2017年4月21日 

幼い息子とわたしがかつて滞在したことがある木造の母屋は雨戸が閉められており、戸板はかなり傷んでいて廃屋です。

わたしに劣らずネコ好きな宝木嬢です、常に5、6匹は居候していた広い庭も荒れ放題です。母屋のすぐ後ろにあるモダンな玄関を持つ離れに足を運び、ひょっとして老人ホームに入っている可能性もあると考えていたので、いるかな?と思いながら呼び鈴を2、3度押しました。

しばらくすると、「ちょっと待ってね」と家の中から声が聞こえます。紛れもない宝木嬢の声です。じっと待つこと数分、ドアが開けられ白髪のパジャマ姿に杖をつく彼女の姿が目の前にありました。

「こんにちは。宝木さん、わたしを覚えていますか?」
かけていたサングラスを外しながら言うと、「え、ソデバヤシさん!」と大いに驚いた様子です。上がりかまちを上がるとすぐがリビングになっています。

昔から整理が苦手な彼女です、相変わらず者が散在しており、リビングの真ん中にある大きなテーブルはなにやかにやで一杯です。わたしが滞在した間は、せっせと家の中を磨き、後片付けをしていたもので、「ソデバヤシさん、あれはどこやの?」と言うことがしょっちゅう。一体が誰の家だったのか(笑)

母屋にあったピアノはそのリビングの隅に置かれ、3匹のネコが椅子を占領していました。

何度電話をしても通じないので、こんな風に突然の訪問になってしまったとのわたしの話に、宝木嬢、
キョトンとしております。そのうち、電話番号が変わったかなぁ、などと言い出しましたが、変わった電話番号も覚えていません。

なにやかにやで一杯のテーブル、その中に携帯電話があるのが目に付きました。ははん、なるほど、携帯があるとなると固定電話は恐らく必要なくなったのであろう。 これは多分、あまりああだこうだと、物事をしつこく聞いたりしないほうがいいのではないかと思い始め、仕方がない、電話番号の件は諦めたのでした。

同居人のマックの姿が見えないので、「マックは今日お出かけ?」と問うと、「マックは去年の11月に亡くなりました」

え!予想もつかなかったその言葉に一瞬言葉を失ったわたしです。なにしろマックと言えば、のらりくらりと定職にもつかず、趣味で絵を描いてみたりピアノを弾いてみたりと好き勝手な暮らしをしていた彼をわたしも周囲も知っているのですから、言うなればマックはジゴロであるよ、と宝木嬢の手前、皆、口には出さねど、心中そう思っていたはずです。

わたしと息子が数ヶ月滞在した間には二人の口喧嘩も耳にしており、宝木嬢も時にお手上げ状態がなきにしもあらず。何度か別れ話に及んでも結局また元の鞘におさまるという関係でした。

もはやマックの好き勝手なジゴロ生活を支える余裕がなくなったであろう宝木嬢です、一回り以上の歳の差も気になります。わたしが今回訪れたのには、ひょっとして、宝木嬢、彼からムゲな扱いを受けてはいないだろうかとの懸念があったからです。
それが、なんだって?マックが先に・・・・享年65才。

「周りからは奇異な目でみられるけれど、音楽や絵の話もできるし山登りも共通の趣味やし、ボクは宝木さん、好きやねん」
と、弁解でもするかのように聞かされたことがあります。その時は、エディット・ピアフと20歳も年下の夫、テオのことを思い出し、「いいやないの、それで」と、答えたものだが、病身のピアフに献身的で、彼女の死後ピアフが残した借金を全て返済したというテオを考えると、ジゴロもどきのマックを見るにつけ、なにやら徐々に心配になっていたのが本心でした。

去年11月の、とある金曜日に入院し月曜日にはみまかったと宝木嬢、何の病気だったのかと聞いても思い出せない様子で、ショックであったろうに、わたしはここでもしつこく問いただすのは止めました。

週に何度か介護支援の人が食事を作りに来、デイケアサービスも受けている84歳の宝木嬢、パジャマ姿でいたものの、両手の指には大きな石がついた指輪をはめていました。ビアハウス時代から宝石好きだものね^^

