2011年6月27日 

アルハンブラの記事を楽しみに当ブログにおいでの方、いま少しお待ち乞う。
ただ今整理中です。

24日、サン・ジュアン休日を利用して兼ねてから再訪したいと思っていた
トマールまで車を飛ばして行って来ました。片道2時間半の道程、この日の
気温は32度と急に暑くなり、前夜、サン・ジュアン祭で夜遅く街へ出たの
もあって、週末の土日はくたびれた。

トマールはリスボンを含む「Estremadura=Ribatejo」地方に入ります。
テージュ川(Rio Tejo)の支流ナバン川が流れます。

今回訪れたのは、この数年間でキリスト騎士団修道院(元はテンプル騎士団
修道院)の修繕に期待したのがひとつ。もう一つは、トマールで4年に一度
行われる「タブレイロス祭(Festa dos Tabuleiros)」、2011年がその年
にあたり、あと一週間後だというので、ひょっとしてその準備が見られない
かな?との思惑があったのでした。

tomar
しかし、残念ながら見られたのは通りの装飾旗のみ。トマールの街は昼休み
で、飲食店とTurismo(ツーリストオフィス)を除いてはどこも閉店でしんと
していました。

tomar
↑↓ツーリストオフィスで見かけたタブレイロスのデコレーション。
パンと花で美しく飾られています。町に入りしな、タブレイロスを頭上に
乗せて歩く練習をしている女性を見かけましたが、機会がまたあると
判断したのが間違いで撮影し逃し!
tomar

下は、間もなく開催される祭のポスター。
tomar
テンプル・キリスト騎士団の赤いシンボルマークがくっきりと。

tomar
建物のベランダにも同様に。


この日は先に修道院を回ったので、食事は院内のカフェで。

tomar
基礎建築をそのまま利用して改造した修道院内のカフェ。食べたのはタマゴ
料理のふんわりキッシュ。食後のコーヒーは町のカフェで。

そこで薦められたのが、トマールの伝統菓子「Fatias de Tomar(ファティアス
デ・トマール」↓
fatias de tomar
FatiasはFatiaの複数で、パン、チーズ、タルト、肉などの一切れの意味)。
タマゴの黄身を使ったデザート用のお菓子ですが、冷たいシロップがかかっ
ています。
ポルトガルは、アヴェイロ市のOvos Molesのようにタマゴの黄身をしっかり
利用したお菓子が多いのですが、トマールのこれは冷たいからでしょう、
甘さも強くなくさっぱりしていました。

本日は、肝心の目的だった修道院は後回しになり、食べ物の紹介でした。
次回はアルハンブラUP、頑張ります!

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2011年6月25日 

ポルトは週末を入れると23日木曜日から4連休です。

「ポルトは」と言うのは23日はCorpo de Deus(=聖体節)と言って、その
年によって変更する移動性祝日でしたが、24日はサン・ジュアン祭(聖ジ
ュアンはポルトの守護聖人)休日でポルト市の祝日です。

サン・ジュアン祭はリスボンのサント・アントニオ祭に匹敵するもので、前
夜祭の23日夜から24日明け方にかけての夜通しの祭で、盛大なパレード
はありませんが、市民自体が楽しむポルト独特の初夏の祭です。

昨日ブログにUPしようと思いながら、朝、やりかけたものの、日帰りの遠出
を予定していたもので、朝9時過ぎには自宅出発。とうとう更新に間に合わ
ず、祭りも終わった本日、遅まきながら紹介いたします。
これこそほんとの「後の祭り」だ

サン・ジュアン祭については既に何度も紹介してきましたので、祭の所以
等の詳しい情報は、ブログ最期に案内しますのでそちらでどうぞ。

saojoao
22日に、数日間の買出しによく行くハイパーマーケットで見かけたサン・
ジュアン祭に関連するイベント。例年は見かけないのですが、実は今年は、
サンジュアン祭百周年なのです。カップルが身に着けているのは北部の民族
衣装です。

それで、店内で小さいながらも音楽に併せてパレード。
saojoao

今年はその100年祭を記念して、サン・ジュアン祭にちなんだ市民の俳句
集が出されました。題して「O Livro do Sao Joao」

saojoao

23日の夜、わたしたちは近くに住む義兄にも声をかけてレストランへ今が
旬のSaldinha=サルディーニャ=イワシ)の炭焼きを食べに行きました。
saldinha
イワシは年中レストランのメニューにあるわけではないのですが、この日は
特別です。値段も普段の2、3倍に跳ね上がり、このレストランでは一尾が
1ユーロでした。旬とは言え、今年はどうも不漁のようで、あまり脂がのって
いませんでした。ポルトガルではこの上にオリーブ油をかけて食べるのが
通常です。わたしなどはお醤油が欲しいところですね^^

この後、3人で祭の中心になるリベイラ(ドウロ川沿い)へ出かけるのですが、
頑固な夫、わたしがダウンタウンは駐車する場所を探すのに苦労するから、
メトロで行こうというのを聞かず、車でのアクセスを断行!

案の定、ポルト市庁舎近辺は車侵入禁止であった(だから言ったやないの・・)
で、グルグルあちこち回り、やっと見つけた頃には、かなりの人出になって
おり、撮影に入るのも出るのもおいそれとは行きませんでした。

saojoao 042-1
ご存知、サン・ジュアン用のプラスティックのMartelo(=マルテーロ=かなづ
ち)こと、わたしが名づけてピコピコハンマー。今宵は無礼講で断り無く誰の
頭に下ろしてもよろしい。

saojoao-ribiera
リベイラ。ライトがまぶしい箇所はテレビの実況放送でステージが組まれ、
歌のイベントが行われているところ。この人並みをかき分けて横の路地へ侵入。
saojoao

狭い路地はたくさんの人の往来でイワシの炭焼きの煙と匂いで
サン・ジュアン祭一色。

saojoao

人をかきわけかきわけ入って行くと「せんせぇ!」とバッタリ出会った
かつての教え子たち。

saojoao
こんな時間に親同伴なしで出歩けるお年頃になったのだね^^

saojoao
リベイラはどこもかしこも空所という空所は人で埋まる。みな真夜中12時の
打ち上げ花火を見るためにこうして早めに陣取っているのです。

saojoao
彼方にはライトアップされた対岸ガイア市の「Serra do Pillar」が。

saojoao

暗い夜空に白く見える点は、サン・ジュアン祭のバルーンです。
市民があげる思い思いのバルーンはゆらゆらとポルト夜空を渡って行きます。
saojoao-balao saojoao-balao

花火が終わった後も若者たちは夜通し、祭を楽しむのですが、人ごみが苦手
なわたしは花火が打ち上げられる前には退散。いいリポーターとは言えず。
しかし、この日は翌日のトマール行きが控えておりましたし。

saojoao 038-1
路地に入り川沿いに出て一回りりし、再びステージのある広場に出たところ。
これを抜けるのに大分時間がかかりました。
この間、ピコピコハンマーでどれだけ叩かれたか・・・正気の人は加減する
ので問題なし。だが、少し酔った人にやられると、勢いで思い切り叩いてく
るので要注意!
saojoao 040

saojoan
リベイラから徒歩で車を駐車している場所まで来たところで、この教会でも
祝っているのでしょう、庭から美しい聖歌が流れて来ました。
リベイラとは対照的にな静寂さになんだかほっとした思いでした。

ついでに、サン・ジュアン(聖ジュアン)とはイエスに洗礼を授けた洗礼者
ヨハネのことで、イエスの弟子のヨハネとは別人。
有名な話に、ヘロデ王に踊りを披露したサロメがその褒美にと望んだヨハネ
の首がありますが、それが洗礼者ヨハネです。
洗礼者ヨハネはキリスト信者ではなく古代ユダヤ教の預言者ですから、カト
リック教からすると「異端者」になりますね。

前夜祭には「Fogueira(=焚き火) do Sao Joao」というのがあり、家の前や
通りの真ん中で火をたき、それを飛び越えるという習慣もあります。
saojoao-fogueira.jpg

近頃ではこの習慣はめっきり見かけなくなりましたが、昔、わたしがポルトに
来たころは義母の家のまん前で、近所の人たちがしていました。その火を奇数
で飛び越すと魔よけになると言われていました。
この習慣は古く北ヨーロッパ民族が夏至を祝ってしていた火祭りが起源になり、
まさしく異端教に属するイベントです。

註:【異端者】主にキリスト教会から政治的な目的で使用された、自然崇拝
主義者、多神教信者に対して用いられた言葉。異端についてはいずれ時間を
見て触れてみたいと思っています。

一見、キリスト教的な祭だと思われがちですが、意外や、このように神秘的
な部分があり、サン・ジュアン祭はまさに夏を迎える市民祭と言えましょう。
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テーマ:ポルトガル
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2011年6月22日

前回の続き、アルハンブラ宮殿はメスアールの間の絵タイルについてです。
画像をもう一度アップします。

アズレージュ
画像1

上記画像1の二本の柱とPLUS ULTRAとは?
 
