プロローグ
2004年に我が最初のホームページで、記憶が薄れないうちにとの思いも
早まり、書くに任せて一挙に綴った「あの頃、ビアハウス」のエピソードを
今回は順を追って少し書き直してみようと思います。古い写真も現在持って
いるデジカメで新たに撮り直し、カテゴリも新規にしました。

歌っていた当時は意識していませんでしたが、梅新アサヒ・ビアハウスが
大阪では老舗も老舗、当時の関西経済人や文化人が毎夜集った最古のビア
ハウスであり、その全盛期に自分は身を置いていたという幸せを今にして
じんわり感じています。

「あの頃、ビアハウス」登場するのは彼らの多くが今では鬼籍に入ったで
あろうと思われる当時の愉快な常連さんたちです。わたしのところには今
でも時々「あの頃のビアハウスを知っています」「通っていました」と見
知らぬ方からメールが舞い込んで来ます。

その人たちにも鮮明な姿を刻んでいるかつての常連さんたちを身近に見て
きたわたしが書かずしてなんとする?それが書き直しの理由です。
稚拙な文章で書き足りないところもあるでしょうが、アサヒビアハウスを
通して人生の楽しみ方、お酒の飲み方を教えてくれた我が恩師たちでもあ
るかれらを、そして、多くの人たちが知らないであろう、あの頃、ビアハ
ウスで歌われていた古き良き時代の素敵な歌歌を併せて、我が記憶を紐解
きながら一人ひとりに登場していただこうと思います。

では、アサヒビアハウスとの出会いから、題して

2014年2月20日 「サン・トワ・マミー」
 
人は、それが苦しいことであれ楽しいことであれ、それぞれの人生に「と
っておき」の話を持っているものだ。わたしがここで取り上げていく話は
自分のをも含めて、「ねね、あのさぁ。」と、ちょっと人に披露してみた
いと思ってきた1975年からのビアハウスでの出来事である。
  
大阪梅田新道(通称梅新)の交差点の一角に同和火災ビルと言う古い建物
があった。今ではそのビルは建て替えられ、同和火災フェニックスタワー
と名を変えて見るからにモダンな姿に変貌したが、かつては重厚さと威厳
をもった大理石仕込みの古いビルであった。

そのビルの御堂筋側に面した小さな入り口をくぐり、階段を地下へ降りて
いく。すると、大きな重いガラスドアの向こう側に「梅新アサヒ・ビア・
ハウス」の世界があった。

アサヒビアハウス
1970年代、梅新アサヒ・ビアハウスの地下階段への入り口にて。バイ
ト出勤寸前。誰がこの写真を撮影してくれたのか覚えていない。入り口で
常連さんにでもひっつかまったかな?オフィスはここから歩いて7分ほど
の場所にあった。


わたしがそこに足を踏み入れたのはホンの偶然からだ。
当時勤務するオフィスは北新地にあり、わたしも若かったのと一人暮らし
だったのとで(ポチというネコを飼ってはいたがw)、会社が退けてから
毎晩のように誘いにのって上司や同僚たちと一緒に周辺の盛り場へ繰り出
していた。お代はというとか弱き若い女性が二人であるので(同じオフィ
スの気があった女性同僚。わたしたちは事務仕事の最良コンビと言われて
いた)殆どの場合、男性たちがもってくれたものだ。

アサヒビアハウス
雑然としたオフィスだが楽しい職場ではあった。


アサヒ・ビアハウスはそんなある夏の夜にわたしたちが何気なしに流れ込
んだ会場だったのである。
地下への階段を降りてドアを開け一歩足を踏み入れるや、ワイワイガヤガ
ヤと客たちの喧騒と熱気がドッと体にぶつかって来た。店内は一通り見渡
せるが少し薄暗い。初めてだったので、ホールの端にある分厚くて古い木
製のテーブルにオフィス仲間のわたしたち6、7人は遠慮がちに陣取り、
生ビールを飲みながらいつもの如く判で押したように会社の諸々の話で盛
り上がっていた。

