2017年2月9日 
記憶の中から取り出せる母の思い出が凝固したような一枚の写真がある。

mother

数年前に帰国した折、投宿先にしていた妹宅の机の上に飾られていたものだ。こんな写真があるとは思いもよらなかったものだから、それを目にした時はちょっとした驚きで、しばらくこの写真に見入ったのであった。母がよりかかっている橋の欄干からすると、写真は弘前公園であろう。

手前で目を伏せてしまっているのが妹だ。わたしは母の横で愛想もなく突っ立っている。これが、やがて近所のガキ大将になってチャンバラするがごとく棒っきれを振り回し、ビアハウスの歌姫、アメリカ行きの青春時代を経て、ポルトガルに定着した自分であろうかと、この写真からは少し考え難いのである。いったい誰が想像したであろうか。だから、人生は面白いと言える。

この写真を目にすると、決まって我が脳裏にこの歌が聞こえて来、幼い頃の思い出がとても懐かしくグルグル巡ってくるのである。




随分前のことになるが、知人が好意で送ってくれた本に斉藤孝氏の「声に出して読みたい日本語」というのがある。その本の一ページ目を開くと、
     
    「知らざあ言って聞かせやしょう。浜の真砂と五右衛門が、
     歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ガ浜」

と、眼に飛び込んできた。おお、知ってる!ご存知、白波五人男の一人、弁天小僧菊之助」が歌舞伎
「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)、浜松屋の場」での語りの部分である。興奮で高鳴る胸おさえながら、ザーッと急いでページを繰ってみると、あるわあるわ、七五調の語呂良い歌舞伎がらみ浪曲がらみのセリフが。

 「赤城の山も今宵を限り 生まれ故郷の国定の村や、縄張りを捨て
  国を捨て、可愛いこぶんのてめえたちとも別れ別れになる門出だ~」
                   (国定忠治 赤城山)

 「旅ゆけば、駿河の国に茶の香り、名代なる東海道、名所古跡の多い
  ところ、中に知られる羽衣の、松と並んでその名を残す、海道一の
  親分は清水港の次郎長の~」
                   (森の石松 金毘羅代参)
                   

わたしはこれらのセリフの面白さと懐かしさに引き込まれ、「ねね、ちょっとおいでよ」と娘を傍らに呼び、これも覚えてる、これも!と大声出して一気に読んだものである。

これら18番のセリフをわたしは学校の教科書で覚えたわけではない。更に言えば、歌舞伎など生まれてこの方、まだ一度も観劇したことはない。子供のころからこれらのセリフをわたしは母を通して耳にし、自然に覚えたのだ。

母は大正生まれであったが、当時の人にしてはモダンでわたしたち姉妹を連れては、よく外国映画を見に行ったものである。しかしその母は任侠物も好きだったようで、機会あるごとにわたしたちを前にしては朗朗と詠んだものだ。幼かったわたしはそれを耳にして覚えたに違いない。

尋常小学校4年を出ただけにしては書物が好きな人であった。晩年まで枕元に文庫本を目にしない日はなかった。読んでいた本は、池波正太郎、柴田錬三郎、平岩弓枝、藤沢周平と時代物がほとんどで、母は言ってみれば、好みが和洋折衷の人だったのだ。

サウジアラビアのジェッダに赴任することになった妹夫婦の家族と長年同居してきた母を厳しい気候条件の砂漠の国に連れて行くことはできないと、当初は妹たちが帰国するまでポルトガルのわたしたちと住む予定になっていた母だったが、渡航前になり「異国で死ぬのはイヤだ。」と言い出して結局学生二人の甥たちと所沢の家に残ることになった。

しかし、それが軽痴呆症の引き金になったようである。それまで妹夫婦の4人家族とワイワイ一緒に生活してきたのが、家にいるかいないか分からないような甥たちとの同居である。突然ひとりぽっちのようになってしまったのだ。80才になっていた母にこの孤独感はさぞかし堪(こた)えたに違いない。