15世紀末のグラナダ陥落後、アルハンブラ宮殿は城代に管理されていたが、
18世紀に入るとハプスブルグ家出身のカルロス一世(または神聖ローマ帝
国カール5世)が改築の手を加えたとされる。

特にメスアールの間の大部分はカルロス一世の命でキリスト教徒による改築
が大きいと言われる。室内の絵タイルもキリスト教徒の手によるとのこと。
さすれば、わたしの目を惹いた面白いシンボルもあろうというもの。

さて、大きな絵タイルの柱に巻くリボンに書かれた「PLUS ULTRA」とはどん
な意味なのか。

アルハンブラ
(wikiより)               

上の図は現在のスペインの国章。タイル絵、画像2と同様のシンボルであるこ
とから、スペイン国章は、このカルロス一世の紋章に基づく。

二本の柱は「ヘラクレスの柱」だ。
ヘラクレスとは、我が子を殺してしまった罪の償いでアポロンの信託を受け、
数々の冒険をすることになるギリシャ神話の英雄である。

次なる目的地ヘ向かうヘラクレスは現在のヨーロッパ大陸とアフリカ大陸を
つないでいたアトラス山(下図緑線が現在のアトラス山脈)を越えなければ
ならなかった。面倒になったヘラクレスは、そこで巨大なアトラス山を真っ
二つにすることにした。

そうして出来たのがジブラルタル海峡(下図赤丸)で、二つに分けられたヨ
ーロッパ側、ジブラルタルのRock ofGibraltarとアフリカ側の山(諸説あり)
が「ヘラクレスの柱」と呼ばれた。
アルハンブラ
(wikiより)

ヘラクレスの柱は古来から「Non Plus Ultra=ラテン語でこの先はなし」、
つまり「世界の果て」を意味しており、大航海時代の探検家たちが現れるま
で、古(いにしえ)から船乗りたちはその先を航海することを恐れ、避けた。

しかし、ポルトガル・スペインともに大航海時代が始まっていた16世紀、
スペインはカルロス一世を王に頂く。カルロス一世は同時に神聖ローマ帝
国のカール5世でもある。コロンブスが大西洋に乗り出し新大陸を発見した
のは15世紀も終わり頃。ヘラクレスの柱のNon Plus Ultraは既に意味を
なさず。

カルロス一世は古代からの警告を無視し否定語のNonを除いて「Plus Ultra
=更にもっと遠く」をモットーに、自分の紋章に用い、新世界を目指す冒険
者たちをも奨励することになる。

神話とは過去に繰り返し起こった人間界の出来事が言い伝えられてきたもう
ひとつの歴史ではないかとわたしは時々思うのだが、その仮定に立った上で、
ヘラクレスが面倒がらずにアトラス山を壊さないで越えていたらヨーロッパ
とアフリカ大陸は陸続きとなり、歴史はどのような展開を見せてくれただろ
うかと想像してみるのはちょっと面白い。

また、アルハンブラ宮殿を従来どおりに残さず改築してしまったのは、イス
ラム文化の美が失われ残念ではあるが、古きを破壊するのは勝者が常になす
ことである。

Non Plus UltraをPlus Ultraに変えてみたりのカルロス一世、そのモットーで
船乗りたちをそれまでの通念から開放し大航海へと出立させたのは、後世に
燦爛たる名前を残すことになるのではないかと多いに評価するわたしではあり
ます。蛇足ではあるが、このヘラクレスの柱の外側、つまりその向こうに幻の
大陸アトランティスがあったとは一つの説である。


画像2のシンボル

アズレージュ
画像2


これは「双頭の鷲」だ。

紋章「双頭の鷲」は東ローマ帝国、神聖ローマ帝国で使用され、ハプスブル
グ家の紋章にもなっている。先に触れたように、カルロス一世は「ハプスブ
ルグ家」の出。神聖ローマ皇帝としても在位し自らの紋章にもこれを用いた。

ハプスブルグ家は政略結婚による領土拡大を計り、中世から20世紀初期ま
で中央ヨーロッパにおいてその権勢を誇った。フランス革命でギロチンの露
と消えたマリー・アントワネットもハプスブルグ家一派の出身である。

このように、メスアールの間は、意外や、イスラム文化が施されているので
はなく、キリスト教徒に改築され、スペイン王カルロス一世のシンボルが埋
め込まれているというわけである。

情報については注意して書いているつもりですが、根がそそっかしい人間で
すので、どこか間違いがありましたらと、前もってお詫びしておきます。

次回は絵葉書にもなり、恐らくアルハンブラ宮殿として最もよく知られて
いるパテオの紹介です。

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2011年6月19日
アルハンブラ

グラナダ市内、アルバイシンの丘から眺めた、シェーラ・ネヴァダをバックに
するアルハンブ宮殿。アルハンブラとはアラビア語で「赤い城」を意味する。
城郭に使われた石壁が多量の赤鉄を含んでいたためで、アルバイシンの丘か
ら眺める夕日を浴びたアルハンブラは、えもいわれぬ美しさだと言われる。

筆者が眺めたのは午前中で、残念ながらその噂のアルハンブラを見ることは
できなかったがそれを抜いても上の写真に見られるように優雅で尊厳な姿だ。

イベリア半島の歴史は侵略の歴史とも言える。
古くからフェニキア人やギリシャ人、ケルト人、ローマ人、そして、4世紀
に始まったゲルマン民族大移動により、その一派の西ゴート族の侵入を受け
てきた。
     
8世紀に入ると北アフリカを経てイスラム教徒のムーア人(アラブ民族)が
イベリア半島を支配し、コルドバを首都とした。
当時にあって、コルドバは世界最大級の都市だったとされる。

キリスト教徒による「レコンキスタ=国土回復戦争」は、この頃から始まり
13世紀の半ばには半島南部を残すのみとなり、ポルトガル側のレコンキ
スタはほぼ終了する。
     
この間、内紛とテンプル騎士団からの圧迫で、小国家に分裂したイスラム
勢力は、1238年に首都をコルドバからグラナダへ遷都する。
こうして21人のアラブ王によって建築されたのがアルハンブラ宮殿だ。
     
1492年、スペインのフェルナンド王が9万の兵を率いてムーア人の最後
の砦であるグラナダを攻め、アルハンブラは無血開城される。
実質的なレコンキスタが終わるのはこの時で、まさに開始から800年の
後に完了することになる。
     
(メモ:西回り航海の案をポルトガル王室に否決され、失意のままリスボン
からスペインに向かったコロンブスが、スペイン王室の援助を得て航海に出
たのはこの頃である。既に大航海時代が始まっていたポルトガル、この時に
コロンブス航海の援助をしていたら世界の歴史は大きく変わっていただろう)

この様に、アラブ民族の長い支配を受けイスラム文化が席巻したのは西欧諸
国に於いて、ポルトガル、スペインだけであることを考えると、その特異性
から、「ピレネーから先はヨーロッパではない、アフリカだ。」とのナポレ
オンの言にもうなづけると言うもの。

