2018年1月3日

我が日本語教室は今日からのつもりだったのが、昨夜、生徒さんから電話で「休み中、ちっとも日本語の勉強ができなかったので、来週からお願いします」と、連絡が入りました。

この分だと明日の生徒さんももあまり当てにはならないようで、いっそのこと日本式の正月ってことで、今週いっぱい休みにすればよかったな、と、ちと後悔しています。

しかし、こんな時、武田鉄也さんの母上さまの言葉が思い浮かびます。
「休みたいだの、遊びたいだのと考えるものではない。」なんかこんな意味のことをおっしゃってたように思う。ほっとくと、ドンドン怠け者になりがちなわたしには、これくらい言い聞かせてちょうどよろしw

大した儲けにもならないのですが、この数年、日本語授業数をバンバン増やしたせいか、日中は準備に追われ、パソコンの向かっていることが多くなりました。以前は、夜就寝前に必ず30分から時には1時間にも及ぶ読書をするのが慣わしだったのに、疲れがあるのか、とんとそれができなくなっていました。

読書が習慣ですから、枕もとのサイドテーブルに数冊本を重ねてあるのですが、それの手に取り開くには開くが、そのまま寝入ってしまい、いつの間にか夫が元の場所に本を戻してくれていることも多くなりました。

しかし、久しぶりに手に取った本、あっはっはっはとベッドで笑わせてもらいました。
いえね、旧職場のリサイクルコーナーから拾ってきた文庫本なのですが、「おせいさん」こと、田辺聖子さんの著書でやはり笑わしてくれます。

関西人のユーモアについて触れておるエッセイなどは、ほんま、そうや!今風に言う「あるある」なんです。ほんまとうまいこと、書いてます。初笑いです、ちょっと面白い部分を引用して、紹介しましょうw大阪弁のシャレ言葉だそうで。

「あの商談は夜明けの幽霊でんなあ」 → 「夜明けの幽霊」は立ち消える。
「あいつはトコロテンの拍子木や」 → トコロテンの拍子木なんて、音もでまへん。
                        つまりは、おとなしい人のこと
「お前はとんど、八月の槍やの」 → 八月の槍は「盆槍」→ボンヤリ
「饅頭の臼で、あいつはあきまへん」 → 饅頭屋の臼は餡をつく→アンツク(あほう)


ぼんやりだのアンツクだのと言うと角が立つが、「饅頭屋の臼やぞ」「八月の槍やぞ」だと、そう決め付けられても、言われた当人も、あははと笑ってしまい、
「すんまへん、桶屋の前だれで、忘れてました」と頭に手をやり、恐縮できる、とのことw
     ↓
「桶屋の前だれ」は、いつも桶の輪に擦れる→わすれる
もう一つ。これは格言類をもじったもの。

「ぼくは君といる時が一番しわよせ来るんだ」→「ぼくは君といる時が一番幸せなんだ」
                             加山雄三もじり
「金類みなちょうだい」→「人類みな兄弟」
「歯がために金が要る」→「誰がために鐘は鳴る」
「目に入れても見たくない」→「目に入れても痛くない」
「コネにて一件落着~」→「これにて一件落着~」(遠山の金さん)


いかがでござんしょ?笑う角には福来たる。

え?「あんたもお盆の商店街でんなぁ」(←spacesis作→お盆の商店街→暇)
ほっといてんか~笑

お粗末さまでございました。
では、また。
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12月11日
   
思い出のオルゴール:綴り方教室」に書いてあるのですが、わたしが初めて本らしい本を手にしたのは、小学校5、6年のころ、学校図書室から借りた探偵小説シリーズです。

今のように、簡単に本を買える環境になかったわたしは学校の図書室を大いに利用しました。それは高校時代も続き、自分の本となったものは一冊もありませんが、それらの借りた本の中で見つけた輝くような言葉たちをノートに書き止め、そのノートを何度も開いては覚えたものです。
本がない時はよく国語辞書を読んだりもしました。目新しい言葉に出会うのは新鮮な喜びでした。また、書店の本棚に並んであるたくさんの本のタイトルをひとつひとつ読んで見るのも好きでした。