恐らく、彼女は長年のビアハウス常連でよく知っていた一人、コジマ氏がしばらく前に鬼籍に入ったのを知らないであろう、一人、また一人と、あの頃の懐かしい面々が去っていくのを目の当たりにするのはどんな思いであろうかと、少しは想像できる年代に入ったわたしである。そっとしておくことにしました。

息子と娘の写真を見せながら彼らの近況を知らせ、長居は無用、かえって宝木嬢を疲れさせるであろうと腰をあげました。転ぶと危ないから見送らなくてもいいというわたしを、「山登りで足腰を鍛えてきたんだから」と、杖をついて庭まで出てくれた宝木嬢、遠国に住み何もしてあげられないもどかしさと、これから先の彼女のことに後ろ髪を引かれる思いで三宝町を後にして来ました。

恐らく返事がこないであろうが連絡の手段は手紙にしよう、そう思っています。

最後に、マックが生前わたしにくれた彼の父御の死を悼んで編集出版した昭和の時代を語る写真集の一部を紹介して、わたしのマックへのレクエイムにしたいと思います。表紙の編集者の名前から分かるように、マックとは「牧雄」に因みます。

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2002年発行

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祖母が来た日

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まんがとテレビの夜

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紙芝居

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紙芝居

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三ノ宮駅

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水辺

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春の庭(幼児期のマックであろうと推測)

昭和の残像を心に刻みながら、同時代を生きたマックよ、さらば。

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2017年4月20日(木)

日本からポルトに戻りました。日本滞在記は後日ぼちぼちと綴って参りたいと思います。

今回は大阪に気になることがあり、どうしても行かずんばなるまいと数年ぶりに行って来ました。
それ故、故郷の弘前へは時間的経済的に余裕なく、訪問できなかったのですが、シマ、タコ君、もし、このブログを読んでいたとしたら、許されよ。次回は必ずと思っています。

今日は、その、気になっていた大阪は堺でのことを書いてみたいと思います。

ポルトガルに来て以来、近況を報告がてらご本人の様子を知りたいと思い、時折、国際電話をかけて話していた、梅新アサヒビアハウスでの歌姫バイト時代の先輩、宝木嬢がいます。

息子が2歳、5歳の時は、帰国して所沢の妹宅から堺の宝木嬢宅に移動し、数ヶ月も親子で滞在したことがあり、子どもがいない彼女は「ジュアン君、ジュアン君」と随分と息子を可愛がってくれたものでした。

それが、日本語教室の仕事やボランティアの影絵上映、日本文化展示などでポルトでの日常生活が忙しくなり、この2年ほど連絡をつい怠ってしまったのでした。これはいかん!と思い出し、宝木嬢宅へダイヤルを回したところが、何度電話を試みても、その電話番号は現在使われていないとの電話局のアナウンスです。

当時のビアハウス時代の知人たちを介して訊ねてもらっても、どうも近年は宝木嬢との付き合いが途絶えたようで、ハテ、どうしようかと思っていたのです。和歌山にアトリエを構える木彫家である我が親友のみち子は堺市に住むのですが、彼女ともここ数年会っておらず、今回の帰国を機に、堺を訪ねることにしたのでした。

宝木嬢については、「あの頃、ビアハウス」シリーズで綴っていますので、本題に入る前に紹介させてください。以下、引用。

―あの頃、ビアハウス:すみれの花咲く頃―
    
♪ 春すみれ咲き 春をつげる
  人なぜみな 春を憧れ待つ
  楽しくもなやましき春
  愛の夢にいつも 人の心甘く酔わす
  そは すみれ咲く春

 すみれの花咲く頃~ 

ご存知、「宝塚歌劇団の歌」として広く世に知られている「すみれの花咲く頃」のイントロです。おそらく誰もがこの歌を耳にした記憶があるのではないでしょうか。宝塚歌劇「パリゼット」の主題歌として取り上げられ流行しましたが、もとはといえば、オーストりアの歌がシャンソンとして歌われたとも言われます。