メスアール
アルハンブラ宮殿の庭から眺められるシェーラ
・ネヴァダ。5月だと言うのに連なる峰は雪におおわれ真っ白だ。
     
下記、今回は日中に訪れたアルハンブラ宮殿の案内です。
     
アルハンブラ宮殿: 「メスアールの間」  
入り口から入る最初が、大理石の参議の部屋、「Mexuarの間」。 
        
メスアール
メスアールの間の横、細長い部屋。窓から見えるのはグラナダの街。
ここでは絵タイルこと、アズレージュに多いに興味を惹かれた。

azulejo-mexuar-1.jpg

上の写真の一部を拡大↓二本の柱にシンボルが見られる。

アズレージュ
         
ここにも面白いシンボルが。
アズレージュ

宮殿内のタイルは一件同じ模様のパターンの集まりのように見えるが、実は
どれ一つをとっても同じものはないと言われる。つまり、その場所にしか
はめることができないのである。

アズレージュ
              
うっかり光があたってしまったまま撮影してしまい、画像はいまいちだがご勘弁。
メスアールの間の壁タイルで一際大きく、目を惹いたのでカメラに納めた。
柱には「PLUS ULTRA」の文字が見える。
ここで、UPしながらふと考えた・・・
          
あれ?これらのタイルに描かれている文字はアラビア文字ではなくて
ローマ字ではないか?・・・・
アラビア文字でないのはおかしいじゃん!と言うので調べてみました。

さて、ここからはPotpourri(ポプリの意味)で余談で次回に案内。
Potpourriとは、わたしが記事をUPしながら、気が付いたこと、調べて知った
面白いことを時々載せているコーナーです。
          
では、みなさま、また明日。
今日もブブログを読んでいただき、ありがとうございます。

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2011年6月17日 

トマールのテンプル・キリスト騎士団修道院についてはしばらく前からご案内
していますが、聖堂が終わったところで内部についてはこれからということに
なりますが、どうしても再訪したいと思い、できれば来週、夫を説得して行っ
て来るつもりをしています。

夫、近頃忙しいのか、遠出するのがかったるいのか(年寄りめ!w)、どうも
腰が重い^^; そんなもので、先だってから、
「いいよ。あぁた行けなかったら、あたい独りで電車で行って来てやるぞ」
と誘い(誘いじゃなくて、そりゃ脅しだろ^^;)をかけているのですが、
夫、わたしが一人で遠出するのを好まないのでありまして、この手を使うと
まず95%がた成功でございます(笑)

ですので、テンプル・キリスト騎士団修道院内部のご案内は、もう少し増し
な撮影をして来るまで、お待ち乞う。

さて、ふと思い出したことがあるんです・・・・

昨春、堺に住む我が親友みちべぇと一緒に行こう!と長年夢見ていた我らが
約束の地「アルハンブラ宮殿」なのですが、ずっと待つこと30年。寄る年
波にはひょっとして勝てなくなるかも?と焦ったわたし、
「お~~い、みちべぇ。もう30年待ったぞ。この先、いつ何がおこるか分
からん年代に入り申す。先に行っとくぞ。」と許可を得て訪れてきたアンダ
ル地方の一週間、案の定、車での片道9時間は、きつかったのでありました。

コルドバの花祭りを始め、メスキータ、グラナダなどを既に旅行記として写
真ともども皆様には報告したのですが(こちらをクリック、もしくはブログ左
メニューのカテゴリ・アンダルシア
からどぞ)あれ?と思い出したの
は、肝心のアルハンブラ宮殿、アップしてない!

これもできるならば、先ごろ日本へ帰国してときにゲットしてきたデジカメ
で再撮影に出かけたりところですが、こればかりは、トマールのようにおい
それとは行きません。そこで、多少画像劣悪なのは我慢していただき、今日
は事始め「アルハンブラ宮殿(1)」と参ります。

アルハンブラ

多少マニアックなところがあるわたしは、アルハンブラ宮殿の昼と夜の顔が
みたいと言うので二度訪れて来ました。

しかし、日中は観光客が多くてどこもかしこも人だらけ。
なかなか思うように写真が撮れず、大変でした。夜は夜で城内はかなり明か
りを抑えているもので、こちらは我が稚拙な腕ではご推察通りの結果ではあ
りました。

画像を紹介しながら、わたしが興味を持ったことに絞って、勉強しながらアッ
プしていきますので、アルハンブラについては間をおきながらのシリーズに
なります。気長にお付き合いくださったら嬉しいです。

アルハンブラを訪れて、改めて「美しい」と思ったものひとつに、アラビア文字
があります。
アラビア文字

アラビア文字は右から左に横書きするそうですが、その他の細かいルールは
別にして、アルハンブラ宮殿内の売店で本を買ってきましたので、その中か
ら画像を載せてみます。

日本語を知らない外国人がウィンドーのディスプレイやTシャツのプリント等
で、よく鏡文字や逆さ文字などで使用していることがありますが、アラビア
文字も気をつけない、知らない者には上下左右が分からず気をつけなければ
なりません。間違いがあったらご連絡ください。

アラビア文字
これは古代アラブの諺だそうです。
「人は生まれ育った土地に属するのではなく、居を定めたところに
属するものだ」(英訳から)

アラビア文字
「Doubt is the first grade of conviction」

アラビア文字
これは詩の一節だそうです。その一行を繰り返しています。

アラビア文字
「The letter is a veil and the veil is a letter」

日本の「書」についての詳しいことは分かりませんが、こうして見るとアラ
ビア文字はどこかそれに通ずるような美しさがあるように思うのですが、どう
でしょうか。

生涯でわたしがアラブ圏の国を訪れることは恐らくないと思いますが、この
文字の美しさには惹かれるものがあります。また、写真で見る限りのモスク
の美しさも然り。
画像を整理しながら、これから異文化のアルハンブラ宮殿について少しずつ
調べて記録していくことのなるのですが、よろしかったらこのシリーズ、お
付き合いくださいませ。

本日はこれにて。
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2011年6月14日 

ジブリのアニメ映画「紅のブタ」挿入歌で、加藤登紀子さんが歌った「さく
らんぼの実る頃」はフランスのシャンソン「Le Temps des cerises=さくら
んぼの季節」が原題です。

昔からシャンソンが好きなのになぜかフランス語を学ぼうと思わなかったの
を自分でも不思議に思っているのですが、今の季節になると、わたしはこの
歌をよく思い出し、メロディーを口ずさみます。

日本では果物そのものが高くて、いちご、さくらんぼとなるとかなり高価な
果物の類になるのではないでしょうか。

さらんぼやいちごを好きなだけ思い切り食べられるようになったのはポルト
ガルに来てからです。日本にいたころのアパートでの独り暮らしではとても
手が届かないさくらんぼではありました。

そして、毎年、この時期になると、たくさんのさくらんぼを届けてくれる人が
いる幸運を喜んでいます。

今年もたくさんいただきました。
cereijas

わたしは黒いさくらんぼが好きですが、この種類も少し酸っぱくてなんだか遠
い昔の味がするような気がします。
さくらんぼはあまり長持ちしませんから、私たち夫婦二人だけのデザートでは
食べきれませんので、近所に住む義兄にも必ず届けます。ちょうどこれをいた
だいた時に、我が家で授業を受ける生徒さんがいれば、その生徒さんにも持っ
て帰ってもらったりします。

上の画像はいただいた大きな箱から既に小分けしたものですが、そうして分け
ていると、毎年のように手伝ってくれる?のがゴロー君です。
今回も来ました来ました。

ゴロー

そして、ほらね^^、こうして口にくわえては、どこぞへ運んで行くのです。
ゴロー

その結果、後は決まって、「おい、こんなところにさくらんぼだぞ」とあち
こちから夫の声が聞こえてくることになります。

下の画像もこの時期に出回る「Pessego Amarel=黄色い桃」。
pessego amarel

ひしゃげたその形が面白くて、昨年以来ファンになりました。
さくらんぼの季節の少し後、6月24日は、ポルトきってのサン・ジュアン
祭ですが、この頃からポルトの街のあちこちで祭のアイテムを見かけるよう
になります。

