2012年8月30日 

ブログ友のちゅうさんが、前回のエントリーについて、それとなしに言葉の
使い方の間違いを注意してくだすった。が、根が粗忽者、いや、言い訳にな
るかも知れないと思いながらも言って見たいのだが(^^;)、30年以上も
母国を離れて日常的に使う語彙も今では限れられてしまったわたくし、へ?
どこが?てな頓珍漢な質問をして恥をかいているのであります。

砂上の楼上・・・砂上の楼閣だぜ、おっかさん(笑)
そいでもって「砂上の楼上ではいかんかなぁw だって、楼上って建物の
てっぺんのことで、ゆらゆら揺れてて今にも倒れそうな様子のことだもん」
と、まだしつこく自己弁護しておる(笑)

ちゅうさん、お役目、ごくろうさんであります、そして、ありがとうさん

先だってのこと、大阪は堺に住む長年の我が親友、Michkoがスカイプ
を使えるようにしたからと言ってきた。娘さんと二人でポルトに来て我が
家に滞在したのが昨年暮れ、8ヶ月ぶりに早速Web カメラで夫も交えての
会話だった。

世の中、ほんとに便利になったものだと思う。こうして、親友と話している
と気も和みいつの間にか心が大阪時代の若い頃の親友同士になっているから
不思議だ。 何年も、どんなに遠く離れていても話しだすとすぐ昔のころに
戻れる、このような友達はたくさんといるものではない。実は7つほど歳が
離れていてわたしが上だ。

さて、その彼女と今日も話したのだが、展示会の事は進んでるかと聞く。
我が親友はお茶お花の先生でもあり、木彫り漆塗りのプロでもある。

ハイハイ、進んでます。でね、この間教えてもらったお茶のお道具のセッ
ティングなんだけれど、棗(このややこしい字が「ナツメ」と読まれるの
を初めて知ったw)の上に茶さじを乗っけようと何度してみても、乗りま
せ~ん。(茶さじじゃなくて、茶杓だす)、で、斜めに頭のとこだけ乗っ
けたけど、と言うや、「げげげ!」と申され、お茶お花の先生とは思えな
い反応。

そでさん!それはダメ!絶対ダメ!とエライ怒られましてん^^;
けど、それじゃ、なんできちんと乗らんねん、茶さじ!いや、茶杓!
お茶席であんな状態やったら、優雅に茶の湯どころやあらへんで。と言う
わたしに、いったいどないな乗っけ方をしたのかとお聞きになる。

わたし: せやから、茶さじ、いや、茶杓の曲がった方を下に向け・・・
みちこ: お待ち!曲がった方を下に?あのな、ちょっと、茶杓をここに
     持って来て、今カメラの前で見せてみぃ。
わたし: へぇ~い。これこの通り、乗らんでこりゃ。
みちこ: ち、ちがう・・・^^; 反対やん!
わたし: ははぁー!(平に平にw)、道理で乗らんわけだわね。

      
しかし、今度はわたしが「げげげ!」と言う番だった!そうやって(つま
りこうやって↓。恥ずかしいから画像は小さく^^;)撮影したわたしの
茶杓

写真をポスターに使うと言ってた・・・はず・・・
エライこっちゃ!すぐメール打ってストップかけなきゃ! というわけで、
下が正しい茶さじ、いや、茶杓の置き方だそうで。

茶杓


知らぬとは、げに恐ろしき。

それでは、みなさま、本日はこれにてごめん!
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2012年8月28日 

日中日韓関係が富に騒がしい近頃、人間同士もそうだけれど、誠意を持って
しても分かり合えない者同士国同士とはあるものだ。

大小隣国の仕掛けてくることが、大人だったら通常は理解するに困難なこと
だらけで、わたしなど毎朝ネット新聞を読むにつけどうしてこんなことが
できるのかと深いため息が出るのだが、放って置くとこれまた何を仕掛けて
くるか分かったものではない。福沢諭吉の脱亜論に思わずなびいてしまいが
ちなこの頃です。

「生活が第一」なんて党もありますが、国防なくしていったいなんの生活か。
砂上の楼閣だ。「それ国家が興隆するときは国民は理想を持って生活し、国
家が衰退するときは国民は生活をもって理想とする」と、かつて徳富蘇峰が
書いたそうだが、蘇峰の言ったことがあたらぬことを遠くにいて願わずにお
れない。

さて、しばらく前に軽く捻った左足首なのだが、三日目には軽いびっこを
引きながら通常の生活に戻したのがまずかったかな?このところ、数時間
動き続けるとおかしなことに足首でなくて脚の付け根あたりに鈍痛を感じ
る。無意識に足首を保護して腰に余計な負担をかけているのかも知れない。

それで、なんだか少しおとなしい近頃のspacesisでございますが、実は
じっとしているわけにもいかないのです。原稿の締め切りは31日に迫っ
ており、翌日土曜日には展示会出品物を図書館まで運び込み、月曜日には
ディスプレイに入ります。

息子が3年半ぶりに帰省しているのですが、一週間前から彼女もこちらで
合流し、先週土曜日から我が愛車で南下しており、二人がいない間にとせ
っせと展示会準備をしているのですがどうも脚の調子がよろしくない 
おぬしも歳よのぉと弱気になって我が身を情けなく思いながらあれを出し
これを出し。

そんな訳でついついブログの更新が空いてしまい、足を運んでくださったかた
がた、申し訳ござらん。

さて、今回の展示会はこれまでして来たたった一日のみのと違い25日間の
展示です。ま、一日だけだからと適当に繕って、のディスプレイはボロがでる。
図書館の展示会担当者と打ち合わせをしながらの準備ですが、性分としては
好きなように並べるたった一日の方がいいなぁ。
なんてったってボロが誤魔化せる(笑)

皆様へのご案内は、まもなく図書館がポスターを仕上げて送って来てからで
すが、夏休みが入ったとは言え、遅いっちゅうねん、ポスター

今回は彫りものと塗り、布ものをたくさん展示することにしました。一部を
ちょっとご紹介します。

展示会
我が親友、和歌山かつらぎ山房の主、Michikoの美しい漆塗り作品です。

展示会
これも塗りの一部としてのかんざし。

下は風呂敷類。

展示会
 
わたしの大好きな外国人版画家クリフトン・カーフさんの版画絵を使った
大風呂敷。

展示会

いつも品切れでやっと入手したところが、粗忽者のわたし、サイズを確認せ
ず^^; 開いてみるとなんと92センチ四方じゃん!(汗) 額に入れて
展示する予定があまりの大きさに額入れはギブアップ。実はもう一枚、我が
永遠のペンフレンドA氏からいただいた歌舞伎ヒーロー風呂敷もこのサイズ
でありまして(笑) どのようにして展示するか目下思案中・・・

展示会
 
20枚ほどの風呂敷を今回は多様な包み方も併せて披露します。
また、我が家の家紋、名入りも。
展示会

こうしてみると、日本文化の伝統的な美しさに見とれてしまいます。色彩、
よく気配りされた物作り、細かいルールの中にも大らかな自由が見受けら
れ、そういう日本美に気づいたのは、わたしの場合、残念ながらポルトガ
ルに住み始めてからです。

キリスト教が生活の基盤だった西洋の歴史に比べて日本を見てみると、独り
よがりかも知れませんが、仏教、神道というものがある中、日本伝統文化の
類まれな大らかさ、自然美、人間美を今、感じるわたしです。

