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2019年5月22日

しばらく途絶えたままにしていました、シリーズ「毎日が日本語英語ポルトガル語」、今日は第8話です。

 
ひらがなを初めて学ぶとき、「あいうえお」と始める人は多いのではないでしょうか。
「アリのあ」「イヌにい」と言うように。

わたしが子供達に取った方法は少し違います。
ローマ字でもそうなのですが、A,B,C,Dというのは、文字自体が意味を持ちません。
これでは、子供に求められたときに説明に困ります。わたしの場合は、このように、ひらがなの読みを始めました。
母音5文字から、まず始めました。

あお   いえ   うえ

「あいうえお」の5文字から簡単で、身近な言葉をつかい、こんな風に言葉カードを作りました。

このヒントは、もちろん、先の英語の初歩の教え方から得ました。「か行」に入ると、今度は「あか、かお、いか、えき、いけ、こい、あおい、あかい、」と段々言葉のカードも増えていきます。

実は同じ方法をわたしは今も、日本語教室で初めて日本語に触れ、ひらがなを学ぶ生徒さんに使います。

これは、ひらがなの読みと言葉を繰り返して覚えることになります。
あ行のカードが読めるようになったら、今度は、「あ」「い」「う」「え」「お」の大きめの単独カードを見せます。すると、「あおのあ!」「いえのい!」と言う答えが子どもから返ってきます。

始めは「カード遊びをしようかなぁ」と子供を誘い、最初は2枚の大きなカードを見せてゆっくり読みます。
次は、その2枚のカードをテーブルの上に置き、カルタとりです。次は、もう一枚増やして3枚のカードとりになります。

新しく作ったカードをこれに加えて行きますから、最後はかなりたくさんのカードを並べてのゲームです。
子供からすると、あくまでも、遊びの感覚です。わたしは初期の頃は、子供が飽きる前に切り上げることに気をつけました。

4歳からですと、小学校にあがるまでに、時間はたっぷりあります。ゆっくりと、苦労せず楽しみながら、しかも確実に身につくようにするには、「飽きる前に切り上げる」、これがよかったのではないかと思っています。

「もっとしたい!」
「そうね。でも、お仕事があるから、もうお終い」
こういうことが何度もありました。

子供が幼稚園に行っている間のひらがな言葉のカード作りは、当時、時間を持て余し気味だったわたしにとって楽しみでした。

帰って来ると手を洗わせ昼食を済ませ、少し休憩してから、カード読み遊び。これが土日を除いては毎日繰り返されました。

こうして英語と日本語の言葉覚えが同時進行して行きました。
次回に続きます。
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2019年5月8日

子供達がポルトガルで学校教育を受けていた頃は、「日本の教育は優れている」というのがわたしの頭にありました。しかし、その後、様々の教育問題のニュースを目にして行くにつけ、その見解は変えざるを得なくなります。

ポルトガルでは、学校は学科を学習する場であり、もちろん悪い態度などはその場で注意されるでしょうが、原則的に一般的なしつけは家庭のすることである、という前提があるように思います。子供達が授業を終えて校舎を出た途端、学校はなんの責任も負いません。

ですから、小学生(1年生から4年生と言う)の場合は親、或いは祖父母が徒歩、車で送り迎えするのが当たり前で、小学生がたった一人で歩いて登下校するのを目にすることはほとんどありません。

学校内に於いて、もっと配慮があると思われた日本の教育を受けてきたわたしが、子供達をBritishSchoolに入れた理由には、家庭では勿論しつけをするけれども、自分の目の行き届かないところで他人から受ける教育は少年期には大切だと思われたことにあります。英国の私立校は昔から厳しいdisciplineで知られています。「鉄は熱いうちに打て」ですw

わたしたちが日本の中学高校で学ぶ英単語には、日常生活用語や英国やアメリカの子供たちなら誰でも知っている単語が余り含まれていないことに気づき、英語を学ぶのが嫌いでなかったわたしは、子供達のノートやカードを作ることが大いに勉強になりました。

