2012年10月31日 

自宅日本語教室の授業を3週間もしくは4週間毎に、一週間休講にして
その週はゆったり休もうと言ったのは昨年のことでした。
が、結局それができずして、逆にボランティアの影絵作成だとか市立図
書館の日本語開講だとかで仕事を増やしてしまい、今日まできたのです
が、このままでは体力的に続かないと自覚したのがしばらく前です。

そこで、この秋からは欠かさず熱心に通ってくる生徒さんにその由を伝え
承諾してもらったのです。少し体調不振だったのがうまい具合に数人の
生徒たちが2週間ほどの休暇をとったりしたもので、久しぶりにバタバタと
慌てふためくことなくこの2週間を過ごしています。

で、昨日は藤本儀一氏が亡くなったとのニュースを目にし、この数年、忙
しいのにかまけて、日本のことを思い出す暇もなかったのですが、儀一
氏にまつわるビアハウス時代のエピソードなどをめくっていたのでした。
(エピソードはこちらに)

ビアハウスのバイト歌姫時代は同時にわたしの大阪のOL時代でもあり、
あの頃を懐かしみながら、「そう言えば、彼はどうしているのだろうか」と
わたしはめったにしないことなのですが、ふといたずら心でその人の名を
検索して見ました。
「ボブ・グロンディン」、いや、こっちがいいかな?「Robert Grondine」・・・・
2006年4月6日のブログ日記「炉端焼き」と題してボブについてはこんな
ことを書いています。

炉端焼きの居酒屋に、わたしは限りない愛着がある。
そこには数々の懐かしい思い出があるからだ。

特に、大阪は京橋地下街の炉端、京阪沿線宮之阪駅前の炉端ではわたしは
常連の部類に入っていたと思う。

流れる音楽が演歌で、それが難と言えば難だったのだが、しかし、炉端に
ジャズやらシャンソンを望むのは、中華料理店でフランス料理を注文する
ようなものだろう。
泣き節の演歌はあまり好きではないが、それが炉端にぴったしなのには、
どうにも仕方がない。

外国人の友人ができると、わたしはよく炉端に案内したものである。
当然夫も時々わたしに引っ張られて行ったことになる。
わたしが勤めていた会社の東京本社には、ハーバード出のボブがいた。
本社とは仕事上しょっちゅう電話連絡をとるのだが、初めて彼と話した
時は、電話の相手がアメリカ人だったと聞かされるまで気づかなかった。
それくらい、彼の日本語はクセがなく日本人に近い発音にオフィスの
みんなはひたすら感心したものだ。

その彼が週末を利用して大阪へ来たときもアサヒ・ビアハウスと炉端に案内
した。日本語はコーネル大学在学中に学んだと言い、かなり流暢に、そして
語彙力もあったボブとは、炉端で飲みながら食べながら、その日、大いに
あれやこれやと議論したのである。もちろん日本語でw

日本びいきの彼、自分の名前、ロバート・グロンディンを日本名で
「炉端 愚論人=ろばた・ぐろんじん」とつけて、印鑑まで作ってしまった。
そそ、ついでにバラしてしまえば、アサヒ・ビアハウスに彼を案内した時は、
ホール中演奏のポルカに合わせ踊って跳ね回り、相手をさせられたわたし
は引きずりまわされヘトヘト、見ていた常連達もボブのステップにはすっか
り目を回したのだったw
当時は「文化住宅」と呼ばれた、駅から徒歩10分ほどの二間、トイレバス、
台所付きの小さな我がアパートは京阪宮之阪にあり、駅を出るとすぐ横に見
える炉端。ここには、我が親友、「かつらぎ山房」の主「みちべぇと」よく行った。
みちべぇはもちろん女性です^^ わたしが働いたオフィスの後輩なのだが、
当時同じ駅のすぐ側にご両親姉妹と住んでいるのを偶然知って以来、自分が
グンと上だという年の差も忘れて意気投合。以来30年以上のつきあいになる。

ポルトガルに来た当時、アサヒ・ビアハウスがただただ恋しかったが、同
時にまた今のように手に入らなかった日本食への思いも深く、炉端を恋う
思いも募るばかりだった。挙句が、「我が息子ジュアン・ボーイが大人に
なったらいつか炉端へ行き、酒を酌み交わしながら人生論をぶってみたい」
と、それが夢だったのである。

わたしの若い頃は、しつこい酔客や端迷惑な酔客もいたにはいたが、お酒の
場とは、人生論を戦わせる場でもあったような気がする。 
会社の愚痴、上司の愚痴あり。しかし、人生の夢を語る場でもあった。 
お酒の加減よい力を借りて、本音をさらりと口滑らすことが、ああいう場で
はなんだかできたような気がするのだ。それでわたしは炉端が好きだったの
だと思う。

あれからもう30年、炉端焼は今ではかつてにように、そこここにあるもので
はないようだ。今の若い人たちは、いや、若い人達に限らず、現代人たちは、
どういう形で人と人生を語り合うのだろうかと、ちょっと興味を持つ。

みんなまともに面と向かって顔つき合わせて、人生論を戦わせるのだろうか。
しらふで語ることも勿論大切なことではあるが、人の人生って理屈だけでは
語れない部分があるのじゃないか、すると、やはりちょっとお酒なんかあっ
たら、語らいやすいなぁ、なんてわたしは思ったりするのである。
(引用終わり)


日本語英語検索で両方、出てきました。なんと、彼は東京のとある国際的な
法律事務所を立ち上げ、私立K大学で教鞭を持ち、ワイドショーの討論にも
出演して国際経済問題を語っていたとは!

在日米国商工会議所の最高顧問もしていたとありますから日米をまたにか
け、まぁあなた、随分活躍しているのね。

と思いきや次の文字に軽いショックを受けました。
弁護士. 2011年10月に逝去。

そんなわけで、今日は遅まきながらボブへの弔い話を。

東京本社、大阪支社と勤務先は違うが、ボブとはかつて同僚で休暇を利用し
てヒッチハイクの初体験も含め共に九州旅行をしたこともある間柄でした。

usaco1-1.jpg

我が職場は、それなりにアタマにくることもありはしましたが、今にして
みると随分愉快な職場だったと思い出されます。少人数のこともあり、社
員同士のチームワークがよく、本社との関係も悪いものではなかった。

パソコンの職場導入がなかった当時のこと、本社との連絡のやりとりでは、
電話では埒があかない件は手紙で用件が書かれている連絡事項用紙を他の
書類と一緒に専用の封筒に入れるのです。

どちらが始めたのか覚えていませんが、その封筒にちょっとしたオモシロメ
ッセージを誰かが書き始め、以来、専用封筒がボロボロになり、もう書き込
む隙間もないと言うくらいに表面がおアホなメッセージで真っ黒け。
もちろん、ボブやわたしのメッセが中心であったわけですが、それに他の
社員も加わり(笑)誰の目にでもつくその封筒、ある日、我らが所長が目に
入り、「なんだ、こりゃ、お前たち!」と相成りお叱りを受け(笑)
以後、封筒メッセはあえなくボツ^^;

usco
10人くらいの小さな支店で社員旅行にて。左端が所長。赤い人がわたし

同僚の女性Tとわたしは同い年で、本社支店合わせても、エヘン、最高の事
務仕事コンビと言われたのであります。そそっかしいわたしをカバーした
Tの苦労やいかばかりかw

usaco
鳥取砂丘でのひととき。20代、30代、40代でこれです。逆おしくら
まんじゅうw 赤い人がわたしw 今ならさしづめセクハラとかでお咎めを
受けるかしらw そんなことは思いもせず単純に童心に帰ってw


usaco

こんな雰囲気のオフィスで、本社と支社の封筒メッセの愉快なやりとりもあ
って然るべき(笑)そのうち、ボブは東京で日本女性Aさんと結婚し、その
後二人はニューヨークへ。
法学部大学院で再び学業に取り組み、簡単な近況報告のクリスマスカードが
舞い込むこと数年。わたしもビアハウスのバイトで目標額に到達し、オフィ
スを退職してアメリカへ渡り、
usaco
1977年オフィス時代最後

