2017年8月21日 

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしやうらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや   

高校時代に好きで覚え、今でも諳んじることができる室生犀星、「小景異情ーその二」の詩だ。

若い時分には大阪に出て少しひねくれた目で故郷を見ていたので、反抗心と故郷へのノスタルジアが入り混じった犀星のこの詩に、自分の心を重ねていたのである。大阪時代の10年間でわたしが帰郷したのは、恐らく2度ほどだろう。

さほどに「よしやうらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや」と、まこと、粋がっていたのであった。「なんでやの?」などと聞いてくれるな、おっかさん。人様に言えない事の一つや二つ、人なら誰にでもあることでっせ。

とは言っていたものの、そんな複雑な故郷への片思いは今ではかなぐり捨てて、故郷を日本を恋うる心に素直に従うようになったのは、古希の齢がなせるわざか。わたしも随分と角が取れて丸くなったものである。

さて、今日はFBの弘前シティプロモーションでこんな懐かしい写真を目にした。

Hirosaki

弘前では「お山参詣」と呼ばれる初秋の伝統行事なのだが、久しぶりにお山参詣の行列時に唱える唱文の謎解きを思い出した。以下に綴ってみる。


年に一、二度は弘前へ足を運んでいる妹夫婦、ある年、弘前のホテルでチェックアウトしようと荷物をまとめていたら、外から
「サ~イギサ~イギ ドッコイ サ~イギ 」
と聞こえてきたのだそうな。

ホテル9階の窓から土手町を見下ろすとお山参詣の行列が通って行く。行列を見ようとて慌てて階下へおり、こけつまろびつ行列に追い抜き、いっしょに並んで歩いたのだが、行列の唱文が子供のころに聞いて覚えていたのと少しも変わらないのに可笑しくて、ついにこらえら切れなくなり大声でウワハハハと笑ってしまったと言う。
 
お山参詣というのは津軽に昔から伝わる岩木山最大の祭りで旧暦の8月1日に五穀豊穣、家内安全を祈願して白装束にわらじ、御幣やのぼりを先頭に行列をなし岩木山神社を目指して歩く行事だ。

商店街の土手町から坂道を下り、わたしたちが子どもの頃住んだ下町の通りを岩木山目指して行列が歩いていくのだが、検索してみると子供だったわたしが記憶しているのと違い、行列の様子も少し変わったようだ。

Hirosaki
画像はwikiから

昔は白装束でお供え物を両手に抱えての行列だったのが、今では随分カラフルで「行事」と書くより「イベント」とカタカナかローマ字にしたほうが似合いそうだ。

さて、妹がこらえら切れなくなり大声でウハハハと笑ってしまったという、その唱文が、これである。

♪さ~いぎ さ~いぎ どっこ~いさ~いぎ
 おやま~さ は~つだ~い
 こんごう~どうさ
 いっつにな~のは~い
 なのきんみょう~ちょうらい

毎年こう唱えながら目の前を通り過ぎていく白い行列、子供心に神聖なものを感じてはこのお唱えをいつの間にか諳(そら)んじていたのである。この御山参詣が終わると津軽は一気に秋が深まる。

Hirosaki

長い間、そのお唱えの意味など気にしたこともなかったのだが母も亡くなり、帰国したある年、彼女が残した着物を妹と二人で整理しながら、3人で暮らした子供の頃の思い出話の中にひょっと出てきたのがこの「サイギサイギ」だった。

亡くなった母は津軽で生まれ育ち、60まで住んだ。その後は妹夫婦の住む東京へ移り所沢の彼らの家を終の棲家とした。義弟も津軽衆なので、東京にありながら夕食時の食卓は、妹、義弟、母の3人ともが津軽の出ではおのずと津軽弁が飛び交おうというもの。帰国した時のわたしは母と義弟が交わす津軽弁を聞くのが本当に懐かしく楽しいものだった。

その母が「ことすでに遅し」の意味でよく使っていたのが「イッツニナノハイださ」である。 はて?いったいこれは元来がどういう意味合いなのであろうかと妹とそのとき、疑問に思ったのだ。

