2006年4月29日

妹夫婦が仕事の関係で、サウジ・アラビアに3年ほど滞在したことがある。
その頃、土産でもらったのに変わった形をした金のペンダントがあった。
その時は知らなかったのだが、実はこれ、「ファティマの手」と言うのだそうだ。
下記写真がそれです。
fatima

わたしの持っているのは手の平に小さな赤いルビー石がついています。

ファティマはイスラム教祖モハメドの娘で、献身的な女性の代名詞です。
「ファティマの手」は、その彼女の左手をかたどり、魔よけや幸運を
呼ぶ印として、
イスラム国では装飾品に用いられるようです。
 
「ファティマ」はポルトガルでも女性の名前としてよく使われます。
まだ高速道路が発達していなかった昔のこと。
今なら3時間でたどり着けるポルトーリスボン間は、国道を走って5時間近くかかったころです。
         
5月ともなると、その国道に沿った脇沿いの道を数人のグループが歩いて行くのを
車内からよく見かけました。
                
年齢はまちまちで、若いのからお年寄りまで、背中にはリュックを背負い杖をついたり
して固まって歩く群れを幾グループも見かけました。
亭主に訪ねると、彼らは願をかけて、ポルトガル東西南北から聖地ファティマ参りをする
巡礼だと言う。
                
その時期、よく注意して見ると、巡礼たちはポルトの街中でも見られます。
彼らは、日中は歩き、夜になると安宿で寝、翌日また聖地ファティマを目指して、
何日も行脚でたどり着くのです。

ファティマはリスボンとポルトのほぼ中間に位置するオレン地域にある、人口およそ
1万人の小さな町です。
町名の由来は、イスラム教からカトリック教に改宗した12世紀の娘、ファティマから来ます。    
このファティマは、後に名を「Oriana=オリアナ=ポルトガル名」と変え、
それが群の首都名オレンになりました。

宗教を信ずるかどうかは別として、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教、仏教、
神道でも、わたしはその成り立ちや言い伝えに、深い興味を覚えます。
毎年の5月13日、10月13日には盛大なミサがここで行われるのですが、時々、
願をかけて巡礼した人たちの中から、奇跡が起こったとの話がニュースになったりします。

願をかける信者のなかには、大広場から聖堂前までの長い道のりを、膝で歩く人もいます。
その様子は、当ホームページ内spacesisの歩くポルトの街:サン・ベント駅
構内のazulejo 
(青タイル絵)をごらんください。

ファティマ聖地は、前法王ジョン・パウロ2世も何度か訪れていますが、ここには
そう遠くない昔の奇跡が現代にも脈脈と受け継がれているように思われます。

次回は、ファティマの奇跡について、お話したいと思います。
 
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2006年4月28日

今日のポルトは初夏です。
ベランダの花々が一斉に咲き始めました。
我が家のベランダを紹介します^^

今年はこんな風なことをしてみました。
ちいさな花を寄せ集めて、ハンギング篭に入れてみました。
florkago
鉢植えのミニ薔薇も真っ赤な花を咲かせました。florrosa

  今年最初の薔薇です。薔薇は少し目を離すとすぐアブラムシが
  つくので、要注意ですが、毎朝夕、ベランダの花々を見るのは
  幸せな気分になります^^

時々、ベランダにそのまま座り込んで、花を前にコーヒーをすするのは初夏の日の
至福の一時です^^ブーゲンビリアも少しずつ咲いてきました。きっと今年は
去年以上にたくさんの花をつけることでしょう。bugenbiria

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2006年4月27日
lace

先日、朝まだ眠っている時間、電話に起された。
まず、亭主が出た。すると、日本語で応答している・・・
もいける娘だという。ぬぬ?なにかやらかしたかな?と思って出ると、そうではない
と知って一安心^^

子供が家を出て生活していると、普通の時間外の電話はドキッとして、ついつい
不安になるものである。

用件は、と言うと新宿のなんとか電気店からとのこと。
所沢から練馬に引越ししたのであるが、ネット接続の手続きを前もってきちんと調べて
置かなかったもので、もしかしたら、案外簡単にできたかもしれない手続きがもたついて
しまい、1ヶ月もたつのに、未成年であるがため、親の承諾だの、やれ、わたしのパスポートの
コピーだのを提出せよ、との連絡が一週間あともたってから、来るのだ。
一度目は、申込書を出したあと、一週間してから「未成年ですから、親御さんの承諾のため、
パスポートのコピーを送れ」とのこと。

できれば、メールで送りたくなかったので、妹宅のファックスあてに送ったら、顔写真の部分が
真っ黒けになっていた。写真などは関係ないだろうと思ってそのまま提出させたら、また
一週間してから、「これではだめだ、もう一度出せ」。
そんなこんなで、ネット接続には今から更に3週間はかかる。
で、カード契約があるはずだと思い、もいける娘に話したら、彼女早速その手続きに行った
わけでして。
その店からの国際電話でした。

「カード契約もやはり、未成年なので親の承諾がいる。電話でもいい」とのこと。
ポルトガルではもうとっくに成人になってるのに、めんどくさいことではあるが、仕方ない。
娘が店員と電話を替わった。
替わったところが、店員の口上から最後まで、わたしはその間説明を聞きながら
「これ、まさか機械じゃあるまいね?・・・・」という感じを拭えなかったのである。

確かに要点は抑えて説明してるし、言葉も「ですます調」ではあるが、感情がまったく
感じられないのだ。
電話を切ったあとも、客応対の店員マニュアルを目の前にして、そのまま読んでいる
ような感じの店員の話し方がひどく心にひっかかった。

かつて「日本人はいつもヘラヘラ笑っていて(ヘラヘラとはなんじゃい!とわたしは思った
ものだが。笑)、なにを考えてるのか分からない」などと外国人に嫌味を言われたり
したが、一流二流のクラスの区別なく、日本人のサービスは迅速で気配りが伺われ、
賞賛する外国人が多かったと思う。

今、徐々に世代交代が行われ、その辺のところは、実際問題としてどうなって来ている
のかわたしはちょっと興味がある。
サービスと言うのは、お金をもらうもらわないの問題ではなくて、精神のような気がする
のだ。
誰が「ヘラヘラ」笑うと言ったのか、訳したのかはしらないが、客として行くとき、仏頂面で
出迎えられてもちっとも嬉しいものではない。
どこでも、笑顔は人の心を和ませてくれる。

もいける娘が言う、若い人たちの「キャピキャピ」笑いもいいが、街行く現代人は一体どんな
顔をして歩いているのか・・・・

「東京にちょっと疲れたな・・」という娘の言葉を、今日は思い出しているのであります。


★今日の写真は、細~いレースで編んだ窓飾りです。スイス旅行の思い出です。
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2006年4月26日
ribeira

2004年に入ると、もいける娘の日記、
「えー、本日をもって、もいけるのどーでもいい話は、作者の都合により終了と
なります。長い間ご愛読(?)ありがとうございますた。チャオ♪」

で、終わっていますが、それでも、面白ネタがある時はたまに登場していました。
統一試験を半年後に控えて、受験勉強に没頭です。

この間、大学の受験申請要項のサンプルを各大学のホームページからプリントアウト
して熟読、そして、日本での帰国子女受験にあたって、海外にいる間にどうしても
取っておくべき「在外証明書」なるものを、リスボンの日本大使館まで発行依頼に
でかけたりしました。「在外証明書」は一旦国外に出てしまうと、もう出してもらえない
書類です。これがないと、海外滞在証明にはならず、帰国子女枠での受験はできません。

週に一度通ってきた補習校も、日本の学年の高校2年を終えて統一試験準備のため、
辞めています。つまり、高校3年の国語は学ばなかったことになります。
生まれた月によって日本との学年の差があり、もいけるの場合、日本より半年早く
上の学年になっていました。

今日はちょっと長い彼女の日記ですが、わたしが仕事をしていて、昼食を共にできなかった
ある日の父と娘の会話です。
 
             
       (この辺りから日本行きはカウントダウンだ。笑)    
   2004年5月8日 
       
 補習校をやめて2週間。やはり土日が休みっていうのはいいものだ。
 今まで二日続けて休みなんて事はめったになかったのでちょっと楽になった気分。

 え、土曜の朝何してんのかって?
 ・・・それは秘密です(なんでやねん)

 ところでところで、土曜日が空くって事は補習校の午後授業がある時は
 親父と二人。
 やたら外食をしたがるのが親父である(※家庭の料理に不満があるのか? ハッ!
手が滑ってしまった!でも消すのもめんどくさいので置いとこう(おい))
 たまには反抗せずに外食しようと気を利かした自分だが(自分でいうか)
                  ※母のコメント:余計なことは言わんでよろし。

 こんな会話が・・

 親父「Sasserのoriginわかったみたいだよ」
    ↑ウィルスをばらまいた犯人が捕まったと言いたい。
 娘「へー どこの人?」
 親父「Germany。18歳みたい」

 娘「18?すっごいねぇ若いのに(←おばさんくさいコメント)。そして暇人だねぇ・・」
 親父「あんたももうすぐ18だよ」

 娘「・・・・そーだった。。。タメの野郎が犯人かぃ・・(実感ねぇ・・・ハハハ・・)
 (↑おばさんくさいコメントする癖に)」←自分の年齢がよくわかってない(←全く実感がない)

 更に食ってる間

 親父「試験終わるのいつ?」
 娘「25」(6月25日)
 親父「じゃぁ一週間しかないね」(日本に行くまで)
 娘「さぁね~、チケットまだ買ってないからわかりませんよねぇ」(さりげなく探りw)
 親父「もう予約はしたよ」
 娘「あ、そーなの?いつ?」
 親父「6月30日」
 娘「7月1日はできんかったの?」(30日にしたくないのには理由がある)
 親父「1日から高くなる」
 娘「ふーん・・・」

 沈黙の後・・

 娘「30日って誕生日だねぇ・・(親父の)」
 親父「yes i know.. nice present」
 娘「金いっぱい持ってかれるなんて素晴らしいプレゼントですね・・」

 とどめをさす会話:

 親父「・・・・・まだ行きたいの?」(日本に)
 娘「(まだ言うかぁーー)・・もう予約したのに?」
 親父「でもまだ払ってはいないぞ。 はっはっは」

 ・・・・・し、心配だ・・・・・・・

 それにしてもやっぱりどーでもいい話である。


★今日の写真は、ポルト側河口、リベイラ。二重橋のドン・ルイス一世橋。
下は車や人が、上はメトロが走る。
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2006年4月25日

朝はうっすら霧がかかっていたのが、午前10時過ぎには真っ青な青空が姿を見せ、
亭主と二人、ドウロ川沿いの世界遺産になっているRibeira全容が見事に
見渡せる、
対岸のGaia側を歩き食事をしてきました。

しばらく前から二人でちょっと素敵だと評判のあるレストランめぐりをしています。
食べることにはあまり興味のないわたしが、何故かと言いますと、亭主の仕事関係であります。
外国から、特に日本から国際会議などでポルトを訪れるドクター達を時々
食事に案内することもあるからです。

今日行って来たガイア側のレストラン、しばらく前に訪れたRibeira入り口にある、
歌手Rui Velosoの姉妹店で、ちょうど対岸にあるもう一軒のレストランと向き合っていました。

対岸にあるのと同名の「O Tonho」
一見してコンテナのように見えます(笑)
tonho2

このコンテナ、川(Ria=河口)のまん前に面しており、Riaの対岸、
ポルト側Ribeiraの素晴らしい光景が一望できます。
しかし、レストラン内のテーブルに座ってもうひとつ、面白いことをみつけました。
ガラス張りの窓が鏡になっており、対岸の素晴らしい景色が、まるで絵を描いた様に
そこにも映しだされるのです。自分のデジカメとってる姿まで写ってしまった(笑)
ribeira-tonho

ところで、このレストランの調理場、トイレがあたかも飛行機内のそれのようで、
これも興味深いものでした^^

料理は値段の割りにもうちょっとかな?と思われましたが、ここからのパノラマだけでも
十分な価値があります。

ネット仲間、友達のどなたを最初にお連れすることになるのかなぁ^^
カモン、カモン(笑)

 ribeira-barco
レストラン「O Tonho」内から見たドウロ川景色

ribeirabasha
観光客を乗せる馬車。一回り10ユーロです。
それぞれの写真はクリックすると拡大で見ることが出来ます。

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2006年4月24日

25abril

明日、4月25日、この日は休日で、ポルトガルの民衆にとっては忘れられない日なのです。

1974年4月25日明け方、リスボンにて革新派の少壮軍人たちによる
無血クーデターが起こり、42年間続いたサラザールの独裁政治に終止符が
打たれました。

1960年代から長年にわたる、アフリカのギネ、アンゴラ、モサンビークの
独立をめぐる植民地戦争に、この当時ポルトガル政府は国家予算の40%を
投じていました。
民衆からも、そして軍部内からも、このような終わりのない戦争に対する
反抗の気運が高まり、ついにこの日の無血革命にいたったのです。