ヨーロッパの歴史を少し紐解くにつれ、古代エジプトで哲学を説いていた女
性思想家ヒュパティアを始め、ダビンチ、ミケランジェロ、ニュートンら世
の天才、科学者たちが密かに別の思想を育んでいたと知るに至り、何世紀も
の長い間、キリスト教という宗教に閉じ込められたことの問題点も明らかに
なってきました。

自分の頭で考えその思想に従って行動するという基本的な自由が奪われてい
たわけですが、反宗教的なことを口にするや否や、即、異端者と判断され火
刑を受けるのですから、溜まったものではない。そのような環境で偉人たち
は考えたことを声に出すことこそしなかったものの、自分の作品にシンボル
として「思想」を埋め込んだのでしょう。

読んだり調べたりして自分で考えることができる現代に生きるわたしたちは、
その基本的な自由を疎かにしてはならないと思います。この自由を決して
手放してはならない、昨今の新聞をにぎわす国際ニュースを目にするにつけ、
思うことです。

なんだか、ない交ぜになった本日のエントリー、脚の痛みのみに終わらず頭
にも上ってきそうな悩ましき大小隣国との関係ですが、みなさま、今日は
これにて。

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2012年8月24日 

Almourol

エストレマドゥ-ル・リバテージュ地方Santarém 県Vila Nova da Bar-
quinhaとPraia do Ribatejoの間、テージュ川上流Zézere川と分かれる
辺りの川に浮かび、そのたくましき美しさに思わず感嘆の声が漏れそうな
水上のアルモウロール古城。下の地図の青い○印がその辺りです。
Almourol
     
310mx75mの小さな島いっぱいに建つ高さ18mの花崗岩のアルモウロール城の
起源はA.D.200年に遡り、要塞として長い間イスラム民族に占領されて来たの
をレコンキスタ(イスラム民族からの国土奪回運動)の勝利によりポルトガル
が手中におさめます。

Almourol
       城だけがある小さな島には渡し舟や小さな舟で渡る。      

「Almourol」とはアラブ語「Al-Morolan=高い石」という意味から来まし
た。ポルトガル語にはAlgarve、Alcobaça、Almoço等と「Al」で始まる
語彙がたくさんありますが、これはイスラム民族に支配されていた頃の名残
りです。

島へは一人2ユーロから2.5ユーロ(往復)で渡りますが、島の周囲をぐ
るり一回りしてくれ、テージュ川のキラキラ光る清清しい漣を目にできます。                                                                   アルモウロール城は地図から分かるようにモンデーゴ川(コインブラに注ぐ)
とスペインを水源とするテージュ川の中間地点で軍事上重要な要塞でした。

Almourol
         高い城壁  

コインブラが首都だった12世紀初期、レコンキスタ運動の担い手でもあり
後のポルトガル初代国王(別名コンキスタドール=征服王)ドン・アフォン
ソ・エンリッケスが援軍テンプル騎士団とともにアルモウロール城を占領し
ました。その貢献に謝意を表し城をテンプル騎士団に与えています。この後、
騎士団により要塞城は再建築されました。

古城の頂上から眺めるテージュ川の素晴らしい景色以外特筆すること
はなにもありません。 

Almourol

Almourol
                   
この頃からコンキスタ運動は大いに進められ、14世紀前半になるとポルトガ
ルのテンプル騎士団はキリスト騎士団とその名を変え、大航海時代へと世紀
を超えてつながることになります。

Almourol

さて、テンプル騎士団とは、ベストセラーで映画化もされたダン・ブラウン
著「ダヴィンチ・コードにもその名が出てくるわけですが、騎士団そのもの
が歴史のミステリーとされています。

almourol

テンプル騎士団は、11世紀の十字軍から始まり、12世紀に9名のフランス
の騎士が創立した宗教騎士団ですが、そのあまりの財力と勢力に嫉妬したフ
ランス国王フィリップ4世により迫害され、1311年にローマ法王からも正式
に解散を命じられました。

しかし、ポルトガルではれコンキスタ運動時代からの援軍です、当時のディ
ニス国王はこれをサポート、やがてポルトガルのキリスト騎士団となり、大
航海時代に寄与したと言われます。

川岸からボートで、古城だけが佇む小さな島に入りますが地理的にも車でな
いと辿りつけない場所にあり、夏の観光シーズンはいいとしてもシーズンオ
フには前もって見学する由、連絡しておいた方がいいようです。さもなくば、
船頭が来るまで長い間待たされることになりそうです。

★連絡先:Tel&Fax: 249712094
     FREE 249712094
     携帯:962625678
E-mail: jftancos@gmail.com 

最後に。このアルモウロール城にまつわる面白い話があるのです。              

上記にあるように、テンプル騎士団はフランスを中心とするヨーロッパから
迫害追放、解散させられたわけですが、アルモウロール古城、もしくは島に
はテンプル騎士の財宝が隠されているとの噂が昔からあり、城内城外も発掘
されましが、発見されたのは、ローマ時代や中世の貨幣や城の基盤跡などで、
財宝は未だに発見されていません。

が、人々の口から口への「テンプル騎士団の財宝伝説」は「この島のどこ
かに隠されている」と言われ、今でも探す人がいるのだそうですよ。

フランス国王フィリップ4世はテンプル騎士団の財産没収が目的でしたが、
フランスの騎士団本部を襲ったときには、財産は既に消えていました。
以来、テンプル騎士団の財宝を巡る噂は後をたちません。財宝の一部は、
恐らく大航海の費用に使い果たされたとは、わたしの推考です。

島に足を踏み入れると、砂地を踏みしめながら古城まで上り歩き、急勾配の
ガタガタした、今にも崩れ落ちそうな木のハシゴで古城の要塞のてっぺんま
で上がるわけですが、脚腰の筋肉を十分に使いますよ。

本日はこれにて。
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2012年8月20日 

昨日今日と久しぶりに気温が上がったポルトですがそれでも25度少しだ。

2週間前から休暇で日本から帰省しているわが東京息子だが、今日は夜遅く
にガールフレンドが到着する。我が家はまた一人メンバーが増えてにぎやか
になりそうな夏だ。

お客様が来るからというわけではないが、自宅日本語教室も夏休みに入った
この二週間はずっと家の中で片付け物をしていた。前にも書いたがもう思い
切って、「さぁ、もってけ」とドンドン整理している。

食器類、コップ類も何年も使わないで仕舞ったままのものはあげた。子供た
ちが所帯でも持ったらと、Enxoval(結婚支度)に長年取ってきた銀製品も、
うちの二人、そんな話はいつになるかもう分からない。それに銀製品はきれ
いに保つのに磨かなければならないので手間がかかる。

現にこのわたしも久しぶりに休みを利用し、手を真っ黒にして銀製品を磨い
た。ピカピカに光ったカップボードは確かに気持ちがいいが、これも次に
手間をかけられるのは1年先くらいだろう^^;

cupboad1.jpg

銀製品を磨くのだって時間と気持ちの余裕がなければできないのだわ(笑)
そんなゆとりがない普段の自分の生活の多少嫌気がさしていないこともない
のだが、この調子をもうすこし続けてみようと思っている。

