2015年9月1日

さて、皆様、「アリゾナの空は青かった」、実はまだまだお話していないことはあるのですが、ずらずら書き連ねて、もう24までも来てしまいました。そろそろ閉じてもいいとこまで来たと言えましょう。

思い立ったら前後も考えずすぐ実行するわたくし、その即行動力に一番驚いたのは、恐らく春に帰国することとなっていた彼の人(現夫)でしょう(笑) 空港まで出迎えに来てくれた二人の友人とそのままアサヒ・ビアハウスに向かったわたしをいつものように迎えてくれたのは、相変わらずの常連たちである愉快なアサヒの仲間でした。アパートは引き払い、家財道具という道具は一切合財売り払って渡米したわたしです。行くアテもなく、まさに「ふうてんのyuko」の名にふさわしく(笑)、その日の宿のことも考えず、アサヒの仲間達との再会にビールで乾杯し、歌姫カムバックでした。

1978
オフィス時代のチーフと仲間たちがさっそくビアハウスに顔出しに^^

翌年、1979年3月の婚姻の事務的手続きまで、わたしはどこにいたかと言いますと、今では「かつらぎ山房」の持ち主となっている我が親友、みちべぇのご両親宅にしばらく居候したのでした^^

今は亡き我が親友のお父上の「娘3人がもう一人増えて4人になったとて、どうということはなし。うちへいらっしゃい。」の一言には、人を大きく包む人生哲学がうかがえます。わたしは親友みちべぇの三姉妹の家に転がり込み、乙女四人で枕を並べて寝たのでした。

みちべぇとわたしの関係はと言うと、彼女はわたしが勤務していたオフィスの後輩で、7つ8つ年下です。後先考えずに行動に移すわたしとは対照的に、彼女はおっとり型。それもそのはず、京都のダ○女卒ですが、芯はしっかりしています。どういうわけか気が合い今もって交流が続いています。

さて、3月のわたしたちの婚姻届には二人の証人が要り、一人はみちべぇ、そしてもう一人は、これまたいつの間にか帰国していた、かつての会社の同僚であり、アメリカ留学の下宿時代の同僚でもあった「ザワちゃん」であることを付け加えます^^

1978
ザワちゃんと我が親友みちべぇ

夫とわたしはセレモニーは特別にしませんでした。届けを出した当日の夕方に、常連や友人達がアサヒに集いそこでお祝いを受けました^^いかにもアサヒの歌姫、ふうてんにふさわしい。わたしはそれで満足なのです^^

後年、我がモイケル娘に、「おっかさん。結婚式の写真はないの?」と聞かれたことがありますが、はい、ござんせん^^あるのは、二人で正装して写真館で撮った記念写真のみです。

3月、我が夫となった人は、一足先にポルトガルへ一人帰国し、ミセスとなったわたしは、5月の渡航まで今度は横浜の叔母の家に居候。あっちでもこっちでも、居候しては皆様に迷惑かけててきたのでありました。

1979年5月、ポルトガルを3人で新婚旅行することとなる、夫の日本人の親友Dr.D氏と二人で、パリ経由で成田を飛び立ち、生まれて初めてポルトガルという地に足を踏み入れのでした。
1978
同行のDr.D氏撮影。珍しくショートカットです。            

1978

中継地パリでポルトまでの乗り継ぎまで8時間も待ち時間があったため、いったんパリ市内へ出て少し歩いた。この後のわたしの生活は、「ポルトガルよもやま話」につながります。

最後に、先だって初めて、ツーソンの我が下宿先が今はどうなっているかと、住所を覚えているので、検索してみました。当時の女主人が存命かどうかも分かりません。住所と下宿名「ケンタッキーイン」で探ってみましたが出て来ませんでした。何しろ37年も昔のことです。ほとんど諦めかけたとき、ストリートビューで見つけることができました!見つけることができたのは、いやもう、建物が昔と変わりない姿であったからです。
 
kentukyinn1978
1978年のケンタッキーイン。       

kentuckyinn_now
現在。

ほとんど変わっていません。まだ、下宿やなのでしょうか。看板はあがっているのでしょうか。こんなこともあるんだ、ここにわたしの青春の一コマがあったのだ。変わらぬ姿でツーソンに建つこの家に再会したわたしは懐かしさと嬉しさで、しばし写真の家に見とれて思い出に浸ってしまいました。

