2006年2月27日
portoプロムナード


大学進学の夢を抱いてはいたが、先立つものを親は持たないという事情を十分知っていたおっかさんこと、わたくしは、実は高校3年のひと夏、青森県は弘前の田舎から大都会東京まで出て、住み込みの「新聞配達奨学生」とやらの経験をした
ことがあるのでした。(このときの経験は我がHPの「思い出のオルゴール:1964夏・
江東区の夕日」
に綴ってありますので、興味のある方は、右リンク欄下の「spacesisのHP」からどぞ)

あの頃は皆無だった女子の新聞配達奨学生が、今では何人かいるという記事をどこかの雑誌で近年読んだことがあります。我がもいける娘にその話をしたのは、丁度この時期です。わたしの経験談は、彼女の日本の大学進学の夢に更に火を焚きつけてしまったような結果になりました。
「それなら、自分も!」というわけです。

この頃から亭主抜きで、頻繁に娘は日本行きの夢を語っていました。が、相談されても「ない袖は触れぬ」w
自力で道を開くことを教えるしかございませんw
そういう中にあっての「音楽専門学校」の案内書だったのです。

己が憧れて、しかし触れることのできなかったディジタルピアノを、娘が4歳の時に、3年ぶりの帰国を一回諦めて思い切って買いました。子供達よりも母親のわたしが、夢見気分でしたね^^その4歳から娘はピアノを習い続けて来ました。音楽は私自身がビアハウスでバイトの歌姫をしたりして、生活の、はたまた心の糧にしていたくらいですから、必然クラシックに限らず、昭和時代の歌からビアソングまで、娘の耳には自然の音として入っていたわけで、ピアノを弾くからと言ってクラシック畑に進むとは言えません。
彼女はミキシングなどに興味があったようです。

音楽学校の案内書を見たときは、「ありゃ~~、こっちもか!」の感だったのでした。
「こっちもか!」と言うのは、兄貴である息子も進路決定を前に「音楽の道を」と言い出したことがあったからですw

音楽は趣味でやっているうちはいい。職業にするとなると、甘っちょろいものではない。日本ならいざ知らず、ポ国でその道を選ぶのは、親が資産家であるか、天賦の才能を持つかでないと食ってはいけません、無理!と反対したのは、誰あろう、音楽を愛するわたしでした。

ただ、親が反対しても、それしかない、と言うのであればもはや引き止めようもなし。黙って見守るのみですが、どうやら、なんとなくこちらの言うことは道理とでも思ったのか、それとも、木しゃもじの母ですからね、逆らわんとこうとでも思ったのかw とにかく息子は音楽学校は捨てたのです。しかし、それでギターを止めたかと言うととそれはなく、呆れるほどの没頭ぶりで、それは今に及んでいます。

「本当にその道を歩みたい、捨てがたい夢であるのなら、いつかきっと再び、その道標に従うであろう、周囲がなんと言おうと」これがわたしの持論であります^^(そして、2015年現在、彼は東京で働きながら音楽活動をしています)

音楽進路の悪夢がまた来ようとは!おっかさんは困ったのでしたw

日本の大学受験への道は長い・・・wこの章、明日に続きます^^

★本日の写真は大西洋が目の前に開けるポルトの海岸通りプロムナードからの景色
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2006年2月26日
さて、いつまでも、木しゃもじが割れてしまった事情を先延ばししてはいけません。
ひどい親だと思わないで下さいましよ。
なんで真っ二つに割れてしまったかと言いますと、早い話がつい思いっきり息子の頭を
バチーンとやってしまったのでして、ハイ^^;

何しろ息子5年、6年遅れてこの世に顔出しした「もいける娘」更に5年。
通算10年と年期の入ったしゃもじです。
わたしとしては、かなり朽ち果ててきていたのではなかろうかとw
(自己弁護の構え、してます^^;)

6年間亭主のポルトガルの家族親族、更に両親にたっぷりかまってもらったジュアン坊やに、
ある日どうやらもう一人誰かがやってくると言う。
「男ならいい!」と勝手を申しても、こちとらどうもできないぞw
エコグラフでやってくるその誰かさんが、息子が期待する男でないと知ったものの、
亭主と二人で相談、誕生まで言わないでおこうと決めました。