その日、リスボンの中央を貫く大通り、アベニーダ・ドゥ・リベルダーデ
(自由通り)は民衆と革命軍で埋め尽くされ、兵士たちの銃にはこの
自由の勝利を
祝って、民衆から受け取ったcravo(cravo=カーネーション)の花が挿し込まれて
いました。以来、カーネーションは自由のシンボルになったのです。

1974年と言えば、わたしがポルトガルに来るたった5年前のことです。
それまではこの独裁者のもと、国のあちこちに政治警察が置かれ、人々は
言論の自由を奪われていたと聞きます。

ここに来た当時のこと。
近所のまだ年端もいかない子供が、棒っきれを手に振り上げて、野良犬に
「ファシスタ!ファシスタ!」(独裁者)と叫んでいる光景に出会い、ギョッと
した覚えがあります。

余談ですが、この「ファシスタ」と子供に呼ばれていた野良犬は、人を恐れる
あまり、逃げることすらできないで、その場でうずくまるような犬でした。
食べ物をあげようと差し出しても寄ってこないのです。
何日もかけて、ようやく手なづけたこの犬は、いつのまにかわたしの犬になり
「クラウディウ」という立派なローマ皇帝の名前をもらいました。
そうです、皇帝クラウディウのように、この犬もびっこをひき、右側の牙が
出っ歯の、見た目は醜い犬だったのです。
しかし、クラウディウはここでのわたしの最初の友になりました。
Dog is men´s best friendというように^^
クラウディウについては、たくさんのエピソードがありますが、それはまたこちらでどぞ。 
わが友、クラウディウ

話をもどしまして、わたしが来たころは、革命がホンの数年前に
起こった
ということででしょうか、やはり、まだ独裁政治時代の影をこの国は
まだまだ引きずっていました。
サラザールの時代、ブルジョアにとってはさんさんと輝くポルトガルの日の光のもと、
一般民衆にとっては時代はまだ暗かったのです。

30年たった今日、ポルトガルの前途があまり明るいとは言えないにしろ、
少なくともここに自分達がなんとかしようとする自由はある。

自由。なんという美しい響きをもった言葉でしょう!
4月25日に、自由に乾杯!
★今日の写真は、1974年4月25日革命日、民衆からカーネーションの花を受け取る
若い兵士。借りました

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2006年4月23日
livraria_inside

異国籍の男性と結婚して海外に住む場合、どんなアドバイスをしますか」と問われたら、
「夫の暖かいサポート」「その国の言葉が理解できること」「文化背景も含めた夫婦の相互理解」
「現地での友人」などなど種々あげられるだろうが、わたしなら「孤独に耐えられる力、孤独に
耐えられる智恵を持っていること」と言う。

海外で結婚しながら職業を持つなどして、自立して生きている女性もたくさんいるだろうから、
わたしの言うのは、異文化での生活経験を殆ど持ったことのない女性の場合である。
「夫の暖かいサポート」はもちろん必要であるが、いつもいつもそれを期待しては、夫が
気の毒と言うものだ。
「現地での友人」は、同国人がいたとしても、お茶を一緒に飲むくらいはできても、腹を割って
話せる友人に出会えることの保証はない。

言葉も英語ならなんとか、と言う人も、英語圏外に行くとどうにもならないのだ(笑)
言葉を必死で学び、ある程度のコミュニケーションはとれるようになるものの、日本に住む
多くの外国人の日本語同様、大人でありながら、子供が話す言葉のようで、生きた言語は
いかんせん、普通は話せないのである。

自分の考えること、思うことを人に伝えなくても一向に構わない、と言う人は恐らくいないで
あろう。
そういう人がいるとすれば、孤島で生きたロビンソン・クルーソより遥かに強靭な魂を持つ
人である。
言葉とは、かほどに重要なわたしたちの体の一部、生きて行く上での必要なツールだと
わたしは思っている。

そのツールを持っていても通用せず、一人前の大人として扱われないととなると、これは
精神的にかなり凹むものだ。
このような状態が、発音はともかくとして、正しい文法にのっとって、自分の思うところを
ある程度伝達できるようになるまでの長年は、多かれ少なかれ、異国にいては大きな
孤独を抱えることになる。
ゆえに、冒頭での問いに対するわたしのアドバイスは「孤独に耐える力と智恵を持つこと」
となる。

時々、「日本人は嫌いです。」と言う輩に出会うことがある。
なんのことはない、自らが日本人なのに、である。
「日本人は嫌いだから、日本人とは付き合わない」と言うのであるが、
わたしはそういうとき、「貴方が今話している相手は、正真正銘の日本人です。
そしてあなたもまたその日本人ではありませんか。」と言って憚らない。
日本に追われたパリの画家、藤田嗣治が言うのなら別だが、日本人でありながら、
日本人が嫌い、日本が嫌い、と言う人を、わたしは心の底から信頼することはできない。

十把一絡げにするのがおかしいのである。
わたしも日本人の中に好きではない人がいる。日本社会の嫌いな部分もある。
現在住むポルトガルも好きではあるけれども、イヤだなと思う部分もある。
それらは部分であって、だからと言って、日本が、ポルトガルが嫌い、ということはない。

自分が属する社会の悪しき面のみ見ては、人はより良い生き方はできないのでは
ないかと思う。
これは、自虐歴史を長い間教え込まれて来たことの結果を見ても、肯けるように
わたしには思われるのだが。

今日わたしがこんなことを書いてしまったのは、ちょっとしたきっかけがあったからなのですが。
もう少しまとめられないまま、綴ってしまったことが我ながら残念です^^;
ご勘弁を^^;
★今日の写真はポルト、世界遺産指定の本屋さん内部。
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2006年4月22日
livraria_cashier

娘が12年生の学年末試験も終わったある日のこと。
気分的に余裕があったのか、突然、
「おっかさん、高校時代にどんな詩を書いてたん?」と、おいでなすった。

仕事で丁度パソコンに向かっていたわたし、ちょっと照れくさかったけど、
画面に「え~と、そだね。例えばこんなのとか。」パチャバチャバチャ。  
                         ↑キーボードを打ちまくる音w
「あとね、こんなんもある。」
「それから、これは数十年温めてて、まだ完成してないんだよ。」
「えっと、これは自作の詩の中でも気に入ってるヤツ。おほほほほ」  
「へぇ、意外と哲学的な詩なんだ。」とモイケル娘。 

見ると愛だとか恋だとか、あなたとか好きなどの言葉は、それらの詩には
ほとんど見あたらない。
使ってる一人称言葉だって、「わたし」でなく、「ぼく」になってるし(笑)

それから二人話が広がって、わたしが好きだった青春時代の愛読書である
蜷川譲氏の「フランス文学散歩」という文庫本を本棚から引っ張り出してきた。 
仕事はこの辺りから放ったらかしだ(笑)

その本は全般的に黄ばんでおり、発行はなんと、昭和34年、1959年に
なっております・・・
「ラ・フォンテーヌ」「星の王子さま」から始まって、コレットの「青い麦」、
そして高校時代夢中になって読んだサガンの「悲しみよ今日は」。
更に「狭き門」「赤と黒」「谷間の百合」エトセトラエトセトラ。
フランス文学のさわり部分を書いているのでありまして^^

親バカが、ついつい娘をひっつかまえて、文庫本に掲載されている
アラゴンや
エリュアールの抵抗詩の断片を、
   「ねね、ほれ。ここ、この詩。好きだったんだよ。読んでみぃ~」と押し付け^^;

ああ、久しく忘れていた胸高ぶるあの頃に思いを馳せて、なぜか
心がホットホット。
いえね、仕事の教材作成もうっちゃっといて、あの頃の自分と同じ年頃に
なった娘とこんな風に話をするようになったとは。

この文庫本、もう表紙も中身も黄ばんでボロボロではあるけれど、時折
思い出しては、本箱から取り出してめくってみるのです。
わたしの青春時代と娘の青春。
時代の流れで違うところがあるにしろ、不変なものもありまする。
「文学は青春の生命を謳いあげる」

この本の中にある、18の頃も、そして今も変わらず好きなモンテルランの言葉。

     人生を前にして、ただ狼狽するだけで、無能なそして哀れな
     青春。だが今、最初のしわが額に寄る頃になって得られるのが、
     人生に対するこの信頼であり、この同意である、
     「相棒、お前のことならわかっているよ!」と言う意味のこの微笑だ。
     今にして人は知るのだ、人生は人を欺かないと、人生は一度も
     人を欺かなかった。



一冊の本が与えるものは、大きい。  
                      
               (written by spacesis 2004.06.07)
★今日の写真は、ポルトの古い本屋さんにあった、今では使われていないレジ
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2006年4月21日
parque

この頃は、もいける娘、多少苦しくはあったでしょうが、多分ポルトガルにいて、一番燃えていた時ではなかったか^^

帰国子女提出書類にある、「現地での大学資格試験結果」も考査に含まれますので、
少しでもいい仕上げをして置く必要があります。

彼女のポルトガルの大学コースは心理学を選んでいましたから、統一試験科目は生物、
地学、数学、ポルトガル語、心理学の5教科です。
日本の大学受験には、この結果にポルトガルの高校での3年間の試験結果も提出します。

「ちょっと予算を立ててみよう。」と、亭主がある日、わたしに話しかけて来ました。
娘の、日本へ行きたいがための真剣な取り組みに、ようやく彼は諦めがついたのでしょう。
この日、わたしたちは、いったい最初にどの程度の資金がいるのか、年間どれくらい必要なのか、
どの程度まで援助できるのかと、数字をはじきだしたのでした。

いくら娘が、「バイトとおっかさんの援助と奨学金でがんばります!」と言ったところで、
日本での現実は甘いものではない。

① 奨学金(この時点では日本学生支援会=旧育英会に申請できる資格があるとは
  思っていなかったので、この場合の奨学金は大学奨学金である)がもらえるとの
  保証は、ないではないか。(ハイ、その通りでありんすw)
② 生活費全体のバイトとなると、学業がおろそかになる。(いかにも^^;)
③ 宿はどうするのだ?
  宿は、代々木ゼミナールに通い受験が済むまでは、その辺の経済余裕なし。  
  申し訳ないが、所沢の妹に一時下宿を頼むことになる。
  その妹も次男の大学受験生を抱えていたのでした。


この3点を亭主は指摘しましたが、奨学金はもらえるとの前提に立たないと、日本の
大学受験は無理なのであります。ですからして、この点は、「いや、大丈夫。もらえるはず!
この本にそう書いてあるもん」と、吉永氏の「ただで大学を卒業させる方」の本を見せ、
亭主を少々誤魔化したのでした^^;

わたしたちの結論:
    ① 奨学金は授業料になる。
    ② 毎月の生活費○ユーロの仕送りは、亭主とわたしが半分ずつ出す。
      ただし、それだけでは足りないはずであるから、不足分はもいける娘が
      バイトで補う。
    ③ 入学時の費用は、亭主とわたしが持つ。


これで整いました。
もいける娘、統一試験半年前です。

今日はこの当時のおっかさんの日記をば^^
★今日の写真は、ポルトの公園で時々見かける小さなパルコ。
 昔は祭りがあるときはここで音楽演奏がなされた。

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おっかさんのどうでもいい話(笑)       2003年11月 
       
 少し寒くなって寝やいせいか、近頃は眠りの浅いわたしが
 亭主、娘を朝送り出すのも忘れて、ひたすら寝こけていることが、
 ままありまする^^
 今朝がそうでして、ハッと目が覚めると、やたら家の中が静か・・・
 ネコたちはみなわたしのベッドではべっております。
 これでわかるんです、二人がすでに出動してしまったことが(笑)

 時計に目をやると8時ちょっと過ぎ。
 どれどれ、10時半からは日本語があるし、ヨッコラショ。」と
 起きだして、シャワーを浴び、ベッドを整え、いつものごとく
 朝刊を読むためにpcをスイッチオンして、台所へ。

 すると、台所の白い食器棚の扉に、A4サイズの紙がペタンと
 貼られて垂れ下がっておる。
 ド近眼のわたし、「ん?」と近寄ってみると、

 「気がむきましたら、サンドイッチでもどうぞ」

 と、メモってあります。

 そうです。もいちゃん、朝ごはんを自分でちゃんと、ツナ、炒めたたまねぎ入りの
 サンドイッチを作って、食べて、おっかさんの分も置いていってくれたのでした。

 ホクホクと、嬉し嬉しの朝一番でありました。

 解説:ポルトガルの朝食はいたって質素。カフェオレにパンのみ。
    もいける娘、本ででも読んでのでしょう、受験生は朝食をしっかり食べて
    体力をつけるのも勝負のうち。
    自分できちんといろいろに、ある日は味噌汁を、ある日はチャーハンをと
    朝から作って食べて登校したのでした。
    怠け者のおっかさんは、本人任せ^^;
    何事も自分でしてこそ、ガッツを生み出すのだと誤魔化す。



