2012年3月29日 

ブログ更新を放ったらかして、このところ映画づいています。

心に残る映画はしばらく余韻をひきづり、数日頭から離れません。何度も
思い出しては脳内記憶の引き出しから取り出すイメージの残像をたどり、
考えることが多いのです。それでついブログから遠ざかってしまいます。

映画、本については、個人個人で受け止め方が違うはずですし、分析し
て批評するのがわたしは得意ではありません。自分がそれらを通して知った
ことをメモしてみたいと思います。

今回みた映画のひとつ、War Horse。日本名は「戦火の馬」です。これは
映画を見る前にモイケル娘に送ってもらった原作を読みました。
uma.jpg

動物を扱った映画や本はわたしの好きな分野です。心も体も傷ついた馬を扱
った映画、俳優ロバート・レッドフォード監督の「The Horse Whisper」
「Black Beauty」、狼の血をひく犬が主人公のジャック・ロンドンの「野生
の呼び声」「三匹荒野をわたる」などなど、どれも忘れられない作品です。
日本映画では南極に残され一冬を生き抜いた「タローとジロウ」があります。

さて、開いてみると「戦火の馬」は児童文学でした。作者のモーパーゴはイ
ギリスの児童小説作家だそうで、「戦火の馬」は2007年からロンドンで舞
台化、上演され、5部門のトニー賞を獲得しています。スティーヴン・スピ
ルバーグがメガホンをとっています。

第一次世界大戦中の戦場に送られる馬、ジョーイが主人公です。この本を読
んで、兵士はさることながら、今まであまり気に留めなかった戦場の馬たち
が置かれた過酷な状況を知りました。4年にわたる第一次世界大戦で死んだ
イギリス兵が100万人、死んだ馬の数は200万頭だと言われます。

銃弾に倒れただけでなく、当時は大砲や弾丸を運ぶのに馬が使われ、栄養
失調や病気で死んだのも多い。鉄条網にひっかかって苦しむ馬の姿は気の
弱いわたしには映像も本で読んで想像するのも正視に絶えませんでした。

終戦後、生き残った馬たちを本国に輸送するのに費用がかかり過ぎるという
ので、食肉用としてフランスの肉屋に売ったことには、あの動物好きのイギ
リス人がこんなことをしたのかと軽いショックを受けました。

戦争や災害などの人間にとっての災難は動物たちにとっても同様だというこ
とをわたしたちはしばしば忘れるように思います。やはり人間第一とその場
になったらわたしも目をつぶってしまうかも知れないと思うと、そんな自分
の偽善性にガックリもします・・・

最後に、動物が出てくる忘れられない映画に「地の涯に生きるもの」があり
ます。わたしが12、3歳のころに見た映画で、森繁久弥が一人一冬猫を飼
いながら無人の知床で小屋番をする老人を演じていました。流氷にのって流
されようとする子猫を救わんがため、氷の裂け目に足を踏み外し命を落とす
ラストシーンには子供ながらも切なくて仕方がなかったものです。

また、ついこの間読んだ新聞の記事に福島の原発事故で警戒区域になった
地区に残され、背中の肉が落ち骨が浮き出ていた牛の話がありました。
物言わぬ動物たちの苦しい現状は形こそ違え、今も昔も似たようなもの。
人間が第一・・・・

下記で予告編が見られます。


とりとめなく書いた今日のエントリーです。
読んでいただきありがとうございます。
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2012年3月23日 

先ごろ、こんな記事を読んだ。

kippu

「三陸鉄道支援・釜石から復興未来ゆき切符11日発売」 

「釜石から復興未来ゆき」の切符が大震災から1年となる11日、岩手県釜
石市の釜石駅前で発売される。被災して大半の区間が不通となった三陸鉄道
を支援しようと地元有志が企画した。有効期限は「諦めない限り」と書かれ
ている。切符が売られるイベント「かまいし復興の祈り」では、2500個
のキャンドルをともし「復興の鐘」を鳴らして震災犠牲者の鎮魂と被災地の
未来への希望を願う。2014年4月に全線開通を目指す三陸鉄道の釜石駅
前が会場で、収益金で地域の足を応援する。


3月11日に切符を売り出したところが全国から問い合わせがあり、切符販
売を3月いっぱい受け付けるとのこと、興味のある方は下記サイトで詳細を
ご確認ください。

http://mirai-ticket.jimdo.com/復興未来ゆきキップ窓口/

「諦めない限り有効」という言葉に未来志向が感じられ、なんだか少し胸に
響きます。瓦礫処理が震災復興に立ちはだかるという大きな問題があり、復
興にはまだまだ時間がかかると思われますが、今こそ政府、専門家、民間が
知恵を絞ってこの問題に取り組んでいく必要があります。

放射線量の有害性についてはわたしは分かりません。
「核爆発で数十名の死者を出し、高濃度の放射能を広く拡散したチェルノブ
イリ事故と、水素爆発と狭い範囲の低濃度放射能漏れで、ひとりの死者も
いない福島第一の事故は全く種類が違う。医学の権威は現在の放射線レベル
で病気の発生など有り得ないと太鼓判を押している」「世界各地には極めて
高い自然放射線地域があり、例えばイランのラムサール地方は年間10ミリシ
ーベルト観測上の最高値は260ミリシーベルトもあったそうだ。それでも誰
も癌にならず元気に暮らしている。宇宙飛行士は大気圏外で年間400ミリシ
ーベルトくらい浴びるし、ラジウムの瓶が床下からごろごろ出てきた世田谷
の90何歳かのお婆ちゃんの被曝量は何と宇宙飛行士並だった。しかも30年
間ぶっ続けなのに健康でご長寿だ。放射線医学の権威が、福島原発事故によ
る被曝で病気なんて有り得ないと断言するのは、頷ける話なのだ」

というサイトもあり、こちらを読めば「そういうものならあまり心配しなく
ても」と慰められ、あちらを読めば「いったい幾シーベルトなら人体に
害を及ぼさないのか、関東に住む子供たちも含めいったい人々はどうなるの
か」と不安に襲われ、読むほど混乱して分からなくなります。