ということで、「アリゾナの空は青かった」、また、面白いエピソードを思い出しましたら、追記させていただくとして、いったんここで閉めようと思います。

今で言う、貧困女子だっわたしが、「アリゾナ大学留学」に漕ぎつけるところまでに興味のある方は、左メニューにもありますが、「あの頃、ビアハウス」までどぞ。 しばらく中断していましたが、今後、エピソードを書き加えてまいります。 記事は新しい順から始まっています。

また、こちらは梅新アサヒビアハウス」の「レトロ・ギャラリー」です。いずれ、ブログサイトに移動させる予定ですが、興味のある方はどうぞ。

それではみなさま、また。
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2015年8月31日

友人MoriとMontereyでしばらくホームステイをしながら、わたしはサリナスにあるアダルト・スクールをあたってみた。サリナスはスタインベックの「エデンの東」の舞台になった小さな町である。

これは自分がアメリカに居残るとしたら、を考えてのことである。アダルト・スクールと言うのは、年齢に関係なく、そして、時には国籍も関係なく、市民が英語やカルチュア関係の勉強ができる夜間学校である。また、アメリカの大学には、学部レベルと院レベルの夜間社会人クラスがあり、必修単位を修めれば、学位やCertificateも貰え、これらのコースは学費が安いと聞いていた。

常々、わたしが思うことだが、色々な理由で大学へ行くことができない、あるいはできなかった人に、勉学の機会を与えてくれるアメリカと言う国のこのような制度の素晴らしさである。

少子化で学生定員を割る大学も今後、大いに出てくるだろう、日本の状況を考えると、どうして定年退職して時間をもてあましている団塊世代を大学に呼び込まないのだろうかと、わたしは思うのだ。日本の大学で学ぶには、日本語が必須である。経営のため定員数を埋めるために、下手に日本語もろくすぽ理解できない海外からの留学生を際限なく呼び込むより、この方法に目を向ける価値はあると思うのだ。

もちろん、団塊世代は年金生活者であるから、入学費、授業料は正規の学生より大いに下げる必要がある。定員に満たないがため、志望者全員入学など愚かな策をとって日本の最高学府の学力を下げてしまうより、わたしの提案する策の方が、若い人と人生経験者である年配者との交流を生み、老若男女、切磋琢磨することで、キャンパスそのものに活気が溢れ、学力向上にもつながると考えるのは、わたしだけだろうか。

これはわたしの持論なのだが、大学入学において経済的な問題を抱えていても、頭がいい人は、周囲のサポートがあったり、大学入学時の成績によっては授業料免除などの制度を受けることができたりと、なんとか道が開けるのである。
経済的な問題を解決できるひとつの方法として「学生奨学金」があるではないかと言うかも知れないが、
それで学費をまかなうことはできても、生活費がいるのである。都市の大学に通うのであれば尚更だ。生活費を稼ぐために日夜バイトづくめでは、学業に支障をきたすこと明確であり、奨学金を受けながら勉強するとしても、親が生活費を支援しない限り経済的な問題はまだ残るということだ。

頭脳明晰とは行かなくとも向学心に燃える若者はたくさんいると思う。そのような若者が経済的な理由で進学を諦めることは往々にしてある。アメリカの大学のように、学部レベルと院レベルの夜間社会人クラスはこういう環境にある若者たちのみならず、向学心のある年配者にも勉学する機会を与えることになり、しかも、少子化で困難な大学運営の改善につながるのではないかと思うのだが、どうだろうか。

留学記が横道にそれてしまったが、さて、ESLコース終了後は、できればアメリカの大学で勉強したいと思い、準備していった高校時代の成績証明書をアダルト・スクールの事務所で示したときに、それを見た事務員が笑ったものである。
「あら、あなた、国語や英語は抜群なのに、家庭科は2・・・あはははは」 はい、家庭科はまったくやる気がありませんでした(笑)

