2014年3月28日 

久しぶりに子供達の話を。

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↑こんなポルトの街を後にして、日本に住み始めたモイケル娘は10年目、東京息子はこの春で6年目に入りました。

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↑午後4時ころ。ドウロ川に影を落とすドン・ルイス1世橋。こんな時間に橋を渡ったのは初めてで、面白い写真が撮れました。

6年前の3月始め、息子はフランクフルト経由で関空に入り、それからモイケル娘と合流して引越移動を手伝うために新幹線で下関へ下る。翌日は「二人+3匹猫+それぞれのパソコン+それぞれのバックパック」ら、一路新幹線で関東へ移動です。3匹猫を抱えて果たして目的地の千葉の某市にあるアパートまで無事に到着できるのかとヤキモキした3日間でした。

ポルト出発前日まで、友人のアパートの壁ペンキ塗りの手伝いに出かけ夜な夜な午前様、翌朝は出発で4時起きだと言うに、まだ夜出かけようとするので、さすがにのんきなおっかさんも、「バカ息子!いい加減にせぃ!」と爆弾落としたものであります。

出発前には、
「お前、関空から千葉に大きな旅行カバンを宅急便で送るはいいけど、住所を書くのに漢字は大丈夫?」と聞くと、「うげ!ローマ字じゃダメかな。」とのたまう。マジかい、息子^^; こりゃ先が思いやられること、目に見えし。と書いたものです。

無事、下関のモイケル娘のアパートに着くなり、「兄貴、関空でタコ焼きと納豆巻きを食べて、今、コンビニで肉まんとカルピス買ってきて食べてる・・・」と彼女からメッセが入った。無理もない、それらは息子の小さいときからの好物なのだが、ポルトでは手に入らず、マドリッドから出張販売でやってくる日本食店屋さんにたまに頼むのみでしたから、それに比べると想像できない値段で食べられるのですもん。さぞかし嬉しかったのでありましょう。息子よ、わかるわかる。こういうのは年齢関係なしだ(笑)

週に何度か近くのジムに通っている息子、力いっぱい筋トレをしていたら、係員が顔を青くして飛んで来、「お客さま、もう少しヤサシクしてください」と言われたのだそうだ。筋トレ用具を壊さんばかり勢いで思い切りガンガンやっていたのだろう。まったくいい年をして加減と言うことを知らないヤツではあると思いながら、その様子を想像したわたし、ジムには悪いが可笑しくて笑い転げた。

年末にすぐ近くの商店街で福引があった。例のガラガラポンを一回まわすのだが、あれを衆人の前で力いっぱい何回も回して、とうとう玉いっぱいが外へ飛び出してしまったって・・・・
息子いわく、「おれ、知らなかったんだ、一回しか回さないってこと。てへへ^^;」

そこに居合わせた日本人たちのあっけに取られた顔を思い浮かべると、「お前というヤツはぁ~」と言いながら、これが笑わずにおらりょうか(爆)日本の皆様、息子がご迷惑をかけておりますが、どうぞ長い目でみてやってくださいませ。

気がつけば、6歳年下の妹が世帯主になっておったりと、モイケル娘が日本へ上陸した当時がそうであったように、東京息子の日本滞在5年間もネタ話が山ほどあるにちがいない。(当時のモイケル娘ネタ話はこちら→「帰国子女ネタ受験編

日本で知り合った友人からは「J君て原始人みたいだね」と言われる始末。「粗にして野」か・・・しかし、卑にはなるなやと母として思ったものだ。三つ子の魂百まで。ああ、いったいこの様は誰に似たのかと、こそばいやら心配やらの5年間でした。

その二人が協議した結果、この春5年間の共同生活を解消して、片や千葉に、片や池袋方面にとそれぞれが引っ越し、独立して一ヶ月半が経ちました。(モイケル、一体何回引越ししとるねん!)