たまたま、当時時折、我が母校の後輩で「サイホウ」さんと言う女性仏師とメールのやりとりをしており、聞いてみたところ、これが元になっていますと教えていただいのが下記。

懺悔懺悔(サイギサイギ)  過去の罪過を悔い改め神仏に告げ、これを謝す。

六根清浄/六根懺悔?(ドッコイサイギ) 人間の感ずる六つの根元。目・耳・鼻・舌・身・意の六根の迷いを捨てて汚れのない身になる。

御山八代(オヤマサハツダイ) 観音菩薩・弥勒菩薩・文殊菩薩・地蔵観音・普賢菩薩・不動明王・虚空蔵菩薩・金剛夜叉明王

金剛道者(コウゴウドウサ)  金剛石のように揺るぎない信仰を持つ巡礼を意味す。

一々礼拝(イーツニナノハイ)  八大柱の神仏を一柱ごとに礼拝する。 
          
南無帰命頂礼(ナムキンミョウチョウライ) 身命をささげて仏菩薩に帰依し神仏のいましめに従う。

唱文のカタカナの部分は津軽弁の発音である。


どの方言もそうだが、津軽弁は特に独特のなまりが多い方言だ。我が同窓生である伊奈かっぺいさんは津軽弁でライブをする人で有名だが、彼いわく、津軽弁には日本語の発音記号では表記不可能な、「i」と「 e」の間の発音があり、津軽弁を話す人はバイリンガルである、とさえ言っている。

わたしと妹が笑ってしまったのは「六根懺悔」が何ゆえ「どっこい懺悔」になったのかと、津軽人の耳構造はほかとは少し違うのであろうかとの不思議にぶつかったのであった。

大人になったわたしたちにしてみれば、「どっこい」という言葉はなじみでありとても唱文の一語になるとは思われない、なんで「ドッコイ」なのよ?と言うわけである。

実は「さいぎさいぎ」も「懺悔」ではどうしても津軽弁の「サイギ」に結びつかず、わたしは「祭儀祭儀」と憶測してみたのであった。そして、数日の検索で、ついに語源をみつけたぞ!

「懺悔」仏教ではサンゲと読み、キリスト教ではザンゲと読む、の一文に出会ったのである。「サンゲ」が津軽弁で「サイギ」、これで納得だ。

御山参詣は日本人の山岳宗教につながるものであろうか、修験者が霊山に登るのが弘前に行事として定着したと思われる。

父と母、わたしと妹4人家族が住んだ桔梗野のたった二間の傾きかけた埴生の宿のような家の窓からは、見事な岩木山の美しい姿が日々仰げたものである。

Hirosaki
画像はwikiから

テレビやパソコンなどのような情報入手方法がなかったわたしの子供時代、空耳で覚えていた唱文も今となってはいい思い出につながり、ふと頭を横切るたびに笑みがこみ上げて来て、懐かしい人々の顔が浮かんで来る。

正規の唱文の発音よりも300年も続いてきたであろう津軽弁の唱文に耳を傾けながら、修験者を受け入れてきたお岩木さんは、津軽弁そのままが誠に似合うようだとわたしは思うのである。

♪「さいぎさいぎ ドッコイさいぎ おやまさはつだい こんごうちょうらい(と、わたしは覚えている)
 イッツニナノハイ なのきんみょうちょうらい」

下町を歩いていく白装束と幟と、「イッツニナノハイ」と言う母の姿が浮かんで来るようだ。孝行したいと思えどおかあちゃん、14年前にみまかり、「イッツニナノハイ(事すでに遅し)」でございます。ハイ。

本日も読んでいただきありがとうございます。
よろしかったらランキングクリックで応援をお願いできますか?


にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2017年8月15日 

先だってことなのだが、月に1、2回の割りで国際電話で話す妹から珍しくメールが入った。

弘前に住む吉崎のおばさんからめったにない電話が来てどうしたのかと思ったら、おばさん曰く「Yukoの夢を見た。何かあったんじゃないか」と。

吉崎は9人兄弟であった亡き母の旧姓でおばは既に鬼籍に入って長い母の弟の連れ合いだ。妹の話を聞いてわたしは大笑いした。だって、わたしは古希ですよ。古希になって未だおばの夢に現れ心配をかけているとは!