やがてポルトガルで子育てに夢中になり、いつの間にかボブとは連絡が途
絶えてしまったのでした。まさか、日本で活躍していたとは夢知らず。

人のことは言えないけれど、ネット上で見るかなり恰幅がよかった写真には
やはり上の若い時の面影が見られます。享年59歳。ボブ、ちょっと早かっ
たのが残念ですよ。ちょうど一周忌の今月、しばし、あのオフィス時代に
思いを馳せて、あなたの冥福を祈ります。
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2012年10月29日 
今日は昨日目にしたちょっと素敵なニュースを。

 第146回天皇賞・秋(28日、東京11R、GI、3歳以上オープン、
国際、指定、定量、芝2000メートル、1着本賞金1億3200万円
=出走18頭)日本での騎乗経験も豊富な名手ミルコ・デムーロ騎
手が見事にエイシンフラッシュを復活へと導いた。
 
デムーロ騎手は「とてもエキサイティングだ。すべて勝つように運
が向いた」と喜びの声。「内ラチ沿いを走れて、行きたいところでス
ペースも空いた。馬の状態も良かったし、内ラチ沿いを行こうと思っ
ていた」とレースを振り返った。

レース後はご臨席の天皇皇后両陛下に対し、下馬しひざまずき最
敬礼。「両陛下がいらした特別な日に、勝つことができてとてもうれし
い。この馬の前回の勝利から2年半、僕が勝つために待っていてくれ
たのかという思いだ」と感激の表情を浮かべていた。
(サンスポから引用)


uma

イタリア人のミルコ・デムーロ騎手は「一番好きな国はイタリア、次は日
本」と言って憚らない大の日本ファンだそうです。
上の写真では礼儀をつくし両陛下の前で下馬、ヘルメットをとり跪いて西洋
流のナイトの精神で最敬礼しています。このとき会場からは大歓声が起こり
ました。その後、デムーロは馬の首をとんとんと叩き、まるで馬までが敬礼
したように見えたのです。

実はウイニングランの後、検量室に戻るまで下馬してはいけないというルー
ルがあるのだそうですが、この日はお咎めなしとのこと、競馬協会もやるで
はないですか。なんだか清清しいこのニュースに、体調低迷状態の近頃、今
朝は気分がいいというものです。

またポルトガルのテンプル騎士団の関連で、たまたまちょうど読み終えた塩
野七生氏の「十字軍物語」第二巻、デムーロ騎手の祖先が十字軍騎士団長だ
ったと知り彼に流れる騎士道精神になるほどと頷けたのでした。

クレボーの聖ベルナールの提唱で、イスラム教徒から聖地を奪回しようと、
始まった十字軍遠征は1095年から1272年まで9回にも渡ります。
ヨーロッパの諸侯が参戦するなか、十字軍遠征で生まれた組織がテンプル騎
士団と聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)です。

なかでも、修道士にして戦士と言う二重性をもつテンプル騎士団はグランド
マスター(総長)をトップに決して降伏しないことを誓う士気の高い中世最
強の騎士団としてイスラム教徒から恐れられたといわれます。

十字軍とイスラム軍のエルサレムでの戦いは両者とも守りと反撃の繰り返し
の歴史になるのですが、今回読み終えた第二巻はイスラムの英雄サラディン
の登場で12世紀も後半、これまで分裂してきたイスラム諸軍が団結しジハ
ード(聖戦)を唱えて十字軍に反撃し、ついに90年ぶりにエルサレムを奪
回するのですが、その最後の章に於けるわずかの十字軍とイスラム大軍の大
将同士の会見対決、両者の騎士道の手打ちは敵ながらあっぱれの圧巻です。

まぁ、こんなわけでデムーロ騎士の騎士道につい反応してしまったのですが
ついでに競馬と言えば全く無関係とは言えない我が父のことを少し。

亡くなった我が父は若い時分、岩手の地方競馬の騎手でした。岩手にいる
ことが多く、故にわたしが物心つくくらいまで母と妹とわたしの3人は祖母
の家に身を寄せ父親不在の生活、定収入があるわけではなかったので当時の
母の苦労は並大抵でなかったはずです。

春衆(はるしゅう)と呼ばれた父も加齢と体重増加で馬を下り、南部生まれ
が津軽の弘前に住みついたその後も、父の馬好きは変わらず、分不相応に馬
主になったりしたものですから、母の苦労は尽きることがなかったのです。

思春期のわたしはこの父に面と向かっては歯向かわなかったものの日ごろの
何気ない所作に反抗心がどうも現れるようで、父から仕置きを受けること度
々、母と妹をはらはらさせたものです。その父も鬼籍に入って26年になり
ます。

手元に父の晴れ姿の写真が一枚もないのは至極残念ですが、父は過失で家
を一度焼かれており、その折に、わたしが子供のころから毎日目にしてきた
部屋の壁に飾られた自慢の優勝時の写真も焼失してしまいました。

さて、もうひとつ。モイケル娘が小学生のころ、突然、乗馬を習いたいと言
いい出し、冗談を飛び越し大胆にも「障碍飛越コース」を本人が言い出し、
飛び越えが始まった時には、見ていたわたしは生きた心地がしませんでした。

uma

母に電話でその話をすると、「そんなところで春衆の血が出たとはご冗談!
辞めさせておくれ」(笑)

幸いにも何度か失敗して落馬の仕方も少しは上手になったかと思ったころに
辞めてくれたので、ひそかに胸をなでおろしたわたしではありました。

ついでにわたしの乗馬体験も。
uma

修学旅行で生徒たちは全員強制的に乗馬体験、しかし先生方のダレもが乗ら
ず。こういうときの役所はいつもわたしです、生徒たちの手前、がんばって
乗ってみましたが、見た目と自分が乗ったのとの感覚の差で、正直大いにビ
ビッて乗っているのです。馬場を一周し終えるまでの長かったこと!
乗馬はこれが最初で最後のとっつぱれ(笑)

デムーロ騎手のニュースがこういうオチになり、お粗末でございました。
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2012年10月24日 

自分たちの国の運命を他国の軍事力に頼ってはならない。
(まるきり人の軍事力に頼ってる日本ではある)

全ての都市、すべての国家にとっては、領国を侵略できると思うものが敵で
あると同時に(うん、いるいる。それも大小3隣国だ!)それを防衛できると
思わない者も敵なのである。 (いかにも!国内にも敵はあり
君主国であろうと共和国であろうと、どこの国が今までに、防衛を他国に任
せたままで自国の安全が保たれると思ったであろうか。

政治上の無能は経済上の浪費につながる。(ほんとにその通り!IMFやら
ODAやら外国人生活保護費やら、震災復興予算費流用やらの浪費をあげ
つらったらきりがない)


政治上の無能はしばしば節約を強いる部門の選択を誤ることにつながる。
(ズバリ、レンホーの仕分け作業)

都市(国家)は、軍事力なしには存続不可能だ。それどころか最後を迎え
ざるを得ない。最後とは、破壊であるか隷属(怖いほどに感じる)である。

普通、人間は隣人の危機を見て賢くなるものである。 (チベットを見よ!)
それなのにあなたがたは自ら直面している危機からも学ばず、あなた方
自身に対する信ももたず、失った、または現に失いつつある時間さえも
認識しようとはしない。運は、制度を変える勇気をもたないものには、その
裁定を変えようとはしないし、天も自ら破壊したいと思うものは、助けよう
とはしない。助けられるものでもない。

個人の間では、法律や契約書や協定が、信義を守るのに役立つ。しかし
権力者の間で信義が守られるのは、力によってのみである。 
(口先と金のバラマキだけではダメ

都市(国家)は全て、いかなる時代であっても、自らを守るためには、力と
思慮の双方を必要としてきた。なぜなら、思慮だけでは十分でなく、力だけ
でも十分ではないぁらである。思慮だけならば、考えを実行に移すことは
できず、力だけならば、実行に移したことも継続することはできない。した
がってこの二つが、いかなる政体であろうと関係なく、政治の根本になる
のである。この現実派、過去においてもそうであったし、また将来において
もそうであることに変わりはないであろう。
(力のない正義は無力だということだ)