一人暮らしは確かに気が楽かもしれないけれど、さびしい時があるんだぞぉ、と、できるものなら、同じアパートの棟に別部屋を借りて欲しいのが親心でした。が、息子はPCで音楽作曲をするので「音楽可で職場の大学に近いところ」、娘は3匹ネコを抱えるので「ペット可で、大学院から遠くないところ」とそれぞれ求める条件が違う。息子については週3で大学の職場に通勤するのですが、片道ゆうに2時間はかかり、朝5時半に起床して出かけるので実のところ健康を心配していたのであります。

親がああだこうだと言う年齢では二人ともないのですが、いくつになっても子は子だという言葉を今噛み砕いております。

モイケルジュアン1

私たちも先ごろ結婚35周年を迎えました。珊瑚婚というのだそうです。「35年かぁ」と子供達が中心だった生活を懐かしく思い出し二人してレストランでビールを乾杯しました。そして夫からは5月7日付け、日本行きの切符をもらいました。

ということで、みなさま、参りますわよ!
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2014年3月25日 


今年で4回目になる、わたしたちが「NHKパーティー」と呼ぶところの「Nihongowo Hanaru Kai」が先週日曜日に、YY塾で行われました。
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YY塾と言うのは、Oちゃんとわたしの名前の頭文字をとり、「生徒たちにワイワイ楽しみながら日本語を学習してもらえたら嬉しい」という意味合いも兼ねて付けました。個人レッスンが多いのですが、わたしが持つポルトの市立図書館での日本語コース2クラスも、加わってもらいました。

このパーティーは、わたしとOちゃんが持つ日本語学習者に全員参加してもらい、日本語に関する情報交換ができることと、交流の場にしてもらうことを目的にセッティングしたのですが、今では3月に入ると生徒さん達から「今年のNHKパーティーはまだか」と催促がくるようになり、わたしたちの企画が成功したなと思っているこの頃です。
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パーティーもたけなわ。昔からの生徒さんと一緒に。

「今年は全員出席したら40人くらいになるねぇ」などと軽口をたたきながら、メニューを話し合ったOちゃんとわたしでしたが、一通りメニューが決まってミーティングを終え、帰宅したわたし、ふと何気なしに話していた40人という数を思い、おい!40人分の食事、二人で準備できるのか!と慌てふためいてOちゃんに電話。すると彼女、「なんとかなりますよ」と仰せ。この辺はのんびりというか、楽天的と言うか、あはははは。というので、「そうよね。なんとかしましょう」の相槌を打つわたし。一体全体がこんな感じのYYコンビなのであります。

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台所のOちゃん。わたしとは親子ほどの年齢差でありますが何気に気があいます。

結局今回は9人ほど出席できない生徒がいましたので、およそ30人くらいのパーティーになりました。が、デザートのケーキを除いては外注しませんので、食事の準備はなかなか大変ではありました。日本語授業を終えた土曜日は夕食後から夜1時まで、、前もって準備できるものは作ってしまいました。台所でアタフタ動き回るわたしを側でみた夫がボソッと「こりゃ2、3日大変だな」とこぼしたw 大変だというのは、目標に向かって突っ走るときの我がエネルギー、当てられるものがあるのだそうですが、終わった後がグロッキーになって大変だ、の意味合いでありますw なんだ、ちゃんと知ってて覚悟してるのではないのw

さて、以下、2014年YY-Juku NHKパーティーメニュー

Yuko´sグラタン、カレー、ブタロースの紅茶にドレッシング漬け、スペアリブ(前夜準備)
巻き寿司7本、Yuko´sツナサンドイッチ(これはいつも売り切れw)そして、一番時間がかかる「一口チキンからあげ」と「一口カツ」。これがわたしの分担です。

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Oちゃんはというと、細巻き寿司、押し寿司、Ochan´s シーフードサラダ、焼きソバ(これもすぐ売り切れw)、そして今回メニュー初登場の餃子。

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デザートは生徒の中にケーキ職人さんがいますので、彼女に注文してお任せしました。そうして出てきたのが下のケーキ。

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どちらも美味でありましたが、届いて中を開けてびっくり、みんなが「わー!」と歓声上げたのがこれです↓

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これは予想外でした。この生徒さんは、昨年もこんな素晴らしいケーキを作ってくれたのでした。
nhk
カタリナさん、ありがとう!