そのおばに最後に会ったのはいつだったかしら?もう思い出せないほど時間が経ってしまった。

「ポルトガルで元気でがんばっているから心配ないと言っておいた。それでね、来年は二人で会いに行くと約束したよ。5月のこの日から3日間、弘前のホテルの予約ももうしたからね。」この時点で来年の帰国日程は決まったのである。

この後、弘前の南高校時代の同窓生、シマに久しぶりに電話をし、来年の弘前行きを話したところ、それなら、同窓会の恒例の秋の時期をずらすことになるけれど、Sode(わたしのこと)が帰省する春にできるよう、少し働きかけてみる、と言ってくれるではないか。

集まる同窓生たちも年々減って来ている年齢になった第一期生のわたしたちだが、この年齢になると、見た目、どれが教え子でどれが先生なのか見分けがつかないであろう、恩師との再会も今から楽しみにしているのである。

来年はおばを訪ねるのもそうだが、二人のおばが本家の墓から文骨したと聞くから、訪れる人も少なくなったであろう、母方の先祖の墓参も欠かせない。

お盆に因んでかつてあげた「早春の津軽行」の墓参を掲載したい。以下。

早春の津軽行にて。

hirosaki
列車内から臨むまだ残雪に覆われた津軽の野面(のづら)。

うっすらと残雪に覆われた陽光院を訪ねた。陽光院は弘前の我が故郷にある菩提寺である。

本当のことを言ってしまうと、陽光院という菩提寺の名すらわたしは覚えていなくて、所沢の妹に教えてもらい、地図を持っての墓参であった。その妹夫婦と3年ほど前に来たのが、実に約40年ぶりのことであり、わたしはまことにご先祖様不幸な人間なのである。

8人兄弟だった母とのお盆の墓参りは、一年に一度、大勢の親戚に出会う場でもあった。
「あ、四郎っちゃ達、もう来たみたいだね。」と言った母の言葉は、幼いわたしの記憶の中で今でも生きている。

とある年齢に達すると、たいていの人間は、持つ思い出の良し悪しに関わらず、生まれ故郷が恋しくなるとは、よく耳にする言葉だ。わたしもその例に漏れず、近年は弘前での子ども時代の記憶を
たどってみることも多く、思い出の糸を手繰り寄せては、時折したためている(「思い出のオルゴール」)。

「故郷恋しや」の思いと、さすがのご先祖様不幸のわたしも、この辺でそろそろ顔を出してご挨拶しておくべきではなかろうかと、殊勝にも考えるようになったのである。

いつもは妹夫婦と車で夜間、高速道路を走って帰るのだが、この時は東北新幹線で一人帰郷し、駅に着くと同窓生のタコ君が出迎えてくれた、という嬉しいハプニングがあった。

そのタコ君が墓参に付き合ってくれた翌日、寺の近くで花を調達し、陽光院に着いた。
「お線香、もって来た?」とタコ君。
「あ、すっかり忘れてた^^;」
「うん、大丈夫。俺が用意して来たから。」
情けない話である。

タコ君とは高校時代の友人で、この3年前に、高校を卒業して以来39年ぶりの再会をしたのだった。彼についての詳しいことは後日書くとして、弘前にいた二日間、彼はわたしのために車で動いてくれたのだ。

妹の話の通り、陽光院は改築中であった。墓地の場所は、本堂の横道から入るとだいたい分かっているのだが、既に立ち入り禁止になっており、タコ君とわたしは仮本堂でお寺の人を呼び鈴で呼び出しポルトガルから先祖のお墓参りに参りました。どうやって墓地に入れますか、と訊ねた。

隣の寺院から入れるよう、話を通しているとのこと。人っ子一人いない静寂な墓地の中を、わたしたち二人は転ばないように少し腰を落とし気味に残雪を踏んで入って行った。

「前に来たときに、こんな新しい墓石は周りになかったと思う。もうちょっとこっちの方じゃなかったかしら。」と頼りないわたしの言。少し後戻りすると、「あ、こ、このあたり・・・・。もしかしてこれかも。」と立ち止まった墓地は墓石も含めて、あたりが真っ白い残雪に覆われていた。