サン・ジュアンの頃と言えば、これなしでは始まらない鉢植え植物「マンジェ
リコ」。
マンジェリコ

このマンジェリコも我が家には、長年の友人及び日本語教室の生徒さんでも
あるマリアさんから届けられます。

毎年、サン・ジュアン祭の休日である24日当日に発表される、短いポエムの
コンテストがあるのですが、それらの詩がマンジェリコについていることが
あります。

さて、今回、マリアさんが選んでくれたマンジェリコにはこんな詩が。

「Sao Joao tu es do Porto     聖ジュアンよ、あんたはポルトの
 O meu Santo padoroeiro      守護神。あたしの守り神。
Vamos pedir ao governo       なら、政府にもっとお金をもたらして 
Que nos traga mais dinheiro」   くれるよう、一緒にたのもうよ


彼女とは日本語の勉強を放ったらかして時々政治談議に花咲かせることがあ
り、鉢植えをいただくと同時にこの詩を呼んで、マリアさんと大笑いしてい
たのでした。恋の歌が多いサン・ジュアンの詩ですが、経済危機と言われる
ポルトガルの昨今、こんな風に世相を表したものも出てきて当然でしょう。

loucas de barro
スーパーや街中の露天では、この手の焼き物が売られます。louca de barro
(=ロウサ・ド・バーロ。cの下にはポルトガル語のニョロマークことcidalha
マークが付く。値段も手ごろでポルトガル的。わたしは好きなのですが重い
のがたまに傷。)

そして、下はショッピングセンターで見かけた素敵なディスプレイ。
サン・ジュアン祭のアイテムであるマンジェリコと「恋人たちのハンカチ」
に使用されるデザインと北部の刺繍アイテムをあしらったテーブルクロスと
食器です。

vistaalegre

サン・ジュアンて?サン・ジュアン祭ってなに?という方は下記で案内
しておりますので、クリックしてどぞ。

サンン・ジュアン祭を見る

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2011年6月11日

夕月
夕月

今日は趣向を変えて、創立当時から22年間講師として携わって来、昨年1
年間のボランティア名誉校長職もこの春退いた補習校時代の思い出を紹介し
ます。題して、

「黄色いお化け」

引率する身は、事故がおこらないようにと気遣いでくたびれ果ててしまう修
学旅行も、子供達にとっては楽しみで仕方がないようだ。
   
わたしが職場とする小さな補習校は、今ではその行事も中止してしまったが、
数年前までは、毎年一度、小学1年生から全員希望者を引き連れて、ポルト
ガルのいろいろな町を一泊で訪れたものである。
その場所を選ぶのも楽ではない。

一般的な観光地はポルトガル滞在中に子供たちは親と行くことが多いので対
象外にする。とにかく子供達が日本へ帰国しても、「ポルトガルでのあの頃
は楽しかった」と記憶に残るような一泊旅行をと、わたしたちは案を練り、
準備として事前視察をしたものだ。

わたしは時々、我が妹に今回の旅行・運動会ではこんなことを計画してる、
あんなことをしてみる予定だと、メールなどで書いたものだ。
すると、夫が中学校の学校長をしている彼女、
「そんな面白い案はあんたでないと出ないね。今の日本の学校では、とて
もそんなことをさせてくれないよ。」とよく羨ましがられたものである。
   
今日あげる思い出話はそのひとつである。
   
ポルトガルにあるもうひとつの補習校と、一度だけ合同修学旅行を仕組んだ
ことがある。生徒数が総勢でも30名になるかならないかである。
行き先は両校の中間点に当たる海岸近くの、キャンプ場だ。
こんもりとした松林の中にバンガローがあり、その林を抜けきった向こうに
は海が開けている。
   
その日、わたしたち補習校のが練り上げたお楽しみは、題して「肝試し」。

参加できるのは、小学4年以上から最高学年の高校1年まで。
男女一組ずつが手をつないでその林を抜け切り、海辺に出たところで、そこ
に小さな模型の塔を立てて待っている先生の一人から、確かにそこへたどり
着いたという証拠のお札をもらって帰ってくるのである。

松林は夜になると灯りがないので真っ暗だ。
暗闇の松林のあちこちには、わたしたち大人が隠れていて、海辺に向かって
手をつないで歩いていく二人を「ヒュ~ドロドロ」と脅かすのである^^;

相手校の先生3人、それにわたしが木の陰に隠れて、やがてやってくるカッ
プルを待ちかまえている。(↑こういう役割はなぜだか、いつもわたしがす
る羽目になる^^;)
 
みんな特別の格好をして隠れるわけではないのに、わたしだけはどういう訳か
寸前に同僚から、
「これを着て隠れてよ」と手渡され、
「ほい、いいわよ」と調子よく受け取った、まっ黄色い雨合羽。着てみると、
「ちょっと長いじゃん、コレ。すそ引きずるし・・・」
「だ~いじょうぶ、だいじょうぶ。」
「そ、そう?」と少し気にはなったものの、そこが浅はかなわたし、黄色い
オバケよろしくそれをまとって松の木の陰にかがんで隠れていたのでした。
 
さて、向こうのバンガローがある松林の入り口のところでは、我が同僚I氏が、
カップルを組み合わせておりまするが、なかなかこちらへカップルがやって
来ない。
そのうち、キャーキャー、ガーガーと耳をつんざくような奇声が聞こえてきた。
かなりしつけの悪いのがいるようで、同僚のI氏、御しかねているようだ。

木の陰に隠れて、今か今かとかがんで待ち構えているのも楽なものではない。
「早よ、こ~い」と暗闇の中、気をもんでいるというのに、彼方の騒ぎは一
向に収まりそうもなく、他校の先生、誰も注意に行こうとはしない。

キャンプ場である。テントを張っている他のお客もいるはずだ。
少しぐらいの騒ぎなら子供のご愛嬌で済ませるものの、これは行き過ぎだ!
こういうのは、ガツンとやらないとダメなのである。
   
待ちくたびれたのと頭に来たのとで、わたしはやおら木の陰から飛び出して、
林道に一歩踏み出した。
とたん、ク●!雨合羽のすそを踏んづけてしまったではないか!
可愛い黄色いオバケは前につんのめり両手を突き出して地べたに転んだのだ。
(だから、だから、すそが長いって言ったのに・・・)
   
林道を挟んで向かいっかわに隠れていた相手校の幽霊先生が慌てて飛び出し
て来て、
「だいじょうぶですか?」と言う。
それを言うなら、もっと早く飛び出して来て、あっちをなんとかすれ~!

「ほっといてください!」と、恥ずかしいのと腹立ちとで、プンプンのプン!
顔には転んだ時につけた砂そのままに、雨合羽のすそを両手でたくし上げ、
怒りに任せて入り口へ向かいドンドン歩き、着くなり、

「おまえら、こぉらーーー!なにやってんだ!」
(スンマセン。とても女講師とは思えないようで。家で息子を怒鳴りつけて
る地が出てしまったのでした^^;)

聞くと他校の生徒の中に、I氏の言うことをなかなか聞かないのがいて、それ
にその取り巻きも加勢しての騒音である。  
「おっかさん、怒ると地声がドス効いててコワイわ」と我がモイケル娘も太
鼓判を押す大きな声に、相手校にはそんな柄の悪い先生がいないのであろう、
騒いでいた生徒たちが一瞬しーんとなった。
  
やっと騒ぎも収束したのだが、黄色いオバケのネタもばれ、木の陰から出て
林の中をフラフラユラユラ歩いても生徒たちからは「ちっとも恐くなぁい」
と言われ、ホンマ腹の立つこと。
   
しかし、子供達はとても面白かったらしく、特に「男女組み合わせで手をつ
なぐ」このルールが、人数の少ない学校にいて異性と接触する機会がない彼
らにとっては、後々の愉快な思い出になったようだ。

黄色いオバケは後になって転んだ時の痛みが両手足にズンときたのであった。
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テーマ:子育て・教育
ジャンル:学校・教育
2011年6月10日 
 