わが子たち、きっとそんな七面倒なことはすまい。ただ持っていても仕方
あるまいと思い、こうして時々整理する度に人に差し上げたりしている。
なに、心配するな、ひとつずつくらいは取っとくから。
てなわけで、低めの脚立を使ったりしてせっせと台所等を磨いていたら、
何かの拍子で左足首をねじってしまったのが先週ある日の昼ごろのこと。
直後は何も感じなかったので、そのまま夕方まで立ちながら、あそこもこ
こもと磨く。
ところが晩御飯を用意する段になり、突如として昼にねじった足首が痛み
出し歩行ができなくなった。が~~ん!お客様が来るのでと翌日雑誌のテー
マ取材に行く予定だったのが、歩行困難で結局できず延期、やっとおそる
おそる外出して取材も含め、歩くこと2時間。久しぶりにポルト、ダウン
タウンをアットランダムに紹介。

ポルト
ブリャオン市場。改築やら修繕やらと諸事情で問題がまだ解決されないまま
もう何年も経っている。一部のテナントは閉店されているが、入り口側のこ
の果物屋はいつも元気だ。

ポルト
この日は入り口でポルト大学のTun。ポルトガルの伝統的な学生音楽グループ
tuna(トゥーナ)と呼ばれる学生たちが歌いながら、飛び跳ねな
がら、バイオリン、ギター、アコーディオンなどで演奏する)

ポルト
  楽器ケースの横に置かれているのは、大学生の伝統カッパ。
Tunaの動画はこちらで↓
http://www.youtube.com/watch?v=GoL_G2T0OrA

1890年創立の古い薬局屋Almeida Cunhaさん。 

同じ並びの老舗のパン屋では「神様のパン」というのがあった。
ポルト


ポルト

取材場所側、ニコラウ・ナゾニの建築、アズレージュのイルデフォンソ教会
 
サンタ・カタリナ、Latina書店。今回は入る時間無く・・・次回はじっくり
見てみたい。

ポルト

こんな素敵なコーヒー沸かし器を見かけた。

本日はこれでおしまい^^
お付き合いいただきありがとうございます。
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2012年8月18日 

今日はポルトガルの小さな村、モンサントを紹介いたします。
いえいえ、遺伝仕組み換え作物を開発するアメリカのバイオ化学メーカーで
はありません。ポルトガルは南部、ベイラ・インテリオール地方にある、花
崗岩の山の村です。6年前、日本の大学入学2年後に帰省したモイケル娘を
含む4人家族で訪れたのを再編集しました。

本日は写真満載です。

モンサント

モンサント(Monsanto=Mons sanctus=聖なる小山)は高さ758m、
danha-a-Nova地方の集落全体が岩山に乗ったような人口900人足らずの
小さな村です。

モンサント

まずは村の入り口あたりから。
モンサント
トップに銀の鶏を頂いた時計台、ルカーノ塔。

モンサント
15世紀ごろの建てられたと思われる村のサン・サルバドール教会。

モンサント

村から山頂へは、どれも細い急な坂道になる。
monsanto3-1.jpg

モンサント
何本かに分かれている村内の坂道を上って行くと、いたるところに花崗岩そ
のものを利用して造られた古い家々を目にする。

12世紀の半ば、ムーア人(北アフリカのイスラム民族)からイベリア
半島国土を奪回する戦いレコンキスタ運動の最中、ドン・アフォンソ・
エンリケス(後のポルトガル初代王)がレコンキスタ運動を共に進め
ていた、ポルトガル初代総長グァルディン・パイス(Guardin Pais)
率いるテンプル騎士団(聖堂騎士団とも呼ぶ)に築城させました。

モンサント
頂上からは花崗岩で造られたテンプル騎士団要塞ルカーノ城址が見下ろして
います。真夏の太陽がジリジリ照りつける真昼時、上りつめるのはかなり
きついと途中でギブアップの夫とわたしでした。

モンサント

モンサント
しかし、これはなんであるか!息子と娘はここで座り込んでしまい、わたし
たちが諦めて途中から下って来るのを見上げ、日陰で涼んでおる。情けない
奴らめ(笑)

モンサント
下りてくる道すがら見られる周囲の景色。小高い岩山は戦国時代は
敵の情勢がわかる絶好の見晴台になる。

ここからはモンサントの岩のはざ間の家々。

monsanto_casa3.jpg


わたしたちが見ることができなかった上下のこの二枚はから。
fb1.jpg

Monsanto_casa1.jpg

いったいが岩が先にあったのか家が先にあったのか?と思わせるような自然
を巧みに利用した人間の手による建築です。

Monsanto_casa2.jpg


Potpourri

モンサントの民芸品:Marafonas人形

fb2.jpg

Marafonaは「布細工の人形」と言う意味ですが(Marafonasのsは複数)
ご覧の通りモンサントの顔がない布人形は多産の女神の象徴で、新婚さんの
ベッドの上に置くのが伝統なのだそうですよ。つまり、夜のことは見ざる
言わざる聞かざる、ということでしょうね。

ひとつ手に入れたのですが手元に置くにはなんとなく気が休まらず、お掃除
のベルミーラおばさんにもって行ってもらいました。

少し古い話になりますが、モンサントは1938年のポルトガル国内観光コン
クールで「最もポルトガル的な村」に選ばれるという栄誉があります。
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2012年8月15日 

sora

夫も息子もいない、5匹の飼い猫たちはベランダのドアのガラス越しに夕日
を受けて、まどろんでいる8月15日の夕暮れ時、今年はまるでもう初秋の
ようです。

ひとしきり、ベランダの花々の世話をして後、軽くかいた汗も酷暑のそれ
と違い気持ちがいいものです。

インスタントコーヒーを淹れてパソコンの前に座り、ふと横に目をやると窓
から差し込む柔らかい光が台の上に置かれたクリスタルデカンタのプリズム
を抜けて壁にきれいな七色の光を放っています。外庭から聞こえる日中の人
声も今はなく、自分のタイピングの軽やかな音だけが空間に響いています。

そして、思います。1945年の8月15日は、もしかしたらこんな静寂が
わたしの国をもおおっていたのかもしれないと。

安堵と不安と絶望と希望と生と死と・・・
わたしたちの祖父母や父母、叔父叔母たちはそれからどうしたでしょうか。
少なくともその日から空から襲ってくるB29はもう現れることはなかった
のです。

家屋を失い、親兄弟、子を失い、食料難にあえぎながら、祖父母も父も母も
あらゆることをして戦後の日々を生き抜いて来ました。
そのたどり着いた先が、今、あなたが、わたしがいる平和と自由の国、日本。

平和が至極当たり前のことになり、自由の中にいて、若い人たちは更にもっ
と自由をと追いかけます。
わたしもそうでした。貧しい生活から抜け出そうともがき、窮屈な社会はい
やだ、もっと自由が欲しいと未来を見つめながら歩いてきました。
自由、開放感溢れるこの響き!