小学時代のルパンシリーズやシャーロック・ホームズシリーズを読んだ地盤がありますから、大人になってからも文学系のみならず、警察ものや推理、ハードボイルド作品もたくさん読んできました。好きな探偵は?と問われればすかさず、フィリップ・マーロー、リウ・アーチャーと答えます。我が息子の日本名「理宇」には、この探偵の名を、実は拝借しているのです。

フィリップ・マーローもリウ・アーチャーも今では古典になってしまいましたが、10年ほど前までわたしが好きで読んできた本に、女性検死官、ケイ・スカーペッタを主人公にしたアメリカの作家パトリシア・コーンウエルのシリーズがあります。コーンウエル自身が実生活で検死局で仕事をしてきた作家です。

さて、これはまだ本では読んでいないのですが、イギリスで人気を博してきたドラマにイギリスの作家、リンダ・ラ・プラント原作の「Prime Suspect(第一容疑者の意味)」があります。

primesuspect1-1.jpg
(Wikiより)

1992年に始まったこのジェイン・テニスンなる女性警部(後に主任警部となる)シリーズ、全部で7話、2006年12月の先週、最後の7話を終え完了しているのですが、ポルトガルではいい番組は再放送が繰り返されますので、好きな番組は何度でも見ることができます。

かつては男性を主人公にしてきた警察ものも近年はそこに女性を据えての物語が多くなりました。わたしは性差別主義者ではないと思っていますが、一部の人たちが押し進めようとする、ジェンダー・フリー論には組みしません。体力的にはとても男には適わないと思っています。男同様の能力体力を持っている女性には、男性と同様な機会が与えられるべきだとは思いますが、全女性がそうでないことは、自分を見て分かっているつもりです。

ケイ・スカーペッタもそうですが、Prime Suspectのジェイン・テニスン警部も、事件のみならず、男性社会の職場にいて、女だということで同僚、部下との確執や差別を抱えて闘い抜き、部下の信頼を勝ち得て行くのですが、主演女優の演技の素晴らしさ、ドラマとは言え非常にリアリスティックで思わず引き込まれてしまいます。

本、ドラマを通してではありますが、ケイ・スカーペッタもジェイン・テニスンもキャリア・ウーマンとして生きていく上での大きな孤独を抱えており、その孤独が見ているものの胸にもズシリとのしかかってくるようで、所詮人間は男も女も最後はひとりだということを頭で理解しているつもりのわたしも、殺伐とした人生の終着点にふっと思いを運んでしまいそうになります。

特に、定年を目前に、最後の事件を手がけた「Prime Suspect: Final Act」のテニスン主任警部が抱える大きなストレスに抗いきれなくなる様は迫力があり、女性が仕事を全うして生きることの厳しさを、見事に描いています。

ドラマが取り扱う事件そのものより、テニスン主任警部が事件の主犯を執拗に追い続ける刑事としての心理が見えるとてもいいドラマでした。

これらは過去のわたしのヒーローたちですが、2013年に始まったシリーズ「Endeavour(エンデヴァー)」、これがまたいい。オックスフォードを舞台に、DC(巡査) Morse(モース) が、上司のサーズディ警部補と解決していく警察ものシリーズなのです。

Endeavour1.jpg
左がサーズディ警部補、右がモース(演じるのはShaun Evans )(Wikiより)

年に4エピソードで、今年2017年にシリーズが放映され目下来年度の新シリーズを楽しみにしているのですが、では、タイトルの「Endeavour(エンデヴァー)」とは何の意味かと言うと、これがしばらく明かされないままで行くのですね。

「ファーストネームはなに?」と問われても「モースと呼んでくれ」というのみで明かさないのですが、実はタイトルのEndeavour(努力、試みの意味。米語のeffort)がそれなのです。なるほど、努力ってのがファーストネームじゃ気恥ずかしくて隠したいという気持ちも分からないではない(笑)

Endeavourは、英国推理作家協会の投票で「好きな探偵第一位」に選ばれた「Inspector Morse(モース警部)」の続編として、モース警部が亡くなった後に彼の若き日の刑事時代のシリーズが放映されたものです。

