2017年10月17日 

ポルトガルに住んでかれこれ40年近くになろうとしている。この間、自分がしでかした失敗は自慢にはならないが、両指の数を遥かに超える。今日の話はそのひとつである。

深夜も3時を回ったころ、電話が鳴った。そういうときのわたしはガバと反射的に起き上がる。さっさと電話にでないと、我が家は3箇所に親子電話があったので、そのうちのひとつがFaxにつながってしまい、ピーピーと鳴ってうるさいことしきりである。

真夜中の電話はだれも不吉な思いに襲われるもので、この時間帯に入る電話は、たいがいアメリカからのアイツであった。酔っ払って人恋しくなり、時差もかまわずかけてくるのである。その酔っ払い電話が途絶えて久しい。まさか、ヤツではあるまいの?そう思い応答した。(ヤツとのエピソードは次回にアップします)

「Dr.santosのお宅ですか?」と女性の声。「あのぉ、お宅、水出っ放しになってません?車庫のところに水がずーっと落ちてきてるるのですが・・・」

なんだとて?水が?バスルームを見たら異常なし。台所へ行くと、台所は異常な・・・おろ?なんかすごい音がしとるぞ。ゴーッと音のする先は台所の側のベランダであるよ!えええ!足を踏み入れようとしたら、おーっとっとっと!水浸しだ。

ぐは!ベランダの洗濯場タンクの水道から水が音を立ててゴーゴーと・・・・・床はタイルを敷いているのだが、その床を洗った後、ふき取る必要がないように水を流し出すために床と外壁が接する所にさな穴が開いている。タンクから水が溢れ出てその穴から下の車庫のある庭へと雨が降る如く落ちていたのでございますよ。

お~~い、ダンナ!と夫を起こし。小さな穴から水が落ちきるまでにはかなりの時間がかかりそうです。とりあえずバケツで床に溜まった水をちょぼちょぼと汲みあげること半時間(どんだけ溜まってたのだ?)、仕上げはモップでふき取り。

台所に寝ていたネコタチは「なに?なに?どったの?」とこわごわ覗いていましたが、あんたらね、水が出てるの気づかなかったノン?んもう、役立たず!

夫、「君、ここの水道、使ったの?」
「え~っと、コーヒーを沸かすのに、ここから水を汲んだ。でも栓を閉めたと思うがなぁ。それは12時近くで、その後、エデンの東=映画、を見て、5匹ネコたちを台所に運んで来た時は、こんな水の音、しなかったと思うがなぁ」←いかにも自信なげだ(笑)

変だなぁ。それにあんなふうに 目一杯に水道の栓をひねらないと思うがなぁ。なにかの拍子で、ネコでもやったんだろか・・・さっぱり覚えてないや。起こっちゃったことは、ま、仕方ないか。

「で、君、なんでコーヒーのお湯を沸かすのに、台所の水道からじゃなくて、ここから水を汲むわけ?」と夫が聞く。
「あらん、だって、あなた、台所には蛇口にはフィルターを取り付けられないからって、こっちの方に取り付けたでしょ?だからよ。」
「開いていた栓は、フィルターの方じゃなくて、台所の水道の水と同じのが出る栓だったよ」
「そんなことないわよ、これがフィルターがついてる水道の栓でしょ?」
夫「・・・・・・・・・」沈黙。「フィルターの栓は別にあるよ。ほら、上のこれだ。」
今度はわたしが「チ~~~ン・・・」沈黙。

水道

なに?それじゃ、わたしはここへ引っ越して以来ずっと、そこからのをフィルターの水だと思い込み、やっぱり台所の水道の水とは違うわねと、せっせコーヒー飲んでたと言うのぉ?
「そう言うことになるね」  なんてこった、 どーーーん。奈落の谷に蹴落とされた・・・・
ちゃんと説明してよね!と無理を吐いたあと、己のバカさ加減が可笑しくて真夜中に大声出して笑ったのでありました。あほらし。