当時大学院に通っていた甥からある日ジェッダの妹に、「おばあちゃんがおかしい。」と連絡が入った。公務員の規定で、またサウジアラビアという国柄故、すぐには出国できなというので、急遽わたしが一時帰国することになった。

それまでわたしが子供や夫を伴って帰国する毎に長い滞在をさせてくれ、ワイワイガヤガヤの思い出深い所沢の妹宅は、初夏だというのに冷え冷えとしていた。妹夫婦がジェッダに赴任してたった4ヶ月後のことだった。

母は夏だというのに、まだ冬の服を着たままでちょこんとリビングのソファに座って見るともなしにテレビを見ていた。その時初めてわたしは母に何が起こったか知った。

もはやポルトガルに連れて来るわけにもいかず、妹夫婦も赴任したばかりで帰国もならず、それでも急いでわたしの後に1週間の休暇をとり帰国してきた妹夫婦と3人で話し合った結果、母には「下宿」と称して軽痴呆の人だけ(自分の周りのことができるという条件がある施設)を受け入れる施設に入ってもらうことになった。

急なことだと言うのに施設が見つかったこと事態が幸運であったと思う。施設は幸い妹宅からそう遠く離れていないところにあり、入居する前に母も連れて行き、入居者20名くらいの施設の中を案内してもらい、「ひとりぽっちだど寂しくなるし、わたしたちも心配だからね」と母を説得して入居してもらうしかなかった。

妹夫婦が先にジェッダに帰り、母の引越しはわたしと甥とですましたのだが、いよいよわたしがポルトガルに帰る段になり、それまで毎日訪問してきた施設に母を最後に訪問した日のこと。

「大丈夫。わたしもしょっちゅうおばあちゃんの顔を見に行きますから。」と親切にも車で施設まで一緒に行ってくれたお隣の奥さんの車に乗り込んだのだが、玄関前まで出てきて、小さな姿でわたしに手を振る母を見て、お隣の奥さんが運転する側でわたしは溢れ出る涙を何度も何度もぬぐった。

母は施設に2年ほどもいただろうか、2003年2月9日にみまかった。今日は母の命日である。母の葬儀は、読経のない花と音楽の葬だった。費用の高い戒名はいらぬと同居していた妹の話では、自分の葬儀はそのようにできたら嬉しいと洩らしていたようだ。

わたし達は市の斎場の一室を、そして、棺の周りをたくさんの花で飾り、母の好きだったタンゴの音楽を流し続けた。蒼空、黒い瞳、ブルータンゴ、奥様お手をどうぞ、真珠採りのタンゴ・・・それを聴いていると、パートナーなしでも、まるでそれがいるかのようにわたしたちの前で一人踊っていた母の姿が思い起こされる。

近所や行きつけの店の人達の間では、ちょっとおしゃれで元気のいいおばあちゃんとして知られていたようで、わたしたち家族の他にそういう方たちが集まって母をしのんでくれた。

間もなく今年も、所沢の妹宅のすぐ側にある母が愛した桜並木の花が咲き始めるだろう。自然はこうして一年をぐるりと経て、再び芽吹く。人間の生は、と思い巡らすとき、わたしは遥かな宇宙の神秘に心を馳せずにはいられない。肉体が滅びた時にわたしたちの生命の種は終わるのだろうか。それとも子孫を経て巡り巡って再び植物のように芽吹くのだろうか。

Maktub。「全ては書かれてある」というアラブの言葉にあるように、宇宙の全ては、大いなるものの手による法則で始めから定められているのだろうか。

母がみまかって今年で14年になる。待てよかし。母よ、やがて我もまた逝かん。

本日の記事は過去に書いたものに少し手を入れました。
長い拙文を読んでいただき、ありがとうございます。

では、また!