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2006年4月20日
metro

「オリャー!」 
「ッとー!」
「え~い、ちょ、ちょこざいな小僧め。名を、名をなのれ!。」
「赤胴、鈴之助だ!」←元気な若い声

ここから主題曲始まるw 
        
      ♪剣をとっては日本一の 夢は大きな少年剣士
       親はいないが元気な笑顔
       弱いものには味方する  
       お!がんばれ強いぞ 
       僕らの仲間 赤胴鈴之助


これ、ご存知ないでしょうなぁw 
幼い頃を弘前の下町で過ごしたわたしは、何を隠そう、近所のガキ大将
だったのでした^^;
学校がひけて家へ帰り、することはと言えば、当時は宿題などほとんど
なかった^^。
よって、夕方まで子供達は外で遊びほうけることができたのです。

テレビは当然なかったですから、もっぱら自然を相手の、ちっともお金の
かからない遊びばかりでした。
その最たるものが、チャンバラごっこ。
チャンバラっつったって、木刀とか竹刀とかそんな上等なものを持つんじゃ
なくて、ちょっと長めの棒っきれをとって振り回すんです^^;
近所ではわたしを打ち負かす子はおらんかったです、ハイw

ところがですね、これがあぁた、学校へ行きますと押し黙った貝ですわ(笑)
ひと学期に一回もしゃべらなかった、とか、一度も手を挙げなかった、とか
そういうことが、通信簿に書かれてきますねん(笑)
言うなれば、究極の内弁慶ですな。ま、これはさておいて(笑)

冒頭に掲げた節、これは当時のNHKラジオドラマ、「赤胴鈴之助」の毎回の
プロローグなのです^^
毎夕方6時から15分間(だったと思うが^^;)、子供達は各家庭のラジオの
前に集まって、時には手に汗握りながら、また時には主人公と情を同じくして
悔しさを噛みしめながら、ラジオから流れてくる朗読に耳を傾ける。

こうして聴いたラジオドラマは今でもわたしの心に残っています。
この「赤胴鈴之助」のみならず、「紅孔雀」「黄金孔雀城」「オテナの塔」
「ああ、無情」そして、これまた大好きだった「怪人二十面相」。
わっはっはっは。これじゃぁ、すっかりおん歳がバレちまいますだ^^;
なんのなんの~w

怪人二十面相にいたっては、ドラマを真似て、ご近所の手下どもを集めては
「下町少年探偵団」なるものまで結成した・・・^^;

子供の世界とは言え、犬猫同様、それぞれ子供グループの縄張りがあるのでして、
その縄張りを侵す危険までして探検した「下町少年探偵団」!
これはスリル満点の遊びでした^^

視覚に訴える現代の映像は、たしかにわたしたちをあたかもその場にいる
かのような錯覚を与えます。
教育現場、家庭などでも視覚教育が取り上げられてからもうかなりの年数を
経ました。

しかし、テレビのなかったわたしの幼い頃、子供達は視覚に頼らずラジオで
朗読を聴き、自分の想像を拡げていったように思う。
それは、テレビをひねれば、電源を入れれば映像が入ってくる、と言うような
受動的なものではなく、自らが想像で創りだす、能動的なものだった。

映像のなかった時代の方が、はるかに想像力、かつ創造力を拡げることができた
ような気がしてしまうのは、不思議なことだ。

        思い出のバスに乗って
        黄色い帽子の子が走ってくる
        人差し指の 向こうの坂道

わたしは、時折、こうして遥かなる過ぎ越しの時間を思って、この歌が詠むように
思い出のバスにヒョイと乗ってみる。
坂道の向こうには、父母が、祖母が、大所帯で一緒に住んだ叔父叔母が、
従兄弟たちが、そして、下町少年探偵団がニコッと笑っているのが見える気がするのだ。 

                  (2005.03.02記)
★今日の写真は路上を走るポルトのメトロ
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2006年4月19日
chageasu

いい音楽は、心を実に豊かにしてくれる。
     
わたしは子供達が幼い頃から、家中で音楽を流しながら立ち仕事座り仕事をよくしたものだ。
岩崎宏美の日本愛唱歌、ジョン・デンバー、キャッツ・スティーブン、パバロッティ、
ショパン、モーツアルト、ユーミン、研ナオコ、エディット・ピアフ、高橋真梨子
等等、ジャンル、洋の東西を問わず好きな音楽は何度でも聴く。
家中が音楽で溢れていると、何故だかそれだけで心が満ち足りるのだ^^

大してうまくもない歌も、時々一人でヘタクソなピアノを弾きながら歌ったりすると、
時の経つのも忘れ1時間2時間とやってしまい、
「お~~い、晩飯はまだかぁ」と亭主の声がかかって、「あらん^^」と
言うことも度々だった。
このような生活環境にいたのだから、子供達もおのずと音楽は好きであっただろう。
レコードから流れているのや、わたしが歌うのを聴いたりして、古い歌も
子供達の同年代の若者にしては、随分知っているのではないかと思う。

「空にゃ今日もアドバルーン~ さぞかし会社でいまごろは~」なんて歌は、
我が母が歌うのを子供だったわたしが耳にして覚えていたのだが、これを英語にした
のを見つけては、もいける娘と二人、大いに盛り上がったものだ。
      
      Today adbaloon in the sky,
      Perhaps he is in the company.
      I think he is very busy.
      ああ,nevertherless nevertherless, don´t you?
      I get angry I get angry it is naturalね~ 
         
    題「ああ、それなのに」:サトーハチロー作詞、古賀正男作曲
     1937年ヒット。もちろんわたしは生まれてませんぜ^^


「なによ、これぇ~。きゃはははは」と喜んでは、二人ともしばらくこの歌詞が
頭から出ていかないのであった^^;

息子は小学生のころ、ロック歌手、ティナ・ターナーやGuns&Roses
などに一時夢中になったりし、現在はと言うと、ギターでジャズを弾いたりしている。
もいける娘とわたしは、音楽の趣味が合うようで、今でも時々、お互いが
好きな音楽をネットを通じて紹介し合ったりしている。

そのわたしたち二人がバッチリ意見も合い、大好きなのは、「チャゲ&飛鳥」である^^
わたしたちが「チャゲアス」を知ったのは、彼らの最高潮時期を過ぎてからなのだ。
当時は、ポルトガルでは、日本のテレビドラマのビデオも何年も遅れて見る、
ということがざらであった。
日本に帰国していた時にたまたま観た、再々放送くらいのドラマ「振り返れば奴がいる」、
ドラマの織田ゆうじ君も面白かったが、テーマ曲に二人とも「ぬぬ?」となったのである。 
「YAH YAH YAH」なんと斬新な歌詞!メロディ!いけるじゃん!
このDuo、「101回目のプロポーズ」の「Say,yes」の二人ではないの。
      
そして、その夏日本の映画館で観た宮崎駿氏の「耳をすませば」と同時上映された
たった7分間のアニメフィルム、「ON YOUR MARK」を観たのだ。
チャゲアスの歌「ON YOUR MARK」がずっと流れ、少し不思議な未来アニメです。
歌詞もメロディも抜群にピッタンコ肌に合った^^
以来、わたしたちはチャゲアスのcdを聴きまくることになる。
     
YAH YAH YAHをかけながら、ON YOUR MARKを聴きながら
車をぶっとばすことの気持ちよさったらない^^
「い~まからソイツを これからソイツを 殴りに行こうか~。
   YAH YA YAH YAH YA~
      うほうほ、ヒャッホー!である^^(危ないじゃんw)
チャゲ、アンパン顔だけど、カッコいいじゃん。こんなセンスのいい音楽、
作る事ができるんだねぇ^^
と、もいける娘とわたしははすっかり酔ってしまったのである。

ある日、日本人の友人宅から帰って来たもいける娘、
「おっかさん、あのさ・・・・わたしら、すごい勘違いしてる・・・」
「チャゲアスね、今日友達んとこのテレビで観たんだけど・・・
 チャゲが飛鳥で、飛鳥がチャゲだでーーーーー! 」
      
え?え?なんでんねん、そりゃ?

cdで聴くだけのチャゲアス、「チャゲと飛鳥の映像」を観たことのない我ら親子は、
cdの付録、歌詞小冊子に載る二人の写真を見て、「チャゲを飛鳥と思い、飛鳥をチャゲ」
と、勝手に信じ込んでいたのである・・・
う、うそ・・・そんなぁ・・・今更ひどいよ・・・イメージチェンジ、きかないよ~~(爆笑)      

いやはや、これには参った、ズッコケ親子。
いったい全体、どこをどうやったらそんな事が起こってしまうのであるのか^^;
友人連に話しては、
「あんたら、アホ」と一言で片付けられたのであった・・・
いったん頭の中に定着してしまった「チャゲが飛鳥で飛鳥がチャゲ」像、
これを払拭するのに長い長い時間がかかったのでした。

それにしても、飛鳥さんの詩、心をグッと鷲づかみされるような、不思議な
斬新さがあります^^
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2006年4月18日
wasurenagusa

これまで何度も種をまいたが、花を咲かせることがなかった「わすれな草」、
もう種まきはすまいと諦めていたところ、今年は偶然苗で見つけたので買ってみました。
そして2、3日前に、とうとう寂しげな可憐な青い花を咲かせました。

わすれな草は英語で「forget-me-not」と言います。
日本名も英名もなんてロマンチックで寂しい花の名前だろう。

忘れな草にまつわる歌もあります。
倍賞千恵子さんが歌った「忘れな草をあなたに」、わたしが高校時代に音楽の
女教師から教わった歌曲「忘れな草」。
しかし、なんと言ってもわたしが思い浮かべるのは、イタリア歌曲
「non ti scordar di me=わたしを忘れないで」です。

この歌曲をわたしは遠い昔に古い古い映画の中で聞いたのでした。
映画の題は思い出せないのですが、もしかするとあの映画の、ほとんどラストの
シーンで歌っていたのは、世紀の天才オペラ歌手、カルーソではないかと、
今思っているのです。
【記】この歌は同タイトルの映画で出演したカルーソではなくBeniamino
gliが歌っていました。2013年2月判明。Beniaminoはカルーソ亡き後
現われた歌手だそうです。

エンリコ・カルーソ。「Voice of The Century」と呼ばれました。
イタリア、ナポリの貧しい家に生まれ、後に天才歌手の名声を欲しいままにし、
舞台で喀血、1921年48歳で生涯を閉じる。
現代の三大テノールの一人、ルチアーノ・パヴァロッティの代表歌曲「カルーソ」は、甘く切なく、カルーソの生涯をあますところなく歌い上げているように思われます。
曲名をクリックすると、聴くことができます。

カルーソもマリア・カラスも史上最高の歌手と呼ばれながら、その人生はオペラの如く、
悲劇的なものであったのには、なにかしら人生の哀愁を感じずには
いられません。

ポルトにあるフランス系大手の書店「FNAC=フナック」で、今度カルーソによる
「non ti scordar di me(忘れな草)」のCDを探して見ようと思ったのでした。

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2006年4月17日
apron

バック・トゥ・ザ・受験です^^

前回、帰国子女大学受験の過去問題集がないと書きましたが、その通りです。
今年はわかりませんが、2004年の時点ではインターネットで検索しても、出てきませんでした。
かなりあせりましたですね^^;
もいける娘が、ゼミを受けると決心したのはやはりこういう事情があったからです。

現代国語、英語は一般大学受験と同じように考えて準備していいのではないでしょうか。
問題は日本語、英語の小論文でしょう。
「こういう傾向の問題が過去に出た」と、小論文のタイトルが一部の資料に掲載されることは
ありますが、同じトピックがでることは期待すべきではないようです。

では、どのように対処すればいいのか。
これは、暗記物ではありませんから、普段から滞在国と日本との違いを比較分析して、
自分なりの考えを出しておく習慣をつけることです。

受験する学部に関連するトピックは当然として、その上、習慣の違いからくる文化比較、
教育、時事問題、歴史、観光スポットなど、ありとあらゆることに興味を持って、
知識を拾い、
作文や日記を通して、自分の考えを英語、日本語で表記する習慣ががものを言うことになる
と思います。
どんなに言葉を並べたてても、基礎知識がなければ、空回りです。

意外なことなのですが、滞在国のうわっつらしか見ないで3年、5年暮らしても滞在国の文化を
ほとんど理解しないで帰国する駐在者はたくさんいます。

特に英語圏外の国にいて、インターナショナルやブリティッシュなどの英語系スクールに
籍を置くとそうなりがちです。
これは、ポルトガルで生まれ育った我が子たちが、ブリティッシュ系に通ったもので似たような
ことが言え、親としては迂闊だったと後悔しているのです。

親が滞在国の出来事や行事を意識的に日常生活の中で、話題として取り上げることが必要です。
その点、せめて高校時代3年間だけでも、ポルトガルの現地校に通学した我が子たちは
英語圏、ポルトガル語圏、日本語圏の三つの文化を少しずつ、つまみ食いすることが
できました。日本語圏の文化理解に関しては、おっかさんこと、わたしの目を通しての
見方が影響大なのはやむを得ません^^;

ポルトガル国の文化事情については、もいける娘、付け焼刃で行った事、白状しますだ(笑)

最後に、日本で代々木ゼミナールの夏季コースを受講したもいける娘によると、
そこの図書室に過去問題のようなものがあった、と言っていましたが、これは
外部持ち出し禁止ですね^^
★今日の写真はポルトガルシンボルの「ガロ=にわとり」をあしらったポルト・ワインボトルエプロン
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では、本日も、もいける娘の過去日記をどぞ^^

もいけるのどうでもいい話(9)    2003年1月 
       
今日も左側にはてっちゃん、右側はF.C.Porto(サッカーチーム)ファンで
いつも応援歌を歌ってるベンジョミン、お~っと ベンジャミンだ。
今年からポルトガル語の授業はお若い研修せいが教えることになっている。
初心なせいか、生徒も少しナメてる感じで、授業中だというのに、休み時間の
如く普通に喋っている。

そこで私の両側にいる二人も会話しているのだが、なんの話かと思いきや、
女の話だ。しかもその後は、研修生の胸はでかいと思ったがよくみると、
小さいだのなんだの・・・

真ん中に挟まれて、それを聞いてるわたしは
どういう面してればいいんだ?!