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2017年8月10日 

ポルトガルの書店、みやげ物店などポルトガルのあちこちで似顔絵がよく見られるほどに、フェルナンド・ペソアは国内で人気がある詩人です。少し、詩人のおいたちを紹介してみます。

フェルナンドペソア


1888年にリスボンで生まれましたが、少年期を英国領だった南アのダーバンで過ごし、英語で教育を受けています。これは後に英語ポルトガル語の翻訳家の道へもつながります。

17才で南アからリスボンへ帰国後、リスボン大学で学びますが中退し働きますがやがて文壇の世界に入っていきます。ペソアがよく通ったカフェ「A Brasileira」の店先では彼の像が椅子に座っています。

フェルナンド・ペソア
リスボンのシアードにある1907年にオープンしたカフェA Brasileira

フェルナンド・ペソア
イスに座るフェルナンド・ペソアの像

生前のペソアは詩人としては一般にあまり名が知られていませんでしたが、O・ヘンリーやエドガー・アラン・ポーなどの作品、ナサニエル・ホーソンの「緋文字(高校時代にわたしが読んで衝撃を受けた本)」など多くのポルトガル語翻訳を手かげています。

ペソアはまた、神秘主義思想やヘルメス主義の熱狂的な支持者でもあったようで、占星術や錬金術にも強い興味を持っていました。案の定、宗教はNeo Paganism(異端教)、 Gnosticism(グノーシス主義)とあります。

サラザールの時代(1933年ー1974年)、1935年には、ファシズムへの批判を書きフリーメーソンを擁護したかどで、ペソアの作品は全て出版禁止の憂き目にあい、同年肝硬変で47歳で亡くなっています。

生前出版されたのは英語で書かれた4冊の本とたった一冊のポルトガル語詩集「Mensagem(メッセージ)」のみです。

フェルナンド・ペソア
手元にあるフェルナンド・ペソアの詩集Mensagem。

詩集は3部に分かれた44篇の短い詩からなっています。第一部は「Brasão(紋章)」、第二部は「Mar Português(ポルトガルの海)」、第三部が「O Encoberto(隠されたもの?)」

詩人としてフェルナンド・ペソアが世に名を馳せるのは、死後50年が経った1980年代半ば、サラザールの時代が終わり、彼が残した木製のトランクに入った、25000ページ以上に渡る遺稿が発見されてからです。

ペソアの詩については、詩の解釈は人それぞれにあるでしょうし、まして原語となると、ポルトガル語を専門に学んだことがないわたしにはとんでもないことですから、言及しないでおきます。興味のある方は、ネットで是非検索してみてください。

わたしはいずれ、ポルトガル語のDias先生と指導を受けながら読んでみたいと考えています。特に、ペソアがグノーシス主義だという点は、大いに興味を惹かれるところですしね^^

この項、まだ続きます。

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2017年8月6日

暇を見ては断捨離(だんしゃり)とやらをしている。捨てるまではいかなくとも、長い休みを利用して、普段手をつけない押入れや台所、整理ダンスの奥などの整理をする人も多いと思う。

既に鬼籍に入ってしまった義母の家に住んでいるアーティストの義兄もその一人で、どうやら、屋根裏部屋に上がって整理と決め込んだらしい。

新婚時代、6年ほど夫の母やおばたちと同居していたのだが、当時の家には屋根裏の収納部屋があり、バスルームの天井の四角い扉から入る。かなり長い梯子(はしご)をもって上らないといけないのであった。

わたしも一度だけ上がったことがある。天井は低いが結構広さがあり、ベッドなどの古い家具や古着や古靴、その他、箱に入ったガラクタ類が置いてあった。アーティストの義兄は、時々そこに引きこもって作品制作に没頭したと聞く。屋根裏部屋の扉から直接折りたたみ式の梯子でもついてあれば、子供たちのかっこうの隠れ場、遊び場になり喜んだことであろう。その屋根裏部屋へ人が行かなくなって優に30年は経つであろう。