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2016年11月13日 

さて、1978年にアメリカで出会った歌が「Send in the Clowns」だということを発見したと書いたのは前回。今回、舞台はアメリカからケンブリッジに移っての歌の話です。

ケンブリッジはわたしにとり、初めての外国でした。1975年6月で、大阪のOL時代です。一ヶ月の語学留学でしたが、ローンを組んでの借金でした。オフィス勤めでしたから一ヶ月の休暇をとるのに多少苦労しましたが、持ち前の度胸で東京本社に「給料は要らないので一ヶ月の休暇をくれ。仕事は同僚と話をつけてある」と直談判し、会社創立以来、一ヶ月もの長期休暇をとった最初で最後の社員でした。

で、その休暇で何をしたかというとローンでイギリスのケンブリッジ・ホームステイの語学留学をしたのであります。

この頃はビアハウスの歌姫バイトはしておらず、もう27歳になっていましたが、日頃から独学していた英語、どうしても本場に行って見たいとの思いが強く、思い立ったらぶつかるのみ、の性格です。そうやってゴネて借金を作り出かけたケンブリッジ語学学校留学でした。

今から40年以上も昔のことです。現代のように多くの人が海外旅行をしている時代とは違い、なかなか勇気のいる決断でした。乗ったフライトもほんとにひどいアエロフロートでしたしね(笑)

ケンブリッジ1975
コースで同級生だったスイス人のブリジット。キングス・カレッジにて。

さて、成田空港はまだない時代で、男女6、7人の留学グループが羽田空港に集合です。中の一人に同年輩で九州宮崎からの女性が母親に見送られて来ていました。彼女とは留学中に仲良くなり、帰国して後は宮崎で当時のボーイフレンドであった現夫もいっしょに、お世話になったこともあったのですが、その彼女が聞かせてくれた話。

空港であなたを見かけた母が、「しっかりしていそうなあの人にくっついて行けば間違いない。安心だ」と言ったのだけど、友達になって分かった。どこがしっかりしてるのよ~。おっちょこちょいそのものじゃない。がはははは!・・・・・・・・・・^^;

すぐ化けの皮がはがれるのも、わたしである。いや、もともと、「しっかりしている」化けの皮を被っているつもりが本人のわたしにはなく、それは人様が勝手にわたしと言う人間を買いかぶってしまうのであって^^;なんともやっかいな話ではある。

6月、大学は休暇に入っており街にはケンブリッジ大学生の姿もなく静かで、わたしのそこでの生活は女の子が二人いるイギリス人家族の家でのホームステイでした。その時初めてイギリス人の食卓が随分と質素だと言うことを知りました。そして夕食のメニューのほとんどは鶏肉と茹でた野菜類でした。小食のわたしが、ホームステイ先での食事では足りなかったのでありましたっけ(笑

ケンブリッジ1975

写真のように市やスーパーマーケットで小さなりんごを買い置きしては、夜、部屋でそれを食べて腹をふくらましたものです。
前書きが長くなりましたが、Judy Collinsの歌に出会ったのは、このホームステイ先でした。週末をリビングでのんびり過ごしていたホームステイ先の夫妻といっしょにわたしも同席していました。この時、ミセスがかけてくれたレコードが「Amazing Grace」だったのです。

この歌はわたしの心に深く残り、この後1年後に始めたアサヒビアハウス歌姫バイト先で知り合ったキャセイ航空のクルー仲間とのおしゃべりの祭にこの歌が話題に上り、その中の一人が、楽譜を探し出してイギリスだったか香港だったかから持ってきてくれたのでした。

ビアハウスで歌ったのかって?と、とんでもござらん。飲む席で賛美歌など、バチがあたるというもんでしょう。ギターを弾きながら一人家で歌っていたのであります。

1970年にJudy Collinsが歌って大ヒットしたのだそうですが、これはイギリス人の牧師、ジョン・ニュートンが作詞した賛美歌だということを後に知りました。18世紀半ば、奴隷貿易に携わり富を得ていたニュートンは船が嵐に遭ったとき、生まれて初めて真剣に神に祈り生死に一生を得ます。やがて牧師になり、後に奴隷廃止法案をイギリス国会で進めたウイリアム・ウイルバーフォース(William Wilberforce)は、このニュートンの影響を受けています。映画「Amazing Grace」では、政治家ウイルバーフォースの奮闘が描かれています。