ってか、授業中に女の話、するなーー!


              ★母のコメント:先生の許可をもらってるんだから、
               その二人、ひっぱたいておやんなさい(笑) 

<
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2006年4月16日
matozinhos_capera

今日は復活祭の日曜日です。
あちこちで花火が打ち上げられる音が聞こえます。
残念ながら今朝の少し小雨が降っていますが、司祭さまの写真、うまく撮れるかな^^

もいける娘のブログへ行き、先程大笑いしてきたところでした。
「裁縫」と書いてある。ぬぬ?さ、さいほう?

生まれて初めて針と糸を持ってジーンズの裾上げをしたそうで(笑)
「何度針で指をさしたことか」と書いてあるw
大笑いした後、ふと気がついた。
落ち度はこのおっかさんにあり、自分が笑われているのであるよ^^;

夏休みを利用して帰国していた、もいける娘小学生のころだ。
わたしたち家族の滞在先は、常に所沢にある妹夫婦宅である。
庭に面した広い和室の一室を提供してくれる。

さて、日本の小学校では、「家庭科」なる教科があるのだが、これはまことに素晴らしい
学科だと、わたしはこちらに住んでみて改めて思ったものである。
というのは、わたしが知っている限りでは、イギリス、アメリカ、そしてここポルトガルでも
学校が裁縫や料理を教科としているとは、たとえ私立校でも聞いていないのだ。
そういうことは、各家庭が教えることとなっている。

もいける娘のふたつ上の従兄弟が、家庭科で使用する「裁縫セット」を買うという話が
話題にのぼったので、そういうことをすっかり忘れていたわたしも、ちょうどいい機会だと
いうことで、その夏、もいける娘用に一式揃ったきれいな裁縫セットを購入した。
小学校2年生のころだったと思う。
「これは、もいちゃんのお裁縫箱です。ポルトガルへ帰ったら教えます」と言っておいた。

ある日、妹とわたしがリビングでお茶を飲んでいましたら、和室で何かしていた娘、
「できたーー!」と飛び出してきてわたしたちに見せてくれたのが、運針練習用の簡単な
図柄の入った布。
見ると「おおお^^」ちゃんと糸で縫ってあるんではないの^^
妹と二人、「えらいねぇ。上手上手」と言いながら、その布をひっくり返したら・・・・・
返したら~!その途端、わたしたちは、「がっはっはっはっ!」、噴出してしまったのである。

糸の結び目の作り方を知らない娘、縫い目の始めと終わりは、なんとなぁ、
全部「ガムテープ」で止めていたのである。
ガムテープですよ、ガムテープ!(爆)

「しかしまぁ、よく考えたこと!」と、
腹抱えて笑っている大人二人を前で、トンチンカンな
顔しながら突っ立っているもいける娘を、いちおう褒めたのでありました。

その後、もちろん裁縫箱はポ国に持っては来たものの、いつのまにやら教えるのを忘れて
しまい、おっかさん、
「しまった!あれを教えるのをすっかり忘れてた!」と思い出したのは、
なんと、娘が大学受験のため、日本へ向けて立つ日を目前にしていた時でありました^^。

受験のための書類準備や日本行き準備でおおわらわの時期、とても針と糸の持ち方から
教えている間はなし。
結局、その昔、「糸結びのところをガムテープで止めるのをしたことがある」まま、
日本へと送りだしたのであります。

判子社会の絵の作品もそうだけれど、この作品も彼女の幻の傑作のひとつではありました^^

娘よ、今夏、ポ国に帰ってきたとき、遅まきながら、取り出し授業で「裁縫」教えます(笑)

★今日の写真は、ポルトの隣の港町「Matosinhos」の海のまん前に建つ
小さなカペラ。ちょっと珍しい様式のカペラです。

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2006年4月15日 
gato

イースター休暇だというのに、我が職場はポルトガルの習慣関係なくして
(←実によくないと思っているのが本心であります^^;)、通常通りの授業、
面談、そして会議の本日でした。

日本国内では、「郷に入りては郷に従え」と言いながら、一方、国外で滞在先の
習慣を無視しての進め方にはいささか抵抗を感じ、長い間、何度かこちらの
休暇考慮を提言してきたのですが、日本式をいまだに強行して動かし難し(笑)
かと言って日本の祝日は休みかと言うと決してそれもない。笑うっきゃぁござんせんです^^;

ということで、本日もどど~~っと疲れて帰宅。
もう少し若かったときには感じなかったこの疲労感、思うに人を相手に自分の
意見を正しく伝えようすることから来ているのではないか。
討論の場というのは、一人で書くこととは違い、その場に相手がいることゆえ、
いくら天然ボケのわたしでも少しは気構えますしね^^
長年の同国人、同僚同士とて、阿吽(あうん)の呼吸は期待するものではない。
これは大いに学んだことでした^^
相互の信頼感がないと、何気なく不用意に発した言葉から、エラいことへの引き金に
なったりします。

が、我ら職場の5スタッフ、他から比べると、けっこう言いたい放題のことを
言っています^^特に、5スタッフのうち、わたしも含めた3人は改善のためを
思えばこそで、意見、提案はドンドン出すのですから、校長さんもきっと大変なことでしょう(笑)
それでも、いいな^^と思うのは、出た意見提案に全員が耳を傾け、いい加減に
妥協せずとことん話し合って全員が同意するところまで行って、結論を引き出す
ことでしょうか。これは、小さな組織だからできるのかな?

さて、よろよろ~~っと疲れて帰宅し、亭主の夕食は手抜きで(スンマセン^^)
おうどんですましてもらいやんしたw
そのくせ、今週初めからテレビガイドでマークしていた、クラシック映画、
ばっちりみたのであります^^(やっぱり悪い妻だ~^^)

スカーッとする現代映画もありますが、近頃の映画はどうもわたしにはバイオレンス
場面が多すぎて、新作映画、ず~っと食傷ぎみです。
もう少し人生哲学、人生の機微がメッセージとして織り込まれてもいいんじゃないの?
と思うのですが。

先週今週と見たクラシック映画名作2本、エリア・カザンの「エデンの東」、
今晩の「草原の輝き」、やはり何度見てもいいです^^
どちらも若者の心情を描いた映画ですが、しみじみと心に染みます。

「エデンの東」はアメリカの作家、スタインベックの本が原作になり、この作品に
加えて「理由なき反抗」「ジャイアンツ」のたった3作の映画で、彗星のごとく現れ、
自動車事故で突如消えてしまったジェームスディーンが主演で、悩める若者の
切なさを抜群の味で出しています。
テーマ音楽は聞き逃せません。名曲です。

「草原の輝き」は、高校生の青春時代から大人になって後、再会し再び別れる
若者たちを描いていますが、今のわたしが見ても、つくづく人生の一抹の寂しさを、
また本当の人生を見つけることのかすかな希望を感じさせてくれる作品だと思います。
イギリスの詩人、ワーズワースの詩、

    草の輝くとき 花美しく咲くとき
    再びそれは還らずとも 嘆くなかれ
    その奥に秘められし力を見出すべし


この詩が、映画の高校生の授業のシーンと、最後のシーンで出てくるのですが、
映画の題そのものが、この詩の「splendor in the grass」(草原の輝き)から
つけられています。

この映画のウォーレン・ビーティー、ナタリー・ウッドのなんと若いこと!

今回このクラシックの二作を見て、この時代の若者たちと、現代の若者達の抱える
問題について、考えてみたいと思ったのでした。

2作品おすすめです^^

★今日の写真は我が家のクルルとゴン太くん
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2006年4月14日

借家だった古い我が家の小さな庭の、一本の桃の木の話です。
ほったらかしで手をかけたことがありません。
それでも一年おきに甘い立派な見事な桃の実を提供してくれました。
最高で80個ほどの実を収穫したことがあります。自分の庭でもぎとった果物
を食卓に運ぶのは格別な幸せがあります。

ところが、この桃の木、実は私たちの家族は誰も植えた覚えがないのであり
ます。庭の真ん中に、ある日、ひょろりひょろりと伸びている植物を見つけ
て、始めは「抜いちゃおうか。」と思ったのですが、庭師のおじいさんがや
って来る日が近かったものでそのままにしておきましたら、おじいさん、
抜かないで行ったんですね。庭師のおじさんが抜かないというのは何かの木
であろうと、のんきなものです、そのままにして様子をみることにしました。
   
それから丁度に3年目!見上げるような一人前の木になり、ある早春の朝、
二階の我が家の窓から木の先々に薄ぼんやりと見えたもの、

「あれ?なにやらピンクの花が咲いてるぞ?」と発見。
もしかして時節柄からして、桃の花?」と、あいなったのであります。
何しろ床にゴミが落ちていてもかなり大きなのでない限り、見えないほど
ド近眼のわたしです。
   
さぁて、台所のドアから庭に続く外階段を下りていくと、案の定、まぁ、
ほんとに桃の花でありました。桃の実そのものは食べても、桃の花なども、
最期に見たのがいつであったかを思い出せないくらい長い間目にしていませ
ん。小枝を少し折っては家の中に飾り、子供たちと多いに喜んで観賞したの
でした。

その年の夏は、気づかないうちにいつのまにか面白いほどたくさんの見事な
実がなり、子供たちと木に登りワイワイもぎとったのでした。ひとつひとつ
枝から手で摘むその感覚ときたら、それはもう、童心に帰ったような嬉しい
気持ちと満足感がありました。我が家にあるカゴも箱もいっぱいで、80個
以上も摘んだのです。
 
とても食べきれず、生ものですから長期保存はできないので、階下のマリア
おばさんにもおすそ分け。
で、「本当言うと、植えた覚えがないんですよ。」と言いましたら、おばさ
んいわく、   「あら、じゃ私が食べた後に窓から捨てた桃の種の一つが
ついたんじゃなぁい?」
「え?・・・・・・」   

あらま、道理で。
わたしたちの借家は3階建てで3家族がそれぞれの階を借りていました。
庭の敷地も低い石垣で三つに区切られ、それぞれが使っていたのですが、車
庫つきのわたしたちの庭はそのなかで一番大きい庭でした。

引越しする前からカーラがたくさん植えられてあり、それにわたしが大好き
なバラと紫陽花をたくさん加えて、季節になるときれに咲いていました。が、
りんごの芯やらタバコの吸い殻やらが、庭を掃除しても後から後から落ちて
いるのです。
   
ははん、これは下のおじさんだな・・・ひょっとして灰皿の吸殻を窓から全
部庭に捨てているのかも。自分の庭がうちのすぐ横にあるんだから、なぁん
でそこに捨てないのかね。自分のところはこれでもか!というくらいきれい
にしといて、ゴミ、ガラクタ類はみな、外よそ様のところへ押しやって、っ
て輩が結構こちらにはいるのでありまして・・・・

家の入り口を掃除するも、ゴミを箒で通りへ掃きだすのが、当時はこちらの
普通のやり方ではありました。チリさらいひとつで内へ持ち込んでゴミ袋に
入れればいいのにと、何度も思ったことですが(笑)
   
でもまぁ、こうしてマリアおばさんが食った桃の種を窓から我が家に放り投
げたお陰で今まで持ったことのない桃の木の所有者になった訳だし、今回の
ところは帳消しにしとこう!
と相成ったのでした。

2年続けて桃の木は、立派な実をわたしたちにくれました。
我がモイケル娘などは、木登りをし、車庫の屋根づたいに裏にあるだだっ広
いジョアキンおじさんのCampo(カンポ=畑)の大きな大きな木にまでたどり
着き、際どい遊びを楽しんだものです。

そうそう、我が家の子猫がその木のてっぺんに上ってしまい、それにはホト
ホト手も焼いた。一晩木の上で過ごし、翌日、モイケル娘が木の枝ギリギリ
のところまでのぼって、ようやっと胸に抱きしめることができたのでした。

3年目にも入ると、以前ほどの実をつけなくなりました。何しろまったく手
をかけなかったものですからね。すると、我が家のお掃除のベルミーラおば
さん、

「ドナ・ユーコ、これはお仕置きをしないと!」
お、お仕置き?木にですか?
   