わたしはもう検索をやめました。日本に住む限り、どこにいてもわたしたち
はこの問題と向き合って生きていかなければなりません。それこそ諦めず復
興未来に向けて一歩一歩踏み出していくことがおそらく解決策につながるの
ではないでしょうか。

この復興切符を見ながら、ふとこんなことを思いました。

わたしたちは生まれるとき誰しもが未来という切符を手にしているのだ。
希望未来ゆきの切符だ。諦めない限り有効。釜石の「復興未来ゆき切符」と
違うのは料金が書かれていないことだ。

月日が経つにつれ、多くの場合、わたしたちはその切符の存在を忘れてしま
う。希望は薄れ失われる。わたしが言う希望とは、わたしたちを苦境から這
い登ろうとさせる何かだ。夢だ。それが実現したらと考えると自分をちょっ
とワクワクさせるような夢だ。若い人にはこの切符の存在を思い起こしても
らいたい。好きなことを一生懸命すればいい。諦めないかぎり有効なのだ。

わたしは?と考えてみる。
ヨレヨレになっているけれど、多分まだその切符を手にしていると思う。
わが子たちは?彼らもまた好きなことを諦めないで歩き続けているようだ。

しばらく前の我がモイケル娘のブログ記事にこんなのがあった。

働く意欲のあるニートの呼び名を「レイブル」に変えようと呼びかけている
連中がいるらしい。こういう記事を読むと、本当に日本人は名称を考えるの
が好きだな~とつくづく思う。

意欲があろうがなかろうが二ートはニートじゃないか。
Not in Education, Employment or Training

定義は間違ってはいない。
この用語はイギリス発祥だそうだが、
それ以前のニートは Status Zero と呼ばれていたらしい。・・なんだか響きは
かっこいい気もするがある意味ニートより屈辱的である(笑

それこそレイトブルーマーだっておかしくないか。
ブルーマーって、お前らまだ咲いてないじゃないかww
咲く前から遅咲きってなんぞw 大体自分で自分のことを遅咲きって呼ぶやつ
がいるか。どんなナルシストや。

そもそもニートによくないイメージがついたのは、実際にそういう若者も増
えてるんだし、またこの不景気の中働き口がなかなか見つからない人もいる
ことを皆分かってるはずなのに。

レッテルを張り替えてる暇があったら人々の意識を変える教育方針でも作れ
ば?(ー_ー)どっかの金融機関か不動産にしか聞こえないような名称に変
えるよりは(`_`)

ちなみに私も4月からニートだ。
なんとでも呼びやがれ はーはははは


すみません、多少言葉遣いが良くないのには目をつぶっていただきまして
我がモイケル娘、「石の上にも三年だ。勤めたからには3年は辛抱せよ」
とのわたしから言い付かった言葉、年貢をきちんと納めたと思いきや、この
3月には退職し、新たな進路へと踏み出す。

自分が心から生きていると感じられることを若いうちにするがいい。一生懸
命するがいい。「復興未来ゆき」切符には「下車前途無効」とありその通り
だが、若者の「希望未来ゆき」切符は、「途中下車有効」だ。
ニートはニートでも希望あふれるニートでいて欲しい。

って・・・なんか変かな?

モイケル娘のブログサイトはこちらです。

本日も読んでいただき、ありがとうございます。
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テーマ:東日本大震災
ジャンル:日記
2012年3月22日 

ご紹介しようと思いながら今日まできてしまったポルトガル刺繍、その一部
ですが、とりあげてみます。

ポルトガルでよく知られる「恋人たちのハンカチ(Lenco de Namorados)」
もカラフルで素敵なのですが本日ご案内するのはいたって素朴な布刺繍です。

昨年夏に訪れてきた北部リネン市を見て以来、ポルトガルの布にますます魅
せられ、機会があれば懐具合と相談して集めています。一時期わたしはレー
ス編みに懲り、当時は時間もあったものですからずいぶんたくさん自宅用に
作りました。

portugalgoods
これは長さが2メートルほどで下の写真のように両端に房をつけました。
同じものを何枚か編んで友達にもあげています。
portugalgoods

数年越しの編みかけのテーブルかけです。仕上げに後三分の一ほど残ってい
ますがこの3年ほど編み針を手にする時間もなくなかなか進まない状態です。
portugalgoods

日本にいたころはしたこともない手芸と言うものをポルトガルに来た30年
ほど前に、時間があるのに任せて本を見ながら始めたのがきっかけです。
以後、太目の糸で大きなものをきました。細い糸は性にあわないのです。

同居していた夫の母や叔母たちが毎日のように、ちょっとした暇を見てはレ
ース編みや刺繍をするのを目の当たりにしてきましたし、今ではもはや見か
けるこもなくなりましたが、当時は診療所での診察を待っている間やバスの
中でさえもレース編みをするポルトガル女性を普通に見かけていましたので、
それもひとつのきっかけになったと思います。

portugalgoods portugalgoods
30年ほど前に夫の母や叔母からいただいたクロスステッチとレースのナプ
キン入れです。今でも毎食時事に使っています。
「Recordacoes os passado(昔の思い出)、「Paz e Amor(平和と愛)」の刺繍
文字があります。今は亡きジュアキナおばさんのプレゼントです。

編み物や木彫りをしている時間はわたしにとって沈着した気持ちがもてる自
由な時間だと言えます。一編み一編みと針を運んでは頭の中でとりとめもな
いことを考えたり思い出したりします。編み模様のパターンが決まっている
と、テレビに目を向けながらでもできるようになります。

昔の女性は時間をこうして編み物をし、ベッドカバーやテーブルクロス、タ
オルの縁取りにもレース編みを施して、毎日の生活でそれを使ったり、嫁入
り道具として(これについては記事最でご案内いたします)とって置いたり
したのです。今では手作りのものを使えるのは少し贅沢なことですが、30
年くらい前は当たり前でした。

