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2006年5月14日
dijon

ここ数日、もいける娘夏の帰省格安切符を求めてネットサーフィン。
7、8月はさすが高い。
が、頭にくるのは、提示されている切符の値段を鵜呑みにすると、とんでもない
ということです。

よく読むと、成田空港使用料、現地空港税、航空保険料、更に燃料サーチャージetc.
と別途料金があること。
パリ空港税など2万以上です。なんだかんだと3万ほど結局上乗せになるの
でしょうか・・・

機内サービスも以前に比べて随分落ちました。
食事の回数がイヤと言うほどあったのが、メイン食は一食のみ。
後は軽食です。 
先ごろブルッセルへ行って来た亭主、アルコール類、食事は有料だよ、と
驚いてました。

こんなことをしていた今日、昔、ケンブリッジで一ヶ月語学勉強をしていたころ、
思い切ってロンドンからパリへと一人飛んだことがあったのを懐かしく思い出しました。
乗った飛行機はエール・フランス。
それでですね、あの広い機内に乗客はわたしも含めて10人もいませんでした。

日本からロンドンまでは語学研修のグループ旅行で、パリへ飛んだのが生まれて
初めての海外旅行一人旅。
緊張と不安でコチコチになっていました、わたし(w)

フランス人のとてもハンサムなエア・ホストが、何度もわたしの席まで来て、
キャンディをチョコレートをすすめるのです^^;
その度にわたしは、正しいかどうかも知らないのにメルスィはありがとうだからと、
「ノ、ノン・メルスィ・・・」^^;
しまいには、シャンペンを開けてくれましたw
そのシャンペンにも口をつけず、今から思えば、なんとももったいない話。

そうして着いた初めてのパリは当時、オルリー空港。
そっから豪腹にも、空港からタクシーでパリの街に入り、過分のチップを上げ^^;
それ故か、タクシーの運転手がフランス人には珍しくw親切にしてくれました(笑)

わずか数日の滞在でしたが、その間、パリから汽車で絵の勉強をしている友人の友人
が住む、ディジョンと言う小さな町まで行ったものでした。
当時のパリもロンドンも、日本からはまだまだ遠く、海外旅行は高値の花だった
時代でした。
その後再び二つの大都市を訪れる機会がありましたが、あの頃の雰囲気とは
すっかり違っていました。
それも当然の話です。
日本も豊かな国になり、世界は一般人の国際舞台となったのですからね。

ひなびた魅力を湛えてきたポルトガルも徐々に変わりつつあります。
ポルトガルがまだ日本の人達からすると、穴場なのは、日本からの直行便がない
ことだと思います。

例えリスボン空港からでも日本への直行便があれば、帰国はとても楽になるな、と
思いながらも心のどこかで、「そうならなくてもいいや」と、どっといつの間に
やら文明が(笑)、この国に押し寄せてくるのを、危惧しないでもない^^;
勝手なものですw
30年以上も前のパリ飛行を思い出して、「グローバル化」と言うのは、国事態の個性が
失われることでもあるかな?と、思ったのでした。
pari

↑パリーディジョン間の列車内で。

★上の写真は1960年代のディジョンの町
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2006年6月4日

子供の頃は、究極の内弁慶であった。

ご近所では、女だてらに男の子達を従えてのガキ大将、親分であったのに、学校に行くとからきしダメなのだ。毎学期ごとの通信簿には、良くもない成績に加えて、「今学期も一度も挙手がありませんでした。」とか、「発言が一回も行われませんでした。」と、ずっと毎年書かれて来た。だから、悪さをして親が先生に呼ばれる、などと言うことは学校ではなかったのである。

小学校5、6年の頃であろう。わたしは生まれて初めて学校の小さな図書室に入り、一冊の本を借りた。
それまで、本らしき本は、手にしたことがない。当時は「なかよし」「少女」「少女クラブ」などの少女向けの月刊雑誌があったが、
それらのどれか一冊を手にするのは年に一度のお正月であった。

朝、目が覚めると、わたしと妹の枕元にお正月特別号として、いっぱいの付録でパンパンに膨らんだ一冊の少女雑誌がお正月のお年玉代わりとして置いてあるのだ。それは本当に待ち遠しく、嬉しいものだった。その一冊は、完全に自分の物だったから。

さて、わたしが初めて手にしたその本には、「シャーロック・ホームズ:まだらの紐」とあった。なぜ、自分がそれを選んだのか今では覚えていない。しかし、それが以後のわたしを読書に駆り立てることとなった始まりの、挿絵はところどころにありはしたが、活字がぎっしり詰まった、いわゆる「本」なのであった。