亡くなった義母の家は、我がフラットからすぐの所にある。別居して以来義母が亡くなるまで、夜の食事後には毎日欠かさず彼女を訪ね、一日のひと時を共に過ごしていた。義母が亡くなった今も、独り身の兄に気遣ってか、夫は未だにその習慣を続けている。

ある夜、
「ローザ・ラマーリュの陶土人形が入った箱が屋根裏部屋で見つかったよ。」と言って二つの古い段ボール箱を抱えて帰って来た。

ローザ・ラマーリュ(Rosa Ramalho。1888~1977)はポルトガルの著名な陶土人形作家で、その独特な作風から一目で彼女の作品だと分かる。

引越し時に持って来たひと箱は車庫に入れて置いたところが、知らぬ間に泥棒に拝借されてしまっていたのだが、どうやら義母の屋根裏部屋にも置かれていたらしい。

juliaramalho1-1[1]

大小さまざまの陶土人形は宗教をテーマにしたものが多い。下はイエスの誕生シーンを表したクリスマスの置物で、これをポルトガル語ではPresépioと呼ぶ。高さ40cmほど。

rosaramalho6-1.jpg

下のCeia(=セイア=最後の晩餐。聖夜に発音が似ているのは興味深い。)は、同じくRR の作品でわたしの気に入りだ。サイズは50X30cm

rosaramanho3-1.jpg

この作品については面白い発見があり、後日、取り上げてみる。

夫の引き出しにひっそりと仕舞い込まれている珍しく色をかけていない茨の王冠を冠した「白いイエスさま」。

juliaramalho.jpg

人形の横にはRRと掘られてある。何かしら優しげで可愛らしさがにじみ出ているところに作者の柄が感じられる。

さて、夫に、後で見ておいてと手渡されたダンボール箱の中身に、少なからず喜んだのでありましたが、さて、整理するのに一つ一つ作品を箱から取り出していると、中にもう一つ小さな古い箱がある。これもローザの作品かな?と思って開けてみると、出てきたのが↓

chicco.jpg

うは~、懐かしい!これは、ポルトガルの地を踏んで足掛け3年、行動的な息子を連れての初めて帰国の折、、空港内、うっかり目を話して息子をどこで見失うやも知れぬ、と言うので買い求めた幼児用の紐です。

どれどれ、とその箱を開けてみると・・・・ん?ん?っと、だんなさん・・・・若い頃のわたしが送ったごっそりの手紙ではありませぬか・・・

MIさんの手紙


航空便、絵葉書は留学していたアメリカのアリゾナから日本にいた後の夫へ、また他は日本での結婚後、日本からポルトガルにいた夫へ。宛名が日本語で書かれてあるのは、大阪から夫の留学先広島へと、どっさりの手紙の束・・・

大阪で知り合ってまもなく、わたしたちは大阪と広島、そして半年後にはアメリカと広島に、日本での結婚後しばらくはポルトガルと日本にと、当時は離れていることが多かったわたしたちでした。

アリゾナにいた頃は、3日にあげず、手紙を送ったもので、我ながら、なんとまぁ、ぎょうさん(たくさん)書いたことであろうか; 誤解をといておくと、内容はラブレターとは程遠いもので(笑)今で言うとアリゾナでの日々の日記、pcのない40年ほども昔のことで、つまりはブログの走りを夫に書き送っていたわけだ(笑)

夫、ご丁寧に全部取ってあるとは^^;いえ、今更、自分が書いたものを読むなんてこと、気恥ずかしくて、読みやしませんて(笑)

英語で学校教育を受けてきた我が子たち、「おっかさん、このスペルが間違ってる、この英語の言い回しが可笑しい」と英文レターの過ちを指摘されるのが関の山、こればかりは我が子たちに読ませてみたい、なぁんてことは思いませんですよ(笑)