誕生したのが妹だと電話で亭主から知らされた息子、「ふ~~ん」だったのだそうですw。
亭主の兄弟の子供達は皆男、そして我が家のジュアンボーイ、更に日本の我が妹の
子たちも男で、「もいける娘」は双方のばあちゃんたちが待ち望んだ、
孫娘だったのでした。

さぁ息子、さほどひどいことはしないのですが、薄こんがりと妬けるのも無理はない。
よちよち歩きをチョチョッとつっついて転ばしては「えへへへ」、ネコをだっこして
喜んでる妹の腕を無理矢理ふりほどいて取りあげては「えへへへ」。
この日は恐らく何度かこう言うことをしでかしてたのでしょう、大概我慢していた
母親、とうとう堪忍袋の緒が切れまして「バチーン!」。

と、一瞬「おろ?」しゃもじが半分欠けてるではないの^^;
やられた息子、何が起こったのかと本人もポカン。
床に落ちてるしゃもじの哀れな片割れを見た母親はキッ!となり、
「お部屋へ入ってなさい!!」と人差し指でGo!
珍しくキツイお達しです。

拾い上げたしゃもじの片割れを見ながら、すぐさま後悔の念が頭をもたげて参りました^^;
「こんな割れるほど強く叩かなくてもよかったかも・・・可哀想なことをしてしまった。
「ごめんね。」を言おうと思い、ジュアン・ボーイの部屋のドアをそぉ~っと開けて
入りますと、ベッドに丸まって潜り込んでいます。
被ってもっこり盛り上がっている布団がかすかに震えているのでした。

おぉ、可哀想にすすり泣いとる~。「ジュア~~ンく~ん」と、お話しようと思い、布団を
めくりあげましたら、あげましたら~~~~!
なんちゅうヤツ!すすり泣いてるどころか、エビ姿になって笑いをこらえてるでは
ござらんかーーーーー!

頭に更に血がのぼったのは、言うまでもなし!
懲りない息子ではありました^^
はい、その息子、只今では25歳。リスボン大学で勉強しておりまする。
今度帰省してきたら、懐かしいこのしゃもじ、見せてあげようかしら^^

ということで、このしゃもじをしばらく振りで見つけてわたし、この一件を思い出しては
一日中可笑しくてしようがなかったのでした。
「思い出の木しゃもじ」完結編といたします。
ジュアン・ボーイ時代1

★本日の写真は、この頃の我が息子。
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2006年2月24日
郵便物1


「ギョッ!」の補習校中学卒業式以来、日本から娘宛に分厚い郵便物が入るようになった。我が二人の子は幼稚園から通しで11年間通学したBritish Schoolからポルトガルの私立高校へと転校していたのである。

その11年間は授業は全て英語であったのが、突然高校科目の全てがポルトガル語になったのだ。経験のない人は「生まれがポルトガルだし、周囲もポルトガル語だし、問題はないでしょう」と言うのだが、これは実は大きな間違いなのです。
生活語ができるというのと、高校レベルの授業、教科書を理解するというのは別問題!

こちらでは、9年生(日本の中3)の時点で大学進学コースを既に決めなければならない。理系、文系どちらかを採るのだが、途中でコース変更は勿論できるとは言え、その場合は、10年生(高1)からやり直しである。こんなに早く将来を決めることになるなんて!と日本育ちの親はブツブツ言いながら、結局万が一の時にはを考えて彼女は理系のクラスを選択。ヒャ~、こりゃもう、なんともお手伝いなんかできませんですわw

小学校からの9年間は、週一度の補習校に加えて、子供達には「海外子女教育財団」の日本の教育カリキュラムに合わせた4教科の通信教育を受けさせて来たのだが、このほぼ9年間は、彼らと共に、わたしも一緒に勉強させてもらったと同様である。

この部分はいずれ「日本語教育」のところでゆっくり触れるとしましてw これまでは、親子で机に向かってああだらこうだら言いながら手伝わせてもらったに~wそれがすっかりできなくなりもうした^^;つまんないよぉ~とは、わたしの言で、子供達は口うるさい親と机を並べないで済むのだから、さぞかしホッとしたことであろう。

さて、話をトップに戻してと^^ぬぬ?と思った母のわたくし、ある日娘が学校に行ってる間に、部屋の掃除がてら机の上に目をやりましたら、「Campus Navigation」なる雑誌が飛び込んできた。サブタイトルには「大学・短大・専門学校の必見最新情報」とあるではないか!

