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2019年7月17日 

ポルトは悠久の街である。大西洋に流れ込むドウロ川べりから市外中心にむかって、幾重にも丘陵が重なり、段々畑の様を呈して赤レンガの屋根がぎっしり並んでいる。
この街では時間はゆっくり流れる。人々は素朴で子供たちは路地裏で日が暮れても遊びまわり、ときおり焼き魚の匂いが漂ってくる。

と、ポルトに来た当時の40年前にわたしは日記に書いています。しかし、近頃はポルトガル人の生活も忙しく変わって来ましたが、それでも日本とは比べられないのんびりさでしょう。

長崎にある石畳の道は、そのロマンチシズムで人気のあるスポットだと思われます。もしかすると、この長崎の石畳の故郷はポルトガル・スペインではないのかとわたしは推察するのですが、どうなのでしょうか。

石畳もホンの一部であれば、雨にぬれてもロマンチックであるけれど、気をつけないと人も車も滑るんですネ。ハイヒールのかかとはと言えば、まるで石畳に噛みつかれでもするかのようで、どうもいけません。

その石畳も今では道路が発達したポルト、最近は姿を消しつつありますが、まだそこかしこに残っています。我が家が面する通りもその一つ、石畳を敷き詰めた道です。

この石畳はさいころ型の石を敷き詰めたもので、ひとつの面は20年ほどの耐久性があると言われています。

道路モザイク2

一面が減ってきたところで掘り起こし、面を変えるのです。そしてさらに20年、また掘り起こし面を変えて20年。
この単純な繰り返し作業で行くと、さいころ面は6面あるのだから、最後の6面目が減った暁には石畳の道の齢(よわい)は120年!!!

たいしたものです。ひょっとすると目の前に石畳道が100年ほども経っているかもしれません。そこを日常的に歩いているというこを考えると感動的でもあります。

たかが1、2年帰らなかったというだけで、目まぐるしく景観が変わってしまう日本と比べると、なんというこの悠長さ、この頑固さ。
え?新道路工事の金がポルトにないんじゃないの、って?それを言っちゃぁ、おしまいよw

時には、ハイヒールのかかとに噛み付き、車もその振動で痛みが早いのではないかと気が気でならない石畳も、ポルトを「悠久の街」とわたしに言わせしめる一因ではあります。

因みに石畳をポルトガル語では「calçada portuguesa」と言い、モザイク模様の石畳も含みます。おしまいに、ヘタクソな一首をば。^^

わが家の前を流れる悠久の時はゆったり石畳になり 
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2019年7月3日
 
古いことゆえ、取り上げようか上げまいかと迷っていたのですが、やはり、自分のメモとして書いておきたいと思い、今日はかつてサンデマン入り口に見られた金属板こと、プレートについてです。
sandeman1.jpg

ドウロ沿岸、ポルト対岸のCais da Gaiaに林立する数あるワインセラーの中でも、一際目立つのが「Sandeman(サンデマン)。黒いハットに黒いマントの男性がトレードマークです。

トレードマークは「The Sandeman Dom」と呼ばれます。Sandeman社はスペインでシェリー酒を、ポルトガルではポルト・ワインを造ることから、二国の特徴を活かし、ドンがかぶる帽子はつばSpanish Caballero´s hat表し、黒いケープはポルトガルの大学生がまとう黒マントを表しています。

下は2005年9月の入り口の写真です。

sandeman_cheias1.jpg sandeman_cheias2.jpg

この年9月、夫の友人のご子息の結婚式が行われたポルトのCatedral da Sé(12世紀に建築された大寺院)での厳かな挙式の後、対岸にあるワインセラー(ワインの酒蔵)地帯を車で、ワインセラー庭園での披露宴開場へと移動していた時、夫に「待って待って!ちょっと止めてよ」と、あたりはばからず、結婚式出席の正装で車を降りて、デジカメパチリとやってきたのでありました。
 
