょっと止めてよ」と、あたりはばからず、結婚式出席の正装で車を降りて、デジカメパチリとやってきたのでありました。
 
サンデマンを通りかかる度に気になっていたものが、入り口の左側に見える黒いプレートなのです。 画像のデータが古く、見にくい点はご勘弁願い。

もう少し拡大してみました。

sandeman2007_4.jpg

CHEIA EM 20 DE JANEIRO 1855」と書かれています。「CHEIA」はポルトガル語で「洪水」の意味です。

1980年代後半まで、ポルトは雨季である12月から2月の間、雨量の多い時は、堤防のないドウロ川、てき面、川水が溢れリベイラ一帯はその都度洪水に襲われました。このプレートは、その洪水になったときの水かさの位置と年月日を表しています。

写真を見ると、一番上は入り口が、ほとんど全部水でふさがれてしまう程の水かさです。
 
2001年のこと、ポルトからドウロ川に沿って遡ったところ、Castelo de Paivaと言う小さな町にかかっていた橋が突如崩れ落ち、橋を渡っていた乗用車とバスを川が飲みこんでしまうという大きな事故がありました。
  
バスは、その日、ドウロ上流にあるアーモンドの花で有名な村へ、花見に行った帰りの観光バスでした。 生存者はひとりもおらず、未だにあがっていない遺体が多くあります。

その年の雨量はたいへんなものでした。橋の崩落事件は、日本でも報道されましたが、多雨量のせいだけではなく、橋を支える橋げたの建つあたりの砂、土を業者が違法にも掘りまくっていたことが原因だとされています。

当然のことながら、ワインセラーのあるRibeiraも洪水に見舞われ、一帯の住人達はほんとに気の毒でした。我が家は当時、まだ庭のある、恐らく築80年くらいは経つであろうと思われるような、古い家に住んでいたのですが、これまでなかったようなことに出会いました。

sandeman5.jpg
洪水時のリベイラ。Wikiより

夏に庭で見られるアリの行列が、地上3階の我が家の中で何度も見られたのです。なんとも異様な気持ちに襲われたのを覚えています。小さな生き物とは言え、災害に対する予知能力を持っているのでしょう。

さて、リベイラの洪水の写真を目にしたわたしは疑問に思ったことがひとつありました。
こういう時、ワインセラーで樽に入って寝かされ、熟成を待っているポルト・ワインは、果たしてどうなるのか?と・・・。

明日はこの疑問解きです。
では、また。
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2019年5月27日 

元の題は「ポルトガルのジプシー」だったのだが、ジプシーと言う言葉は今では差別語になり、代わりに「ロマ」と呼ぶのだそうで、題を変えてみたが、エッセイ中ではそのまま使っている。

ロマに対する差別意識は大してないのをご承知願いたい。「大して」なんて書くところを見ると、多少はあるんじゃないすかと、すかさず言ってくるのもいたりするので、断り書きしておきたい。

ヨーロッパで起こる事件にはロマが絡むものも多い。それで多少の恐れをもっているのがわたしの気持ちだ。「恐れ」が差別意識に入るとは思わないがその部分を加味して「大して」を付け加えた。

以下、

ポルトガル式チゴイネルワイゼン

近頃では、交差点で見かけるジプシーがめっきり減った。

かつては、ジプシーのいない信号の交差点はないくらいで、赤信号で停車ともなれば、たちまちにして男のジプシー、赤ん坊を抱いた女のジプシー、子供のジプシーのいずれかが、「お金おくれ。」とせがんで来た。

男のジプシーは、たいていA3くらいの大きさのダンボール紙にそのまま「赤んぼも含めてこどもが5人いますだ。めぐんでくだされ。」等とマジックインクで書いて、お金を入れてもらうプラスティックの箱を突き出してくる。

女のジプシーは、赤ん坊を片腕に抱き、そのままニュッと手を出し、「ミルク代、おくれよ。」と来る。
子供のジプシーにいたっては、これが一番タチが悪いのだが二人一組で来る。車窓を閉めたままでも、小うるさくコンコン窓ガラスを叩き、爪が黒くなった汚れた手をぬぅっと窓ガラスの外で突き出して、
「ねぇ、おくれよぉ。おくれったらぁ。」としつこい。

「小銭持ってないから、だめだよ。」などと言おうものなら、腹いせに、垂らしていた鼻水、鼻くそまで窓ガラスにくっつけて行ったりするのがいるから、小憎らしい(笑)

子供たちが海沿いの学校へ通っていた時は、毎日30分ほどかけて車で迎えに行くのが日課だったから、行きも帰りも赤信号で停車となるのが年賀がら年中だ。外出時には小銭を用意して出るのが常だった。

わたしには、顔馴染みのジプシーがいた。顔馴染みと言うなら、毎日通る殆どの交差点のジプシーがそうなるのだが、このジプシーは「ひいきのジプシー」とでも言おうか。当時は30代であろう、男のジプシーで、かれらの族の例に洩れず目つきはするどい。小柄な男でどこか胡散臭いのだが、なにやら愛想がよろしい。

言葉を交わした最初が、「中国人?日本人?」であった。当時、たいていのポルトガル人には「中国人?」と聞かれるのが常だったので、わたしはあまり面白くなかった。日本人も中国人も顔は似ているけれど国民性は全く違うんだから!」と心中クサッていたのである。