我が思惑も構わずドンドン届けられてくる郵便物。
そして、ある日ついに見てしまった「Music &Entertainment」なるOSM(大阪スクールオブミュージック専門学校)の案内雑誌。中を開いて見ると、なんと、東京の私立大学より高い受講料ではないか!ま、待っておくれよ~~、娘!ないんだってば、うちには肝心のお金が~~。

どうやら、彼女は日本の大学受験、はたまた音楽学校を念頭に置いてるようであった。トホホホホ・・・^^;

★今日の写真は、もいける娘が取寄せていた雑誌の一部
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2006年2月23日
p_goods085-panire.jpg

昨日の半分に割れた「木しゃもじ」、あれは子供達が小さい時のしつけに
使われたのでした^^;今時の親御さんはそのような事は致しませんでしょうか。

アメリカ映画等見ていますと、幼い子供にとくとくと説明し、上手に納得させる
場面に何度も出くわしますが、あんな風に説得できる親も、理解できる
能力を持つ
と思われる幼児も、大したものだと感心せずにはおられません。
が、我が子がその年端で、わたしの説明を十分に理解してくれるとは、
わたしは判断しなかったのでした。

勿論、いきなり「バシン!」と所構わずしたわけではありません。
「これは直してもらわないと困る」という事には、理由は聞きません、
「こういうことで、それはいけません」と簡単な説明のワン・クッションを置いた後、
「お手手をだしなさい」で一回パチン、です。

小学校2、3年くらいまで使ったでしょうか。そのくらいの年齢になりますと、
さすがの我が子たちも、何故してはいけないかという事を、言葉で説明しても
ある程度理解できるようになり、それ以降は使われることはありませんでした。
しかし、息子と娘の年齢差は6歳です。二人を同じようにしつけたわけですから、
トータルで行きますと、結構な長い年月使用になったのです。

実は、最初のうちは掌でパチンでした。
ところがです、わたしは簡単に内出血するタイプなのです。
自分が知らないうちにどこかで軽く打ったのか、いつの間にか体のあちこちに
青い痣ができている事がしょっちゅう。
掌での軽いパチンが何かの拍子で右手の小指、親指は内出血です。
これが血は出ないものの、痛いのですね。

「ママも痛いのです。見て御覧なさい」と、初めのうちこそそんな風に
カッコ
つけてたものの、いやぁ、これは参りましたです^^;
と言う訳で、日本から持ってきた木しゃもじ代用となったのです。

もいける娘が4歳の頃、もう何をしでかしたのか、今では覚えていませんが、
「お手手を出しなさい。パチン」とやりましたら、娘、わたしに叱られたことが
こたえたようで、その時はいっちょまえに反抗してきましてw
突然、リビングのドアを開けるなり、
「まいちゃん、家でしちゃう!」(笑)

見ると、既に小さな背中には、これまた小さなリュックを背負っておりましてw
どうするかと様子を見ることにしました。
すると外へ出て、トットコトットコ、20m程向こうにあるおばあちゃんの家へと
歩いて行きました。ベランダから見えますから、すぐさま義母さんに電話。
「そっちへ向かってます~」すると、
義母さん、自分の家のドアを開けて待ってます(笑)
小さなリュックには、ちゃんと自分のパジャマを入れてあったとか。
これはもう、4歳たりとも立派な家出ですわ。

そうそう。彼女が中学1年に作った数ページの自分の新聞には、
「我輩の憧れ、家出」とあったものでした。
まったく、んもう・・・
4歳の初家出からず~っと本格的な家出なるものを夢見てきたのでしょうかw
結局その夢を実現して、日本へトンズラこいちゃったのですけどね(笑

あらら、話がずれて長くなってしまい申した。
木しゃもじが、なんで半分に割れてしまったのか、それを書きたかったのよ~~w

では、第三部へとずれこみ~~。

★今日の写真は、ポルトガル・グッズのパン入れです。
 galo(鶏)はポルトガルの象徴です^^ 
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2006年2月23日

