2006年5月31日
国旗(小)
さて、2006年度ワールドカップ、前奏曲が始まりましたね。

日本はもちろんのこと、ポルトガルの応援もわたしは欠かしません!
そこで、今日はポルトガル国旗について。

2004年にポルトガルが開催地になった欧州サッカー選手権から話させてください。

国中をあげての欧州サッカー選手権争いも、決勝戦ポルトガル対ギリシャ、
2:1をもってギリシャに軍配があがり、ようやく閉幕とあいなりました。
ギリシャチームのコーチはなんと、ドイツ人だとか。
期待されたほど成果をあげられなかったドイツも、これでいくらか溜飲を下げ
たことでしょう。

ポルトガルはと言えば、決勝戦まで持ちこんだのは今回が初めてで、ギリシャに
負けて涙は流したものの、「オレたちはポルトガルチームを誇りに思う!」と
老若男女口を揃えて言うのです。

ポルトに住んで20余年、国民が一体になって国旗を掲げての応援の意思表示は、
わたしにとっては、これが初めてです。
いや、これに似たようなことが、これまでにもう一度ありましたぞ。
しかし、このときのポルトガル国民の意思表示は国旗ではなかった。

「東チモール」と言っても、日本ではピンと来ない人が多いかもしれません。
東チモールは、インドネシアとオーストラリアの間に位置する小さな島で、
その東部は、16世紀からポルトガルの独裁政権が倒れる1974年まで、
ポルトガル領土となっていました。

独裁政権が倒れると同時に、独立の機運が高まり、そうこうしているうちに、
東チモールは、インドネシアとの紛争に巻き込まれていったのです。
現大統領、シャナナ・グスマンをリーダーに、激しい抵抗の末、2002年
5月20日、
ついに独立国家へとこぎつけたのでした。
この間、ポルトガルのあちこちでは、東チモールの平和を祈ってベランダから、
窓から、そして車から、と白い布が垂れ下げられました。
   
そうです、今回と同じように、人々が白い布に平和の願いをこめての意思表示
をしたのです。
白い布は、タオル、ハンカチ、テーブルクロス、シーツといろいろありました。
わたしも家の表通りに面したベランダに、白いテーブルクロスを垂らした
一人です。
その白い布は、やがて段々とズズ黒くなっていき、東チモールが正式に独立国家
として発足するまで町中で見られました。

いよいよポルトガルチームが決勝戦出場と決まった日の夜のことです。
こちらのニュースの時間帯は8時9時台で、遅い夕食が常である我が家では
家族でニュースを見ながらの食事になります。

すると、画面で首相のドゥラン氏が何かおっしゃってらっしゃる。
毎度ながらの政治のスピーチならば、わたしのポルトガル語ではとても
ついてはいけません、と聞き流そうとしましたら、
「ん?なになに?国旗がどうした?」となりまして、耳を傾け我が亭主に
ちくいち確認をとりながら見入っておりました。

ポルトガル国旗はとてもカラフルです。
赤・緑・黄色と、この3色を身につけるだけでも、すでにポルトガル国旗を
まとっていると言っても過言ではない。^^
(国旗の紹介は明日に^^)
さて、ドゥラン首相がテレビで言及していたのは、その中の「7つの城」の形
なのでありました。
正式な城の形は、三つの塔がついているのだそうで、それがどうも、近頃
城の形が色々になってると・・・

ポルトガルチーム応援の激熱のあまり、国旗を買い求める人が多く、
在庫ではまかないきれず、大急ぎであちらこちらで国旗を生産、その結果、 
形が勝手にデザインされて売り出されたとは、これいかに~~~~!

このニュースを知ってから、町で見かける国旗に目をこらして見ると、
まぁ、あるわあるわ、いろんな形の城が。
三角の形をした国旗を目にしたときは、度肝を抜かれもうしたです。(爆)
そこまでやってええのぉ?

いやはや、なんと言いましょうか、さすがポルトガルやわ、と思わされた
一件ではありました(笑)

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2006年5月30日

日本食が好きで、週に一度はアジアレストランへ(日本食レストランではない)
でかけて寿司を食べている日本語教室の生徒さん、ある日、うちへ来るなり
こんなことを言い出した。

「先生、寿司に使われる魚が水銀を含んでいるというニュースで、うちの母も
わたしも恐怖のどん底に落とされてます」

すると、今日来た生徒さんが今度は、
「寿司に使われる海苔に水銀が含まれているという噂が出てる」と・・・

ここで問題なのは、「寿司に使われる魚、海苔」と銘打っているところだ。
少し考えて見れば分かることなのだが、「寿司に使われる魚」って日本から
輸入してるのかい?
ポルトガルでも多少は知られる「寿司」、それでも、寿司ネタを日本から直輸入する
ほど、ここでは寿司はまだまだポピュラーな食べ物ではない。

第一、正統の和食をつくる日本人料理人のいる日本食レストランとて、リスボンでも
数件しかないし、ポルトには一軒もない。
まして、日本人の口に合う、本物の寿司を出すところとなると、あるかどうか
かなり疑問である。
寿司をメニューに入れてあるレストランは、たいがい「アジアレストラン」と看板にある。

ポルト近辺にも「焼き鳥」「焼肉弁当」「トンカツ」などが、寿司に混じって
メニューに載せているレストランがあるが、わたしはこういうのには絶対手をださない。
その名に吊られてうっかり注文でもしようものなら、見た目はなんとなく似て
いるが、味はインド料理に使われる香辛料で味付けられ、日本で経験してきた舌が、
脳が震とうを起しそうになるのだ。
料理してる調理人が食べたこともないのに、作るからである。

ここで寿司に使われる魚は、この国、もしくはスペイン沖で獲れたものでしょ?
そしたら、日常の食卓に乗るのと同じものではないの?
水銀は調理したら消えるもんでもあるまいの。
何ゆえ「寿司」という名前が形容語として出るのか。

海苔も同様。海苔にはちゃんと「made in japan」とありますか?
海苔でも中国製、韓国製がある。ここらあたりで手にはいるのは、ほとんどが
日本製ではないのだ。

こういう事を細かく考えて行くと、なんだか背後になんらかのプロパガンダの手が
感じられてくるような気がしてしまう。

わたしは、「またか」と言う気持ちで、しかし、話は一応聞いて、自分ができる
範囲内で、説明することになる。
今回の話は、水俣病に遡らなければならなくなる・・・
公害問題が日本に全くないとは言い切れないが、あの頃を境にわが国は公害問題に
取り組みだしたのだ。

もし、今水銀問題云々ということであれば、それはむしろ隣国の方が遥かに大きな
公害問題として抱えていることで、これは日本海沿岸にも無害ではないのである。

「またか」と書いたのには、食べ物の問題ではないが、以前これに似たようなことに
ぶつかったからである。
ポルトの公立高校で一室を借り、高校生、ポルト市民であればだれでも参加できる
形の日本語クラスを開いたときのことである。

授業が終わったある日、一人の女子大学生が、
「ネット内でこう言う噂が出ている」と一枚の用紙を見せた。

「BONSAI KITTEN」(KITTEN=子ネコ)に対する講義のチェーンメールである。
わたしに同じ日本人としてどう思うか。このチェーンメールに名前を連らねて、
同じように知り合いに流してくれないか」というのだ。

「BONSAI」は、今ではSUSHI ,MANGA,同様、日本の代名詞である。
日本人がニューヨークでこの盆栽子ネコを作って売っているというのだ。
そう言われてもにわかには信じ固い。いろいろな日本人がいるが、こういう発想を
日本人は普通持たないという信念がわたしにはあった。
さらに、日本人人口の多いニューヨークで、そういうものを売品にするとは、
想像しがたいことである。

もとより猫の好きなわたし、もちろん抗議メールに加担はするが、ちょっと
待ってくれ、日本人の仕業とは信じられない。まず調べさせて欲しいと、
わたしは帰宅するなり、すぐ英語サイトを検索した。

一発で出てきたそのサイトの画像にはショックを隠しきれなかったです。
盆栽はそれがいいかどうかは、また好きかどうかは別にして、木のミニチュアの
ようなものなのでしょうが、盆栽キトゥンは、子ネコを小さいうちにビンに入れて、
それ以上成長させない、「その育て方の指導、そのための付属品を売ります」と
いうサイトだった。

画像は、恐らく合成でしょう。しかし、見るものの目を覆うには十分の効果がある。
これを数日、わたしは追いました。
アメリカの個人HPサイトのあちこちで非難の記事が出され、ついにはFBIが動き出した。
サイトの管理人はなんと、MIT(Massachusetts Institute of Technology)の
中国人院生!院生ですよ、院生!

で、言うことが、「ブラックジョーク・サイトだ」と、のたもう。
世界中から多くの抗議メール、サイトアクセスでパンク状態になり、ネット内では
「最悪意サイト」とトップに載せられ、ついに閉鎖を迫られました。

しかし、わたしは、この院生の日本に対する底意地の悪さ、悪意を感じないわけには
いきません。
現にわたしのポルトガル人の生徒に回ってきたチェーンメールには、根拠もないのに
しっかりと、「日本人が作って売っている」と書いてあったのです。

「BONSAI」=日本、という一般人の受けるイメージを見事に使ったワナではあります。

わたしが声を大にして「あれは日本人じゃないで~~!●国人だで~!」と
叫んでも空しいのはわかっているが、例え一人二人にとて、訂正しておかない
わけにはいかない。

あの数年前の悪夢がまたぞろ出てきて、頭にきているのである。

日本で魚、海苔、わかめ等の水銀汚染、または他の汚染の話はでているのでしょうか。
ネットニュースではわたしは見かけていないのですが。

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願書記入は誠に苦労でした。
当の本人は、こういった正式書類の記入などしたことがないのですから。
失敗は許されず、まして、親が側にいるわけではありませんので、メッセンジャーで
記入の仕方、書き方をやりとりしました。
我が妹も一緒に見てくれアドバイスです。

にも拘わらず、訂正は何箇所もあり訂正判だらけになったところもあったとか・・・
現場にいなくてもいける娘にとってもわたしにとってもよかったこと。
でないと、わたしは頭から湯気が昇って、もいけるはそれで気持ちが
ゲンナリの可能性は十分にあり(笑)

願書の提出は、念には念をいれて。
受験はすでにここから始まっているのです。
願書提出は帰国子女枠の場合、受付から締め切りまで一週間ほどです。

もいける娘は、8月1日に提出、9月7日W大学一次試験、一次をパスするとすぐ
12日が小論文と面接の二次試験でした。

面接に向かう娘へのわたしのアドバイスは、
「自分の魅力を最大限に出してみること」(これは爽やかな笑顔も含むのです^^)
「はきはきと、はい、いいえ、の返事ははっきりと」(←この辺はまるで
小学生にでも言うが如きですが、これが実は大人社会でも大切なことなのです。)

ここで、また出費せざるを得ない現実にぶつかりました。
面接時の服装です・・・・
だから、地味なスーツはいざと言うときに役立つから、物価の安いポルトガルで
買って持って行けと言ったのに~。

代ゼミのアドバイスもやはり、服装はスーツ!
慌てふためいて、叔母にあたる我が妹と買いにでかけ、ブレザーはそこそこの値段、
下のスカートと白ブラウスは安物で、何とか間に合わせたのでした。
ブレザーは、何しろ腕が長い彼女、やはり探すのに苦労したようです。

この当時、もいける娘、「お守りに」と携帯の映像にはなんと、大隈公の銅像を!(笑)
わらにもすがるとはこういうことでしょう^^

筆記試験一次を無事パス、2004年9月12日最後の難関二次試験も終わり、
後は約10日ほど後の合格発表を待つばかりになりました。
後日、本人が語りましたが、国語は自分ではかなりヤバカッタのではなかったか
と思ったらしい。
下記、当時のわたしの日記です。

2004年9月12日(試験終了日)

もいける娘、本日でやっと一段落というところまでこぎつけました。
まだ結果がでるのが先ですから、落ち着かないと言えばそれもそうなのですが、
「果報は寝て待て」と言うからね。
なんとも、かなりポルトガル的気質の親子ではありますわ。(笑)