このイントロの後に、「すみれのは~な~咲く~ころ~」と歌が始まる時には、ビアハウス場内がみな一斉の合唱になるのでした。春を待ち焦がれる者と、遠き春をしのぶ者と、馳せる心は皆違うだろうが、それぞれの思い入れがこの大合唱からうかがわれるのでした。

takaragi
アサヒビアハウス梅田時代の我が先輩歌姫宝木嬢

「アサヒ・ビアハウスは人生のるつぼである」とわたしは常に思ってきました。ここは恋あり歌ありの人生劇場で、ビアホールを訪れる多くの客を目の当たりにし、少なからず数編の恋物語をビアハウスで読んだ感がわたしにはあります。

ここで出会って別れた人たち、出会ってハッピーエンドに結ばれた人たち、苦しい恋をずっとここでひきずった人たち。さまざまな歌の合間合間に、アサヒ・ビア・ハウス人生劇場の登場人物たちが思い出の中でフラッシュ・バックする古き梅新アサヒビアハウスはその魅力で未だにわたしを捕えて放しません。

宝木嬢が歌う「すみれの花咲く頃」は、素晴らしかった。

わたしより一回り以上年上の彼女は、当時すでに40代半ばを過ぎていたと思う。その独身の彼女と一回り以上も年下の男性、(と言うことは、わたしと同年代)マックとの恋は周囲をドキドキ冷や冷やさせながら、数年間、ビアハウスの客たちの話題をさらっていました。

ビアハウスのバイトが終わると、わたしはその二人と連れ立って、梅田地下街あった、京美人の姉妹が営む小さなカウンターの食事処に腹ごしらえに誘われて行ったことも何度かあります。

アメリカ移住の夢を放り出し急遽アリゾナから日本に帰国し、その後、ポルトガルに嫁いだわたしは、2度ほど、一時帰国中、堺にある宝木嬢の家に、幼児の息子を伴い数ヶ月滞在しながら、ビアハウスでカムバックしては歌っていましたが、この時期、宝木嬢と恋人マックが同居している中に加わったのでした。

少し面白い同居人構成ではありましたが、宝木嬢の自宅は、上空から見ると、ひしめき合った民家の中で、そこだけ緑がこんもりとしていると言われるほど、結構広い自然体の庭があったのです。そして、その庭たるや、何匹もの猫たちが住人でもありました。ネコ好きのわたしも息子も大いに数ヶ月の滞在を楽しんだものです。

恐らく未だに同居していると思われるのだが、あれから四半世紀以上を経た今、果たして宝木嬢とマックの恋の結論はどう出たのだろうか、と、春まだ浅い頃には、この歌に思いを馳せるのです。
  
♪すみれの花咲く頃 今も心ふるうよ
 忘れな君 我らが恋 すみれの花咲くころ

この恋物語だけは、わたしの中で未完なのです。―
引用終わりー

帰国した翌週に、今回は新幹線でなくANAの飛行機で、親友が車で迎えに来てくれるという関空に降り立ちました。「この時間ならまだ間に合う、ソデさん、行こう!」と、そのまま高野山へ行き、その日は古い屋敷に手を入れた彼女の和歌山のアトリエに泊まり、事情を話して翌日宝木嬢宅へみちこの車で向かいました。

わたしがバイトで歌っていたことから、みちこもビアハウスとは少なからず縁があり、宝木嬢を知っているのです。

宝木嬢が住む通りの家並みは、新しくコンビニができたりしていたものの、わたしが滞在した頃と大きな変化はなく、コンビニの二軒先の彼女の家は、小さな門が寂れてはいるものの、ほぼ昔のままに。

連絡の手立てが立たなかったもので、突然の訪問です。80歳をとうに越したであろう宝木嬢は、果たして元気でいるのか。マックが同居しているとしたら、彼女の面倒をきちんとみているのだろうか、そんな不安な思いで、半開きのままの寂れた門をギィ~と音をたて、懐かしい庭が広がる敷地内に足を踏み入れたのでした。

―続くー

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2016年2月13日

何が大変といって、アパートの明け渡しほど、ややこしいことはなかった。
アメリカでの暮らしに必要な最小限の身の回り品をだけを残して、後は全て処分しなければならなかったからだ。

家具類は当然ながら、ステレオ、クーラー、冷蔵庫、電話、衣類、書籍ETC(自慢ではないが、テレビは持っていなかったw)。
売れる物はすべて友人知人、その他のつてで二束三文で換金したり引き取ってもらったりした。