単に単語を覚えるだけでは、コミュニケーションはできません。わたしが毎日したもうひとつのことは、ベッドタイムの本の読み聞かせです。ポルトでも英語の本、特に子供向けの本はほとんど手に入りませんでした。しかし、ここがわたしの運のいいところだったのでしょう。ごらんください、この写真。

kikoku3_1.jpg

これらの本は息子が4歳の時に帰国していた頃、大阪梅田にある大きな書店「旭屋」の店頭で投げ売りになっていたのを、偶然にも見かけたものです。

洋書がたったの100円でした!迷うことなく30冊近くの全てを買い込みましたw 買った時には知らなくて、数年後に気づかされるたですが、買い手もなく店頭に転がっていたこれらの本は、実は児童向けの有名な本だったのです。

本の中でも子供達が喜んだのは、「Dr.Seuss」のシリーズ」でした。
「I am Sam」で始まる「Green Eggs and Ham」「Fox, Socks ,Box、Knox」で始まる「Fox in Socks」
言葉の語呂合わせがよくて、何度も同じ言葉が繰り返し出てきて、しかも絵が面白い。これを毎晩ベッドタイムストーリーとして何度も何度も読んだのでした。

海外で生まれた子供には、日本語の昔話はどうもうまく運びません。
  
むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。
おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯にいきました。
すると、川上からおおきな桃がどんぶりこどんぶりこと流れて来ました。

と、すかさず子供から、
「芝刈りってなぁに?どんぶりこってなぁに?鬼ってなぁに?」

鬼ってわたしの好きな泣いた赤鬼だってあるんだから、デビルじゃないしなぁ。どんぶりこって擬態語だよね・・およそ日本語ほど擬態語が多い言語はないんじゃないのん・・・えぇ~っとね・・・

おいおい、これじゃ、話が途切れてしまって続かないよ。と。こんな具合になってしまうのでした。

日本にいたら子供もわたしもあんな事ができる、こんな事ができる、と時々思いながらも、欲を言っても仕方がありません。毎日、上に述べたようなことを繰り返していたのですが、子育てが一段落ついたところで、ふと気づいたことがあります。

あんなこともこんなこともできなかった。テレビも面白くなかったし、今のようにショッピングセンターもなかったし、面白そうなカフェやレストランもなかった。子どもたちにしてみたら、テレビゲームもコンビニも、カッチョ良い文具品もなかった。

自己啓発、自己活性化のためにと、世間一般に言われる「刺激のある」生活はほぼできなかった。しかし、なんと落ち着いた規則的な毎日であったろう。

子供たちの精神が安定しており、ゆっくり時間をかけて学ぶことができたのは、きっとこの「刺激のない生活」ゆえだったのではなかったかと。

次回は、わが子の日本語学習取り組みに入って参ります^^
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2019年4月29日

我が子たちへの海外に於ける日本語英語教育は、35年も昔のことですから、社会の状況も変わり、そんなに興味の湧かない話であるかも知れません。

幼児、小学校低学年向けの、英語教育教材も、ひらがなカタカナ漢字、さらには計算習得の教材は、現在では数多くあって、どれを選べばいいのか選択にとまどうほどでしょう。

ポルトガルにいたわたしの場合は、それらが手に入らなかったので手元にあるもので間に合わせ、後は「自分がアレンジして作成する」のみです。

British Schoolは当時はまだ5歳児のPrep(5歳児の小学校準備クラス)しかありませんでしたので、息子が4歳になると、当時はポルトにただ一校あった私立のイギリス・キンダーガーデンに一年間午前中のみ通わせました。

今とは交通の便が違います。朝のラッシュ時は恐ろしいもの!
今だと自動車道路を走らせて20分ほどで行ける海の近くのその幼稚園でしが、当時はそれがありません。朝、交通停滞がひどい街中を走るわけですから、車でゆうに1時間はかかったのでした^^;