わたしも後2週間ほどで、まいりまするぞ~。
そろそろ旅支度をしなければ、と思いとりあえずもいける娘のために持って
行かなければならない物をザッと空き部屋のベッドの上に並べてみたら、
なんとまぁ、すでに山ではないの・・・

もいける娘のデカ靴、冬物、ミニミシンに裁縫箱?え?あの子、針など持った
ことあったっけ?
こ、これからお勉強する?わ、わかりもうした~(汗)
(一言付け加えておきますれば、ポルトガルの学校では、日本で言う家庭科
などないのであります。音楽もね、みんな個人での習い事になりまする)

ピアノの楽譜が、かなり重いぞよ・・・
ピアノなくて、どこで弾くつもりだべ・・・
ま、これはいいか。好きなものは弾けなくても側に置いておきたい。
なんとなく分かる気がしますれば(笑)

ネコも一匹持って来いなんて、バカなことを申しております。
頼むからそっちでノラネコなど、どうか拾ったりしませんように~~(懇願)


この頃には、結果発表の翌々日くらいの帰国切符をわたしは手にしていたのでした。
合否に拘わらず、妹宅を引き上げアパートを探すか、ポルトガルに帰ってくるか。
もいける娘にその意思はなく、合格しなかったらいかんせん、
と思いながらも、それを頭からひたすら追い払い、合否が分かるまでの
帰国
準備は少し辛いものがありました。

もいけるも落ち着けるわけはありません。
W大学がだめだったら、すぐ次の「最後のチャンス」に挑まなければなりません。
最初から三校しか受けない約束です。そして、最初に入ったところに行くことに
なっているのです。
        
W大学では二学部申請しましたから、後はもう一箇所、私立、もしくは国立。
国立となると受験は12月、1月、2月になりますから、長期戦です。
もう、代ゼミへ行って受験勉強などはできる余裕は全くなし!
妹宅での下宿も終わり、(こちらも受験生をもっていましたから)、一人都会で
苦戦することになります。

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2006年5月29日
palaciofreixo


土曜日の夜は、ネットで知り合ったゆきさん(HNきゃすさん)のお呼ばれで、
亭主と二人、彼女のお知り合いが働くという、クリエイティブ・レストラン
なるところで食事をして来ました。

クリエイティブ・・・・と、大分矯正できたとは言え、まだまだ好き嫌いの多い
わたしは、少々不安であったのでした(笑)
ところが、店内は黒作りでなかなかシック、お料理もサービスの赤ワインも
美味しかったこと!

万が一、自分が選んだ料理が食べれないことも計算に入れ(由紀さん、スンマセン^^;)、
無理を言って一口寿司を、と厚かましく注文までしていたのですが、その心配は
無用でした。

普段のわたしは、電話などでもそうですが、日本人の知り合いと話すことは、
あまりしません。
電話や女同士の会合でうっかり口にした事が、とんでもない形で放送されて(w)しまう
ことが何度かあり、元来が余り個人の噂話に興味のない人間ですから、ある時期から、
女性だけの会食は、お誘いがあっても断って来ました。

そういうわけですから、ゆきさんとの夕食は久しぶりの日本語でのお喋りでした。
8時半からの晩御飯、気がつくともう12時になっていました^^;

ゆきさん、お相手ご苦労さまでした^^
楽しかったわよ。今度はわたしがご招待しますね。

さて、観て来ましたよ、「ダヴィンチコード」。
亭主が、夕べ遅かったから別の日でも、なんて言うものですから、
「何言ってるの。来週は土曜日の結婚式出席で次の日はひっくり返って寝てるわよ。
その次の週なんて言ってたら終わってしまいます。行かないなら一人で行ってくる~」と
脅したら、ついてきました(笑)

本を読まないで観ると、宗教にあまり興味をもたないわたし達日本人には、ちょっと理解
するのが難しいでしょうね。
本を読みながら、更に言葉や歴史を調べながら読み進めて行ってわたしは楽しみました。

1980年代、当時のフランス大統領フランソワ・ミテランが造らせた、ルーブルのピラミッド。
これをニュースで目にしたときは、こんな由緒あるパリの美術館のまん前に、何ゆえ
こんなピラミッド型のものを、と驚いたことを覚えています。

その後ずっと、ルーブルの映像が出るたびにこのピラミッドには違和感を感じて
きたのですが、いや~、この本の著者、ダン・ブラウンの推理が本当だったら、まったく
面白い!
本を読んでいない人のために一言書きますが、ミテラン大統領は、スフィンクスとも呼ばれ
秘密結社のメンバーであったとの噂があるそうです。

ついでに、今日発見したのですが、坂本竜馬がフリーメイスンのメンバーだったなんて
みなさん知ってました?

わたしがルーブルを訪れたのは、1960年代も終わりころでした。
イギリスから飛んでパリ、ディジョンをほんの3日ほどの旅程。ルーブルはたったの一日
しかとれませんでしたが、「サモトラケのニケ」「モナリザ」はしっかり見てきたのでした。

わたしがもっとも目を奪われたのは、スーラーの「グランドジャットの日曜日の午後」
でした。
画面に点々と広がる青色に惹かれて、わたしはその前に置かれてある長椅子に腰掛けて、
心を奪われるように、しばし眺めたものです。

若いときにパリに憧れたものの、2度のフランスの空港で嫌な思いをして以来、
「もういい」と思っていたパリですが、ひょっとしたらもう一度行って見るかな^^

★今日の写真はPalacio do Freixo(フレイシュ宮殿)
 現在は閉鎖され、見学できない。
 
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2006年5月27日
フライパン

今日のトップ写真はフライパンです。  
いえいえ、これで亭主の頭をバコーン!なんて事は全く考えておりませんw

底がピッカピカのこのフライパン、
買ったのは3週間前です。つまり、まだピッカピカに保っておるのです。

これまで何度か、「絶対鍋底を油で黒くしないぞ!」と意気込んで
がんばったのですが、最後は哀れにも真っ黒け。

それで買い換えることになるのですが、前回はめずらしく3年ほど
もちました。
この鍋底をきれいに保つのになかなか苦労するのです^^;

油がこびりついて、そのこびりを更に火にかけるというのを繰り返す
のですから、洗う時段々惨めな気持ちになります^^;

最初のうちは、きれいにしようと、せっせ磨くのですが、我が家では
ほぼ毎日のように使用するフライパン、しんどいとか忙しいとかで、
ちょっと気を抜くと、あらよあらよと言う間に油汚れはこびりつきます。
このときになって磨くと、これはもう大変なことです。
 
「なんだ坂こんな坂、こんちきかん!」と力入れて必死で磨いても、そう簡単にこびりつきは落ちない・・・
とんと握力がなくなってしまった近頃は、こうなるともうお終いの
真っ黒クロスケまで直行(笑)
        
それでも、我が家は台所がIHクッキングヒーターになってからは、
随分楽になりました。
ガスで焼かれて油がこびりつくということがなくなったからです。
鍋の手入れもヒーターの手入れもとても楽です。

さて、何ゆえこうやって新鍋を写真に撮ってまで紹介するかといいますと、
怠け者のわたしのこと、「今回は鍋底を黒くしないぞ!」と公にしてしまえば、
せっせと磨いてピカピカが長持ちできるのではないかと(笑)

ポルトガルの主婦は、みなさん、どの鍋もせっせと磨いて常にピカピカにしておきます。
毎日使う鍋をそうやって手入れしておくと、気持ちよいことに変わりは
ありませんが、力がのぉ~~^^;ありませんわ・・・

皆さんはどんな方法でフライパンの鍋の手入れをしてますか?
いい方法があればご教示願いたい。

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2006年5月25日equipa das quinas(エキーパ・ダス・キーナス)

日に日に、ドイツ・ワールドカップの熱が高まりつつあります。 
日本はどうでしょうか。

我がポルトガルチームはブラジル人Scolari(スコラーリ)監督の下、
目下Alentejo(アレンテージュ)地方の中心地、エヴォラで合宿中。

Alentejoは「テージュ川の向こう」という意味です。
Tejo川はスペインからリスボンに流れ込み、そのまま大西洋に注ぎます。
その名もスペインではテージュ川からTajo(タホ)川と呼ばれます。

このテージュ川はAlentejo地方を通ってリスボンに入るのです。
この地方はスペインとの国境を横に控え、緩やかな平原が続き、オリーブ畑やコルクの
木の畑が延々と広がっています。

中心地Evoraは、ローマ時代に築かれた町で、ポルトガルの南部にある地方の
例に洩れず、後イスラム教徒の支配を受けています。
わたしもかつて、訪れたことがありますが、目がまぶしくなるような真っ白い家々が多く、
リスボンから北のコインブラ、ポルトを含む北部とは、まったく違った様相を見せます。

日本も同じ列島でも北と南は違いますが、ポルトガルの場合、その差はもっと
大きいでしょう。
AlentejoやAlgarveを訪れると、南部の受けたイスラム文化の影響を
ヒシと感じます。
mapa«portugal

上の図はポルトガル国ですが、青い部分がAlentejo地方で、地図には
ありませんが、その右側と上部はスペインの国境に接します。
 
 
さて、トピックのequipa das quinas(エキーパ・ダス・キーナス)ですが、
これは、ポルトガルチームの俗称です。
equipa=チーム、quinas=ポルトガルの紋章である5つの盾のことです。
これについては、後日詳しい説明をば。
5つのquinasはポルトガルの国旗にあり、ポルトガルチームの
ユニフォームの
胸にもついています。

ポルトガルチームの紹介です。
数字は背番号、マークしてあるのは期待される選手。大分贔屓が入ってます^^;)

 1-Ricardo             2-Paulo Ferreira
 3-Marco Caneira        4-Ricardo Cosat
 5-Fernado Meira        6-Costinha
 7-Ruis Figo            8-Petit
 9-Pauleta             10-Hugo Viana
 11-Simao Sabrosa       12-Quim
 13-Miguel             14-Nuno Valente
 15-Luis Boa Morte       16-icardo Carvalho
 17-Cristiano Ronaldo     18-Maniche
 19-Tiago             20-Deco 
 21-Nuno Gomes         22-Bruno Vale
 23-Helder Postiga

ワールドカップまであと14日、
Força Portugal!
頑張れ、日本!


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2006年5月24日
coreteinglese
    ★El Corte Ingles
昨日の午前中はデジカメ探検隊、行ってまいりました、ポルト初のデパート、
スペインからの「El Corte Ingres」

我が家の近くサン・ジュアン病院に車を乗り捨て、メトロで終点までおよそ15分。
降りたすぐ目の前です。
metro
     ★路上を走るメトロ内部
こう書くと、ポルトは世界遺産以外何もないように思われるでしょうが、
そんなことはない。
ポルトは、大型のショッピングセンターを近郊合わせて、6箇所も抱える。

ショッピングセンターの作りは地下が食料を中心に、その他諸々何でもございの
ハイパーマーケットになっている。 

一階二階に、ザラ、ベネトン、コルテフィエル等のたくさんの有名店、宝石店、本屋が、  
それぞれ仕切られて店を構えて建ち並ぶ。
上階は、巨大な映画館が10何室にもに区切られてさながら映画教室のように並ぶ。
そこには、マクドナルド、KFC等のファーストフードを始め、多くの食べ物やが
入り込み、さながら巨大な食堂である。

しかし、わたしに言わせると一つ難点がある。
テナントが全て若者向けであることだ。
自分の好みにあったデザインを探し出すのにかなり苦労する。

で、このコルト・イングレーズですが、気にいりました^^
若者向けと、大人の女性向け(^^)が、ちゃんとある!
日本にあるデパートと同じつくりで、仕切りがない分、スペースが広く感じられます。

ショッパナからつぶさに見ると後の楽しみがなくなるので、昨日はザ~ッとみたのですが、
ぬぬ?と一瞬目に付いた素敵なドレス^^
うわぁ~、これ、わたしの好みじゃん!どれどれ^^と思って手にとってのが運のつき・・・
買ってしまった^^;

殿方には興味がないでしょうが、ご夫人たちは、もしかしたら、どんなのどんなの?
とお知りにないたいと解釈して、(要は披露したいのだ^^)、
もいける娘にも見せろと頼まれていますので、この場を借りて(笑)

dress

↑こんなんです。うす~いモスグリーン。
      
来週結婚式があるし、えぇい!と思って奮発しました。
亭主に「結婚式に来ていくのなんだけど、買いましたね^^」と報告しましたら、
「あれ?この間、黒のレースのなんのと買ったんじゃなかったっけ?」
・・・・・・・・・・・・・
しっかり覚えてるヤン^^; 
    
う、うん、でもね、あれはポルトガル製、こっちはパリ製ですよ、パリ製。
さすがシックよ。
とかなんとか誤魔化しです^^;
    
裾ひきずらないかって?@@
放っといてくれぃ。
ほんとはワイン色が欲しかったのだ。
しかし、裾、完全にひきずるので泣く泣く諦めたのである。^^;
         
コルト・イングレーズの報告がいつの間にかドレスの話しになってしまいましたが、
スンマセン^^;

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2006年5月22日
igleja-misercordia
★ポルト旧市街にあるイタリア人建築家の作品・ミゼルコルディア教会

ポルトガルの統一試験概要の、公式英語翻訳を依頼するために、良心的な翻訳料の
ご自宅へ出かけた亭主、帰ってくるなり、
「君を知ってる人だったよ」
ええええ!