今日は「カモインスの日=Dia do Camoes・ポルトガルの日=Dia do Portuー
gal・共同体の日=Dia das Comunidades」」という祭日です。

長い名前です^^;初めは「カモインスの日」だったのですが、誰かは知り
ませんがこの日に便乗して、これもあれもというわけでいつの間にか長たら
しい名前の祝日になってしまったと言う^^;
oslusiados
我が家所蔵のカモインスの限定版叙事詩集「Os Lusiados」

ポルトガル人は別にして、「カモインス」って何よ?という方は多いと思い
ます。15世紀のポルトガルの国民詩人ルイス・ドゥ・カモインスのことで、
15世紀と言えばポルトガルの大航海時代が始まる世紀です。既に過去記事
で何度か取り上げて来ましたので、興味のある方は下記の案内からどうぞ。

さて、今年はポルトガル語の勉強に少し本腰を入れて見ようとは年初めに決
めたことでありました。

そこで、昨年日葡修好150周年を記念してポルトで行われたJapan Weekの
仕事のため、長らく休んでいたポルトガル語レッスンを先生に無理矢理お願
いして週に一度、日本語教室の合間を縫って再開したのですが・・・

それがずるずると、日本語教室が忙しいのなんのと言っているうちに日本滞
在になり、ポルトガル語を習っているディアス先生には、「帰ってきてから
まじめにやりんす」なんて言ってごまかしたのですが、今月からいよいよ、
再再会であります。

先日、午後の日本語レッスンが急にキャンセルになり、それなら丁度いいと、
これまではざっと内容を読んで、言うなればハショッた予習をして行くのを、
じっくり取り組んでみました。

わたしが現在使っているのは読解力テキストで一番最後のレベルです。
今回のテキストは「リスボンのシンボル」と言うではないですか。
ありゃりゃ、こりゃシンボルずくめであります(笑)

わたしの学習の仕方というのは、語彙を日本語で知ればそれでいい、で、終
わらないのがキズ^^;
文化・習慣を異にする外国語の語彙はきちんと知ろうとすれば時間がかかる
ものです。

まして、わたしなどは、
「そういえば、これに関連したあれがあったんでは?あれはどういう関係が
あるのだ?」とか「ふむふむ。待てよ、あれとこれとは関係ないんだろか?」
と、ひとつを調べているうちにどんど知りたいことが広がり、仕舞いには
一体最初は何を知りたかったんだったっけ?てな具合に、度々なるのであり
ます。

よく言えば「好奇心旺盛」、別の面からすれば「能率が悪い、埒があかない・
ぐずぐず」学習というわけです。飲み込みも悪いしね^^;

しかし、今回は、こと自分の好きなシンボルに関してであり、漢検受験勉強
以来、一日で2時間もテキストの予習で机、辞書にかじりつく、という珍し
いことをやりました。

この辞書にしても、欲しいにも、現時点では日葡、葡日ともにちゃんとした
辞書が未だない。わたしが持っている辞書はといえば、ホンの基礎的な語彙
しか掲載されていないハンディな、しかも日葡葡日両方の辞書です。

これではとても間に合わず、通常使う辞書は葡葡辞書、つまりポルトガル国
語の辞書です。ところが哀しいかな、実力不足でそれではどうもよく分から
ないことが多い。そこで、最後は「葡英辞書」のお出ましです。

これじゃぁ時間がかかるはずです、しっかり予習しようとすれば(笑)

さて、前日が2時間の予習、それに当日ももう一度リーディングと、普段し
ない予習がバッチリできたもので、
「よし、来い!」てな具合でDias先生のお宅まで車を飛ばしました。
10分ほど遅刻です!慌てふためいて先生のお宅のブザーを押しました。

が、いつもならすぐ自動ドアが開くのにその日に限ってなかなか開かない。
すると、家の二階の窓からDias先生の奥さんが顔を出し、
「ちょっと待ってね。今行きます」と言う。
こんなことは一度もなかった・・・

ドアが開き「すみません。ちょっと遅くなりました!」と言うと、Dias先生
の奥さん、「あら、ドナ・ユーコ。授業は3時半ではありませんでしたか?」
と言う。
「はい、その通りで。で、わたくしそれに10分遅れまして」と自分の腕時
計に目をやると、ギャフン! 二、二時半じゃん!
意気揚々とでかけたわいいが、1時間自分が早いんじゃん!

と言うので、奥さん、エスプレッソを飲みに行かれたDias先生を近所のカフ
ェまで迎えに行き、早めの授業で終わりはいつもの時間に^^;
得をしたような申し訳ないような。オホホ。

下記、今回わたしが真面目に取り組んだトピックを、それこそハショッて
ご案内。自分のメモでもあります。


画像はリスボン市の紋章(ポルトガル語でBrasao)
brasao_lisboa

小さな帆掛け舟に二羽のカラスです。 
こういうのを見ると、何ゆえカラスが二羽?とわたしならずとも思うことで
しょう。この紋章のシンボルの由来を学習したのでした。

このシンボルはスペインの「聖ヴィンセント」(ポルトガル語ではサン・
ヴィセント」を讃えて作られたと言われます。

時代は遡り、4世紀。スペイン、サラゴーサのヴィンセント修道者は当時イ
ベリア半島を占領していたローマ帝国のキリスト教徒迫害において、スペイン
バレンサで殉死。その後、遺体はサグレス(ポルトガル)に運ばれるも途中で
船は沈没。

アラブ人がイベリア半島南部に侵入していた8世紀に、サグレスの近くで遺
体が発見され、ヴィジゴードスたちにより、サグレスの近く、現在の「サン・
ヴィセント岬」の洞穴に秘密裏に隠されていた。
註:Visigodos=西ゴート人。ゲルマン民族の一族。5世紀から7世紀にか
けてフランス、イベリア半島北部で王国を作っていた。
←ポルトガル人には
この血も流れているのでは?)

レコンキスタの戦もいよいよ南下していた12世紀、後のポルトガル国初代
王ドン・アフォンソ・エンリケス(エンリケ航海王子とは別人)は、アラブ
人とのリスボンでの戦で勝利を授けてくれたら、遺体を捜し出し教会に祀る
と、聖ヴィセントに誓いを立てます。

勝利を納めたドン・アフォンソ・エンリケスは約束どおリスボンに教会を建
て、ヴィジドードスたちが隠していた聖ヴィセントの遺体を帆掛け舟でリス
ボンへ運ぶに及び、その舟に守るように付いてきたのが2羽のカラス。
聖ヴィセントは生前からカラスにえさをあげたりしており、カラスは遺体を
守ってきたと言われます。

以来、カラスはポルトガルでキリスト教徒へのよきメッセンジャー、また航
海の守護のシンボルとされました。

聖ヴィセントは現在でもリスボンの守護聖人であり、市の紋章にはそのシン
ボル、帆掛け舟と船首船尾にとまる二羽のカラスが描かれています。

ざっとこれがわたしが今回学習したことなのですが、記事内の赤字の言葉
かなり手間取り、Dias先生に教わることになったのでした。先生は若かりし
頃、神学を学んだ方です。
特に「修道者」については、いまいち意味がつかめず、先生の説明でやっと
理解できました。

カトリック僧の地位順は下から修道士(助祭。神父の手伝い。結婚可)→
神父→僧会会員→大主教→司教→枢機卿(ローマ法王の最高顧問)→法王と
なり、聖ヴィセントはこの中の修道士だったとのこと。

カトリックでもないわたしがこんなことを学習して今語彙を覚えてもきっと
すぐ忘れてしまうこと、請け合いなのですが、この数日はこんなことをして
遊んでおり、ブログ放ったらかしだったのでした。

さてと、こうしてメモも取ったことだし、あ~あ、スッキリした!
え?みなさんはどうもいまいち、すっきりしない?ス、スミマセン^^;

本日は長い記事を読んでいただき、ありがとうございました。

なお、下記では「カモインス」について書いていますのでよろしかったら
お立ち寄りください。

ポルトガルよもやま話:ここに地尽き海はじまる

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テーマ:語学の勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2011年6月6日