人は、なにかの思い出にまつわる品物を多かれ少なかれ持っているのではないかと思う。
母の形見の指輪だとか、どっかにこっそり隠されている昔の恋人の思い出の品だとか(^^;)、
或いは、成長した子供達が使い古した、おもちゃや洋服、絵、なにかの賞状賞品などの
思い出の品々。

わたしにも、子供達の幼い頃の絵や作文など、それにおもちゃから絵本類、お気に入りだった衣類等等、並べたてたら、結構たくさんでてきそうです。
そのなかでも、「なんじゃ、こりゃ?」というものを、今日は台所を整理していて、
偶然見つけて一日中、一人可笑しがっていたのでした。
だって、これ、思い出したら笑いがとまらなくなってしまう品物なのですもん(笑)

はい、これです!
shamoji.jpg

真っ二つに割れた木しゃもじ~~

遥か26年ほど前に日本からポ国へと持ち込んだしゃもじなのです。
息子やもいける娘がこの写真を見たら、
「あぁぁぁぁぁ!あれやあれ!まだ持ってるのか~!」
(そう、まだ持ってるのだw)と言うこと、請け合いの代物w

現在では何事にも使われてはおりませんが、実はこれ、息子と、もいける娘の二人に共通に、とあることに随分長い年月、使われたものなのでした。
これは、はたして何に使われたのでありましょうか!
「目的のために、わざわざ割った」のではありません。
目的使用中に割れたのでして^^;
答えは、あしたw

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2006年2月21日
ダウンタウンにある市場「ブリャオン」

母親であるわたしと子供との伝達言語は日本語と決まったが、父親とはどうなるのか?
はい、この点はわたくしの決めることではございませんで、放って置いたのでありましたw

亭主は子供達とは、ポルトガル語よりも英語日本語で話しかけていたように記憶しています。
ポルトガル語の方は、同居していた義母や義母の姉妹たちから耳に入るのですから、
当初は大した問題ではないと判断したのでしょうか。

生れ落ちたとき、日本語、英語、あげくの果てはポルトガル語まで耳に
入って来たのですから、息子はさぞかしびっくりしたのではないかなw。
或いは「この世界では、これが極当たりまえのことだ」と、すんなり受け入れたのであろうか。
聞くよしも無しw

こういう具合に、ポ国での我が子の日本語教育は始まりました。
ちなみに付け加えますと、「わたしは日本へ帰るのだ」と宣言してその
実現を果たした娘と違って、長子の息子はポルトガルに住んでいます。

息子が3歳、「この国でどんな学校教育を授けるか」の方針を決めるべき時です。
家のすぐ裏にある公立学校の様子を垣間見てきたわたしは、
「子供たち、バス停で喫煙してても、先生、注意しないではないの!
それに、なぜだか、しょっちゅうパトカーが学校に走ってるし^^;
こりゃ、まずいです。」

増して日本人中国人の東洋系がほとんどいなかった20数年前です。
わたしは、ポルトに住み着いた最初の日本人でしょう。
街を出歩くたびに、「シネーザ、シネーザ(chinesa=中国人女性)」と
指さされ、これがまた、頭にくることに、最初の頃は言葉が分からないもので、
「死ね~死ね~」と聞こえたのであります(爆)ク○ッ!

我が子は、東洋系の容貌を持つと言う、自分が望んだものでもないことで、
囃されたりいじめられたりすることは、目に見えています。
公立の学校へはやらない。私立の学校も当時はどれもカトリック系です、
これもやらない。そして、日本人学校はない・・・
これは言葉の勉強ではなく、我が子の人生に大きな影響を与えることに
なるであろう、
学校教育の選択問題です。

亭主とは随分話し合うことになるのでした。


★本日の写真は、ポルトの街の中心にある大きな市場「Bolhão(ブリャオン」
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2006年2月21日
昔の路面電車

本日は、日記です^^
実は夕べ、いつもの事ながら(^^;)突然断水。
よって台所に昨夜の夕食の汚れた食器が二人分、そのまま洗わずになってるのでありまして。
水、もう来てるかなぁ、と気になっていたのでしょうか、早めに目が覚めてしまったw

恐る恐る水道の蛇口をひねってみましたが、水、出てきませんわ。
んもう、これなんだから・・・
この間からから雨が降ってるちゅうのに、なんで水がないのよ~~。
と、叫んだところで、一滴も出てくるわけはなく、ジッと我慢の子。

お役所に電話で問いただしたところが、「わかりまへん」とのこと。
ええねん、分かってるねん、こっちは。
どうせ、「お、もう時間じゃないか。残りは明日にでもまわして、終わろう終わろう。」てな感じで、修理、途中でほったらかして帰ってしまったに違いない。

ああああぁあぁ、もしかして今日一日水がないかもだーーーー!