ポルトに来た当時、街を歩いては「シネーザシネーザ(中国人女性)」と指差され、それが「シネーシネー」と聞こえたもので、そう呼ばれるのは心底嫌だった。

後によくよく考えてみたら、気付かないうちに自分の中にある中国人に対する偏見のようなものを垣間見て慌てたことがあったのだが、ポルトガル人にしたら、日本人より中国人を見てきたのだろう、顔が似ている同じ東洋人だからいたしかたない、と思い至った。

以来、シネーシネーと指差されても気にならなくなった。
異国に住むにはシネーに含まれる侮蔑の対象の如きにならないように、日本人のわたしは行動に気をつけなければいけないと、思い始めたのである。

中国人?ではなく、中国人?日本人?と聞かれて気をよくし、すかさず「日本人よ。」すると、「やっぱり思った通りだ。ちょっと違うんだよね。」で、彼はここでニコッとやるわけだ。

当然用心はするけれども、わたしはこういうのに吊られるタイプでどうしようもない。

それがきっかけで、その交差点を通るたびに、「こんにちは。今日は調子どう?」と挨拶を交わすようになってしまった。

我が家の古着や使わなくなった子供の自転車、おもちゃ、食器など不要になった物、たまには食べ物なども時々その交差点のあたりで停車して手渡したりしていた。

たまに、その交差点に、かの贔屓のジプシーがおらず、別のジプシーを見ることがあって、そういう時は、おそらく縄張りをぶん捕られたか、縄張り交代なのだろう。変わりに立ってるジプシーはたいてい人相が悪い。

ある日、同乗していた中学生だった息子が、そんなわたしを見て言うことには、
「ああやって小銭をもらって稼いでるジプシーには、借家のうちなんかより立派な自分の家に住んでることがあるんだよ。」

「3日やれば乞食はやめられない」と日本でも言う。家に帰ってシャワーを浴び、こぎれいになっているそのジプシーの一家団欒を想像してなんだか可笑しかった。

息子はリスボンへ、娘はバスでダウンタウンにあるポルトガルの私立高に通学するようになって以来、17年に渡る学校の送り迎えがなくなったわたしはそのジプシーに会うことはなくなった。

その間、東ヨーロッパの国々がEC加入し、気がつくといつのまにやら交差点からは、小銭をせびるジプシーたちの姿が消え、代わりにポルトガルに流れ込んで来た東ヨーロッパ人達が目立つようになった。

彼らは、「要らん!」と言うこちらの言葉にお構いなく、車のフロントガラスにチュ~ッと洗剤をかけ、拭き始めるのである。そして「駄賃おくれ」と来る。

「昨日、洗車したばっかよ!」と、頼みもしないのに強引にする輩には絶対小銭を渡さない。しつこく手を出されても、力をこめて車のハンドルをギュッと握り締め前方を見て赤信号から青に変わるまで、頑張るのだ(笑)

それに、その頃にはもう交差点の輩には小銭をあげないと決心していた。小銭を車窓で受け取り、うっかり落としたふりをしてこちらの油断をついて、ひったくったり脅したりの犯罪が増えてきたからだ。

先日、家の近くの交差点で、数年ぶりにかの「贔屓のジプシー」に遭遇した。
わたしが駆っている車種も車の色もあの頃のとは変わっているのだが、即座にわたしを見つけ、「奥さん、久しぶり。お住まいこっちの方で?お子さん達元気?」と来た。

少しやつれている。歳をとったのだ。閉めていた車窓を開けた。
「E você?」(で、あなたは?)助手席のバッグを引き寄せ、小銭を出して手渡しながら、信号待ちの間のしばしの会話。

やがて、信号が変わりわたしは他の車の流れに乗って動き出した。バックミラーに車の発進でその身を安全なグリーンベルトに寄せるジプシーの少しやつれた姿が映って、それがあっという間に遠くなった。

世界広し言えども、「贔屓のジプシー」を持っている日本人などそうざらにいるものではあるまい。夫は知らない。

ここからは事後談である。

2007年1月27日 「ジプシーからよろしく」

近頃はあまり見かけなくなった交差点の物乞いの人たち。かつてはいたる交差点に必ずと言っていいほどおり、殆どがジプシーたちでした。

それが、数年前には東欧から流れ込んで来た人たちが占め、今は、それぞれみな、なんとか仕事にありついたのか、それともポルトは実入りがないと諦めて、別の土地へと流れて行ったのか。

昨日は補習校出勤前に久しぶりに、わたしの「ひいきのジプシー」を見かけました。車の窓を開けてコインを差し出し、赤信号で停車する束の間の会話。

    ジプシー「ちっちゃかった娘はどうしてるの?」
    わたし  「今、日本で勉強してるわよ。」
    ジプシー「へぇ。休みには帰って来るの?」
    わたし 「去年の夏に2年ぶりで帰ってきたの。」 
    ジプシー「日本は好きだって?ポルトガルよりいいって?」
    わたし 「そうね。多分^^」 
    ジプシー「娘に、教会の交差点のところによくいたジプシー
         からよろしくって言っといてよ。」

ひいきのジプシーがいる日本人なんてザラにいるものではありません。
が、ジプシーから「よろしく」なんて伝言をもらう「娘」もいないだろうなぁ、きっと(笑)
メッセンジャーで話したモイケル娘に、その伝言を渡しました。


12年の月日が流れた現在、ジプシーや東ヨーロッパ人と代わって、交差点を陣取るのは若い大道芸人たちだ。最後に言葉を交わしたときは調子が悪いのだと言っていたかのジプシーの姿を、以来、わたしは見かけていない。
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