2013年8月26日 

夫とわたし、性格違いのああでもないこうでもないの今夏の野次喜多道中は
ポルトガル中部の秘境を訪ねてきました。

1991年にポルトガル政府が打ち出した「Aldeias Historicas(歴史
ある村々)」プログラムは、国家歴史上、重要だと判断される12の古村を
保存指定したプログラムです。

linhares
その中の二つの村、リニャーレス(Linhares)、ピオーダン(Piodao)と
ローザン山脈にある秘境の村Tlasnalを歩きました。上図がそのコースです。

山々を越え、行き交う車もほとんどなく、ポルトから3時間ほど走った頃に
前方の小高い丘の上に見えてきたのが二つの塔を持つリニャーレス城です。

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Serra da Estrela(星の山脈)にあるリニャーレスは正式には、Linhares
da Beiraと呼び、毎年8月に行われるスカイスポーツのパラグライディン
グでよく知られているそうです。

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この写真を撮ったときにも空にそれが見られました。

ポルトを朝10時に出発し途中で昼食をゆっくりとってリニャーレスに到着
したのは、ホテルのは3時頃。石の古村に一軒しかないホテルに荷を解き、
歩いてみることにしました。今回の旅行では思ったほど気温が上がらなかっ
たものの山の日の照りはきつい。酷暑中、さんざん悩まされた両腕の皮膚発
疹(熱中症の皮膚症状かと思われる)を防ぐため、熱いのに長袖、グラサン、
それに帽子を被っての散歩は正直言って厳しいのですが、このチャンスは逃
せまい。

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全て石造りの住居と道。この時間帯にはホテル客もおらず、村の通りには人
の影も見当たりませんでした。無人と思われる家もみかけましたが、新しい
白壁の家の前には洗濯物が。

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人家には必ずや鉢植えの花が並べてあり気持ちが和らぎます。
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こんなところでマヌエル様式の窓に出会うとは!(マヌエル様式は後記案内)
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↓今に残るローマ街道遺跡
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山頂に建つリニャーレス城。
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歴史的には4世紀にイベリア半島に到着した西ゴート族(スエーデンから
南下したゴート族の一族)が、後にはムーア人が居住したと言われ、12世
紀、ポルトガル初代王ドン・アフォンソ・エンリケスの時代にリニャーレス
はポルトガルの領土になったとされます。

linhares7.jpg
夕暮れのリニャーレス城

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石の村の路地にもポツポツとランプが灯っていきます。

ホテルまん前のロマネスク式教会を後ろから。
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同じく、正面から彼方の山に沈む残り日を浴びて。
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子供が見かけられるのはこの古村がかろうじて息づいているということだ。
linhares

右横に見える「Cova da Loba」が村で唯一つのレストラン。ホテルはレ
ストランなしでした。しかし、夜ともなると一体どこから集まったのか、
レストラン内は観光客でいっぱい。食事も田舎の古村のレストランとは思
えないようなメニューで満足しました。

Linhares村を終え、次回はPiodaoへ移動です。

本日も拙ブログを読んでいただきありがとうございました。
面白いと思われましたら、ランキングクリック、お願いいたします。

マヌエル建築様式の例はこちら「トマール、キリスト騎士団修道院、謎!」
にてどぞ。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1159.html

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2013年8月22日 

リベイラ(川沿い)、海沿いのFoz、 ショッピング街のサンタ・カタリナ
通り、歴史地区の路地とポルトのお薦め場所は色々あるが、街の中心は何と
言ってもポルト市庁舎が建つAvenida dos Aliados、アリア
ードス大通りだ。
芸術家たちも集まる街の中心であった。

Aliados,Porto

Aliadosは同盟を意味し、この通りは市庁舎から始まり「解放者」と呼ばれ
るドン・ペドロ4世(初代ブラジル皇帝でもある)の銅像が建っている自由
広場(Praca da Liberdade)で終わる。かつては政治、商業のみならず、
芸術家たちも集まる街の中心であった。