わたしは今、昭和の盛夏をまっしぐらに駆け抜けている自分が見える場所に
立っています。駆けてくるわたしの後ろには父や母が祖母が見え、そのもっ
と向こうには見知らぬ無数の人が続く。遥かなる歴史が脈々と今のわたしに
繋がっています。

その歴史の中に住む人々が、正誤を繰り返しては今の平和と自由の礎を積ん
できたのです。人がその人生で過ちを犯さないことがあるでしょうか。その
過ちもまた人の人生の一部です。誤ったからとて際限も無く石で打つのは酷
でしょう。国も同じです。

今、わたしたちが甘受する平和と自由はの過去の正誤の歴史を通して手に入
れたものです。一度手にした平和と自由を手放さないために、わたしたちは
何をしなければならないのでしょう。

闘わないことが唯一平和なのではないはずです。闘うのを厭うなら、闘わな
くても平和と自由が維持できる自国を守る叡智を身につけなければなりませ
ん。今こそその叡智がわたしの国に必要とされる時なのだと思います。

小隣国の大統領竹島不法侵入、大隣国の活動家尖閣不法侵入を耳にし、終戦
記念の今日、心穏やかならず、異国の夕暮れ時、静寂の中にて、思ったまま
を綴ってみました。

本日もブログを読んでいただきありがとうございます。

sora
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2012年8月14日 

8月も半ばだと言うのに、ちっとも暑くならない。
暑くならないどころか夜間が肌寒くて、今朝等は日本から持ち帰った夏用の
ガーゼ肌掛布団を止めてとうとう春秋に使う欠け布団に切り替えた。おまけ
に今日は一日雨で気温も20度を割っていてとても真夏とは思えない近頃の
ポルトだ。

休みであることだしこの気温で身動きもし易いので、このところずっと食料
庫や台所の食器棚、自分や息子の衣料などを引っ張り出しては整理している。
ポルトガル語でmarqueseと呼ばれる1.2x2mの小さな食料庫だが、我が家
ではここに冷蔵庫と同じくらいの大きさの冷凍庫を置いてあり、その中には
普段の生鮮食料や日本食品が保存されている。古い日付のものは泣く泣く捨
てる。

二つあるトイレもひとつはいつの間にか物置小屋の風を呈して、いっそのこ
と改造して物置小屋にしようと提案するのだが、夫は同意しない。で、息子
が日本へ行くにあたりリスボンから引き上げてきた際のガラクタが彼の部屋
に収まりきらず、そのガラクタ類がスペースの半分を占めている。

これらを何とか整理したいのだが、ただ口で頼むだけでは整理するはずもな
い息子だ、まずはわたしが手をつけ始めて、これらはとっておくのか処分し
ていいのかと尋ねる式を取る。そうした中で嬉しいものを発見した!

展示会

大きな箱に入っていて今まで全容が見えなかったのだが、ぬぬ?これは昔わ
たしもアサヒビアハウスで歌うときに目の前にしたことがあるマイクスタン
ドではないか?こんなものを息子、いつのまに何のために持っとったのだ?

そう思いながら、一瞬アイディアが閃いた!
これ、今度の日本文化展示会で野点傘立てにならん?

以前から赤い野点傘、特にその内側のかがり糸の美しさに魅かれ、展示に
使いたいと思ってきたのだが、諸事情で野点傘立てを手にいれることがで
きず、2009年の展示会ではこの様にしてみたものの↓

展示会着物

これでは内側のかがり糸部分が見えない。そこでもう一本をこんな風に
天井から吊って見たのでした。(笑)↓
展示会

上の着物展示も色々工夫したのであり、苦労話は下記に。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-834.html

前回の野点傘についてはこちら↓
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-825.html#more

早速試してみましたが、いかがか?
展示会野点傘

まだ工夫が要りますが行けそうではないの?

ということで、spacesisの日本文化展で多少忙しくしております。
個人展示会も今回で第3回目。ポルトのクリスタル宮殿公園内にあるアルメ
イダ・ガレッテ市立図書館内のスペースで9月4日から9月29日の25日
間、開催されます。
題して「Um espaco Japanesque」(ウン・エスパッソ・ジャパネスク。
espaco=空間、Japanesque=ジャパネスク・日本風の)

詳細は後日、改めてご案内いたします。

ではでは、皆様、また明日。
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2012年8月11日

ペナ宮殿2部です。
自分のメモにもしてありますので少しくどいかも知れませんがご勘弁の程を。

1990年代に修繕され公開に及んだ際、ピンクと黄色に彩られた宮殿を見
上げることになったシントラ市民は度肝を抜かれたそうだ。それまで目にし
てきたのは長年放置されて灰色に変色していた宮殿だったのだから無理から
ぬこと。しかし、現在のこの色彩が実はペナ宮殿のオリジナルカラーなのだ。

pena-2012_umi.jpg
ペナ宮殿内から見た景色。遠く大西洋の水平線が見える。

さて、創建者フェルナンド2世を始め、ドン・ペドロ5世、ドン・ルイス1世、
ドン・カルロス1世そしてポルトガル最後の王、ドン・マヌエル2世の5代に
渡る王家が住んだ宮殿の外装に刻まれてあるシンボルをいくつか紹介してみ
よう。なお、シンボルの解説はあくまでも素人シンボルマニア探偵のわたし
の推測で書いていますのでご了承いただきたい。

ペナ宮殿

宮殿のメイン・ファサーダの壁一面に見られるのはムーア(北西アフリカの
イスラム人)様式の幾何学模様装飾タイル↓
ペナ宮殿

下はペナ宮殿のシンボルの中でももっともミステリアスな「世界を創造する
トリトン」像。

ペナ宮殿

トリトンはギリシャ神話の海王ポセイドンの息子である。半身半漁のトリトン
はここでは大貝の上でブドウの木の根幹を乗せ、両手で支えている。ブドウは
繁栄、豊穣の意味をもつ。

このトリトン像だが、トマールのテンプル・キリスト騎士団修道院の「大窓」
の樹を下で支える像を彷彿させる↓
ペナ宮殿
わたしはまだこ像の謎が解けていないのだ。

ペナ宮殿
絡みあう二匹の蛇と小ピラミッド装飾。いずれも神秘主義のシンボル。

ペナ宮殿
いちじく。ついせんだってのエントリー、ミケランジェロの暗号でも書いた
がカトリック教ではアダムとイヴの楽園の禁じられた果物を「りんご」とし
ているのを、ヘブライ語聖書(俗に旧約聖書と呼ばれる)ではいちじくだ。

ペナ宮殿
ドアの周囲がひょうたんのツルで覆われている。

今回はこのひょうたんの意味を探っている途中で、なんとついこの間読み終
えた「ミケランジェロの暗号」で解説に取り上げられていた一枚の絵「ヨナ」
に辿り着いた。

ヨナはヘブライ語聖書の文書のひとつ、
ヨナ書に登場する預言者だ。ヨナ書の内容は神とそのヨナとのやりとりが
中心になっている。

ヨナはイスラエルの敵国アッシリアのニネヴェへ行きその民に町が神により
滅ぼされるであろうことを予言せよとの命を受ける。 しかし、危険を冒し
て敵国へ行きたくないヨナは船で逃げるが、大きな魚に飲み込まれ三日後吐
き出される。(これは復活の意味を含む)

ミケランジェロ・ヨナ
システィーナ天井画ミケランジェロのヨナ。この絵にもミケランジェロが
信仰の調和を唱える新プラトン主義哲学やカバラ思想を表すヘブライ文字
が隠されている。

悔い改めたヨナはニネヴェへ行き予言を伝えると、民は悔い改めたので神は
ニネヴェの破壊を中止した。イスラエルの敵であるニネヴェを許した神に
激怒したヨナはニネヴェのその後を見るために、強い陽が照りさす砂漠の町
ニネヴェの近くに粗末な庵を建ててしばらく住むことにする。