やがてホール中央の壁よりにある小さなステージに二人の男女が上がった
と思うや、いきなり始まった音楽は随分と威勢がよい。アコーディオンと
リズムボックス、それにドイツ風の民族衣装をつけてハットをかぶった歌
姫が一人、まずはドイツ語で「乾杯」らしき音頭のイントロを始めに数曲
を歌った。
  
そうしているうちに、待てよ?と注意してみていると、歌い手に名前を呼
ばれては店内のあちこちの席から客が立ち上がり、ビア・ジョッキを片手
にステージに上がって歌いだすではないか!歌姫はといえば、3曲ほど歌
っただけだ。カラオケなどまだなかった時代、アコーディオンの「生オケ」
を伴奏に後半のステージは歌う客たちの独壇場であった。 

「おもしろい、これは愉快だ!」と、飲むほどに俄然気が大きくなり陽気
に騒ぐ我がオフィスの飲み仲間達。客も容易に歌えると思ったのか、
「おい、ゆうちゃん、おまえも歌え!」との彼らの言に、お酒が入ると調
子に乗ってしまうわたしは、仲間のリクエストに応えんがため、かくして
初めて人前でマイクをにぎったのである。

「歌謡曲、演歌はだめです!」と歌姫嬢。
「あの・・・この歌、弾けますか?」
  
♪ふたりの恋は おわったのね
 ゆるしてさえ くれないあなた
 さよならと 顔も見ないで 去っていった男の心
 楽しい夢のような あの頃を思い出せば
 サントワマミー 悲しくて 目の前が暗くなる
 サントワマミー
           
サルバトール・アダモの「サン・トワ・マミー」である。
わたしは人前で歌うことはなかったが、テレビを持たなかった当時、小さな
自分のアパートにいるときは、バカの一つ覚えのアルペジオでギターを伴
奏に、時間のたつのも忘れて歌いったものだ。毎月の給料でカキカキの生
活だったが、わたしにとって歌は聴くことも声をだして歌うこともお金のかか
らない大きな心の慰みだった。
  
歌い終わると客席から大きな拍手と歌のお礼にもらったジョッキ一杯の生
ビールを手に仲間のテーブルに戻ったわたしは少し上気した顔であった
ろう。規模が小さいとは言え、なにしろ生まれて初めてステージなる場に立
ち、聴く人を前にして歌ったのであるから。
   
「サン・トワ・マミー」はアサヒのアコーディオニスト、ヨシさんの伴奏でわたし
が歌った初めての歌であり、これがアサヒビアハウスとの出会いであった。

アサヒビアハウス

いつも笑顔のアコーディオンのヨシさん。

下記、アダモが日本語で歌っています。


にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
テーマ:音楽
ジャンル:音楽
2014年2月25日 

会社の仲間と偶然流れ込んだ梅新「アサヒ・ビアハウス」の雰囲気に、わたしは一度ですっかり魅せられた。夏場ともなると満席になり、脚の高い小さな丸テーブルを囲んで飲む立ち席ですら隙間がないくらい盛況な当時のビアハウスだった。

私たちオフィス仲間が最初に行ったのがそんな時期で、ホールが最高潮になると、アコーディオンのビアソングに乗せて「むかで行進」が始まった。むかで行進は、前の人の両肩に後ろの人が両手を置き一列に並んで行進するのである。

アサヒ・ビアハウス
オフの日にビアハウスに遊びに行ったときのムカデ行進。後ろが我が親友、みちべぇ。その後には当時のAB社のおエラいさん、故高松氏、そして常連の杉やんと続く。ムカデ行進の音楽は「ビア樽ポルカ(ロザムンデ・ポルカとも言う)」を中心に数曲続く。(後記に案内あり)

ムカデ行進のトップに立ちタンバリンか角笛を持って座って飲んでいる人たちをこの列に誘い込むのは歌い手か常連の一人の役割だ。最高潮時には全員がムカデ行進に加わり店内の席を取り囲むようにして長蛇の列の輪ができ、気がつくと誰一人として席に座っている客がいなくなるほどだった。この最高潮の夜にわたしは初めて行ったのであった。見知らぬ客同士がビールと音楽を通じてひとつになるわずか数分の一体感であるが、これは本当に楽しかった。初めての客の多くはこのムカデ行進でアサヒ・ビアハウスの虜になる。わたしもその一人で、いつの間にか女だてらに度胸よく、一人で顔を出すようになった。