なんとまぁ、その当時から16年ほども昔、日本語をほんの2ヶ月ほど、手ほどき
したポルトガル人女性であった!
彼女はその後、数年岡山大学で勉強し、そこで出会った岡山大学の英語教授だった
イギリス人男性ジョンさんと結婚し、イギリスにしばらく滞在して現在はポルトに
住んでいる、とのこと。

あの頃、赤ん坊だったもいける娘が大学受験とは!と
16年ぶりの再会をわたしたちは喜び合い、翻訳が終わり、英国領事館から証明書を
出してもらった後、4人で食事をしたのでした。

ご主人のジョンさんは、日本に数年いたわりには、ほとんど日本語を話さず^^;
結局わたしたちの会話は英語で運ばれました。
我が亭主もジョンさんも、日本の話、ポルトガルの話に冗談を混ぜつつ花を
咲かせたのでした。

その時、ジョンさんが気になることを言いました・・・
「日本の大学で講義をして来たのだが、大学生の多くがクラスで居眠りをして
いるのだよ、君。あれはいったいどうしたの?ボクは意味がわかりません」
・・・・・
い、いえ、わたしだって意味がわかりませんわ

大学生のみなさん、なんででしょう?
わたしが学生だったら、時間の無駄!金の無駄!講師に対して誠に失礼な態度でも
あります。ジョンさん、わたしだってわかりませ~ん。

わたしが高校生の頃は、そんなことをしていたら、一発、バコーン!と
教師に
頭をぶんなぐられたものですばい・・・

もいけるよ、まさかオヌシ、そういうことをしてはおるまいの?

この時、わたしはその、昔の日本語生徒、Mさんと少し日本語で話してみました。
すると、彼女いわく、
「あなたの日本語はとても聞き取りやすくて、よくわかる。日本では誰もそんなふうに
話してくれなかった」・・・・・

わ、わたしの日本語は、もしかしたらもう普通の日本語ではないのか?
こういうセリフは、日本でも何度か言われ、ふと、自分は「浦島太郎」の
ような気がしないでもなかったのであります^^;

でも、きれいな日本語を耳にすると、気分いいものです^^
いえ、わたしは自分ではあまり意識していないつもりなのですが・・

お~っと、話がそれてしまいました(笑)

さて、その公式翻訳証明、Mさんとジョンさん二人の仕事なのですが、これを翻訳者が
直々に、登録している英国領事館へ持って行き、証明書を発行してもらいます。

この証明書、ばっちりと焼印を押してあり、簡単に開くことができないようになって
いました。
赤いきれいなリボンで翻訳書類をくくり、そのリボンの上に焼印です。

翻訳は統一試験概要のほか、ポルトガルの高校の成績証明書2通も入り、同じものを3通。
(3校までは受験してもいい、という約束でしたから)
占めて400ユーロ近く(6万円ほど)でした。
それでも、この二人はかなり安くしてくれたはずです。

こうして見ると、受験以前の諸経費として、渡航費、食費、ゼミ費、翻訳費、
通学費などなど、アラヨアラヨと言う間に、お札が飛んでいくのでした^^;

成績証明書にいたっても、こちらでは直接生徒が手にするものではないので、運悪く夏休み、
つまり、こちらでは学年末ということで、校長が休暇に入ってしまっては大変と、
何度も何度も念押しして、証明書をもらうために足を運びました。

こうして漸く用意できた証明書一式の3セット、これを娘宛に郵送し、
次回はいよいよ、願書の記入です!

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2006年5月21日
cominbriga

  ★写真はコニンブリガ焼と呼ばれるポルトガル独特の焼き物
   色は白地に青が基本。植物、鳥が描かれる


午後、突然息子から電話が入った。
いつの間にやら、ポルトから車では1時間ほど北へ上る、Braga市の近くの
Monte Alegre(モンテ・アレグル=幸せな山)という山間の町にいる^^;

今からリスボンへ帰る、途中ポルトで一緒に夕食をしたい、とのこと。
British school時代の1年上の友人の誕生パーティーが、
その山間の別荘であり、泊りがけで行って来たらしい。

「ほいほい」とポルトに到着するのを待っていたら、着いた息子、あらら、
あらま、4人組ではないの(笑)
みなリスボンから同乗してきた友人たち、近くにある毎土曜日に亭主と二人昼食する、
行きつけのレストランへ連れて行って来ました。

モンテ・アレグルは子供達がまだ小学生だったを遠い昔に、亭主の同僚の家族と一泊で
行ったことがあり、息子に聞くと覚えていました^^

さて、6人で食事中、話題がいつの間にか、日本のことになり、さすが若い子たち、
「もののけ」「千と千尋」「ハウルの歩く城」と宮崎駿のアニメから始まり、
少し古いドラマになるが、リチャード・チェンバレン、三船敏郎、島田陽子出演の「将軍」、
「ラスト・サムライ」から最近のハリウッド映画「さゆり」に話が及んだ。

この後、ブラジル移民の話から(ブラジルに戦前から移民として日本人が渡っていたことを
殆どのポルトガル人は知らない。彼らも初耳だったそうです)話題が展開、太平洋戦争に
行ってしまったのであります^^;

何ゆえ日本は戦争に突入してしまったのか。
日清戦争、ロシア戦争の二つの大戦で日本が勝利した歴史などは、ポルトガルの若者達は、
東洋の歴史でも学ばない限り知らないことが多い。

その辺りからの話は、いやいや、わたしのポルトガル語では、説明しきれるものではない^^;
ポルトガル語、英語、果ては日本語まで入れ混ぜ、今日は苦労しました。

でも、こと、こういう話に関しては、例えヘタクソな舌足らずのポルトガル語英語でも、
日頃自分がネットで拾い読みしている、日本の「教科書が書かない、教えない日本の歴史」
をもう一つの見方として、外国の人に聞いてもらえる機会です、逃がすものではありません。

どの程度理解してもらえたかな?
しかし、自分の国の歴史、特に戦前の歴史については、ある程度専門のポルトガル語力を
つけないとならぬ、と今日はつくづく感じたのでした。

勿論歴史感は人によって違うでしょう。歴史の真実は、一言でこれと言い切れない
ものです。過去の記録から、わたしたちは判断するわけですが、恐らくどの歴史にも
日の当たらない、隠された記録が絶対あるはずです。
そういう記録が、徐々に日の目を見ることにより、これまでの歴史観は覆されたりします。

わたしの話は、多々ある歴史観のひとつである、と付け加えることは忘れないように
しますが、こういう話に及ぶたびに、自分の語学力がないことに焦燥感を覚えてしまいます。

あぁぁ、もっと若い頭が欲しいなぁ^^;

はい、それで6人分しっかり払わされた亭主でありました(笑)

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2006年5月19日
clerigos
★今日の写真はポルトの象徴クレリゴス教会の塔

さよう、スペイン語であります。
Elは冠詞、Ingleseはイギリス、さて、Corteなのですが、カットとか布の断ち方の
意味があるようですから、訳は「英国スタイル」とでもなるのでしょうか@@

El Corte Ingleseとは、スペインの大手のデパートです。
マドリッド、バルセロナを始め、スペイン国内の都市ならたいていお目にかかれるデパート
です。
ポルトから北へ上るスペインとの国境になっているVigoの小さな町にもあり、日本食品が
手に入らない昔は、ポルトから車を飛ばすこと3時間。
ポルトに滞在する日本人は、わたしも含め、たいてい国境の検問所を通り、時々買い物に
でかけました。

当時は日本食品は乾物だけで、たいしたものは売っていませんでしたが、ポルトガルに
デパートはなく、少々物の値段は高いものの、小さなウサ晴らしをしてきたものです。^^

Vigoはまた、ポルトガル北部に住む、滞在期間(3ヶ月)が切れようとする外国人の、
一時出国の町でもありました。
パスポートを見せ検問所を通って、ポルトガルとスペインにかかる橋を渡ると国外に出たこと
になります。
そして再びポルトガルに入る、という具合です。

その「El Corte Inglese」が本日ポルトの対岸の町、ガイア市で今日オープン!先日わたしが、メトロで間違って反対方向へ行ってしまったという、あの線の延長に
あります。

ちょっとがんばって行こうと思い、亭主に夕べ話しましたら、
「大勢人が押し寄せるから、やめた方がいい。」
そこでバイトをすることになり、1ヶ月半研修をしていた、わたしの日本語の生徒、ルイス君
も、
「先生は、初日は来ないほうがいいですよ。」・・・・
「は」って、なんでんねん「は」って。ルイス君、日本語の「は」、ちゃんと知ってて使ってる
のよね?「は」が入るのと入らないのとでは、意味がslightly ちがうんやで~。

どういう意味かな、二人とも・・・
ぼけ~っとして、そそっかしいあんたはは、人ごみの中、やめとき~と言うのかい^^;

ちょっと用件があり、大阪出身の我が友に今朝電話を入れると、でない・・・
この時間はいるはずなのに。。もしや!と思ったら案の定(笑)
午後の電話で、「あんた!なんでけぇへんかったん!(こなかったのか、の意味)

こういうことは、いの一番に行かないと気がすまない彼女、店内をつぶさに見てきて、
報告してくれました(笑)
あれは、買わんほうがええ、買ってみたがまずかった、と食べ物の話から始まり、延々
ほぼ1時間^^;

品物はみないい値段がするものですが、目の保養にはなるでしょう。
明日は土曜日で仕事、週末で人も多いでしょうから、行きませんが、日曜日は定休
とのこと。

丁度いい。来週の月曜日のポルト探検は、El Corte Inglese!
これです!