竜に一人一人順に食われていくのがいやならば、竜を皆で殺すしかない。
(脱亜論にのっとる

上記、まさに現在の我が国に向けたメッセージそのものに捉えられる。
が、実はこれ、先週前半から一気に読んだ本、塩野七生氏の「我が友、マ
キアヴェッリ」の中からの抜粋なのです。赤字はわたしの突っ込みです。
book

実はこれに加えてさらに単行本2冊を読んでるので、この一週間で5冊読破
です。道理でしばらくブログ更新が止まりましたね、先週から一気に5冊っ
て、徹夜でも?と思われるかもしれませんが、いえね、本当言うと、先週末
はなんとか気合をいれて土曜日の日本語教室二つをこなしましたが先週しょ
っぱなからぶっ倒れて、ずっと寝ていたのでありました。

床上げ漸くの昨日まで、数日横になりっぱなしだと背中も腰も痛くなり、幸
い頭の方は何気にしっかりしていたもので、体を起こしてクッションにより
かかってはまた横になるというのを繰り返しながら、読書三昧したのであり
ます。

16世紀のイタリア、ルネッサンス期のフィレンツェ共和国に使えたニコロ・
マキアヴェッリはさほど裕福でない中流家庭に生まれ、高等教育、今で言う
大学を受けていないノンキャリア官僚だったとのことで、このあたりから引
き込まれて読んだところが、んまぁ、あたかも我が国の政治家たちに言って
聞かせているような、上記のマキアヴェッリの言葉であります。
権謀術数のマキアヴェッリと言われるものの、至極まっとうな言葉ではあり
ませんか。

この当時のフィレンツェ共和国は、四方を海に囲まれた島国の日本とは地理
的条件は違っているものの、現在の日本同様、繁栄力の反面、軍事力を持た
ず、いざというときには傭兵に頼っていたのです。政府の優柔不断ぶりを、
会談に於いては若きチェーザレ・ボルジアをして「あなた方の政府は嫌いだ。
信用ができない。変える必要がある」とまで言わしています。このあたりも
今の日本政府にそっくりそのまま聞かしたい部分です。

ノンキャリアであるがため第二書記局書記官の職以上は望めず、それでも
祖国の独立を守ろうとするマキアヴェッリの東奔西走にも拘わらず、フィレ
ンツェ共和国はやがて滅亡するのでが、読み進めながら、フィレンツェ共和
国の姿が我が祖国と重なり、暗澹とした気持ちに襲われます。

賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶとはドイツ初代宰相ビスマルクが言っ
た言葉ですが、今の日本の政治家は、自国の歴史は愚か、世界の歴史に学
ぶなど及びもしないのでしょうか。手がけるべきことも何一つ進められず、
「近いうちに」と無責任は留まるところを知らない。
ほとほと嫌気がさしています。

過去の歴史にもないような、異様な姿に日本が見えるのはわたしにだけだろ
うか。そうであることを願わずにはいられない昨今です。
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2012年10月23日

今日は22年間教えた補習校時代の思い出話です。

週に一度の我が職場、中1の子供達と一緒に、児童文学作家吉橋道夫氏の
「ぬすびと面」という話を読んだときのことです。

狂言の面打ち師が、これまで誰も打ったことが無いという「ぬすびと」の
面をどうしても打てないでいる。このぬすびと面は、狂言の内容からして、
「どこか滑稽で間が抜けており、それでも一目見ただけで人を震え上がらせ
るような顔」でなければならない。

そんなある夜、面打ち師の家に恐ろしい顔をした盗人が押し込む。しかし、
どういうわけか、物は盗らず、代わりに赤ん坊を押し付けて行ってしまう。
うむと気張った恐ろしい顔の裏に、もうひとつの別の顔があるような気がし
て、「これや、この顔や!」とその時の盗人の顔をしっかり記憶に刻みこん
だ面打ち師は、ようやくノミを振り上げ面を仕上げる。

壬生大念仏狂言の始まるその日に、竹矢来を組んだ特別の場所に、牢屋敷
の囚人達も集められると聞き、面打ち師とその女房は、もしかしたら件の盗
人もその中にいるかもしれぬ。それなら一目、無事に自分達に育てられてい
る子を見せてあげようと連れて行く。

ところが、肝心のその盗人は、チラとこちらをみただけど、何のかかわりも
ないという顔をして、うむと気張って座っている。

拍子抜けした面打ち師が役人にその盗人のことを訊ねると、
「ちょいと、変わったことをやりよって。」盗んだのではなくて、間引き
されそうになった子供を助けて、育ててくれそうな家へ無理矢理押し付け
て配って回った、とのこと。

面打ち師は改めて、この世の、どうしても許しておけないことに対する、
盗人の、怒りを込めて人々を睨みつけている顔を見、もう一度「ぬすびと面」
を打ち直そうと思う。(要約spacesis)


ざっとこういう話なのですが、さて、時代物の物語の中に、海外で生まれ育
つとどうしても耳慣れない言葉が出てくるわけでして、「狂言、竹矢来、奉
行所、間引き」などがそれです。
説明が「奉行所」に及んだとき、「今で言えば警察ですね。」と一言で終わ
れるものを、亡くなった母の影響で子どもの頃は時代劇や講談が好きだった
わたし、話の成り行きで、ついついお奉行様までいってしまいました^^;

お奉行様といえば言わずと知れた遠山の金さんこと刺青判官!
海外に在住する子どもたちのほとんどは、現代物の日本マンガやビデオアニ
メは見るものの、時代物はまずなく、当然知るわけがございません。
そこでわたしはインスタント講談師に(笑)

着流しで市井にその身をしのばせ、悪漢どもを退治。最後はお見事、片肌
脱いで

「えぇぇい、往生際の悪いヤツめ。この桜吹雪がお見通しでぇい!」

とご存知18番。

日光江戸村「遠山の金さん」
2009年子供たちと一緒に行った日光江戸村でのシーン
(↑大丈夫、大丈夫^^なんぼなんでもこのわたし、片肌脱いだわけでは
ありません^^)

で、最後が「これにて一軒落着~。」と終わるのです、と講談が終わった
ところで、ジリジリーと授業終了の鐘も鳴り(笑)

すると、ポルトガル生まれでポルトガル育ちのY君、
「学校に遠山の金さんのビデオないの?」と来たもんだ。
うん、分かる分かる、その気持ち^^見て見たいもんだよね^^
残念ながらまだ日本でその番組が放映されてるかどうかも、分からない。

○HKの大河ドラマは古いものではあるけれど、結構そろっているたものの、
あれを見こなすのは、彼らには少し難しい。
しかし、毎回のストーリーもほぼ同じで筋を追いやすく、勧善懲悪の時代物
というのは、この「遠山の金さん」を始め「銭形平次」なども、痛快でここ
にいる子供にも受けるのではないかと思うのは、わたしだけだろうか。

かつて、我が娘に、「任侠清水の次郎長、森の石松、金毘羅代参」三十石
船のくだりを話し聞かせたことがある。

旅ゆけば、駿河の国に茶の香り~と始まる広沢とら造の浪曲、

相手を石松とは知らぬ客、清水一家で一番強いのを忘れてたと石松の名を
最後にあげる。内心大喜びの石松。

石松「呑みねえ、え、オイ。鮨を食いねえ。江戸ッ子だってねえ」
客「神田の生まれよ」
石松「そうだってねえ、いいねえ。……ところで石松ッてのはそんなに強えか」
客「強いのなんのって、あんな強いのは二人とはいめえ」
石松「おい、いくらか小遣をやろうか。……なに、あるのかい。
   そうかい。そうかい。 ふーん、石松ってのは、そんなに強いかえ」
客「ああ、強え。強えは強えが、しかし、あいつは、少々頭のほうが
  薄いときてる」
石松「なに……頭のほうが薄いだと」
客「馬鹿だよな。みんないってるぜ。あのへんの子守りでさえもが唄って
  るぜ。聞いてみな。東海道じゃ一等バカだ」
石松「馬鹿だとねエ。べらぼうめ。へッ。どんな唄か聞かねえが、お前さん、
   その文句知ってるのかい」
客「知ってるともよ。聞かしてやるか」