Morse.jpg
モース警部と愛車ロールスロイス(Wikiより)

両シリーズでは、モースが愛するモーツアルトやワグナーのクラシック音楽、特にオペラがBGMに流され、オックスフォードの古い街並みと融合して、なかなかに味のあるクラシック探偵ドラマになっています。

残念なのは原作者のColin Dexterが今年3月に86歳で亡くなったことです。来年のEndeavourは既に撮影に入っているとのこと、果たしてどんな展開を見せてくれるか、楽しみにしているのであります。

下記、Youtubeにある宣伝画像です。

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2017年8月13日 

海の上で太陽が光を雲間に閉じ込められながら、かろうじて姿を見せている一枚の写真があります。

ロカ岬

これは撮った写真を白黒にしてみたわけではなく、目まぐるしく天気が変化するロカ岬でスマホを利用して撮影したものです。暗い画像に、わたしはある詩の一行、「どろく海辺の妻の墓」を思い出したのでした。

前回フェルナンド・ペソアの紹介で述べたように、は詩人のみならず作家、翻訳家でもあり、エドガー・アラン・ポーの訳詩もしていました。かなり以前にブログで取り上げた松本清張の本につながるのでした。

以下、2006年の日記の書き換えです。

―とどろく海辺の妻の墓―

高校時代には、苦手な理数系の勉強はほったらかしに、フランス文学、ロシア文学、ドイツ文学の著名なものを図書館から借り出しては、外国文学の起承転結の明確なところにわたしは心を躍らし、片っ端から読みふけったものです。

そして、20歳頃にグワッとのめりこんだのに、松本清張シリーズがあります。「黒い画集」から始まり、清張の作品のかなりを読了しました。「社会派推理小説」と当時呼ばれた清張の作品は、大人の匂いがプンプンして、20歳のわたしには世の中の理不尽や犯罪に駆り立てられる人の心理を、こっそり覗いたような不思議な刺激がありました。 

それらの中でも特に心に残ったのは、霧の旗、砂の器、ゼロの焦点です。つい先ごろ、この「ゼロの焦点」をもう一度読み返す機会があり、思い出したのです。20歳の頃、気になりながら当時は調べようもなかった詩の1節がその本の中にあったことを。

In her tomb by the sounding sea. とどろく海辺の妻(彼女)の墓

訳が素敵だと今も思います。

戦後の混乱期の自分の職業を隠し、今では地方の上流社会で名をしられている妻が、過去を隠さんがため犯罪を犯す。やがて追い詰められ、冬の日本海の荒れた海にひとり小船を出して沖へ沖へと漕いでいく愛する妻をなす術もなくじっと見送る年老いた夫の姿を描くラストシーンに出てくる英詩です。

当時、この詩がいったい誰によって書かれたものなのか分からないまま長い年月の記憶の彼方に押しやられていたのでした。改めてこの本を読み終わりgoogleで検索してみよう!とハッと思いついた。英文でそのままキーワードとして打ち込みました。

おお!出た!出たではないか!一編の詩に行き着きました。
この詩は、「Annabel Lee=アナベル・リー」と題されるエドガー・アラン・ポーの最後の作品なのでした。(詩全部をお読みになりたい方はWikipediaでアナベル・リーと検索すると出てきます)

詩、「アナベル・リー」は、14歳でポーと結婚し、24歳で亡くなった妻、ヴァージニアへの愛を謳ったものだそうで、ポー最後の詩だとされています。

「とどろく海辺の妻の墓」は、その詩の最後の1節です。エドガー・アラン・ポーといいますと、わたしなどは、「アッシャー家の滅亡」の幽鬼推理小説家としての一面しか知らず、詩人でもあったとは。無知なり。