「そうです。木の根元に大きな石を置くのです。
んまぁ(笑)しかし、その大きな石をどこから手にいれまする?ろくすっぽ
世話をしないのですから、毎年たくさんの実をもらおうとすること自体厚か
ましいと言うもの。結局、お仕置きはなし。

もうかれこれ、13年以上も昔になりましょうか。
ママこと、わたしくの桃の木にまつわる話でした。


(注:現在はこの家から数メートル離れたアパートに引越しまして、今では
我が家の所有物ではなくなりました。よって、「その桃の木、遊びに行った
ら見せてね。」などと、のたもうべからず。笑)
                   
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テーマ:ポルトガル
ジャンル:海外情報
2006年4月13日 

イースターが春の訪れ、生命の息吹を祝うお祭りでもある、というのは、
いかにも肯けます。
北半球のどこの国でもそうでしょうが、花花がいっせいに咲き出し、あたりでは
鳥のさえずりが聞かれます。
我がフラットの車庫の裏側は、一軒家が並立しており、そちらは羨ましいことに、
どの家も庭があります。
庭には、たいてい木が植えられており、二階の我が家の窓からは、車庫の塀が
遮ってはいるものの、木々のさきっちょがちゃんと見えます^^
小鳥の声がその木々の間から聞こえて来ます。

立春から夏時間になり、今は夜8時でも明るい。
日の光はさんさんと降り、カトリック教の復活祭も相まって、春の息吹を静かに
祝うこの静寂さが、わたしは好きです。

さて、本日はポルトガルのイースター「Páscoa」をご案内いたします。

この時期、普段から掃除好きで知られているポルトガル女性、更に家の掃除に
磨きをかけます^^
これは、復活祭の日曜日朝、教会の司祭が正装して管轄区域を鐘を鳴らしながら、
一軒一軒祝福して歩くのを、迎え入れるためです。

わたしの住むこの通りも、毎年司祭様が数人のお供を連れて、鐘を鳴らしながら
通って行きます。
カトリックの国と呼ばれるポルトガル、昔は多くの人がこの朝、司祭を招きいれ
祝福してもらったことでしょう。 が、時代は変わりました。
今ではそういう光景はあまり見られません。
わたしたちが義母の家に同居していた時、一度だけ、彼女がドアを開けて玄関先で
司祭の祝福を受けたことがあります。
このとき、お布施を渡します。
わたしは、鐘の音を聞きつけると毎年窓辺やベランダから、この小さな行列を
覗くのですが、今年はできるならば、写真を撮って見ましょう。

Páscoaの前の日曜日は、ポルトガルでは名付け親のpadorinho=パドリーニュ
(父親代わり),madorinho(母親代わり)を花を持って尋ねます。
名づけ親というのは、その名の通り、その子供に何かがあった場合の親代わりに
なる人です。これは子供が洗礼を受けるときに、頼まれます。
私達夫婦も、亭主の親友の娘さんの名付け親になっていて、毎年Páscoaの前の
日曜日には彼女の訪問を受けます。
名付け親は、この日と、彼女の誕生日、そしてクリスマスには、贈りものを
上げることになります。

この時期の伝統的なパンを紹介しましょう。
右の写真が「falor」と呼ばれるポルトガルのPáscoaのパンです。pao2
パンには卵が載せられています。 種類によってはパンの中に卵が入っている
のもあります。卵は既に説明しましたように、生命のシンボルです。
また、下に見えるアーモンドを砂糖で包んだお菓子も、その形が卵に似ていることから
卵形の大小のチョコレートの同じく、あちこちで売られます。
pao1
↑昨日知り合いから届けられたパンです。固めですが素朴味。もうあらかた、なくなりました^^
(犬の好物、骨ではないで~笑)
中身はチョコレートpascoaovo


この週を「semana santa=セマーナ・サンタ(聖なる週)」
と言い、イエスが十字架の刑を受けた金曜日は肉を食さず魚料理で、日曜日には
その復活を祝い、肉を食べることができます。

最後にもうひとつ。
イースターは定祝日ではありません。その年によって移動する休日です。
春分の日の後の、最初の満月の、次の日曜日がイースターとされます。
これは3月22日から4月25日までの期間ですから、年によっては3月だったり
4月だったり。学校の春休みもこれに合わせます。

例をあげますと、
2005年は3月27日
2006年→4月16日
2007年→4月8日
2008年→3月23日

ローマ教会の復活祭循環期で周期は84年、アレキサンドリア教会では周期が
19年となります。
祝日が移動するのは元来が太陰暦に沿って定められていたためで、復活祭の移動の
定義はなんと、AD325年、つまりイエス生誕のもっと昔に決定されたものです。
実際の周期は太陽暦で5000年とも言われています。
5000年!気の遠くなるような、なんと宇宙的な周期でしょう!

普段何気なく見送っている行事には、人類の歴史の秘密がたくさん隠されているように
わたしは思うのですが、みなさまはいかに^^

ということで、イースター考、これをもって一件落着といたしましょう。

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2006年4月12日

志望校決定後、受験作戦を練るわけですが、一般入試の過去問題集は市販されて
いるものの、それは使えない。この帰国子女過去問集がないのである。

帰国子女枠での受験科目は、大学によっても違うが文系は、英語、ドイツ語、
フランス語、スペイン語、中国語の中から一科目選択、国語、英語、日本語の
小論文、それに面接試験である。理数系であればこれに数学、科学が組まれる。

この頃、わたしたちは代々木ゼミナールの小冊子、「帰国子女大学合格体験記」
なるものを何度も何度も読み返した。
すると、合格体験談を書いている帰国生はほとんどが3年から5年の海外滞在期間である。
つまり、日本語の読み書きには大きな支障を抱えていないことになる。
ここで一言、帰国子女受験は、在外の日本の教育施設(全日日本人学校)に籍を
おいている場合は適用されない。
お金がないよ、と言ってわずか4回の代ゼミ・小論文通信教育を受けたポ国生まれ
ポ国育ちの我が娘、それだけで収まるはずがない。

いろいろ調べていくと、いくらやる気があっても暗記物はひとつも受験科目にはなし。
日本語英語の実力そのものが問われることが、明確に分かって行くのである。
日本語英語の実力とは、ただ流暢に話せることではない。
普段から物事に対して、真理を求める努力をし、自分のしっかりした意見を持てる
ようにし、これを表明できる、というのが実力なのだ。

2004年に入ると半年先の6月のポルトガルの統一試験にまっしぐら。
それが終わるや否や、9月には日本で受験です。
小論文がきちんと書けないようでは、大学での学問でついていけるはずがない。
受験科目に含まれるのは当然であります。
この期に及んで、ポルトガルで小論文のノーハウなどいかんともし難い。

体験談を読んで行く毎にもいける娘、こりゃヤバイと思ったことでしょう。

「おっかさん・・・こういう経歴の人たちがわたしのライバルだ・・・・
受験までの数週間だけでも、代ゼミの帰国大学受験の夏季コースをとる。
自分の貯金で払うから。」

難関文系コース、一番安いの(笑)で6週間毎日午前中3時間ほどで25万也!
2004年春先、ポルトガルからコース受講を申し込んだ。

もいける娘の全財産40万ちょっとが、これで半分以上お足が生えて飛んで参りました。
もう切符代しかないぞ~~(笑)

このあたりから「福沢諭吉さま」待てと言うても、どんどん飛んでいくのであります^^;
なんまんだ~~。

 kikokushiryou1
代ゼミの資料、大変お世話になりました^^
 ありがとう!

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では、下記、本日のもいけるあのころ日記。

もいけるのどうでもいい話(8)        2003年 
       
①授業が終わりいつものバス停に行くと、すでに生徒が2、3人いた。
 後姿が後輩っぽい。
 高3のわたしには年上がもういなくて(落第生をのぞけばだw)後輩しかいない。
 ちょっと年配・・じゃない、先輩ぶっこいて「くそがきが先にいる か、ははは」
 と思っていたら
 よくよく見ると後姿はお久しの「てっちゃん」だった。
 (・・・・・チビだから後輩に見えんだよ・・・)


 ②この前、親父がパソコンを使用しながら、紙に書いてあるパスワードを
  読み上げなたらキーボードを叩いていた。
 「ゼール(ポルトガル語の「zero」の発音)、フォー(英語)フォー、
 フォー、スィンコ(ポルトガル語の5)」

 数年前にも携帯のピンコードを声に出して、
 「フォー(英語)、きゅう(日本語)、ワン(英語)、スィンコ(ポ語)」

 。。。。。。親父の頭、どうなってんだ


           ★母のコメント:笑えない・・・・母の場合は咄嗟に自宅の
                             電話番号を聞かれて、ポルトガル語では
                             サッと出るのに、日本語で番号を答えると
                             なると、えぇぇっと・・と手間取り、一旦紙に
                             書いて言う羽目になる^^;
   
                    


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2006年4月11日(火曜日)
easteregg

恥ずかしながら、わたしは「イースター」はイエス・キリストの復活を祝う祭だ
と思っていました。
ところが、こうして調べてみると、キリスト以前にすでにイースターの祭りは
あったことになります。

過ぎ越しの祭り」を知っているでしょうか。
これは、旧約聖書を読んだことのある人なら、出エジプト記に記されている出来事だ、
分かるでしょう。現代に至ってユダヤ民族が受け継いでいる祭りです。

エジプトのファラオの元で奴隷として扱われていたイスラエル人を、モーゼが
奴隷状態から開放するよう、ファラオに願いでるのですが、王はこれを聞き入れません。
モーゼは、神の導きによりエジプトに10の災いを施します。
最後の災いが
「人や家畜などの長子を死に導く災い」です。

この時、神の指示により、イスラエル人は子羊の血を「家の柱と鴨居」塗ります。
(↑日本の神道の赤い鳥居と重なるとの説を読んだことがある
この疫病(ビールスや病原菌)はこうして闇の中、赤い印のあるイスラエル人の家は
過ぎこされるのです。ファラオの長子もこれで死にます。
哀しみに打ちひしがれたファラオはついに、イスラエル人がエジプトを出ることを認め、
この後、映画「十戒」でもあるように、出エジプト記の山場「紅海」が真っ二つに
割れて海を渡るのですが^^

ユダヤ民族の「過ぎ越しの祭り」はこの故事に由来し、モーゼと共に果たした
出エジプト・「Exodus=奴隷から開放され約束の地までの40年間の長い旅」
を記念して、3000年もの昔から祝ってきたのだそうです。
この時期はイースト菌を入れないで焼いたパンを食べるのが慣わしです。

すると、9日に書いた由来もそうですが、イースターは今回はキリストの復活を
祝うだけではない、ということがわかります。キリストが生まれるそれ以前に
ユダヤの人々の間では「過ぎ越しの祭り=pessah=ぺサハ」として、
この時期は祝いされていたことになります。

イエスは、木曜日の最後の晩餐後、彼の12使徒の一人、ユダの裏切りにあい
十字架の刑を受け、復活します。こうしてキリスト教でもこの時期はイースター=
キリストの復活として、受け継がれて来ました。

余談になりますが、つい先だって、米国ナショナル・ジオグラフィック協会が、
エジプトの砂漠の洞窟で1978年に発見された、約1700年前のパピルス文書が修復されたと発表。
この写本は、イエスやユダの死後100年ほどしてから書かれたものだそうです。

12使徒の一人でありながら、銀貨30枚と引き換えにイエスを裏切ったと言われる、
イスカリオテのユダは現在でも裏切り者の代名詞です。
それが、この写本では、ユダがしたことは全てイエスの指示に従ったことであり、
この役割を任命されたユダは弟子達の中でも特別な地位にあった証拠だと
書かれてあるそうです。

それが真実だとすれば、では、いったい誰がユダヤ人のユダを裏切り者と仕立て上げ、
2000年もの昔から現在に至るまで、陰謀を計ったのか。
これはもう、政治が関係してくるのでしょうね。
古今東西、宗教と政治が切り離せないとはよく言ったものです。

こうしてみると、歴史は人間の手によっていろいろに捏造されている部分がある。
「イースター」一つを取っても、調べて分かるのですが、思うに、人間の歴史は
昨日今日できたものではなく、遡れば遥かな古代文明にさえ行き着くのではないか。
長い歴史のあるものは、故に思想の違いを超えて、人類の遺物として残していくべき
ではないか。そう思ったのでした。