サンデマンを通りかかる度に気になっていたものが、入り口の左側に見える黒いプレートなのです。 画像のデータが古く、見にくい点はご勘弁願い。

もう少し拡大してみました。

sandeman2007_4.jpg

CHEIA EM 20 DE JANEIRO 1855」と書かれています。「CHEIA」はポルトガル語で「洪水」の意味です。

1980年代後半まで、ポルトは雨季である12月から2月の間、雨量の多い時は、堤防のないドウロ川、てき面、川水が溢れリベイラ一帯はその都度洪水に襲われました。このプレートは、その洪水になったときの水かさの位置と年月日を表しています。

写真を見ると、一番上は入り口が、ほとんど全部水でふさがれてしまう程の水かさです。
 
2001年のこと、ポルトからドウロ川に沿って遡ったところ、Castelo de Paivaと言う小さな町にかかっていた橋が突如崩れ落ち、橋を渡っていた乗用車とバスを川が飲みこんでしまうという大きな事故がありました。
  
バスは、その日、ドウロ上流にあるアーモンドの花で有名な村へ、花見に行った帰りの観光バスでした。 生存者はひとりもおらず、未だにあがっていない遺体が多くあります。

その年の雨量はたいへんなものでした。橋の崩落事件は、日本でも報道されましたが、多雨量のせいだけではなく、橋を支える橋げたの建つあたりの砂、土を業者が違法にも掘りまくっていたことが原因だとされています。

当然のことながら、ワインセラーのあるRibeiraも洪水に見舞われ、一帯の住人達はほんとに気の毒でした。我が家は当時、まだ庭のある、恐らく築80年くらいは経つであろうと思われるような、古い家に住んでいたのですが、これまでなかったようなことに出会いました。

sandeman5.jpg
洪水時のリベイラ。Wikiより

夏に庭で見られるアリの行列が、地上3階の我が家の中で何度も見られたのです。なんとも異様な気持ちに襲われたのを覚えています。小さな生き物とは言え、災害に対する予知能力を持っているのでしょう。

さて、リベイラの洪水の写真を目にしたわたしは疑問に思ったことがひとつありました。
こういう時、ワインセラーで樽に入って寝かされ、熟成を待っているポルト・ワインは、果たしてどうなるのか?と・・・。

明日はこの疑問解きです。
では、また。
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2019年5月27日 

元の題は「ポルトガルのジプシー」だったのだが、ジプシーと言う言葉は今では差別語になり、代わりに「ロマ」と呼ぶのだそうで、題を変えてみたが、エッセイ中ではそのまま使っている。

ロマに対する差別意識は大してないのをご承知願いたい。「大して」なんて書くところを見ると、多少はあるんじゃないすかと、すかさず言ってくるのもいたりするので、断り書きしておきたい。

ヨーロッパで起こる事件にはロマが絡むものも多い。それで多少の恐れをもっているのがわたしの気持ちだ。「恐れ」が差別意識に入るとは思わないがその部分を加味して「大して」を付け加えた。

以下、

ポルトガル式チゴイネルワイゼン

近頃では、交差点で見かけるジプシーがめっきり減った。

かつては、ジプシーのいない信号の交差点はないくらいで、赤信号で停車ともなれば、たちまちにして男のジプシー、赤ん坊を抱いた女のジプシー、子供のジプシーのいずれかが、「お金おくれ。」とせがんで来た。

男のジプシーは、たいていA3くらいの大きさのダンボール紙にそのまま「赤んぼも含めてこどもが5人いますだ。めぐんでくだされ。」等とマジックインクで書いて、お金を入れてもらうプラスティックの箱を突き出してくる。

女のジプシーは、赤ん坊を片腕に抱き、そのままニュッと手を出し、「ミルク代、おくれよ。」と来る。
子供のジプシーにいたっては、これが一番タチが悪いのだが二人一組で来る。車窓を閉めたままでも、小うるさくコンコン窓ガラスを叩き、爪が黒くなった汚れた手をぬぅっと窓ガラスの外で突き出して、
「ねぇ、おくれよぉ。おくれったらぁ。」としつこい。