時代が変わり、今では自分の時間を削って稼ぐか、時間の潤いを選んで自由
な生活を選ぶかとなるのですが・・・
わたしも気がつけば、かつてしていたことができないように、時間を削って
働くほうにいつの間にか流されています。ま、日本語を教えることもまた、
好きなことのひとつではあるのですが。

では、下記に手元にあるポルトガルの素朴な布刺繍をご紹介します。

portugalgoods
Boldade de File(ボルダード・デ・フィレ)と呼ばれる北部の伝統編みもの
です。小さいものから大きいテーブルセンターまでありますが、この刺繍に
ついては後日、もう少し詳しく取り上げてみたいと思っています。

portugalgoods
後継者がおらず、消滅危機にさらされている伝統工芸のひとつ。数年前から
惚れ込んで見かけては集めています。
portugalgoods

下は昨年夏のリネン市で手にいれたものです。

portugalgoods
刺繍よりもリネン(麻布)そのものに惹かれて、もって行った財布を空っぽ
にしてきました。
portugalgoods

portugalgoods

portugalgoods
リネンそのものが手織りです。ゴツゴツ感がむしろ人の手の入った温かみを
感じさせます。

portugalgoods
わたしが好きな種類で、針で布を掘り起こすようにして模様を出すのだそう
です。これは買おうか買うまいかと思案して、思い切って手に入れました。
portugalgoods

6年ほど前に南部アルガルベ地方を家族旅行をしたときに、小さな町で見つ
けた手織りのマフラー。
portugalgoods
夏でしたが誕生日の前祝にとわたしにしては珍しく夫にねだりました。
portugalgoods

マフラーはこのおばさんが織っていました。
portugalgoods

下記にてこの町の記事が読めます。
http://www.geocities.jp/spacesis_porto/html/out_of_porto/domingos_mertola.htm

本日の布刺繍(1)の紹介は以上です。少し時間がかかりますが、次回はカラ
フルな刺繍を取り上げたいと思います。

下記では布ものを始めとする我が子たちの嫁入り嫁とり道具としてたものを
紹介しています。よろしかったらどうぞ。

ポルトガルの嫁入り道具(1
                 (2

本日も読んでくださり、ありがとうございました。
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テーマ:ポルトガル
ジャンル:海外情報
2012年3月19日

前回の続きです。

男と女の泣き言の歌謡曲はわたしは好みではなく、だから演歌はいまひとつ、
好きではないのだが、歌謡曲なりとも志を高揚させたり、我が心にズシンと
残ったりするものがあったりする。
ひばりさんの「柔」と同じように、この歌もその一つである。

どこかに故郷の香りを乗せて
入る列車の懐かしさ
上野は おいらの心の駅だ
くじけちゃならない 人生は
あの日 ここから始まった         
     
青森県出身の歌手井沢八郎が歌う「ああ、上野駅←クリックすると歌が聴けます」である。
歌は世に連れ世は歌に連れ。
時代が変わってしまった今では、こんな歌は「ダサい」の一言で隅っこに押
しやられるであろう。

しかし、時々台所に立ちながら、この歌を心中で歌うとき、歌の心根が迫っ
てくるようで、わたしは思わず泪がこぼれそうになるのだ。
我が心の駅は13の時の「大阪」です。

弘前から秋田、酒田あたりまでは日中だが、やがて日が暮れ、新潟、富山、
金沢と「急行日本海」は日本海沿岸を夜通し走って、翌朝大阪駅に入る。

夜道を一晩走りながら希望の灯りをともして翌朝大阪に入る日本海。この画
像は今回のラストランのものです。Werder Bremenさんからいただきました。
わたしが乗った日本海はまだ「汽車」こと蒸気機関車でした。

nihonkai

叔父は、迎えに来ていた。
田舎からポッと出の、見るからに「いもねぇちゃん」のカッコしたわたしを、
「いらっしゃい」と迎えてくれるのである。
黙って家を出てきたことを話すと、きっと心中は「困ったものだ」と思った
であろうに、そういうことはおくびにも出さず、「じゃ、心配するといけな
いから、ボクんとこにいると一言電報だけ打っておこう。」

この時もしも、叔父がこっぴどくわたしを叱ったり、無愛想だったりしたと
したら、恐らくわたしの人生は、今とは随分違ったものになっていただろう。
なぜなら、この叔父のさりげなさに気を良くし、わたしの家出はこれで終わ
らず、再び繰り返されたのだから。

初めて目にする大阪のなにもかもが都会そのものだった。
叔父達の朝食が納豆ご飯でなく、「トースターに目玉焼き、ハム」だったの
が都会!自家用車ではなかったものの、叔父の休日には、会社の車で京都や
奈良へドライブするのも都会だ!西宮の社宅に自宅風呂があったのが都会。 
お隣、叔母のお付き合い友だち宅、2階が「カトレア」と言う名の美容院な
のが都会。震える思いで決行した家出に、これら全ては値した。

わたしの家出の3回目には、根負けした我が両親、そして同じく根負けして
しまい、当時はまだ子供がいなかった、この叔父と叔母にわたしは引き取ら
れることになるのである^^     

中学3年のほぼ一年間、西宮中学校を始めに、次には叔父たちの引越しで大
阪阿倍野区にあった社宅団地へ引越し、阪南中学校に転校した。
生まれて初めての、小さいけれども自分の部屋、自分の机を与えられ、最
初は夢見心地であったのが、やがて思い知った都会と田舎の学力の差。

今でこそ、都市も地方も学力に於いては大差はないと思うのだが、40年ほど
も昔には大きな違いがありました^^;
    
元々小中学時代はろくすっぽ、勉強した試しがなかった。これには、私自身
が相当に慌てふためきました。もう、トースターだの、目玉焼きだのどころ
ではない。
     
まず、わたしの字のへたくそなこと!そのミミズがのたくったようなへたく
そな筆跡を直そうと、叔父は毎朝食前に、小さなノートに自分のお手本を鉛
筆で書き、わたしはそれを見ながら書写する。これが毎日10分ほど。どの
学課もみな苦労したが、基礎学力のない学課は手の施しよう無し。理数系は
どうにもならないのであった(泣)
     