そうして、一応の道はつけておき、Moriとは別れて再びツーソンへ引き返した。そうです。前のエピソードで書いたとおり、サンフランシスコでこの時別れたわたしとMoriは、その先20年は会う事がなかったのである。

6月に入ると、アリゾナ大学ESLコースの最終試験が始まり、アメリカではお決まりの卒業パーティーが市内のホテルで行われた。講師も生徒も着飾りの食事会兼ダンスパーティーである。留学生学生も一人また一人と少しずつ帰国して行った。

最初のエピソードで出てきた我が友ロブは、自分の世界一周旅行の残り半周を続けるため、この頃既にメキシコへ渡っていて、
「Hey,飛行機の操縦を習っている。こっちへ来ないか?」と古代遺跡のある町から絵葉書でお誘いがかかった。
「来ないかい」ってあぁた、ギター抱えてストリートコンサートしながら世界一周するなんて(ロブのアイデアw)、わたしゃそんな訳にはいかないのだよ^^;

書いてはおりませなんだが、広島で研究していた現夫とは、3日にあげず航空便のやり取りをしており、この頃受け取った手紙には、「来年3月にはポルトガルへの帰国が決まった」とあった・
「アメリカに残るべきか、残らざるべきか、That is a question」なんて、ハムレット気取りで、わたしは考えた、うんと考えた。

今でこそ、格安、自由に飛行機で移動できる世界の距離ではあるが、1970年も終わろうとしていた頃、アメリカに住んでしまえば、ポルトガルとアメリカの距離は、考えただけで遠く感じられ、恐らく永遠に彼と再び会うことはないであろう。これが彼に会う最後のチャンスだ。そう分かったとき、「Back to Japan」だ、これしかない!自分の心に聞いて素直に従うのがわたしの生きる道である^^

ESLコースの終了証明書もなんのその、いったん決めたが最後、spacesis、後も振り向かず、唖然とするツーソンの友人達を振り切って、LA経由でさっさと大阪へ引き返したのであります。(笑)

到着した伊丹空港には、和歌山は「かつらぎ山房」の主こと、我が親友「みちべぇ」と、「あの頃ビアハウス:グッドチーフ・バッドチーフ」で登場している「グッドチーフ」とが待っていてくれた。日本ではもはや行くあてもない風来坊のわたしは、出発したときと同じ白い旅行かばんひとつを引きずって、そのまま空港から3人で梅田新道にある、我が心のふるさと、そして、わたしにアメリカ留学資金を作る機会を与えてくれた「アサヒ・ビアハウス」へと直行したのであった。

次回は「アリゾナ留学記」最終回です。

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1978 年夏。半年後に再び梅新アサヒビアハウスの入り口をくぐることになろうとは。
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2015年8月23日

ポルトガル時間、真夜中の3時ごろ、電話が鳴る。夫が枕もとの受話器を取り、英語で受け答えする。
「Moriからだよ」
するとわたしは眠気まなこをこすりながら、起き上がって玄関口に備えてある親子電話に出る。
「おい、今そっち何時?」
「夜中の3時です~」
「うん。それでさ」(←なんで、それでさ、なのか(笑))

こうして始まるアメリカとポルトガルの真夜中談話(笑)向こうは少々お酒も入ってご機嫌なのである。
わたしには少しアイツの気持ちが分かるのだ。お酒が入ったりしてちょっと気が緩むと、とたんに日本や日本の友人が恋しくなる^^。どんなに異国に長く住んでも、そこでの生活に根をおろしていようとも、そういうときにはたちまちに、祖国へのノスタルジアが頭をもたげて来て取り込まれ、やるせない気持ちになるのが。人恋しくて母国語で思う存分話したい思いに駆られる。深夜の国際電話は決まってこのMoriなのである。
移住するつもりのわたしが半年で日本へとって返し、カリフォルニアに短期間ホームステイする予定の彼が、その年の秋からMontereyにある大学院に入学し、奨学金とバイトで頑張り通して現地学生を尻目に主席で卒業したのには、随分驚いた。