Aliados,Porto

大通りの両側に建ち並ぶ人目を惹く古い建物は、花崗岩が中心に使われ
その頂上にドームや灯り窓を冠しており、夜景も素晴らしい。

Aliados,Porto

Aliados,Porto

18世紀半ばまでこの一帯はオレンジ果樹園だったのを都市計画化により、
後にオレンジ果樹園通り(Rua do Laranjal)と呼ばれていた。

Aliados,Porto
ポルトガル銀行

中央にはいくつかのモニュメントが設置されている。
Aliados,Porto

Aliados,Porto

通りの終わりの今では姿を消してしまった「ardina=新聞売り」の銅像。
Aliados,Porto

近年はここで多くのイヴェントが開催される。

さて、下がポルト市庁舎。
Aliados,Porto

中央に高さ70mの時計台を頂くポルト市庁舎は、地下、地上6階、内部に
パテオを持つ2,438㎡の敷地を有する。建築材は花崗岩、黒大理石など。
1920年に施工が始まったが完成を見たのは1957年。建築様式は北フ
ランスとフランダース地方の宮殿様式を取り入れていると言われる。

市庁舎正面には19世紀を代表するポルト出身の文豪、アルメイダ・ガレッ
ト=Almeida Garrettの銅像がある。(ガレットについては、いずれご紹
介します)
市庁舎の中央の塔は180段の階段からなり、ポルトの街が一望できる。 
ちなみに、市庁舎見学は毎月第1日曜日、申し込みすることでガイド付の案
内がしてもらえる。 

JW-reception1-1[1]
Japan Week時に市庁舎で行われたオープニングセレモニー。 

市庁舎の表玄関はセレモニー用である。勿論市に用件ガある物がそこから入
れないことはないのだが、通常は裏門から出入りする。2010年11月に
ポルト市と国際親善協会の共催でJapan Weekが開催された際、わたしはコ
ーディネーターを仰せつかい、1年間、市のスタッフとの打ち合わせで何度
もこの裏門をくぐったものだ。その時から気になっていたのに、裏門とトリ
ンダーデ教会の間にあるChafariz(シャファリス=噴水)があった。
昨日はそれを探検に。

Aliados,Porto
市庁舎のすぐ後ろにあるとリンダーデ教会。教会と市中者の裏門の間はトリ
ンダーデ広場と呼ばれる。噴水はその小さな広場にある。

Aliados,Porto
Chafariz do Laranjal

噴水上部には「REIP VSIV DICATVM COMMUNI(市民が使用するために)」
とラテン語が彫られている。
Aliados,Porto

更に噴水の下方にはうっすらとだが、「ラランジャル噴水再設置」と彫られて
あるのが読めるが、年号も書いてあるのだろうか、判明できなかった。

aliados,orto

調べてみると1854年に、今は消滅してしまったサン・ドミンゴス修道院の
広場にあったものを設置したそうである。
サン・ドミンゴス広場は現在名前が残っており、サン・ベント駅前から始ま
るRua de Flores通りが終わるところに当たる。
下記の拙ブログ「サン・ドミンゴス広場の面白い文具屋さん」にて紹介して
いる。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1036.html

potpourri
市庁舎通りの移り変わり

メトロのちょうど出入り口になっているこの通りは近年漸く木が植えられ始
めましたが、夏の日差しを浴びての観光客には涼しい木陰を提供するにはま
だまだ時間がかかりそうです。

かつては大通りの真ん中両端には木が植えられていました。下の写真のモザ
イクタイルの後はグリーンベルトになっており、噴水、花壇があって鳩の群
れが飛び交っていました。
Aliados,Porto
写真は30年ほど前、市庁舎前で鳩と遊ぶ息子。
 
時代の移り変わりではありますが、メトロという文明の利器導入で払われる
自然の犠牲は、やはり大きいと思わされる現実です。
個人的な意見を述べるならば、銅像など配置するよりも、グリーンベルトは
そのまま残した方が、古いポルトの街並みにに見合ってよかったのではない
かと思ったりします。       

Aliados,Porto

昨日はこんな情景が見られました。

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2013年8月18日
 
ここ数日しのぎやすい気温のポルト、盛夏ははや過ぎたと思うのは油断か。
残暑というのがあります。

夫は今日から通常通り仕事に戻り、わたしの夏休みもそうこうしている内
に半分終わってしまいました。体力が衰えつつある近頃、いきなり休み前
のスケジュールに入るとどうなるか自分でも目に見えていますので、そろ
そろ気持ちの上では仕事を始める準備にとりかかろうかとウォーミングア
ップです。