「小銭持ってないから、だめだよ。」などと言おうものなら、腹いせに、垂らしていた鼻水、鼻くそまで窓ガラスにくっつけて行ったりするのがいるから、小憎らしい(笑)

子供たちが海沿いの学校へ通っていた時は、毎日30分ほどかけて車で迎えに行くのが日課だったから、行きも帰りも赤信号で停車となるのが年賀がら年中だ。外出時には小銭を用意して出るのが常だった。

わたしには、顔馴染みのジプシーがいた。顔馴染みと言うなら、毎日通る殆どの交差点のジプシーがそうなるのだが、このジプシーは「ひいきのジプシー」とでも言おうか。当時は30代であろう、男のジプシーで、かれらの族の例に洩れず目つきはするどい。小柄な男でどこか胡散臭いのだが、なにやら愛想がよろしい。

言葉を交わした最初が、「中国人?日本人?」であった。当時、たいていのポルトガル人には「中国人?」と聞かれるのが常だったので、わたしはあまり面白くなかった。日本人も中国人も顔は似ているけれど国民性は全く違うんだから!」と心中クサッていたのである。

ポルトに来た当時、街を歩いては「シネーザシネーザ(中国人女性)」と指差され、それが「シネーシネー」と聞こえたもので、そう呼ばれるのは心底嫌だった。

後によくよく考えてみたら、気付かないうちに自分の中にある中国人に対する偏見のようなものを垣間見て慌てたことがあったのだが、ポルトガル人にしたら、日本人より中国人を見てきたのだろう、顔が似ている同じ東洋人だからいたしかたない、と思い至った。

以来、シネーシネーと指差されても気にならなくなった。
異国に住むにはシネーに含まれる侮蔑の対象の如きにならないように、日本人のわたしは行動に気をつけなければいけないと、思い始めたのである。

中国人?ではなく、中国人?日本人?と聞かれて気をよくし、すかさず「日本人よ。」すると、「やっぱり思った通りだ。ちょっと違うんだよね。」で、彼はここでニコッとやるわけだ。

当然用心はするけれども、わたしはこういうのに吊られるタイプでどうしようもない。

それがきっかけで、その交差点を通るたびに、「こんにちは。今日は調子どう?」と挨拶を交わすようになってしまった。

我が家の古着や使わなくなった子供の自転車、おもちゃ、食器など不要になった物、たまには食べ物なども時々その交差点のあたりで停車して手渡したりしていた。

たまに、その交差点に、かの贔屓のジプシーがおらず、別のジプシーを見ることがあって、そういう時は、おそらく縄張りをぶん捕られたか、縄張り交代なのだろう。変わりに立ってるジプシーはたいてい人相が悪い。

ある日、同乗していた中学生だった息子が、そんなわたしを見て言うことには、
「ああやって小銭をもらって稼いでるジプシーには、借家のうちなんかより立派な自分の家に住んでることがあるんだよ。」

「3日やれば乞食はやめられない」と日本でも言う。家に帰ってシャワーを浴び、こぎれいになっているそのジプシーの一家団欒を想像してなんだか可笑しかった。

息子はリスボンへ、娘はバスでダウンタウンにあるポルトガルの私立高に通学するようになって以来、17年に渡る学校の送り迎えがなくなったわたしはそのジプシーに会うことはなくなった。

その間、東ヨーロッパの国々がEC加入し、気がつくといつのまにやら交差点からは、小銭をせびるジプシーたちの姿が消え、代わりにポルトガルに流れ込んで来た東ヨーロッパ人達が目立つようになった。

彼らは、「要らん!」と言うこちらの言葉にお構いなく、車のフロントガラスにチュ~ッと洗剤をかけ、拭き始めるのである。そして「駄賃おくれ」と来る。

「昨日、洗車したばっかよ!」と、頼みもしないのに強引にする輩には絶対小銭を渡さない。しつこく手を出されても、力をこめて車のハンドルをギュッと握り締め前方を見て赤信号から青に変わるまで、頑張るのだ(笑)