すると、庵のすぐ横にひょうたんが生え、それが影を作り日よけになったの
で大いに喜んだ。ところが神は虫を送ってひょうたんを枯らしてしまう。
激怒したヨナが怒りで死にそうだと神に訴えると、神いわく、「たった一本
のひょうたんの木を惜しんだお前だ。神が12万のニネヴェの民と多くの家
畜を惜しまないことがあろうか、と諭した。


このヨナの物語から、ひょうたんは「復活」の意味がある。またブドウ同様、
ツルの植物ゆえ、繁栄、繁殖を表すカバラ思想のシンボルである。

下はマヌエル建築様式のバラ窓。ポルトガル語で「Oculo(オクルス=円窓)
とも言う。

ペナ宮殿

トマールのテンプル・キリスト騎士団修道院、大窓のトップにあるオクルスと
非常によく類似している↓
ペナ宮殿

イスラム建築様式のオニオン・ドーム
ペナ宮殿

巨石が外壁の一部にされている。
ペナ宮殿

この先は宮殿内部室になり撮影禁止だ。手前には薔薇十字団のシンボル、ローゼンクロイツァーがある。
pena_2012_porta.jpg

pot-pourri・おまけ話
ペナ宮殿に住んだポルトガル王家最後のアメリア王妃

フランス、オルレアン家出身のアメリア王妃はポルトガルのカルロス1世に
嫁ぎ、2人の王子と姫を設けますが、1908年2月1日、ヴィラ・ヴィソ
ーザの宮殿に帰ろうとするリスボンで、ロイヤルファミリーは共和党および
メーソンのメンバーに襲われ、アメリア王妃の夫である国王ドン・カルロス
1世と後継者の長男を失います。

次男の後のドン・マヌエル2世(ポルトガル最後の王)が王位につきますが
1910年10月5日の朝、ペナ宮殿でポルトガル共和党国樹立の報せを受
けた王家は即宮殿を後にして英国へ亡命。

息子である、ポルトガル34代目のドン・マヌエル2世は1932年に英国で
没、母であり、ポルトガル王家最後の王妃、ドナ・アメリアはフランスに移り
1951年に87歳、フランスで生涯を終えます。

第二次世界大戦中にポルトガル国から帰国の招待を受けますがこれを拒否、
王妃がポルトガルの地を踏んだのは亡命から35年後の1945年です。
住む主もなく灰色に色褪せた35年ぶりの宮殿に足を踏み入れたアメリア王
妃は、案内人にかつての自分の部屋でしばしの間、独りにしてくれるよう頼
んだそうです。昔の栄華に思いを馳せ時代の移り変わりを身をもって感じた
ことでしょうか。王家最後のアメリア王妃がポルトガルを訪れることは二度
とありませんでした。

AMELIE~1
ドナ・アメリア王妃  Wikiより。
今、鮮やかに蘇りツーリストを呼び寄せるペナ宮殿ですが、その陰にある歴
史を知ってみると人の世の栄枯盛衰を感じずにはいられませんね。

ペナ宮殿はこれでお終いです。
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2012年8月8日
 
いえね、息子でございます、竜巻とは(笑)

本日真夜中に3年半ぶりの帰還であります。「帰還」とは本来は戦地から基
地、もしくは故郷に還ることを言うのだそうですが、我が息子の場合あては
まらずとも遠からじ。

のんびりとしたポルトガルで生まれ育ち、20代の後半ぎりぎりくらいにな
って、生き馬の目を抜くような東京へと旅立ち、日本社会で働いているので
すから、彼からすれば戦場に例えられないこともなかったであろう。

長期休暇がなかなか取れない日本社会ですが、大学での非常勤の仕事が夏季
休暇に入ったところで、今回やっと帰省です。それで、3年間整理ダンスや
衣装ケースに入ったままの息子の衣類を引っ張り出して洗濯するのから始ま
り、息子、娘の部屋を整理し、ただ今台所の整理が半分ほど終わったところ
なのですが、低い箇所はしゃがんだ姿勢で整理することになり、内腿筋肉の
痛いこと!歩くのも座るのも「いてててて」とアヒル歩きをしております。

が、普段はこういう時間がとれません。少し余分なスペースもでき、きれい
に整頓できた台所の収納棚は気持ちがいいものです。これがために思い切り
よくどんどん人にあげた、捨てた!そして出てきた箱の中身になんとこんな
ものがあった↓
002.jpg

昔、苦労して日本から持ち込んだのに、お蔵に入りそのままになっていたま
っさらの炊飯器ではござらんか。すっかり忘れていた。今頃出現されても
なぁ、変圧器がもうありません。あぁ、もったいない。そこで、これを息子
に日本へ持って帰ってもうらおうと思っているのですが(笑)

いつの間にか普段はわたしのアトリエになってしまっていた息子の部屋も漸
く整頓できました。

さて、竜巻のごとき我が息子。行動力が激しくてじっとしていることがない。
今回の帰国にあれ持ってきてこれ持ってきてと依頼するつもりが、一向につ
かまらない。妹のモイケル娘いわく、ヤツはあまり家におらんよ・・・一つ
屋根の下におって顔を合わせることが少ないなんて、おいおい、君ら^^;
夏休みに入り音楽活動が増えたのであろう。

リスボンでの学生時代から休暇でポルトに帰って来ては久しぶりに高校時代
の友人達との交流で殆ど家にいることがなかった。その分こちらは、晩飯は
食うのか食わないのか、泊まるのか泊まらないのか、車が必要なのだぞ、お
っかさんの車、返せ~と息子のスケジュールに振り回される。

たまに家にいたと思うと、するに事欠いて猫をからかい追っかけまわす。周
囲が振り回され竜巻、台風の目の如しなのである。モイケル娘の話に察しが
つき驚くにいたらない。東京でそれができるということはそれだけ交流範囲
が広くなったと言える。まずはよしとしようか。

今日は3年半前の2009年、日本の地を踏んだ我が東京息子の当時の様子
を再度アップ。

以下、お時間のある方はどぞ。

2009年3月6日

「昨日ね、(下関の)ショッピングセンターへ行って、マッサージチェア
(電気あんま椅子だよ、それ^^;)座ってみたら、いつの間にか眠っちゃ
った。そしたらね、靴を脱いでください、それにここは寝るとこではありま
せん、て言われた。あはは」

ん?日本の店員にしてはちょっときついなと思い、話をよく聞いてみました。

わたし 「モイケルはその場にいなかったの?」
息子  「いたよ。モイケルも別のに座ってた。で、ぼくの前に中年の男の
人も座ったんだ。 その人もちょっと寝てたけど。」と言う。

モイケルは靴を脱いだが、その中年の男の人は靴を履いてあんま椅子に座っ
ていたのだそうだ。それでこの母、のんびり者とは言えそこは海千山千(笑)
アッと思い、

「お前、ここを出たときのあの靴履いてたんじゃないの?」
「うん。穴があいてたし、それにジャスパー(ポルトに住む幼友達。発つ前
の日まで彼の新居のペンキ塗りを手伝っていた)のとこでもそれを履いてた
から、ペンキもちょちょっと付いてた。」

思ったとおりだ。長旅でひげも剃ってないだろうし(パジャマ同様電気シェ
ーバーも手荷物に入れろと言ったのに、聞かなかったw)、頭の髪だってい
い加減な自己床屋だし、その上、穴あきペンキ付きの靴とくれば、これはも
う日本人から見れば立派なホームレスじゃん・・・