お茶の香りに東海道、清水一家の石松はしらふのときはよいけれど、お酒
呑んだら乱れ者、喧嘩早いが玉に庇。馬鹿は死ななきあ、なおらない~


やはり彼女も面白がって、その映画を観てみたいと言ったものである。
その語呂合わせ、痛快さに、カッコいいと心弾ました子供の頃の自分をY君
にチラと重ねて見たような気がしたのでした。

ここまで書いて思い出しましたことがあります。
昔、ポルトのテレビ局が取材に来たときのこと。

その日は日本の知人が送ってくれた「声に出して読みたい日本語」を子供
たちに紹介しがてら、中の「白波5人男」の一人、弁天小僧菊之助が泥棒の
正体を現して開き直って言うセリフ。子供らを前に、
   
   知らざぁ言って聞かせあしょう。
   浜の真砂と五右衛門が、歌に残せし盗人の
   種は尽きねぇ七里ガ浜ぁ。
   ~~~(略w)
   名さえゆかりの 弁天小僧菊之助たぁ、おれがことだぁ~あぁ。

と、歌舞伎調で、首も振ってジェスチュアーよろしくやっていましたら、
ギョ
廊下からカメラがジィ~ッと回っていたのに気づき、赤くなったり瞬時青く
なったりして大いに困った経験があります。
幸いその場面は放映されず、数秒のインタビューが出たのでよかったものの、
放映日が来るまで気が気でならず生きた心地もしませんでした

そうなんです、こういう七五調の、ビシッと決まったセリフがスカッとして
わたしは大好きなのですが、皆様はいかに。


ーただいまホームページの記事をミラーサイトとして徐々にブログに移動
させています。ご了承くださいませ
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2012年10月21日
azulejo1.jpg
ポルト、ダウンタウンのアズレージュこと絵タイル

今日は我が大阪時代、男女100人ほど(うち女子は5、6人)が住んでい
た下宿ビルの20歳の頃の思い出話です。

津国ビル下宿屋には門限があった。シンデレラ・タイムの12時である。
それを過ぎると、例え前もって電話で「12時をちょっと過ぎるけど門を開け
といて~」と頼もうが、玄関は管理人夫婦が時間通りバッチリ閉めて開けら
れることはない。

いずれにせよ、門限時間まで遊ぼうとしたら、タクシーで帰れるだけの経済
的余裕が要るので、貧乏学生やわたしのように定職のないようなのが結構い
た下宿ビル、そういうことで締め出しを食うのはあまりいない。いたとして
も男の話であるからして、さほど心配にも及ぶまい。

と、言いたいところであるが、何を隠そう、女のこのわたしこそお仲間がい
たが実は門限破りの常習犯であったのだ。
しかし、一言言わせてください。それは遊び呆けてではなく、レストラン等
の宣伝撮影のためのバイトが理由である。

下宿にカメラマンの卵N君がおり、彼は副職としてこういう撮影の仕事をし
ており、照明やらなんやらのアシスタントがいる。わたしにこの話が回って
きた。ところがこの仕事、レストランが閉店してからでないとできない。
よって、撮影は夜10時半ころから始まり一時間半ほどで終わる。下宿屋に着
くのは後片付けも入るからどうしても12時を回る。

撮影場所のライトのあたり具合に小道具を使うので、わたしがそれを上に掲
げたり照明ライトを持ったりしてのバイトだ。大した収入にはならないが、
それでも生活の足しになる。撮影の話が来るたびわたしは引き受けたのだが、
問題は門限だ。

わたしの部屋は一階中庭に面しており、入り込む隙はない。が、運良くN君
の部屋は通りを前の、だだっ広い畑に面していたのだ。そこで、撮影がある
日は、N君、自分の部屋の窓の鍵をかけずにでかける。そして、仕事終了後
二人でタクシーで下宿屋の近くまで乗りつけ畑をざざ~っと横切って、手は
ず通り開けてある窓から入り込む、ということを、わたしたちは繰り返して
いたのだった。

あの頃は今のように物騒な世の中ではなかったからそんなことができた。
わたしなど後年自分のアパートの台所の窓は、愛猫ポチが日中自由に出入り
できるよう年中開けっ放しにしていたが一度も泥棒に入られたことはない。

さて、その夜も難波にある中華料理店の撮影を事なく終えて、いつもの通り
N君の窓から入り込む。
「お疲れさん、またあしたね」と言いもって、わたしは窓から入るときに
脱いだ靴を両手に持ち、抜き足差し足でN君の部屋のドアを開けた。
とたん、「こらぁーーー!」
なんと、目の前に怒声とともに、管理人のおっさんがつっ立っているでは
ないの!
「また、お前らか!一回や二回ならいざ知らず、何べんやっとんねん!」

これは完全に袋のねずみ、現行犯で何の言い訳もできない。もとより嘘を
つくのが下手なわたしである。現行犯ともなれば、もやは潔くするに越し
たことはない。

おじさんは、毎夜門限時間になると、下宿屋ビルの屋上から通りに面した
側を見張っておったのである。悪い趣味だぜ・・・

二人とも現行犯の写真を撮られたわけではないから、しらを切ろうと思え
ばできたやもしれない。なぜなら、若いわたしたちはしょっちゅう誰かの
部屋に集まっては明け方まで話し込んだりしていたのだし、それについて
は何のおとがめもなかったのだから。しかし、両手に靴を提げて、人様の
部屋に行くか?(^^;)

あっさり門限破りを白状したわたしたちはこっぴどく叱られ、以後すっかり
目をつけられて深夜に及ぶ撮影のバイトは終了になったのであった。

40数年も昔のことだがあの頃の下宿生は概してみなやりくりに貧して、
今のようにアパートに一人住まいするなど夢のような話ではあった。
しかし、3畳の自分の部屋を一歩出たが廊下でも食堂でも多種多様の人に
出会うわけで、若いわたしたちは気が合う合わないを別にして、3畳間の誰
かの部屋に集まってはその町にある市立大学の学生を中心に夜毎青臭い
議論を、先の不安な人生についての意見を交わしたものだ。

それはわたしの「それぞれ意見はあるが自分で考えてみよう」という姿勢を
持つようになった原点になっていると思う。若い時の議論は目を拓かされる
ことが多い。人は色々な意見を持っているものだということも学ぶ。

そういう議論を日本の若い人たちは今するのだろうか?してきたのだろうか
と、むやみに自己中心、我欲に固執する異様な事件が多い近頃の日本を見て
思うのだが。

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2012年10月13日 

bee
ポルトの「Bee Tours」ツーリスト用、「ハチの三輪車」とでも言おうか。

スゥイング・ジャズが好きでLPをよく聴いていたが、いつの間にかレコー
ドの針を探さなければならなくなり、そのうち、針を求めて売り場に行く
と「はり?」と逆に聞き返されるようになって久しい。

そんな訳で今では聴く機会もなくなってしまったが、そのなかでも好きなの
が「It´s been a long time」。日本語で「お久しぶりね」てやつで、

Kiss me once, then kiss me twice
Then kiss me once again
It's been a long, long time

と始まるのですが、1945年に作曲され、以後、スゥイングのスタンダー
ドナンバーとして、ビング・グロスビーやシナトラを始め、多くの歌手が
歌っています。

で、本日は恋人に久しぶりに会えた喜びというこの歌の内容とは少し状況が
違いますが、なんとなくそんな気分の出会いをば。


土曜日の日本語教室は忙しい。

9月末から市立図書館で11:30からの日本語初級コースを開講したの
だが、ここ数年YY塾と称して若い友人のOちゃんと開いている土曜日の10
時少し前からのクラスもあるので、図書館で教えるために場所を移動する
ことになる。

今朝も10時からの授業を終えてアタフタと図書館へ車で移動し、だたっぴ
ろいギャラリーの一角に陣取っている日本語教室の準備をしていた。と、
一人の老紳士が遠慮がちに入ってきて、こちらの方を見ている。

あらら、また途中から受講したい生徒さんかしら?と咄嗟に思った。
というのは、8人の生徒で始まったのが、翌週、今週と遅れて申し込んで
来、いつの間にか12人の大所帯になってしまったのだ。