一発で推理小説の面白さに引き込まれ、わたしは瞬く間に図書室にあるホームズ・シリーズを読破してしまった。

次に向かったのがモーリス・ルブランの「アルセーヌ・ルパン:奇巌城」。これには参った!泥棒とは言えども、エレガントで世界中を股に掛け恋をし、大金持ちからしか盗まないルパンが実にカッコよいのである。(と、当事は思った)

「怪盗紳士ルパン」「ルパンの冒険」「ルパンの告白」「ルパン対ホームズ」と次々と読み漁り、すっかり虜になってしまい、寝ても冷めてもヨン様ならぬ、ルパン様である。そして、シャーロック・ホームズよりも「怪盗ルパン」の方にわたしはより魅力を感じたのだった。 布団の中で、夜寝付くまで想像を膨らまし、夢の中ではわたしはルパンになった。

そんなある日、クラスで綴り方、つまり作文の宿題が出た。作文を書き、それを各自がクラスで読んで発表するのである。
迷うことなどあろうか、わたしは自分が夢中になっていた、「怪盗アルセーヌ・ルパン」について書いたのである。

内弁慶だったわたしは、発表の自分の順番が回ってくるのにドキドキしながら、その反面、ルパンについて、皆に話したくてたまらなかったのだ。これは、究極の内弁慶にしては、生まれて初めて持った鮮やかな積極的な気持ち、興奮であった。胸の高鳴りを感ながらじ、大きな声で読み上げ、最後をわたしの作文はこう結んだ。

「わたしも大人になったら、ルパンのように世界中に手下を持つ大泥棒になりたい。それがわたしの夢です。」

数日後、母は先生に呼ばれた。「泥棒になりたいというのが夢。ましてや女の子がとんでもない。」と、当の本人ではなく、母が説教をくらって来たのである。母はわたしを叱りはしなかった。

大人になったわたしは世界を股に掛けるとまではいかないが、一般の日本人の人生軌道を逸して、海の向こうはアフリカ大陸というイベリア半島にひっついている国、ポルトガルに定住することになったのだが、これは幼い頃の夢のかけらだと思っている。

ここにはあの頃の究極の内弁慶の少女の姿はもうない。日本とポルトガルを股に掛けてる間に、あのころの内弁慶だった少女は、
人前で自分の思うところを言えるほどに、逞しい変貌をとげたのである。

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2006年6月5日
peto

  ★写真は我が家の黒猫ペト君
昭和30年代に流行った歌謡曲です。
わたしはまだ小学生のころでしたから、若い人は知らないでしょう。

あの頃の歌は、今のように次から次へと新曲が出る時代ではなく、一曲流行ると、
息が長かった。
それゆえ、小学生の子供だったわたしでも、いつの間にやら覚えてしまうのです。

♪あんた、泣いてんのね(ここはセリフ) 
 だから~云ったじゃないのぉ、港のぉおお
 さぁか場へ 飲みぃにぃ 来ぅぅる~


2番は?と聞かれると、うろ覚えになるが、1番目の歌詞は間違うことなく、
しっかり記憶に残っている。

松山恵子さんという歌手が歌った歌です。
わたしは、ファンでもないのに、この人の歌った他の数曲、「未練の波止場」
「お別れ公衆電話」そして、「バックナンバー1050」を今でも、一番だけは
ソラで歌うことができる。

小学生にとっては、近づきがたい歌の歌詞、大人の世界の匂いをムンムンさせる
女の哀しみを歌っています。
歌謡曲の歌詞は古来日本の七五調からなっているので、覚えやすい言葉の
リズムもあり、この辺りからも自分の詩作や作文の基礎は培われているかも知れません。

後年、歌謡曲演歌からは、俄然離れてしまい、わたしは洋曲に遥かな魅力を感じ、
普段は
思い出すことすらなかったこんな古い歌謡曲をつい先だって耳にしました。
すると、不思議なことに、あらまあらま、全部覚えているのでした、歌詞を。

日本の衛星放送を入れていないわたしは、ここ数年はテレビの番組の録画を、
もう人に頼むのも辞めてしまったのですが、たまに衛星放送が入っている友人が
ビデオに撮って回してくれることがあります。
その中に入っていたのがこの「松山恵子、さよならコンサート」と言うNHKの
追悼番組でした。

そうしてみたら、先ごろweb新聞の訃報欄で名前を見かけたのを思い出しました。
今回のビデオを見て知ったのですが、第一線は遥かに退いたけれども、デビュー以来
50年間、歌い続けてきたようです。