「お前、ホームレスと間違えられたんだよ! 」
「うはははは。」と笑う息子、はい、母親も一緒に笑ってしまいました。
発つ前に、靴もポルトガルのは履きやすいし、物がよくて値段も廉価、買っ
ていけ、床屋くらい行っておけと言うたのに、なんだらかんだらと出歩いて
ちっとも家におらず、結局、日本で買うからいいや、と件(くだん)の穴あ
きペンキ付き靴を履いて行ったのでありました^^;

こんな具合ですから、いったいこれからどんな展開になるのか、困ったよう
な可笑しいような。職場ではスーツを着ることになっているので、当分は着
付けなくて借りてきた衣装を身に付けた感じであろうと想像すると、もう腹
がよじれてきます(笑)

日本上陸第一日目がこんな風で、翌朝には東京へ向かった、「二人+3匹の
猫+それぞれのパソコン+それぞれのバックパック
」らですが、頃合を見計ら
ってモイケル娘の携帯電話にメッセージを入れますと「つかれた~~」と
返信一言。

その後すぐに引越し荷物が到着し、アパートの4階まで引き上げたようで。
ちなみにアパートはエレベーターなし。よくやるよ(笑)

少し前に所沢の妹と二人の引越しについて話したのですが、その際にそれぞ
れがパソコンも運ぶので3匹猫をどうやって運ぶか?となり、今でこそあま
り使われないでしょうが、わたしの若い自分にはキャリーカート(↓)なるも
のが重宝されたものでネットで見つけてモイケル娘に、
キャリーカート
これを買え!と勧めてあったのでした。

一人はペットケージをひとつ持ち、もう一人はこのキャリーカートにペット
ケージ二つをくくりつけて運べばよか~、と考え^^

すると、我が妹、なにげにかクスッと笑い、「面白いね、ゆう(彼女はわた
しをそう呼ぶ)が昔したことと似たようなことを子供たちもするんだわ。
おっほっほっほ」
 
に、似たようなこと・・・
 
あぁ、それは思い出せば遥か遠い昔、2歳の息子を連れて3年ぶり
の初めての里帰り。当時、ポルトガルから日本へ帰国するには、必ずヨーロ
ッパの乗り継ぎ都市で一泊しなければなりませんでした。
 
ロンドンのガトウィック空港ホテルで一泊し、翌朝リムジンバスでヒースロ
ーへ移動。ロンドンから日本まで18時間、ポルトからは2日がかりの旅で
した。

旅行カバンは紙おむつと離乳食とでパンパン。よちよちと歩き始めた2歳の
息子を腕に抱きかかえる体力なく、思案して楽な方法をと思いついたのがこ
れなのでした↓
ショッピングカート

そ、そうです^^; ショッピングカート(笑)
    
これに荷物の如く息子を入れて、ヒースロー空港、成田空港、そして、一日の
仕事も終わった人出でごった返す夕暮れの池袋の街中を「あっはっはっは!」
と指差され笑われながら、ゴロゴロひきづって妹宅へたどり着いたのでした。

恥も外聞もなく、されど母は強し(笑)しかし、このショッピングカートを
ポルトで調達するのも当時は苦労したのであります。妹はこの時のことをしっ
かり覚えておったのでした。歴史は繰り返すってかい!
  
お粗末さまでした。

2009年3月11日

南行徳に居を構えた二人の兄妹、昨日やっとネット接続ができました。

引っ越してちょうど一週間になります。まだ、アパートはすっかり落ち着い
たところまで行かないでしょうが、なんとなく人が住む部屋らしくなってき
たことでしょう。

さて、息子が早速メッセンジャーで言うことには、今日周囲の人たちに笑わ
れたのだと言う。なんで?と期待満々で聞く母(笑)

一人で布団を買いに行った。
宅配してもらうとお金をとられるので自分で運ぶことにしたのだそうだ。息
子が運んだ込んだその荷物とは、「マットレス、敷布団、掛け布団、毛布そ
れに枕」・・・・・・・・・・

お、おい@@、お前、それを全部持って歩いたんか~(爆)しかし、考えて
みれば、大してお金を持ってもいない身分の息子、ちょっと頑張ればできる
ようなことなのだから、重いだのカッコ悪いだので払うのは無駄なお金とし
て、できるだけ使いたくないというのだろう。彼の名誉のために言うが、息
子はケチなのではない。リスボン時代の仕送りもできるだけ親に負担をかけ
ないようにと心がけてきたようで経費等の親への余分な無心はなかった人で
ある。

今時、日本ではそんな大きな荷物を持って町を歩く輩はおらんわい。周囲が
見て笑うのもごもっとも!と思いながらも、大都会でイナカッペ丸出しの息
子の話を聞いて、わたしはなんだか楽しくなった。

息子よ、あんたはえらい!周りがどうのこうのというより、迷惑をかけない
のであれば、そういう範囲内なら大いに自分の主義を通してください。

息子のこんな話を聞きながら、晴れて日本の大学生となり日本で一人暮らし
を始めた頃の4年前のモイケル娘の愉快な話を思い出さずにはいられなか
った。最近、この手のズッコケ話を彼女から聞かなくなったから、少しは日本
人らしくなってきたのかしら^^
                          ―引用終わり


あと3時間後に竜巻到着です。

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2012年8月7日 

今日はペナ宮殿を次回に回して、ロンドンで今開催されているオリンピック
について感じたことを書いてみたいと思います。

「スポーツは観るのよりもするものなのよ」とうそぶくわたしですが、この
ところ、帰宅するなりテレビでオリンピック競技を観戦する夫につき合わさ
れて、仕方なく種々の競技の成り行きを目にしているのですが、オリンピッ
クも随分変わったなと思ったことのひとつに開会式の催し方と入場行進があ
ります。

これまで開会式をあまり観て来なかったせいもあるのですが、久しぶりに見
た入場行進、え?フィナーレの節だなと思われたのであります。隊伍を組ん
で進むことが「行進」と言うからにはもう「入場行進」とは言わないのだろ
うか。、各国の選手が適当にぞろぞろ進んで、行進に持ち込んだデジカメを
女王に向けたり観客席に向けたりと、なんだかなぁ。

これから世界一の技を競うのだと言う凛とした気概が見受けられず、だらだ
らしていて感動が沸かなかった。日本チームがデジカメなど持ち込まなかっ
たのがよかったと思ったものです。開会式のパフォーマンスも国家の繁栄、
威力を誇示したいのだろうが、余計なパフォーマンスは削ってスポーツ祭典
に絞った方がわたしは好きです。

大掛かりなパフォーマンスに気をとられ過ぎたからではあるまいが、今回の
オリンピック開会式ではインド選手団行進に関係者外の女性が紛れ込むとい
うハプニングのほかにもうひとつ、

オリンピック
インド選手団の先頭に混じって独りユニフォームを着ない女性が選手団
顔負けの笑顔で行進している。画像はwikiより。


日本のメディアではあまりとりあげられていないそうですが、我が国の選手
団の不思議なハプニングがあります。各国の選手団はトラックを一周した後、
真ん中のフィールドに入るのだが、日本選手団の一行は写真でご覧の通り、
途中で白い服のラインに遮られ、立ち止まって後、

オリンピック

退場させられています。
オリンピック
画像はwikiより

わたしはこの少し前に、日本の入場はまだだろうと、台所で夕食の準備に取
り掛かっており、再びテレビ画像に向かったときには日本は入場を終えてし
まっていた。真ん中のフィールドに紅白のユニフォームを目印に日本選手団
の姿を探したのですが見当たらなかったのです。行進参加した選手団の人数
も思ったより少なく、それで見つけるのが難しいのかなくらいに考えたので
すが、退場させられていたとは・・・
フィールドには国旗はありましたが、国旗も誰かに手渡して旗手も退場した
との情報です。

この日本選手団の不思議な退場に関しては現場の指導員のミスだとか、選手
団が胸にかけていた「東北の瓦礫で作られた瓦礫メダル」の二次被爆を恐れ
てだとか色々憶測が飛んでいますが、現時点では理由が判明しておらず、競
技開催後も不手際が目立つ今回のオリンピックではあります。

あくまでもわたし個人の感じるところですが、選手たちの隆々とした筋肉を
見ては、肉体改造で力を競っているような気すらして、世界新記録への興味
すら薄らいでしまいます。こんな風に感じるのは自分が古い世代だからかな?