Wikipediaで検索しますと、ポーの大まかな半生が書かれていますが、残した作品に違わない(たがわない)ような激しい愛の一生を終えた人です。

40年近くも経ってようやく、「ゼロの焦点」のラストシーンと、このポーの人生の結晶である「アナベル・リー」の詩がつながったのでした。

ロカ岬の暗い画像から、リスボンの詩人フェルナンド・ペソア、そして、ポーのアナベル・リー、松本清張のゼロの焦点ラストシーンとつながるとは奇遇なことです。

う~ん、これは清張ばりで行くと「点と線」が繋がったとでも言えるかしら。

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2017年7月27日 

眠りにつく前の30分ほどは読書するのが習慣です。活字に目を落とさずに寝入るなど、めったにないことで、下手をすると本に引き込まれて30分ほどが1、2時間に及んでしまい、翌日しんどい思いをする羽目に陥ることもままあります。

が、目下手元に、夢中になるほどの本がないもので、ちょっと趣味じゃないかもなぁ、と思いながらも友人が貸してくれた本などを読んでいるのですが、その中の一冊が斉藤茂太さんの「老いは楽しい」。

こうタイトルを書いて、やっぱり自分の趣味じゃないぞと確信した(笑) 例え期待したような結果が出なかったとしても自分で考えて物事を決め進むわたしは、 「~なあなたに贈る」などのようなアドヴァイス的な読み物は、どうも性に合わないのであります。

が、どんな本にも学ぶことはあるものです。惰性で読んでいくうち(モタ先生、まことに失礼!)、「ぬぬ?」と思う箇所にぶつかりました。「妻のお陰で自分がどれだけ助けられいるか」の箇所なのです。

モタ先生は、「家内のきつい言葉をメモし、家内の名前を冠した美智子語録なるものを編纂している。読み返してみるともっともだと納得したり自分のために言っているのだ。助けられたと感謝することがしばしばである。」と書いておられます。

例えば、「字は楷書で書いてください。他の人が読めないわ」
「何度お願いしても切手を乱暴に貼るのね。私なら手紙を捨ててしまうわ」など、第三者が読んだら他愛ないことに思われるのですが、この美智子語録の中に、こんな一文がありました。

「冬去りにけり、は、冬が来た、という意味です」

え?え?ちょっと待って!「去る」って「よそへ行く」とか「時間が過ぎる」とか「なくなる」とかの意味でありましょう?これじゃ、まるきり反対の意味ではないの?そろそろ本を閉じて眠ろうかと思い始めていた矢先のこの一文にすっかり目が覚めてしまいやんした。

こうなると、わたしの場合、よし、明日調べてみようと言う事にはならず、気になって眠ろうと思っても眠れないのであります。やおら起き出して、辞書を引くことに相成りました。

「去りにけり」は古文ですが、現代も遣われる思うので、まず2冊の現代国語辞典で確認します。対義語は「来る」とあり、意味は上にわたしが書いものです。

わたしは一年ほど前から日本語の生徒の一人と「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」という本を読んでいるのですが、教えるなどトンでもないことで、授業の準備をすることで生徒と一緒に学んでいると言うほうが正しい。

歌の意味も去ることながら歴史背景が分かる解説が面白い上に、見たこともない漢字や語彙にたくさん出会い、近頃は古語辞典を引くこと度々なのです。

そこで、いざ、古語辞典を!と引いてみますと、「離れる、退く」の他に、なんと「その季節や時期になる」と見つけた!がーーーん!こ、これはまた意外な・・・

古典を学んだ人は知っているのだろうけれど、わたしにして見れば、眠っている夫をこんな意味があったんよ!と揺さぶり起こしてつたえたい衝動にかられた大発見なのでした。

と言うので、本日は「夏去りにけり」と早速新知識を遣わしていただき、ポルトを写真でご紹介いたします。

ポルト
ドン・ルイス1世橋を渡るメトロ。

旧市街を走るCarmo(カルモ)教会行きの路電22番。後ろに見えるのはイルデフォンソ教会
ポルト

アズレージュ絵で被われたニコラウ・ナゾニ作のIldefonso(イルデフォンソ)教会
ポルト


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2017年6月5日(月) 

我がモイケル娘に頼んで入手してもらった本を、4月の帰国時に受け取って、勿論ポルトで読むつもりでしたが、期待感大きく、とうとう我慢できずに滞在先の妹宅にいた時に開きました。