わたしが見た番組のしばらく後に69歳でなくなられたそうです。
腎臓癌と
闘っていたようで、コンサート中、舞台ではほとんど移動せず、そのまま
10数曲を歌い続けました。

なにかひとつを、一生一筋に続けるというのは、並大抵なプロ根性ではないな、とファンでも
ないわたしですが、それを見て思いました。

自分の一生一筋に、と言うものはなんであろうか、ということに思いを致せば、
才能もないわたしではありますが、強いて言えば、子育てでしょうか。
子はいくつになっても親の身からすれば子供と言います。

自分の親としての意識がちゃんとしている間は、それが自分の一生一筋のこと。
プロ根性と言うには程遠いかも知れないが、恐らくこれであろう、とお恵ちゃんの
最後の番組をみて、そう思ったのでした。


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2006年6月16日

今日の記事は長いです^^
しばらく前に、友人のゴッチが、「クラウディウのその後を知りたいなぁ」と
我がホームページの掲示板に書いておりました。
「うん、近々エピソードであげるね」と言いながら、今日まで書かずに来て
しまいました。
   
クラウディウと言うのは、わたしがポルトガルに来た27年前に出会った
野良犬です。
よもやま話13:我が友クラウディウ」に出てきますが、今日はたった
一枚あるその写真を載せましょう。
クラウディウ


側でビッタンコくっついて遊んでいるのは、当時2歳の息子、ジュアン・
ボーイです。
画像が鮮明ではありませんが、よく見ると、クラウディウの向かって右の目が
少しつぶれているのと、口元、向かって右に白い牙がかすかに出てるのが
わかるでしょうか^^
 
名前の所以も上記の「我が友クラウディウ」にありますが、とても皇帝の
名からは程遠い、臆病な犬ではありました。
庭無しの義母に家です、夜や雨 の日はこうしてベランダで休みますが、
日中は外です。これが義母との約束でしたからね。

ジュアン・ボーイはこんな風にして時にはクラウディウにまたがって乗ったり
するのでした。

この家での先輩は息子よりクラウディウです。
息子のお産でわたしが4日ほど入院した時は、ほとんどエサも食べず、
亭主とわたしの部屋のドアの前に座りこんで、叱られてもガンとして動か
なかったそうです。

退院してジュアン・ボーイを胸に、家の階段を上りましたら、その上で
クラウディウが尾を振って待ち構えておりました。
が、わたしの腕に抱かれている赤ん坊を見た瞬間、彼は悟ったのでしょう、
「あのちっちゃなものが、若奥さんの大切なものなのだ」ということが。
声をかけるわたしに擦り寄ってくるでもなく、スーッと席をはずしたのでした。
   
クラウディウのエピソードはたくさんありますが、なんと言っても忘れら
れないのは、「我が友クラウディウ」にある大晦日の出来事と次のハプニングです。

毎年夏になると、わたしたちは2週間をポルトガルの北部山中にある、ミネラル
ウォーターでも有名な Pedras Salgadas(塩っ辛い石の意味)と言う保養地で
過ごしました。
ここは空気もよく、プール、テニス場、そして子供の公園があります。
ホテルの広い公園一帯が自動車乗り入れ禁止になっており、安心して散策も
できます。
この年はわたしたち親子3人と(もいける娘はこの4年後に出てくるので
あります)、亭主の母も同行の休暇でした。

さて、クラウディウはどうする?
当時はさほど心配もいりませんでした。
もともとがバガブンドのクラウディウ、路上寝はお手のものです。
すぐ近くに住んでいる義兄に夜呼び入れるのを、日中のエサは近所の人にと
頼み、休暇に出かけました。

二週間後、夜8時ころに休暇先から帰って来、クラウディウを呼んだところが、
エライことになっておりました。
恐らくその日に起こったのでしょう、あちこち噛み傷があり出血して息も
絶え絶え!
荷をほどくのもそっちのけで、亭主はすぐ自分の病院と薬局へ走りました。

麻酔薬、注射針その他を買い込んで来た彼、呼ばれてやってきた義兄を助手に、
クラウディの傷口10数箇所を縫うこと、3時間!
何しろ、大事なタマタマちゃんまで、破れかかっておりましたです・・^^;
「んもう!いい歳して、きっと雌犬争奪戦に自分も加わったのね!
ったく、男ったらしようがないんだから!」と、
これには一段落ついて後の皆の大笑い。
   