デザートタイムになっても、さすがこれに早々とナイフを入れる人がおりませんでしたぞ^^
1時から始まったパーティーも4時にはお開きですが、挨拶をして帰る生徒さんも半分ほどに
なったころ、突如として「あーーーっ!」と大声を上げたわたしに、一同振り返る。うぐぐぐぐ~。全員集合写真を撮るの、忘れた!忘れた~(泣)残ってる人達だけのいうのもいかがなものか、というので、今回は集合写真なしでありました。だめだなぁ。。。

とっつばれ。(津軽弁で終わりの意味)
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2014年3月18日 

先週は、この月末にボランティアで影絵「キョーリュー年代記」を上映する予定の会場へ下見に行って来ました。今回はドン・ルイス一世橋を渡った隣町ガイア市の大通りにある「Casa Barbot(カーザ・バルボー)」の一室で上映です。
casaはポルトガル語で「家」の意味です。

casa_barbot

ガイア市では唯一の19世紀初期アールヌーボ調の建築だと言われます。

このCasa Barbotをわたしは昔から大通りを車で通るたびに、かつてはさぞかし美しい館であったろうと想像してずず黒くなっていた姿を眺めていたものでした。Barbot(フランス名?)は1940年代の所有者の名に因みます。廃墟になっていたのをガイア市が手がけ、現在はカルチュアセンターとして復活し、個展や行事が催されてます。

今回の影絵は、児童心理学を研究しているポルトガル女性から声がかかり、いつもの通り、Oちゃんと二人ですることになっていますが、会場がCasa Barbotとは奇遇な縁を感じます。

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庭に面したカーザ。
  
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洞窟はシントラにあるレガレイラの館同様、錬金術のシンボルだと推測。

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内部の美しい装飾のドア。
casa_barbot

casa_barbot
階上への階段と天窓が素晴らしい。

上映階上の下見が目的でしたから、ゆっくり館内を見回してカメラを向けることができませんでしたが、次回の訪問ではもう少し写真を撮ろうと思っています。

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フライヤーも作ってくれました。影絵上映とともに子供達を対象に折り紙のワークショップも組まれています。今年最初のボランティアワークです。

本日はこれにて。
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2014年3月16日 

震災の動画をわたしは見ることができない。映画の一シーンではない、自分が見るあの瞬間に、多くの人命が飲み込まれたと知っているから、繰り返しそれを見ることはそうして亡くなった人への冒涜のような気がしてしまうのである。

1地震

震災当時にネットで見つけた一枚の忘れられない写真がある。わたしはそれを時折引き出してみる。この写真を見るといつも胸にこみ上げてくるものがある。この写真にわたしは無常観を感じてならないのだ。
日々生きながらに確実なる死に向かっているのがわたしたちの人生だと思う。誰しもこの運命から逃れることができない。だからと言って暗い気持ちで日々を暮らしているわけでは決してなし。いたって楽天的だ。

亡くなった方々のご冥福を祈り、未だに復興がままならなず不安と不自由に絶えているであろう被災地の方々に心から同情するとともに、わたしたちも時に触れてこの事を思いだし、気を引き締めてみることは大切だと思い、今日は3年前、関東に住んでいたあの日の子供達のことを書いた日記を抜粋して再度あげてみたい。

ーここから引用

地震のニュースを知った後しばらくは国際電話が不通でいてもたってもいられない状態でpcを開けたあと、こういうときだと言うのに、ネットのスカイプがつながっていたのに驚いた。
早速息子が声をかけてきたのであった。

2011年3月12日
息子は昨日は(2011年3月11日)仕事が休みで、地震が起きた時外で自転車を走らせていたそうです。急遽帰宅してしのが、なんと!3匹の猫たちをそれぞれのカゴに入れて外へ運び出した事だそうです。(あんたら幸せなネコやで!)