もうこれ以上は受けられない、お断りしようと気持ちを準備したところへ
老紳士が近づいてきました。瞬時、「まあああ!アルフレッドさん!」と
思わず大声を出して、ポルトガル式に二人で抱き合って挨拶です。

なんとその紳士は、今から16、7年も前に、とある協会でわたしが日本語
を教えていたときの生徒さんの一人だったのです。

アルフレッドさんは当時60歳くらいでドイツ人ですが、奥方はポルトガル
の方で、お二人は別々のクラスでしたが、わたしの日本語コースを受講して
いました。


後に娘さん家族が住んでいるドイツに移り、しばらくはメールのやりとりを
していたのですが、ご家族の引越し等でいつのまにか消息が途絶えてしまっ
たのです。

アルフレッドさんは、自ら「わたしは前世で日本人であったかも知れない」
と言うほど、日本文化に大きな興味を示し、クラスでもよく勉強して、いい
生徒さんでした。生徒と先生の枠を取り払って、我ら夫婦とアルフレッドさ
ん夫婦とで当時、ポルトに初めて開店された日本レストランへもご一緒した
ものです。

すっかり驚いて、どうしてわたしが図書館にいることを知ったのかと聞きま
すと、今回しばらくポルトの自宅に滞在するので、是非わたしに会いたいと、
わたしが22年間勤めて3年前に退いたポルト日本語補習校へ訪ねて行った
のだそうです。そこで、かつての我が同僚から、図書館で日本語を教えてい
るとの話を聞き、やってきたということでした。

日本語補習校では、当時クリスマスコンサートと言うのがあり、歌や劇を学
級ごとに発表していました。そこで、補習校にお願いして普段は日本語を直
接耳にすることがない、わたしの日本語学習者を呼んでもいいということに
していただきました。観客も多いほうが生徒たちもやりがいたあるというも
のです。そんなわけでわたしが未だ、補習校で教えているものと思い訪ねた
ようです。

奥方は3年前に持病の心臓病でお亡くなりになったとのこと、今回の滞在は
あまり長くはないものの、来年は春から秋口までいる予定をしているので、
是非、日本語を教わりたいと言われます。ドイツでも日本語の勉強を継続し
ていたと聞きますから万障繰り合わせて時間を作りたいと思っているのです。

こうして、昔の生徒さんが訪ねてきてくれることは、この上なく嬉しいこと
です。このところ、忙しさで少し体調がダウン気味でしたが、いっぺんに吹
き飛んだ一時でした。

帰宅後すぐ、現在のわたしの生徒でもあり友人でもあるマリアさんに、
「今日、誰が会いにきたと思う?Geuss!(当ててみて)」

と言うのは、このアルフレッドさんとマリアさんの二人が数人いた日本語ク
ラスで、最後まで日本語学習の継続を固持して、現在に至っているのです。

マリアさん、73歳、アルフレッドさん、75を過ぎているでしょう。
二人の日本語能力が同レベルかどうかを見てみなければなりませんが、も
しこの二人のクラスが誕生するとなれば、クラス我が日本語学習者の中で、
一番の年配者たちになります。向学心を失わない素晴らしい生徒たちに、
来春のクラスを楽しみにしているのです。

え?spacesisさんの年齢も入れたら平均年齢いかほどのクラスになるか?
まぁまぁ、そんな野暮は言いっこなしで参りましょうよ!

「It´s been a long time」どんな曲?と興味のある方はこちらへ↓

https://www.youtube.com/watch?v=dZQXMgUA5c8
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テーマ:ポルトガル
ジャンル:海外情報
2012年10月11日 

今日は途中から、少しオタク気味な記事になります。

週に一度、わたしがポルトガル語を教えていただくディアス先生は元高校で
ポルトガル語を長年教えてきた方です。我が東京息子、モイケル娘の二人
の子供たちもブリティッシュスクールに通いながら、小6くらいからディア
ス先生のご自宅に通い、毎週ポルトガル語を教わりました。

自宅塾に通う生徒たちのことは性格などもよくつかんでおり、今でも二人
の子供の安否を訊ねて気遣ってくれます。

ポルトガル語は子供たちの学校が退けてからですから、迎えに行きその後の
1時間を車中で待つのも当時はわたしの役割であり、今振り返ってみれば、
これにモイケル娘のピアノレッスンの待ち時間も入っていたのですから、
我ながら少しは頑張っていたものだと感心しないでもない(笑)

ポルトガルにいてなぜポルトガル語レッスンかと言うと、ブリティッシュス
クールにはポルトガル語の授業もあるにはあるが、国語はあくまで英語です
から、我が家の日本語を中心とする家庭環境の子供たちには、ポルトガル語
が不十分にならないかと考えたからのです。

そんな訳で二人とも高校を卒業するまでディアス先生のお世話になり、そし
て、近年、外国人には教えたことがないとおっしゃる先生に、ポルトガル語
は耳で聞いて学んできたので、あまりご無理はかけませんと、無理やり頼み
込んで母親のわたしが通っている現在です。

ディアス先生がその昔、ポルトの大聖堂横にあった寄宿舎に住みながら神学
を学んでいたということは、シンボルと宗教と人間のつながりに興味をもつ
わたしには大いに幸運なことと言わなければなりません。それらに関して自
分が調べてどうしても分からないと言うときには、テキストを放ったらかし
て質問をぶつけてみることができるからです。

さて、そこで昨日の授業では前回エントリーとして取り上げたソロモン王と
クモの質問になり、実は丸1時間以上、その話に終始したのでした。もう一
度その画像を↓

ブラガ・ボンジェズス

先生への質問は、まず自分で調べて更に不明なときです。今回の「ソロモン
王とクモ」についてのわたしの疑問は、クモのシンボルが何故ソロモン王と
共にあるのかですが、クモと古代の王との物語は意外と多いことに気づきま
した。

ブラガ・ボンジェズス


ソロモン賢王の父ダビデ王や、スコットランド王のロバート・ザ・ブルース
(礼拝堂内のミステリアスな装飾で知られるロスリン教会には彼の頭部が刻
まれている)がそれで、探せばもっと出てくると思います。

しかし、ソロモン王と関連付けて行き着くのはユダヤ教のヘブライ語聖書
(キリスト教では旧約聖書と呼ばれる)の中、11巻の「諸書」にある
「ソロモン箴言、第30章28」で言及されている、

「The spider taketh hold with her hands, and is King´s
 palaces」


直訳してみると、「クモは自分でつかまってぶらさがる?。そして王宮にいる」。

なんだ、こりゃ? 不可解な・・・・

箴言は人生の教訓の意味をもつ短い言葉で、金言、格言です。しかし、これ
ではなんのことか分からないではないか?そこで、その前後の文章に目を向
けると、30章24から始まっていることに気づきました。以下、直訳です。

30・24 この地上には非常に賢い四つの生き物がいる。
30・25 アリは力がないが、食料を夏のうちに備える。
30・26 砂ネズミはかよわいが、自分の家を岩につくる(?)。
30・27 いなごは王をもたないが、隊を組んで動く。
30・28 クモは自分でぶらさがり、王宮にいる(?)。


ざっとこのようなことが書いてあるのですが、せっかくの金言も意味不明
では格言にをならないではないか。最後のクモと王宮のつながりが特に分
からない。

そこで、ソロモン箴言だということが判明したため、検索を前の「ソロモン
クモ」から「ソロモン箴言」にしてみたところ、出てきた日本語訳が、

「30・28 ヤモリは手でつかまえられるが、王の宮殿におる」

あれぇ?!!!「クモ」が「ヤモリ」になって「手でつかまえられる」なん
て訳になってるぞ@@

そこでしつこくも英文で再度探ると、とあるサイトで

The spider (actually this is a lizard) works with its hands

にあたった。う~~む・・・クモとヤモリの共通点と聞かれれば、わたしな
どは「両方ともなんとなく気持ち悪い」なのだが他にもなにかあろうか・・・

こうなるとお手上げで、よし、実際旧約聖書に書かれてあるその箇所を見る
しかない。そこで、昨日はディアス先生の学習室では常に机の上に置かれた