さて、女一人の出入りが珍しいことが手伝ってか、しばらく通ううちにまもなくフリーパスの常連にわたしはなった。と言うのは、ビアハウスへ行けば払わなくても生ビールを飲めるようになったということである。
  
なに、もう時効だから種を明かしてしまうと、当時の店長、塩さんやその他、立ち飲み席にいる常連さん達がおごりで差し入れてくれたのでした。(笑)そのお礼として常連のリクエストに答え、わたしはいつも「サン・トワ・マミー」を歌ってお返しをしていたわけで。
そのうちに、店長の塩さんと歌姫宝木嬢にスカウトされた形で、いつの間にかわたしは週に三回、6時半から閉店の9時まで、会社が退けた後アサヒ・ビア・ハウスの小さなステージで歌うことになっていた。

しかし、わたしがそこで歌うように要請されたのは、当然であるがこれまで自分がほとんど耳にしたことがない、しかもドイツ語の歌である。
どうする?英語ならなんとかなりそうだが、ドイツ語など、まして歌の基礎を習ったことなどないわたしにできるのか?楽譜は読めるし音感がいいのでメロディーならすぐ覚えられるが・・・今ならさしづめ、ネット検索してカタカナ読みで誤魔化しもきくだろうが、当時のコンピューターと言えば、我がオフィスの本社にあったようなアナログコンピュータがせいぜいであった。与えられたドイツ語の歌詞を手にわたしは正直、途方にくれたものだ。

アサヒビアハウスへ遊びに行く度に、歌い手の宝木嬢が歌い、ホールの聞き手が大いに盛り上がる好きな歌があった。

♪ダス・ギブツ・ヌア・アインマル
 あこがれの楽園に  夢見る喜び
 ただ一度  二度とない あわれ そは夢か
 春の日はただ一度  春の花もひととき


1934年のドイツの最高傑作と言われる「会議は踊る」の主題歌「ただ一度の贈り物」である。ナポレオン敗退後のヨーロッパをどのようにまとめていくか。オーストリアの名宰相メッテルニッヒが諸国の代表を招いて開いた、「会議は踊る、されど進まず」と言われるウイーン会議を舞台にしたオペレッタ映画である。
その会議に出席するため、ウィーンを訪れていた若きロシア皇帝・アレキサンダー1世に市井の人、手袋屋の娘クリステルが、皇帝差し回しの素晴らしい馬車の人となって皇帝の別荘へ向かいながら喜びを絶唱する、その時の歌が、

♪ヴァイン イヒ ラッハ イヒ
Wein' ich? Lach' ich?
トロイム イヒ ヴァッハ イヒ
Träum' ich? Wach' ich?
ホイ(ト) ヴァイス イヒ ニヒ(ト) ヴァス イヒ トゥー
Heut' weiß ich nicht was ich tu'.  


で、始まる「Das gibt's nur ein mal(ダス ギプツ ヌァ アィンマル)」、ただ一度の贈り物だ。

アサヒ初代歌姫こと我が先輩、宝木嬢が歌ったこの心躍る楽しい歌を彼女の雰囲気に併せてネット検索してみたのだが、どれも違う。一件のみ、比較的似たのがあったので後記に。
  
「ただ一度、二度とない、春の日はひととき、春の花もひととき」
人生もまたこの歌の如くであり。ただ一度の人生をこの歌のようにわたしも目一杯生きてみよう、せっかく転がり込んできた歌姫のチャンスだ、やってみようと単純なわたしはそう思い己を激励して引き受けた。
  
20代も後半、わたしはドキドキする胸の動悸を抱いて梅新アサヒ・ビア・ハウスの歌姫デビューをしたのである。
アサヒ・ビアハウス
歌い始めの頃、大先輩宝木嬢と。民族衣装を用意するお金なく、手持ちの服で了承してもらってました。ひどいなこのカッコ