さて、家で暇をもてあましているわたしの様子を見かねてか(そんな訳で
はないのだが、読書にいそしみよく寝転んでいる^^;)二日間続けて夫
に誘われ、夕食をしがてら夜のポルトの街を散歩しました。

夜は家が一番と、若い時とは全く逆の意見をわたしは現在持っており、年
末の日本人会忘年会やコンサート等を除いては夜の外出があまり好きでは
ないのですが、せっかくの珍しいお誘い、一緒に行ってきました。

porto
隣接するボルサ宮とサン・フランシスコ教会

porto

夜のリベイラは風も涼しく、オープンカフェやレストランは遅い食事の観光
客で満席でした。わたしたちもかろうじて一席とり食後のカフェをすすりな
がらドウロ河岸のリベイラを思い思いの服装で行き交う人を眺めては、自分
がポルトにやってきた30数年前の殺風景だったリベイラとは随分変わった
なぁと時代の移り変わりに一人浸っておりました。ちなみにポルトは今、
ヨーロッパで訪れてみたい最も人気のある都市のひとつなのだそうです。

porto

夫と一緒に街やショッピングセンターを歩くと必ずと言っていいほど知り
合いに出会います。この夜も案の定、リベイラから上って来、あれ?こん
なところにこんなホテルがいつの間にできたのかと、二人で覗いていたとこ
ろ、「おぉおぉ」とこの夜も背後から声を掛けられました。大学病院関係の
知人のご夫婦です。

わたしたちが覗いていたのは、外壁を使わずに変わりにすべて内部が外側か
ら見られる透明ガラスの新しいホテルです。
porto

古い石造りの建物の原形を残し少し改造したのがとても興味をそそられます。
porto

下はフロントです。
Porto
Hotel Carris Porto Ribeiraだそうです。

そのすぐ横に薄暗い路地に続く石段があり、興味津々、どこへ出るのであろ
うかと降りてみると、レストラン、タパスバーがありました。
porto

翌日の夜、夫が行ってみようと言う。
それで二日続いて夜の散歩となったのです。
porto

石造りのバーは雰囲気としては気に入ったのですが、いかんせん、タパスの
種類が少なくて期待はずれでした。レストランもタパスバーもホテルの一環
だそうです。

タパスはスペイン語Tapaの複数で、小皿料理、つまり前菜にあたりますが、
盛りだくさんのポルトガル料理を食べきれないわたしは、これが気に入って
おり、これだと小食のわたしでもビールやワインを飲みながら結構食べられ
るのです。タパスの画像を二つWikiから拾ってみました。

tapas1.jpg
オリーブオイルをよく使っており日本で言うおつまみです。日本でも昔は「
炉端焼き」と言ったのがあり、わたしは大いに気に入って通ったものです。
tapas2.jpg

ところが、どういうわけかポルトではタパスバーが定着しないようです。こ
れまでにわたしたちが土曜日もしくは日曜日の昼食をとる場として常連客に
なっていたタパスバーが消えていくのです。

一品一品の値段があまり安くないので、お腹がしっかり膨らむまで食べるの
が好きなポルトっ子にしてみれば、値段の割には食べ足りないということで
しょうか。いやぁ、ほんとにこちらの人はよく食べる!35年在住すると言
うものの、こればかりはわたしは未だについていけません。

ん?その割には少し小太りな?し、失敬な・・・
とまれ、油料理の多いことが影響しているのは免れませんかも。ハハ^^;
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2013年8月16日

museu-bilros
博物館入り口

ポルトガル語ではMuseu das Rendas de Bilrosと呼びます。
ボビンレースことRendsa de Bilros(レンダス・デ・ビルロス)は主に
北部のVile de Condeともう一箇所南部の大西洋沿いにあるペニシェ
(Peniche)がよく知られています。
今回はVila de Condeの博物館を紹介します。

museu-bilros
館内はこじんまりとした感じでした。

museu-bilros
通常はここで編み子さんたちはこの仕事で昔から歌い継がれてきた歌を歌
いながらデモンストレーションをしているのだそうです。この日は前々回の
ブログで紹介したFeira(市)に総動員だと受付で説明を受けました。