聖書を目にしていますから、確認させてもらおうと相成ったのであります。

さて、早速まず先生に、カクカクしかじかでとお話するとふむふむとポルト
ガル語版旧約聖書(先生のはキリスト教聖書ですから)を開いてくれました。

おお、クモとあるではないの!

ところがディアス先生もう一冊の同じくポルトガル語旧約聖書を引っ張り出
してきました。すると「Lagarta」、つまり「ヤモリ(の種類)」と出た!
そして「手で捕まえられる」と続いているではないか。しかも、30・26
の「砂ネズミ」が「うさぎ」に変わっている。

いやぁ、もう参ったな。

元来はヘブライ語で書かれていた聖書である。例としてあげられるのは動物
は当時の舞台である砂漠に棲む物だというのは分かる。が、やがて聖書は
ギリシャ語に翻訳され、後にラテン語に、そしてそこから英語、スペイン語
ポルトガル語などに訳されて世界に広められたのです。

「砂ネズミ」は砂漠に棲む動物なので、今ならいざ知らず、昔は国によって
は見たことも聞いたこともない生き物の名前だというので、訳者が臨機応変
に入れ替えたのであろうか。

さて、ソロモン箴言については下記のような意味を、とあるサイトで見かけ
ました。

30:28やもりは手でつかまえることができるが、王の宮殿にいる。

王の宮殿にいれば、王よりも強い者でなければやもりを捕まえることができ
ません.けれども、もちろんそんな人はいません。私たちが王なるキリスト
のうちにいればどんな強者によっても捕まえられることはありません。


我がディアス先生の訳は「クモは自らの手で巣をはる。この知恵ある生き
物は色々なところに巣をはって家をつくることができる。例えそれが人が
おいそれと入ることができない王宮の中ですら。

言って見れば、誰も教えないのに、自分の住処として賢者の宮殿を選ぶ知恵
を持つ小さな生き物もまた賢者である、とでもなるのでしょうか。ソロモン
箴言30・28については、どうやら色々な受け取り方がありそうです。
しかし、いまいちわたしには、これらのどの解説もストンと落ちてこないの
です。

キリスト教から見た解説とユダヤ教からみた解説は違うことでしょう。それ
こそ真の原語をから解説してもらわないと分からないわけですが、原語って
あぁた、ヘブライ語ですぞ・・・ここで行き詰ってしまいました。

今回わたしが思ったことのひとつに、翻訳ってエライ仕事だなぁと言うこと
です。文化の背景を熟知していないと正確な翻訳はなかなかできない。

例をひとつあげてみると、村上春樹氏の著書にも使われているビートルズの
歌「ノルウェイの森」です。「ノルウエイの森」はタイトルからすれば北欧
の森を想像してしまいますが、ビートルズの原題は「Norwegian Wood」。

これは労働階級の人が住むアパートの内装に使われる安物のノルウエー木
材を指すのだそうで、日本側が意味をとり間違えた邦題にしてしまったと
のこと。森だと「woods」と複数になりますものね。

それでまさか?と思いながらも想像することは面白いので書いてみるですが、
「ソロモンとクモ」ではなくて、これはひょっとしたら「ダビデとクモ」で
はないのか?
なぜって、あの箴言のたったの一行に出てくるクモをソロモン王像のシンボ
ルにして後世に残すのにはちょっと無理があるように思われます。

が、ダビデ王とクモについては次のような言い伝えがあります。

ダビデ王はかねてから、クモは所かまわず巣を張る汚い生きもので、
何の役にも立たないと思っていた。ところがある戦いで、彼は敵に包囲され
逃げ場を失い洞窟に逃げ込んだ。そのとき、洞窟の入口で一匹のクモが巣を
張り始めた。敵兵たちは洞窟まで追いかけて来たが、入口にクモの巣が張
っているのを見て引き返して行った。(引用)


クモによってダビデ王は命を助けられたようなものです。
つまり、わたしが言わんとすることは、件のソロモン王像の作者はひょっと
してダビデ王と、その・・・勘違いをしてクモのシンボルをたくさん彫って
しまったのでは?・・・・

なんてことはないか(笑) 、ないですよね^^;わたしじゃあるまいしw 

でも、ヒットしたビートルズの「ノルウエイの森」の例からして、また聖書
の翻訳が結構違うのからして、ふとそんな面白いことを思ってみたのでした。

gato
箴言にネコはでてこないのかなぁ(笑) 台所の食器棚のてっぺん、人の手
の届かないところから見下ろしているクルル。

本日も長い拙ブログを読んでいただき、ありがとうございました。
それでは、また!
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テーマ:ポルトガル
ジャンル:海外情報
2012年10月9日 

ブラガ、ボン・ジェズスにある「ソロモン王とクモ」の謎については、もう
一日お時間をいただきたい。と言うのは、それにからんだ面白い話を見つけ
ましたので、かつて神学を学んだとおっしゃる我がポルトガル語の先生に、
一つことを確認してからご紹介したいと思うのであります。

本日はつい先だって行ってきたポルト、ダウンタウンのちょっと変わった
レストランを。

restaurantebook

レストラン・バー「book」。かつては老舗の本屋「Avis」だったのですが、
昨年、改装して地中海料理レストランに変貌しました。普通のレストランと
比べて変わっているのが、店内に大きな本棚があることです。

restaurantebook

かつての「Livraria Avis」の看板もそのまま本棚の上に残されています。

restaurantebook
古本に挟まれたメニューが出されます。

restaurantebook
こちらはワインメニュー。ちょっとのぞいてみましたら、ヴィーニュ・ヴェ
ルデ、ドウロ上流からアレンテージュの赤ワイン等、お値段は12ユーロか
ら110ユーロまで。リストの中にシャンパンのドン・ペリニョン170ユ
ーロ(17000円。

book
テーブルにもこんな風に古本が乗せられて。
注文した料理が出てくるまで、本好きのわたしはしばし手に取りページを
めくってみます。

restaurantebook
なんだかとても懐かしさがこみあげてくるイラストです。
近頃では、高価で立派な本だけが見かけられ書店ですが、本が売れないの
はその値段に大いに関係するのではないかと思ったりします。

かつては、日本で言う文庫本のようなサイズがあったのですね。わたしは
資質もここにあるような古い本の方が好きです。

restaurantebook
料理が出てきてこちらは黒豚と小かぶらが入ったご飯。

book

カテラリーに目をとめ、ん?と念のためマークを確認してみました↑↓ 

book9-2.jpg

思った通り「cutipol(クティポル)」と彫られてあります。クティポルは
国内を始め、ヨーロッパの一流レストランでよく使用されるポルトガルのカ
テラリーブランドです。

ついでに節度なく打ち明け話をすれば、クティポルの御曹司は夫の同僚で、
彼とは古いお付き合いになります。と言ってもわたしがそれを夫から知らさ
れたのは数年前(笑)で、それまではクティポルの名前すら知らなかった、
のんきなものです。

さて、このレストランはバーもあるのですが、写真でご覧のように本棚には
バーに不似合いな靴が(笑)
restaurantebook

これらの靴はダウンタウンにアトリエを持つデザイナーのものだそうで。
もちろん新しい靴なのでしょうが、このバーはなぁ・・・とはわたしの感じ
るところです。バーとレストランは別になっています。

restaurantebook
最後に、レストラン・bookは表看板が出ていませんレストランとは知らず
に通り過ぎる人が多いと思われます。

ウインドーにかけられたメニューにかろうじて「book」の名前が見られます。
下記、情報です。

レストランbook
Rua de Avis 10, Porto
12h00-15h00 e 20h00-02h00
年中無休
食事費:平均30ユーロ前後

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テーマ:ポルトガル
ジャンル:海外情報
2012年10月6日
 