そういえば思い出しました。ポルトガルに来て2年目の正月。
大晦日から新年の3日間、断水で過ごしたことがあったのを(爆)
それまで、日本でもアメリカでも、断水なんてほとんど経験したことがなかったわたし、旧年の垢も落とさず正月かい!と腹がたつのを通り越して、「エラいとこに来てしまったもんだ」と思ったのでしたっけ。笑

そして、その後度々出くわした断水には辟易したものですが、一番困ったのは子供たちがまだ小っちゃな赤ん坊だった時です。
おむつの換えとミルク瓶の消毒。意外と神経質なところがあるわたしは、これにはほんと、参りました。

ポ国在住四半世紀経た今、あの頃ほどの断水はないにしろ、しょっぱなから一日の生活の段取りが、断水で狂わされることにすっかり慣れることはない。
今日、水がないのだったら、あれをしようこれをしてみよう、という応用、咄嗟の対応がまだまだきかない。選択技が少ない、ってことでしょうねw
これって、生真面目なわたしたち日本人に、けっこう言えることではないかな?

ラテン系哲学の、「今日は今日の風が吹く」と、まだまだやり過ごせないところに自分の「やはり生まれついての日本人」みたいなものを感じます^^;

水、こないかなぁ・・・・w

★本日の写真は、ポルトを昔走っていた路面電車。
 現在では、路面電車の博物館で見られます。
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2006年2月20日
o-1114-sanbento4-806.jpg

人間稼業を半世紀以上もしていると、自分の事しか見えなかった若い頃に比べて
周囲が少し見えてきます。

例えば、国内での子育てにしても海外での子供の日本語教育にしても、その結果例から
自分の子供がこうできたからと言って、それが他にも当てはまるとは限りませんね。
ですから、spacesisの「帰国子女物語」については、「このようにわたしの場合は
出来たけれども」と言う前提で進めて参ります^^

さて、我が「もいける娘」が「ギョッの卒業式」後、どのような作戦を練って保護者に
戦いを挑んで来たかは、ちょっとお休みしまして。
今日は片親が日本人、そして日本で生まれ育ったわけではない彼女に、果たして
大学の学問に取り組んで行けるだけの、日本語理解力があったのか?につきまして。

もちろん、彼女の日本語理解のお脳部分は、あちこちプチプチとまっさらな白い斑点が散在する如く、斑(まだら)状態であったと確信するw
そのような斑状態は、実体験を経て新鮮な知識となり少しずつ埋められて行きます。
ある程度の基盤ができていると、その埋め立て(w)は、せっせと進められると思います。
その日本語的な基盤を作ることが、海外における子育ての難しいところでしょうか。

「英語ぺらぺら」という言葉を耳にすることが多くあります。
わたしもポ国に20数年もいると言うと、すぐ「じゃ、ポルトガル語ぺらぺらですね」と来るw
日本で生まれその教育を受けてきた日本人としてですら、「日本語ぺらぺら」
とは思っていない。どこの国の言葉でもそうだろうが、とりわけ日本語は
非常に奥の深い言語だと、思い始めたからです。
「○○語ぺらぺら」の評価には、なんとなく薄っぺらな感じを受けるのは、
こんじょ曲がりだからかしら(笑)

ま、この外国語談義は、またいずれの機会にするとしてw
そんなわたしですから、20数年もポルトガルに住んでいるというのに、ポルトガル語が
ぺらぺらでないのは誠に面目ない話ではありますが、致し方ない^^;