夫め、ひょっとして証拠固めにと・・・^^;う~~ん、困った、いかに処分しようか・・・と、考えあぐねているのであります。と、こういうわたしも実は夫の古い手紙は取ってあるんだった(爆)

それぞれ、思いのあった手紙はなかなか捨てられずに30余年。どっかとポルトガルの生活に根をおろして、独りで生きてきたような顔をして、偉そうに一人前に夫に振舞うことも多い近頃、思いもよらず、目の前に姿を現した自分の書いた若い頃の手紙を目の前に多少戸惑いを覚え、ちょっとばかり反省しているのである。

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2017年4月13日

前回の我が愛犬、クラウディウにまつわる話です。2006年に書いた過去記事に少し手を加えました。
今日の記事は長いです。

しばらく前に、友人のゴッチが、「クラウディウのその後を知りたいなぁ」とメッセージがありました。「うん、近々エピソードであげるね」と言いながら、長い間、書かずに来てしまいまし。本心を明かすと少し辛い思い出もあり、それを超えるのに時間がかかったのです。

クラウディウと言うのは、わたしがポルトガルに来た27年前に出会った野良犬です。「ポルトガルの犬:我が友クラウディウ」に出てきますが、クラウディウは左目が少しつぶれているのと、左の口元から白い牙がかすかに出ている、いわゆる出っ歯でした。
 
名前の所以はローマ帝国皇帝の中で、体に少し不具合があったが故、最も皇帝らしからぬ皇帝と言われた「クラウディウ皇帝」にちなむのですが、我がクラウディウもとても皇帝の名からは程遠い、臆病な犬ではありました。庭無しの義母に家です、夜や雨 の日はベランダで休みますが、日中は外です。これがクラウディウを我が友にする際の義母との約束でしたからね。

息子のお産でわたしが4日ほど入院した時は、ほとんどエサも食べず、夫とわたしの部屋のドアの前に座りこんで、叱られてもガンとしてそこから動かなかったそうです。

退院して息子のジュアン・ボーイを腕に抱き家の階段を上りましたら、クラウディウが尾を振って待ち構えておりました。が、わたしの腕に抱かれている赤ん坊を見た瞬間、彼は悟ったのでしょう、「あのちっちゃなものが、若奥さんの大切なものなのだ」ということを。声をかけるわたしに擦り寄ってくるでもなく、スーッと席を外したのでした。
   
クラウディウのエピソードはたくさんありますが、なんと言っても忘れられないのは、「我が友クラウディウ」にある大晦日の出来事と次のハプニングです。

毎年夏になると、わたしたちは2週間をポルトガルの北部山中にある、ミネラルウォーターでも有名なPedras Salgadas(塩っ辛い石の意味)と言う保養地で過ごしました。そこは空気もよく、プール、テニス場、公園があります。ホテルを含む広い公園一帯が自動車乗り入れ禁止になっており、安心して散歩もできます。

この年はわたしたち親子3人と(モイケル娘はこの4年後に生まれるのであります)、夫の母も同行の休暇でした。

さて、クラウディウはどうする?当時はさほど心配もいりませんでした。もともとがバガブンド(放浪者)のクラウディウ、路上寝はお手のものです。すぐ近くに住んでいた義兄に夜呼び入れるのを、日中のエサは近所の人にと頼み、休暇に出かけました。

二週間後、夜8時ころに休暇先から帰って来、クラウディウを呼んだところが、エライことになっておりました。恐らくその日に起こったのでしょう、あちこち噛み傷があり出血して息も絶え絶え!荷をほどくのもそっちのけで、夫はすぐ自分の病院と薬局へ走りました。

麻酔薬、注射針その他を買い込んで来た彼、呼ばれてやってきた義兄を助手に、クラウディの傷口10数箇所を縫うこと、3時間!
何しろ、大事なタマタマちゃんまで、破れかかっておりましたです・・^^;
「んもう!いい歳して、きっと雌犬争奪戦に自分も加わったのね!ったく、男ったらしようがないんだから!」と、
一段落ついて後の皆の大笑い。
   