次回は、ポルトガルのPáscoaをご紹介します。

★写真は、主(もいける娘)のいない部屋に置かれたイースターエッグ
(中身はアーモンド)と春の訪れの喜びをこめて買った黄色い薔薇と
チューリップ(造花なんです^^;)

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2006年4月10日

ここずっと続いていた雨天のポルト、今朝はやっと晴れました!
そそくさと準備して本日の目的地はクリスタル公園です。
大きな公園ですので、歩くには持ってこいですが、交通の便はいまいちで、車で乗り付ける
ことにしましたが、止まるところがなくて、ぐるぐる同じところを3回ほど回り@@!
もったいないけど仕方がない、公園横っちょのパーキング場に入り、その地下から
外へ出ると、なんと、すでに公園内(笑)

この前にクリスタル公園に来たのは、もう遠い遠い昔のことです。
クリスタル公園は変わりました。
 昔は小さな動物園もあったのですが、檻の中に鶏が入っていたり
 して、わたしは「たいした動物園だ!」と大笑いして、亭主をくさら
 せたものです(笑) それでも、子供達にとっては珍しい動物だった
 ことには違いありません^^

ポルト市がこの公園を買い取って以来、その動物園もなくなり、公園正面にある円形の
パビリオンはポルトガルを代表するオリンピック・マラソンゴールドメダリスト・ヨーロッパ選手
権、世界選手権チャンピオンの「ロザ・モタ」にちなんで「ロザ・モタ・パビリオン」と
名づけられています。

ほぼ1時間半ほどかけて、歩いてきました。
あれから20何年も経て、こうして一人同じ公園を散策する自分の後ろ姿を、目の前に見る
ような気持ちで歩いてきました。
公園から眺め渡せるドウロ川、今日は水面のさざなみがきらきら輝き、変わらぬ美しさです。

ドウロ川沿いの小高いところに位置しますから、ぐるりと回るのは上ったり下りたり^^;
なかなかの運動になりましたw
rosamota
Rosa Mota パビリオン。ここでは様々な競技、催しものがなされる。
jardim

capela

園内にあるカペラ
capela2

カペラの内装。カペラは礼拝堂のみある小さい教会のこと。 
長椅子が数脚しかない。教会は花崗岩造りで、建築はイタリア様式が
施されている。
entrequinta1

公園を歩いているうちに、いつの間にか隣接している外の通りに出てしまった。
奥まったところへズンズン入って、面白いところに出くわして来ました。
この路地は「rua de entre quitas=農園の間の道)と言われ、
ポルトガル・グラフィティ通り?(笑)
entrequinta4

この道はずっとグラフィティが続いている。塀の家の持主は、古くから
あるイギリス人邸宅が現在では博物館になっている。
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先週今週と、ポルトガル語サイトで勉強していました^^

なんの勉強かと言いますと、ポルトガルは今週の木曜日からイースターに入ります。
以前から毎年この時期、「イースター=復活祭」になると気にかかって仕方がないことが
三つありました。人に聞いてもちゃんと答えてくれる人がいない。
で、今年は思い切って自分で調べてみることにしました。日本語サイトで検索
してもよかったのですが、それでは、一般常識しか出てこないのではないか、
ポルトガルでの言い伝えがわからないのではないか、と言うことで、ポルトガル語でがんばってみました(笑)

その三つとは、

 1.なぜイースターにはタマゴが出てくるのか?(イースターエッグと言ってタマゴを色付け
   して装飾をほどこしたり、タマゴ型の大きなチョコレートが売られたりする)

 2.なぜうさぎが出てくるのか?

 3.イースター(Easter)と言う名称はどこからどうやってできたのか?
   まさか、東=eastでもあるまい・・
   (ポルトガル語ではPáscoa=パスコアと呼ぶ)


この謎解きをして遊んでいたのであります^^

子供達がBritish Schoolに通っていた頃は、 Páscoaのこの時期、学校では絵を描いたの
や、飾りをはりつけたのや色々な装飾がされたイースターエッグをそれぞれが持ち込み、
また花飾りのついた帽子のコンテストなども催されたりした。
わたしも見よう見真似で娘と一緒にイースターエッグとやらを作ってみたことがある。
しかし、これ、けっこう手間取りました^^;

そうそう、花飾りの帽子も、いったいなんでキリストの復活を祝うPáscoaに
関係があるのかと不思議に思ったのでした。
以下、今回は謎解きが全てできたのであります。

イースターは、今日、キリスト教でイエスの復活を祝うものとされるもっと古くからありました。
元々は長く暗い冬の終わり、春の訪れを告げる祭りで、大自然の生命の復活を祝ったものです。
「Páscoa」と言う語はヘブライ語「pessah=ぺサハ」と語源とし、ギリシャ語では
パスカ、「旅」「移動」を意味し、これはまたモーゼの出エジプトにも由来すると言われます。

春の訪れるこの季節に、古代ヨーロッパ人は女神Ostera(Easterとも言う)
を崇め奉ったことに始まります。
Osteraは春の女神で、その手に生命の実、新生の命のシンボルである大きな卵(球)
を抱え、繁殖の象徴であるうさぎを従えています。
easter

上はイギリスの画家、エドワード・バーン・ジョーンズの六つの部分からなる絵、
「天地創造の6日間」のうちの、5日目と6日目。
球=卵は、宇宙(太陽系?)のカオスの後の地球であろう。
 
また卵は、古代ギリシャを始め、ケルト民族、エジプト、フェニキア、古代中国でも、
卵白は天、卵黄は地球と言う風に宇宙と関連付けられて来た。

さて、これでイースターの名の由来、卵とうさぎの関係が、解き明かされ
たのであります^^

では、何ゆえ卵がデコレーションされるようになったのか。
 
イギリス10世紀、エドワード一世は金めっきした卵を友人や兵士に上げたことから
始まり現在に至った。色とりどりに飾られた卵は、幸運、繁栄、愛、富をもたらす
ものと信じられていたそうである。

イースターとキリスト教とのつながりはどうのようになるのかと言いますと、
これは続きといたしましょう。

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2006年4月8日(土曜日)

子供たちが学校時代に書いた絵やプロジェクト作品は、月日が経ってから
何かの拍子にひょいと物置部屋の奥から引っ張り出して見ていると、
いつの間にやら、時間の経つのも忘れて見入ってしまうことになる。

息子と娘の作品が我が家にはたくさん保管されてある^^
それらは大きいものが多い。
そこでわたしは最近それらの作品をデジタルカメラに撮って保存する
ことを思いついた。
そうすると、場所も取らないし原作が変色したり傷んだりしてもあまり
心配せずに済む。

色々な絵の中で、わたしが傑作だと思うもののひとつに下の写真がある。

もいける娘が数年前のスピーチ「(日本社会に於いて)自己主張はどこまで
許容されるか」に使用して聴衆を笑わせた図です。
わたしはこの絵を見るたびに「あっはっはっは!」と笑わずにはいられないのです。
これ、ほんと、ツッコミがうまいと思いません?
そう思うのは親バカのわたしだけでしょうか(笑)
    
国語教科書の敬語、謙譲語の学習を通じて、日本の社会で自己主張は果たして
どの程度まで許されるものなのか、というスピーカーの疑問と、そのリミットについて
自分の体験から、日本とポルトガルを比べて書かれました。
長くなりますので、全文を載せるわけにはいきませんが、この図を提示する部分の
文を抜粋して見ました。(娘事後承諾^^;)
以下抜粋。
    
日本社会について色々調べていたら、ある日会社内でのおもしろい習慣を
インターネットで発見しました。
書類などで判子を押すとき、「偉くない人」から「偉い人」の順で判子の大きさが
変わるというのです。
全員が社内で判子を押し終わったところ、捺印欄の左側の一番小さい判から
少しずつ印鑑の直径が大きくなってゆき、最後の一番エライ人の判は、
なんと!
欄からはみ出て堂々と自分の偉大さを誇示しているではないですか。
そこに載せられていた図をみたときは思わず笑ってしまいました。
  

抜粋終わり。

右上がりに判子が大きくなっていく図を、本人は自分の好きなようにアレンジして、
こういう具合に仕上げてみたようです。
hanko

↑↑課長欄外太い矢印の下、「少しえらいので調子にのって
いばってみた」       
「出る判子は打たれる」の下には、「この人は降格決定」
とある^^; 
 

会社社会にどっぷり浸かっていると、当たり前のこととやり過ごしてしまう
この判子の社会縮図、う~んとわたしはうなってしまうのである(w)
実に「言いえて妙」だ^^;
大阪の堂島にあったオフィスで勤めていた頃は、会社の角印と所長の印が大きい
のは知っていたが、部課長の印にまで気をつけて見た覚えもなし。
いたってのほほんとした事務員であったのだ、わたしは(笑)

こういうことを、こんな風に面白おかしく見ることができたら、この世知辛い
世の中も少しは気楽になれるかも知れない。 わっはっは、と笑って
しまったのでした。

★今日の記事は過去記事です。
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2006年4月7日(金曜日)
popymariana

「受験料が35000円!3500円の間違いではないのかい?」

日本の受験事情を知らない亭主の第一声である。
受験料で既にこんな風に驚いてもらっては、後々する手はずになっている「入学金」
とやらの説明がしにくいのよ、あなた^^;
心臓によくないことは、ちょっとずつ小出しにしないとね(笑)

この頃は、合格した後の算段を極力頭から追い払うように努力いたしましたです、ハイ。
それら全てをソロバンではじき出したら、恐ろしい額になるのは分かりきっていたし、
吉本氏の「タダで大学を卒業させる法」本で、ある程度の情報は得ていた。
この部分だけは何度読み返しても数字の桁に間違いはない。
それどころか、もっと上がっているのが当然と思われる。

「問題をたくさん抱えている時は、まず一つから手をつけてみる。そして、懸命な姿勢で
取り組んでいると、必ずや道は拓けるものである。」
これはわたしが自分の人生で学んだことだ。
まだ入ってもいない大学の入学金など心配しても仕方あるまい。
それはとりあえず置いといて^^、まず受験校をもう少し見てみようとなった。

帰国子女の受験は私立大学が8月である。
国立大学は、出願期間が11月から1月に集中、受験は1月2月となり、
こちらは日本の一般受験生と時期をほぼ同じくする。

もいける娘、目指すはKOであるからして、おのずと受験大学区域は関東にしぼられる。
KO、W大学、S大学受験など、もいける娘よ、今こそ正直言うのだが、おっかさんから
すると
まるで嘘のような話であったのよ(笑)

もいちゃん、日本に住んでいたら、ビビッていたかもしれないです(笑)
でも、知らないでwデカイ夢を持つのは、それはそれでいいことです。
夢の実現は、なんと言ったって「見ること」から第一歩が始まるのだ!
行けーー!
とまぁ、こんな具合で「嘘のような話」と思いながらも黙ってました^^

35000円の受験料を念頭に、本当は一本一筋に絞れたらと思ったものの、
KO合格など海のものとも山のものとも分からず。
そこで、おっかさん、うんと頑張って、

1.できれば2校、どんなに多くても3校のみ〔これでもう10万突破^^;)
1.滑り止めなし。よって、8月に私大に合格したとしても、2月に国立をも受け
  てみたい、というのは、できません。困ります。(滑り止めに入学金を
  払ってドブに捨てるようなことはゆるしまへん)
1.私大2校受けたけれどもどっちも落っこった。すると、最後の国立1校受験が
  残っています。


もいける娘、これに同意し、志望校はKO、W大学と決定しました!
(知らぬが仏とはw。げに恐ろしき決定ではあった^^;)
しかし、おっかさんは、燃えて武者震いですぞ!
親が燃えてどうすんだ?
あははは。それもそうだけど、ついつい我が事のように、ぐわぁーーっと体中に
力がみなぎったものでした^^

ついでに言ってしまえば、何を隠そう、このおっかさん、大学進学を夢見たものの、
若き日には受験にまでさえも、辿りつくことが叶わないのでした^^;
これについては、こちらエピソードがありますれば、どぞ。
    
     思い出のオルゴール:「1964夏・江東区の夕日

★今日の写真は愛犬だったポピーともいける
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では、本日のもいける娘日記です^^

    
もいけるのどうでもいい話(7)        2003年4月        
 
 仕事の都合で友達の父がモロッコにいる。
 その友達が春休み中にモロッコへ行き、わたしに土産を持ってきてくれた。
 バラでできたrose water化粧水とドロのカタマリだった(これは洗顔用。
 パックもできるらしい)
 自然から作られたものなので 肌にいいとか。そして正にその通りだった。
 乾燥している肌に潤いを与えるそうな。お、これはいい、と思った。
 しかし、昨日それに絡んでとんでもない事件が起きたのだ・・

 「明日から学校なんで」と久しぶりに早めに寝ようとベッドにもぐりこみ
 明かりを消したのだが、まだ眠りに入ってはいなかった。
 すると、ドアの向こうに人の気配が・・
 ドアはゆっくり音を立てずに開いた。 そして、わたしは見たのだ・・
 忍び足で(しかも怪しい動きをしている)侵入してきた得体の知れないものを・・・!
 