わたしとタコ君は、素手でその雪を掻き分け始めた。
掻き分けながら、ふとわたしは可笑しさがこみ上げてきて、思わずタコ君に話しかけた。

ね、ご先祖さま、今きっとこう言っているに違いない。「ゆうこよ。お前は何十年も墓参りに姿を現さず、終に来たかと思ったら、いったい亭主でなくて誰を伴ってやって来て、墓場の雪かきをしてくれてるのやら・・・ほんにお前は^^;」

ご先祖さま、お笑いくだされ(笑)

残雪の下から現われた古い墓石に刻まれている文字を読んだ。「吉崎家」と彫られてある。間違いなく我が先祖の墓だ。線香を立てる箇所は、固い雪で覆われ素手でその雪を取り払うことはできなかった。供花のところに線香を立てた。

しばしの祈りの後、わたしは、自分が祖父の名前を知らないことに気づいた。わたしが生まれたときには既に鬼籍に入っており、会ったこともない人である。

タコ君と墓石の後ろに回り、刻まれている名前を見つけた。
「あった。え~っと・・・嘉七と書いてある。」
「そうだね。明治22年6月没とある。」とタコ君。
わたしはメモを取った。そうして、墓の前にもう一度たたずみ、この先再び訪れる日が来るであろうことを祈りながら吉崎家の祖父や叔父、叔母たちに別れを告げて帰ってきたのである。

東京へ帰り、夕食の準備で台所に立っている妹相手に、
「ねね、マリちゃん、じさまの名前知ってる?」とわたし。
「それがねぇ、わたしも知らないのよ。もう聞く人もいない。」
「知ってるわよ、わたし!今度の墓参りで見つけてきた。嘉七、明治22年6月没とあった!」
と、いい歳して多少得意げに言うわたしを、妹は一瞬「???」の面持ちで見る。

そして開口一番、「それはつじつまが合わない!」
「お母ちゃんが大正生まれなのに、じさまが明治22年没は可笑しい
じゃん!」「さすが、ゆう。(妹はわたしをこう呼ぶ)考えることがおもろ~」(爆笑)

いやはや、面目ない^^;
ご先祖さま、お笑いくだされ~~。とほほのほ^^;
嘉七さんはひじさまでござんしょね^^;

まじめな墓参の話がどうしてもこういうオチになるspacesisでございます。あぁ・・・これがなければなぁ、もう少し周囲から敬いのマナコを向けられるかも知れないのに(笑) 

                                              
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2017年7月6日 

ブログを書き始めた動機は?と聞かれたら、いつか我が子たちが目にして、暇に任せわたしの人生の軌跡を知ってもらえたら、そして、何かの時に彼らの生きる道筋で参考になることがあったら嬉しいと思ったからだと答えよう。

18で故郷の家を離れて以来、帰郷することがほとんどなかったゆえ、母がどんなことを考えて生きたのか、知らないことも多い。尋常小学校を出ただけだが、洋画もタンゴ音楽も好きだったし、かなりハイカラな人だったのではないかと思っている。また、母の時代の女にしては読書好きで本は晩年まで手放さなかった。

人の陰口を言うのもわたしはほとんど聞いたことがない。「洋画、読書、人の陰口を好まない」は、わたしたち姉妹が母から無言のうちに教わったのだと今にして思う。

母の時代の苦労は今のわたしたちのとはずっと違うはずである。それの多くをわたしは終に聞きそびれてしまったのであり、今にして見れば返す返すも残念なことではある。そういう自分の思いもあって、我が子たちが同じ思いを持つかどうかは分からないが、いつの日にか「おっかさんの人生をちょいと覗いてみるかや?」と綴っているのである。

人生は一冊の本に似ている。
愚者はそれをパラパラとめくるが賢い人間は丹念に読む。
なぜなら、彼は、ただ一度しかそれを読むことができないのを知っているから。

19世紀初期のドイツの小説家ジャン・パウルの言葉だ。

若いときのわたしも、人生と言う只一冊の己の本をパラパラとめくってきた愚か者であるが、60を過ぎた頃から「あっ!」と人生のカラクリに気づかされることに何度か出会ったのである。この6月7月とそれが引き続き起こり、これらをやはり書いておくことにした。