モイケル娘は?と聞くと、「まだ会社だと思う、けどケータイが通じない」と言う。わたしもダメもとで彼女のケータイにメールを送ろうとメールボックスを開くと、「かあちゃん、地震起きました」
の件名が目に飛び込んできた!
この瞬間、わたしの心臓はぎゅぎゅっとしぼんだ!そして、短い文面を読んで、とりあえず安堵に胸をなでおろしたのでした。

まだ会社にいるが、都内の電車が全面ストップしているので帰れない。いわゆる帰宅難民になっていたわけです。

そのうち、「同期の人たちで歩いて帰ろうという話が出てるみたいだ」と息子が言う。おいおい、まて!それは危険なことだよ。止めよ、とメールを打ったが、息子、「She's comming back. 家に向かってる」
「シ、シーズ カミング バックって、あんた!ナに言ってるのよ~」と叫べど既に遅し

すると間もなしに娘から、
「今歩いてる。心配しなくていいよ。グループで歩いてるから」
こういうときは、余震もさることながら、狼男も心配なのだよ、おっかさんは!我が娘、思うに絶対ネコのことが心配で、歩いて帰る気になったに違いない。同じ環境だったらわたしも同様のことをしていたこと確実であります。

夫ももう起き出しておりましたが、気になるとて病院の仕事を休むわけには行かない。間もなく出勤しましたが、一人家に残ったわたしは新しい日本語クラスの準備も手に付かず、そのうち、友人たちから、親戚から、知人からと電話が一日中なりっぱなしです。

娘が一緒に歩いたグループは会社の寮の人たちで、実はその寮が偶然我が子たちのアパートの一つ駅違いのところにあるのだそうな。たまたま、社員に寮から築地にある会社まで、1時間ほどかけて自転車通勤をしていたツワモノがいたのだとか。それでその人が道を知っていたので、皆で徒歩で、との決断を下したそうだ。

自転車で1時間が、歩いてなんと4時間半!たはーー!どんな靴でそんな長時間歩いているのだろうか、足、大丈夫だろうか・・・そんなことを思い巡らしながら、気もそぞろで新しい出張日本語クラスを終えて帰宅し、息子から家に無事たどり着いたことを確認して、ひとまず安心したのでした。

2011年3月13日
ここ三日以内にM7の地震が襲う可能性70%との気象庁の発表があり、できれば会社を休んでほしいところですが、「こういうところが日本なんだ」と言って出かけていきました。

妹が再度の地震に向けて、保存食、水、猫のえさなどをせっせとリュックに詰めて準備していると言うのに、のんびりものの息子、その気配なし。わたし、おばにあたるわたしの妹にもさんざ言われ、さすが怖気づいたか準備し始めたようです。あれをこれを買っておきなさいと言うと、「もうスーパーもコンビにもほとんど棚になにもない」とのこと。1970年代のオイルショックでマーケットの棚から、たちまちのうちにトイレットパーパーが消えたことを思いだします。

2011年3月23日 

原発問題がまだ明確な見通しがついておらず、現場では今日も危険を承知で必死な作業が続けられています。ニュースを通して被災者たちのエピソードも聞こえてき、気の毒で涙が出てきます。しかし、人生は続く。日本人の、人間の生命力の逞しさを信じたいと思います。

「おっかさん、今日はパンが買えた!」とモイケル娘。日本は物が豊富だ、というより、豊富を過ぎて贅沢だとフッと思うことがあります。パンが買える喜びを、娘よ、覚えておいて欲しい。

計画停電だというのに、懐中電灯もろうそくもないという我が子達、懐中電灯をネットで注文したら品切れでないと言う。大阪の我が親友Michikoや名古屋の杉さんから物資の差し入れが届きました。
子供たちの住む区域は夕方6時から10時まで停電の今日、間もなくその時間がくるという前の少しの間、スカイプでモイケル娘と話しました。

おっかさん:  懐中電灯、手元に用意してる?
モイケル :  うん。ヘッドライトをつけてる
おっかさん:  へ、ヘッドライト?
モイケル:   そ。みっちゃんが送ってくれたのを頭につけてる。
        鏡で今自分の姿を見たら、マヌケだった^^;

