2015年4月27日 

レロ書店Pt.2を終えないままに、ポルトガルを出発し、ただいま3週間ほどの予定で日本に滞在しています。Pt.2は、ポルト帰国後に持ち込みたいと思います。
その間、1970年代も終わりの我がアリゾナ大学留学体験を記したいと思います。

今日はそのエピローグです。

広大なアメリカは、西海岸と東海岸距離からして、また州ひとつひとつを取り上げてみても、それぞれが他の国のような気すらする。故に、「アメリカ」と言っても、訪れるその場所その時によってアメリカは姿を変え、これがアメリカだ!と言い切れることはない。しかし、一点において「これこそが」と言えるものがあると思う。 

それは、飽くこともなくこれまでのいつの時代にも、ハリウッドの永遠のスターたちのように、その魅惑で世界の多くの若者の心を惹きつけてきたことだ。

その昔、「新世界」と呼ばれ、本国でのうだつの上がらない生活に見切りをつけた人々が、限りない憧れと夢を抱いて苦難の船旅の末たどり着いたアメリカ 。

わたしも、それから時代はずっと後になり、20世紀も後半にではあるが、かつてそのアメリカに魅せられ、たいしたことのない身代ではあったが、その一切合財を売り払って、トランク一つを全財産に、太平洋を飛行機で渡ったひとりであった。

手にしていたのは、映画「モロッコ」の女主人公アミー・ジョリーではないが、片道切符とアサヒ・ビアハウスの歌姫バイトで貯め込んだ当座の生活費、そして、ツーソンはアリゾナ大学での大学入学準備のELS (English as a Secound
Language)コース受講の学生ヴィザだけである。

貧乏だった大阪の青春時代、アメリカ移住の夢を見続けて、日中のOL仕事とビアハウス歌姫バイトで、そこまでこぎつけるにはずいぶん年月を経てしまいました。 
spacesis、齢30、やっとたいして額ではないが目的額を達し、希望とガッツを胸に抱いて1978年1月、当時の国際空港羽田をアメリカに向けて旅立ったのでした。

いやぁ、あちらでも色々やってまいりました。
では、次回からのアリゾナ大学留学記、お時間のある方、どうぞお立ちよりください。
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2015年4月29日

ツーソンはTucsonと書き、インディアンの言葉で「暗い山の麓」と言う意味だ。
一年の360日が晴天の日の、砂漠にあるオアシスのような学生の町である。

4、5月から10月までは夏の季節になり、平均気温は37度。
初めてツーソンを訪れる者は、必ず「夏は路上のアスファルトの上で目玉焼きができる」とのジョークを聞かされるのである。

太平洋を越え、ロス・アンジェルス経由でローカル便に乗り換えて、ツーソンに降り立ったのは、1978年1月。1月でも気温が時には20度くらいまで上昇することもあり、ツーソンに降り立つ異国人は、見知らぬ土地にいて、寒さから襲われる孤独からは少なくとも救われるのだ。

空港を出るとアリゾナ大学の寮生の世話役である、男子学生たちが数人、その日東京から到着した日本人留学生を出迎えに来ていた。その日は何人くらいの留学生がツーソンに到着したであろうか、わたしの記憶にはない。

「男子寮!」「女子寮!」という呼び声が飛び交う中、迎え客の中にわたしは知っている顔をみつけた。7ヶ月ぶりで再会するイギリス人のロバート・ギアこと、ロブである。

バーミンガム出身のロブは、イギリスの大学を卒業後、お役所に2年ほど勤めた後、単独で世界一周を試みていた、今でいうバッグパッカーである。イギリス本国からフランス、ドイツ、イタリア等のヨーロッパ諸国を経て、トルコ、インド、ネパール、タイ、香港から日本へ渡ったという。

行く先々で英会話学校で英語を教えながら、そこに数ヶ月滞在し、旅費ができたところで再び移動する、という無銭旅行をしていたのである。当時は、今のように誰でも手軽気軽に外国旅行が出来るような時代ではなかった。若者といえば、普通は例外なくお金がなくて、それでも未知との遭遇に冒険心を駆られ、それを振り払うことができない者たちは、「無銭旅行」という手立てに出たのだ。