その頃のわたしは車の運転ができなかったので、朝の送りは夫の仕事です。帰りはというと、運良く斜め向かいに住んでいた、夫と同じ病院で働くFalcão=ファルカォン夫妻が一人息子をBritish SchoolのPrep(5歳児クラス)に入れており、終わる時間が同じなので、1年間ずっとこの迎えをしてくれました。

こういうこと、つまり、「ついでだから」を、ポルトガルの人は嫌がらずによくしてくれます。

息子を送り出した後は、午前中時間ができました。
夫の母、ふたりの年取ったおばさん、それに我ら3人家族が同居していた当時の家は、週に2度、広くもない家にお手伝いさんが来て掃除をして行きます。夫の母を始め同居のおばさんたちも一緒に掃除で動き回りますから、小さな家はいつもピッカピカ!

わたしの役目はと言うと、どうやらあまり手を出さないほうがいいらしい(笑)というわけで、 さよう、時間だけはたっぷりあったのでした。

息子がいないその午前中たっぷりの時間を使って、わたしは教材作りに励みました。それがまた、楽しいのです。

ご覧あれ、この写真(笑)!

kikoku1-note_1.jpg
1ページ1ページ、鉛筆の手描きですぞ(笑)

で、中身はこれ、この通りw 

kikoku2-note_1.jpg

何冊もある35年前のノートの一部。車庫から引っ張り出して来ましたw

オリジナルの学習ノートに子供がそのまま書き入れると、一回使って終わりです。
日本から取寄せるのもなかなか大変でしたし、コピーするにもコピー代が当時はべらぼうに高かった時代、とてもそんなことはできません。

入手したオリジナルの絵を写し、マスを書き、クレヨンで色付けします。このようにして、日本語も英語もオリジナルの絵を見て物の名前を覚え、ひらがなで書き込めるように、毎日2ページほどを、手描きで写しました。

読みは3歳で、先日紹介した英語の真っ赤な文字から入って、4歳にはこんな風に日本語の生活に密着する言葉の、「見ながら書きながら覚える」を導入。これをたゆみなく続け、5歳では、足し算を始めました。

覚えてもらうのにかける時間は「ゆ~~~っくりと」
そして、決してイライラなどして怒らないこと。

何度も何度も同じことを繰り返し手描きし、子供と一緒に必ず机に向かって座り、時間は長くてせいぜい15分!
褒めますと喜びますから、「もっとしたい!」と言い出します。

でも、ここがコツ!「今日の分はこれで終わりよ。また明日^^」

夫が仕事から帰宅しますと、今日はこんな文字を覚えた、とわたしたちの話は盛り上がります。こうして少しずつ夫の日本語の域を子供は超えて行くのでありました^^

世の中、便利になりグローバル化して、海外にいながらにして日本のテレビを見ることができ、欲しいものもたいていは日本から取寄せがきく現在、こんなことに自分の時間をつぶすなど、ちょっと考えられないかもしれませんね。

子育てから開放されてもっと自分の時間が持ちたい、自分の好きなことがしたい、という母親の話はよく耳にします。わたしも、これやってみたいあれやってみたい、こんな勉強したい、できれば大学にも行きたい、と語れる夢や希望はたくさんありましたし、今もあります。

しかし、あの頃のわたしは、子供の手描き教材作りに、自分の幸せを感じていたのでした。

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2019年4月22日

今でこそ日本国外にいてもインターネットを通じて母国日本のニュースを読むことができ、語学もその気になればネットサイトである程度習得できます。

わが子の日本語教育にしても、幾つかのキーワードを打ち込んで検索すると、逸れようのサイトがわんさとひっかかってくることでしょう。後は少々高くつくかもしれませんが、お金を払って教材を取り寄せる。しかし、1980年代初期の息子の幼児期にはそれがまだできませんでした。パソコンなどの言葉もなかったころです。自分でやるっきゃないのでした。

OLとビアハウスの歌姫バイトで数年かけて貯めた貯金は、ポルトに嫁いで来た時には、アメリカはアリゾナ州ツーソンの大学の語学コースと生活費、そして、ポルトまでの飛行機の足代で、全て使い果たしてしまったのでした。