bobin
糸をつないだ木製のBilro(ビルロ)ことボビン。

museu-5.jpg
ウエディングドレスの長いベールがボビンレースです。

museu_6.jpg
昔はこんな風におしゃれにも使ったのですね。

17世紀初期、Spinola Doria公爵夫人の肖像画、円形のフレーズ(ひだ襟)は
ボビンレースです。気がついたのですが、ひだ襟は南蛮屏風に描かれている
当時のポルトガル人もしていますね。これもボビンレースでしょう。

現代の作品です。
museu-bilros

トレイのガラス板の下にボビンレースが敷いてあります。
museu-bilros

下は以前ブログで紹介しましたが21年間勤続したわたしの補習校退職時に
父母会の皆さんからお礼としていただいたボビンレース入りの木箱です。
museu-bilros


19世紀に入ると機械の発達によりボビンレースも手工レースの完全模倣
ができるようになったとのこと、大量生産で価格も廉価となり手工レースは
廃れ後継者を育てるのに苦労する現在に至るわけですが、こうして目を凝
らして見るにつけ、このような細かい仕事が人の手によってなされることに
ひたすら感心します。実際の話、Renda de Bilrosの場合、機械レースと
人工レースの区別は難しいことでしょう。

アソーレス島やマデイラ島の手刺繍のように、独自の商標をつけるといい
のではないかと思うのですが。

bilros-acores.jpg
↑正真正銘のアソーレス刺繍であることの証明札がついている。下の二つは
今回のフェアで手に入れてきたものです。
 
museu-bilros

museu-bilros

ボビンレース博物館(Museu das Rendas de Bilros)
Rua de S. Bento, 70
4480-781 Vila do Conde Portugal
開館日:火~日曜日 10時~12時、14時~18時

なお、下記ではポルトガルの伝統工芸のひとつ、マデイラ、アソーレス島
の手刺繍の記事が読めます。興味のある方はどうぞ。

ポルトガルの伝統工芸・マデイラ・アソウレス刺繡
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1194.html


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2013年8月14日 

ボビンレース博物館を次回に回し、本日は数年前から気になっていたことを
思い切ってとりあげることにしました。

8月もこの時期になるといつもわたしには二つの思い出される話があります。
2007年に産経新聞の「やばいぞ日本」で紹介された終戦直後のアメリカ
人による体験談です。記事をプリントアウトしていますので、自身のための
メモとして戒めとして今日はそのまま載せたいと思います。長文になります
が読んでいただけたらと思います。

ー引用、ここから

【忘れてしまったもの】
靴磨きの少年・一片のパン、幼いマリコに

81歳、進駐軍兵士だった元ハワイ州知事、ジョージ・アリヨシ氏から手紙
(英文)が、記者の手元に届いたのは今年10月中旬だった。

 親殺し、子殺し、数々の不正や偽装が伝えられる中、元知事の訴えは、
「義理、恩、おかげさま、国のために」、日本人がもう一度思いをはせて
ほしいというものだった。終戦直後に出会った少年がみせた日本人の心が今
も、アリヨシ氏の胸に刻まれているからだ。
 
 手紙によると、陸軍に入隊したばかりのアリヨシ氏は1945年秋、初め
て東京の土を踏んだ。丸の内の旧郵船ビルを兵舎にしていた彼が最初に出
会った日本人は、靴を磨いてれくれた7歳の少年だった。言葉を交わすう
ち、少年が両親を失い、妹と二人で過酷な時代を生きていかねばならないこ
とを知った。
 
 東京は焼け野原だった。その年は大凶作で、1000万人の日本人が餓死
するといわれていた。少年は背筋を伸ばし、しっかりと受け答えしていたが、
空腹の様子は隠しようもなかった。
 彼は兵舎に戻り、食事に出されたパンにバターとジャムを塗るとナプキン
で包んだ。持ち出しは禁じられていた。だが、彼はすぐさま少年のところに
とって返し、包みを渡した。少年は「ありがとうございます」と言い、包み
を箱に入れた。
 
