2006年2月16日(木曜日)

卒業式の季節が来ると、毎年のように今ではもう5年前になってしまった、ぎょっとした卒業式を思い出す。

ポルトガルには卒業式というものはないのだが、我が子二人は、月曜日から金曜日までBritish Schoolに通学し、毎週土曜日は、日本語補習校なるところに9年間通い、日本の義務教育課程をとりあえず終えたのである。週に一度の3時間授業で、国語数学2教科の日本の1年間の教育カリキュラムをこなすのだからこれは大変な進度具合なのだ。

しかし、おかげで二人とも小中学部では日本式の厳かな卒業式なるものを経験することができた。
小小規模の補習校であるから、卒業生は一人か二人が通常であるので、どの子もいっちょ前に日本ではなかなか仰せつかうことのない、「卒業生代表の答辞」とやらをすることになる。

その年、義務教育課程を終えたのは我が「もいける娘」ひとり。
補習校関係者は在校生はもちろんのこと、その親達も全員出席しており、壇上に上がったもいける娘はおもむろに答辞原稿を開いて読み始めた。と、答辞のあるくだりに来ると場内にどっと笑い声がさざめいたのである。

「わたしは今から3年後、ポルトガルで高校を終えた後、日本へ行くつもりです。いえ、行くのではありません、わたしは日本へ帰るのです。」

さざめく笑い声とともに、「おおおお~~」との声があちこちから響き、横にいた大阪出身の友人は、ひじでわたしを突っつきながら、
「あんた、今の娘の言葉を聞いた?行くんじゃなくて帰るんだってよ!覚悟しときや。」

ポ国で生まれ育ち、日本には3年に一度の割で行き、夏休みの一ヶ月ほどを過ごしただけの日本。
しかし、その日本へ、彼女は「行く」のではなくて、「帰る」と言うのだ。
その日わたしは、頭から水をぶっかけられでもしたように、意外な娘の言葉にハッとさせられたのである。

これは彼女の、面と向かってはなかなか言い出せなかった、父親への、実はメッセージだったのでした。
そして、その父親はと言えば、肝心の卒業式には出席できなかったのでありました。

わたしたち母子の、日本の大学受験奮闘はこうして始まったのでした。



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porto-aliados

2006年2月17日(金曜日)

さてはて困ったもんです。
日本へ帰るったって、日本の大学へ行くったって、もいける娘よ、あぁたの親の生活基盤はポ国であるぞ。
物価が安く、それまで日本のほぼ半分の生活費で暮らしができたお国である。
日本からポ国へ来るのならいざ知らず、その逆コースであるから、これはあぁた、並大抵なことではございません。

我が家ではその頃、六つ歳が離れた息子は、リスボンで大学生活です。リスボンと言えば、住居賃貸料の高さでは、なぜかヨーロッパでも1、2を争うという、どうでもいいようなことで有名な都市です。

法外な家賃を5年間も払って(ポルトガルの大学は5年制)ドブに捨てるよりも、建て直ししたのでいいからリスボンにアパートの一室を買った方がいい、と亭主は判断。
ローンを組んだばかりの頃です。ポルトの自宅とリスボンのアパートと・・・・・・
日本の大学受験は無理だってば^^;

娘が父親に面と向かって宣言できなかった理由は、ここにあるのでしたw
夢です。夢ならば見ることは自由だ、娘よ。

しかし、かえるの子はかえる。
「いつかアメリカで」と高校時代からの夢を見続け、卒業後都会で一人暮らしをしながら、オフィス、歌バイトと数年間働いて、ついに夢を叶えた、そのおっかさんこと、わたくしの、さすが娘(笑)
(もっともその夢を実現できたのは、三十路を過ぎてたが^^;)

つまり、そう簡単には諦めず、頑固に色々計画をコネorごね回したのでありました。

★本日の写真はポルトの市庁舎通り「Aliados」です。

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2006年2月24日
郵便物1


「ギョッ!」の補習校中学卒業式以来、日本から娘宛に分厚い郵便物が入るようになった。我が二人の子は幼稚園から通しで11年間通学したBritish Schoolからポルトガルの私立高校へと転校していたのである。

その11年間は授業は全て英語であったのが、突然高校科目の全てがポルトガル語になったのだ。経験のない人は「生まれがポルトガルだし、周囲もポルトガル語だし、問題はないでしょう」と言うのだが、これは実は大きな間違いなのです。
生活語ができるというのと、高校レベルの授業、教科書を理解するというのは別問題!