何はなくても教会とサッカー場だけはどんな貧しい村にもある。
等とかつてはポルトガルをそんな風に揶揄しては憎まれ口をたたいていたわ
たしですが、異端派とも言われるテンプル騎士団のポルトガルに於ける歴史
的な役割を探っているうちに、教会に刻まれてあるシンボルに興味をもち、
気がつけば教会巡りをしているこの数年です。

西洋文化を知るにはキリスト教の知識が欠かせないと、ポルトガルに30年
暮らしてわたしがたどり着いた結論です。それは映画への理解にもつながり
ます。

例を挙げると、1999年に製作、ヒットしたキアヌ・リーブス主演の
「マトリックス」には、コンピューター関係の用語がたくさん出てきます
が、ネオとトリニティ、モーフィアスの3人は「トリニティ」の名からも分
かるようにキリスト教の「三位一体・父と子と精霊」を表していると思
われます。

主人公ネオは言うなればキリストの役割でもあり、聖書を知っている人には、
これはあのことだと思わされる名称、想定場面も多く出てくる映画です。
例えば映画の始めの「白うさぎ」についてもそうです。「白うさぎ」は繁栄
・多産のシンボルで西洋ではイースターや異端のシンボルともされます。
(イースターそのものが元々異端教から発しているのです)

ブラガ・ボンジェズス
山頂にボンジェズス教会の尖塔が見える。

本日はその教会めぐりのひとつ、先々週の土曜日に訪れてきた聖地ボン・
ジェズス・ド・モンテ(直訳:山上の善きキリスト)を本日はご紹介します。

ポルトから北へ車で1時間ほどのポルトガルの第三都市Braga(ブラガ)に
ある小高い山の頂上にあります。ヨーロッパ諸国そしてポルトガルもそうで
すが、古来から多くの山頂は信仰の対象として崇められてきました。ボン・
ジェズス山頂もそのひとつです。

14世紀には最初の礼拝堂が建てられ、後17世紀にはボン・ジェズスは
巡礼地とされ、キリストの受難に献ぜられた六つの礼拝堂を含む教会が
建てられたとされます。

現在のボン・ジェズスは18世紀初期にRodrigo de MouraTellesブラガ
大主教の保護の下、建築が進められました。

ブラガ・ボンジェズス

さて、教会へたどり着くには116メートル、581の石段を上って行くこ
とになります。

ブラガ・ボンジェズス
絡まっているのはキリスト教では邪悪、異端教では叡智の象徴ヘビです。

石段にくぎりごとの各踊り場ごとに両脇に小さなカペラ(礼拝堂)があり
頂上まで続くこの6区切りは「Passion of The Christ」、ここでは
Passionは「情熱」でなく、キリストの受難を意味しており、それをテー
マにしています。

カペラの他に各踊り場中央には噴水が置かれています。
ブラガ・ボンジェズス

これらの噴水は「視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚」の五感を表しているそう
です。
   
ブラガ・ボンジェズス
目                 

ブラガ・ボンジェズス
鼻                        

ブラガ・ボンジェズス

 
ブラガ・ボンジェズス
口                  

ブラガ・ボンジェズス
触覚

ここでわたしが思い出すのは「謎シリーズ」で以前とりあげたことがある、
フランスはクリュニー美術館の6枚からなる「貴婦人と一角獣」の不思議な
タペストリーです。 

ブラガ・ボンジェズス

このタペストリーもそれぞれが5枚が五感をテーマにしたもので、残りの
6一枚目が上の絵。タイトルは「我が唯一の望み」と、これもなかなか分
析が難しいミステリアスなタペストリーで、この中に隠されているメッセ
ージは異端、秘儀思想であると言われています。五感はペンタグラムでも
表され、ユダヤ教、異端教のなどのシンボルでもあります。

「貴婦人と一角獣」の記事はこちらで。

さて、それぞれの噴水の上にはヘブライ語聖書(ユダヤの聖書でキリスト
教徒は旧約聖書と呼ぶ)の預言者たちの像が立っていますが、はたとわた
しが不思議に思ったのが下図。

ブラガ・ボンジェズス
 
触覚を表す噴水の上にはソロモン王の像が立っています。
カメラを向けズームアップしたところが、おろ?
下の写真の←マークのように回りには「クモ」がたくさん彫られているのです。
 
ブラガ・ボンジェズス

ネット検索でソロモン王とクモの関係が簡単にでてくるかと思いきや、意外
やてこずり、最終的には英語サイトで、ユダヤ聖書の諸書のひとつである
「ソロモンの箴言」でやっと見つけたのでした。

明日はそれについてエントリーしたいと思います。

ここまで読ませてそれはないぜ、おっかさん?あはははは。
随分と長くなりますゆえ、ご勘弁を。

その代わりというのはなんでございますが、こういうことには「なんでや
ねん?」と反応し、検索したり本で調べたりせずにはおられない凝り性、
マニアック性の我がDNAを見事に受け継いでおると思われる、モイケル娘
の記事「ヘチマを訪ねて3000メートル」、よろしかったら下記までお
立ち寄りください。

ヘチマを訪ねて3000メートル

ではみなさま、また明日。
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テーマ:ポルトガル
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2012年10月3日 

前回の記事「大阪」が出てきたところで、本日は随分と長い間放置してきた
カテゴリ、「あの頃、ビアハウス」にカムバックです。

長くお付き合いいただいているブログ友のみなさまはもうご存知かと思いま
すが、不才わたくしがあつかましくも歌を歌って多少稼いでいた頃の思い出
話シリーズなのです。

当節、大阪ではドイツのビアフェストこと、オクトーバーフェストが盛大だ
と聞きます。かれこれ30数年前の先駆けて1970年代、我が歌姫バイト先
の梅新(梅田新道)交差点にあった大同ビルの地下、「アサヒビアハウス」
では既に年に一度の10月にオクトーバーフェストが催されていたのでした。

当時としては国内で唯一のオクトーバーフェストであったと思います。ドイ
ツ領事やちょっとした著名人、それにたまにTV局が入ったりしていました。

普段はアコーディオンとリズムボックスのみで歌うビアハウスもこの日は
オーケストラもどきのドイツの民族衣装を着た楽団が入り、前売りチケット
は売り切れになります。

わたしが「先輩」の定冠詞をつける只一人の御仁、歌の大先輩こと宝木嬢と
わたしの歌い手二人の「梅新アサヒ」もこの日は他店からも歌い手さんが
合流します。歌い手さんたちはみな音大出身で、その中に宝木嬢にスカウト
されて歌い始めた素人のわたしが紛れ込みます。ホールは人でぎっしり、
ビアソングと人の熱気と喧騒でにぎやかなことこの上ありません。

アサヒビアハウス・フェスト
写真左はベルリンオリンピック(!!)の水泳競技金メダリストの葉室鉄雄
(てつおは古い漢字)氏。アサヒビアハウスの常連でした。


我が声域はアルトと低くに、コーラスでは高校時代からいつも低音でした。
低音で声が大きいものですから、数人の高音でも一人の低音で、かかってこ
い!という具合でした。

故にモイケル娘からは、
「おっかさん、地声の低音でドス効かしたらこわいよ・・・」
と言われる始末^^;なんでぃ、これでも一応女の子だい。

このビアハウスの歌姫バイトがあったからこそ、5年ほど昼夜働き、わた
しは30をちょっと過ぎた頃にやっと長い間の夢だったアメリカ留学が果
たせたのですが、意思あるところに道は拓けるであります^^

解体されるまえの梅新アサヒビアハウスは大きな大理石柱も有名で、四季
を通して欠かさず通ってくる何人もの常連さんで毎夜9時まで賑わったもの
です。歌われる歌はビアソングもさることながら、オペラのアリアやオペレ
ッタからもたくさん歌われていました。

シャンソンやカンツォーネもわたし用にとOKが出ていました。どの歌にして
も、悲しいのはしめっぽくなりビールがまずいのでダメw、場を盛り上げる
陽気な歌で、客も歌い手も毎晩ビールで乾杯ですからね、楽しくないはずが
ない(笑)梅新アサヒビアハウスは当時は日本でも数少ないドイツ式を装っ