↓こ、こんなんを頭につけてるんか、と思ったら、停電を待機していて気の毒だとは思ったが、可笑しくてつい大声で笑ってしまった。
地震2

笑っている間に停電が来た様で娘はスカイプから落ちていた。
 -引用終わり


この日件以来、日々地震と背中合わせで生活しているような日本の暮らしだ、子供達にはいざと言うときにはそのまま持ち出せる「災害リュック」なるものを当座の間は枕元に、後はすぐ手の届くところに置いておくようにすすめ、時々、思い出しては「災害リュックはどうしているか」「中身を時々確認せよ」と、声をかけている。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。

子供達よ、ポルトガルには地震がないぞ、帰ってくる?
地震はないけど、仕事もないじゃん、との返答がくるのが分かる^^;

ぎゃふんである。
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2014年3月10日 

昨日、日曜日はこの時期恒例のポルトの椿祭りへ夫と出かけて来ました。

昨年のカメリアフェスティバルも当ブログで案内していますが、これまで会場はわたしが日本語教室を開いているアルメイダ・ガレッテ市立図書館のギャラリーだったのを、今年はポルト市庁舎での開催です。

2010年のJapan Weekのコーディネーターの仕事で市のスタッフとの打ち合わせのため、何度もこの市庁舎に出入りして知っていたので、わたし個人の意見としては市立図書館のギャラリーの方が市庁舎内の行事スペースよりも広さ、明るさがあり、展示会場としてはあちらの方が適しているのになぁ、なんて思っていたのです。

ポルトは昨年暮れの選挙で、これまで長年市長を務めてきたRui Rio氏が二期の任期完了となりRui Morreira氏が現市長です。どうやら「市庁舎をもっと市民に開放したい」との市長の意向のようです。ポルトでは市民を対象としたIDカード発行、パスポート、健保関係、免許証等の多くの手続き関係は市庁舎とは別場所のLoja de Cidadaoというところでなされ、市庁舎に一般市民が出入りするには、用件相手と予約を取り付け受付を通して内部に入ることになりますから、ともすると一般市民からは堅苦しい場所という感が否めません。ですから、今回の趣旨からすればなるほどと頷けます。

Cameria

中に入ってみました。
Camelia
市庁舎の表玄関。
Camelia
たくさんの人で賑わっていました。
Camelia


今年は例年と少し趣向がちがい、展示にカメリアこと椿がポルトガルに入ってきた歴史を取り上げていました。ポルト市内の小学校数校がその歴史を折り紙で表現したディスプレイが掲げられています。
Camelia

椿の歴史は後で触れるとして、この折り紙ディスプレイに関しては市当局から「折り紙ワークショップ」も兼ねて参加してもらえないかとわたし宛に連絡があり、それならいっそのことと、我が古巣ポルト補習校を紹介したのでした。補習校は現地の小学校を毎土曜日借用しており、こんな時の協力こそ感謝の気持ちが伝えられるいい機会ではないかと勝手判断(笑)

そうして補習校の生徒、父母、先生方が協力して出品したのが下の二作品です。
Camelia

Camelia


わたしは残念ながら直接協力できませんでしたが、オープン当日の午後はポルト在住の数人の日本の人たちが海上で折り紙ワークショップをしたそうです。展示会はカメリアのコンクールでもあるのですが、今年は小学校の展示物もその対象になったそうで、現地小学校と合同で出品した補習校の作品が入賞しました。

そして入賞したもう一点、他校のものですが、これはポルトガルの黄金時代である大航海の帆船(ポルトガルではNau=ナウと呼ぶ)を浮き上がらせ、周囲に椿の花をめぐらしています。上部には日本語とポルトガル語がみれれるでしょう?この日本語部分は日本語の生徒さんに頼まれてわたしがしました。

Camelia

これを作りながら子供達は椿がポルトガルに入る経路と歴史を学んだことでしょう。そこでわたしもポルトガル語からそれを学んでみました。ここから久しぶりのspacesis歴史の謎解きです。