その中でどうしても処分しきれないものに、当時飼っていた「ポチ」というトラネコちゃん、そして、お気に入りの白いギターとLPたちがあった。キャッツ・スティーブン、ジャニス・イアン、スティーリー・ダン、中山ラビ、エディット・ピアフ、MJQ、 サイモン&ガーファンクル、ジョン・デンバー、ジョルジュ・ムスタキ・・・どれもわたしの青春時代の心の支えになった音楽である。とても捨てられはしない。

野良猫だったのを拾い上げたポチといえば、毎朝の出勤に、追い返しても追い返しても駅までついてきて、わたしを見送ってその後は、我がアパートの開けっ放しの台所の窓から入り込み、日中ひっそりわたしの帰宅を待っているネコだったのである。
これをどうして捨てられよか。

ポチも白いギターもLPも、近くに住んでいた「ミチべぇ」こと、会社の後輩&親友のご両親宅で、いつ帰るともわからないわたしではあったが、預かってもらえることになった。

白いサムソナイトの旅行かばん20キロの荷物がわたしの全財産である。その中にたった一枚、聴けるわけでもないのにわたしは大好きな自由人歌手とわたしが呼ぶ「ジョルジュ・ムスタキ」のLPを忍び込ませた。

1978年1月19日、母、義弟、親友のミチべぇ、キャセイクルーズの我が友Davidに見送られて、当時の東京国際空港「羽田」から飛び立ったのです。

さらばアサヒ、さらば我が仲間たち、さらば我が、苦しくも楽しかりし大阪の青春。

アサヒビアハウス

と言うわけで、「あの頃、ビア・ハウス」は、yuko、アメリカへひとッ飛びと相成り、アサヒのステージ同様、今回を持ちまして取り合えずいったん幕をおろさしていただきます。アサヒでの歌姫家業は、これで終わらず、再びアメリカからの帰国、そして、ポルトガルからの一時帰国時にカムバックするのでありますが、それは、またいずれかの折にでも。

エピローグとして、2016年、ビアハウスから37年後の現在をつづります。

夫と初めて会ったのも、この思い出のアサヒ・ビアハウス梅田です。1977年6月30日でした。その日は彼の30才の誕生日でしたからよく覚えています。出会ってから2ヵ月後に、彼は広島大学病院研修生として広島へ移動したので、わたしたちは今で言う「遠距離恋愛」でした。会うのは月に一度か二度、わたしが広島に出かけたり、彼が大阪に来たりの逢瀬でした。

わたしたちが出会って半年後には、わたしはアメリカ行きの目的金額を達成し長年の夢だった渡米の準備です。彼にも後押しされ、アリゾナのツーソンと言う学生町へ。距離を置いて国際結婚についてお互い考える期間を置くためにも、別れ別れになりました。が、結果として、わたしはアメリカ移住の夢を捨て、翌年、大学の英語コースを終えるなり、日本に帰国したのではありました。

わたしたちは結婚式こそ挙げませんでしたが、親友michikoとかつての会社の同僚ザワちゃん二人に証人になってもらい、京都府伏見区役所に婚姻届を出したあと、このビア・ハウスで常連や会社の仲間たちが祝福してくれました。

黄金時代の重役さんMr.高松曰く、「なに、アメリカから半年で帰ってきたのと同じく、ポルトガルへ行っても、ゆうちゃんはまたすぐ戻ってくるさ。あははは。」

確かに時々帰国はしますが、あれから37年、結局「ふうてんのおゆう」はその名を返上して、海を隔てた向こうはアフリカ大陸があるというポルトガルで、二児に恵まれ子育てに専念し、あっという間に年月は過ぎました。子供たちが成長した後は、日本語教室を開講し、現在は小さいながらも20数名のポルトガル人の老若男女を抱える日本語塾を開いています。日本でよりポルトガルでの生活が長くなった今、ここが終の棲家になりそうです。

わたしが歌ったアサヒビアハウス梅田があった同和火災ビルは改築され、フェニックスビルとなり、ビアハウス梅田は現在、「アサヒスーパードライ梅田」とその名を変え、今も同じ場所、ビルの地下にあり、今でも月に一度の割で常連たちは集っているそうです。