Judy CollinsのAmazing Graceを見つけました。


最後におまけでケンブリッジ語学留学時、週末を利用したロンドン見学の当時の写真をば。

ケンブリッジ1975
 
ロンドンの安宿B&B宿泊。いやぁ、ここ、部屋の状態がひどかったなぁ。ロンドンの町をただひたすら歩き、目には見えなかったけれどスモッグのせいでしょう、一日の終わりには手足の爪が黒くなったものです。

ケンブリッジ1975

当時から歩くのが好きだったわたしが同伴した上の彼女に言われた一言が、「もうあんたとは一緒に観光で歩きたくない・・・疲労で足が死ぬよ」で、ありました。

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2016年11月9日 

昨日の朝は起きて一番にパソコンに直行、アメリカの大統領選結果はどうなったかとウェブ新聞をクリック。思わず画面に跳ねた文字「トランプ」に、うわ!と驚き、まだ寝入っている夫のところへ行き、「トランプだってよー!」と、叫んだしだいであります。

いえね、自分の国のことではないのだけれど、その昔はアメリカに憧れて一念発起、都会で女一人暮らしをしながら、渡米の資金作りのためにオフィスとビアハウスの歌姫バイトで骨身を削って、ついに渡米。結局は、現夫と結婚するが故に移住とまでは行かず半年ほどお世話になった国です。それ故、何かと気になる存在なのであります。

好き嫌いは別にして「やはり次期大統領はクリントン氏であろう」と予想していたものですから。
トランプ氏に対しては毎日のようにこちらのテレビでキャンペーン中の歯に衣着せぬ暴言如きを目にして、これはいかんがな、大統領としての品格に欠けていそうやなぁ・・・と心中思ってきたのです。ポルトガルではTempestado(テンペスタード=暴風雨)をもじって「Trunpestado(トランペスタード)」などと言われているトランプ氏、果たしてこれから先、世界にどんな旋風を巻き起こすのか、心配でもあり楽しみでもある複雑な気持ちです。

「Change」を売り物に座に着いたオバマ大統領が、恐らく彼の思うどおりには行かず、大きなチェンジをもたらさなかったのと同様、トランプ大統領になっても案外大変化がないということもありえます。

さて、昨日はネット内でちょっとした出会いがありました。出会いと言っても、相手は人ではなく音楽なのです。1978年、アメリカのアリゾナにいた時に、蚤市だった、かどこか野外で耳にした曲なのですが、メロディーの美しいのに惹かれたものの、曲名が分からない。歌詞も聞き取れず「crown」 もしくは「clown」だけが検索のキーで(rとlの聞き取りは今でも弱点なりw)、以来探し続けてきたのです。

それがついに見つかった!



美しいこの曲は1973年にブロードウエイで上演されたミュージカル「A little night Music」の中で歌われたのだそうで「Send in the Clowns」だと言うのです。このミュージカルは1977年に映画化されたとありまるので、ちょうどわたしが渡米した時期と重なります。

映画はどうやら日本での上映はなかったようです。出演がエリザベス・テーラーでYoutubeで彼女が歌うのを初めて聞きました。歌は名だたる多くの歌手が歌っていますが、わたしが初めて耳にしたのはエリザベス・テーラーではありませんでした。
わたしは音感がいいので(と、自分では思っている)、このメロディはすぐおぼえました。

この先自分の人生はどうなるのかと不安を抱えながら、広島とツーソン、遠く離れた当時の恋人(現夫)を思い、よくこのメロディを心の中で奏でていたものです。上記のはイギリスの歌手「Judy Collins」ですが、彼女は1977年にこの歌をリリースしていますから、アリゾナで耳にしたのは恐らくこれでしょう。