さて、動物の回復力は素晴らしいものです。
わたしたちの心配をよそに、クラウディウは見る間に回復、傷も癒えて、
またいつもの生活パターンに戻りました。
これ以来、夏の2週間の休暇は、申し訳ないが義母が家に残ることとなった
のでした^^

それから4年、この間に我が家にはもう一匹、ルルと言う捨て猫がペットと
して加わり、もいける娘が生まれようとしていました。

義母の家はもいける娘が生まれることで手狭になり、わたしたち親子は同じ
通りの20数メートルほど先にある庭付きの古い借家へと引越しすることに
なりました。
ところが、家猫のルル、庭があると言うのに庭へ出るのを怖がり、死ぬ
までとうとう一度も庭へ降りることはありませんでした。
クラウディウに至っては、これでやっと自由に家で飼えると思ったのに、
なだめてもすかしても、これまた新しい住居の庭にはテコでも入ろうとしません。
結局義母の家で夜寝るという、これまでの習慣通りにすることにしました。

そんなある日のこと、保健所が再びやってきて2匹の野良犬を捕獲して行った、
そのうちの一匹がまたしてもクラウディウということが分かりました。
ドンくさいのです・・・
その日の夕方、亭主はマイア市の保健所へ出かけ、クラウディともう一匹、
この通りではお馴染の大型犬で、向かいの人が可愛がっている野良犬です。

このとき、初めてわたし達は、クラウディウを我が家の犬として登録する
ことにしました。
かなりの老犬だということで、もう予防接種も不必要だと言われ、翌日、
引き取りに行くことになりました。

翌日、亭主が引き取りに行ったところ、保健所の言うことには、夜のうちに
二匹の犬が入れられていた檻のドアが、何物かによってこじ開けられ、
犬の姿はなし。
してみると、クラウディと一緒に捕まったと言うお向かいのお気に入りのお犬、
いつの間にか、ちゃんと帰っているではないか!そんなバカな!・・・
夜中に保健所に忍び込み、檻のドアをこじ開けたのは一体誰か、一目瞭然。
それならば何ゆえ我がクラウディウも一緒に連れて来なかったのか。
人を恐れる犬でしたから、怖がって自ら逃げたのかも知れません。

その日から、わたし達は幾度も機会を見てはマイア市まで出かけて行き、
保健所のあたりを車でグルグル回っては、クラウディウの姿を目で探しました。
近所の人が、「あの辺りで見かけた、この辺りで見かけた」と言う話を聞いては、
出かけて行き、行方を探したものです。

その年の冬が来て、春が来て、夏が来・・・
いつしかわたし達は諦めてしまいました。
   
フランスの「ラ・フォンテーヌ」の寓話集に「狼と犬の話」があります。
   
骨と皮とに成り果てた狼は肥えた番犬に出会う。犬は狼に言う。
「一緒に来ないか。ずっと楽に暮らせるよ」
狼は一時の幸福を夢見て犬に従うが、ふとその首筋に禿げたあとを見る。
訊ねると、「なに、つながれている首輪のあとさ。」
「つながれて?それではお前は好きなところへ走っても行けないのか?
どんなご馳走ずくめでも、俺はごめんだ」
狼はそう言うなり逃げ去った。


クラウディウの思い出は、すっかり遠い懐かしいものになってしまいましたが、
その最後を思う時、わたしの胸は今でも痛むのです。
しかし、ラ・フォンテーヌの狼の話を思い出し、野垂れ死にもまた、自由で
あったことの代償であろう、と自分の気持ちを少し誤魔化すことにしています。
   
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2006年6月27日
サンベント駅構内
 ★写真はポルト旧市街にあるサンベント駅構内。周囲は全て歴史あるazulejo
(アズレージュ=青タイル絵)に囲まれている。


ここ数日わたしの顔は熱っぽい。

そりゃspacesisさん、年甲斐もなくW杯に熱上げて、やんややんや、テレビの前
でもネットでも騒いでるからでしょ、と口さがないお仲間には言われそうです(笑)
当たらずとも遠からずで、否定はしないのですが、もうひとつ、わたしを熱く
させている物がありまして。

何あろう、先だってポルトに駐在する企業の方が、
「これ、もしかしたら、ご覧になりませんか?」と貸してくれたビデオ2本、
石原慎太郎さんが書き下ろしたものをドラマ化した「弟」でした。
調べてみたら、2004年に朝日放送5夜連続で放映されたものだそうです。
その弟とは勿論裕ちゃんこと石原裕次郎さんです。

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