これら近年のオリンピックの中でも、昔とあまり変わらず生身の人間の競技
が感じられるのがマラソンです。

マラソンは一度たりとも長距離を走ってみたことがある人は、それがいかに
過酷な競技であるかを知っていると思います。

わたしの高校時代は学校の恒例行事で女生徒は否応無しに全員5000mを
(男子は1万m)走らされましたが、単に走ることがこんなに苦しいことかと
このときの体験は生涯忘れるものではありません。あれは人生に似ている気
がしないでもないと振り返って思った大きな体験でした。

オリンピックの忘れられないマラソンが二つあります。1984年のロスア
ンジェルスオリンピックです。この年、わたしは4歳になる息子を連れて帰
国しており、大阪、堺にあるアサヒ・ビアハウスでの歌姫時代の先輩、宝木
嬢のお宅に帰国、数ヶ月居候していたのでした。

宝木嬢もかつてのわたしと同じように、日中はオフィス勤め、夜はビアハウ
スで歌姫に変身。居候中の日中、わたしは彼女の家で留守番役兼掃除係をし
ていました。

ある日のこと、オフイスで仕事中の彼女から電話で、
「テレビ観てる?マラソンでポルトガル人選手がトップを走ってるわよ!」
たいしてスポーツには興味がないわたしです、その日もオリンピックなどど
こ吹く風と鼻歌など歌いながら、宝木家の掃除やら洗濯やらをしていたので
すが、慌ててつけたテレビの画面から、おおお!競技場に今や入らんとする
カルロス・ロペスの姿が目に飛び込んで来ました!
やるじゃない、ポルトガル!37歳のカルロス・ロペス、この年は金メダル
を獲得したのでした。

わたしは、この時期、再びバイトとしてアサヒビアハウスで週に2度ほど歌
っていたのですが、オリンピック閉会後、常連仲間で○サヒ放送のK氏の話で
耳にしたのは、ポルトガルのカルロス・ロペスなど優勝候補に上がってもい
なかったので、どこも彼の写真を用意していなかった。故にメディアで使用
された写真はロペスのゴールを切るものばかりだったとの裏話。

この後、ポルトガルはソウルオリンピックの女子マラソンで優勝し世界記録
を保持するロザ・モタ(ポルト出身)というヒロインを生むわけですが、こ
れらにも増して、わたしが今でも思い起こすたびに胸が熱くなってしまう忘
れられない光景が、この年のロスアンジェルスオリンピックにあるのです。

それまでは女子マラソンはリスクがあるということで、オリンピック競技に
は入れられていなかったそうですが、この年、初めて女子マラソンが登場し
ました。なんの拍子でか、わたしはたまたま女子マラソンの後半を見ていた
のですが、競技のほとんど終わりのころ、会場に熱中症でふらふらになりな
がら入ってきた一人の選手がいました。その姿を見てスタジアムの観衆は騒
然、わたしは唖然。

オリンピック
画像はGOOGLEから

彼女は、先の一歩を踏み出すのもようやくのことで、今にも倒れそうです。
トラックサイドの係員が彼女を支えたが最後、競技からは失格です。それを
拒みながら、熱中症で重病人のようなスイスのアンデルセン選手は一歩一歩
とよろめきながら進んでいきます。会場の観衆は一丸となり彼女を声援しま
す。テレビを見ていたわたしも、がんばれ!がんばれ!と声に出して応援、
いつしかかわたしの頬を涙がつたっていました。

スタジアムに入場してからのトラック一周を意識朦朧とした状態でヨロヨ
ロ進みながら6分ほど。アンデルセンがついにゴールした時は会場は総立
ちで嵐のような拍手が鳴り止みませんでした。ゴールと同時にアンデルセ
ン選手は係員に抱きかかえられ、恐らく病院直行だったことでしょう。

このとき39歳だったアンデルセン選手(スイス)は、後日語っています。

「普通のマラソンならば棄権していました。女子マラソン最初の歴史的大
会だったので、どうしてもゴールしたかったのです。肉体は走ることをも
う諦めていましたが、わたしの意思が肉体を動かしていたのです。人は心
から何かを願えば殆どのことが叶うのです」と。

長距離マラソンは孤独との闘いです。このときの彼女の姿は、ヨロヨロに
なりながらも誰をも寄せ付けない自分との厳しい闘いに極限状態で挑み、
Never give upの精神を観衆に知らしめたのです。
人間てすごいなぁ、と30年近くも経った今日でも、あのときの感動を再度
感じずにはいられないオリンピックの一幕です。

この時は誰が優勝したか?それがです、このアンデルセン女子を覚えていて
もゴールドメダリストを覚えていない

youtubeでこの時の画像を見つけました。
あまり鮮明ではありませんが、どぞ。

  「1984年・ガブリエラ・アンデルセン 

そしてこちらは1964年東京オリンピックの入場の模様です。

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2012年8月4日

モイケル娘が帰省した5月に家族3人で訪れたシントラのペナ宮殿だが写真
の整理もさることながら、自分が不思議だと思ったシンボルを調べる時間が
持てず今日に及んでしまいました。
日本語教室が夏季休暇に入り、本日やっとエントリーに取り上げることがで
きました。

少しマニアックな点がなきにしもあらずですが、シンボル解説については
あくまでもわたしの推察になりますので、ご了承願いたいと思います。
2回にわたります。ではでは 


ペナ宮殿

大西洋から18キロ、シントラ山脈のふもとにあるシントラは古くから王侯
貴族の避暑地とされ、特に15~19世紀には多くの離宮が建てられ、現在
ではそれらの史跡を含むシントラの文化財は世界遺産として登録されている。

シントラの中心地である歴史地区から4.5キロほど上った山中の小高い丘の
上に立つのが、周囲をこんもりとしたペナ公園の森に囲まれた「ペナ宮殿」
である。 

ペナ宮殿
まるで、御伽噺に出てくるような華麗なお城だ。
註)全容の美しさを見ていただきたいと思い、この画像のみ、筆者の視野
からは撮影不可能だったためwikiより拝借。


19世紀から20世紀始めまで歴代5人の女王と王が住んだペナ宮殿。今日の
華麗なお城は女王ドナ・マリア2世(在位期間1826-1828、1834-1853の
配王であるドイツのザクセン・コートブルク・ゴータ家のフェルナンド2世
に負うところが大きい。