さて、ポルトガル語を全く知らずに来たわたしの伝達言語は、英語でした。
長男のJRが生まれるとなって、初めて、いったい子供とこの環境でどんな
言語で意思の疎通をはかれるのか、考えて見ました。
結論は即(笑)どんな言語もなにも、あぁた、英語では間もなく行き詰まってしまうことが目に見えています、自分の母国語である日本語!これしかないではありませんか。
日本人学校はない!ならば、母親の国語として自分がこの役割を務めて行くだけです。
単純簡潔、異議なし!
少なくとも母親のわたしと子供とのコミュニケーション手段は、まず決まったのでした^^

で、父親とはどうなるん?^^;

★本日の写真は世界遺産指定となっているポルト旧市街、
 サン・ベント駅周囲。
 路面電車線路上に堂々と駐車してるとは、さすが
 ポルトガル!等とは思わないで~~w
 路面電車はまだ開通しておりませんですw






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2006年2月18日(土曜日)
ストリート・ミュージシャン

子育てが済んだらその時間であれができよう、これができよう。
飼っている4匹のネコたちがいなかったら、朝一番、眠気まなこでトイレの砂を
片付けんで済むし、さらに日本語教室で生徒が家に出入りするので、匂いを避けるために
日中しょっちゅうトイレ砂をさらわんですむ。(我が家では人間のトイレは二つ、
ネコトイレは三つ置いてある。)えさ代だってバカにはなりません。

そう考えることは度々ある。
いや、子育ての方は、「そう考えることが度々あった」と過去形で言ったほうが
正しいかもしれない。とりあえず二人とも家を離れた状態であるからw
もちろん、これで親としての役割が終わりだとは思っていないけれども、
多分一区切りついたとは言えるでしょう。

さぁ、あれもできるし、これもできるぞ!
好きなことをして充実した時間を持とう!人生はこれからだ!

と、ところがですね、なんと言いましょうか・・・
そう行かないんですよね、これが・・・

もう、毎日昼ごはんを食べに学校から戻ってくる子がいないし、食事をつくる
手間がはぶけて、時間は十分あるはず。
それなのに、なぜかウロウロばかりしていて、どこが充実しているのだ・・・
そんな事もあって、これまで受けるのに制限して来た日本語の生徒をもっととる事にしたのです。

で、思いました。
生きる、ってもちろん、最低限のものがあればなんとかやって行けるものです。
でも、毎日の生活の中で、大して取り得のないような事、無駄に見えるような事も
どこか何かと連鎖していて、愚かにプチッとスイッチを切るような事はすべきだはないのかも、と。

あ~ぁ、そう思い、今日もネコの砂さらいに励みまする~。
これも生きることなのだw

★本日の写真は、ポルトの街のストリート・ミュージシャン。
タンゴ曲の名曲「ある恋の物語」が街中を流れていました。
上手でしたよ^^
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porto-aliados

2006年2月17日(金曜日)

さてはて困ったもんです。
日本へ帰るったって、日本の大学へ行くったって、もいける娘よ、あぁたの親の生活基盤はポ国であるぞ。
物価が安く、それまで日本のほぼ半分の生活費で暮らしができたお国である。
日本からポ国へ来るのならいざ知らず、その逆コースであるから、これはあぁた、並大抵なことではございません。

我が家ではその頃、六つ歳が離れた息子は、リスボンで大学生活です。リスボンと言えば、住居賃貸料の高さでは、なぜかヨーロッパでも1、2を争うという、どうでもいいようなことで有名な都市です。

法外な家賃を5年間も払って(ポルトガルの大学は5年制)ドブに捨てるよりも、建て直ししたのでいいからリスボンにアパートの一室を買った方がいい、と亭主は判断。
ローンを組んだばかりの頃です。ポルトの自宅とリスボンのアパートと・・・・・・
日本の大学受験は無理だってば^^;

娘が父親に面と向かって宣言できなかった理由は、ここにあるのでしたw
夢です。夢ならば見ることは自由だ、娘よ。

しかし、かえるの子はかえる。
「いつかアメリカで」と高校時代からの夢を見続け、卒業後都会で一人暮らしをしながら、オフィス、歌バイトと数年間働いて、ついに夢を叶えた、そのおっかさんこと、わたくしの、さすが娘(笑)
(もっともその夢を実現できたのは、三十路を過ぎてたが^^;)