 彼は少年に、なぜ箱にしまったのか、おなかはすいていないのかと尋ねた。
少年は「おなかはすいています」といい、「3歳のマリコが家で待っていま
す。一緒に食べたいんです」といった。アリヨシ氏は手紙にこのときのこと
をつづった。「この7歳のおなかをすかせた少年が、3歳の妹のマリコとわ
ずか一片のパンを分かち合おうとしたことに深く感動した」と。
 
 彼はこのあとも、ハワイ出身の仲間とともに少年を手助けした。しかし、
日本には2ヵ月しかいなかった。再入隊せず、本国で法律を学ぶことを選ん
だからだ。そして、1974年、日系入として初めてハワイ州知事に就任し
た。

 のち、アリヨシ氏は日本に旅行するたび、この少年のその後の人生を心配
した。メディアとともに消息を探したが、見つからなかった。
 「妹の名前がマリコであることは覚えていたが、靴磨きの少年の名前は知
らなかった。私は彼に会いたかった」
 
記者がハワイ在住のアリヨシ氏に手紙を書いたのは先月、大阪防衛協会が発
行した機関紙「まもり」のコラムを見たからだ。筆者は少年と同年齢の蛯原
康治同協会事務局長(70)。五百旗頭真防衛大学校長が4月の講演で、元知
事と少年の交流を紹介した。
 それを聞いた蛯原氏は「毅然とした日本人の存在を知ってもらいたかった
ため」と語った。記者は経緯を確認したかった。
 
 アリヨシ氏の手紙は「荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたび
に、あの少年の気概と心情を思いだす。それは『国のために』という日本国
民の精神と犠牲を象徴するものだ」と記されていた。今を生きる日本人への
メッセージが最後にしたためられていた。
 
 「幾星霜が過ぎ、日本は変わった。今日の日本人は生きるための戦いをし
なくてよい。ほとんどの人びとは、両親や祖父母が新しい日本を作るために
払った努力と犠牲のことを知らない。すべてのことは容易に手に入る。そう
した人たちは今こそ、7歳の靴磨きの少年の家族や国を思う気概と苦闘を
もう一度考えるべきである。義理、責任、恩、おかげさまで、という言葉が
思い浮かぶ」
 凛とした日本人たれ。父母が福岡県豊前市出身だった有吉氏の“祖国”へ
の思いが凝縮されていた。

 終戦直後、米海軍カメラマンのジョー・オダネル氏(今年=2007年8
月、85歳で死去)の心を揺さぶったのも、靴磨きの少年と似た年回りの
「焼き場の少年」であった。

焼き場の少年
Wikiより

 原爆が投下された長崎市の浦上川周辺の焼き場で、少年は亡くなった弟を
背負い、直立不動で火葬の順番を待っている。素足が痛々しい。オダネル氏
はその姿を1995年刊行の写真集「トランクの中の日本」(小学学館発行)
でこう回想している。

 「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろ
ぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子
がくくりつけられていた。(略)
 少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動
じない。係員は背中の幼児を下ろし、足下の燃えさかる火の上に乗せた。
(略)
 私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じ
っと前を見つづけた。私はカメラのファインダーを通して涙も出ないほどの
悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。
しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った」
 
この写真は、今も見た人の心をとらえて離さない。フジテレビ系列の「写真
物語」が先月映した「焼き場の少年」に対し、1週間で200件近くのメー
ルが届いたことにもうかがえる。フジテレビによると、その内容はこうだっ
た。

 「軽い気持ちでチャンネルを合わせたのですが、冒頭から心が締め付け
られ号泣してしまいました」(30代主婦)、「精いっぱい生きるという一
番大切なことを改めて教えてもらったような気がします」(20代男性)。
 
 1枚の写真からそれぞれがなにかを学び取っているようだ。
 オダネル氏は前記の写真集で、もう一つの日本人の物語を語っている。
 
 激しい雨の真夜中、事務所で当直についていたオダネル氏の前に、若い
女性が入ってきた。「ほっそりとした体はびしょぬれで、黒髪もべったり
と頭にはりついていた。おじぎを繰り返しながら、私たちになにかしきり
に訴えていた。どうやら、どこかへ連れていこうとしているらしい」
 