ポルトガルに長く住んでいるたいがいの日本人は知っているであろう、月田秀子さんが6月に亡くなられた。彼女は日本人として初めてファドを歌い始めたファド歌手である。ファド歌手になってからはコンタクトはしていなかったが、わたしはファド歌手になる前の彼女と会っているのである。

オフィスの仕事だけではアメリカ行きの夢は遥かに遠く、運よく転がり込んできた梅田新道にあった、当時のアサヒビアハウスでのバイト歌姫は資金作りに大いに助かった。

その頃の思い出話は拙ブログ「あの頃、ビアハウス」のカテゴリに綴ってあるが、月田さんに出会ったのは、わたしが渡米を果たしツーソンの大学で半年間ELS(English as a Second Language)終了後、アメリカでの生活を捨てて急遽日本に帰国し、ポルトガルへ行くことが決まった後、まだしばらくビアハウスでカムバックのバイトをしていた時だ。

ある日、ビアハウスの常連の一人、前中氏がその知人と月田さんを伴ってやってきた。ステージが終わると彼女を紹介されたのだが、「いい声をしてますね」が彼女のわたしへの挨拶だった。もちろん、お世辞ですぞ(笑)なにしろ、プロになろうとしている月田さんと、腰掛歌手のわたしとでは歌への意気込みがちがうはず。

その日のステージがはねた後、彼女を含む前中氏たちに案内されたのが、ビアハウスの近くにあった小さなシャンソバー、「ジルベール・べコー」(今でもあるのだろうか・・・)。これが1978年後半かわたしがポルトガルに渡る1979年4月前のことだ。

月田さんのプロフィールを見ると、ここでシャンソン歌手としてデビューしたのが1980年とあるから、わたしが出会ったのはまだシャンションを勉強していた頃の月田さんということになる。

1979年5月に夫の待つポルトに来たわたしに、月田さんからファドの楽譜を送って欲しいと手紙が来たのはそれから1年ほどしてからだろうか。「Barco Negro(暗いはしけ)」か「Coimbra(ポルトガルの春)」のどちらだったか、もう覚えていない。

覚えているのはこの楽譜を手に入れるのに、随分手間取ったということだ。日本なら当時でもレコード店でクラシックからポピュラーソングまで、簡単に楽譜を買うことができたが、ポルトではまず楽譜を売っていないのであった。夫が色々人に聞き込んで、やっとリスボンから取り寄せることができ、月田さんに送ったのであった。

その後、何度か手紙のやりとりがあったが、わたしは子育てに忙しくなり、いつの間にか音信が途絶えてしまったといういきさつがある。

ここ数年彼女の名前を目にしなかったのだが、病気の治療で北海道に移り大きなコンサートからは遠ざかっていたのを今回のニュースで初めて知った。享年66歳。ファドの女王アマリア・ロドリゲスに師事していた頃まではしっていたが、ポルトガル大統領から勲章を得ていたとは初耳だった。

シャンソン歌手からどのようにしてファドに興味をもちファド歌手に辿りついたのかは知らない。わたしが住むポルトガルを調べるうちにファドを知ったのか。もしそうだとすれば、お互いの交流は途絶えてしまったけれど、人生のカラクリを解いていくと、ビアハウスバイト歌姫のわたしに辿りつくとも言える。

わたしが送ったファドの楽譜は今どうなっているのだろうか。バイト歌姫のわたしでさえ、自分が歌った曲の楽譜は今でも捨てられずにいるゆえ、きっと色褪せて彼女のファド楽譜の中に残されているのではないだろうか。

月田秀子さん、ここまで来るとは予想もしませんでしたよ。どうぞ、安らかに。

下記の過去関連記事、よろしかったらどぞ。

人生はからくり

人生はカラクリに満ちている
文字色

あの頃、ビアハウス

お手数でなかったらランキングクリックをして応援をお願いできますか?
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2017年3月26日