しかし、しかしですぞ、ここで我が努力が少しずつ花開した学課もあったの
だ^^音楽、国語、英語がそうであった。

一年もして、やがて進学を決めなければいけない頃にはわたしは少しだけ
物を考えるようになっていた。叔父叔母の元で、弘前でのような不自由が
なかったとは言え、他人の家の釜の飯を食うということが14、5歳の少女
に学ばせるものがないわけがない。

「本当にそれでいいのかい?」の叔父の言葉に、ハイと答え、高校受験を
目の前にして、わたしは故郷弘前へ帰る決心をしたのである。
叔父叔母に見送られ、大阪駅から帰郷のため再び急行日本海に乗り込んだ
わたしの胸に、希望と諦念が行き交い、当時流行していた小林旭の「北帰行」
の歌が胸に染みてたまらなかった。
夜行列車の窓に映る15の旅人の姿は、今思い出すにつけどこか哀れを誘っ
てしまう。

「北帰行」

♪窓は夜露に濡れて  都 すでに遠のく
 北へ帰る 旅人ひとり 涙 流れて止まず

 今は黙して行かん 何をまた語るべき
 遠き思い 儚き望み 明日は いずこの町か(「北帰行」はこちらで

あれからほぼ半世紀の時が流れた。 



16日に最後の走行を終えた、かつての急行日本海こと、特急日本海。長年
のお勤め、ご苦労様でした。しかしわたしの心から「日本海」が消えること
はありません。わたしの本当の人生はあの「日本海」から始まったのだから。

最後に、ご親切に日本海ラストランの写真を送って下さったWerder Bremen
さんに心からお礼を申し上げます。    


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2012年3月17日 

三日前、14日のWerder Bremenさんのコメントに「spacesisさんのホロ苦い
思い出が詰まったあの、急行(現寝台特急)日本海、運行廃止が近付きま
した
」とありました。

Werder Bremenさんのおっしゃるように青森発大阪行きの夜行列車日本海は、
その名を耳にしただけで我が心はノスタルジアに震えるのであります。タマ
ラナイノデあります。

わたしの人生初の長距離一人旅があの当時は急行列車だった「日本海」でし
た。どんな旅であったかは後記するとして、下記にネット新聞記事です。

青森―大阪間約1000キロ・メートルを結んできた寝台特急「日本海」が
16日、JRのダイヤ改正に伴いラストランを迎え、多くの鉄道ファンが別れ
を惜しんだ。国鉄時代の1968年に運転を開始。日本海側を縦走し、東北
と北陸地方と関西方面をつなぐブルートレインとして、旅行客やビジネスマ
ンに人気を博した。(2012年3月16日 読売新聞)

nihonkai
画像はWikiから。


「日本海」は、大阪と青森を結ぶ急行列車として1947年7月に運転を開始し、
1950年11月に「日本海」と名付けられ、1968年には特急寝台車になりまし
た。「日本海」とわたしの縁はまだ特急になる1960年代始めです。

時代の流れに逆らえず古いものがひとつひとつと姿を消していくのはいたし
方ない。それなりに味はあるのですが、今のスピード時代にはとてもついて
いけない。人間と似ています。残念に思うのですが、日本海よ、わたしの胸
には初期のお前の姿が今でも残っています。

ということで、本日は去り行く列車「日本海」へ愛惜の思いを込めて、か
つて綴ってWerderBremenが読んだであろう、思い出のエピソードをこちらに
アップさせてください。

「急行日本海 ~夜汽車に乗って~」

わたしは苦しいながらもなんとか高校で学ぶ幸運を持っていたが、小中学時
代の友達の中には中学卒業と同時に集団就職列車に乗って、富山や石川、
東京に出た人たちも何人かいる。     
今では死語となってしまった「集団就職」という言葉には、あれからもう40年
も経ち、大人になった今でもわたしには、切ない哀しみがにじみ出るように感
じられてならない。15歳で世間に放り出されるのには随分辛いものがある
だろうと、世の中のことを少し分かり始めてから、わたしは思った。

集団就職列車に乗って石川県に行った友を思うとき、わたしは決まって中
学時代の三度に渡る、自分の刺激的な家出を思い出さずにはいられない。
なぜなら、その家出を常に手伝ってくれたのが、彼女だからである。
13、14歳ほどで、家出を繰り返したとは、女ながらもまったくあっぱれ、大
した度胸であったと今振り返っても思う。別の言い方をすれば、無鉄砲以外
の何物でもないのだが。
     
競馬の仕事が思うように行かなくなった父が、弘前で腰を据えることになり、
父親の不在感の中で、自由に暮らしてきたそれまでの生活環境が打って変
わり、父との同居生活本当に窮屈なものであった。
いかんせん、丁度思春期でもあり、父はすぐ手があがる人だったので、表立
っての反抗は普段は恐くてできなかったもが、わたしは、「家出」という形で
表明していたのである。
     
父への反抗心からだけではない。
わたしは田舎の持つ古臭い風習や、少し変わったことをするとダントツに目
だって、陰でああだらこうだらと言う、その田舎根性を真っ平ごめんだと思
った。都会の持つ斬新で自由な空気は当時のわたしを魅了して離さなかった。
     
家出先は大阪、いや、最初は西宮である。
そこには江戸っ子の叔父と結婚した母の妹、叔母が、夫の転勤先ということ
で数年住んでいたのである。

時々、帰郷する叔母の持ち込む「都会の匂い」、これがたまりませんでした。
服装から持っているバッグ、靴、そしてお土産に貰う洋服。田舎育ちの少女
にとって、叔母は憧れの的、強烈な魅惑の香水のようなものであります。