つまり、そう簡単には諦めず、頑固に色々計画をコネorごね回したのでありました。

★本日の写真はポルトの市庁舎通り「Aliados」です。

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2006年2月16日(木曜日)

卒業式の季節が来ると、毎年のように今ではもう5年前になってしまった、ぎょっとした卒業式を思い出す。

ポルトガルには卒業式というものはないのだが、我が子二人は、月曜日から金曜日までBritish Schoolに通学し、毎週土曜日は、日本語補習校なるところに9年間通い、日本の義務教育課程をとりあえず終えたのである。週に一度の3時間授業で、国語数学2教科の日本の1年間の教育カリキュラムをこなすのだからこれは大変な進度具合なのだ。

しかし、おかげで二人とも小中学部では日本式の厳かな卒業式なるものを経験することができた。
小小規模の補習校であるから、卒業生は一人か二人が通常であるので、どの子もいっちょ前に日本ではなかなか仰せつかうことのない、「卒業生代表の答辞」とやらをすることになる。

その年、義務教育課程を終えたのは我が「もいける娘」ひとり。
補習校関係者は在校生はもちろんのこと、その親達も全員出席しており、壇上に上がったもいける娘はおもむろに答辞原稿を開いて読み始めた。と、答辞のあるくだりに来ると場内にどっと笑い声がさざめいたのである。

「わたしは今から3年後、ポルトガルで高校を終えた後、日本へ行くつもりです。いえ、行くのではありません、わたしは日本へ帰るのです。」

さざめく笑い声とともに、「おおおお~~」との声があちこちから響き、横にいた大阪出身の友人は、ひじでわたしを突っつきながら、
「あんた、今の娘の言葉を聞いた?行くんじゃなくて帰るんだってよ!覚悟しときや。」

ポ国で生まれ育ち、日本には3年に一度の割で行き、夏休みの一ヶ月ほどを過ごしただけの日本。
しかし、その日本へ、彼女は「行く」のではなくて、「帰る」と言うのだ。
その日わたしは、頭から水をぶっかけられでもしたように、意外な娘の言葉にハッとさせられたのである。

これは彼女の、面と向かってはなかなか言い出せなかった、父親への、実はメッセージだったのでした。
そして、その父親はと言えば、肝心の卒業式には出席できなかったのでありました。

わたしたち母子の、日本の大学受験奮闘はこうして始まったのでした。



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2006年2月15日


今日本ではどのくらいの人が携帯電話を持っているのでしょうか。
ポルトガルは凄いですよ、計算でいくと、国民一人一人が一台持ってる
勘定になるらしい^^;
今電話局では、なんとか電話を使ってもらおうとあの手この手で必死に
方策を出してくるのですが、携帯電話の威力の前ではたちうちできない
のが現状です。

せんだって、我が車を使って夜中に友人に会いにでかけた愚息が、朝起きて部屋をのぞいてみたら、帰宅した様子がない。
亭主が「これからJの親んとこに行くが、遅くなっても帰るから」と出先から連絡が入ったという。
息子はその翌日の昼には、リスボンへ戻る予定で切符を買っていたのですが、予定変更だから、駅まで送ってもらう必要なし、とのこと。

「ふ~ん、じゃ、駅に寄って切符を払い戻してくるとして、昼までには帰るかな?」と思っていたのだが、昼近く、ちょっと気になったもので、携帯に連絡してみた。常だとメッセージが残せるはずなのに、この日は、「ただいま携帯にはつながりません」・・・何度してみても同じアナウンス。
そのうち、昼も過ぎたというのに帰って来ませなんだ。

これはおかしいぞ、これまで黙っての外泊はなかったし、車で出かけたのだから足がなくなったとはあり得ない。さぁ、こうなりますと、つながらない携帯も不自然、どんどん心配が募り、亭主にも連絡。それでは、行ってる先のJに電話を。で、はたと気がついた。
どこへ連絡するのだ?彼ら携帯で連絡取り合っていて、息子の友人らの携帯番号はひとつも持っていないじゃん!