桜の花咲く季節になると、わたしには台所に立ちながらふと口をついて出てくる歌が二つある。ひばりさんの「柔」だ。

「勝つと思うな思えば負けよ 負けてもともと」
「奥に生きてる柔の夢が一生一度を待っている」
「口で言うより手の方が速い馬鹿を相手の時じゃない」
「往くも止まるも座るも臥すも 柔一筋夜が明ける」

この歌には人生の知恵と哲学が凝固されているとわたしには思われる。だから、食事を作りながら小節(こぶし)をきかしてこの歌を唸ると、わたしはとても元気になるのだ。演歌そのものは、わたしはあまり好きではないのだが、これは別である。

「柔」と歌う部分を、心の中で「自分の夢」に置き換えてみる、苦境に立ったときも、起き上がり頭(こうべ)を上げて、また歩き出せる気がするのだ。この歌にわたしは何度も勇気付けられて来たように思う。

もうひとつは、「南国土佐を後にして」

♪南国土佐を後にして 都へ来てから幾年ぞ

で始まるこの歌は、昭和34年にペギー葉山が歌って大ヒットした。日中戦争で中国に渡った第236連隊には高知県出身者が多く、この部隊が歌っていた「南国節」をヒントに創られた歌だと聞く。

わたしの故郷は桜まつりで有名な弘前である。それが何ゆえ「南国土佐」なのかと言えば、その桜まつりに関連する。

わたしが子供のころ、「桜まつり」等とは呼ばず、「観桜会」と言ったものである。夏のねぶたまつりと並んで、観桜会や夏のねぶた祭りには、雪国の長い冬を忍んで越した津軽の人々の熱き血潮がほとばしるのだ。

弘前公園内は3千本もの桜の花咲き乱れ、出店が立ち並び、木下サーカスやオートバイサーカスが毎年やって来ては、大きなテントを張った。「親の因果が子にむくい~」の奇怪な呼び込みで、子供心に好奇心と恐怖心を煽った異様な見世物が不気味であった。お化け屋敷もお目見えし演芸場が組み立てられ、そこからは園内に津軽三味線のじょんがら節だのよされ節だのが流れた。

わたしが12、3のころ、その年の観桜会でNHK「素人のど自慢大会」の公開番組があり、わたしは生まれて初めて往復葉書なるものを買い、こののど自慢大会出場参加に応募したと記憶している。

どんな服装で出場したかはもう覚えていない。外出用の服など持っていなかった子ども時代だったから、想像はつく。
きっとあの頃いつもそうであったように、両膝っこぞうの出た黒っぽいズボンであろうw。今にしてみれば黒っぽいものをよく着せられたのは、黒は汚れが目立たないからであろう。

そして歌ったのが「南国土佐を後にして」である。客席で見ていた母の話では、「出だしはとてもよかった。これはヒョットす
ると鐘三つかな」と期待したそうである。

ところがである。一人で歌う分にはいいのだが、生まれて始めて人前で歌ったわけですから、とても上がってました。
後半がいけませんです。伴奏より先走ってしまったのでありまして^^;「土佐の高知の播磨橋で」に入る手前で、鐘がなりますキンコンカンw いえ、二つが鳴りましたです。恥ずかしさにうつむいて退場する少女でありました。

わたしの声域は低い域そのもので、普通の女性歌手の歌は高音が出なくて歌えないのだが、ペギー葉山さんの音域は大丈夫。台所のベランダから外へ丸聞こえなのだが、誰に遠慮がいるものか~。よく台所でこの歌を歌いながら、さぁ、こい!今なら鐘三つもらうぞ!と、はた迷惑にも、つい力を込めて大きな声を張り上げてしまうのだった。夕方帰宅した夫がフラットのドアを開けるなり言う。「ドナ・ユーコ、外にまる聞こえだよ」

弘前公園の桜は18世紀の初期、津軽藩士が25本のカスミ桜の木を京都から取寄せて植えたのから始まるのだという。明治にはソメイヨシノが千本、更に千本植栽され、現在ではソメイヨシノを中心に、枝垂桜、八重桜の役50種類2500本の桜が春爛漫と公園に咲き誇る。