椿はポルトガル語では「Camelia(カメリア)」と言いますが、Japoneira(ジャポネイラ)やrosa de Japao(日本のバラ)の俗名があります。特にポルトガル北部ではJaponeiraがよく使われます。
これは、ポルトガルでは椿が酸性土、雨の多い地方に適しているため、北部に多く見られるのだそうです。

Cameliaの語源はというと、18世紀に、モラビア(現在のチェコの東部)生まれのジェスィット団宣教師ゲオルグ・カーメルに因みます。彼が中国から椿の種をヨーロッパに送ったとの記録があるそうです。カーメルの死後30年してから椿はヨーロッパで人々に知られることとなりカメリアと名づけられました。

すると、ここであれ?となります。では、ポルトガルでは何故Japoneiraと呼ぶのか。

わたしがポルトガルサイトで検索していると、同様に疑問を取り上げて書いているExpresso紙の記事にぶつかりました。「カメリアなのか、ジャポネイラなのか」、つまり18世紀のカーメルが中国から送ったのが元なのか、それとも16世紀に偶然種子島に漂着して以来のポルトガル人航海者が日本から持ち帰ったものか、と疑問を呈しているのです。

ポルトガル人航海者が日本へ持ち込んだ物は鉄砲だけではありません。オリーブ、ブドウ、いちじく、マルメロなどの果樹も運ばれました。古来から日本人に愛されてきた椿が彼らの興味を惹かないわけはないでしょう。
Camelia


椿は遣隋使の小野妹子が隋帝国第二皇帝に献上したと言われ、隋では、海の向こうから来たざくろ、海石榴(うみざくろ)と呼んだと書かれてあります。また、7~8世紀の万葉集には既に「ツバキ」の表記があり、ツバキを詠んだ歌もあることから、元々は日本古来の植物であったと言えます。

一般的にはカメリアがヨーロッパに紹介されたのは18世紀で19世紀には園芸植物として流行したと言われますが、わたしは16世紀にはポルトガル人によって日本から運ばれた「Japoneira」説を支持します。件のExpresso紙記者は1668年頃(カーメルが生まれる前)に建てれたリスボンのPalacio dos Marques de Fronteira(マルケス・デ・フロンテイラ宮殿)の青タイル(Azulejo)にはツバキの絵が見られると記事でも取り上げています↓(画像はWikiより)

Camelia

単なる花の展示に終わらず、学校ぐるみで自国の歴史を絡め、遠い昔に遥か極東の国から渡ってきた椿の経路を学んだ子供たちは、日本にどんな思いをいだいたであろうか。そう思う時、教育目的を含んだ今回の市庁舎での展示会は、会場が暗い、狭いの難はあったとしても初トライとして成功を収めたと思うのであります。

よし、今夏は是非、リスボンの宮殿にあるカメリアのタイル絵を見に行ってみよう!


本日もお付き合いくださり、ありがとうございます。

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2014年3月6日 

雨あがる。
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春だニャ~と、ゴロー君。

家の中より外のほうがぽかぽかと暖かい今日のポルト、我が家の5匹ネコも久しぶりに外の新鮮な空気を求め、春の匂いを求めてベランダに出ては花の香りを愛でていました。今年は春が待ち遠しかった。小さなベランダの草花にも生命の息吹を感じます。
さて、本日は前回の記事の続きです。

ポルトには中世の名残を今も留める古い路地が旧市街を中心にたくさんあります。前回紹介した「タイパス通りとサン・ミゲル通り」もそのひとつですが、今日はサン・ミゲル通りとサン・ベント・ダ・ヴィトーリア通りが交差する角に佇む小さな古い家について。

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「サン・ミゲル通り4番地の家・Casa No4 da Rua de São Miguel」 または「サン・ミゲル通りの建物」と呼ばれます。この建物をわたしが偶然見つけたのはかれこれ10年前になります。ちょうど我がモイケル娘が日本の大学を目指して旅立ち、寂しさにかまけておってはいかん、なんとか子離れしなくてはと自分を叱咤激励しながら、これまで子育てが忙しくて見向きもしてこなかったポルトの街をツーリストよろしくデジカメ持って散策探検をし始めた頃です。