さて、最後にこの「ただ一度の贈り物」についてもう一言。
宮崎駿氏のアニメ作品「風立ちぬ」の中で、この歌が使われているそうです。映画の中盤、軽井沢のホテでドイツ人がピアノを弾くシーンでこれが出てくるとのこと。下に歌を案内。宝木嬢が歌ったのと感じが少し違います。こう言っては何ですが、彼女の「ダス ギプツ ヌァ アィンマル」は本当に素晴らしかったです。



こちらは、アサヒビアハウスのムカデ行進のBGM。少し古そうですがこれがあの頃の演奏に一番近い。


梅新アサヒ・ビアハウスで歌うことになったいきさつが終わったところで、次回から愉快な常連さんたちにご登場願います。
では、みなさま、また!


にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
テーマ:音楽
ジャンル:音楽
2014年10月5日 

日本への一時帰国を目前にした今年4月の終わりころ、少し分厚い印刷物が届けられた。封を切ってみると一冊の写真エッセイ集であった。「ケラー・サロン 30周年記念集」と題されている。

梅新アサヒビアハウス

そうしてみれば、と思い当たったことは、昨年の終わりごろにN氏と言う見知らぬ方からメールが入り、「旧同和火災ビルのアサヒ・ビアハウスのことを調べたくて検索していたところ、あなたのサイトに行き当たった。ついては、2014年のわたしたちの同好会、ケラー・サロン30周年記念集を発行するに当たり、是非、ギャラリーに掲載されているかつてのアサヒ・ビアハウスの写真を提供してもらえないか」とのことだった。

30周年と言うと、わたしが日本とビアハウスを後にしてポルトガルへ来た6年後にできた同好会と言うことになる。メンバーにわたしが知っているあの頃の常連客数人の名前が見られた。当時の梅新アサヒ・ビアハウスには、特別室があり、そこは同好会などの定例会会場として貸切になり、アコーディオンの吉(ヨシ)さん、先輩歌姫の宝木嬢と一緒に、ステージの休憩時間に席を盛り上げるためにその部屋でときどき歌ったものだ。マイクなしである。

サロン・ケラーはわたしも知っている、当時は某大学病院で執刀していた中川先生が主催していると言う。中川先生は1970年代にドイツ留学し、本来はクラシック音楽愛好家であったのが、どうやらそのドイツでビアソングの楽しさに触れられたようだ。ビアソングのファンになったのは、帰国して我が先輩歌姫、宝木嬢の歌う梅新アサヒ・ビアハウスに出会ってからだとエッセイに書かれている。わたしが宝木嬢に一緒に歌ってみないかとスカウトされて歌い始めたのは1975年だから、丁度同じくらいの旧アサヒ・ビアハウス歴を持つことになろうか。

梅新アサヒビアハウス
我が青春の梅新アサヒ・ビアハウス入り口

そのような申し込みで、もちろんどうぞどうぞ、お好きなだけ持ってってください、と返信したのであった。我が青春の同和火災ビル地下にあった梅新アサヒ・ビアハウスは、その後ビルの改築でふ「フェニックスタワービル」と名を変え、その地下に「アサヒスーパードライ梅田」として現存している、(恐らく日本で)最古のビアハウスだ。わたしが歌っていた頃と内装はすっかり変わってしまったが。

下が、記念誌ゲスト参加として掲載されたわたしの大切な写真なのだが、見開きページにぎっしり使っていただき、嬉しいかぎりだ。
 
      梅新アサヒビアハウス
    画像をクリックすると拡大写真が見られます。

右ページ、ステージで座り込んでマイクを握っているのは今では30歳を過ぎた我が「東京息子」。一時帰国の際にも時々わたしは歌っていた。写真には今は亡きアサヒビアハウス高松社長、高橋店長の姿も見られる。

ケラー・サロンで歌った曲目リストを見るにつけ懐かしさがこみあげてくる。わたしは声域の関係でソロでビアソング、ドイツフォークソングの全てを歌うことはできなかったが、これらの中にはわたしの持ち歌もあった。