卒業と同時に、2年間付き合って来たアメリカ女性と結婚し、男3人女1人の4人の子供にめぐまれ、院で取ったコースとはまったく関係のない、バイト時代の延長そのままに、日本庭園師の事業を起こしたのにもまた、少なからず驚かされた。今では、市の請負までするようになり、30人ほどのアメリカ人も雇用していると言う。

人生はなって見なければ分からないものだ。だからこそ面白い。

電話で手紙でとお互いの近況を知らせ合いながら、「いつか会おうぜ」の合言葉が一向に現実味を帯びず、お互い日本へ帰国してもすれ違うばかり。そうこうしているうちにいよいよ、20世紀も終わろうという年に入ったある日、
「おい、俺たち20世紀が終わる前には、会おうぜ!」ということになり、いよいよもって、彼は娘を、わたしは我がモイケル娘をお供に、4人で家族旅行をしようとあいなった。

実はしょっぱなから勘違いですれ違い(笑)。大阪から新幹線で上京してくる彼らと、わたしはプラットホームで会うものと思い、MoriはMoriで、東京駅のご存知「銀の鈴」で会うものと・・・^^;その年は殊の外暑く、ホームを行ったり来たりのあげく、妹を連絡口とし、約1時間後にやっと「銀の鈴」で20世紀最後、20年ぶりの再会を果たしたのであった。
「俺の出世祝いだ」と言って、アメリカで用意して持ってきた日本国内一週間のJapan Rail Pass周遊券を贈られたわたしとモイケルは、東京を振り出しに彼らと東北の旅へと向かった。しかし、なんせ酒には強いヤツ、おまけに20年間の話が溜まりに溜まって汽車のなかでも宿でも喋るわ喋るわ(笑)

行く先々で、「僕ら、家族ではありまへんねん。こっちのアネさんはポルトガルから、でボクはアメリカから。夫婦でのぉて、友だちでんねん。20年振りに日本で再会して旅行してます~」と聞かれもしないのに説明に走り、相手をキョトンとさせるアイツ^^ わたしはホテルの方がいいというのに、「せっかくの日本や、旅館やで。温泉やで」と言って譲らないアイツ。

前の晩、遅くまで飲んでたと言うのに、朝方早く5時頃にはもう起き出して、一人サッサと温泉に浸かり、部屋に帰ってきては、まだ寝こけてる3人を「Hey, guys!」とたたき起こし、またまたわたしを朝酒につきあわせるアイツ。二人の女子は逞しくも抵抗して、朝っぱらから部屋で大声で話し、大笑いしている大人二人を尻目に、頭から布団かぶって徹底的に寝入っていたのであった(笑)

「一杯のコーヒーが欲しい」と言うわたしに、
「お前、コーヒー中毒ちゃうんか?」 何でやネン・・・
「自分はどうやねん!お酒飲み過ぎちがうんかい!」とは、周遊券をいただいてしまった手前、よう言いまへん^^;

モイケル娘と彼の娘が生まれて初めての温泉だ、共に裸になって入るのはいややと言うに、「何事も経験や。入るまで出てくるな。」(笑)と言い張って譲らないアイツ。結局、二人はどうしたかと言うと、片方が入ってる間は、もう片方が脱衣場で待ってる、ということをしたようで^^;一応入るのも出るのも一緒ということでw)しっちゃかめっちゃかのヤツには、いい加減閉口気味のわたし、彼の娘に
「お父さん、うちでもああなの?」
「Yah」(←娘日本語話せないのだ~~w)
「お母さん、たいへんだね^^;」
「Yah, でも彼女、辛抱強いから。アハハ」

結局わたしたちは3日一緒に過ごしただけで、彼のバイタリティーに完敗w 四日目にして、彼らは更に北上して北海道へ、わたしたちは知人が待つ福島へと、我が故郷弘前の駅で二手に分かれたのであった。アイツを見送った後のわたしたちの姿、想像あれ(笑) モイケル娘、即、「おっかさん、疲れた~。」 もうあごを出してへなへなであった。(笑)