 それは踏切事故で10人の海兵隊員が死亡した凄惨な現場を教えるため
の命がけともいえる行動だった。オダネル氏は「あの夜、私を事故現場ま
で連れていった日本女性はそのまま姿を消した。彼女の名前も住所も知ら
ない。一言のお礼さえ伝えられなかった」と述べている。
 
 苦難にたじろがない、乏しさを分かつ、思いやり、無私、隣人愛・・・。
 こうして日本人は、敗戦に飢餓という未曾有の危機を乗り切ることがで
きた。それは自らの努力と気概、そして米軍放出やララ(LARA、国際
NGO)救援物資などのためだった。
 
 当時、米国民の中には、今日はランチを食べたことにして、その費用を日
本への募金にする人が少なくなかった。日本がララ物資の援助に感謝して、
誰一人物資を横流しすることがないという外国特派員の報道が、援助の機運
をさらに盛り上げたのだった。

 こうした苦しい時代の物語を、親から子、子から孫へともう一度語り継ぐ
ことが、今の社会に広がる病巣を少しでも食い止めることになる。
                     (中静敬一郎)
               2007.11.06産経新聞「やばいぞ日本」より

                                ー引用終わり

二つめの話の写真には「焼き場の少年」と題がついています。
下記Youtubeサイトでは、この写真と撮影したカメラマンについてのドキュ
メンタリー「米軍カメラマンが見た長崎」を見ることができます。

http://www.youtube.com/watch?v=wFvjKL-ObZQ

本日はこれにて。

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2013年8月12日 
 
伝統工芸界はいずこでも後継者の問題を抱えています。
ポルトガルもその例に漏れず、かつては街で見かけた北部工芸品の多くが
今ではすっかり店頭から姿を消してしまいました。

ポルト近辺のゴンドマールの金銀細工のフィリグラナ(Filigrana)も伝統
手芸織物も手に入れようと思ったら、今では探さなければならなくなりまし
た。そんな状況の中で、こんな風にしてなんとか伝統工芸を後続させて欲し
いものだと思った今回のフェアの光景をいくつかあげてみます

feira-8-1.jpg

アライオロス・カーペットのブースでは母親が娘に教えていました。話しか
けて撮影許可をもらいました。こうしてひと針ひと針刺して作られたアライ
オロス・カーペットは夏も冬も素足に心地よいのです。下記ではアライオロ
ス・カーペットを案内しています。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-969.html

さて、嬉しいことに今回のフェアではRenda de Fileのブースがありました。
ポルトガル伝統工芸

Rendaは編み物、File(フィレ)は網目レースのことで、漁師の網のような
台を作りそれに模様を刺していきます。

網目レースもわたしは大好きで、行きつけのお店で仕入れがあるかどうか
必ず聞き、あれば日本へ帰国するときのお土産にするために必ず買い入れ
ておきます。小さなモチーフは手作りだと言うのに手ごろなお値段なのです。
テーブル敷きなどの大きなものは我が子たちの結婚に備えて買い求め
「Enxoval」(嫁入り道具)の大箱に入れて置きます。Enxovalについて
は後記で案内しています。

作品は全て写真の女性が作ったものだそうで、2枚ほど買いました。
丁度自分が網目に模様を編みこんでおり、その様子を写真に撮らせてもら
いました。木枠の中の網目も自分が作るのだそうです。
ポルトガル伝統工芸

こちらはTapete passadeiro listrada (細長い縞模様の敷物)を織っ
ているところです。 壁に掛けてあるのがそれです。
ポルトガル伝統工芸

この手のカーペットは値段も安く遠慮なく洗濯ができるので台所でよく使わ
れます。
ポルトガル伝統工芸
画像はWikiより

我が家も台所の洗い場と調理台の前に2メートルの長さのを敷いています。
はね水、はね油、食べ物の切りくずと意外と水場や調理台の前の床は汚れ
るものですが、これで大丈夫。それに冬場は足元が暖かい。