1755年11月1日のリスボン大地震以来、廃墟になっていた岩山のペナ礼
拝堂(地震で崩壊したサン・ジェロニモ修道院の一部)を訪れたフェルナン
ド2世は、そこからの絶景に魅せられ、ネオゴチック、ネオマヌエル建築、
イスラム建築、ルネサンス建築の多種の建築様式を取り入れたファンタジー
な王家の離宮を建築した。それがペナ宮殿である。

宮殿内は残念ながら撮影禁止だが、外壁には多くのミステリアスなシンボル
が埋め込まれてあり興味が尽きない。

ペナ宮殿 

ペナ宮殿

ペナ公園内、池の塔。200ヘクタールの広さを持つペナ公園は予めコース
が決められており、山頂まで行ける。宮殿手前からも入園できるので、宮殿
の入り口と間違わないよう要注意。 (間違うところだった我らである)  
 
ペナ宮殿
入り口から宮殿までの乗り物。徒歩でも行けるが、私たちは下山で楽な帰り
を歩いた。

pena_1.jpg
下から仰ぐペナ宮殿。

ペナ宮殿
イスラム建築様式の門。
下の画像は門の内側。拡大して見ると開いた手と薔薇のシンボルが見られる。

ペナ宮殿
下の薔薇は言わずと知れた中世から存在する薔薇十字団のシンボル。
上方の開いた右手はイスラム今日では「ファティマ(預言者マホメドの娘)
の手」。

ユダヤ教では「ミリアムの手」と呼ばれる護符のシンボル。また、「5」の
数字は聖書では非常に重要な数字で、創世記、出エジプト記、レビ記、民数
記、申命記のモーゼの5書を意味する。「ファティマの手」はアラビア語で
別名「ハムサ(5の意味)」とも呼ばれる。

ペナ宮殿 ペナ宮殿
(左)更に薔薇の下にはローマカトリック教のシンボル「聖ペドロの天国の
鍵」が。
(右)同じ門にワニがアゴを突き出している。ワニは古代エジプト神話の
「セベク」のシンボルだ。セベク↓はカオスの水の中から出現して世界を創造
したという伝説がある。
       ペナ宮殿

この門には異種の多様な宗教シンボルが装飾されていて不思議だ。

ペナ宮殿
別アングルから見たペナ宮殿

次回に続きます。
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2012年8月1日

システィーナ礼拝堂

ユダヤ教の解釈では楽園に描かれる禁断の果実はりんごではなくいちじくだ。
ミケランジェロはシスティーナ天井画のいたる箇所に痛烈な教皇、バチカン
批判を暗号として描き残したわけだが、ここでは紹介しきれないので、解説
に興味のある方は本を読むことをお勧めする。

その才能を見込まれ、ミケランジェロは若い頃からカトリック一色の中世に
あって、カトリックの説く教義と異なった自由思想を育む環境、芸術家たち
の後ろ盾となり古代神秘主義、ギリシャ哲学、ユダヤ教の思想を自由に学べ
る当時ヨーロッパ一の大富豪フィレンツェのメディチ家に迎えられ過ごした。

システィーナ礼拝堂はユダヤ教の神殿を再現して建てられたと言われる。
反ユダヤ主義をとりながらユダヤ教の神殿に似せカトリック教皇自身の権力
を誇示しようとする天井画計画を言いつけどおりには、到底承服できなかっ
たミケランジェロだ。彼の一徹な性格は教会の腐敗、欺瞞が我慢ならなかっ
たようだ。

この反骨の芸術家は自分しか考え付かない天井画の構想を練り続けた。バチ
カン宮殿で日常的に目にする数々の偽善や権力の乱用にたいして、日頃から
感じていた激しい思いを、投獄されたり処刑されたりせずに伝えることがで
きる方法を、である。

システィーナ天井画がカトリック教義を表す作品であるのに、天井に描かれ
た300人を超す人物の中には、実は一人もキリスト教徒がおらずキリスト
教的な含みはことごとく欠けているのだ。中世時代であることと高さ約20
メートルの天井画であればこそ、容易には見破られなかったのである。

教皇とぶつかりながら、頑固な面構えで時には教皇たちの虚栄心をくすぐり、
ミケランジェロは見事なまでにしてやったのだ。

さて、もうひとつ、ミケランジェロの反抗の作品を。
ミケランジェロの最後の仕事となった、教皇ピウス4世から依頼された
仕事、ローマの「ポルタ・ピア門」である。

システィーナ礼拝堂

ポルタ・ピア門には奇妙な飾りがある。

ピウス4世は低い身分の家柄の出身だった。身分が低いのはよしとしてバチ
カン宮殿を女人禁制にし、ユダヤ教のカバラ等の書物を焚書、ユダヤ人をゲ
ットーに強制収容にしたパウルス前教皇と同じ政策をとった教皇でもある。
他方では愛人たちに湯水の如く教会の資金を浪費してもいたのだ。メディチ
家で自由な思想に囲まれ、カバラをも学んでいたミケランジェロ、これに取
り組んだのは齢80くらいで、一徹さを相変わらず抱き続け、思い上がった
教皇に向けてまたしても強烈な一矢を放ったのである。

システィーナ礼拝堂

ピウス4世の父親は旅回りの理髪師で瀉血(しゃけつ=治療の目的で一定量
の血液を体外に除去すること)をも請け負っていた。ポルト・ピア門の不思
議なモチーフとは旅回りの理髪師が使う「一本のタオルと洗面器」なのだ。
教皇庁が気づいたのは一世紀も経ってからだと言う。

さて、最後にもうひとつ。
教会により当時は禁じられていた人体解剖だが、ダ・ヴィンチ然り、ボッティ
チェリ、ミケランジェロ等の芸術家たちは、密かに解剖学的研究をしていた
ようだ。かくして彼らは巧妙にカモフラージュされた臓器を絵画に隠したの
である。

下はシスティーナに隠されたミケランジェロの臓器。創造主を包む紫のケー
プは腎臓、もしくは脳の断面図と言われる。

Sistine_Chapel_ceiling_left.jpg

こちらボッティチェリの有名な「春」。中央に見える木々の隙間は肺の形を
している。
システィーナ礼拝堂


システィーナ天井画には知る人が見ると、解剖学の教科書に載っている構造
図に類似している多くの人間の臓器が見られるとのこと。20世紀になり外
科医によってやっと発見されたのである。

いつの時代にも権力者為政者の欺瞞、腐敗はあるものだ。が、4世紀も前の
絶大な権力を持したカトリック教、自己顕示欲にとらわれた教皇たちをこう
も痛烈に批判したミケランジェロのメッセージには芸術家の真骨頂を見る思
いだ。けだし、しんどい生き方ではある。

カトリック宗教の価値観に支配されていた時代は、科学の暗黒時代とも言え
る。今年3月から9月までローマのカピトリーニ美術館ではバチカン秘密文
書館400年を記念して門外不出100点の資料が公開展示されているとのこと。
その中にはガリレオやテンプル騎士団の裁判記録もあるそうだ。このような
資料公開が拡大され、歴史の真実を少しずつ知ることで、宗教とは、わたし
たちが生きる世界とは何なのかの問いに向き合える機会を得られるのではな
いかと、やはり長期に及ぶカトリック教支配下にあった、そしてその文化背
景を持つヨーロッパの端ポルトガルに住んで考える。

ミケランジェロの暗号は今回でおしまいです。
なお、文中、そのままではありませんが本の引用が数箇所あることを書き添
えておきます。
長い拙ブログにお付き合いくださり、ありがとうございます。
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