「俺ね、大阪でお前に会ったころ、やけくそになってたのよ。外大出てもずっと仕事につけなかった。オヤジもお袋もとっくに死んでたし、オヤジはあっちの人間だしね。お前がけっこうな歳(どういう意味じゃい!)食ってるのに、アメリカ行きの夢持って働きまくってるの見たら、俺も頑張る気になってよ・・・」

旅で初めてそんな話をしたのであった。

いいじゃないの。手紙と電話の交流だけで20年も続いたアイツとわたしの友情だ。少々疲れた再会ではあったが^^そして20世紀最後の思いのたけが叶ったとでも言おうか、ここず~っと、お互い音沙汰なしではある。

しかし、わたしは信じてるのだ。
いつかどこかから、「おい、会おうぜ。お前がくたばる前に、もう一度よ」と、深夜コールが入ってくるだろうことを。

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2015年8月22日

しばらく滞っていたアリゾナ留学記に戻って。

我が家の二人の子供達から幼い頃からずっと「Tio Mori」(=Moriおじさん)と呼ばれて来たこの御仁、わたしとは不思議な縁で付き合いが長年続いている。

わたしが渡米する少し前に、「ずっこけ3人組」エピソードで出て来るアメリカ人の友人、ブルースの紹介で、日本にいた時に知り合いになった、かなり年下の親友である。アサヒビアハウスにも時たま顔を出していたこともあるが、彼とは日本での付き合いよりもわたしがポルトガルに来てからの、20年来の手紙の交流の方が遥かに長い。

それがなぜ「アリゾナ」物語に出てくるかと言うと、これはず~っと後になってだが、彼が打ち明けてくれたのに寄ると、わたしのアメリカ移住の話に大いに触発されて、自分も、と一大決心。わたしより少し遅れて、Moriもカリフォルニアへと渡ったのだそうだ。

大学のESLコースも残すところわずかとなった6月頃、ケンタッキー・インの下宿のわたしに電話が入った。
「おい、俺、今カリフォルニアのMontereyでホームステイしてるぞ。そっちの大学コースが一段落したら、こっちへ来ないか?ここのオヤジさん、お前も引き受けていいと言ってるんだ。」

ツーソンに来て以来、この先まだどうなるか皆目見えない自分の未来、とにかく無駄金だけは遣うまいと、観光旅行などは一切避けてきたのだが、気持ちの整理をしてみたかった。わたしのような、たいして資金のない外国人がアメリカに居残るのに、そうそうおいしい話があるわけではない。今も恐らく同じような話があると思われるのだが、便宜上、アメリカ人と結婚する、というのは、わたしたち留学生の間で結構話題になってはいた。

当時の日本の旧い国際法と違い、欧米では婚姻関係を結ぶことにより、自動的にその国の国籍取得ができるのであった。国籍取得ができたら働くも自由である。ツーソンに幾人かアメリカ人の友人もできていたし、万が一の場合はと、それを申し込んでくれる男友達も中にはいたが、わたしは元来がドライな性格ではないらしい。 そのような便宜上の関係は、気持ちが向かない。

「あいつとちょっと話してみてもいいか」と気持ちが動き、思い切ってサン・フランシスコへと飛んだのである。

こうして空港まで出迎えてくれたMoriと紳士ウィリー。ホストファミリーのウィリーは、リーダーズ・ダイジェスト社にて編集長の仕事を退職し、悠々自適の年金生活をしている紳士であった。シスコの空港からウィリーおじさんの住むMontereyへ向かった。

住まいに案内されて、わたしはちょっと驚いた。何に驚いたかというと、そこは裕福な年金生活者たちのコミュニティーが、所有する閑静で広大な土地の一角であったからだ。こんなのは、サボテンの田舎ツーソンではお目にかかったことがなかった。さすが、都会である。その土地内に入るには、約束をしている訪問者と言えども、門にいる警備が敷地内の相手に電話で確認をとって初めて入れるのである。
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ウイリーは独身だが、育てた養子は既に成人で当事は入隊していると聞かされた。