と、途端に「ぎゃー!」とはわたしの口から出た悲鳴。側にいた妹が「どうしたの?」と驚いて聞きます。 どしたもなにも、これ見て、と見せたのが下の画像であります。

kojiki2.jpg

漢字だらけではないか、と、まるで漢字嫌いの日本語の生徒さんが言うようなことを思わず口走ったのであります。

漢字だらけではないか、と、まるで漢字嫌いの日本語の生徒さんが言うようなことを思わず口走ったのであります。
「并序」は「あわせはじめ」と読み、現代語で言えば「序文」ということなのだそうです。「原文」とあるように、これは「古事記」の序文、原文なのです。娘に頼んだは「古事記に託されたメッセージは現代の日本人にこそ伝えたい」との歌い文句があった小名木善行著「古事記(壱)」なのであります。

kojiki3.jpg

現代文の解説で読めると勝手に思い込み、開いた途端にこんな原文を目にするとは、トホホ。
読み下し文で書かれてあるだろうくらいには想像していたのですが、原文からだとは!
古事記は日本最古の歴史書で平仮名カタカナが使われるようになった平安時代以前のことゆえ、少し頭をめぐらせれば知って当然のことなのですが、そこが無教養なわたしであります。

知らない漢字も結構あるなぁと、開いたページをしばらく睨む・・・・ちんぷんかんぷんとはこういうことでありましょう。幸いにして直ぐ横に「読み下し文」がありますが、これとても、声に出して読めど分かったような分からないような(笑) なんだか、モイケル娘が院にて近世文学をとったころに、これはなんと読むんだろかと、親子して頭を寄せ合い、四苦八苦した始めのころを思い出しました。

ようやく現代語訳、最後に解説が書かれています。原文は無理として、せめては、分かるようで分からない読み下し文を朗読し、現代語訳、解説だけを読んでいくのはどうかとも思いましたが、それも悔しいではないかと、ここ数日、一日の終わりにベッドに入ってはこの原文とじぃっと睨めっこしていたのであります。

分かってますてば、睨んでリャなんとかなるなんて奇跡は起こりません(笑)
しかし、じぃっと見つめているうちに「懸鏡」「「吐珠」「喫剣切蛇」の箇所、これは皇位継承に代々伝えられてきた三種の神器こと、八咫鏡(やたのかがみ)・八咫勾玉(やたのまがたま)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)だということが読み取れました!うほほほほ。

何も分からないとて降参してすぐ現代語訳や解説を読むのよりも、こうしてまるで謎解きでもするように本を読むのは数年ぶりで、結構楽しいものです。

わたしはかつて平家物語を読んだ折、壇ノ浦合戦で二位の尼は幼少の安徳天皇と共に入水したのですが、では、三種の神器はどうなったのだろうか、海に沈んだままかと疑問を持っていたのですが、今回は検索してみました。

勾玉はいったん沈んだものの箱に入っていたので海上に浮かび上がり現在は皇居に、草薙剣は入水により関門海峡に沈んだとありますが、沈んだ剣は形代(かたしろ=神霊の代わりのもの)で、本物は熱田神宮のご神体になっているとのこと。

八咫鏡についてはこれも壇ノ浦に沈んだのを源義経により回収され、現在はその形代が皇居に、ご神体は伊勢神宮に奉納されているとWikipediaには書かれてあります。

三種の神器は皇族はもとより天皇でさえも実際に見ることはできないと言われるのですから、神代の昔からのミステリアスなものが現存すると言われることはとても興味深いと思われます。

自分の勉強のために、古事記序文でわたしが調べ面白いと思った部分を今日は取り上げてみましたが、現在日本語の生徒さんと読み続けている「百人一首解説」も、とても面白く、古事記と交差する部分が出てくるかも知れないと、謎解きをするが如く楽しんでいるのです。

読むのが初級者ゆえ、勘違いや間違った解釈もしているかも知れませんが、その辺は素人の浅はかさとご勘弁ください。

機会があれば、また取り上げてみたいと思います。
今日もお付き合いくださりありがとうございました。

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