ロブもそのひとりで、ボロボロの旅行日記帳を肌身離さず、わたしがアリゾナ大学の学生ヴィザを手にするより先に、日本からアメリカへと渡り、「世界一周」実施中であった。

次のエピソードに続きます。

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2015年5月3日

「やぁ、ひさしぶり。」と空港で再会したロブに、 「今、3人でハウスシェアしてるんだけどね、一部屋空いてるよ。うちへ来ない?」と持ちかけられたわたしは、一も二もなく「もちろんそっちへ行く!」と即答。
       *ハウスシェア⇒一軒の普通の借家に家族でないもの同士
                  が数人で住むこと。

まだあちこちで、「男子寮、女子寮のひと~」と叫んでいる迎えの学生に、「あの、すみません、寮の予約をしてたんですけど、ここでキャンセルしますぅ。」と、しょっぱなからドタキャンするこの度胸!

女が集まるととかくいざこざが多い。ゆえに女子寮にはあまり気乗りしなかったのである。しかし、ツーソンにはロブがいるとは言え、彼はいつまた他国へ移動するかわからないバッグパッカーではあるし、ハウスシェアの話などツーソンに到着するまで知らなかったのである。

「大丈夫かいな?」とでも言いたげな迎えの学生を後に、わたしはかつてイギリスまで一往復したものの、まだその真っ白さを損なっていないサムソナイトの旅行かばんをズルズルひきずって空港外へ出た。

そして、そこに見たのである。
ロブが手紙で「買った」と自慢していたイギリス人の愛車、中古のフォルクス・ワーゲンを。

当時まだ運転免許など持っていなかったわたし、車のことなど知る由もなかったが、そのド素人目にも明らかにポンコツとわかる代物であったのだ。

「これ、フォルクス・ワーゲンどころか、あぁた、ボロクソ・ワーゲンだねぇ」と、笑い転げる乗客に気を悪くした友ではあるが、とにかく走りました(笑)

ツーソンの市街を走りぬけ、着いたところが、「North Secound Avenue 927番地」
2番街北通りとでも訳しましょうか。
家が通りに面しているものの、玄関ポーチは通りから7、8メートルは入る。
サンフランシスコやN.Yの家々とは少し趣の違ったどこか、南米を思わせるような四角で白い大きな一軒家であった。
わたしのツーソン第一日はここから始まったのである。
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2015年」5月7日

「927 North 2nd Ave.」は実は知る人ぞ知る家であった。
アメリカで「デリンジャー」と言えば、「石川五右衛門知ってますか?」と外国人に聞かれて日本人が苦笑するのと同じくらいの、知らずもがなの人物である。
アメリカの大恐慌時代、「プリティ・ボーイ」「ベイビー・フェイス」の、映画でもお馴染みの名だたる手下を従えて、各地の銀行を荒らしまわり、捕まっては脱獄してFBIに「Public enemy No.1」と指定され、多額の懸賞金がかけられた。シカゴでFBIと銃撃戦を交え、31歳で最後を終えた銀行ギャングだ。

ジョニ・デップが映画「パブリック・エネミ-ズ」でデリンジャーを演じている。

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デリンジャーは逃亡中の一時期、この「927番地」の家を隠れ家にしており、1934年1月にここで逮捕されている。もちろん、その後再び脱獄を図るのだが、なんともはや、あまり名誉な歴史を持つ家ではないのだが、ロブはかなりご自慢の様子であった。

「どこがデリンジャーの部屋だったのよ?」なんてわたしは訊ねない。デリンジャーの怨霊に取り付かれでもしたら、わたしのアメリカ生活の夢は悲惨なものになってしまうではないか。
参考がてら、下は1930年代の927 North 2nd Ave。 敷地の周りに囲いがある。

Tucson

↓こちらは1978年にわたしがハウスシェアリングした当時。囲いが取り払われているが、
Tucson

ネットで見つけた現在の927番地は再び囲いが作られている。

Tucson

わたしの部屋は玄関ドアのすぐ左、表通りの庭に面した大きな窓のある広い部屋である。
アーリー・アメリカン調の古い家具とその家具の上にかけられてある大きな長方形の鏡、そして木製のベッドが備え付けれれていた。
この部屋をデリンジャーが使用したとは考え難い。通り向きの部屋で窓も大きいし、通行人人に見られることもあるからだ。