本日はspacesisの勝手謎解きです。

現代に残される宗教のシンボルは、いったいどんな意味があるのか、由来は
何なのか。その中に隠された古(いにしえ)の賢者たちはメッセージを通し
て、現代人に、或いは彼らの子孫たちに何を訴えようとしているのか、と思
うと、わたしはそれらのシンボルに不思議な魅力を感じてワクワクしてきます。

テンプル・キリスト騎士団修道院、聖堂内で見かけたいくつかのシンボルを
取り上げて見ました。

今回は、わたしがゴチック建築シンボルの魅力にハマり出した初期の頃、
2007年の訪問からの画像です。見落として来たものはたくさんあります。
今夏、2011年中にこの修道院を再訪してじっくり見学して来るつもりで
いますが、本日はとりあえず4年前の感動と同時に、趣味の粋を出ないも
のではありますが、目に付いたシンボルの素人考察を述べてみたいと思いま
す。考えて推測するのは楽しいものです^^

templares
             
聖堂中心の天井にある金箔の天蓋。その中心には「XPS」とキリストの象徴文
字があります(ボケ画像、申し訳ない。堂内は撮影可ですしたが、暗い上に
フラッシュ禁止、おまけにわたしの当時所有のデジカメと撮影腕稚拙でまし
な画像ができなかったのでした)
   
「キリスト」の呼び名は「救世主」を意味するギリシャ語の「クリストス=
ΧΡΙΣΤΟΣ」に由来します。これから、「XP」「XPS」(←こちらはポ
ルトガル語式表示)、また単に「X」の文字はキリストの象徴文字になります。
                           
あれ?すると、おいおい「Windows XP」はいったい?と思い、早速検索(笑)
「Windows XPは「経験、体験」を意味するexperienceから由来する」なぁん
て書いてありますが、それなら素直に「Windows EX」でいいんじゃないの?

これって本来の「キリスト=救世主」の意味をもじってないかなぁ?なんて、
謎解きマニアのわたくしは、勘ぐったりするのでした(笑)

聖堂内の壁画にはたくさんのシンボルが紛れ込んでいるはずです。壁画画像
の多くは失敗で、今回はごく一部しか紹介できませんが、次回訪問時にはも
う少しいい撮影ができることを期待しています。
                              
charola-book4-2.jpg

聖堂の天井画。右端の絵に着眼↓
templares

柱上方には旧約聖書の創世記に出てくるはしごが描かれています。
このはしごは「ヤコブのはしご(Jacob's Ladder)」また「天使のはしご」と
呼ばれ、天使が地上と天国を行き来するのをヤコブが夢に見たことに由来し
ます。「はしご」は精神と肉体、真実の姿とエゴのコミュニケーションを表
す異端、錬金術のシンボルでもあります。
                
またわたしは時々見かけるのですが、太陽光線が雲の切れ間から帯状に指す
(薄明光線)自然現象を言います。             
     
聖堂横にあるのはミーティング・スペースか?  
templares

templares
天井から下がる鉛筆状のものは謎。伝達用のマイク?
   

テンプル騎士団の紋章                    
emplares
                          
「一頭の馬に乗る二人の騎士」はテンプル騎士団の紋章。
騎士団の特徴は修道士であると同時に戦士であった。このシンボルはその二
元性を表していると言われる。
紋章の起源説には、発足当時、騎士団は貧窮で各騎士が自分の馬を持てなか
ったことだとある。後に騎士団の規律で一頭に二人の乗馬は禁じられる。

次回は修道院内とこの寺院の目玉、マヌエル建築様式の大窓の紹介です。

本日もブログを読んでいたただきありがとうございます。
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テーマ:ポルトガル
ジャンル:海外情報
2011年6月4日 

早期退陣すると言った言わなかったのルーピー氏と菅氏の泥仕合には、あん
たらもうええ加減にせ!とクツでも投げつけてやりたい気持ちです。

してやられたルーピー氏も不信任案賛成を明言していたのに、事寸前に及ん
でやおら談合とやらに出かけ(そんなら明言する前にしろ!)、菅猫の首に
鈴をつけたつもりでいたのが、ふたを開けてみたら、あらまビックリ玉手箱!

ルーピー、小沢両氏を相手に菅氏がこういう狡猾な手を使えるのなら、是非
そういう手を隣国相手に駆使してもらえたら、いっぱしの政治屋になれる日
が来るかもよと思わず思わされた今回のどんでん返し。
何でもありの党、民主全体で打った大芝居だったとしても驚きはしません。

あ~ぁ、なんとかできないのかなぁ、このテイタラク!(怒)

こんな焦燥感が大きいときは、マーラーのアダージェットにでも耳を傾けな
がら心を沈め、子供たちとの昔のことにでも思いを馳せてみまひょ。

相変わらず家の中を整理しているわけですが、我が机の引き出しの奥からこ
んな懐かしいものが出てきました。

思い出カード
昔、「母の日」にモイケル娘からもらったカードです。

「あのね、お母ちゃん、言いたい事があるんだけど・・・」で始まる会話がモイ
ケルによって書かれています。
赤線が引かれている言葉は「メザ=ポルトガル語のテーブル」、「バタタ=同
じくポルトガル語でポテトチップス」、「フロア=英語で床」。

日本語での日常会話で無意識のうちにポルトガル語や英語がどうしても混じ
ってしまう当時の私たち家族のトライリンガル(三ヶ国語)状態が表れて
います。

母親のふきだしにあるように、子供たちにはそれぞれ家での役割がありま
した。 ネコのトイレ(砂)の片付け、食卓の準備と後片付け、自分が遊んだ
玩具の片付けもそうです。

「なぁ、なにかしら?」なんて優しそうに対応していますが、即、弾丸のように
母親の口をついてくる「その前にあれはしたの?これはしたの?」の決まり
文句

このカードをもらって読んだときは、子供の話に耳を傾けているようで実はそ
うでない日頃の自分の姿を見、ガツンの頭を殴れらた気がしたものです。
カードのウラはこうでした。

思い出カード

「努女・・・じゃなくて努力」の部分は、モイケルめ、漢字を書き間違ったもの
の、代わりのカードが無かったもので、そのまま誤魔化して(笑)

「このメッセージは一体母の日とどう関係するのだろう・・・と書いてから
思ったアホウな娘である。まぁ細かいこた~気にせんようにしませう
メッセージは赤字のとこでんがな(笑)

そんなわけで、このカードを自分への戒めのために今日まで取って来たの
ですが、今回の東京滞在中も、最初はともかく、そのうち掃除や洗濯、料
理について色々「ああしろこうしろ」と言って来ましたっけ。

さて、どうにもできない息子のものがあります。

エレキギター
エレキギターです。赤いのは中学生の時のクリスマスプレゼントにあげた
初めてのギターなのですが、これが高じて今にいたるとは思いもしませんで
した(笑)夫と時々話しています。「あの中学時代のエレキが間違いだった
かも^^;」と。

その他のギターは息子がリスボン大学で勉強していたころに自分で手に入れ
たものですが、ここにある3本の他にケースに入ったもう一本、加えてアコ
ースティックギターがあり、これらは恐らくずっと捨てられないんだろな。

エレキギター
こうしてモイケル娘の部屋まで侵入(笑い)

エレキギターからアコースティックギターへと移った頃は、片時もギターを
離さず日に4時間くらいは練習で弾いていたようです。帰省してくると結構
うるさいと思ったものでありました。黙ってたけど(笑)

触ってくれる主もおらず、ギターたちは狭い家の中を邪魔くさく陣取ってお
ります。息子よ、なんとかしておくれ。

こうしてみると、整理整理と言いながらも結局保管することになるものの方
が多いのですが、しかし、中にはこういうものもあり(笑)

スポチャン
スポチャンです。
ドラマ金八先生の中で使われているのを見て、特にモイケル娘が興味を持ち、
帰国したのを機に持って来、兄貴と二人、ボカンボカン遊んでいたのが、いつ
の間にか猫たちにやられ、無残な姿に(笑)