動物の回復力は素晴らしいものです。わたしたちの心配をよそに、クラウディウは見る間に回復し、傷も癒えて、またいつもの生活パターンに戻りました。これ以来、夏の2週間の休暇は、申し訳ないが義母が家に残ることとなったのでした^^

それから4年、この間に我が家にはもう一匹、ルルと言う捨て猫がペットとして加わり、モイケル娘が誕生」しようとしていました。

義母の家はモイケル娘が生まれることで手狭になり、わたしたち親子は同じ通りの20数メートルほど先にある庭付きの古い借家へと引越しすることになりました。

ところが、家猫のルル、庭があると言うのに庭へ出るのを怖がり、とうとう死ぬまで一度も庭へ降りることはありませんでした。
クラウディウに至っては、これでやっと自由に家で飼えると思ったのに、なだめてもすかしても、これまた新しい住居の庭にはテコでも入ろうとしません。結局義母の家で夜寝るという、これまでの習慣通りにすることにしました。

そんなある日のこと、保健所が再びやってきて2匹の野良犬を捕獲して行った、そのうちの一匹がまたしてもクラウディウということが分かりました。ドンくさい犬なのです・・・

その日の夕方、夫はわたしたちの区域マイア市の保健所へ出かけ、クラウディともう一匹、この通りではお馴染の大型犬で、向かいの人が可愛がっていた野良犬が捕獲されたのを知ったのでした。

このとき、初めてわたし達は、クラウディウを我が家の犬として登録することにしました。かなりの老犬だということで、もう予防接種も不必要だと言われ、翌日、引き取りに行くことになりました。

翌日、夫が引き取りに行ったところ、保健所の言うことには、夜のうちに二匹の犬が入れられていた檻のドアが、何者かによってこじ開けられ、犬の姿はなし。してみると、クラウディと一緒に捕まったと言うお向かいのお気に入りの大型犬、いつの間にか、ちゃんと帰っているではないか!そんなバカな!・・・

夜中に保健所に忍び込み、檻のドアをこじ開けたのは一体誰か、一目瞭然。それならば何ゆえ我がクラウディウも一緒に連れて来なかったのか。人を恐れる犬でしたから、怖がって自ら逃げたのかも知れません。

その日から、わたし達は幾度も機会を見てはマイア市まで出かけて行き、保健所のあたりを車でグルグル回っては、クラウディウの姿を目で探しました。近所の人が、「あの辺りで見かけた、この辺りで見かけた」と言う話を聞いては、出かけて行き、行方を探したものです。

その年の冬が来て、春が来て、夏が来・・・いつしかわたし達は探すのを諦めてしまいました。
   
フランスの「ラ・フォンテーヌ」の寓話集に「狼と犬の話」があります。
   
骨と皮とに成り果てた狼は肥えた番犬に出会う。犬は狼に言う。「一緒に来ないか。ずっと楽に暮らせるよ」 
狼は一時、幸福を夢見て犬に従うが、ふとその首筋に禿げたあとを見る。
訊ねると、「なに、つながれている首輪のあとさ。」
「つながれて?それではお前は好きなところへ走っても行けないのか?
どんなご馳走ずくめでも、俺はごめんだ」
狼はそう言うなり逃げ去った。

クラウディウの思い出は、すっかり遠い懐かしいものになってしまいましたが、その最後を思う時、わたしの胸は今でもキリッと痛むのです。しかし、ラ・フォンテーヌの狼の話を思い出し、野垂れ死にもまた、自由であったことの代償であろう、と自分の気持ちを少し誤魔化すことにしています。