それに、その頃にはもう交差点の輩には小銭をあげないと決心していた。小銭を車窓で受け取り、うっかり落としたふりをしてこちらの油断をついて、ひったくったり脅したりの犯罪が増えてきたからだ。

先日、家の近くの交差点で、数年ぶりにかの「贔屓のジプシー」に遭遇した。
わたしが駆っている車種も車の色もあの頃のとは変わっているのだが、即座にわたしを見つけ、「奥さん、久しぶり。お住まいこっちの方で?お子さん達元気?」と来た。

少しやつれている。歳をとったのだ。閉めていた車窓を開けた。
「E você?」(で、あなたは?)助手席のバッグを引き寄せ、小銭を出して手渡しながら、信号待ちの間のしばしの会話。

やがて、信号が変わりわたしは他の車の流れに乗って動き出した。バックミラーに車の発進でその身を安全なグリーンベルトに寄せるジプシーの少しやつれた姿が映って、それがあっという間に遠くなった。

世界広し言えども、「贔屓のジプシー」を持っている日本人などそうざらにいるものではあるまい。夫は知らない。

ここからは事後談である。

2007年1月27日 「ジプシーからよろしく」

近頃はあまり見かけなくなった交差点の物乞いの人たち。かつてはいたる交差点に必ずと言っていいほどおり、殆どがジプシーたちでした。

それが、数年前には東欧から流れ込んで来た人たちが占め、今は、それぞれみな、なんとか仕事にありついたのか、それともポルトは実入りがないと諦めて、別の土地へと流れて行ったのか。

昨日は補習校出勤前に久しぶりに、わたしの「ひいきのジプシー」を見かけました。車の窓を開けてコインを差し出し、赤信号で停車する束の間の会話。

    ジプシー「ちっちゃかった娘はどうしてるの?」
    わたし  「今、日本で勉強してるわよ。」
    ジプシー「へぇ。休みには帰って来るの?」
    わたし 「去年の夏に2年ぶりで帰ってきたの。」 
    ジプシー「日本は好きだって?ポルトガルよりいいって?」
    わたし 「そうね。多分^^」 
    ジプシー「娘に、教会の交差点のところによくいたジプシー
         からよろしくって言っといてよ。」

ひいきのジプシーがいる日本人なんてザラにいるものではありません。
が、ジプシーから「よろしく」なんて伝言をもらう「娘」もいないだろうなぁ、きっと(笑)
メッセンジャーで話したモイケル娘に、その伝言を渡しました。


12年の月日が流れた現在、ジプシーや東ヨーロッパ人と代わって、交差点を陣取るのは若い大道芸人たちだ。最後に言葉を交わしたときは調子が悪いのだと言っていたかのジプシーの姿を、以来、わたしは見かけていない。
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2017年12月7日 

お歳暮という意味合いの言葉こそポルトガルにはありませんが、12月の贈答はそれに相当すると思います。
  
日本と比べて違うところは、職場の上司や仕事関係のお得意先へという義理がらみの付け届けはほとんどないという点でしょうか。また、わたしたち日本人は早く義理を果たしてしまいたいとでも言うように、お返しは早々に果たしてしまおうとします。ポルトガルでは一年を振り返ってみてお世話になったと思われる人に、クリスマスの贈り物を届け感謝の気持ちを表すのです。

どういうものが贈られるのか、ちょっと興味があるところでしょう。
ワイン、ウイスキー等は日本と変わりませんね。ポルト・ワインやウイスキーは高価なものを贈りますから、たいてい一本ですが、Vinho Verde等のテーブルワインとなると、ドバッと10本から20本が届けられます。これなどは日本で言うビールを贈る感覚でしょう。
そう言えば、こちらではビールがこういうお届けものに使われることはまずもってないのが面白いです。
cabaz1.jpg
Wikiより