このスポチャンもうるさかったいい加減にせぇ~と何度思ったことだ
ろか。子供たちよ、これはさすがにもういいでしょ。おっかさんは整理しますぞ。

さて、本日の最後に、友人アーティスト・ちゅうさんのブログ案内です。
よく永田町のすったもんだをイラストでユーモアにコメントした記事が書か
れます。なかなか面白いと思います。過去記事にもユーモア記事たっぷりの
ものもありますので、是非一度お出かけしてみてください↓

ちゅうさんのブログ「ちゅうさんの日々是好日

それでは、みなさま、また明日。
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テーマ:海外で育児
ジャンル:育児
2011年6月3日

tomar-convento7-1.jpg
テンプル・キリスト騎士団修道院入り口

 テンプル騎士団(聖堂騎士団)について
              

聖堂騎士団(テンプル騎士団)にまつわる話はその結成から終焉に至るまで
ミステリーに満ちている。

聖堂騎士団は西欧中世期に於ける宗教三大騎士団の一つであり、正式名を
「キリストの清貧騎士団・ソロモン神殿の騎士団」(The Knights of the
Temple ・the Poor Soldiers of the Temple) と称される宗教的軍事的団体
です。(註:Templeとは古代エルサレムにソロモン王が建設し、後に破壊され
た神殿のこと)

solomontemple1-1.jpg
ソロモン神殿画像の一例。神殿正面の二本の柱は右がヤキン、左はボアズと
呼ばれ、フリーメーソンのシンボルでもある。


12世紀の初めにフランス人ベルナール・クレヴォー(後の聖ベルナール。
シトー会クレヴォー修道院の創立者。)により任命を受けたユーグ・ド・パ
イヤンをグランド・マスターとする9人(11人と言う説もある)からなるこ
の騎士団が後に聖堂騎士団として知られるようになります。

表向きは聖地エルサレムへの巡礼路警護としていましたが、彼らの行動はそ
の目的から逸脱しており、専ら彼らがしたことは、ソロモン神殿の跡地に宿
営して、9年近くもの時間を神殿の丘の地下発掘に費やたことだと言われます。
 
生涯独身であることを強いられた聖堂騎士団は、やがてフランスのプロヴァ
ンスを始め、シャンパーニュ、イングランド、トスカーナ(イタリア)、更
にアラゴン、ガリシア(スペイン)、スコットランド、ノルマンディ、ポル
トガルが騎士団勢力の主だった中心地となり、騎士団に寄進された彼らの不
動産はバルト海から地中海、大西洋岸から聖地にまで及ぶ広大なものでした。

しかし、聖堂騎士団が大きな城を所有できたのは、アラブ人との戦い(アラ
ブ人からの国土奪回戦争=レコンキスタ運動)に不可欠であったスペイン、
ポルトガルに限られていました。
トマールの「テンプル・キリスト騎士団修道院」がそのひとつで、ポルトガ
ルに於ける騎士団の総本部でした。
             
almorol6-4.jpg
ポルトガル・テンプル騎士団の城のひとつ、アレンテージュ地方のアルモウ
ロール城。(こちらにて案内)
 

ポルトガルの歴史で「テンプル騎士団」の名前が言及されるのは、ポルトガ
ルがまだ独立国として建国されておらず、「ポルトカレンス」と呼ばれてい
たスペイン・レオン王国の領地だった1120年代のことです。

当時ポルトカレンスは、領主亡き後で、後にポルトガル建国初代王となる
「ドン・アフォンソ・エンリケス」(D.AfonsoHenriques)王子の母、ドナ・
テレザが統治していました。

1120年代のとある日、ドナ・テレザは、徐々に騎士修道会として頭角を
現してきたフランスのテンプル騎士団初代グランドマスター(総長)「ユー
グ・ド・パイアン」から、「ポルトカレンスでのテンプル騎士団居留地の
提供依頼」の書状を受け取ります。

イベリア半島は、レコンキスタ運動と称して(レコンキスタ=再び征服する)
イスラム教徒からの国土奪回戦争がこの時まで既に400年近くも展開され
ており、ドナ・テレザはこの要請に応じて、中部、現在のコインブラ近くの
Soureに駐屯地を与えたことから、ポルトガル・テンプル騎士団の歴史が始
まることになります。
 
テンプル騎士団の総長、グランドマスターは終身制、各国にはマスター(管
区長)が置かれ、ポルトガル初代のマスターは、トマールの銅像に見られる
ように「Guardim Pais(グァルディン・パイス)」です。

tempralios-1.jpg

テンプル・キリスト騎士団修道院は12世紀の初期テンプル騎士団時代から
16世紀まで4世紀を経て増築され、ロマネスク建築、ゴチック建築、マヌ
エル建築、ルネサンス建築の不思議な併合は訪れる人を飽きさせないでしょう。

わたしが訪れたのは4年前になり、画像もその時のものですが、当時はテンプ
ル騎士団の歴史を独学し始めた時期で、この修道院内に散りばめられているた
くさんのシンボルを見落としています。

今夏、もう一度訪問する予定でおり、新発見については改めて再度、綴って
みたいと思っていますが、今回、このシリーズの初めはテンプル騎士団が建
築に携わった円堂を。

お詫び:一部画像が鮮明でないのは、当時使用していたデジカメと撮影者の
未熟な腕ゆえご勘弁を。今夏の訪問後には画像の一部を差し替える予定で
います。
 
テンプル聖堂2
         
テンプル騎士団が建てた修道院の円堂。外見は16角形、内部は8角形にな
っている。ポルトガルテンプル騎士団初代グランド・マスター(総長)グァ
ルディン・パイスが1160年に建てた。円堂は、エルサレム神殿の丘に建つ
「オマール・モスク(岩のドーム)」をモデルにしたと言われる。
「オマール・モスク」は、エルサレム神殿の名残と信じられている。
                           ↓
                                        
   オマール・モスク(又はDome of the Rock)
テンプル聖堂3
wellcome images サイトより

テンプル・キリスト騎士団修道院外部のあちこちで見かける石球の意味する
ところはまだ不明ですが、モデルとなったオマール・モスクの絵にあります。
        
ポルトガル語で「charola(シャローラ)と呼ばれるテンプル騎士団聖堂。
テンプル聖堂5

2007年訪問時にはまだ修繕がされておらず、色彩が色褪せていました。
それでもかつての聖堂の豪華絢爛さが十分にうかがわれます。この静寂さに
この豪華絢爛さのミスマッチは不思議な雰囲気です。

テンプル聖堂4

その昔、この聖堂で祈りを捧げ戦場に赴いて行ったことを想像すると、遥か
な時の流れを経たとは言え、わたしはテンプル騎士団の大いなるロマンを
感じずにはおられません。

テンプル聖堂6
↑円堂の周囲のあらゆる部分が中心のシャローラ(聖堂)一点に集中するよう
 に構成されている。(wiki画像)

下はキリストの十字架の下の三脚の台。
テンプル聖堂7
台の中央にはくぼみがある。ここは騎士団参入の洗礼堂でも
あるのだろうか。(三脚台、三本柱はフリーメーソンのシンボルでもある。)
    
聖堂から即、外部へつながるつ門。
tomar-convento22-seidogate.jpg
いにしえの騎士たちは馬上姿のままこの門から聖堂に入り祈りを捧げて戦場
へ向かったと言う。

トマールのテンプル・キリスト騎士団修道院はシリーズで数回続きます。
テンプル騎士団については、筆者が得た知識から推測して書いている部分もあり
ますので、その点をご了承ください。

本日も当ブログを読んでいただき、ありがとうございます。
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テーマ:ポルトガル
ジャンル:海外情報
2011年6月2日

本日はテンプル騎士団ミステリー話を休憩して、子供たちの話を。

日本滞在から帰国して、ジェットラグ(時差ぼけ)でどうしても早朝に目が
覚めてしまうのだが、それを利用して家の中の整理を決心し、このところず
っと物入れや引き出しをひっくり返しては処分する物、まだ取っておく物と
分けている。

こうして整理をしていると懐かしいものがあれこれ出てくるので、それを眺め
たり読んだりしているうちに思わぬ時間がかかったりする。
そういうものの中には子供たちの思い出にまつわるものが多い。

そのひとつが下のゲーム元祖ファミリーコンピュータことファミコンだ。

ファミコン

いやぁ、このファミコンにはほんとに苦労させられました!