昨年喜寿を迎えたアコーディオンのヨシさんはその会合で相も変わらず変わらずアコーディオンを弾くとのこと、アサヒスーパードライを訪れたら、ひょっとすると、わたしが紹介してきた常連に会えるかもしれません。

わたしの中でのアサヒ・ビアハウスは今も変わらず、少し薄暗くて、大理石柱があり、ヨシさんのアコーディオンと大先輩、宝木嬢の姿がホールに見え、常連たちが立ち飲み席で飲んでいる、あの光景なのです。それこそが、わたしの梅新のアサヒ・ビアハウスです。目を閉じればあの頃の常連たちのそれぞれの持ち歌が今も聴こえて来るようです。

yuko14-1.jpg

旧アサヒ・ビアハウスの仲間には、塩さん、歯医者さん、土佐さん、A.D.葉室先生、高橋店長さん、タンゴのおじさんと、もうアサヒには来るにも来られない人たちもいますが、みなさん、きっと天上で再会し乾杯していることでしょう。このような素敵な思い出を残してくれたみなさんに心から感謝して、Ein Prosit!
               
このシリーズは、これで一件落着です。読んでくださったみな様、つたない文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。
また、この後、すぐツーソン留学記につながりますが、既にアップ済みです。興味がある方は、左メニューから「アリゾナの空は青かった」へどぞ。
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今日は、まず最初に、ビアハウス仲間だった杉ヤンへのメッセージです。

杉ヤン、了解です。大阪へ向かう日程が決まったら、連絡いたします。前中さんにもどうぞよろしくお伝えのほどを。
ところで、わたしのメール、届きましたか?

では、このところ、しばらく書き滞っていた「あの頃、ビアハウス」ですが、そろそろ終盤に入ります。
本日は、「アウフ・ヴィーダゼン(1)」です。どぞ。

2016年2月12日

♪Auf Wiederseh'n,Auf Wiederseh'n,
bleib nicht so lange fort
denn ohne dich ist's halb so scho:n,
darauf hast du mein Wort.
Auf Wiederseh'n,Auf Wiederseh'n,
das eine glaube mir,
nachher wird es nochmal so scho:n,
das Wiederseh'n mit dir.

 「アウフ・ヴィーダーゼン」とは、日本語の「さよなら」という意味である。
梅田アサヒビアハウスは6時から9時半までの営業時間内で、3度の30分のステージがある、8時半が最終ステージ。その最後のステージで先輩の歌姫、宝木嬢とデュオで必ず歌ったのがこの曲だ。

アサヒに数あるドイツ音楽の中でも、わたしはこれがとびきり好きだ。ビアホールで見知らぬもの同士が、いつのまに肩たたきあい、ジョッキをぶつけあって乾杯し、あるいは大きな5リットルジョッキの回しのみに参加して、陽気に騒いで、最後にこのしんみりした「アウフ・ヴィーダーゼン」で客のそれぞれが帰路につくのです。

「Auf Wiederséh´n」と歌い始めると、常連のだった、今は亡き土佐氏が必ずや客席から「アウフ・ヴィーーダーーゼーーン~」と合いの手を入れてくれるのだった。最後の歌「das Wiederseh´n mit dir」はゆっくりと盛り上げてナレーションで締めくくる。

「みなさま、本日は当店アサヒ・ビアハウスにお越しくださいまして、ありがとうございました。本日のステージはこれにて終わらせていただきます。みなさまのまたのお越しを心よりお待ち申し上げております。アウフ・ヴィーダーゼン!またお会いしましょう!」 
この語りで一日のステージが終わるのであった。

アサヒビアハウス
誰が撮ったか記憶にないが、一番気に入ったビアハウス当時の一枚。

1977年12月、足掛け4年のステージを通じて、移住資金調達を達成したわたしは、これまでのOL生活にも、そしてこの愉快なビアハウスの歌姫生活にも別れを告げ、翌年1月、いよいよ長年の夢であったアメリカ移住への第一歩を踏み出すのだ。
   