窓を開けると、手がかけられたことがないと分かる大きなグレープ・フルーツの木があり、手を伸ばすとたわわに実った果実をそのままつんで食べることができた。

住人は、友人のロブ、アメリカ人でアリゾナ大学男子学生A、そしてツーソンの小さなカレッジで歴史の講師をしているジョン、それに新参のわたしと4人である。
玄関口のドアを開けるとすぐにある、暖炉付きの大きなリビング、それに続くダイニング・ホール、その右横に台所、左横にバスルーム。電話電気水道は、使おうと使うまいと全て共有で月末に均等負担。
夜ともなると、時折4人が暖炉を焚いたリビングに集まり、ギターを爪弾いたり本を読んだり、テレビを見たりと、それぞれ思い思いのことをした。ツーソンでは、冬でも気温が20度近く上がるとは言っても、夜は結構冷えるのである。だからセントラル・ヒーティングが入っていても暖炉を炊くことがある。
わたしの記憶に残るツーソンの屋内の灯りは、柔らかくやさしい。見知らぬもの同士でも一つ屋根の下で生活し、週末の午後や夕方に申し合わせることもなく自然にリビングに集まり、それぞれ好きなことをしながら流れる時間を共有する。
FBIをして、「パブリック・エネミー・ナンバー・ワン」と呼ばれたデリンジャーの隠れ家であったとしても、わたしが住んだ1978年の「Tucson North 2nd Ave.927番地」は少なくとも平和だった。 

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927番地の部屋。窓の外に見えるのがグレープフルーツの木。
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2015年5月12日

アリゾナ大学は、ソノラ砂漠にあるツーソンの町に位置する。当時は考古学、天文学でも世界に名を馳せる大学だということをわたしは知らずして留学したのであった。。
ツーソンは、北へ160キロのところに、州都フェニックスがあり、ソノラ砂漠を南へ100キロほど突っ切ると、やがてメキシコ国境、ノガレスにぶつかる。

わたしの大学での第一日目は、ESLクラス編成の試験であった。大学のキャンパスはNorth 2nd Ave,から近く、徒歩で7、8分の距離である。登校初日の朝、シャワーを浴び、すぐそばにあるマーケットで前日買い入れたコーンフレークスにバナナの輪切りと牛乳を加えての朝食を追え、8時過ぎ、わたしは「いよいよ始まるぞ!」と興奮で高まる胸をおさえ、キャンパスに向かった。

広いキャンパスの入り口近くの一角に、ESL(English as a Second Language)センターの建物はあり、そこの数箇所の教室で、クラス分けの試験である。留学生はメキシコ、ブラジル、ベネズエラなどの南米からのみならず、ヨーロッパからも来ていた。当時はオイルマネーを使ってのアラブ諸国からの留学生のなんとまぁ多かったことか。

受験票を渡されてウロウロと教室を探し回り、無事時間いっぱいに試験を終えて廊下に出てみると、各国のグループがかたまってお互いを紹介しあったりして廊下は人だかりでにぎわっていた。
すると、「あ、あれぇ~、まさか・・・まさか・・・」

日本人グループの中に見覚えのあると思われる顔が見えたのだ。そんなはずがあるわけもない、と疑惑の面持ちで、念のためにとかたまっているその日本人のグループに、わたしはそぞろ近づいて行ってみた。

「ほ、ほ、ほ、ほんざわちゃん!!」
このときの驚きたる!

本沢ちゃんとは、 大阪のオフィスで退職するまでの6年間、いっしょに仕事をしていた営業マンで皆から「ザワちゃん」と呼ばれていた同僚なのだが、その本人が目の前にいるではないか!

なんでやの?なんでざわちゃんがここにおるん?おどろき桃の木山椒の木とはこのことなり。あまりの驚きに人目も構わず右手人差し指で彼を指し、「ザ、ザワちゃん!」と日本語で叫んでしまったわたしでありました。

渡米前、12月のボーナスが出るや即座に退職し、それまでバイト歌姫として歌っていた大阪梅新アサヒビアハウスの仲間たちに盛大に見送られ、大阪のアパートを引き払って後、渡米するまで横浜のおば宅に居候して、羽田空港からわたしは飛び立って来たのである。ザワちゃんはと言えば、わたしのすぐ後に退職し、日を違えて渡米とのこと。

しかし、広いアメリカやのに、なんで、なんで同じ大学やのよ・・・
それをさて置いても、一緒に会社で騒いだ間柄なのに、なんで一言も「ボクも同じとこに留学すんねんで~」と言わんかったのやよ・・・

と、このように、大学第一日目からして、波乱万丈な留学生活は幕開けとなったのでありまする。
こんな偶然てあり?
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