こちら、かつては飼っていた羊の毛を使い工夫してこのように機織機で作
り実生活に使用したカーペット。
ポルトガル伝統工芸

ポルトガル語ではこれらのような手作りのものを「artesanato」(アルテ
ザナート)と呼びます。アルテザナートの織物や刺繍は糸の切れ端が少し出
ていたり、網目も機械でのようにきちんと揃ってはいませんが、作り手が織
り込んだ時間が伝わってくるようでわたしは堪らない魅力を感じます。

ポルトガルの伝統工芸品については今回のボビンレースをトップに下記の
拙ブログにまとめてありますので興味のある方はご参照ください。

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-category-25.html

またこちらは昨年のポルトガルのリネン市

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1105.html

ポルトガルの嫁入り道具箱「Enxoval」についてはこちら。

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-449.html
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-451.html

本日も拙ブログを読んでいただきありがとうございます。
次回はボビンレース博物館です。

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2013年8月10日 

ポルトガル中北部に残る昔のままの村落を訪ねる今回の旅行から帰って来ま
した。その話題は後日とりあげるとしまして、本日は、旅行に出かける前に
行って来た「ポルトガル伝統工芸フェア」を紹介します。

viladeconde1

ポルトからもう少し北にのぼったところにあるVila de Conde(ヴィラ・デ
・コンデ)で毎年夏に催されるこのフェアは、全国各地からの伝統工芸ブー
スが約200店ほど参加します。

開催期間が今年は7月27日から明日8月11日まで。数年前にVila de
Condeが国内旅行帰途のルートにあたり、行ってみたところがその日は夕方
5時から再会とのことで、数時間待たなければならず、猫達のことも気にな
り諦めたのでした。

全国からの伝統工芸ですから、手織りのカーペット、アライオロスを始め、
セラミック木工芸品など多様。わたしは伝統の布製品が好きなのですが、
今回も目指して行ったのはポルトガル語で「renda de bilros」、日本語
で言うボビンレースでした。

Vila de CondeはRenda de Bilrosで知られる町で、市内には小さいな
がらもその博物館もあります。博物館については後日案内しますが、今日は
フェアの模様を。

公園内の両側にはたくさんのブースが立ち並び、入場して半時間もするとご
った返しの人出になりました。園内の真ん中をこの町の特産物であるRenda
de Birlosのグループが列をなして、昔からの歌を歌いながら実演してい
ました。
feira_artesanato

若い人も中にはいましたが、年配女性たちがほとんどです。
feira_artesanato

近づいて写真を撮らせてもらいました。
feira_artesanato
木でできているのがbilroと呼ばれ、これに細い糸をつなぎ編んでいきます。

feira_artesanato
こちらでは子供たちがデモンストレーションをしていました。

feira_artesanato
 
え!っと、こっちかな?と迷いつつ^^
feira_artesanato

見た目が機械で作ったような細かい模様の手作りのRende de bilrosは決
して安くはありませんが、小さいモチーフだと手が届きます。

フェアではこんな新しい挑戦の作品も見られました。
feira_artesanato
金糸を混ぜて編まれたペンダント。200ユーロほど。

伝統工芸フェア(2)に続きます。

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2013年8月7日

ナヴィがこっちへ行け、言うのに、なんで反対へ行くね~ん!と相変わら
ずの喧嘩旅。いえ、口に出してわたしは言ってませんですが、夫、連れが
何も言わなければ言わないで気になるようで、勝手に方向転換してへ走って
おりますです、はい(笑)

ま、急ぐ旅ではなし、この辺は何年も一緒にやってますとさすが慣れては
くるものの、しら~っとしたのがついつい顔に出るようで、言っても言わ
なくても同じか(爆)

こんなことをしながら、今回はポルトガルのHistlical Village、つまり
田舎も田舎、車でないとアクセスが難しい地方を周遊中で、二日目の今日は
迷いながら山腹のホテルにたどり着きました。

暗くなるにつれ、谷あいの小さな村にポツリポツリと灯りが灯っていくのは
暖かくて優しいものです。そうは言うものの、毎年、こうして旅をするごと
に感じるのは不思議に、一抹の寂寞感です。

山に囲まれて、今日は持参してきた文庫本、吉川英治「私本太平記」で、

忙裏、山、我を看る
閑中、我、山を看る

というのを目にし、近頃の自分はまさに山に看られていたが如しと、反省を
したところでした。

本日はこれにてごめん。

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2013年8月6日

休暇に入り、これまでの多忙な毎日と打って変わった生活になんだかすっか
り伸びきってしまい、休暇旅行の準備も出発当日の今朝、あわただしくパッ
キングすると言う始末。

留守番役のベルミーラおばさんに我が家の猫に加えて、外猫たちの餌やりを
説明して、いざ出発。車に乗り込むと、ご近所のおじさんが側を通り過ぎが
てら挨拶をするや否や引き返して助手席の窓をコンコン叩く。

「荷物がトランクの後ろにそのまま置きっ放しやで~」
!!