「Judy Collins」の名を目にし、思い出したことがあります。この人の楽譜をわたしは持っているのであった、と。玄関ホールの娘のピアノの下にある埃をかぶった楽譜類の中に色褪せたそれを見つけました。

Amazinggrace

なんて懐かしい。Judy Collinsの「Amazing Grace」です。この楽譜にもいきさつがあるのですが、それはこの次にまわしましょう。
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2016年8月19日 

東京に住む我が息子が帰省しており、数日前にはGFもポルト到着、夫も10日ほどの夏季休暇を取って我が家は目下、図体の大きい大人があっちでゴロ、こっちでゴロしている毎日です。夫婦二人の静かだった生活がとたんに賑やかになり、わたしも日本語教室を休んで、得意でもない料理にいそしんでいます。

さて、今年5月の弾劾裁判で180日間の職務停止を受けたブラジルのルセフ女性大統領ですが、オリンピック開催期間がその中に入り、彼女としては残念なことになりました。我が家も普段は朝テレビをつけるなど、まずないのですが、休暇中の夫がずっと見ています。そのリオオリンピックも今週で終わりますが、わたしは何と言っても最後のマラソンを見るのが好きです。

今日は、多くのシーンでも、わたしにとり忘れられないマラソン選手について、2008年の記事を書き直して再アップさせてください。

以下。

「北京オリンピック、ボイコットよ。」などと偉そうに言っているわたしですが、なに、もともとスポーツ観戦にはあまり興味を持たない人間で、さほど苦にもならない。見ると言えばせいぜい国がらみのユーロカップ、ワールドカップくらいで、それも「にわかファン」そのものです。

マラソンは一度たりとも長距離を走ってみたことがある人は、それがいかに過酷な競技であるかを知っていると思います。高校時代の学校恒例行事で女生徒は否応無しに全員5000mを走らされましたが、単に走ることがこんなに苦しいことかと、このときの体験は生涯忘れるものではありません。後で振り返ってみると、これは人生に似ていると思わされた大きな体験でした。

上述したように、スポーツ祭典はあまり熱心に見るほうではありません。1984年にロス・アンジェルスオリンピックの時のこと。この年、わたしは4歳になる息子を伴って帰国し、大阪は堺にあるアサヒビアハウスの歌姫時代の大先輩、宝木嬢のお宅に数ヶ月居候していたのでした。

宝木嬢もかつてのわたしと同じように、日中はオフィス勤め、夜はビアハウスで歌姫に変身。居候中の日中、わたしは彼女の家の留守番役をしていました。

ある日のこと、オフイスで仕事中の彼女から電話、
「テレビ観てる?マラソンでポルトガル人選手がトップを走ってるわよ!」

その日もオリンピックなどどこ吹く風、鼻歌など歌いながら、宝木家の掃除やら洗濯やらをしていたのんきなわたし、慌ててつけたテレビの画面から、おおお!競技場に今や入らんとするカルロス・ロペスの姿が目に飛び込んで来ました!

やるじゃない、ポルトガル!と、いつもの如く、にわかに声援しました。37歳のカルロス・ロペス、この年は金メダルを獲得したのでした。

わたしは、帰国中に再びバイトとしてアサヒビアハウスで週に2度ほど歌っていたのですが、数日後、常連仲間で、○サヒ放送のK氏の話で耳にしたのは、通常は競技が終わり次第すぐ報道できるようにと、主だったル優勝候補者の写真を前もって各社が入手、用意しておくのだそうです。

ところが、ポルトガルのカルロス・ロペスなど優勝候補に上がってもいなかったので、どこの報道社も彼の写真を持っていなかった。だからメディアで使用された写真はロペスのゴールを切るものばかりだった、との裏話。

この後、ポルトガルはソウルオリンピックの女子マラソンで優勝し、世界記録も保持するロザ・モタ(ポルト出身)というヒロインを生むわけですが、これらにも増して、わたしが今でも思い起こすたびに胸が熱くなってしまう忘れられない光景が、ロスアンジェルスオリンピックにあるのです。