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2006年5月18日
bugenbiria

       ★今年も咲き始めた我が家ベランダのブーゲンビリア

一週間ほど前ですがコメント欄に旅行関係ブログサイトから、お誘いがありました。

自分では気づかず、もいける娘が
「おっかさん、旅行社から目、つけられてるやん」
(なんちゅう言い草^^;面目ありません^^;)
と言われ、ぬぬ?と見てみると、ポルトに関するブログを書いてみませんか、
というような意味合いのお誘いでした。

いずれ公式サイトにする予定なのだそうですが、覗いて見ますと、ブロガーのみなさん、
勿論国内の人もいますが、海外からはキャリアを持って滞在してる方たちです。
いっかいの主婦とは目線が違うであろう。
そう思ったものの、ポルト、ポルトガルに焦点をあわせるものなら、過去に書いてきた
エッセイがけっこうあり、そういうのを載せられるかな?
それなら、種はあるぞ。^^

旅行関係の公式サイトともなれば、ポルトを訪れたいと考える人も訪問することになる。
日頃から、日本で出版されるヨーロッパ旅行のガイドブックを見ては、
「なんでポルトガルがたったの数ページなのよ。
これじゃ、見る所はリスボンしかないと思われる。」

スペイン・ポルトガル版にしても、まるでスペインにおアイソ程度にチョコッとひっついて
いるくらいにしか紹介されていない。

まてまて、わが国は、隣国の領土ではないのだぞ。
いえいえ、日本じゃなくて、ポルトガルのことですってばw

観光客が少ないからと言われればそれまでだが、
「エエところ、あるねんで~、知らんやろ。」と日頃、憤慨することが多いわたしです。

少し不安ではありましたが、思い切って2、3の質問をして見ました。
そうして返事待ち中に、ネット友のかんちがいさん

誰でも声をかけてもらえることではないし、一考の価値はあるのでは…?
やったらいいと思うけど。
 」

とのお言葉^^
うひょ~~^^かんちがいさん、ありがとう!
それですっかりその気になってしまい、(こういうのにすぐわたしは乗るのですよ^^;)、
本日、そのブログサイトでデビューを果たしました(笑)

STAY.JPさんのサイト

こちらサイトの左のメニュ欄ちと下から、わたしのページに入ることができます。
お時間のある方は、一度お越しください^^

「達人」の名に恥じないよう、今後も、ポルト・ズッコケ・デジカメ突撃隊、進んで参ります。

今日から3回ほどは続けて、テスト期間として、当ホームページの過去記事を焼き直しして
アップしますが、新しい記事も載せて行きますので、ポルト、ポルトガルに関する話題は、
あちらでもお楽しみいただけます。

あ、ブログページにあるポルトの写真は、我が老デジカメで撮った写真をアレンジして
いただきました^^
カメラが、いや、腕(というべきいか?)もっとよかったら、生き生きした画像になったんで
しょうが^^;その点はご勘弁を。

では、お時間のある方、あちらへも、どぞどぞ^^

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2006年5月17日(2)
        ★夕闇迫るポルトの町
noite

この数日、もいける娘の格安飛行機切符検索で時間をとられ、やっと一段落です。
8月初めには、2年ぶりに、彼女はポルトガルに帰国します。

ちょっと長かったかも知れません^^;

でも、最初が肝心。行って一年もしないうちに、帰ってきてしまったら、お軽い感覚のホーム・
シックでしかないでしょう。

共に暮らしてきた家族、お気に入りの猫たち、見慣れた町の光景。
どれもかれも、18年間、自分の身から切り離されることなく続いてきた生活の継続です。
住んでいる間は、欠点ばかりが目についたであろうポルトガル。
良きにつけ悪しきにつけ、自分を占める故郷の姿を少し分かり始めるのに、時間はかかる
ものです。

わたしの経験だと、アメリカに滞在した半年間は、当時の恋人であった亭主に逢うことが
できなかったのは、辛かったけれど、両親が、弘前が、大阪が、日本が恋しい、などと感じる
ことはなかった。
それを感じる間もなく、亭主のいる日本へ半年後には、移住の夢を中断、さっさと引き返した
のでした。

わたしが、生まれて初めて、「故郷」というより、「日本という国が恋しい」と言う感情を知った
のは、異郷の地ポルトガルに嫁ぎ、里帰りできなかった初めのほぼ3年の間のことです。
話せる言語は英語と日本語のみ、ポルトガル語は全く知らずに来ました。

ポルトガルでは今でこそ、他の英語圏外の国同様、英語が第二外国語になり、簡単な英語
であれば、なんとか通じるようになりましたが、今から27年前は、ドイツ語フランス語が第二
外国語であったをみても分かるように、英語が少々話せても、通じる相手は周囲にザラに
いたわけではありません。
ポルトでたった一人の日本人です、町を歩くと、すかさず「chinesa、chinesa」(=シネーザ・
中国人のこと)と指差され、それが「死ネー、死ネー」と聞こえたのには、こたえたものです(笑)

昨今のように、大学には外国人向けのポルトガル語コースもありませんでした。
自分が持ち込んだたった一冊のブラジルポルトガル語の文法本が、あっただけです。
それも、日本、ポルトガル、双方の国柄の余りの違いにすっかり意気消沈。
何年も何年もその本を使って独学することを怠惰してしまった、愚かな自分ではありました。

旅人である間は、一時しのぎの滞在である間は、そして、年に一度の割でせっせと帰国の
切符を手に入れている間は、「やっぱり自分の国が一番いい」と言う安堵感にかき消されて、
「ノスタルジア」という感情は、なかなか生まれてこないような気がします。
そんな感情を誰もが学ばなければならない、なんてことはないのですがね。

1歳半の息子を連れて一人、3年ぶりに日本の地を踏んだときは、誠に感無量でした。
機内から眼下に見える自分が生まれた国の地、飛行機が着陸する間、滂沱と涙が頬を
伝い、隠しようがなかったものです。
「わたしの国、これがわたしが生まれ育った国」
この言葉が頭をぐるぐる回って、湧き上がる感情をどうにも抑え切れなかったですね。

10年を一昔とすれば、あれから昔が三つ過ぎて行こうとしています。
ポルトでは、わたしは一番古い日本人で、その昔を知っている「生き字引」なんて言われたり
しますが、当時の昔を語ろうにも、昨今の若い人たちには、きっと興味のない迷惑な話に
なったりするでしょう。

ポルトガルの男性を夫に持つ若い日本女性も随分増えました。
「年に一度は日本へ里帰りさせてくれることを条件に」なんて話も聞いたりします。
それを羨ましいとは思わない、と言えば少々嘘になるけれども、今日のわたしを築いた
背景に、最初のちょっと辛かった3年間がチラリチラリと見え隠れする、これがわたしの
ポルトガル人生の始まりでした。

ブラジルに移民として船で渡った日本人や異国へ渡ったポルトガル人たちの「ノスタル
ジア」がわたしは今、分かるような気がする。
優しい記憶も苦い思い出も入り混じって、それらを超えたところに「郷愁」はある。

詩人星野富広さんがその花の詩集で言います。
引き返す距離が長いほど、力を蓄える波の激しさ
じっと我慢して久しぶりに帰る喜びは、きっと大きいでしょう。

今日は、娘の切符一段落で、遠い昔のことを思い出し、書いてみました。

そうそう、ポルトガル語では、「ノスタルジア」を
Saudade」(=サウダードゥ・やるせない思い、思い出)
と言います。

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2006年5月17日(1)

2004年8月に入ると、出願が始まります。

当初の志望校K.O.を始めW大学、R大学などを代ゼミで知り合った友達と見学した
もいける娘、突然「K.O.は辞めだ」と言う。

おいおい、娘よ、だいじょうぶかい^^;
しかし、気持ちが少し分からないでもない。素晴らしい奨学金制度が整っているのは
嬉しいのだが、ひとつ気になることがあった。
あの大学の中で、金欠病患者が卑屈にならずして、果たして四年間やっていけるか@@(笑)

それと、娘が望んだ福祉関係コースは、願書によくよく目を通してみると、K.Oでは
そのために高校時代で既にボランティア活動をしていなければならないようだ。
その種の活動は、ポルトガルでは残念なことに、全く一般化していないのであります。
British School時代、もいける娘、Brownies(ガールスカウトの類)に
所属して老人ホームを訪れたくらいである^^;

こりゃあかんで・・・筆記は通っても面接、推薦書類の段階で体験云々と質問されたら、
「体験はありません!でも、やってみたいのです!」といくら熱っぽく語ったとしても、
蹴られる可能性大いにありです。
そうと分かっていれば、35000円の受験料はもったいないぞ。
と、わたしも志望校変更に賛成。

残るは、吉本氏著「タダで大学を卒業させる法」のお薦め校、多種の奨学金制度に
於いてはK.O.肩を並べるW大学です。
ここにまっしぐら!と決めました。

さて、W大学の二学部に出願です。
この出願書類を取り揃えるのが、また一苦労でありました^^;
なにしろ日本とポルトガル。
あれがいる、これがいる、と気づいたところで、おいそれと準備ができないのです。

願書を取寄せて熟読、はて、ここで準備していなかった問題が生じたのであります。

出願書類に翻訳の必要なものあり」と書かれている・・・・

例えば、もいける娘の場合は英語圏ではないので、ポルトガルの大学入学資格と
される「統一試験の概要をオリジナルとともに、日本語訳も添付せよ」ということです。
「えぇぇ~、そんなぁ@@」
(これが英語圏なら翻訳など要らん^^;)のですよ)
国家統一試験のガイド小冊子、小っさな横文字がぎっしり並んで56ページも
あるねんで~~(^^;)
kikku-guia

国際電話で大学の事務局に問い合わせ、成績算出 方法に関する4ページで、
堪忍してもらいました。
 
自分でも翻訳できないことはないかな?とエラソーな事を危うくするところでしたが、
第六感が「止めとけ」と騒いだ(笑)

こういう場合の用語がありますしね、翻訳の仕事をしている日本人の知人に
依頼しました。

出来上がったところで、もう一度念入りに願書書類に項を読むと、ぬぬ?
翻訳には共機関からの翻訳証明も添付のこと」・・・・・・

つまり、誰でも彼でも日本語に訳せばいいと言うのではなくて、大使館、翻訳会社なりの
「翻訳が正しい」と証明するお墨付きがいるのです。
その証明書が出せるのは、大使館に登録している正規の翻訳者でなければならない。

これは、ポルトガルでは無理・・・くだんの知人も翻訳を仕事にしてはいますが、登録までは
していない。
東京にある「在日本ポルトガル大使館」に国際電話をし、ファックスで書類を送り、相談してみると、
するにはするが、日数がかかるとのこと・・・

早急にというのであれば、費用は上乗せだす^^;ただでさえ、安くないのに上乗せすると、
「1ページだいたい○○円です」・・・・たか~~!
いえいえ、結構毛だらけネコハイだらけ、とご辞退^^;

日本語訳にこだわらんでもいいではないか(笑)
英語圏だったらこんな苦労はしなくてすむということは、ポルトの英国領事館でも
できるのでは?と思いつき、さっそく問い合わせ。できますぞ~~。

英国領事館に、正規に登録しているポルトガル語英語の翻訳者のリストをもらい、
一人一人、電話で費用を尋ねまわります(笑)
一番安いとこ、見つかった!
ということで、その御仁のご自宅へ出かけるのですが~。
実はここで、アッと驚くことに!(笑)

次回に続きます^^

下がこの頃の我が日記です。



2004年8月10日(火曜日) 

我が家はただいま帰国子女受験一色。
願書記入にヘトヘトです。
娘のそばにいないものですから、毎日メッセでいろいろ連絡をとりながら
指示しているのですが、これがホント、疲れますわ^^;

書類にうるさい日本です、そういう現状を身をもってはまだ知らないもいける、
本人も受験勉強に加えて、これらもしなければならないもので、きっと大変でしょう。

のんびりしているところがありますので、わたしは「ガサついていないし、
ユーモアもあるし、この性格いいかな~」と思う一方、「そんなんでいいんかい!
受験はある意味戦争なのだ。相手が落ちるか自分が落ちるかじゃ!」と
つい叫びたい衝動にかられますです、ハイ^^;

で、それをある程度抑えてますのですが、言われました、彼女に。
「ログをよく読むと、なんか、おっかさん、すごくトゲついる・・・」

しっかり、ばれてました(笑)
と言う訳で、メッセ連絡、大学検索、願書書類取り揃え、下宿検索で、
 くたびれ果ててる毎日です^^;


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2006年5月15日

無事、日本にたどり着いた、もいける娘。
着いて間もなく始まった代々木ゼミナール(以後、代ゼミ)帰国大学受験コースは、
所沢にある我が妹宅から代々木まで、8月の終わり頃までのほぼ6週間、
毎日通うことになります。