今年こそは秋に、正月に帰国しようと毎年思いながら、2月も終わり頃になると桜の花はと気もそぞろ、結局始終春の帰国にしてしまうのは、桜の国、弘前で生まれ育ったサガであろうか。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2017年2月9日 
記憶の中から取り出せる母の思い出が凝固したような一枚の写真がある。

mother

数年前に帰国した折、投宿先にしていた妹宅の机の上に飾られていたものだ。こんな写真があるとは思いもよらなかったものだから、それを目にした時はちょっとした驚きで、しばらくこの写真に見入ったのであった。母がよりかかっている橋の欄干からすると、写真は弘前公園であろう。

手前で目を伏せてしまっているのが妹だ。わたしは母の横で愛想もなく突っ立っている。これが、やがて近所のガキ大将になってチャンバラするがごとく棒っきれを振り回し、ビアハウスの歌姫、アメリカ行きの青春時代を経て、ポルトガルに定着した自分であろうかと、この写真からは少し考え難いのである。いったい誰が想像したであろうか。だから、人生は面白いと言える。

この写真を目にすると、決まって我が脳裏にこの歌が聞こえて来、幼い頃の思い出がとても懐かしくグルグル巡ってくるのである。




随分前のことになるが、知人が好意で送ってくれた本に斉藤孝氏の「声に出して読みたい日本語」というのがある。その本の一ページ目を開くと、
     
    「知らざあ言って聞かせやしょう。浜の真砂と五右衛門が、
     歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ガ浜」

と、眼に飛び込んできた。おお、知ってる!ご存知、白波五人男の一人、弁天小僧菊之助」が歌舞伎
「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)、浜松屋の場」での語りの部分である。興奮で高鳴る胸おさえながら、ザーッと急いでページを繰ってみると、あるわあるわ、七五調の語呂良い歌舞伎がらみ浪曲がらみのセリフが。

 「赤城の山も今宵を限り 生まれ故郷の国定の村や、縄張りを捨て
  国を捨て、可愛いこぶんのてめえたちとも別れ別れになる門出だ~」
                   (国定忠治 赤城山)

 「旅ゆけば、駿河の国に茶の香り、名代なる東海道、名所古跡の多い
  ところ、中に知られる羽衣の、松と並んでその名を残す、海道一の
  親分は清水港の次郎長の~」
                   (森の石松 金毘羅代参)
                   

わたしはこれらのセリフの面白さと懐かしさに引き込まれ、「ねね、ちょっとおいでよ」と娘を傍らに呼び、これも覚えてる、これも!と大声出して一気に読んだものである。

これら18番のセリフをわたしは学校の教科書で覚えたわけではない。更に言えば、歌舞伎など生まれてこの方、まだ一度も観劇したことはない。子供のころからこれらのセリフをわたしは母を通して耳にし、自然に覚えたのだ。

母は大正生まれであったが、当時の人にしてはモダンでわたしたち姉妹を連れては、よく外国映画を見に行ったものである。しかしその母は任侠物も好きだったようで、機会あるごとにわたしたちを前にしては朗朗と詠んだものだ。幼かったわたしはそれを耳にして覚えたに違いない。

尋常小学校4年を出ただけにしては書物が好きな人であった。晩年まで枕元に文庫本を目にしない日はなかった。読んでいた本は、池波正太郎、柴田錬三郎、平岩弓枝、藤沢周平と時代物がほとんどで、母は言ってみれば、好みが和洋折衷の人だったのだ。

サウジアラビアのジェッダに赴任することになった妹夫婦の家族と長年同居してきた母を厳しい気候条件の砂漠の国に連れて行くことはできないと、当初は妹たちが帰国するまでポルトガルのわたしたちと住む予定になっていた母だったが、渡航前になり「異国で死ぬのはイヤだ。」と言い出して結局学生二人の甥たちと所沢の家に残ることになった。

しかし、それが軽痴呆症の引き金になったようである。それまで妹夫婦の4人家族とワイワイ一緒に生活してきたのが、家にいるかいないか分からないような甥たちとの同居である。突然ひとりぽっちのようになってしまったのだ。80才になっていた母にこの孤独感はさぞかし堪(こた)えたに違いない。