 慎重にあるものを両手で抱えて、部屋を去ろうとしたその瞬間、わたしは言った。
 「*ギン*」。 去ろうとした後姿はビクッと反応する。
 「化粧水どろぼーー」

 その後姿の正体は母ちゃんだった。

 
  ★母のコメント:得体の知れないものってなんでんねん・・
   あんまりこういうことはバラさないでよ^^;


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2006年4月6日(木曜日)
asahibeerhouse

今日は少し、路線をはずしまして^^

炉端焼きの居酒屋に、わたしは限りない愛着がある。
そこには数々の懐かしい思い出があるからだ。

特に、大阪は京橋地下街の炉端、京阪沿線宮之阪駅前の炉端ではわたしは
常連の部類に入っていたと思う。

流れる音楽が演歌で、それが難と言えば難だったのだが、しかし、炉端に
ジャズやらシャンソンを望むのは、中華料理店でフランス料理を注文する
ようなものだろう。
泣き節の演歌はあまり好きではないが、それが炉端にぴったしなのには、
どうにも仕方がない。

外国人の友人ができると、わたしはよく炉端に案内したものである。
当然夫も時々わたしに引っ張られて行ったことになる。

京橋炉端に、当時ポルトガルからきたばかりの、新しい留学生だったマイ
ア氏を、夫(当時は恋人)と二人で案内したときのことである。
マイア氏、頑としてナイフとフォークで食べると言ってきかない^^;
炉端のお兄さんが、同じ地下街にある隣の洋食レストランまで走って行き、
「こんな頑固なお客初めてだっせ・・」と
ナイフとフォークを借りてきたことがあった。

わたしが勤めていた会社の東京本社には、ハーバード出のボブがいた。
本社とはしょっちゅう電話連絡をとるのだが、初めて彼と話した時は、
ん?と少し思ったものの、その電話の相手がアメリカ人だったとは聞か
されるまで気づかなかった。
それくらい、彼の日本語はあまりクセがなく日本人に近い発音で当時はひた
すら感心したものだ。

その彼が週末を利用して大阪へ来たときもアサヒ・ビアハウスと炉端に案内
した。日本語はコーネル大学在学中に学んだと言い、かなり流暢に、そして
語彙力もあったボブとは、炉端で飲みながら食べながら、その日、大いに
あれやこれやと議論したのである。(もちろん日本語でですw)

日本びいきのその彼、自分の名前、ロバート・グロンディンを日本名で
炉端 愚論人=ろばた・ぐろんじん」
とつけて、印鑑まで作ってしまった。
そそ、ついでにバラしてしまえば、アサヒ・ビアハウスに彼を案内した時は、
ホール中ポルカを踊って跳ね回り、わたしは引きずりまわされ、見ていた
常連達もボブのステップにはすっかり目を回したのだったw

当時は「文化住宅」と呼ばれた、駅から徒歩10分ほどの二間、トイレバス、
台所付きの小さな我がアパートは京阪宮之阪にあり、駅を出るとすぐ横に見
える炉端。ここには、我が親友、「かつらぎ山房」の主「みちべぇと」よく行った。
みちべぇはもちろん女性です^^ わたしが働いたオフィスの後輩なのだが、
当時同じ駅のすぐ側に両親姉妹と住んでいるのを偶然知って以来、自分が
グンと上だという年の差も忘れて意気投合。以来30年以上のつきあいになる。

ポルトガルに来た当時、アサヒ・ビアハウスがただただ恋しかったが、同
時にまた今のように手に入らなかった日本食への思いも深く、炉端を恋う
思いも募るばかりだった。
挙句が、「ジュアン・ボーイが大人になったらいつか炉端へ行き、酒を酌み
交わしながら人生論をぶってみたい」と、それが夢になったのである。

わたしの若い頃は、しつこい酔客や端迷惑な酔客もいたにはいたが、お酒の
場とは、人生論を戦わせる場でもあったような気がする。 
会社の愚痴、上司の愚痴あり。しかし、人生の夢を語る場でもあった。 
お酒の加減よい力を借りて、本音をさらりと口滑らすことが、ああいう場で
はなんだかできたような気がするのだ。それでわたしは炉端が好きだったの
だと思う。

あれからもう30年、炉端焼は今ではかつてにように、そこここにあるもので
はないようだ。今の若い人たちは、いや、若い人達に限らず、現代人たちは、
どういう形で人と人生を語り合うのだろうかと、ちょっと興味を持つ。

みんなまともに面と向かって顔つき合わせて、人生論を戦わせるのだろうか。
しらふで語ることも勿論大切なことではあるが、人の人生って理屈だけでは
語れない部分があるのじゃないかと、わたしは一人思ったりしてるのである。
すると、やはり、ちょっとお酒なんかあったら、語らいやすいなぁ、なんて^^

若い時にこそ、老若男女一緒くたになって、こういうことを「ぶってみる」
のは、自己啓発にもなり、人生の勉強にもなると思うのだが・・・

それとも、人はもう人生論をぶつことなどしなくなったのだろうか。

★今日の写真:かつての梅田アサヒ・ビアハウス。こんな楽しいお酒の飲み方もある^^
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2006年4月5日(水曜日)
akanegumo

涙を呑んだ亭主ではあるが、それでも諸手をあげて賛成ではないもので、
日常の言動のそこここに不満がちょいちょい出る(笑)

我ら二人は、策ががうまく運んだことの「ぬか喜び」を露骨に顔に出さないようにするのに苦労した
のであります。
亭主の一策(まだ頑張ってます^^;)条件として、日本の大学受験に失敗した百が一のため
(万が一とは言い難し!さほどに本人の学力がつかめないため、日本の大学進学は漠然と
したものであったw)ポルトガルでの大学入学資格もしっかり取っていくこととなりました。

帰国子女受験の出願書類のなかに「出身学校の成績証明書」「統一試験(=大学入学資格試験)
の成績評価証明書」があります。
よって少々英語がポルトガル語ができる、だけでは、いくら帰国子女でもきちんとした大学は
かなわんのです。
この辺りからもいける娘、俄然勉強に力を注ぐことと相成ります。

現地ポルトガルの高校では2年生、補習校では高校1年生ですが、講師不足のため、
なんと!日本から来て5年滞在していた高校3年の生徒と同じ教材を使っての
クラスでした・・・
「ま、待ってよぉ^^;そんな無茶苦茶な・・・」正直な親の気持ちでしたが、背に腹は変えられぬ。
現地組(企業関係者以外のものw)の扱いはそんなものですたい^^;
しかし、これは今思って見ると、もいける娘の精神成長によい影響を与えたのでは
なかったかとも考えられます。

現地校の成績アップのためには、わき目も降らずそちらに力を注ぐことになりますから、
日本語での勉強の方は止むをえません、しばらく停止状態です。

「タダで大学を卒業させる法」のお薦め通り、KO大学が目標とは言え、一通り他大学も
調べます。娘とおっかさんは、時間を見ては、ネットで大学の検索をし入試情報を掴んでいくことになります。

この頃パソコンからプリントアウトした大学入試情報の紙の山、山、山(笑)
これをですね、気の毒な亭主の目にあまり触れないようにと、色々気もつかったんで
ありますよ^^

次回は帰国子女の大学入試要項についてです。

★今日の写真は4、5日前に我が家から見えた夕焼け雲
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下、もいける日記です。
    
もいけるのどーでもいい話(6)     2003年7月

兄がリスボンから帰ってくるとどうしても ゲームする時間が通常より長くなる。
 ラスボスがみたいやら 裏ボスがみたいやら レベルアップやら・・
 リスボンで兄貴がやっていた ドラクエ6はレベル20を過ぎていた。
 でもポルトに来ることで続けることができなくなった .
 (セーブを持ってくるのを忘れたらしー)

 私はパソコンでなく スーファミでドラクエ6を持っているので
 なんとか レベル20まで上げてくれ と依頼があった(依頼かよ)
 よい子は 頑張って 昨夜 兄が出かけた後、そして 母ちゃんが寝た後(←注意
 2時半ごろまで とりあえず レベル8までゲームを進めた (TT)
感動的だ .
 寝た。そして・・

 夢を見ている最中いきなり部屋の電気がついた。
 眠りが浅いので すぐ目が覚めた。
 ドアの前には兄。近づく兄。

 「起きろ、学校へ行く時間だぞ、wake up, mariana! 」とベッドをゆさぶる
 ああ・・・・毎年騙そうとする・・ 今年は騙されまい・・
 寝ぼけながらも「うそつけ」と反抗し 後から

 「とりあえず レベル8・・」と言っといた
 「まだ 3時半だから もうちょっと続けないか」
 「(時計を見る)5時じゃん・・」
 ちょっとした会話が後 6秒ほど続き、最後に兄は 言った

 「oh、 mariana、this・・was a drea~m・・
 そして自分の部屋に戻った
 ・・・・・うそつけーーー!

                 ★母のコメント:「母ちゃんが寝た後」・・・そういうことをやって
                            いたのは、ちゃんとお見通しだったわい。
                            知らぬ振りしただけなのである。お釈迦様の
                            掌の孫悟空であるぞよ。(ぶっ)





 

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2006年4月4日(火曜日)
vinho

今日は「パリのアメリカ人」ならず、ポルトのイギリス人のお話であります。

ポルトは旧市街のボルサ宮近辺にある、古~い建物。
外見からは、とてもとても、中がどのような様子など、わからない。
Casa feitoria inglesa.英国管財所 とでも訳せるのでしょうか。
どうもこういう専門用語となると、日本語がさっぱりですわ^^;

さて、この建物、1785年から1790年の間に、イギリス人ジョン・ホワイトヘッド領事によって、当時のイギリス国王の認定を得て、
ポルトに住むイギリス人商人たちのために建てられたとのこと。
このイギリス商人というのは、恐らくポルトワイン商人と思われます。

一階はギャラリーに続く七つのアーチ型の門でできている石造りの建築物です。
実は去年、亭主のお供でこの上階で夜会食に招かれて行ってきました。
聞けば、会食のメンバーにイギリス人が入っていない限り、ここは利用できない
のだそうです。
ま、国際会議でしたから、英国からもお客様が見えてて、それで借りることが
できた、ということなのですが。

階上のホールに入って驚いたのは、天井から四方の壁から、床を除いては
すべてウエッジウッド造りでありましたぞ^^
これは一見の価値あり。
こんな機会でもなければ、そうそう見れません。
隅っこにグランドピアノが置いてあり、女性ピアニストがいました。

夕食はその隣にある部屋でして、それがですね、シャンデリアをともしているものの、
やたら暗い・・・
ポルトガルに来た当時、最初に感じたことは、家中の照明が暗いということでした。
わたしなど、できれば全部100wにしたいくらいですが、電気スタンドなどは、
40wなどの限度があって、まことに薄暗いのですね。
    
で、自ずと我が家はあちらこちらに電気スタンドを置くことになりますw
「二人しか家のなかにいないのに、あっちにもこっちにも電気点けまくって。」と
亭主に言われようが、負けませんぞ。知らん顔w
昔、ポルトガル国内家族旅行をしたときにわたしが決まって準備した物のひとつに、
「電球持参」がありました(笑)
宿につくなり、まずすることが部屋の電球を取り替えること(爆)
古い宿は天井が高いので、ベッドの上に椅子を乗せ、それをわたしが押さえて、背の高い亭主が椅子にあがり天井の電球を変えるのです。
いや~、よくやったもんですわ(笑)
      
おっと、話が横道行きそう^^;
さて、お食事、おいしかったです^^。
赤ワイン!これはえも言われぬ程にまろやかで美味でした。
ところがです、聞いたこともないブランドでして、高価はともかくとして、
殆ど市場にでない代物です。

食事も終わるころ、支配人と思し召しき人が、Casaの由緒ある歴史を
ご披露。
(これなどもいかにも由緒好きなイギリス的でしょう^^)
創立当時から今に至る200年以上、毎週水曜日40人のポルト在住の
ポルトワイン
関係のイギリス人が、わたしたちが食事をした部屋の 隣室の長~~いテーブルで、
昼食をする慣わしになっているのだそうな。

「何はなくとも誇りだけは」、と時々陰口をたたかれるイギリス人。
古き良き習慣を現在に受け継ぐことは、こうしてみると重厚さがうかがわれて、
なかなかよろしいかな、と思ったりします。
    
それにしても、市場に出されない上質のワインを独り占めとは・・・
それはないでしょう^^;
    

vinho do Porto=ポルト・ワインについては下記へどぞ^^
ホームページサイト・ポルトガルよもやま話「ポルト・ワイン」・

★今日の写真はVinho do Porto(ポルトワイン)とテーブルワインの
Vinho Verdeの銘柄Alvarinho

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2006年4月3日(月曜日)
kururu

「親父どの、話があります」と、もいける娘が切り出した。
横で聞いてると絶対口出ししたくなる自分を知っているおっかさんは、これも作戦の一環であるのだが、サァーっと身を翻し、台所へお隠れ遊ばします。台所で片付け物をしながら、どういう反応があるかと、おっかさんも胸がドキドキです。

亭主がこれで「うん」と言わなければ、無事日本の大学入学試験を突破したとして、本人の全財産w、そしておっかさんの全へそくりを持ってしても、4年間を生き抜くためには、もいける娘はまさに新聞配達少女をやるっきゃない。この時こそ普段は思うことのない、「あぁ、どっかに落っこってないかなぁ、安い下宿屋ともうちょっとの金・・・」と思ったものだ。

話し合いが終わった後のもいける娘の顔は晴れ晴れです^^
「日本へ行かしてくれ」じゃなくて、「この分足らんので貸してくれ」だもの^^それに比べて亭主の顔・・・これはもう、気の毒なくらいしょげ返っておりました。^^;無理もない、ここまで出られたら、二つ返事で「ホイ、分かった」こそ言わないが、引き止めるのを諦めるしかないです。

「いったん日本へ行ったが最後帰ってこないぞ、君。どうするの!」
さぁ、ここからはおっかさんの出番です。ポルトガルの大学を終え、それから日本へ行ってもいいではないか、という亭主と、おっかさんは少々やりあうことになるのでした。

すでに触れましたが、ポルトガルの大学は5年制と日本の大学より1年長い。しかもバイトでもしようものならてき面、落ちてしまうような厳しい勉学が求められます。その間に、日本の大学、もしくは日本の社会でまともに通用するような国語力を娘が維持できるとはとても思えない。我が息子がそのいい例です。行くなら今!