帰国子女枠大学受験は、帰国子女が珍しかった一昔と違い、端が思うほど生易しい
ものではない。
文系の試験科目は、英語、ドイツ語、フランス語の中から一科目選択する外国語
(論文も含む)、国語(高3程度)、日本語での小論文、そして最後が面接です。

もいけるが通った代ゼミでは、受験国語、受験英語の基礎知識、現代文基礎読解、
小論文表現法、テーマ別小論文研究とその演習等等。彼女のコースは9時から12時半まで。
他に午後のコースもありますが、我が家は金欠病のため、午前中のみ(^^;)
仕上げで、面接演習もあります。
後日、娘が言うことには、「代ゼミのコースを取らなかったら、恐らく自分は
受験にパスしなかっただろう」
      下の写真は代ゼミのコース案内
yozemi

受験のノーハウは勿論ですが、世界中から帰国して集まる受験生の熱気に当てられる。
気合が入るという意味で、これはかなりプレッシャになると同時にやる気を
起させる環境に自らを投じることになります。
小論文は毎日のように書かされていましたが、この頃のもいけるはそれをむしろ
楽しんでいたように思います。
書くことによって、自分の考えをある程度、見極めることができます。

参考がてら、もいける娘の受講したコース、月曜日から金曜日、9時から12時20分
までの6週間で25万円なり。一番安いコースです(笑)

しかし、日本の大学受験のなんたるかを知らない受験生にとっては、代ゼミのコースは
多くのことを教えてくれたと思います。

娘の場合は、運がよかったこともあります。
ひとつには、我が妹が東京近辺に住んでいて、しかも代々木まで毎日なんとか
通える範囲に住居があったこと。
そして、受験結果がきちんと出る秋までの4ヶ月間、下宿代わりとして食費のみで
投宿できたこと。
これがなかったら・・・・夢実現への道のりは更に困難を呈していたことでしょう。

メッセンジャーで二人、小論文の課題について話したりすることも多く、思わず
知らず、おっかさんであるわたしも、学生気分になり熱くなったりしていました^^

そういう中でも、相変わらず下のようなアホをしっかりやってはいた、もいける娘では
あります(笑)

          
2004年8月1日の日記

もいけること我が娘、長年の夢をかなえての日本行き、今日でちょうど一月になります。
この2日間、メッセにあがって来ず、ん?と思っていましたら、やっとこちら
時間の午前10時ころ(日本時間午後6時)あがってまいりました。

こら、逃げるな~、と思っておりましたら、なんのことはない、日曜日だと
いうのに、本日はゼミでテストだったとか。
で、問題はテストでなくて、その後に起こったと・・・

ゼミで知り合った友達と、都内のW大学校舎を見学にいったのだそうで。
見学中トイレに入って、ぐるりと回って帰宅して、気がついた!

「これまでの勉強をしっかり整理したノート、トイレに置いてきたーーーー!」
・・・・・・・・
ここまでこのわたしに似ていたとは、なぐさめの言葉もありまへん・・・

で、どうなったかと言いますと、彼女のおばにあたる、わたしの妹がその
大学の緊急連絡先となる警備員に電話し、探してもらったとか・・・

このクソ暑いなか、ソコツものの見学者のために、あちこちのトイレを探し回り、
警備員さんもごくろうさまなことであります^^;

メッセで彼女と話している間に、警備員さんからノートが見つかったと電話が
入りましたです。

ったく・・・まちがってそのW大学に入学したら、あんたのことです、
きっとそういうことを度々やらかして、警備員さんのお世話になるに違いない。
明日、ノート受け取りに行くときは、ちゃんとお礼の箱菓子、持って行く
のよ~~~。
入学前からそんなことやってて、どうするんや~~~。

で、大学の感想は、
「うん。すごく広かった。人がほとんどいなかったし」
当たり前や、今日は日曜日だ~~~。

あぁ、先が思いやられそう^^;


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2006年5月14日
dijon

ここ数日、もいける娘夏の帰省格安切符を求めてネットサーフィン。
7、8月はさすが高い。
が、頭にくるのは、提示されている切符の値段を鵜呑みにすると、とんでもない
ということです。

よく読むと、成田空港使用料、現地空港税、航空保険料、更に燃料サーチャージetc.
と別途料金があること。
パリ空港税など2万以上です。なんだかんだと3万ほど結局上乗せになるの
でしょうか・・・

機内サービスも以前に比べて随分落ちました。
食事の回数がイヤと言うほどあったのが、メイン食は一食のみ。
後は軽食です。 
先ごろブルッセルへ行って来た亭主、アルコール類、食事は有料だよ、と
驚いてました。

こんなことをしていた今日、昔、ケンブリッジで一ヶ月語学勉強をしていたころ、
思い切ってロンドンからパリへと一人飛んだことがあったのを懐かしく思い出しました。
乗った飛行機はエール・フランス。
それでですね、あの広い機内に乗客はわたしも含めて10人もいませんでした。

日本からロンドンまでは語学研修のグループ旅行で、パリへ飛んだのが生まれて
初めての海外旅行一人旅。
緊張と不安でコチコチになっていました、わたし(w)

フランス人のとてもハンサムなエア・ホストが、何度もわたしの席まで来て、
キャンディをチョコレートをすすめるのです^^;
その度にわたしは、正しいかどうかも知らないのにメルスィはありがとうだからと、
「ノ、ノン・メルスィ・・・」^^;
しまいには、シャンペンを開けてくれましたw
そのシャンペンにも口をつけず、今から思えば、なんとももったいない話。

そうして着いた初めてのパリは当時、オルリー空港。
そっから豪腹にも、空港からタクシーでパリの街に入り、過分のチップを上げ^^;
それ故か、タクシーの運転手がフランス人には珍しくw親切にしてくれました(笑)

わずか数日の滞在でしたが、その間、パリから汽車で絵の勉強をしている友人の友人
が住む、ディジョンと言う小さな町まで行ったものでした。
当時のパリもロンドンも、日本からはまだまだ遠く、海外旅行は高値の花だった
時代でした。
その後再び二つの大都市を訪れる機会がありましたが、あの頃の雰囲気とは
すっかり違っていました。
それも当然の話です。
日本も豊かな国になり、世界は一般人の国際舞台となったのですからね。

ひなびた魅力を湛えてきたポルトガルも徐々に変わりつつあります。
ポルトガルがまだ日本の人達からすると、穴場なのは、日本からの直行便がない
ことだと思います。

例えリスボン空港からでも日本への直行便があれば、帰国はとても楽になるな、と
思いながらも心のどこかで、「そうならなくてもいいや」と、どっといつの間に
やら文明が(笑)、この国に押し寄せてくるのを、危惧しないでもない^^;
勝手なものですw
30年以上も前のパリ飛行を思い出して、「グローバル化」と言うのは、国事態の個性が
失われることでもあるかな?と、思ったのでした。
pari

↑パリーディジョン間の列車内で。

★上の写真は1960年代のディジョンの町
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2006年5月13日
どこの町内にでもいるであろう、良きに付け悪しきに付けご近所でなにかと評判に
なるお方。わが町では、ジョアキンおじさん、このお人がそれです。
sr.joaquim

な、なんだこりゃ?と言うなかれ(笑)
わたしはちゃんとおじさんの許可を得て、デジカメシャッターを押したのであります。
そしてまた、これが現在のポルトの町そのものだとも、夢思わないでいただきたい。

実はこれ、ジョアキンおじさんの、自分が支援する政党のキャンペーンなのでありまして。
わはははは。
    
更に付け加えれば、「汝、そのなりを見て、人を判断すべからず」。
    
このおじさん、ロバをひっぱってこういう格好をしているものの、この辺りの土地の
殆どを所有していて、大金持ちなのであります。
土地成金と言いましょうかw
上の写真に写っている通り、我が家が面しているのですが、この通りにも2件の
アパート、カフェを持っておりまして、なかなかの名士であります。

荷車につったててる、国旗も含めた種々の旗、選挙時ですとね、これにマイクつきの
ラジカセ積んで、演説込みで出かけていくのですw
朝一番小1時間ほど、商店街も含んだこの辺りをグルッと一回りして、
残飯を集め、帰ってくる。

普段は朝早くから、わたしたちがかつて住んでいた古~い家の丁度真裏にあたる、
ひろい畑で、このロバと一緒に畑仕事です。
ロバにはちゃんと名前もついていて、長年の相棒です。
もう働かなくたって一生遣いきれないほどのお金を持っていながら、昔と変わらぬ
野良仕事のこの格好で、昔と変わらず土を相手にジャガイモ、とうもろこし、菜種、
かぼちゃを作り、自分のカフェの前で、それを売ったりもする。
結構いい値段がするのです(笑)

この町に住み始めた頃は、気難しいおっさんと思っておりましたが、なんのなんの。
猫好きのわたしと子供達、ネコがきっかけで、話すようになりました。
実はジョアキンおじさんの畑、そして、ブタ小屋、餌小屋、これがネコだらけ
なのであります(笑)

いったい何十匹ひそんでいるのか、皆目見当もつきません。
このおじさんが、ロバを引き連れてくると、畑の向こうから、まぁ、出て来るわ来るわ。
餌をもらいにたくさんのネコが(爆)
いや、ほんとうに、その光景たるや、壮観たるものであります。

ジョアキンおじさんには、だれもが脱帽ですわ。

誤解を招いてはいけませんので、付け加えておきますが、今時、ポルトの街のど真ん中、
ロバを引き連れて車なんか屁のカッパ。
後ろの車のドライバーが、いまいましそうに苦虫つぶした顔していようが、平気の平左。
こういうことができるのは、ジョアキンおじさん、このお方を除いては、他に
誰もおりまへん。

お見事!

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2006年5月11日
long-goodbay

いえいえ、わたしがお別れするわけではありませんてば(笑)
この題、40代の人は無理かしら?
でも、50代以上の人は知ってるかもしれませんね^^

ハードボイルド作家、レイモンド・チャンドラーの本の一冊であり、ハンフリー・
ボガード主演で映画化もされています。
今日、こんな話をとりあげるのは、なんと言うことはない、本棚を整理していたら、
誠に懐かしいペーパーバックの古ぼけた本を手に取ってしまったことからです。
それが、中身は黄みみがかってしまっている、この「The Long Bood-bye」なのです。

高校時代は外国文学に夢中になりましたが、20代、わたしはハードボイルドに熱を
上げてしまったのでした。
この頃、我が憧れのヒーローは誰あろう、レイモンド・チャンドラーの作品の主人公、
私立探偵、「フィリップ・マーロー」なのであります。

本屋の本棚にならぶ本の背表紙を読みながら、偶然手にした一冊が、時には思いの外
面白くて、その作家に病みつきになったということは、みなさんにもあることでしょう。

管理人より:
書いた記事中に勘違いがあったようです。ただ今訂正中です。
ご指摘くださったsさん、ありがとうございます。
なお、釣りはわたしの趣味ではありません。



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2006年5月10日
ダウンタウンにある市場「ブリャオン」

ヤフージオの無料ホームページ、つまりわたしのこのHPです(笑)、写真をどんどん載せ
始めてから、規制の容量もどんどん減って行き、猫のページ、そしてこの間は自分の
木彫作品のページを、とりあえず泣く泣く削除・・・

「ジオプラス」に申し込むと容量がかなり増えるとのことですが、銀行口座を開かないと
いけない。 
海外に住むわたしは、日本に口座など不必要なわけで持っていません。
eバンクなるものもあるようですが、めんどうがりなのと、目の見えないところで
機械類を通してお金を動かすのが嫌いな古いタイプのわたし(笑)、そういうのには
手をださない。

結局、我がもいける娘にもうひとつ、ヤフー指定の銀行に口座を開いてもらう
ことにし依頼したのが・・・大分前です^^;

今日メッセンジャーで話したら、HP用の口座はとっくに開いてあるとのこと。
なんぼいれたの?と聞くと、

「え~っと、1万くらい今は入ってる。でも、最初は200円」
「え?」と、メッセンジャーに打ち出されているその数字を疑った。
「200円じゃなくて、20000円じゃないの?」
「いや、200円。銀行へ行ったその日、お金下ろすの忘れて、財布をみたら200円しか
なかった。1円からできますよ、って銀行の人、言ったし」
@@・・・・