こちらでは、9年生(日本の中3)の時点で大学進学コースを既に決めなければならない。理系、文系どちらかを採るのだが、途中でコース変更は勿論できるとは言え、その場合は、10年生(高1)からやり直しである。こんなに早く将来を決めることになるなんて!と日本育ちの親はブツブツ言いながら、結局万が一の時にはを考えて彼女は理系のクラスを選択。ヒャ~、こりゃもう、なんともお手伝いなんかできませんですわw

小学校からの9年間は、週一度の補習校に加えて、子供達には「海外子女教育財団」の日本の教育カリキュラムに合わせた4教科の通信教育を受けさせて来たのだが、このほぼ9年間は、彼らと共に、わたしも一緒に勉強させてもらったと同様である。

この部分はいずれ「日本語教育」のところでゆっくり触れるとしましてw これまでは、親子で机に向かってああだらこうだら言いながら手伝わせてもらったに~wそれがすっかりできなくなりもうした^^;つまんないよぉ~とは、わたしの言で、子供達は口うるさい親と机を並べないで済むのだから、さぞかしホッとしたことであろう。

さて、話をトップに戻してと^^ぬぬ?と思った母のわたくし、ある日娘が学校に行ってる間に、部屋の掃除がてら机の上に目をやりましたら、「Campus Navigation」なる雑誌が飛び込んできた。サブタイトルには「大学・短大・専門学校の必見最新情報」とあるではないか!

我が思惑も構わずドンドン届けられてくる郵便物。
そして、ある日ついに見てしまった「Music &Entertainment」なるOSM(大阪スクールオブミュージック専門学校)の案内雑誌。中を開いて見ると、なんと、東京の私立大学より高い受講料ではないか!ま、待っておくれよ~~、娘!ないんだってば、うちには肝心のお金が~~。

どうやら、彼女は日本の大学受験、はたまた音楽学校を念頭に置いてるようであった。トホホホホ・・・^^;

★今日の写真は、もいける娘が取寄せていた雑誌の一部
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2006年2月27日
portoプロムナード


大学進学の夢を抱いてはいたが、先立つものを親は持たないという事情を十分知っていたおっかさんこと、わたくしは、実は高校3年のひと夏、青森県は弘前の田舎から大都会東京まで出て、住み込みの「新聞配達奨学生」とやらの経験をした
ことがあるのでした。(このときの経験は我がHPの「思い出のオルゴール:1964夏・
江東区の夕日」
に綴ってありますので、興味のある方は、右リンク欄下の「spacesisのHP」からどぞ)

あの頃は皆無だった女子の新聞配達奨学生が、今では何人かいるという記事をどこかの雑誌で近年読んだことがあります。我がもいける娘にその話をしたのは、丁度この時期です。わたしの経験談は、彼女の日本の大学進学の夢に更に火を焚きつけてしまったような結果になりました。
「それなら、自分も!」というわけです。

この頃から亭主抜きで、頻繁に娘は日本行きの夢を語っていました。が、相談されても「ない袖は触れぬ」w
自力で道を開くことを教えるしかございませんw
そういう中にあっての「音楽専門学校」の案内書だったのです。

己が憧れて、しかし触れることのできなかったディジタルピアノを、娘が4歳の時に、3年ぶりの帰国を一回諦めて思い切って買いました。子供達よりも母親のわたしが、夢見気分でしたね^^その4歳から娘はピアノを習い続けて来ました。音楽は私自身がビアハウスでバイトの歌姫をしたりして、生活の、はたまた心の糧にしていたくらいですから、必然クラシックに限らず、昭和時代の歌からビアソングまで、娘の耳には自然の音として入っていたわけで、ピアノを弾くからと言ってクラシック畑に進むとは言えません。
彼女はミキシングなどに興味があったようです。