当時大学院に通っていた甥からある日ジェッダの妹に、「おばあちゃんがおかしい。」と連絡が入った。公務員の規定で、またサウジアラビアという国柄故、すぐには出国できなというので、急遽わたしが一時帰国することになった。

それまでわたしが子供や夫を伴って帰国する毎に長い滞在をさせてくれ、ワイワイガヤガヤの思い出深い所沢の妹宅は、初夏だというのに冷え冷えとしていた。妹夫婦がジェッダに赴任してたった4ヶ月後のことだった。

母は夏だというのに、まだ冬の服を着たままでちょこんとリビングのソファに座って見るともなしにテレビを見ていた。その時初めてわたしは母に何が起こったか知った。

もはやポルトガルに連れて来るわけにもいかず、妹夫婦も赴任したばかりで帰国もならず、それでも急いでわたしの後に1週間の休暇をとり帰国してきた妹夫婦と3人で話し合った結果、母には「下宿」と称して軽痴呆の人だけ(自分の周りのことができるという条件がある施設)を受け入れる施設に入ってもらうことになった。

急なことだと言うのに施設が見つかったこと事態が幸運であったと思う。施設は幸い妹宅からそう遠く離れていないところにあり、入居する前に母も連れて行き、入居者20名くらいの施設の中を案内してもらい、「ひとりぽっちだど寂しくなるし、わたしたちも心配だからね」と母を説得して入居してもらうしかなかった。

妹夫婦が先にジェッダに帰り、母の引越しはわたしと甥とですましたのだが、いよいよわたしがポルトガルに帰る段になり、それまで毎日訪問してきた施設に母を最後に訪問した日のこと。

「大丈夫。わたしもしょっちゅうおばあちゃんの顔を見に行きますから。」と親切にも車で施設まで一緒に行ってくれたお隣の奥さんの車に乗り込んだのだが、玄関前まで出てきて、小さな姿でわたしに手を振る母を見て、お隣の奥さんが運転する側でわたしは溢れ出る涙を何度も何度もぬぐった。

母は施設に2年ほどもいただろうか、2003年2月9日にみまかった。今日は母の命日である。母の葬儀は、読経のない花と音楽の葬だった。費用の高い戒名はいらぬと同居していた妹の話では、自分の葬儀はそのようにできたら嬉しいと洩らしていたようだ。

わたし達は市の斎場の一室を、そして、棺の周りをたくさんの花で飾り、母の好きだったタンゴの音楽を流し続けた。蒼空、黒い瞳、ブルータンゴ、奥様お手をどうぞ、真珠採りのタンゴ・・・それを聴いていると、パートナーなしでも、まるでそれがいるかのようにわたしたちの前で一人踊っていた母の姿が思い起こされる。

近所や行きつけの店の人達の間では、ちょっとおしゃれで元気のいいおばあちゃんとして知られていたようで、わたしたち家族の他にそういう方たちが集まって母をしのんでくれた。

間もなく今年も、所沢の妹宅のすぐ側にある母が愛した桜並木の花が咲き始めるだろう。自然はこうして一年をぐるりと経て、再び芽吹く。人間の生は、と思い巡らすとき、わたしは遥かな宇宙の神秘に心を馳せずにはいられない。肉体が滅びた時にわたしたちの生命の種は終わるのだろうか。それとも子孫を経て巡り巡って再び植物のように芽吹くのだろうか。

Maktub。「全ては書かれてある」というアラブの言葉にあるように、宇宙の全ては、大いなるものの手による法則で始めから定められているのだろうか。

母がみまかって今年で14年になる。待てよかし。母よ、やがて我もまた逝かん。

本日の記事は過去に書いたものに少し手を入れました。
長い拙文を読んでいただき、ありがとうございます。

では、また!

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
Click for Porto, Portugal Forecast 
ポルトガル ポルトの口コミ
ポルトガル ポルトの口コミ にほんブログ村 外国語ブログ マルチリンガルへ
にほんブログ村