もいけるよ、あんたはえらい!(爆

★今日の写真はポルトダウンタウンに古くからある公共市場、ブリャオン
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2006年5月9日

子の旅立ちというものは、親にとって嬉しいことでもあり同時に寂しいことでも
あります。

大学入学試験と言う、まだ大きな難関が控えているものの、とにかく「ポ国から日本へ行き、
大学入試を受ける」、ここまで漕ぎつけることができたのは、幸いなことでした。
この後、次々と襲い来る出費の嵐の前の静けさ(笑)。
もいける娘は8月の帰国子女受験に備えて、2004年7月からの6週間を、所沢の我が
妹宅から代々木ゼミナールへと通うのです。

うっかり合格してしまったとしたら、どうやって授業料生活費用をひねり出そうかと頭を絞り、
最終的には、もらえるかどうか分かりもしない大学の奨学金をしっかりアテにして、亭主の援助と
おっかさんの職場から得る謝礼をすべて回すことにしたのは、既に書いたとおりです。

そう決めた年の2003年の11月17日。この日はわたしの誕生日でした。
もいける娘からもらったのが下に掲げた写真です。
marianazaidan


Maiko Scholarship Foundation for the Eleders

Yuko S.C.Santos

 As you are recognized to be qualified as a student in
ability, talent and dignity, this certificate will
 guarantee full economical support from MSFE(Maiko
scholarship Foundation for the Elders) of your studing
in any Japanese University since the date of April the
1st of the year 2009.
                MSFE president:
                署名:m.m.s.c.s.
 November 17th, 2003


これは、娘からわたし宛の保証書であります。


「Yuko S.C.Santos 殿

あなたは、その能力と才能と品格に於いて、学生としての素質を認められるので、
2009年4月1日から、あなたの日本のいかなる大学での学業に於いてでも
全面的経済支援を、これは保証するものです。

MSFE(麻衣子老人支援財団)代表者」


と書かれています。

2009年4月と言えば、順調に行くと、もいける娘大学を卒業する春です。
わたしの援助と交代、今度は自分がおっかさんの長年の夢である、高等教育
の支援をする、と言う意味ですね^^

たかが一枚の紙切れと言うなかれ。
これは保証書であると同時に、うひひひひ、担保にもなるというとこまでは、娘、思い
至らなかったであろう(笑)
これが、大切なわたしの宝物であり、彼女の大きな置き土産であるのは、言うまでもございません。

2009年を目指し、おっかさんも体力作り、知能作りに精出さないと!
読書同様、勉強するということは、体力が要るのだと、近年悟ったのでした。

財団名に、「老人」と入れ込んであるところは気に食わんが、許して使わす。
もいける娘よ、グズグズしておられんぞ~。
保証書は、どっこい、生きている!わっはっはっは!

あれ?今気づいたけれど、2009年4月1日・・・・・
ま、まさか、もいけるよ・・・エイプリル・フールってオチでは・・・
ないよねぇ?^^;

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2006年5月8日

ドウロ川を挟んで、ポルト市側を「cais da Ribeira」(cais=波止場 ribeira=川岸)と呼び、
ガイア市の対岸を 「cais de Gaia」と呼びます。
ポルトの旧市街でも、わたしは特にこの川べりの景色に魅惑されて何度も訪れます。
古くからのポルトの人々の生活の匂いがします。
ribeira

最近、亭主の働くサン・ジュアン病院からポルト旧市街を通って、川にかかるドン・ルイス
一世橋を渡り、ガイア市に入るメトロが貫通しましたので、今日は、近くのサン・ジュアン病院
に車を乗り捨て、メトロでリベイラまで行ってきました。

このメトロの切符ですが、システムがややこしい^^;

一度買い求めてメトロに乗ったら終わり、と思い捨てていたら、とんでもない!
最初に買った切符は行き先までの料金に50セント(約75円)多く払うとこになっているのだ
そうです。
一度買ったその切符は、ボロボロになるまでずっと使うことになります。

つまり毎回切符を買わずして、一度入手した切符を機械に入れ、行き先を押すと料金が出る。
料金を入れると、またその切符を受け取り、メトロに乗る時は、マジックチェッカーに切符を
かざしてOK。メトロ駅改札はすべて無人です。
ズボラな人とか、すぐものを失くす人は、毎回切符を買う度に、50セント多く払うことになる
のですね(笑)
なんとまぁ、めんどくさい。

この切符「andante」(=アンダンテ)と言うのですが、今日病院の路上メトロ駅で世話好きな
おじさんに捕まり、(わたしはこういう日はツーリストに変装です^^みなさん、親切にして
くれますからw)、懇切丁寧にご講義いただきましたです。

「切符をこの機械に入れてみな。ほれ、画面に書いてるだろが。1時間以内だったら、行きの
料金でここまで帰って来れるぞ。1時間を過ぎたら帰りは同じ料金を払わないかんのだ。
わがったか?」^^
おじさん。。普通ツーリストは、ポルトガル語わからないんだど・・・^^;と思いながら、
「オブリガーダ!」と言ってメトロに乗りましたら、すぐ、
「どちらまで行くの?」と後ろから英語で女性に声をかけられました」
振り向くと親切そうな中年女性です。(わたしゃ、グラサンかけてますから、むこうには歳は
わからんでしょw)

「切符、大丈夫?ポルトの切符システムは、とてもややこしいの。
ほんとにもう、ポルトガルなんだから! リスボンはもっとシンプルなのよ」@@
おいおい、おばさん^^;
「Thank you~」と余計な事を言ったら、ここでもおっつかまってしまう。
さっさと別車両へ^^;外での人との交流も大事ですが、話をすると周りが見えなくなる
ものですから^^;

メトロは新しいのでとても乗り心地よし。半分は外を走るわけですからこれまた景色よしで
あっという間に、旧市街です。
もっと利用客があっていいと思ったのが意外でした。

1時間でダーッと歩いて帰るには、坂道もありますし、せっかく来たリベイラ、川べりに少し
座るなどしたら、無理です。
で、それは諦め、たかが85セント(約130円)、ゆっくりしてリベぶら(リベイラぶらつきw)、
帰途につきました。

旧市街のメトロ駅は地下に降ります。
ふむふむ。マジックチェッカーにかざしましたら、
「1時間はとっくに過ぎたから、もう一回金払え」と出ましたw
さっさとメトロに乗り、座るのをやめてつったっておりました。
するとすぐ外へ・・・・あれ?来た時は地下だったと思ったが・・・
ぬぬ?城壁ではないのん、これ?あったっけ?ポルトに・・ribeira-morro

途端に分かった!しまった!反対方向やんか~~~@@
ドン・ルイス一世橋を渡ってガイア市に入っちまった(笑)

降りた次の駅からの眺め、これまた絶景なり。
ribeira-metro


デジカメ探検隊、しっかりカメラに収めてきました。

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2006年5月7日
galo

ポルトガルの雄鶏「galo=ガロ」が世にでたのは、1966年にイギリスで
行われたワールドサッカーのイギリス対ポルトガル戦の準決勝の時であります。
このガロはポルトガルチームのマスコットとして登場、準決勝では惜しくも
イギリスに下され、三位に甘んじたのですが、それでもポルトガルが上位に
躍り出たのはこの時が初めて。
大喜びのポルトガルチームは会場でマスコットのガロを掲げ、以後、この
雄鶏はポルトガルの象徴となったのでした。
ちなみに、この時のワールドサッカーの得点王は、ポルトガル選手、Eusebio
(エウゼビウ)なのです。

このガロはポルトガルでは「真実の証、バルセロスの雄鶏」として知れらています。
バルセロスは地理上ではポルトの上部、ミーニュ地方にあり、当地ポルトの
サン・ベント駅から約1時間ほどでいくことができます。
「真実の証の雄鶏」には、昔から次のような伝説があります。

前回三度に渡って綴ってきたファティマ巡礼より、更に遡ること10世紀も昔、
巡礼の中心地と言えば、スペイン、ガリシア地方にある「サンチアゴ・デ・
コンポステラ」でした。
9世紀の初めに、キリスト12使徒の一人、聖ヤコブ(ポルトガル語スペイン語では
サン・チアゴ)の墓がここで発見され、以後聖地と定められました。
ファティマ巡礼同様、サンチアゴ巡礼も現代でも行われます。
わたしも一度、家族旅行で訪れたことがある地です。

さて、バルセロスは今でもそうですが、ポルトガルからサンチアゴ巡礼をする
時の中継地になり、この話は16世紀のこと。

ある日、この地に一人のガリシア人が通りかかり、宿をとります。
ちょうどこの当時、町では盗みが横行し、なかなか泥棒がつかまらない。
なんの因果でか、このガリシア人に容疑がかかり逮捕されます。
男は無実を訴えるのですが誰にも信じてもらえず、とうとう絞首刑を言い渡されます。

聞き届けられる最後の願いとして、男は自分にその判決を言い渡した裁判官を
訪ねたいと言います。
町の名士を集めて宴を開いていた裁判官に男は再度自分の無実を訴えますが、
居合わせた誰もがこれを聞いて信じはしませんでした。

テーブルの上に載せられている丸焼きの雄鶏のご馳走を目にした男は言います。
「明日の朝、刑に処せられる時、わたしの無実の証として、この丸焼きの
雄鶏が鳴きだすだろう」
これを聞いた人々は大笑いしますが、それでもその雄鶏の丸焼きのご馳走に
手をつけないで、明朝まで置いておくことにします。

翌朝、処刑の時間が来たとき突如として、テーブルに載っていたご馳走の雄鶏が
起き上がり、「コケコッコー!」と鳴いたのでありました。
裁判官は即座に男の無実を悟り、自分の判決を翻したのでした。

数年経ち、ガリシア人の男は再びバルセロスに立ち寄り、自分の信仰に応えてくれた
聖母マリアとサンチアゴを讃えるために十字架を掲げる石碑を建てたということです。
その石碑は現在もバルセロスの町に残っています。

と言う訳で、これがガロが「真実の証」と言われる所以なのですが、色鮮やかな
バルセロスのガロは、現在ではポルトガルの土産物屋では、飾り物、栓抜き、
テーブルセンター等等、色々なものにこのデザインが使われ、大小も様々です。

そうそう、日本では恐らく一箇所、このバルセロスの雄鶏の一番大きいのが、
所沢市小手指の北中小学校で、見られるはずです^^
なんとならば、我が息子がこちらの学校を少し早めに夏休みし(笑)、小学校
2年生の時に、北中小学校で約1ヶ月間、海外からの体験入学生として受け入れて
いただき、そのお礼にと、わたしが置いて来たものなのです^^

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2006年5月5日
★今日の写真は隣町へ、ナゾニ建築を追って見に行った農園の中に突っ立っていた門。
何の説明もなし。検索すれどひっかからず^^;
quinta-conceicao

同じ町ではないが、ポルトガルに来て以来、それこそ長男も生まれる以前から、機会あらば
会って話をし、また1年も2年も会わないで、それでいて付き合いが続いている友人が、
コインブラにいる。

わたしよりは少し年上なのだが、最近でこそ少し強硬なスケジュールを避けているようだが、
現役でガイドの仕事を引き受け、今でもポルトガルの国中を飛び回っている。
ポルトに仕事で来るときは、必ず電話が入り、わずかの時間ながら、我が家に来て一緒に
食事をする。
常々「あなた、体力があるわねぇ」と言って感心してきたのだが、その彼女、ここ数年は、
やはり、見た目にも疲れが出ている様子が伺えた。

1年ほど会っていなかったので、2,3日前に電話を入れてみた。
こういう時は、めったに会わない分、長電話になってしまう^^;

のんびり「我関せず」と、B型典型のわたしはひたすら、「我が道を行く」で、普段はしつこっく
お声でもかからない限り、自分から求めて同国人が集まる場所に顔出しすることはあまり
ない。
そんなわたしとは正反対、家にいるより外へ出ているほうが好きな彼女は、日本人社会に
関しては、かなりの情報を持っている。