夫がもっと早くに決断してプロポーズしてくれてたら、渡米せずに終わり、この貯金、当時のポルトガルでは、少し価値があったのに 長年のわたしの夢を中断させてまでして、言葉も習慣も全く違う日本娘を、あの頃のポルトガルに連れて来る勇気が夫には最初の頃なかったようでありました。

そんなんでしたから、ポルトに来るときには嫁入り道具どころか、提げる「鍋釜」もなかったんであります。そういう状況で我が子に、ポルトでピカ一授業料が高い「英国式の教育」をと言う、げに恐ろしき志を持った母ではありました。しかし、ヒントはありました。

「子供にどのような手立てで日本語を、英語を教えるか」をわたしは知人を通して、当時イギリスからとある資料を取寄せたのでした。

その資料とは、「How to teach your baby to read」のようなタイトルであったと思います。これは今でも車庫の中のどこかに他の本たちと一緒に眠っているはずです。

この本は英語圏の幼児に言葉を覚えてもらうためのガイドブックで、なぜ、幼児期がいいのか、そして、とられているその方法が効をなすであろう理由が説明されてありました。

本と一緒に、50枚くらいの薄いカードが入っていました。 
背景が真っ白な用紙に、真っ赤な色で、とても大きな字で単語が書かれていました。こんな感じです↓

doman-reading-booklet.jpg

最初のカードは mummy   daddy
たて20cm横80cmくらいは、あったでしょうか、びっくりするくらいの大きな字でした。白の背景に赤文字ですから、インパクトがある。今で言うフラッシュカード方式です。

この大きなカードを、日に何度かちょっとした機会を見ては、3歳の息子の前に、両手で広げて、「mummy」と言って見せます。

始めは、ポカンとしていた息子が、ゲームとでも思ったのか、やがてわたしが「マミー」と言い出す前に、彼の口から「マミー!」と出るようになり、こうして始まったreading、以後、覚える言葉はドンドン増えて行きます。カードのサイズは、読める単語が増えていくうちに、少しずつ小さくなって行きます。

こうして、3歳の息子が読める単語の数が増えていくのが、わたしは嬉しくてたまりませんでした。

今回、あらためてその本をネット検索してみましたが、多分これではなかったかと思います。

howteach.jpg

この本は、Glenn Doman方式と言うのだそうです。実はこの方式を初期の日本語学習者がひらがなを学ぶときに、教室で今でもわたしは大人相手に使っているのです。
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2019年4月15日

人口約22万(2016年)のポルトには、わたしが来た40年前の1980年代と比べてど大きな違いが幾つかある。40年も経てば、人も変わるし都市も変わります。

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ポルトの街を縫うエレトリコこと路面電車

現在ではポルトも周辺の11市を併せてGrand Porto、つまりポルト都市圏と呼ばれるようになりました。11市というのは、ポルトを始め、Vila Nova de Gaia, Matosinhos, Maia, Espinho, Gondomar, Póvoa de Verzim, Trofa, Santo Tirso, Valongo, Vila de Condeで、この都市圏での人口は約160万人と言われます。

かつての商店街は土曜日の午後と日曜日祝日はどこもかしこも閉まっていました。本当に一軒も開いてるところはありませんでした。7、8月ともなるとあちこちの店も2週間から一ヶ月の夏季休暇に入り閉店であります。

スーパーマーケットもほとんどなかったので、食品の買い出しは、各曜日ごとにどこかで開かれる「火曜市」とか「水曜市」で買い物をするのである。ポルトガル語ではこの手の市をFeira(フェイラ)と言います。

この「市」がわたしは苦手でした。なぜかと言うと、スーパーマーケットと違い、ほとんどの売り物に値段が示されていないのです。よって、交渉して買うことになるのですが、値切った経験などないわたしは、なぜかは知らねど、恥ずかしくて、とてもできることではなかったのです。それは今に至っても同様。どんな所どんな時でも書かれてある、あるいは言われた値段を値切ることはしません。