さて、家出の運びはと言うと、父のいない日中を狙ってこっそりボストンバ
ッグひとつの小さな荷物を造り、それを友が預かる。翌日示し合わせてバッ
グを受け取り青森始発の夜行列車に乗り込む。

乗った列車は「急行日本海」。最初の家出は冬でした。座席下から上がって
くる暖房の熱気、そして真っ白な日本海沿いの雪に閉ざされた町々。
寝台車ではなく座席に座ったままの、弘前から大阪までの22時間。叔父達の
住所のみを握り締め、憧れが不安を打ち負かし、少女は初めて人生の冒険
に出帆です。
nihonkai
画像はWikiから

今のように電話はない。列車の中から車掌に電報打つことを頼むのでした。
       
○ニチ○ジ○フン、キュウコウニホンカイニテユウコ     
オオサカエキニツク ムカエタノム


旅費は・・・旅費はどないしたかと申しますと、今だから白状します。
可哀相な我がおかあちゃんの財布から、なけなしのお金を黙って拝借した、
13か14の冬だったのでした・・・・・・・・


明日に続きます。
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2012年3月15日 

うはぁ~、spacesisさん、今日はおのろけ?どれどれ!と思わず身を乗り出
したそこのあなた!慌てるでない、まずは説明をお聞きなされ(笑)

ポルトガルで言うBeijinho(ベイジーニュ)を「キス」と訳すのは少し違う
のである。「キス」ならば「Beijo」となるであろう。Beijinhoは頬と頬が
触れ合う「軽いキス」。これはポルトガル式挨拶でもある。

昔、一足先にポルトガルに帰国していた夫を追って、広島大学病院の夫の
同僚であり友人でもあったD氏と初めてポルトの土を踏んだときのことです。
空港で会った出迎えの人数にまずは驚かされたのでした。なんと、ポルト
に住む夫の親族総出!

まぁ、ひとつには、親族にはまだ一人としていない東洋人が新メンバーにな
るというので、みなさん興味津々、いったいどういう人種なのかと会うのが
待ちきれずに空港まで来てしまったというのが真情でしょう。なにしろ当時
は東洋人、特に日本人などこの街には殆どいなかったので実際に見たことも
なかったのでしょうから。

空港でのBeijinho攻めはなかったものの、わたしたちが到着したその日は同
時にささやかな結婚披露パーティーの日でもあった。後、夫の母、叔母と6
年間同居することになった小さな家はどこもかしこも人だらけ。披露パーテ
ィーは自宅でなされたのである。

そこでのわたしは、夫に説明された大勢の親戚、老若男女との左右の頬と頬
を触れる初Beijinhoの洪水に押される羽目になったのだが、英語圏とは違う
異文化に来たのだというポルトガル文化の最初の洗礼だった。

さて、パーティーも終わるころ、引き上げていく人たちが、「ありがとう、
またね」と別れの挨拶で再びBeijinhoをするのである。その時、17、8の
可愛い夫の従姉妹が、その場に同席していたD氏のもとに別れのBeijinhoを
せんがためにやってきた。真面目なD氏、差し出された頬を自動的に避けて
しまったのである。その習慣に慣れていない氏です、いたし方ないとは言え
拒絶された一瞬の従姉妹マヌエラの驚いた表情は今でも鮮明に記憶に残って
います。

家族同士でも毎日、「行ってきます、ただいま」と夫婦、親子でBeijinhoす
る人が多いポルトガルですが、我が家は家庭内では家族のメンバーがし
ばらくどこかへ行く、あるいはおめでたいこと等の機会を除いてはしません。
一昨日の夜、ポルト大学で今年はフランス語夜間コースを受講している夫、
ただいま~と帰ってくるなり、「お帰り~」とpcに向かっているわたしに
「Parabens(おめでとう)」とBeijinhoするではないか。帰ってくるなりベイ
ジーニュって・・・いったいどないしたん?
ポカンとしているわたしに「33年だよ」との言葉で、がががーーーーん!
すっかり失念していた。3月14日は結婚記念日だった!うぐぐ・・・

その日は午前の日本語授業の後、外で人に会い久しぶりに日本語でおしゃべ
りをして来たので、多少疲れもあってか、コロリと忘れ^^;
「何か買おうと思っていたのだが、今日は時間がなかった、明日だ」の夫の
言葉に、「うんうん、いいよ、いいよ、特別しなくても^^;」と半分後ろ
めたい思いのわたしでありました。

はい、結婚34年目に入り、この5月には在住34年目を迎え、日本に住ん
だよりもポルトの生活の方が長くなります。が、結婚記念日は忘れても母国
を思わない日は正直、ありません。夏には子供のころのねぶた祭りを思い、
冬には故郷の雪を、秋には紅葉、そして春には桜花を恋う。
わたしの中の日本人気質は30年、40年前のままで今にいたっています。

盛大な結婚式などなし。日本で役所に届けを出した後、歌姫バイト先だった
梅新アサヒビアハウスで会社の同僚やビアハウスの常連たちが祝福してくれ
ました。もちろん、両方の親族は出席なし。結婚記念にと目いっぱいめかし
て撮った一枚の写真がこれです。一度、モイケル娘に「かぁちゃん、結婚式
の写真はないの?」と問われ、これを見せてあげることができました。
一枚撮っといてよかった^^

ということで、他愛ない話、Beijinhoで皆さまの気をひいて、ごめんなさい^^;
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2012年3月13日 

昨年12月の市立図書館で上映した影絵を、昨日月曜日はポルト市の中心に
ある私立学校で上映して来ました。

50人近くの子供たちが鑑賞するとのことで二つのグループに分けて二度上
映することになり、子供たちにあげる折り紙のキョーリュウーも慌てて追加
しました。影絵作成そのものは手がかかるものの、使用するBGMを聞きなが
ら切り絵を楽しんでいます。

が、上映時は影絵のスクリーンに移し手の頭や手が映らないよう膝をおり、
かがむ姿勢を取るものですから、普段運動不足で体のあちこちの筋肉をあ
まり動かさないわたしには、こちらは少し大変。