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2017年4月11日

前回話に出ました「クラウディウ」という犬について今日は書きます。もう38年も昔の話になります。

ポルトガル語も分からず、英語もほとんど通じない環境で、しかも当時は夫の家族である、義母、その姉二人、つまり3人のお年寄りとの同居でありました。 いやぁ~、この6年間はもう大変なものでありましたよ。今日のわたしの隠された我慢強さ、したたかさはこの同居時代に培われたものと自負してますです^^ おっと、話がついそちらの方に流れそうだ。

さて、日本人が一人もいなかったそんな環境での明け暮れでした。近所の5、6歳の子供たちに「ファシスタ!」とののしられていた老犬が路上で寝ているのを表通りに面したわたしたち夫婦の部屋のベランダから毎日見ていたのでありました。今と違って当時はのんびりしたものです。ねの通りは5、6匹の野良犬が道路のあちこちでゴロ寝している光景は当たり前でした。

老犬は小柄でビッコをひいており、右側の牙が少々突き出ていて、見るからに醜い。「犬だってイジメの対象になるのは、こんなのなのか」と思うと、当時の自分の孤独感も手伝って、俄然わたしはその犬に近づき始めたのです。

初めは近づくわたしを恐れて、逃げ隠れしていた老犬が次第に警戒心を解いていき、やがてわたしが玄関口で、「ヒューッ!」と口笛を吹くとすぐやってくるようになりました。それからです、庭がないからだめだ、と嫌がる義母さまを説き伏せ(ん?言葉がわからないのに、どうやって説き伏せた?そりゃぁ、あなた、身振り手振りですよん^^)、義母さま、ついに根負けして、「じゃぁ、日中は外、夜寝るときは仕方ないベランダ」ってことに相成りましてね。

「ヤッター」の気分のわたし、名前は迷うことなく、ローマ帝国の歴史上、小柄でビッコをひきもっとも皇帝らしくないと言われた
「クラウディウ皇帝」からいただいて、「クラウディウ」と名づけたのでした。

忘れもしない、わたしがポルトガルに来た年の12月31日。その日の夕暮れ時、いつもなら飛んでくるはずなのに、いくら呼んでもクラウディウは現れず。すると、近所の人が、「午前中保健所が犬捕りにやってきて他の犬たちはみな逃げたのに、クラウディウだけはその場にうずくまってしまい、網にかかってしまい連れていかれた」と言うではないか!

孤独な異国での生活で初めて心を通い合わせた相棒です、半ベソをかいて夫になんとかしてくれと泣きつきました。夫が保健所に電話で問い合わせしたところ、すでに病院送りになったとの返事。 「病院ってどこの病院?サン・ジュアン病院!あなたの病院じゃないの!」

日も落ちかけた大晦日、わたしは夫とともに人がいなくなった病院の実験薬殺用の犬たちが入れられている檻のある棟に忍び込みました・・・

建物と続いて周りが高い網でとりかこまれたその大きな檻には何十匹もの犬たちがうろうろ不安な眼をして動き回ったりうずくまったり。それは心の痛む光景でした。

「こんなたくさんの犬の中に本当にクラウディウはいるのだろうか」と思いながら低い声で必死に叫びました。「クラウディウ、クラウディウ」

やがて檻のずっと奥の方からヨロヨロと出てきたクラウディウはわたしたちを見るなり喜び吠えです。しかし、どうやって檻から出すのか?・・・・・ すると、あった!犬が逃げようと試みでもしたのだろうか、網の一部が破れてる!夫が素手でそこをこじあけこじあけ、やっと小柄なクラウディウが出られるくらいの大きさに押し広げ、ついにクラウディウを抱き上げたわたし達は、外に止めてあった車に押し込め、逃げること一目散!

破られた網に穴から他の犬たちも逃げたのは言うまでもないでありましょう。あとは野となれ山となれ。いずれ殺処分されるであろう犬たちへ、大晦日の贈り物だい!

そうして自宅へ着いたわたしたちも、そして車も、檻の中でウンコまみれになっていたクラウディウの匂いがしっかりついていたのでした。1979年12月31日大晦日のハプニングでした。

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