提供されたわたしの部屋は、バストイレ付き、これはホテルと変わりない(笑) 部屋からは庭というより森と言ったほうがぴったりの、静かで落ち着いたたたずまいを見せる小さな自然が見渡せた。

夜ともなると、庭に突き出たベランダには、どこからかラクーン(アライグマ)の親子が姿を現し餌をもらいに来るのだ(笑)真夜中には、「天井を走り回る輩はネズミであるか、こんな家で走り回るのがいるとは!」と思っていたら、ネズミにあらず、リスだった。朝方の庭には、その小リスが現れ、庭を散歩していて人馴れしたものだった。すぐ近くには、スタインベックの「エデンの東」の舞台となったSalinasがある。

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サリナスにて。

ウィリー叔父さんから車を借りて我が友Moirと出かけたSan Francisco旅行は、二人とも金欠だったものでYMCAに泊まり(男女、部屋は別々だよん^^)、かなりけちった旅行になったのだが、Moriとの旅行は、これよりも、もうひとつ、日本でしたものの方が、遥かに記憶に残っているのだ。
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ゴールデンゲイト・ブリッジを背景に。Mori撮影。
  
サン・フランシスコの海峡を背景に。風に吹かれて髪がボーボーw
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2部へ続きます。
                                        
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2015年8月4日 

大学のESLコースでは、グランドキャニオンと近場のオールド・ツーソン(Old Tucson)へのバス旅行があった。まだ先行きをどうするか決めておらず、お金に不安があったわたしは費用のかかるグランドキャニオンを避けてオールド・ツーソンのみにしたが、今にして思えば無理してでもグランドキャニオンは行っておくべきだったと多少後悔している。
というので、取り立てて何があったわけではないが、今日はオールド・ツーソンの話。

長い間、Old Tucsonとばかり思っていたのが、今回調べてみると、正式には Old Tucson Studiosと呼ばれ、1940年の映画「Arizona(ジーン・アーサー、ウイリアム・ホールデン主演)」撮影のために作られたとWikipediaにある。

以来、ひとつの町単位のオールド・ツーーソンは、スタジオとして、「OK牧場の決闘」「リオ・ブラボー」「トゥムストーン」「Red River」など、多くの西部劇映画やウェスターンTVドラマの撮影現場に使用され、現在はテーマパークになっている。
 
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スタントマンのガンファイト・シーンが目の前で見られる。サルーンから取っ組み合いながら外へ転がり込み、突然始まったのには驚いたが(笑)

1995年に火災にあい、多くの映画やドラマの撮影に使用された記念建物が失われ、再びオープンしたのは1997年とある。わたしが訪れたのは1978年のことで、もっと注意して情報を集めることができていたら、今日ブログに書くことも違っていたはずである。

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オールドツーソンの記念写真。古い写真で失礼。

と言うのは、渡米前まで日本にいたときのわたしはステレオは持っていたものの、テレビは主義で持たなかった。後にポルトガルに来て、こちらのテレビで見たシリーズ、「大草原の小さな家」は一家で大ファンになったのだが、日本では1975年から1982年まで放映されていたとのこと。実はこのオールド・ツーソンがシリーズ一部の撮影現場であったのだ!

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↑初期のインガルズ一家   ↓後半、長女のメアリーの結婚相手と養子として向かえたアルバートもメンバーに。
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現在のオールドツーソン。写真の看板「Olsen´s Mercantile」を見て、お、大草原のMrs.Olsonの店のセットが!と一瞬早とちりしたのだが、店のペンキが白だったことを思い出し、よく見ると一文字違いの、「Olsen´s」であった。バックにアリゾナ山脈が連なっている。

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ドラマではちょっと意地悪で計算高く、娘を溺愛する個性的な役で、「大草原」も彼女なくしては盛り上がらないであろう。脇役ながら大きな存在感があった↓
Mercantile01.jpg

多くのセットが火災で失われてしまったのは返す返すも残念なことである。
「大草原の小さな家」については過去にも何度がこのブログで取り上げているので、次回はそれを紹介したい。

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