同時に、日本で出会った、後、夫になるポルトガル人の恋人ともとりあえず別れて行くのでありました。

下記にて英語版ですが、イギリスの国民歌手、Vera Lynnの「アウフ・ヴィーダゼン」が聞けます。



 
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2016年1月29日

pack up all my care and woe  苦労も哀しいことも みんな詰め込んで
here I go, singing low       低い声で歌いながら、さぁ行こう
bye bye blackbird         バイバイ・ブラックバード

where somebody waits for me どこか わたしを待っている人がいるとこへ
sugar´s sweet, so is she      あまく優しい人、母さんのとこへ
bye bye blackbird         バイバイ・ブラックバード
no one here can love or understand me    
ここじゃ誰もわたしを分かっちゃくれない
oh what hard luck sotries they all hand me  
なんてひどい巡り合わせばかりなのよ
make my bed and light the light  わたしのベッドを作っておいて 
母さん 灯りもつけといて
I´ll arrivebe late tonight       今夜遅く帰るわ
blackbird, bye bye          バイバイ・ブラックバード 
                                    (訳:著者)                                                       
      
1926年に作られた古いジャズソングである。
「Sleepless in Seatle」(トム・ハンクス、メグ・ライアン共演)などの近年の映画でもよく使われているそうだが、Sleepless in Seattleを観たというのに、Joe Cockerが歌っているのを全く覚えていないのは不思議だ。
 
それは多分昔観た古い映画、「裸足のイサドラ」の船上のパーティー・シーンで使われていた印象があまりにも強烈だったからかも知れない。
 
「裸足のイサドラ」は、斬新的な踊りで当時の閉鎖的な社会に物議をかもし出し、後にモダンダンスの祖と言われた、イサドラ・ダンカンの生涯をフィルムにしたものである。彼女の生きざまもさることながら、衝撃的な最後を遂げた人でもある。恋多きイサドラはパーティーで出会った若い男に心惹かれ、彼とオープンカーに乗り込み、走行中に首に巻いていた長いスカーフが車輪にからみつき、最後を終えたのだ。

ビアソングが主流のアサヒで、わたしは時折「yesterday」やシャンソン、そしてこの「バイバイ ブラックバード」などをアコーディオンのヨシさんに頼んで入れてもらっていた。こういう歌を歌えるのは、毎晩、人でごった返しの夏場ではなくて、客のほとんどが常連ばかりというビアハウスの落ち着いた冬場である。イントロもあるのだが、多くの著名歌手がスローテンポでイントロなしで歌い上げている。わたしは聞くのも歌うのもデキシーランドジャズ的に軽いノリの方が好きだ。この歌もリクエストがよく入ったものだ。
   
ビアハウスでは「ゆうちゃん、ゆうちゃん」と可愛がられながらも、自分の居場所をここかあそこかと探し求めていた当時のわたしの気持ちが、この歌にはいささかある。 ビアハウス歌姫時代は、人とのめり込んだ個人的な付き合いはしなかった。

byebyeblackbird1.jpg

ビアハウスが閉まる9時半以降に、店長の塩さんが声をかけてくれる、「おい、ゆうこ。今日は夕霧そば(ビアハウスの近くお初天神界隈にあるおいしい蕎麦屋さんの名物)食べに行こう!」の誘い以外は、たいがい独り住まいの枚方は宮之阪のアパートに
直行である。翌日のオフィスの仕事もあったことも理由ではある。夕霧そばを食べながら、塩さんを前に熱く語るは、「日本脱出」の夢」!その資金作りの歌姫家業であった。

ほぼ目標金額達成を目前に舞い込んできた当時の話に、梅田の新開店の喫茶店(この店は横山ノックさんのお兄さんの店だと聞いた)で、アサヒが終わった後の2週間、アコーディオンのヨシさんと歌ったことがあったが、これはきつかった・・・

喫茶店はビアハウスのホールと違い、床に絨毯が敷き詰められており、太くて大きなはずのわたしの声がそこに吸い込まれてしまって、店内に響かないのだ。 歌い終えて終電車へと足早に急ぐわたしは、自分のアパートの駅にたどり着くころはヘトヘトになっていた。9時からオフィス、そして、アサヒ、喫茶店での歌と、一日にこんなに掛け持ちで働いたのは、後にも先にもこのしんどかった2週間だけである。
 
「お前、死ぬぞ」と友人に言われるほど、クタクタになるまで稼ぎに稼いだ2週間ではあった。
そして目標の留学、移住資金は達成された。

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