日本に定着し、もう帰って来ない算段が大きい。はい、そうね。でも、彼女はここでは幸せではないみたいよ。わたしたちが彼女の幸せを保証できる確信はどこにもない。むしろ、羽ばたこうとするのを押さえつけることにならない?
わたしはどう?18歳で都会へ出て、まぁ、そこそこ一人でなんとかやってきた。だから彼女もなんとかだったら、できるはず。長女である己の身の上をほったらかして、親を妹に預け遠い国まで来てしまったわけで、自分はしたけど、子供にそれをするな、とは言わない。

石橋を叩いて期をうかがうのも方法ではあるけれど、もういいかな?いいかな?と叩きすぎて、橋をぶっ壊してしまうことだってある。(亭主はこのタイプだw)人生には、チャンスがあるのよ。そして、そのチャンスが再び来るかどうかは誰にも分からない。彼女は今、行くべきなのです。

おっかさんはこの時、息子のことも引き出したのでした。British Schoolで11年間学んだ息子も、もいけると同じように
高校はポルトの私立校に行きましたが、イギリスの大学へ行きたいと言ったのでした。イギリスで勉強するのも日本へ行くのと同じくらい費用はかかる。

この時、おっかさんは息子に、「行け!後のことはなんとでもなる。ロンドンは都会だから、バイトをしながらでも大学へ行ける。ママの今持ってるお金、全部あげるから(大した額ではなかったがw)行け~~」と後押ししたのだが、親の懐をおもんばかって息子は諦めたのでした・・・

ポルトガルの大学生活にあって、やはり馴染まない部分は否めない。しかし、始めたからには終わるしかないのです。

「日本の大学で、普通の日本の学生と同じようについていける国語力はあるの?」この辺はおっかさんのハッタリです。ある!(笑)そして、こういう時のために、おっかさんは普段から、もいける娘の日本語エッセイなどを亭主との話題にそろ~っとそろ~っと採り上げて来たのであります。

「娘、ポルトガル語ではどうか、わたしは判断しかねる。でも、日本語の文章は多少言葉の遣い方がおかしかったりするけれど、いい線行くと思うわよ。補習校の先生方も、面白いって評だから」
↑この辺りも、大分ハッタリが入っとりまする(笑)

これで亭主、涙を飲んで、ゴーサイン^^

もいちゃん、よかったわね^^この時の嬉しかった気持ち、とうとう日本へ行けるんだ!と夢の第一歩を踏み出した時の喜び、決して忘れないでください。

次回からは、いよいよ受験に向けてまっしぐら!
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今日のもいけるのあの頃の日記です。どぞ^^

    
もいけるのどうでもいい話(5) 2003年?年 

バイオロジーの実験ばかりやる授業である。
今学期は種について研究中。
種の構造を図に描いて名称をいれる、と言うことをやっていた。
そこへ違う班の人がこちらに来て、わたしの班の子に色々質問していた。
その中で笑えた言動がこれだった。
「あー、それじゃ この くs・・・この部分が コティレなんとかって言うんだな」
 
・・・今 く○って言おうとしたね・・・ふふ。お姉さんはしっかり聞いたよ。
さりげなく 言いかえたね。。えらいよ あんた。

今日は英語のテストがありました。(日記?)
英語は得意と言えど、時にはわからない言葉もあるので
昨日前もってかばんに英和辞典を入れといた。つもりだった。
(ポルトガルはテスト中辞書をひいてもいいことになっている。
甘いよね・・ふっ)
テストちゅう、早速意味のわからない言葉が出てきたので
「おしっ、辞書だ。持ってきといてよかった~*パラパラ*」
・・・・・・・
「noten,kaichu,daibu,arechi・・・・?」
しまったぁーー 間違って和英辞典を持ってきてしまったーーーー
あぁ・・哀しきかな・・・まぬけなり・・
 
母のコメント:こんなところは似ないでよろしいがなw
       しかし、ここでも英ポ辞典とかポ英辞典を
       使用しないところが、やはり日本人だ^^


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2006年4月2日(日曜日)

夕べも深夜3時を回ったころである。
電話が鳴った。
こういうときのわたしはガバと反射的に起き上がる。
さっさと電話にでないと、我が家は3箇所に親子電話があるので、そのうちのひとつがFaxに
つながってしまい、ピーピーと鳴ってうるさいことしきりである。

真夜中の電話はどなたにとっても不吉な思いに襲われるものである。
アメリカに住む舎弟wから酔っ払い電話が入らなくなって久しい。
この時間帯に入る電話は、かつてはたいがいアイツであった。
酔っ払って人恋しくなり、わたしに時差もかまわずかけてくるのである。
それが途絶えて数年になる。まさか、ヤツではあるまいの?
そう思い応答した。(ヤツとのエピソードはこちら^^

「Dr.santosのお宅ですか?」と女性の声。
「あのぉ、お宅、水出っ放しになってません?車庫のところに水がずーっと落ちてきてる
るのですが・・・」
なんだとて?水が?
バスルームを見たら異常なし。台所へ行くと、台所は異常な・・・
おろ?なんかすごい音がしとるぞ。

ゴーッと音のする先は台所の側のベランダであるよ!えええ!
足を踏み入れようとしたら、おーっとっとっと!水浸しだ。
ぐは~~、ベランダの洗濯場タンクの水道から水が音を立ててゴーゴーと・・・・・・・
床はタイルを敷いているのだが、そのタイルが洗いやすいようにと、水を流しだすために
小さな穴が開いている。
タンクから水が溢れ出てその穴から下の車庫のある庭へと雨が降る如く落ちていた
のでございます^^;

お~~い、亭主!
水を止めても、小さな穴から落ちきるまでには、かなりの時間がかかりそうです。
バケツで床に溜まった水をちょぼちょぼと汲みあげること半時間、仕上げはモップでふき取り。
台所に寝ていたネコタチは「なに?なに?どったの?」とこわごわ覗いていましたが、
あんたらね、水が出てるの気づかなかったノン?んもう~、役立たず~~!

亭主、「君、ここの水道、使ったの?」
「え~っと、コーヒーを沸かすのに、ここから水を汲んだ。でも栓を閉めたと思うがなぁ。
それは12時近くで、その後、エデンの東=映画、を見て終わって、ねこたちを台所に運んで
来た時は、こんな水の音、しなかったと思うがなぁ」←いかにも自信なげだ(笑)
変だなぁ。それにあんなふうに 目一杯に水道の栓をひねらないとおもうがなぁ^^;
なにかの拍子で、ねこでもやったんだろか・・・
さっぱり覚えてない^^;
ま、仕方ないか。

「で、君、なんでコーヒーのお湯を沸かすのに、台所の水道からじゃなくて、ここから水を
汲むわけ?」
「あらん、だって、あなた、台所にはフィルターを取り付けられないからって、こっちの方に取り
付けたでしょ?だからよ。」
「開いていた栓は、フィルターの方じゃなくて、普通の水道の水と同じのが出る栓だったよ」
「そんなことないわよ、これがフィルターがついてる水道の栓でしょ?」
亭主「・・・・・・・・・」沈黙。「フィルターの栓は別にあるよ。ほら、ここだ。」
今度はわたしが「チ~~~ン・・・」沈黙。

なに?それじゃ、わたしはここへ引っ越して以来3年間、フィルターの水だと思い込み、
やっぱり台所の水道の水とは違うわねと、せっせアメカフェ飲んでたと言うのぉ?
「そう言うことになるね」   どーーーーーん。奈落の谷に蹴落とされた・・・・

そんな、そんな~~!言ってよね!と無理を吐いたあと、己のバカさ加減に大声出して
笑うしかなかったのでありました。あ~ぁ、今日は眠たい(笑)
cozinha
水道の上にヒョコッと乗っているものがフィルター。

左に突き出てるのが水道栓。これを手前に回すと水が出る。
夕べはこの下に伸びているホースからゴーゴーと水が出ていて、手前が洗濯板に
なっている、この石のタンクから水があふれ出たのである。 

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2006年4月1日(土曜日)
昔の路面電車


今日は入学式でした。
丁度一年前に、ズッコケ入学式をやっちまったことを思い出し、ちょっと日記から
引っ張り出してみました(笑)こうやってしょっちゅうおバカをやってます。
2005年4月2日(土曜日)となってます。どぞ^^

 
巻き寿司をつくって、二国の国旗、つまりビシッとアイロンの当たった日本と
ポルトガルの国旗、それに、壇上の机を飾る花のための、クソ重たい我が家の
クリスタル花瓶(年に2回の出番。当校で重宝がられてます。でも、ホント重い^^;)
お勉強の準備もばっちし!

急いで急いで、今日は一分たりとも遅刻はできません
飛び出して途中でハタと気づきました。うは!運転に必須の度付きグラサン
してないじゃん!おそろしや~~。
あわてて引き返しましたです。オホホホォ。

職場に到着しましたら、ぬぬ?門の前で大勢がたむろしております。
これは門が開けられていない、ということでありまして。
ヨッコラセと、車のトランクから色々物を運び出して門まで行きましたら、
(近頃の子供も大人も、お手伝いしましょうか?なんて誰もいわないから。
 ちょい、情けない。)
同僚いわく、
学校のお手伝いさんがまだ来てない。(全ての学校の鍵は彼女が保管。
ポルトガルの学校は、夜勤警備員を通常置かない。ちなみにポルトガルの
学校は目下復活祭休暇中)で、今わたしたちの責任者が連絡をとるための
電話番号を家まで取りに行った・・・
どうも3月の最後の日に、お手伝いさんに4月の開始日は2日だと言って
確認とるのを忘れたらしい。
ふむ・・・

わたし、何気なく「ねね、もしかして彼女家にいなかったりしてね。
休みを利用して旅行してるとか田舎へ帰ってるとか。あははは」
と言って、笑っていましたら・・・・・
それが現実になってしまい申した。

連絡がつかない、電話にでない。現地校の責任者にも連絡がつかない・・・
みな一瞬、が~~~~ん。
ど、どうするのよ?にゅ、入学式、どないなるのよ。
と、騒いでいるうちに、あらま、祝辞を述べてくださる予定のご来賓が遥遥
リスボンからお着きになりゃんした~~。
・・・・・・・
そのまま、外でやるっきゃないではありませんか・・・
進行係は・・・あたしじゃん!
2枚の国旗を外門についてる鉄柵になんとか垂らしました。

プログラム1、国歌。
おろ?こ、国歌の音楽があれへんやん~~。
備品は全て校内ですもん^^;
音楽なしで歌っていきましたです・・・はい、ご想像あれ。

帰宅して、一部始終を亭主に話しましたら、亭主いわく、
「きみらねぇ、外で国旗出して全員それに向かって歌歌って・・・・
通りがかりのポルトガル人、いなかった?いったいなんと思っただろか・・・」
・・・・・・・・

それをおもんばかる余裕もありまへんでしたっけw


とまぁ、これが昨年のズッコケでしたのが、今回は事前にしつこいくらい
お手伝いさんに確認して、最後には「もうわかっとりわい!」みたいな
顔されたspacesisでした^^;
何事もなく無事終了。めでたしめでたし。

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