久しぶりにした話の中で、心にひっかかってしまったことがあった。
「あなた、あの人知ってる?」
(聞くなって^^;わたしゃ、古株ではあるけれど、ポルトの人でも知らないのが多いのだ^^;)
話したがっている様子なので、ふむふむと聞いてみた。

ポルトガルの人と結婚した日本女性の話であった。

ご主人が数年前に亡くなり、落ち込んでしまい、現在はメンタルクリニックに入っている
のだそうだ。
くだんのコインブラの彼女は、面倒見がいいので2週間に一度くらいは、日本食を持って
行ったりしてクリニックを訪問している。

子供は?と聞くと、いるけれども結婚している。その結婚に本人は反対だったので、息子
夫婦とはうまくいっていない。
病が完治したわけではないが、強度の病気でもないので、いつまでも病院に置くことも
できない。
退院してくれと迫られているが、一人で生活するわけにはいかない。
しかし、上記の理由で息子は断り、引き取り手がない。

本人は日本へ行きたいらしく、母校の大学教授などに病院の不当な扱いなどを手紙に
書いたりしている様子(^^;)
日本でも誰も引き取り手が現れなくて、困ってるのよ。

日本で引き取り手がない、というのは、分かる。
異国に30年と住んで、母国に親もいなくなると、兄弟親戚は昔ならいざ知らず、つながりの
浅い現代では、日本に帰りたいからというわがままを引き受けないのは当然のことである。
(わたしもこれはしかと覚悟しているつもりではあるが・・・その境遇になってみないと
分からないことである)

それにしても、息子はちとひどいではないの。
諸々の事情はあるだろうが、たったひとりの母親、それも30年も住んだと言えども、異国は
いつまでたっても異国である、母親にどうせよというのだ。

つい先ごろ、異国で生き抜くには、孤独に耐えられる力、それをうまく交わしていくだけの
智恵が要る、と書いたばかりのわたしは、このようなケースを耳にして、身につまされる
思いがした。

わたしも含めてだが、職場の同僚達は相変わらず、自分よりも連れ合いが先に逝くものと
思って、そうなった暁にはこうしようああしようと、大笑いしながら話している^^;

おいおい、みんな・・・大丈夫?と思いながら、
大阪出身のかの友は、まず大丈夫でしょ。
板さんも、しっかり老後の青写真を描いて準備してるから、うん、大丈夫ね。
もう一人の同僚も、わたしより若いけれど、なかなかドライな考えの持主だし、シンが
強そうだ。

こうして考えていったら、あれ?自分は?
えええええ~、なんだかわたしが一番ダメそうではないのぉ・・・・・
はぁ・・・・

昔好きだった歌に、ジョルジュ・ムスタキの「Ma Solitude=わたしの孤独」と言うのが
あった。
わたしはこのLPをアメリカまでもって行き、そして今も手元に置いてある。

「わたしの孤独からたくさんのことを学んだ。
わたしは決して一人ぼっちじゃない、わたしの孤独と一緒だから」

子供たちが少しずつ自分の足で歩き始めると、徐々に自分に生きることが少し見え始める
ような気がする。
普段は気づかぬが、人に孤独は常に付きまとうものだとわたしは思っている。

くだんの女性は、どうしてこんな状況に陥ってしまったのか。
わたしには知る由もないが、その人の殺伐とした哀しみは、想像できる。
異国であれば、なおのこと。

どうかその人に優しい展開がありますように。


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2006年5月4日

2年前、2004年の6月の自分の日記を開いてみました。

もいける娘が統一試験を無事終えて、いよいよ本人に言わせれば、「やっとの帰国」(笑)、
わたしに言わせれば「とうとう日本へ」の準備に追われていた頃です。

日本での大学受験を大いに後押ししたものの、5月に入るとわたしは毎日のように、
知らず知らずうちに深い溜息をついていたようです。
それを見かねたもいける娘、

       娘「おっかさん、いっそのこと自分のホームページを立ち上げたら?」
おっかさん「簡単に言ってくれるけど、自慢じゃないが、ホムペのホも知らないのよ」
    娘「そんなことは知ってらぁい(笑)。だからわたしがポルトにいる間に、
      したらいい。教えてあげるから」


新しいことにすぐ夢中になり易いおっかさんの性格を知っていたのでしょうか、
はたまた、おっかさんを置いてけぼりにする後ろめたさがあったのでしょうか(笑)、
これは娘の気配りでした^^

そうして四苦八苦し、ヤフージオ、無料HP開設にやっとこぎつけたのでした。
この間、娘の試験勉強中に、おそるおそる何度おじゃましては、
   「コンコン。あのぉ~・・また分からないことが出てきましたんですけど^^;」
の繰り返しでした^^;
いったい娘の勉強が大事なのか、自分のHP作成が大事なのか(笑)

2004年6月18日、ホームページ、「お知らせ(1)」には

お待ちどうさまでした。ホームページ、やっと開設できました。
ここまで来るのに、ホントに苦労しました。
娘、もいけるの受験勉強をサポートするどころか、部屋に閉じこもって
勉強まっ最中の彼女に、「頭休めないの~~?」
なんてゴマカシながら、ホムペ作りお手伝いに誘導。(笑)
苦難の末の作品ですだ。


もいける娘日本出立のほぼ2週間前に完成した我がホームページではありました。

この頃、もいける娘、続けて二つの拾い物をし、置き土産ですばい^^;

6月20日/2004「また拾い物・・・」
    アパートの表ドアを閉めて外へ踏み出すと、先に出ていた亭主と娘・もいけるが
    ガレージの傍で何やら路上を見下ろしている。
    亭主の顔は心なしかちょいと不機嫌に見えた。

    ん?と思ってわたしも覗きに行ってみると、翼を傷めたのか、そこには一羽の
    白い鳩がうずくまっておりまして。

    そのまま放置しておくと、犬猫にヤラれますのは目に見えており、
    あ~ぁ、わたしと娘はとうとうそれを拾い上げてしまいました。

    「家のなかには置けないよ。」と亭主。当たり前でござんす。
    何しろ我が家には日がな一日、外出できないで狭い家でストレス発散に
    一日中悪さをしてるネコどもが6匹いるのでありまして。

    ホントに仕方なさそうに、亭主はとり合えずガレージに置いておくことを提案。
   
    つい3週間ばかり前にも、もいけるが子猫トラネコを拾ってきたばかりなのに、
    なんでまたもこういう拾い物の場面にでくわすんかなぁ・・・^^;
    周りには他の人もいるっていうのに・・・、

   6月29日/2004 「多忙中につき・・」

    ふつつかな娘がいよいよ日本を目指して旅立ちのため、準備で忙しく、ぼそ
    ぼそ言ってる暇もありませんでした。
    今日は、鳩の報告のみ残します。

    結局我が家に一週間居候したのですが、6匹もネコがいるので大変でしたわ・・・
    うちのねこたちが世話になっている動物病院へ持っていきましたら、鳥類は
    見ませんとのこと。
    で、その鳩、羽を痛めていただけではなくて、どうやら目に炎症をおこしていた
    らしく、両目が薄い膜でカバーされて目が見えないのでした・・・
    えさも食べず水も飲まずで、むりやりくちばしを押し開いて、いろいろなえさを
    押し込んでの荒療治(w)
    一週間後の金曜日に、動物園に電話をしてめんどうを見てもらうことになり、
    やっと一件落着。


7月2日(金曜日)/2004「もいける旅立ち後始末」
cais

 6月30日水曜日早朝の便、フランクフルト経由で日本へ向かった娘、もいける。
 この日はちょうど亭主の誕生日で、亭主いわく「what a nice present」と・・・^^;
 わたしはと言えば、一日中なんだかほんとに、海より深~いため息をついて
 おりました。

 しかししかし、こんなことでしょげてはいられませんわ。^^
 で、「さて。じゃ、ちょっとあの汚い部屋、少しづつなんとかしてみようか。」と思い立ち、
 とりあえず、散らばっているペーパー類を手当たり次第にくずかごに放り込んで
 おりました。

 「なんだ、こんなとこにまだわたしの使い古しの財布を置いてるわ。」と机の上に
 見つけたそれをいったんはくずかごに放り込んだものの、「ん?」と、何故だか
 気になり、念のためと中身をあらためましたらましたら~~~。

 おおおおおお!なんとまぁ、「福沢諭吉さん」が二枚入っているではないの!
 も、もうちょっとでこれ、捨ててしまうとこだったで・・・^^;
 この2万円、ここでは4万円の価値があるのよ~~~。ホクホクホク。

 もいけるめ、きっと今頃、家計簿の計算があわないでいるに、違うない。
 だまって懐にいれ、恩着せがましく「2万円余分に送金したわよ~~」
 くらいに言っとこうか。

 しかし、こういうことは黙っておられないタチでして、さっそくメッセで見つけた
 もいけるに話しましたら、
 「親譲りの天然ボケだ」と言下・・・

 トホホホ・・・


2004年6月30日、18歳のもいける娘は、ポルトのサ・カルネイロ空港を日本へ向けて
旅立って行ったのでありました見送って空港を後に、我が家へ走る車中、わたしたち夫婦がお互い何も言わずに、
ただひたすら娘を送り出した思いをじっと抱きしめてこらえていたのは、言うまでもありません。
口を開くと、どっと溢れくるであろうものを押さえるには、それが一番いい方法に思われたのでした。

★写真は日本へ発つ少し前、ドウロ川のほとりで。
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2006年5月3日

昨夜は亭主のお供で、ポルト市内にあるホテルで晩餐。
日本からのお客様も数人おりました。
しかし、こういうお付き合いも、少々疲れを感じるようになったのは体力の
なさかな^^;

さて、「フォトン・ベルト」と聞いてピンとくる人は、かなりの宇宙狂でしょう。

太陽系の中心「プレアデス星団(俗に言うスバル座)の近くにその存在を確認されたと
噂される、光エネルギーのベルト状のものです。
我らが太陽系は、このフォトン・ベルト(フォトン=光子)の中を出たり入ったりしていて、
その周期はおよそ2万4000年から2万6000年ほど!気が遠くなりそうな時間だ。

地球は1980年代後半にすでに数日間この領域に入り、年々このフォトン・ベルトに浸る
長くなり、やがて太陽は完全にこの中に入り、公転軌道を持つ地球は、その後も出たり
入っ足りして、2012年12月には完全に、フォトン・ベルトに入る、との記事・・・

ここでわたしは、あれれ~~?と。
2012年12月と言えば、有名な円形のマヤのカレンダーが、その日付で終わっている、
と言うのを読んだことがあるのです。
下がそのマヤのカレンダーです。我が家の本の表紙から
maya

これが、ファティマの奇跡、ルシア・コード(勝手にわたしが名づけてますわ。笑)
を検索していって、たどり着いたところです。

特殊な光エネルギーを持つフォトン・ベルトに近づくと、現在でも
地磁気の
減少がとりあげられ、危険が叫ばれてている地球にはさらに大きな影響を
及ぼすらしい。
異常気象や原因不明の体の変調などが例としてあげられています。

ポルトガルのファティマに於ける奇跡は、カトリック教世界では、今世紀最大の
幻視者出現の出来事です。
シスター・ルシアは、聖母マリアとの約束を守って、長い間「三つ目の秘密」を
口外しないで来たのですが、(予言のひとつは第一次世界大戦がまもなく終わるということ、
二つ目は第二次世界大戦の勃発)、第3の秘密をテキストにしたためるように、
との命がくだされます。
書き下ろすことを非常に恐れたシスター・ルシアの前に再び聖母マリアが出現し、
テキストを書く時期が来たことを知らせます。
テキストは、シスターの死後、もしくは1960年以前には開かないことを条件に、
封書されてファティマ大司教に手渡されます。