また、この時期にはデパートや大手のスーパーではクリスマス贈答品コーナーが備えられ、ワインを始め、チーズ、生ハム、缶詰などが入ったcabaz(カバス=果物等をいれるカゴ)がたくさん並びます。

その他、贈り物として室内の飾り物、クリスタルのデキャンタ、銀製品、そして不景気な今からは考えられませんが、たまに金の装飾品などもありました。これらはかなり高価なものになりますから、受け取る方も多少躊躇します。銀製品の菓子皿、ぼんぼん入れ、燭台などは3、4万円はくだりません。

食べ物としては、「バカリャオ=bacalhau」と呼ばれる大きな鱈を開いて干したものを贈り物に。これは、肉類を食さないクリスマス・イブと、そして大晦日にポルトガルの習慣として他の野菜と茹で上げて食します。また、豚の足一本からなる生ハム、これも贈答用に使われます。

とまぁ、本題「アフォンソとマチルダ」の前置きが大部長くなってしまいましたが、色々な頂き物の中には「こりゃ困った」と言う物も多々ありました。

さて、これはわたし達一家が現在の我が家、フラットに引っ越す前の古い小さな庭つきの家に住んでいた時の出来事で、子供たちが小学生だった頃のこと。

夫の仕事柄、この時期にはお届け物が参ります。12月のある日のこと、田舎の方と思し召すセニョールが玄関の前に立ちました。
「だんな様に大変お世話になった。どうぞこれを。」と言って大きなのダンボール箱を置いていきました。
「あらら、なんでしょ」と、中身が生ものであっては後で困りますので箱を開けてびっくり、玉手箱!ナマモノもナマモノ、生きた二本足を紐でくくられた二羽のトリではないですか!一羽は真っ赤なトサカを冠しており、もう一羽は見事な七面鳥です。12月は七面鳥の季節でもありますものね。

しかし、これ、どうするのよ?自分・・・
よく見ると可哀相に、この2羽、足をくくられたままでとても辛そうです。で、いやだったんですが、恐る恐る両手を差し伸べて抱きあげようと両手を出しましたら、騒ぐこと騒ぐこと、そのけたたましさといったらありません。こちらの方がビビッてしまいましたが、思い切って抱き上げました。その柔らかい体を通して体温が伝わってきます。

庭には昔の鳥小屋がそのままほったらかしでありましたから、庭まで運び、くくっていた紐をほどき、二羽を庭に放して見ました。子供達が帰宅して、特に動物好きの娘は大喜びです。早速にこの二羽に牡雌も分からないと言うのに「アフォンソ」「マチルダ」と名づけました。アフォンソとはポルトガル王の名前ですから、ひどい話ではあります(笑)

夕方になると、今度は庭中追い掛け回して二羽をひッ捕まえ、一時しのぎの鳥小屋に入れるのですが、これがまた一仕事です。あちらは必死で逃げ回るし、こちらはこわごわ追いかけ回すわけです。庭には好きなバラをたくさん植えてましたし、大きなあじさいの木もありましたから、それらの陰に入ると捕まえるのにこちらは手や腕が傷だらけです。

こういう悪戦苦闘の数日が続いたのですが、クリスマスがいよいよ近づいてくると、さて、ここで問題が持ち上がりました。こうして名前までつけてしまうと、とてもとても潰して食卓に載せることなどできましょうか・・・名前はつけるべきではなかったのです。娘など、よもやそういうことには考えが及ばないでしょう。夫もわたしも、つぶせるわけはなし。

しかし、このまま庭で飼っておくというわけにもいかないのです。なにしろ、我が家には犬のポピー、そして数匹の猫たちもいるのです。このまま飼って行くと、アフォンソとマチルダを守るために四苦八苦、そのせいで毎日クタクタになるのが目に見えています。