音楽学校の案内書を見たときは、「ありゃ~~、こっちもか!」の感だったのでした。
「こっちもか!」と言うのは、兄貴である息子も進路決定を前に「音楽の道を」と言い出したことがあったからですw

音楽は趣味でやっているうちはいい。職業にするとなると、甘っちょろいものではない。日本ならいざ知らず、ポ国でその道を選ぶのは、親が資産家であるか、天賦の才能を持つかでないと食ってはいけません、無理!と反対したのは、誰あろう、音楽を愛するわたしでした。

ただ、親が反対しても、それしかない、と言うのであればもはや引き止めようもなし。黙って見守るのみですが、どうやら、なんとなくこちらの言うことは道理とでも思ったのか、それとも、木しゃもじの母ですからね、逆らわんとこうとでも思ったのかw とにかく息子は音楽学校は捨てたのです。しかし、それでギターを止めたかと言うととそれはなく、呆れるほどの没頭ぶりで、それは今に及んでいます。

「本当にその道を歩みたい、捨てがたい夢であるのなら、いつかきっと再び、その道標に従うであろう、周囲がなんと言おうと」これがわたしの持論であります^^(そして、2015年現在、彼は東京で働きながら音楽活動をしています)

音楽進路の悪夢がまた来ようとは!おっかさんは困ったのでしたw

日本の大学受験への道は長い・・・wこの章、明日に続きます^^

★本日の写真は大西洋が目の前に開けるポルトの海岸通りプロムナードからの景色
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2006年3月2日(木曜日)
世界遺産の街1

さて、Back to the「受験シリーズ」。

もいける娘本人が前回のコメントで告白してますが、日本のミュージックスクールはあまりにも高額な受講料で笑うしかなかったのでしたw受講料が東京の私立大学どころではござんせん@@

才能云々以前に、ピラミッドの如く立ちはだかる親の財布の中身という現実の壁w諭すまでもなく、これで一発、目が覚めたことでしょう。本人は案内書をゴミ箱に捨てましたようで、母も「^^;」な面持ちでそれを横目で見て見ぬ振りしたのでした。

(裏話)可哀想ではあったが、本当にしたかったら、チャンスはいつか来るぞ!夢の実現は見続ける事が第一歩なのだ^^

2002年夏、2年ぶりに今回は娘と二人で帰国です。帰国する時は、小学生時代から、できるだけ「体験入学」という日本の教育制度を利用させてもらいました。

「体験入学」と言うのは、海外に住む日本国籍を所有する義務教育学齢にある子供たちを一定時期受け入れ、日本の学校体験をさせてくれる制度です。帰国する前に滞在区域が所轄になる学校へ連絡を取りお願いします。

住民票が要りますから、一旦転入届を市役所に届出ます。学校では、万が一、事故が起こった場合の責任問題が残りますから個人で保険に入るか、もしくは一筆書くか致します。また、こちらの学校は6、7月が学年末で欠席することになります。少し煩わしい体験入学申請手続き、こちらの学校の欠席など考えいれても、日本での体験入学は価値があると判断したり。

小中学校の体験入学は義務教育にあたりますから、たいがい受け入れてもらえます。が、高校となると公立は無理です。我が娘の場合は、帰国子女の受け皿校であった「東京学芸大学付属高校・大泉学園」に思い切って連絡をとってみたのでした。日本の普通の高校とは雰囲気もカリキュラムも少し違っていましたが、ここに、もいける娘は一夏通学することになりました。生まれて初めての、一人での電車通学^^かなり刺激的ではあったようです。

こんな調子で、彼女の日本の大学受験の夢は大きく膨らむばかり。膨らまないのは、その手助けをしなければならない親の懐具合でありました^^;受験のための帰国費用、受験費用、間違って合格してしまったら、その後の一切合財の入学費用、それに毎月の生活費。

毎月の授業料がなんとかなったら生活はどうやってするのだ?生活ができたら、授業料はどこからでるのだや?娘よ、こりゃ、無理だ・・・しかし、いよいよと彼女は「新聞専売店に住み込んで」の方法に傾いて行きつつあるのでした^^;

高校の体験入学も終え、夏休みに入っていたある日のこと運命の出会い は、やってきた!

★今日の写真は昨日に引き続き、旧ポルト市街にある古い家並みです。
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