それまで女子マラソンはリスクがあるということで、オリンピック競技には入れられていなかったそうですが、この年、初めて女子マラソンが登場しました。なんの拍子でか、わたしはたまたま女子マラソンの後半を見ていたのですが、このとき、競技のほとんど終わりのころ、会場に熱中症でふらふらになりながら入ってきた選手がいました。観衆は騒然とし、テレビを見ていたわたしも思わず目を凝らしました。

彼女は、先の一歩を踏み出すのもようやくのことで、今にも倒れそうです。トラックサイドの係員が手を打ひて彼女を支えたが最後、競技からは失格です。それを拒みながら、重病人のようなアンデルセンは一歩一歩と左右によろめきながら進んでいきます。会場の観衆は一丸となり彼女を声援します。もちろんテレビを見ていたわたしも、がんばれ!がんばれ!と応援しながらいつの間にか涙が頬をつたっていました。

andersen.jpg
画像はwikiから。

スタジアムに入場してからの一周を意識朦朧とした状態でヨロヨロ進みながら6分ほど。彼女がついにゴールした時、会場の観客は総立ちで嵐のような拍手が鳴り止みませんでした。熱中症は非常に危険であり、ゴールと同時にアンデルセン選手は係員に抱きかかえられ、恐らく病院直行だったことでしょう。

このとき39歳だったアンデルセン選手(スイス)は、後日語っています。
「普通のマラソンならば棄権していました。初女子マラソンという歴史的大会だったので、どうしてもゴールしたかったのです」と。

長距離マラソンは孤独との闘いと言えるのではないでしょうか。このときの彼女の姿は、ヨロヨロになりながらも誰をも寄せ付けない自分との厳しい闘いに極限状態で挑み、Never give upの精神を観衆に知らしめたのです。人間てすごいなぁ、と30数年経っても感動を思い起こさせるオリンピックの一幕です。

この時は誰が優勝したか?それがです、このアンデルセン女子を覚えていてもゴールドメダリストを覚えていないのです。

下記サイトでその時の様子が見られます。
https://www.youtube.com/watch?v=0Hjm29CmMfg

本日はこれにて。
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2016年8月9日 

hirosaki
弘前市プロモーションから。

8月1日から一週間続く故郷弘前の今年のねぶた祭りも一昨日で終わった。初日から6日間、ねぶたは夜に町を練り歩くのだが、七日目の最終日は「なのかび」と言い、朝からねぶた囃子が聞こえ、日中の練り歩き、そして、岩木川原で今年のねぶたに火を放ち、炎で清めて川に流すのである。

nebuta2016-1.jpg
弘前プロモーションから。

ねぶたは「ねぷた」とも呼ばれるらしいのだが、幼い頃からわたしが呼んできたのは「ねぶた」だ。「ねぶた、ねぷた」は津軽人の標記しがたい独特な発音からであろう、わたしは定義はない思っている。

今日は、かれこれ10年ほども前に綴ったねぶたに関連する記事を再度載せてみたい。以下。


手元にわたしがこれまで一度も目にしたことのない幼い頃の写真がある。

2007年3月に東京のW大学から九州の公立大学に転校し、山口県の下関に移動した娘に会いに、一ヶ月ほど日本に滞在した時のことである。ポルトに帰る前の10日間ほどを所沢の妹宅で過ごしたのだが、お茶を飲みながらのある日のこと、妹が「こんな写真を小倉の叔父さんのところで見つけた。それでもらって来た。」と、数枚の白黒写真を持ち出して来た。

小倉の叔父というのは、3年ほど前に亡くなった、9人兄弟だった母の末の妹でわたしたちの叔母にあたる人の連れ合いである。本サイトエッセイ「思い出のオルゴール」の「急行日本海でも登場しており、当時は大阪に転勤で住んでいたのだが、わたしはこの叔父たちと多感な中学時代の最後の1年を弘前から転校して過ごしたのだ。
      