そんなわけで、市での食品買い出しはもっぱら同居していた夫の母や叔母たちに任せたきりでした。とは言うものの、本当を言えば義母の台所であるからして、わたしは極力手を出さないように心がけたのではあります。。昔から言うではないですか、一つ屋根の下に主婦は二人は要らない、とね。二人いるととかく問題が起こるのであるからして(笑)

それが、1986年、ポルトガルがEC(European Community。現在のEUの前身)に加入した頃から、あれよあれよと言う間に、市内にはファッショナブルなショッピングセンターが数箇所お目見えし、そのうち、地階にハイパーマーケットを構えて上階はファッションショップとファーストフードショップがズラリと立ち並ぶ外資系の大手のショッピングセンターが、郊外に現れ始めました。

映画も、それまではダウンタウンの映画館に行っていたのが、このショッピングセンターへ行くと、映画館ならず、「映画室」が10室近くあり、自分の観たい映画を上映する部屋に入るという具合になりました。

これらの大手のショッピングセンターは、土日祝日でも開いていて、この小さな街の市内郊外に、知っているのだけでも9軒はあります。そのうち更にスペインのデパート「El Corte Englês」がオープンされました。

ヨーロッパ共同体はご存知のように国境がなくなり、物質流通は自由。世界中のブランド品が、お金さえあれば、ポルトでいながらにして手に入れることができる時代になったのす。

中身の程は知りませんが、ポルトガルも都市を見る限りは、生活は80年代に比べると随分便利に、そして豊かになったように見える。

しかし、人間とは不思議な生き物です。これまで手間暇かかってきた事物が改善され、便利になった途端に、自由な時間を楽しむどころか、更に輪をかけて、己を忙しい生活に追い込むようです。

ですから、わたしがこれから述べて行く、我が子たちの「日本語教育」法は、もしかしたら、多忙な現代の方たちには、さっぱり役立たないかも知れませんが、何かのヒントになれば嬉しいと思います。

ポルトガルに来た当時のわたしは、少し英語が理解できるくらい。ポルトガル語の理解力は皆無でした。今のようにポルト大学での外国人向け・ポルトガル語コースもなく、市内にある語学学校でのポルトガル語コースは個人レッスンのみで、企業関係の奥方じゃあるまいし、とても個人で払えるような授業料ではありませんでした。

これがわたしの状況でしたから、仕事など探すにも探しようもなく、舞い込んでくるはずもなし。息子が生まれた時、仕事もお金もなかったけれど、「時間」だけはイヤというほどたっぷりあったのでした。

日本にいたときは手にしたことがなかったレース編み、毛糸編みの針を持ち、ひたすら本とにらめっこして、編み物に挑戦したのはそれゆえです。当時のポルトガル女性は家で時間をみては編み物をせっせとしていましたし、どこへ出かけるにも編み物はバッグの中に忍び込ませ、バスの中、病院での順番が来るまでの待ち時間に、編み物をする女性の姿が見られるのは普通でした。

ですから、同居していた義母も夫の叔母もその通りで、教えを請えばよいものを、わたしはそれをせず、独学の方法を採ったのです。可愛くない嫁ではありましたね。けれど、最初は不ぞろいだった網目も、何枚も作っていくうちに目が揃い、テーブル用、ベッドカバーなどの大きなものができるようになり、果ては、子どもたちが幼児期に来たセーターのほとんどは、わたしの手編みになるというところまで、腕をあげました。

このような環境にいたことをお含みいただき、さて、今日の本題に。

息子の学校の選択については、「やりくりして、なんとか頑張ってみよう」と、最終的には夫が折れ、Oporto British School のPrep(プレップ。小学1年への準備幼稚園クラス)に送ろうということになりました。わたしはこの時、夫をいかに説得するかの方法を発見したのであります。うふふ。

以後、かなり難しいことでも、夫はいつの間にか、こちらの陣地に引きずりこまれてウンと言わざるを得なくなるというこの方法は、娘の日本行きにも効をなしたと思います。

ということで、いよいよ次回は、どのようにして、息子と二人三脚、日本語英語を仕入れていったかを綴ります。

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