あ~あ、危なかった。夫、自分のはしっかりトランクに入れたものの、わた
しのは何の拍子でかは知らぬが、うっかり地面に置いたままだったのである。

こんな調子で例年のごとく、夫婦ヤジキタ喧嘩道中中。
ただ今、ポルトガル北部の片田舎の村におります。4、5日の旅程ですが
ネットの環境が良好なれば、再度、更新したいと思います。

それではみなさま、また!

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2013年8月3日 


このところ、米国カリフォルニア州のグレンデール市に於ける「慰安婦像」
設置問題に気をもんで、その成り行きを追いかけていました。同市の在住日
本人、日系人の慰安婦像設置反対運動に賛同するグレンデール市議会への
抗議メール運動に参加したからには見届けたいと思ったのと、海外に在住す
る日本人の一人としてこの問題は他人事ではないと考えたからです。

いきさつについては下記のサイトで読むことができます。

http://sankei.jp.msn.com/world/news/130713/kor13071311230001-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130731/amr13073110110001-n1.htm

grendel.jpg

残念ながら、日系住民の議会での証言や抗議メールは功をなさず、上記のサ
イトで報道されているように7月31日に、反対票を投じた現市長欠席のま
ま、駐ソウル日本大使館前に設置されたのと同じ慰安婦像が建立されてしま
いましたが、グレンデール市議員は市長を除き、どうやら日系住民たちが
提出した慰安婦ストーリーフィクションの証拠書類を精査せずに結論を出し
たようです。

今回の採決には彼の国のロビー活動の力を見せ付けられた気がします。
「日本ディスカウント運動」という国家をあげての国際的な政策をアメリ
カを中心に彼の国は繰り広げているとのことです。

下記サイトでは公聴会で証言した在米日本人の方たちの証言内容と当日の
状況説明が4.15分から始まります。

http://www.youtube.com/watch?v=Wv3x0mCtxn4

この問題の発端となった吉田清治が証言否定をしたと言うのに、いつまでも
いつまでも、河野談話だの村山談話だの、しかも腹のたつことに、日本人弁
護士が広めたと言う「性奴隷国家」の汚名にはもううんざりなのです。
そして、つくづくわたしたち日本人は口下手な大人しい民族だなぁと感じる
ことが多い近年、小学校に英語の授業を取り入れるよりも日本人の不得意な
ディスカッション授業を取り入れるべきではないかとわたしは思います。

相手を慮るがための曖昧な言いまわしは日本国内で、国際舞台ではこと国益
に反する場合は日本語ででもよし、堂々と反論できる人材の教育がこれから
は必要だと思います。

慰安婦問題から話は逸れますが、お互いに譲り合い、何かのときにも謝りあ
う日本人の美徳は、生き馬の目を抜くような社会にはとても思えないこの
ポルトガルでさえ通用しないことなのです。

「ごめんなさい」と先に言ったほうが、交通事故だって何だって全て責任を
とることになります。自分に落ち度があったとしても、まず己の正当性を
ぶつけてくるのが多くの国だということを、わたしたち日本人は頭に入れて
置く必要があると思います。

グレンデール市の公聴会で証言した日系有志の方たちの、論点を明確にした
発言は、隣国との摩擦が云々、と慰安婦問題やその他を曖昧にして一向に
反論しない日本政府にも是非聞いて欲しいものだと思いました。

そして、グレンデール市日系住民に、在住韓国人コミュニティと市の意向に
押しきられた結果にはなったが、拍手して今後の活動に声援を送りたい。

最後に、この問題について、こういう意見を持つ米国人もいます。
日本語字幕があります。

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