た老舗でもあったわけです。

現在は改築された同和火災ビルの名もフェニックスタワーとなり、その同じ
場所の地下にこれも店名を変えて「アサヒスーパードライ梅田」となって
いますが、我が脳裏に忘れえぬ姿で残るのは1970年代そのままの「梅新
アサヒビアハウス」なのです。

大阪時代、20代も後半でしたが、我が青春まっさかりのビアハウスの思い
出を常連さんを描く事で綴っておこうと思い立ったのは随分まえのことで
す。記憶が薄れないうちにとダーッとめくら滅法に綴ったのが誤字だらけ
の第一弾多分20章くらいでしょうか。そして誤字を直し言い回しにもう
少し手を加えてみたのが第二段。つまり、ここに載せつつある分なのです。

なんだかんだと話題の手を広げるうちにいつの間にか忘れておりましたが
今後、時折取り上げてまいりますので、よろしくお願いいたします。
なお、これまでの7エピソードは左カテゴリの「あの頃、ビアハウス」を
クリックいたしますと、読むことができます。

本日のエピソードは、アサヒビアハウスから遠く離れ、かれこれ25年ほ
どもたったある日に、風の噂で耳にしたかつての常連さんの思い出話です。
以下。

あの頃、ビアハウス「A.D.」

アサヒビアハウスの常連で名物男の一人に「AD」と皆から呼ばれていた
おじさんがいました。毎日顔を出すわけではないのですが、ちょっとした
風貌で人気者でした。その風貌と言うのが、 いつも広島カープの赤い帽
子をかぶり、ガニまたで歩く足に履く赤い靴だけはやけにピカピカ光って
いるのです。
  
けっこうなお歳で当時はもう70近くだったかも知れません、小柄な人で
した。赤い帽子をとると頭はこれまた靴と同じくツッルツルのぴっかぴか!

よく気をつけて見ると、両目がアンバランスなのですね。それで片足が
少し不自由で、足を引きずって歩いていました。若い頃はボクサーだった
と聞きました。

多く話す人ではないのですが、話し始めると江戸っ子弁かと思われるような
べらんめぇ調が入ってきます。^^顔いっぱいに浮かべる笑みは、どこか
少年のような無邪気さがあってとても魅力的な小さいおじさんでした。
  
独り身だとのことで、当時は大阪のどこかのボクシング・ジムに住んでい
ると噂されていました。が、ADについては、誰も多くを知らないのです。
他の常連たちのように9時半までの長居をしたことはなく、ビールを1、2
杯飲んだ後、片足をひきずって地下にあるビアハウスのドアを出て行くAD
の背中には一抹の寂しさが漂っている気がしてならないのでした。

ビアハウスの歌は6時半から30分間が第1ステージ、歌姫は30分休憩で
す。7時半から第ステージで再び3分の休憩、そして8時半からの30分
が第3ス
テージで、ステージの終了時には、わたし達二人の歌姫が合唱で「Auf
Wiederseh´n」(アウフ・ヴィーダゼーン=ドイツ語、また会いましょう
の意味)と、ドイツ語で歌い、マイクで挨拶をして9時に終了です。ラス
トステージの「アウフ・ヴィーダーゼン」についてはいずれ綴るつもりです。

ステージが終わり休憩に入ると、わたしは時々呼ばれもしないのに両腕に
自分の歌の楽譜を抱えてADの立ち席まで行ったものです。(彼はけして
座りません)
 
 「おじさん、元気?」と声をかけると、決まって、
 「おお、あんたも元気かい?」
  
ADのアンバランスな目が、なぜかウインクしたように見えたりするのでした。

あれからふた昔以上が過ぎていましたが、ポルトガルに来てからこのかた、
一度もADのことを思い浮かべたことはありませんでした。

それがしばらく前のある日、ひとづてに、そのADのことが耳に入りました。
ADが何歳で、そしていつのことだったかは知らないけれども、亡くなって
いたのです。路傍での孤独死だったと聞きます。

誰も引き取り手がなく、アサヒの常連の一人が引き取り彼を知る常連たちが
集まっての見送りになったそうです。
  
わたしは少し堪えました。
随分若い頃、20代も半ばを過ぎる頃までのわたしは、若気の至りで「例
え明日、この身の命が無くなってもいい」くらいの無茶な意気込みで、日々
を、あの頃にしてみたら一生懸命、しかし、今振り返って見ると無謀にしか
思えないような生き方をしていたものです。「例え路傍死しても」との思い
があったのも若さゆえだったと、今にして思います。

「路傍死」
その言葉に記憶があるわたしは、A.D.のその孤独な死が堪えまして涙が後
から後から出て止まりませんでした。
  
ADが若い頃どんなボクサーだったのか、誰か覚えている人はいないのか、
今となっては知る由もありません。

「アサヒは人生のるつぼ」だとわたしが思うひとつのストーリーではあり
ます。

A.D.に、心をこめて、合掌します。


ドイツ語が見つからず。イギリスの国民歌手Vera Lynnが英語で歌ってい
るノスタルジックな「Auf Wiederseh´n」をクリックしてYoutueでどぞ。
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2012年10月1日

yuguredoki.jpg
いつもとは違ったアングルから撮ったご近所の夕空 

近頃本題に入る前についつい出てしまう愚痴。で本日は、何だいありゃ@@ 
文科大臣だって^^;とつぶやく独り言で終わり(笑)

9月4日から25日間にわたり、ポルトのアルメイダ・ガレッテ市立図書館
の小スペースで行われてきた我が日本文化展が土曜日で終わり、今日は
午前中の二つの日本語クラスを終え、片付けに行ってきました。展示で手
伝っていただいた図書館の方たちにお礼と挨拶を済ませ帰宅したのが夕方
5時。

少々くたびれ気味でこういう時は、ベッドに横たわりネコどもを足元には
べらして7時からの日本語レッスンの前にしばし気の張らない本をひもとく。
ひもといた本は疲労感を吹き飛ばすには笑いもいいと言うのでこんな折によ
く目を通す、おせいさんこと田辺聖子さんの文庫本です。

随分昔に披露したことがあるような気もするのですが、日本語が今面白いと
言い、どうやらそちら方面を専門的に学ぶのではないかと思われる我がモイ
ケル娘の参考にもなるかと、本日は大阪弁のしゃれ言葉を引っ張り出して
みます。大阪に10年ほど住んでいたわたしにはこういう表現は何度読んで
もプッと笑いを誘い、大阪弁のユーモアとしなやかさを感じます。以下。

「あの商談は夜明けの幽霊でんなあ」 →「夜明けの幽霊」は立ち消える。
「あいつはトコロテンの拍子木や」→ おとなしい人のこと
「お前はとんど、八月の槍やの」→ 八月の槍は「盆槍」→ボンヤリ
「饅頭の臼で、あいつはあきまへん」→ 饅頭屋の臼は餡をつく→アンツク
                   (あほう)
「あいつは紀州のスイカや」→ 皮が厚い あつかましい
「あん人、うどん屋の釜やで。あてにせんとき」→ 湯ばかり 言うばかり 
                        つまり口先だけ


ぼんやりだのアンツクだのと言うと角が立つが、「饅頭屋の臼やぞ」「八月
の槍やぞ」だと、言われた当人も、あははと笑ってしまい、
「すんまへん、桶屋の前だれで、忘れてました」と頭に手をやり、恐縮でき
る、とのことw 
「桶屋の前だれ」は、いつも桶の輪が擦れる→わすれるだそうですよ。

もう一つ。これは格言類をもじったもの。

「ぼくは君といる時が一番しわよせ来るんだ」→「ぼくは君といる時が一番
                      幸せなんだ」
                      加山雄三もじり
「金類みなちょうだい」→「人類みな兄弟」
「歯がために金が要る」→「誰がために鐘は鳴る」
「目に入れても見たくない」→「目に入れても痛くない」
「コネにて一件落着~」→「これにて一件落着~」(遠山の金さん)



いかがでございましょ?
え?ちょっと古すぎて、spacesisさん、あんたもお盆の商店街でんなぁ」
                 (↑spacesis作→お盆の商店街→暇) 
ほっといてんか~。

というわけで本日は短いエントリーでご無礼つかまつる。
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