写真を見たわたしは思わず感嘆の声をあげた。祖母を始め、我が母、父、叔母の、今は亡き人たちの懐かしい顔が数枚の写真の中でにこやかに微笑んでいる。写真の背景も、わたしの記憶に残っており、妹と二人、時間のたつのも忘れて、ひとしきり昔話に花を咲かせたのだった。

hirosaki
わが祖母と祖母の9人の子どものうちの娘3人。右端がわが母である。左端に移っているのは、大家族として当時祖母の家に同居していた従弟のひとり。
  
そして、妹が「もう一枚!」と取り出してきたB3くらいのサイズの大きな写真がこれである。

hirosaki

これには、うわぁ~と、それこそ歓声をあげずにおらりょうか!今では日本の三大祭のひとつに数えられる、遠い昔の町内ねぶた祭りの一夜の写真なのだ。右のプラカードには「上新児童福祉協会」(上新=上新町)と書か
れ、左には「三国志 張飛奮戦○上新町」とある。○の字は読めない・・・

「この中にわたしたちがいるのよ。見つけられる?」と我が妹。
50数年も前の自分を探して、しばらく写真に見入るわたし。妹は言う、「わたしはすぐに分かった。」
わたしたちの幼い頃に関する二歳下の妹の記憶は素晴らしく、「あの時、こうだったああだった」との話を聞かされては、よく驚かされるのである。思うに、無鉄砲なわたしと違い、妹は子どものころからよく周囲を観察できたのであろう。

大勢のなかで、なぜだか一人だけ小首をかしげている女の子に出会った。
「こ、これじゃない?」と自信なさそうに指差す小さな顔。
「うん。それがゆうだ。で、わたしはこれ。」

hirosaki
小首をかしげているのが60数年前のわたし、下が妹。

背景は真っ黒でよく分からないが、左端にやぐらのようなものと幕が見えるところから、ねぶたの置き場から出た場所だとうかがえる。はしっこにちょこっと当時の自転車も見える。

ねぶた祭りは毎年あったのに、一枚だけがこうして残っているのは、恐らくこの年がわが祖母タマさんが町内のねぶた祭り世話係だったのだろう。一晩上町を練り歩いてねぶたを引っ張って帰ってくると、祖母が家でわたしたち子供のためや大人のために握り飯や菓子、飲み水などを用意して待っていたのを覚えている。

夏休みの8月1日から6日間、日が暮れ始めるとねぶた囃子が聞こえてき、わたしたちは、鼻にスーッと水白粉で白い線を引き、半纏を着て鉢巻しめ、中にろうそくの火をともされたこの巨大なねぶたを「ヤーヤドー!」と引いて下町から坂を上り上町へ出、弘前の夜の町を練り歩くのである。疲れて眠くなり、足元がおぼつかなくなると、ねぶたを乗せた台車に座らせてもらえた。

数台の大きな和太鼓は、ねぶたの後ろに積まれ、笛吹きたちも加わり「歩け」のリズム、「止まって休め」のリズム、「帰路」のリズムと、ねぶたを引くものたちに合図する。帰路には「ヤーレヤレヤーレヤ、ねんぷたのもんどりこ!」(ねぶたの戻り)と、眠気を吹き飛ばして掛け声かけて帰るのだ。

「ダカダン ダカダン」と、太鼓のリズムと笛から流れる音色は、今もわたしの耳に残っている。雪国の夏の六夜の、ほとばしる津軽縄文人の熱き血潮がふつふつと湧いてくるような祭りである。

この写真には、それから数年後、内弁慶のわたしが棒っきれ振り回し、やおらガキ大将になって泣かしていた子分たちもこの中にいるはずである。半世紀以上も昔の少女をかろうじて見つけられたわたしは、何度この写真を見直しても、あの頃の子分たちを見つけられないでいる。

小首をかしげている古い写真の少女を見ると、わたしは少し目が潤む。そして、静かに語りかけて見る。

「ハロー。あなた、随分歩いて、ここまで来たのね。」


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