この時、シスター・ルシアは二種類のテキストを書いたと言われています。

ひとつは、公開を許されたテキスト。
これは、
   幻視を記述しているが、聖母の言葉は含まれていない。
   宛名がなく、シスターの署名がない。しかし、シスター・ルシアの
   帳面の記載として書かれてある。 
   1957年4月にバチカン聖省に移管され教皇ジョン・パウロ二世は
   1981年に読んだ。

もう一つあるといわれるテキスト。
   幻視の記述とともに、聖母マリアの言葉が含まれている。
   宛名書きがあり、シスターの署名がある。
   教皇のベッドの側の箱に保存された。
   1978年に教皇ジョン・パウロ二世は読み、1981年に教皇は世界を奉献した。 
 
教皇ジョン・パウロ二世は、これまでのどの教皇よりも精力的に世界中を駆け巡り
(その旅行距離は地球を数周した距離になる)、危険をおかして社会主義国まで
訪問し、世界の平和に貢献した人として知られています。

不治の病に冒されつつも、死の直前まで病をおして伝道を続ける姿に、宗教人と
してだけではなく、人間として深い感銘を受けたものです。
テレビに映し出される病をおしてのつらそうな姿を目にするたびに、
「こんなに深刻な状態になっているのに、なんで休まないのかなぁ。」と
不思議でしようがなかったのです。

が、シスター・ルシアの、「第三の秘密」を探って、目からウロコです。
公開されたテキストに書かれてあるシスターの幻視を読むと、これは一言で
アポカリプス(黙示録)終末記です。
法王のベッドの側にある箱は、法王のみ開けることができるものです。
この箱の中にあるテキストを読んで卒倒してしまった教皇もいるとのこと。
ジョン・パウロ二世がなんで休まないのかなぁ、と思ったものです。
死の間際まで使命を果たそうしたジョン・パウロ二世は、いったいなにを知っていたのか。

現法王であるベネディクト16世は果たして?
しかし、シスター・ルシアのしたためたこのテキストが公開されることは、
恐らくないでしょう。

「ローマ法王は111代しか続かない」という予言もあるようですが、故ジョン・
パウロ二世は110代目でした。
(この場合の「代」は、バチカンで450年もの長い間封印されてきた「マラキ預言書:
法王の予言」に書かれてある異名の112人の法王のリストの「代」による)

冒頭に上げたフォトン・ベルトと、聖書黙示録に書かれてある共通なことは、
「三日間の暗闇」です。

フォトン・ベルトの最初のゾーンに突入すると、電場、磁場、重力場はすべて変化し、
太陽も星も見えなくなり、機械装置もストップ。
このゾーン次元を通過するのに約72時間(3日)かかると書かれてあります。
そして、このフォトン・ベルトを地球が通過するのに、1000年とも2000年とも
言われています。

ルシア・コードに書かれてあるのは、これであろうか・・・@@


と言うことで、この数日間、検索しながら読みまくったものを、まとめてみましたが、
イスラム諸国の過激な思想と欧米の(キリスト教世界)衝突、さらにイスラエルも
絡み、世界の状況を見ていると、いつどんなことが起こっても不思議がない現代です。

社会でも、世界的に理解の出来ない事件や出来事が多く起きており、自分が
若いころにしてきたいろいろな失敗を棚に上げて言うのはなんですが、それでも、
なんでもありの世の中になってしまった現代社会には、やはり恐怖を覚え
ないわけには行きません。

これと言った特別の宗教には属していないわたしですが、しかし、常日頃から、
この世界には、人知を遥かにしのぐ偉大なる力があることを、拒否する者では
決してありません。
現代の社会を見ていると、旧約聖書にあるソドムとゴモラの町を思い描いてしまいます。

昨今の日本から流れて来るニュースにも、わたしには、「なんでやの?」と
理解に苦しむことが多く、何かが狂っているとわたしには見えます。
わたしたちは、自由、個性、平和の言葉に踊らされて、随分意外なところまで
来てしまったのではないか、との感が否めません。

恐怖のないところに信仰は生まれない。ゆえに宗教者は世の終末の恐怖を人々に
植え付け、教え説いて信者を募るのだ、との考えもありますが、歴史に目をむけると、
人間のしてきたことは、たいてい身勝手なことです。
そして、それは、環境汚染、人間汚染、核兵器保持等等、現在形で更に加速して進んで
いると思います。

ファティマの奇跡など、あまり興味のない人もいるでしょう。
実はわたしもそうだったのです^^;
しかし、「教皇やから、美しい衣装をつけ、たくさんに信者に囲まれてお祈りをし、
キリスト教世界の国々から敬われて、楽々の権力を得ていいだろうな」
との
それまでのわたしの印象をガラリと変えたのが、ジョン・パウロ二世の姿でした。

そのジョン・パウロ二世が、時々ファティマに姿を現していたことから、
シスター・ルシアの第三の秘密を知るにいたり、興味本位で今回こういうことを
調べてみたのですが、この世界に、一生を信義にかける人間が多々いるということは、
希望につながることなのではないかと、不信心なわたしが、今回考えさせられたことでした。

「ファティマの奇跡」を続けて辛抱強く読んでくださった方たち、おられましたら、
ありがとうございました。お疲れさまです!

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2006年5月1日
gato

♪だれかがこっそり 小路に木の実 うずめて~
の歌いだしで始まる、大好きなアニメーション^^
何度も飽きることなく我が家の子供たちと繰り返し繰り返し観たものです。

わたしも子供達も、気に入った映画は何度も観る、というマニアックなところが
ありまして、特に娘などは台詞をソラで言えるとこまで参ります^^;

さて、このアニメ、当初は時代が何時ごろなのか、などとは考えもしないで
観ておりました。
観ながら、さつきがメイを学校の教室の中で、自分のとなりの席に座らせながら
授業を受けている場面に出会った時は、思わず叫んだものです。

「あああ!ママもこれとおんなじことしたんだよ、小学校1年くらいのときに。」
そうです、まさにあれと同じシーンを遠い昔にわたしは実体験したのでした。

ところは郷里の、青森は弘前の下町にある城西小学校。
昭和20年代も終わりのころです。
こんなことを書いたら、年もすっかりバレてしまいますが、ま、
いいでしょう(笑)
あのころは、今の時代のように物が豊かではありませんでした。
白黒の、色も褪せがちになっている当時の写真を見ますと、すっかり両膝の出た
ズボンに、ツンツルてんのセーター。
履いてるものだって、靴ではなくゲタですわ(笑)

我が家は、下町の祖母の家に4世帯ほどが一緒になって住んでる大所帯。
子供の数だけでもわたしを筆頭に、妹従兄弟と合わせて5、6人。
それに大の大人が9人と、ただいま11人どころか、14、5人で、今思えば
食事時はいったいどうだったのでしょうかw

それでも、貧乏所帯でしたから、日中は祖母を始めとし、全員外へ働きに出て
おりましで、家の中は子供のみ。

わたしが小学校にあがったころは、独りにしておくこともできず、何度か
妹を学校に一緒に連れていったことがあります。
妹は、このアニメと同じように、わたしの隣に座って静かに絵を描いておりました。
その絵がまた、上手いのですね^^で、先生がほめるわけです。

今そんなことは、とても許されないでしょうね。
学校も部外者は簡単に構内に入れないでしょうし、父母から一言二言どころでは
済まないでしょう^^;しかし、あの子供の頃、わたしはトトロの中の同じ
出来事を実際に経験した一人なのですね。

そう思いながらジブリのホームページで見ましたら、やはりあれは、昭和30年
ころのことなのだそうです。
         
日本が貧しくても鷹揚な教育観念を、学校も周りの大人も持っていた時代
だったのではと、今ふっと思ったりします。
「あの子がいると、他の子の足をひっぱる」だののような言葉は思いつきもしない時代。
できる子もできない子も、豊かな子も貧しい子も、みんな一緒に交じり合って、
それがごくごく普通の学校生活だった時代。

あのアニメが、わたしのような大人も観れる、というのは、ただ懐かしい
からだけではないでしょう。
現代社会が失ってしまった鷹揚さ、人間としての基本的な生活の芯がうかがわれる
からではないのかと、わたしは思っています。

最後になりますが、わたしの隣に座って絵を描いていた妹、今でも絵が好きで、
趣味で友禅染から始まって、現在は日本画を学んでいます^^
そして、これもまた、とても不思議な偶然ですが、所沢に住んでいるのですね^^

車でものの10分もしないで、「トトロの森」に行けます。

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2006年4月30日
fatima1

1917年5月13日昼過ぎ、当時はだだっ広い単なる小さな農村であったファティマの
Cova da Iriaで、羊飼いをしていた3人の子供、ルシア(10歳)と
その従兄弟に当たる、フランシスコ(9歳)、ジャスィンタ(7歳)が、遊びながら
石を拾い集めて積み立てた小さな
石の家の前で祈りを捧げていると、突然眩しい雷光が空から差して来ました。
     
それを見た3人は怖くなり、急いで野原を降りて家へ帰ろうとしたところ、
その道のすぐ下で再びパッと光が落ち、辺りを照らしました。
見ると、
小さな木の側に、白い数珠を手にした太陽よりも明るく光り輝く夫人の姿が、
そこにありました。
     
光り輝く夫人は3人の子供達に、「以後、5ヶ月の間、毎月13日のこの時間に
この場所に来るように」と告げました。
こうして、6月、7月、9月、10月の13日、同じ時間に光り輝く夫人は現れました。
8月13日が抜けているのは、この噂が町中に広まり、3人の子供は、この日、
首都オレンま尋問されるのため、連れて行かれ、約束の場所へ行くことができ
なかったからです。
光り輝く夫人はこの日、500m離れたValinhosと言う場所に姿を現しました。

最後の10月13日の出現には、この噂を聞きつけて、人目これを見ようと7万人の人が
この場所にやってきました。
この日も3人の目の前に現れた光り輝く婦人は、自分はサンタ・マリアであることを告げ、
この場所に小さな教会を建てるようにと伝えました。

この日、集まった7万人の目撃者は言います。
太陽が不思議な輝き方をし、その太陽を直視しても目が焼けることはなかった。
その太陽はまるで銀の円盤のように天空を動き回り、聖母マリアとイエス、聖ヨセフ
(マリアの夫)の姿を映し出し、世界を祝福した、と。

この日、3人の子供達の後ろに控えて、この様子を見ていた人々の間には多くの奇跡が
起こったと言われ、このニュースはたちまち、国中の新聞で報道されたのでした。
     
この奇跡以来、世界中から人々がファティマに集まるようになり、現在に至って
いると言うわけです。

さて、実はこの話、これで終わりではないのです。
ファティマの奇跡には、もうひとつ、有名な「ファティマの三つの秘密」と
言うのがあります。

聖母マリアは、ポルトガル語では、「Nossa Senhora=ノッサ・セニョーラ」
(我らが母)と呼ばれるのですが、Bossa Senhoraは3人の牧童に
誰にも話してはいけない」という三つの秘密を打ち明けています。
     
そして、マリアがフランシスコとジャスィンタに、間もなく天国に行くでしょう
と告げたように、
二人は幼くして天に召されるのです。
3人の中で一番年長のルシアは、長じてシスターになりその一生を神に祈ることに捧げ、
2005年2月13日、97歳で生涯を閉じました。
現在はファティマに眠っています。
     
3人の子供の中では、ルシアが一番年長ですが、実際にマリアの話を聞くことが
できたのは、この10歳だったルシアだけで、他の二人は姿を見ただけでした。
シスター・ルシアは、「ファティマ唯一の生き残り幻視者」とも言われました。
     
聖母マリアから、「誰にも話してはいけない」といわれた、シスター・ルシアが
生涯胸に抱えた三つの秘密。
実はこれ、調べて見ると、とんでもなく面白いものになってしまいました^^

これは、「ダヴィンチ・コード」ならぬ、「シスター・ルシア・コード」になりそうです!

それでは、次回、お楽しみに!

★トップの写真はファティマ大寺院。
ファティマの幼い3人の牧童の幻視者fatima3

聖母マリアが出現したと言われる場所。約束どおり、ここにはカペラが
(小さな教会)が建てられている。
fatima2

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