梅新アサヒビアハウス

「Du Kannst nicht true sein(お前は浮気者)」、「Trink, trink, Bruderlein(trink=飲めよ)、「Lustig ist das Zigeunerleben(さしらいの旅は楽し)」、「Lili Marleen(リリー・マルレーン)」などがそれだが、宝木嬢と合唱する曲は「Schnee walzer(雪のワルツ)」「Schone Maid(美しいお嬢さん)」、「Rosamunde」など、どれも歌って実に楽しい曲であった。(ドイツ語のアクセント記号は付けていないことをお断りしておく)
そんな訳で、ブログに移動しようと決めた「あの頃、ビアハウス」、2エピソードをアップしただけでそのままにしていましたが、おいおい、こちらに載せるつもりでいます。
下記にて、旧梅新アサヒ・ビアハウスで歌われた愉快な曲をいくつか紹介して、本日はこれにて。

♪雪のワルツ


♪ミュンヘンのホフブロィハウス


♪Du Kannst nicht true sein
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2014年10月6日 

1970年代も後半、わたしが心密かに「人生のるつぼ」と呼んだ大阪、梅田新道にあったアサヒ・ビアハウスでのできごとをレトロ感覚で綴ります。2005年くらいに書いたものに手を入れ写真を加えて書き直してみました。今日は「六甲おろし」が持ち歌の杉ヤンの話です。

1970年代の梅新ビア・ハウス夕方6時半ともなると、ホールは満席になるほど、盛況であった。常連が多く、明らかに彼らがビアハウスの雰囲気を盛り上げる一端を担っていた。その常連はと言うと二組に分かれていた。毎日欠かさず通ってくる「毎日常連」と、決まった曜日に来る「曜日常連」である。彼らはみなそれぞれに一曲だけ持ち歌があり、ビア・ハウスに来る客の中には、歌姫のよりも彼らの歌を聞くのを楽しみに来る客も多いのである。

tachiseki.jpg
↑知る人ぞ知る小さな丸テーブルを囲むアサヒ常連の立ち飲み席。どこの店でも常連の席を確保するものであるが、アサヒでは常連自ら立ち飲み席を陣取る。

さて、野球のシーズンともなれば、ビア・ハウス内のそこここで、タイガースファンこと「トラきち」(タイガース気狂い)が席を陣取ることになる。みな口角泡とばし、贔屓チームの持論を振り回すのである。このシーズンは毎日常連の杉ヤンの出番である。

アサヒビアハウス
体を前後に揺らしてリズムをとり、声張り上げて応援歌を歌う杉やん。

杉ヤンは仕事が退けたあと、自ら一日の労をねぎらうために、毎夕帰途にあるこのビアハウスに足を運んで来る常連の中の常連で、自他ともに認める「トラきち」である。
 「杉ヤン、六甲おろし、行け!」
場内の興もたけなわになったころ、ヨシさんのアコーディオンが杉ヤンを呼ぶ。
     
♪六甲おろしにさっそうと
      そう天かける日輪の~
      
  で始まり、
♪お!お!お!おー、阪神タイガース
      フレーフレフレフレー
    
場内は沸きに沸く。すると、「六甲おろし」の直後に、すかさず出てくるのが対抗歌「巨人の星」の主題歌 「行け行け飛雄馬」だ。
     
♪思い込んだら試練の道を
  行くが男のど根性
  真っ赤に燃える王者のしるし
  巨人の星をつかむまで~

どこかに必ずいるものです、巨人ファン。オー!オー!とあちこちで気勢があがり、場内はまさに総立ちの景観。これを見ては、映画「カサブランカ」において、ハンフリー・ボガード扮するリックの酒場でナチ将校たちが歌うドイツ国歌に負けじと、反対のコーナーからフランス人達がいっせいに「ラ・マルセーズ」を歌い、火のような対決の二つの合唱がかちあう場面をわたしは思い出してしまいます。

後年、よくその場面を思い浮かべては、わたしは古き良き時代の梅新ビアハウスに思いを馳せる。「六甲おろし」と「巨人の星」は、わたしの中の「カサブランカ」にも等しいのである。 
ついでに付け加えると、この杉ヤン62歳にして、2003年にタイガース応援歌、「みごと優勝!ザ・タイガース・オンド」を歌ってテイチクからデビュー!30年ただ一筋に「六甲おろし」を歌ってきた甲斐があると言うものです。
 