今ではゲームを卒業し、語学学校で働きながらなんとか生活費を稼ぎ、方や
ミョウチクリンな音楽作曲にもうしばらくの間うつつを抜かしたいと、東京在
住3年目に入った我が息子ですが、中学生だった頃の彼とは親子して、毎日
ファミコン・バトルに明け暮れたものです。
今ならさすづめパソコンゲームです。

以下、過去の我が子達のバイリンガル教育体験を綴ったものに、子供たちと
のファミコン・バトルの章がありますので、引用します。

我が家にファミコンがやってきたのは、本国でのブームより大分遅れてから
です。ポルトに日本企業が進出してきた1980年代も終わりの頃、駐在員さ
んのこどもの数が増えるにつれ、補習校の付き合いで息子のお呼ばれの
回数も度々です。そうして行っては遊んでくるファミコン。

しかし、変圧器を通して日本から持ち込んだ電気製品を使用できる企業関
係者と違い、現地に住んでいる我が家族です、変圧器など当時は10万円も
すると話を聞いており、そうそう簡単には参りません。
それ以前に、いったいファミコンゲームとはなんなのかと、親のわたしの知識
は皆無でした。

我が家にファミコンゲームが入ったのは息子が小学校も終わるころでしょうか。
所沢の妹一家から息子へのお土産にともらったのです。

しかし、ファミコン本体を持ち込むだけではだめなのでした。
日本と海外では電圧が違い、そのままでは使えない。
ファミコンゲームをするためには、まず変圧器とテレビを持ちこまないこと
には無理なのです。今ではテレビ、ビデオデッキもマルチシステムと言って、
日本、海外のソフトへの対応ができていますが、これが出てきたのはこの
ずっと後のことです。

せっかくお土産にともらったファミコンも、これでは使えない。
やもなく、わたしは日本から小型のテレビを持ち込み、変圧器はこちらの日本
企業の方になんとか工面していただきました。
しかし、これが後ではエライことになってしまうのですね。

ファミコンとテレビを飛行機でポルトに持ち込んだときは、息子の喜ぶ顔を
目の前に、親のわたしもこれで息子もなんとなく普通の日本人の子供の仲間
入りができるのかな?なんて単純なことを思い、後でやってくるファミコン
を間に親子の長期バトルのことなど、想像だにしなかった。

最初はおとなしく、せいぜい45分間との親との約束を守り、たった2本持っ
ていた「スーパーマリオ」と「Peach Boy(なんのことはない、桃太郎です)」
を楽しくやっていたのですが、中学生にもなると、補習校の子どもたちとソ
フトの交換をし始めました。

日本からも誕生日だクリスマスだと、プレゼントにファミコンソフトが届く
ようになり、さぁて、この息子のファミコン熱を親としてコントロールする
のが、誠に一苦労なことになったのでありました。

子供同士のソフトの貸し借りは原則的にわたしは同意しません。
貸すとなかなか返ってこないこともあり、また人のものですから何か故障に
でもなるとすぐには弁償できないという余計な心配と不経済が入ってきます。

そんなわけで、息子のファミコンソフトにはどういうものがあるか、わたし
はソフトボックスをチェックするように心がけました。見覚えのないソフト
があるときは、「これは一体どうしたのか」と必ず本人に問うようにし、借
りたものは長期間持つことがないよう返却を促しました。

さて、スーパーマリオなどの毒性のないソフトからやがて「ドラクエ」ブー
ムに入りました。この頃は、クリアしたいがために、表示される色々な語彙
の意味や漢字の読み方を質問してくるようになり、ここまでは、日本語を学
ぶ一端になると考えることができます。語彙力を養ったのは事実です。

ファミコン
★我が家に残っているソフトの一部

が、そのうち、ババッ!ババッ!と言う効果音(?)のついた暴力的なゲームも
入ってきました。それまでは、ひとりで遊んでいたファミコンゲームに、6歳下の
妹を誘い込むことになります。娘はこんな風に兄から男子ゲームのファミコン
洗礼を、ずいぶん早い時期に受けたことになります。

ファミコン
★ソフトの中でも息子が夢中になった「ババッ!ババッ!と言う効果音のつ
いた暴力的なゲーム。この二本にわたしは眉をひそめ、しまいにはアタマに
来て何度ぶっこわそうとしたことか


当時、子どもたちは帰宅すると一休みしてからまず宿題、そして日本からの
通信教育を終えるのが日課でした。リビングにある大きなテーブルにそれぞ
れの課題を広げ、わたしも必ず同席しました。学校の宿題を終えると、次は
日本からの通信教育学習です。これはわたしと一緒に読み書きを学びます。
補習校のみならず、自分の子どもの2クラスを同時にみるという複式授業を
家でも実施したいたわけです(笑)

ファミコンゲームはこれらの学習ががきちんと終わってから1時間という約束
です。「1時間経ったら終わる」
ところが、ゲームに夢中になると、あと少しあと少し。もうちょっとでクリ
アできるから、とこの約束が段々守られなくなっていきます。

しかし、母親もヤワではございません(笑)
約束は約束。しつこくファミコンにしがみついてると、容赦なく横からバチ
ッと電源を切ります。
こういうことが度々繰り返された暁には、ある日学校から帰って見ると、肝心
要の変圧器がどこにも見当たらない!というとにちょこちょこなりました。
神隠しならず、親隠しです。

息子の中学生時代、夕方の我が家はこの「ファミコン1時間戦争」で明け暮れ
たのでした。軍配は、どちらかと言うと、恐らくしつこく親隠しし、約束を守
らせようと時には口角泡飛ばした、母親に挙がるのではないかと思っています。

こういうことを、子どもと争うような形で、毎日するのはなかなか骨の折れる
ことです。もういい加減しんどい、と諦めて子どもたちの好きなようにさせて
しまうのはイライラしなくて済みますし、こちらとしては楽なのですが、それ
では親権、しつけの放棄です(笑)

子のしつけというのは、絶え間ない目配り気配りの連続だと、わたしは思って
います。時には親たりともイライラしたり、ドッと疲労感を味わったりするの
ですが、しつけ時代に親が楽をしてると、何時の日にか自分のいい加減なしつ
けのしっぺ返しを受けないとも限りません。
「可愛いけれど、ここは譲らんぞ。」としつこい一貫した親の気概がいるよう
に思います。

娘の部屋の隅で、誰の手にも触られることなく、すっかりほこりを被って
いる骨董品まがいの初期ファミコン本体と、場所だけとって邪魔になって
しまった日本の小型テレビは、あの頃のファミコン戦争などまるでなかっ
たかのように、今静かに横たわっています。


ところで、わたしたち夫婦はスカイプを利用して文字チャット、カメラチャ
ットなどでコミュニケーションをとっているのですが、子供たちからの話し
かけの挨拶言葉が昔から度々「Glu!」なのです。

「Glu!って何でんねん?」と訊ねるや、モイケル娘曰く、

「ファミコンのセイントセイヤのゲームの効果音だよ
味方が攻撃する時にGLU!って音がするのだw
GLU!GLU!って言いながら敵を倒していくのだw」


って、おいおい、わたしゃ攻撃相手の敵かい!
子供たちの挨拶の中には、今でもファミコンゲームの亡霊「Glu!」が住ん
でいるのである。

とまぁ、こういうことで、件のファミコンは「横たわっています」からその
後箱に入れられ保管されてきたのですが、テレビも邪魔だしもろ共、処分で
きないかなと思い、先だってモイケル娘に話してみました。

「だめーーーー!そのまま置いといて!」

今ではゲームを卒業した兄貴をしのいでゲームオタクもどきになった娘、
これじゃぁ、男もつかんかもなぁ

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