リスボンで学んでいる息子、ポルトに帰省してくると遊ぶ友人には事欠かない。全部が幼稚園から中学卒業まで一クラスで来たBritish School 時代の友人だ。
誰々が今日はこれやって怒られただの、どこそこへ行って来ただのと、
しょっちゅう息子から名前を聞いてきたので、ファーストネームは皆覚えているが、
苗字までとなると・・・

ポルトガル人は同姓同名がとても多いのでありまして、親の姓名をきちんと知っていたところで、住所番地までわからないと、電話帳では調べようがない。
なにしろ、隣にもお向かいにもそのまたななめ向かいにも、ともすれば
同姓同名がいるわけでして^^;

すったもんだの騒動で、あちこち知ってるかぎりの人に電話をし、
やっと入手したJの携帯番号、連絡してみると、
「ただ今、ご子息はグゥスカ眠りこけておりす」・・・・・・・・・・
おふざけじゃないで~~~!

なぜ携帯にメッセージが入れられなかったかというと、たまたま電池切れになったのだそうな。ありますよね、こんなこと。
今回のことでは携帯電話の持つ功罪を考えざるを得ませんでした。

携帯電話が普及する前なら、外からも家からも知人への連絡は備え付けの電話を利用したわけですから、全部はわからないまでも、例えば子供が誰と話していたとか、どこから電話が来たとか、そういう様子をうかがうことができたので、子供のおおまかな交友関係は掴めたわけです。
これは夫婦に関しても言えたことです。
家族の交友関係がだいたい分かり、家にある共通の電話帳にもしょっちゅう連絡をとりあっている友人の番号は必然的に書き込まれる。

ところが、いったん携帯電話を持ったが最後、その交友関係は、すっかり秘密裏になってしまい、今回のような事が起こる。
プライバシー云々も大事かもしれないが、わたしに言わせれば、親のすねをかじっている間は何をかいわんや、である。
家族の交友関係を全て把握して置きたいと言っているのではない。
万が一の場合を想定すると、これは少し恐いことではないか?
自分の夫が、息子が娘がどのような人間とつながりあっているのか、これがどうでもいいということはないはずである。
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2006年2月14日
夕方6時半から始まる、生徒が二人の教室。
開始後間もなく珍しく亭主が早い帰宅です。
あらま、まだ1時間半はかかるわよぉ、と予告して終わりましたら、外へ食事に行こう、
と亭主。う~~ん、予定外の夜の外出はあまり好かんなぁ、と思ったものの、作ったら食事
まであと1時間はかかるので、きっと待ちきれなくなったのだろう。
そう思い、いつも行く近くのレストランへ出かけました。

すると、なんと!週末でもないのに、長~~い列ができてるではないの。
これは一体どういうこと!とても順番が回ってくるとは思いません。
では、日本レストランへでもと、車を向けましたら、なんとなぁ、そこでも長蛇の列!
結局3軒目のレストランでも40分ほど待たされてやっと晩御飯にありつけたのですが、
ウエイター曰く、「Dia de Namoradosで、てんてこ舞だ。」
つまりバレンタイン・デーで、外で食事しようという人が増えて、どこもかしこも一杯の人な
のだそうです。
なに、見ると若い人たちばかりではありません、年配、家族連れもけっこういるではないのw
「バレンタイン・デーと言ったって、昔はこんなことはなかったよ」と亭主。

つい、先だって、ポルトガルのテレビニュースで、バレンタイン・デーに向けての日本の
デパートのチョコレート売り場の派手な様子を映していましたから、もしかすると、その煽りを
受けて、ポルトガルもブームの火がついたのかも(笑)
そう話していたら、レストランのテレビで、「リスボンのとあるホテルでは、この日のための
バレンタイン特別趣向のお薦めプランがある」とのニュース^^;
これって、まるっきし日本の商業方法ではないの~~~w

いやいや、おかげで、わたしたちの晩御飯、待ち始めたのは8時半から、食事を終わってレスト
ランを後にしたのは、11時近くでありゃんした。

例年ですと、亭主には娘がチョコレートをあげるのですが、(かんちがいさんとこ同様、もいける
娘本人が食べたいからw) おりませんので、わたしから夏用の薄黄色のTシャツと「ミント
チョコ・アフター8」のプレゼントでした^^

この日は、ポルトガルでは、昔は女性から男性に手作りの「lenço de namorados(恋人達の
ハンカチ)を贈ったものですがね。今ではすっかり見かけなくなってしまいました。

写真はその「恋人達のハンカチ」です。

lenco



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