1回目が終了したあとの紹介で途中立ち上がることがあったものの、約1時
間ほどその姿勢を続けたわけです。案の定、日ごろの運動不足の影響をもろ
にうけ、今朝は動くたびに「イテテテテ・・・」の連発です。

少しすることが多いこの頃、ひとつをすれば、もうひとつができず。習慣だ
った週に一度、この日とばかりに意気揚々と出かけてはしていた2時間ほど
のポルトの街散策がこのところできないでいましたが、再びなんとか時間調
整する必要を実感しています。
ということで、夏までのボランティア活動は残すところ、後二つです。

今日は久方ぶりのポルトご案内です。
 
構内が青タイルことアズレージュ壁画で有名なダウンタウンのサンベント駅
向かいからドウロ川へと続く道が二本、延びています。その一本が
19世紀には街の中心とされ、たくさんの商店が軒を並べてにぎわっていた
Rua das Flores .Folresは「花」の複数形で、わたしは「花通り」と呼んで
います。もっとも今ではその名が恥ずかしいくらいにさびれてしまいました
が、それでもこの通りでには数軒、わたしの好きなお店があります。

それについては後日触れるとして、本日の案内はポルトガルの伝統グルメ店。
saobento 

saobento

ワインをはじめ高級酢、オリーブ油、岩塩、チョコレート、ジャム等々。
saobento

真ん中はバーべキュー用の岩塩、右後ろはオリーブ油のなかでも高級品と言
われるエキストラ・ヴァージン・オリーブ油。わたしもサラダに日常使って
います。ポルトガル特産物として意外と知られていないものにオイルサーデ
ンの缶詰や瓶詰めのトマトピューレがありますが、左手前が缶詰。  

saobento
Rebucados de ovo de Portalegre.何世紀も前に修道院で作られ始めた卵と砂
糖を基本にしたエッグキャンディ。ポルトガルの南部山岳地方アレンテージ
ュのポルタレグレ特産物です.
loja-sanbento7-1.jpg
木やブリキを使った昔ながらのポルトガル玩具コーナーも。
loja-sanbento7-2.jpg

トップのおもちゃを拡大してみました。
galo

丸いボードの下に下がっている木のボールを回すと鶏のくちばしがボードを
つつきます。わたしはいくつかお土産に日本へ持って帰ったことがあります。

このお店ですが、2年ほど前に店内に入り写真を撮らせてもらったのです。
雑誌記事で一度は取り上げたいとずっと思ってきました故、今日まで紹介し
そびれていました。

さて、本日午後、ネ友のCさんと会い、リベイラのオープンカフェでしばしお
しゃべりした後、岐路についたのですが、次回の取材ネタも欲しいと思い久
しぶりにこのお店に寄ることにしました。
Rua das Floresを上っていきますと、あれれぇ・・・・ない!店がない!
・・・・・・・閉店していました

ポルトガル不況の波がここにも押し寄せたようで、この間まであったお店が
いつの間にかなくなっていたということが最近よくあります。

帰宅したらアップロードしようと、書き終えていたこのエントリーでしたが、
結局店の紹介とは相成らず。小さいお店ですが、ちょっと素敵なグルメショ
ップでしたから残念です。

が、これらのポルトガル特産物は他店でも見られるはずです、お店の紹介と
いうより、今回は特産物の紹介ということで、とりあえず記事を載せること
にしましたので、ご理解ください。

それでは皆様、また明日。
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テーマ:海外グルメ
ジャンル:海外情報
2012年3月11日 

家族と遠く離れていると日々気になることはあるけれど、今のご時勢、少し
パソコンが使えると、また携帯電話を持っているとすぐコンタクトできる方
法もあり、誠に便利な世の中になってものだと感心し、どっぷり文明の利器
に浸かっている毎日です。

が、肝心の時に携帯電話や固定電話が通じずパソコンが通じるという、わた
しからすると不可思議なことを知ったのは昨年の東北大地震の日です。

下記、昨年の3月12日の日記抜粋です。

地震の被害にあわれたみなさまに、こころからお見舞い申し上げます。

我が子たちも所沢の妹たちも無事だったとは言え、ニュースで繰り返し放映
される画像を見るにつけ、手放しで喜べない気持ちです。目を覆うばかりの
惨状に愕然とし、泣きたい気持ちになります。
みなさまのご家族、ご親戚、お知り合いの方々はご無事でしょうか。

昨日の午前中はいつもの日本語教室がキャンセルされていたので、前夜は新
しいクラスの準備で少し夜更かししてしまい、いつもなら起床している時間
にまだ寝入っていたのでした。

それが、7時半過ぎに電話が鳴り、こんな朝早い時間にいったい誰だろうと
思い、ベッドから飛びおりて玄関ホールの電話を置いている所まで小走りに
向かいました。

受話器を取るなり「ユーコさん!あんた、東京が大変なことになっとるで!
子供たちおるやろ!ニュース見てみー!」と大阪出身の友人の一声です。
そうして目に飛び込んできた画像に、しかも即それを東京だと思ったもので
もうその後は大変でした。すぐ子供たちのケータイに電話を入れたもののつ
ながらない、所沢の妹宅の固定電話もダメ!

今、日本は何時よ!?娘は?息子は?と不安は募るばかり。
何度も何度もダイヤルを回せど同じ応答です。ウェブ新聞で更なる情報を得
ようと慌てふためいてパソコンに走りました。すると、スカイプで息子が
「ママ、地震があった、こわかった~」と、声をかけてきました。
息子は昨日は仕事が休みで、地震が起きたとき、外で自転車を走らせていた
そうです。急いで帰宅し、やったことが、なんと!3匹の猫たちをそれぞれ
のカゴに入れて外へ運び出したのだそうです。(あんたら幸せなねこやで!)