一日一日と延ばし延ばしになり、ついに決心を迫られる日が来ました。我が家で始末するわけには参りません。ネコや犬たちが騒々しさや血の匂いできっと怖気づいてしまうに違いありません。裏に大きな畑を持つジョアキンおじさんの飼っているブタが、悲鳴を上げて鳴くことがままあるのですが、わたしには何が起ころうとしているのか想像できます。そのときの我が家の犬猫たちは「なにごと?!」とでも言うかのようにみな揃ってあっちへすっ飛びこっちへすっ飛び。その不安な様といったらありません。

子供達に、「これはアフォンソとマチルダです、頂きましょう」と言えるくらいの気概が哀しいかな、わたしには当時ありませんでした。

結局、週に2度、我が家の掃除にくるお手伝いのドナ・ベルミーラに2羽とも上げました。不意に手に入った素晴らしいご馳走です。嬉々として2羽を抱えて帰って行ったお手伝いさんの後姿を見ながら、わたしはちょっと複雑な思いでした。こんな気持ちになるのなら、肉類はもう口にしなくてもいいや、なんて偽善的な思いが頭を横切ったものです。

生きる、ということは、そのために生かされてる命があるのだ、ということに思いを馳せる出来事でありました。子供達には、一言「お手伝いさんにあげましたよ。」それで十分伝わったでしょうか。

モイケル娘の複雑な表情を打ち消すかのように、わたしはクリスマス・ソングのCDをボリュームアップでかけたのでした。

ごめんよ、もいちゃん、そしてアフォンソとマチルダに合掌。
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2017年11月1日

11月1日、今日はポルトガルでは「聖人の日」で休日です。この日、ポルトガルの人達は午前中に花を携えて墓参りに行きます。

今から250年程前の今日、リスボンは大地震に襲われ、火災と津波で街は殆ど破壊されたのです。当時のリスボンの人口25万人のうち、2万人がこの地震で犠牲になりました。強度のこの地震は、南フランスや北アフリカでさえも感じられたと伝えられます。

地震の被害がかくも大きくなったのには、次の理由が挙げられています。

「聖人の日」の前夜から習慣として、多くの家や教会ではロウソクの灯が灯されていました。更にこの日は非常に寒い日だったので、各家庭では暖炉の火を炊いて家で暖を取っていたそうです。

常日頃から、日本に比べてポルトガルのいい所は、何と言っても地震がないことだとわたしは思ってきたのですが、地震を正確に予測するなどいったい誰ができるでしょうか。

1755年午前9時45分頃、地震は何の前触れも無く、突然リスボンの街に襲いかかり石造りの建物からはレンガや石が人々の頭上に降り注ぎ「聖人の日」のこの朝、ミサに来ていたたくさんの人が崩れ落ちた教会で生き埋めになりました。 

ポルトガルは大西洋を目前にした海洋の国です。海に面したリスボンは同時に津波にも襲われ、地面が裂け、その地割れが水を、風を蒸気を呼び、被害を更に大きくし、これは3日間続きリスボンを完全に壊滅状態にしました。

この時かろうじて残ったのが、今では観光地となっている中世のたたずまいとその狭い路地がクネクネと密集しているリスボンの旧市街、アルファマ地区です。

Alfama3.jpg
物悲しいファドが聞こえてでもきそうなアルファマ。

リスボンの街はこの後、ドン・ジュゼ一世王の命令でポンバル公爵により再建されるわけですが、Convento do Carmo(カルモ修道院)を代表とするいくつかの建物は、この惨劇の象徴として手を加えられることなく当時のまま保存され今に至っています。

Alfama2.jpg
カルモ修道院
       
この日から250年以上もの月日が流れ、リスボンの大地震は歴史になってしまいました。

最後に、ポルトガル語では地震を「Terramoto(テラモート)」と言います。Terraは地球、土地、 motoは運動、運行の意味があります。明日はこのリスボン大地震の被害をかろうじて免れたアルファマ地区を案内します。


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