いや~、人生ってこれだから面白い!
アサヒスーパードライ梅田に行けば、今でも杉ヤンに会えると思います。

下記、Youtubeより「六甲おろし」


あの頃、ビアハウス Episod 1 はこちら
             Episod 2 はこちら

最後までお付き合いいただきあがとうございました。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2014年11月8日

「キンタ・デ・アヴェレーダの」の続きはもうしばらくお待ちください。ただ今、写真の整理をしています。
今日はわが大阪での青春時代、「あの頃、ビアハウス」のエッセイを。
 
アサヒの常連多しと言えども、続けて2曲歌わせてもらえるのはこの方だけです。しかも、最後の第3ステージ、ゲストシンガーの「トリ」です。

♪あきらめましょうと 別れてみたが
  なんで忘りょう 忘らりょか
  命をかけた恋じゃもの~

沢田先生は歯医者さんでした。仕事を終えた後、毎晩毎晩アサヒビアハウスにおいででした。
ビールは一杯かニ杯です。身長154cmのわたしよりお小さかったです。
ハウスの入り口近くのテーブルにいつもひとり静かに座って、ビールをすすっていらっしゃる(笑)
あまりおしゃべりしない方でしたが、こと歌となると、「あんたな、ちょっとここへ来て座りなはれ。」と呼ばれ、「あんな(あのな)、」と、わたしは時々こっぴどく意見されました。

korokke.jpg
ステージで歌う沢田先生

常連さんの出番では我が先輩歌姫、宝嬢が「○○さん、お願いします」と名を呼んで指定するのですが、その必要がないのです。アコーディオンのヨシさんの弾くイントロが鳴ると、まるで全てが最初から打ち合わせてあるかのように、座っていた席を立ち上がり急がず慌てずゆっくりとステージに向かってホールを歩んで行きます。そして、常にイントロが終わりタイミングよく歌が始まらんところでステージにあがり、

「あーきぃいらぁめぇまぁしょおと~(あきらめましょうと)」が始まります。

常にタイミングよく、というのは、長年の経験で常連歌い手と息を合わせることにかけては、抜群の腕を持っているアコのヨシさんの人知れぬ配慮なのです。
沢田先生はこの歌では一番しか歌いません。すぐ「コロッケの唄」が続けられるのです。

♪ 嫁をもらって うれしかったら
  いつも出てくるおかずは コロッケコロッケ
 今日もコロッケ 明日もコロッケ~~
 
「明日もコロッケ~」の後に実はここで文字では表現不可能な愉快な笑いが入るのですが、沢田先生、ここが実にうまい!もうここで、お客さんから大拍手を受けます。

沢田先生の歌い方は堂にいったもので、もしかしたら若いとき歌手の道を目指したことがあるのかな?とわたしは何度か思ったものです。それならば、「あんたな、ちょっとここへ来て座りなはれ。プロを目指すならステージではこんな風にやな」と、ご意見いただいたのはうなづけるというものです。

ビアハウスで歌うのがただ楽しくて、それをバイトに出来、しかもアメリカ行きの自分の夢をかなえるための稼ぎになる、それで十分だったわたしです。自分の歌は自分が一番よく分かっているのです。プロ歌手になろうなどと毛ほどの思いもなかったのですから、先生にしてみたら暖簾に腕押しだったことでしょう。

わたしがポルトガルにいる間にアサヒビアハウスは改装され、その後一度もお名前は耳に入ってきませんでした。改装後のビアハウスは旧アサヒビアハウスの常連の歌が聞けるという慣習もなくなったと聞きます。あの頃ですでにお歳でしたから、あるいは今頃、あちらの世で自慢の喉を披露し、あちらの皆様をうならしているかも知れないな^^

今日もコロッケ、明日もコロッケ。この唄を思い出すにつけ、日本のコロッケがいかに繊細に、美味しくできているかを、わたしは異国に住んでつくづく思ったものです。

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
Click for Porto, Portugal Forecast 
ポルトガル ポルトの口コミ
ポルトガル ポルトの口コミ にほんブログ村 外国語ブログ マルチリンガルへ
にほんブログ村