モイケル娘は?と聞くと、「まだ会社だと思う、けどケータイが通じない」
と言う。ダメもとでケータイにメールを送ろうとメールボックスを開くと、
モイケル娘からのメールの件名、

「かあちゃん、地震起きました」

この件名を見た瞬間、わたしの心臓はぎゅぎゅっとしぼんだ!
そして、短い文面を読んだ瞬間は安堵に胸をなでおろしたのでした。

まだ会社にいるが、都内の電車が前面ストップしているので帰れない。
普段はできないのだけれど緊急事態なので、会社のパソコンを使用して通信
してる、とのこと。いわゆる帰宅難民になっていたわけです。

そのうち、「同期の人たちで歩いて帰ろうという話が出てる」と言うではな
いか。おいおい、待て!それは危険なことだ。止めよ、とメールを打ったが
息子、「She's comming back. 家に向かってる」

「シ、シーズ カミング バックって、あんた!ナニ言ってるのよ~」と叫
べど既に遅し。

すると間もなしに娘からの返事、
「今歩いてる。心配しなくていいよ。グループで歩いてるから」
こういう時は余震もさることながら、狼男も心配なのだよ、おっかさんは!

我が娘、思うに絶対ネコのことが心配で、歩いて帰る気になったに違いない。
同じ環境だったらわたしも同様のことをしていたこと確実であります。

夫も勿論起き出しておりましたが、気になるとて患者の仕事を休むわけには
行かない。間もなく出勤しましたが、残ったわたしは、新しいクラスの準備
も手に付かず、そのうち、友人たちから、親戚から、知人からと電話が一日
中なりっぱなしです。

娘が一緒に歩いたグループは会社の寮の人たちで、実はその寮が偶然我が子
たちのアパートの一つ駅違いのところにあるのだそうな。たまたま、社員に
寮から築地にある会社まで、1時間ほどかけて自転車通勤をしていたツワモ
ノがいたのだとか。それで道を知っていたので、皆で徒歩で、との決断を下
したそうだ。

自転車で1時間が、歩いてなんと4時間半!たはーー!
どんな靴でそんな長時間歩いているのだろうか、足は大丈夫だろうか・・・
そんなことを思い巡らしながら、気もそぞろで新しい出張日本語クラスを
終えて帰宅し、息子から家に無事たどり着いたことを確認して、ひとまず
安心したのでした。


あれから一年、こうして昨年の日記を読み返すだけでも心配でオロオロし
たあの日のことがまざまざと思い出されるわたしです、ましてや被害に合
われた人たちはいかばかりでしょう。

地震以来、政府の対応に目を向けてきましたがその緩慢さに「いったい何を
してるんだ!」と怒りがこみ上げること度々でした。今日も依然として復興
作業は大してはかどっておらず、この一冬を被災地の人々はどんな思いで
過ごしてきたのだろうかと思うにつけ、胸が痛くなります。

一年一年と過ぎ去る月日が人々の心を少しずつ癒していくのかも知れません。
春はもうすぐです。あんなことがあったといつの日にか、思い出せる日が
来ますように。亡くなられた多くの人の冥福を祈りながら、被災された方々
には一日も早く立ち直ってくださることを祈りながら、黙祷を捧げます。

the prayer
ー画像は新聞記事からー
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テーマ:東日本大震災
ジャンル:日記
2012年3月6日 

生徒たちの希望で、昨年秋から2月まで、日本語能力試験と漢字検定試験受
験指導が続きました。

加えて市立図書館でのボランティア活動で上映する影絵作成があったため、
なかなか実行できなかった第二回目の「日本語を話す会」を、やっと先週日
曜日に昼食会として催すことができました。

001-3.jpg
おしゃべりに花を咲かせて。

できれば年2回したいと思っていたのですが、諸事情で昨年の初回からちょ
うど1年になります。前回はOちゃんとわたしの二人で食事を全て準備した
ので、さすがくたびれました。

そこで今回は参加者各自にできる範囲内で1、2人分、何かを持って
来ていただくという形にしてみました。

わたしとOちゃんは、まき寿司、押し寿司、トリのから揚げ、そして今回の
目玉メニューは日本式のカレーライス。今世界でも健康食、ファッションと
して人気のある寿司を前回作りました。
が、日本語テキストに出てくる食べ物は日本へ一度でも行ったことがある人
なら分かっても、お好み焼き、カレーライス、焼きそば、丼などの典型的な
庶民料理は、説明するだけでは生徒たちにはピンと来ません。

NHK
デザートの数々。手前グリーンのクッキーはOちゃん手作りの抹茶クッキー。
生徒さんの中にはケーキやさん修行中の人がおり、たくさんの自家製ケーキ
を持って来てくれました。その他、生徒の親御さんからの差し入れなどなど。

NHK
手前から、フルーツサラダ、イチゴ、アーモンドケーキ、向こうがオレンジ
ケーキ。


そこで、毎回、海外では試食できないであろう、日本の家庭料理の味を少し
ずつ味わってもらおうと思っているのです。

ワイン、ジュース、デザートのケーキ、コロッケ類と、みなさん、思い思い
のものを持ち寄り、テーブルはいっぱいになりました。今回は出席できな
かった人も7人ほどいますが、新しい生徒さんも加わり、16歳から73歳
まで、会は総勢18人。

020-4.jpg
老いも若きも、和気あいあいと。

ちょうど昨年12月のJLPTこと日本語能力試験の結果も出たところで、みな
さん、大いに盛り上がっていました。

今回は、5月に予定されている「かぐや姫」の影絵準備のため、12月に市立
図書館で上映した影絵を生徒さんたちに見てもらうことができなかったのが
残念ですが、第3回目の会合には是非この影絵上映を取り入れたいと考えて
います。

会合の名称はその頭文字を取ってわたしたちはNHK(Nihongo wo Hanasu Kai)
と呼んでいます。また、Oちゃんとわたしの小さな教室はYuko`s Nihongo Juku
から「YY Nihongo-Juku」に改名です。

NHK
もうひとりのY先生ことOちゃんも一緒に。

YYはわたしとOちゃんの頭文字であることと、「ワイワイ・ガヤガヤ」と楽し
みながら日本語を学んで欲しい、との願いを込めています。経済危機最中の
昨今のポルトガルです、できるだけ授業料を安くし、日本語、日本文化に興
味をもってくれる老若何男女が増えることを願って、小さいですが息の長い
素人塾を継続して行きたいと思います。

というところで、本日は日本語を話す会のご紹介でした。
下記では第一回目の様子が読めます。興味のある方はどうぞ。

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1046.html

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2012年3月3日

17年ほど住んだかつての借家は小さな庭に一本の桃の木があり、季節にな
るとバラとアジサイとカーラが咲き乱れ目を楽しませてくれた。子供たちが
成長した家でもあるのだが今でも目と鼻の先にある。

念願の自分たちのフラットを手に入れ、現在の家に移る際に連れてきた猫が
今は亡き真っ白ネコのタンポポちゃんとゴンタ、それにクルルだ。

gato
わたしが飼った猫で一番美しいと思われる「たんぽぽちゃん」。
威厳があり他の猫たちも一目置いていたが手術をしていなかったので次から
次へと子孫を産んだものだ^^;

クルルは我が家で親子2代目か3代目の猫。
gato
母さんネコの「チャバ」と一緒に写っている子猫時代。
この子は子猫時代から今に至るもあまり変わっていないのが不思議だ。

何ゆえ、今日突然こんな猫たちの話をする気になったかと言うとこうなんです。

飼い主同様、ネコも年齢を重ねてきました。すると、これもまた飼い主同様、
体のあちこちに避けようのない支障が出てき始めたのです。ガタが来たって
ことです。

いえね、60代のわたしたち夫婦は今のところなんとか大きな支障なくして
生活でき、それなりの仕事で頑張っているのですが、ネコの年齢は人間とは
比べられない。ネコの10歳ともなると人間の70歳に相当するそうです。

001-2.jpg
表情に乏しいチビではあるが、独特の甘え方があります。

すると、我が家で一番若いゴローでも45さいから50歳、次のチビが7歳で
55歳、ぺトは8歳ほどで60歳、11歳のクルルは74歳。
ゴンタは拾ったときに、たぶん3歳にはなっていたであろうから現在の推測
年齢は13、4歳で80歳を超えたご長老さまってことになります。
おぉー、日本社会の将来の姿、高齢社会がまさに目前にあるのであります。

gato
オレさまはつまらない、と黒猫ぺト

実はわたしたち、このところ獣医通いをしています。白内障でもうほとんど
目が見えないゴンタですが、勝手知ったる家の中、どこに何があるか、ちゃ
んと記憶しているようで、用を足すのにも問題はありませんが、歩くときは
壁沿いに歩いています。高所に上るときは時々感覚が狂い失敗もします。

gato
我が家に来たころのゴンタ。先輩「こぽんぽこちゃん」と一緒に。

で、先だっては腎臓に支障がおき、全く食べなって、行きつけのクリニック
へ連れて行きました。ダメかも知れない。モイケル娘の一時帰国、
4月までは持たないであろうと覚悟を決めていたのです。
しかし、二日の入院と帰宅後の薬治療でなんとかもちこたえました。

gato
ゴンタ熟年の頃
gato
失明した現在。

一安心というところで、今度はゴローが調子悪くなり、再び病院通いです。
どうやら歯が問題らしく抜歯しました。モイケル娘に話すと
「お前、腰抜けじゃなくて、歯抜けか」^^;

gato
歯抜けになって昨日帰ってきたゴロー、元気がありません^^;

さて、抜歯のためそのゴローをクリニックに連れて行った一昨日のことです。
手術に関して一筆取られていたときに、突然、年配の女性が「うちの犬が!」
と駆け込んできました。顔見知りの人らしく受け付けの女性はすぐ彼女が
外に止めた車に走って行き、中から一匹の白い小型犬を抱きかかえて獣医室
へ運び込みました。抱きかかえられた、首がぐったりしているワンちゃんを
見てペットも人間もこういうときは同じだな、と一瞬思ったものです。

受付の女性が戻ってくる間、「O meu Kiko, o meu kiko(わたしのキコちゃ
ん)」と女性は人目もはばからず大粒の涙を流し顔をくしゃくしゃにして泣
き出し、わたしも思わずもらい泣き。

犬、猫、何匹かのペットの死にわたしも出会ってきましたが、自身はあまり
人前で泣くことはしません。どちらかと言うと生き物のことゆえ死は何もの
も避けることはできないと、淡々と受け入れ、一人こっそり隠れて涙を流す
タイプです。、

家族の如く一緒にくらしてきたワンちゃんでしょう、どんな事情かは知る由
もありませんが、口からわずかに血を流していたことから、おそらく手遅れ
だろうと推察しました。ペットを喪失する哀しみは痛いほど分かります。

ゴローを受付に預け、女性の手を握り、「どうか気をしっかりもってくださ
いね」としか言えないわたしでした。

人間ではないけれど、ペットはともに暮らすうちに家族同様の存在になりま
すね。

我が家猫たちがホームレスにならないよう、彼らを全員見送るまではわたし
もあちらの世界には行けないな、なんてことを考えるこの頃、東京息子よ、
モイケル娘よ、万が一のときにはちゃんと面倒を見てくれますように、なん
まんだ、と祈っているのであります。

gato gato
春間近。外の空気にその匂いをかいでいるみたいです。

gato
心が泣かされるような、ネットでぶつかった写真です。

Man´s best friendは本来は人間であるべきだと思うのですが、人が癒して
あげることができないものを無言のペットは持っているのでしょうね。

今日は3月3日、ひな祭り。
立派な雛人形はないけれど、遠くにいる娘のために手作りの紙雛人形を飾っ
てみました。

gato

gato
こちらは知人からいただいたもの

古い借家の桃の木にまつわるエピソードはこちらに→ママの桃の木
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