この家の側面がヴィトーリア教会のまん前に面しており、その教会を目指していたのでした。写真では家の前にポルト市が設置するガイド板が見えますが、わたしが見つけた頃はなかったと記憶しています。無人の家にこんな素晴らしいアズレージュ(青タイル絵)が貼り付けられているのにいたく感心したのでした。

書こう書こうと思いながら、情報が得られずつい今日まで来てしまいました。昨今はポルトガルのネット情報もかなりよくなってきたと言うわけです。取り立てて建物に大きな特徴があるわけではないのに、地階上階の正面のアズレージュが気になっていました。

Saomiguel_azulejo
聖母マリアを描いたと言われる。

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当時の人々の生活が描かれている。下にちょっと拡大してみました↓

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サン・ミゲル通りと交差するサン・ベント・ダ・ヴィトーリア通りには、その名がつけられた由来の「サン・ベント・ダ・ヴィトーリア修道院(ベネディクト会)」がありました。現在も荘厳な修道院の建物は外装はかつてのまま残っていますが、内部は改築され劇場、コンサートやイヴェント会場として使用されています。くだんの家のアズレージュはその修道院から持ち出されものの一部だと言われています。盗んだのか?う~ん、難しいところではありますね。ただ、盗んでこんな修道院の目と鼻の先に貼り付けるわけはござんせん。歴史的な事情があったのですね。

ポルトのサン・ベント・ダ・ヴィトーリア修道院は16世紀から18世紀の始めにかけて建築されました。しかし、1807年から1814年にかけて3度のナポレオン軍の侵攻(イベリア戦争)があり、その間、この修道院はポルトガル軍の病院として使用されました。その祭の修道院内の破壊から逃れるためと、もうひとつは、ナポレオン侵攻後の1832、33年はポルトガル内乱が起こったのです。その際ターゲットとなった修道院の略奪からアズレージュ破壊を避けるためだったと考えられていますが、では、いったい、それがどうしてこの家に?となるわけです。

その先のことは調べてもさっぱり出てまいりませんので、spacesis得意の勝手推測を(笑)

この家の持ち主は信心深い人だったか、もしかしたら、子供がこの修道院で神学を学んでいたかもしれない。あるいは、修道士だったやも知れぬ。アズレージュを破壊から救うためにいったんは引き剥がして預かったものの、その後の修道院の歴史はそれらのタイルを元に戻せるような平和な状態には最後までならなかった。預かり主はずっと持っていたものの、そのままタイル絵を朽ちさせてはならぬと、人々に見てもらうためにもこの家の表面に飾ることにした。

とまぁ、これがわたしの推測であります。

サン・ミゲル通りについてはもうひとつ、面白い家があるのですが、これはもう一度訪れて取材したいと思います。

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2014年3月1日 

ようやく長雨が終わるかと思ったのも束の間、今日も雨の週末です。

日本語教室の合間と晴れ間を縫って、例え1時間ほどでもとしばらく前に歩いてきた久しぶりのポルトの街を今日は少し。

写真を撮るだけでは飽き足らず、シンボルマークと思し召しきは勿論のこと、町の、通りの、あげくは建物のと、その歴史を知らずに語らずにおれない性分なものでついつい説明がしつこくなり勝ちのわたしです。本日もその類になりますれば、ご了承くださいませ。

ポルト
旧市街、昔ながらの路地Rua das Taipasこと、タイパス通り。ポルトの風物詩、洗濯物がここでも見られます。

この洗濯物は旧市街だから許可されているのであって、新住宅街では外観を損なうと言うので、いかな昔かたぎののんびりしたポルトとて、このように表通りに洗濯物を干すのは一応禁じられています。

「Taipa」は「しっくい壁」のことでペストがヨーロッパ襲った14世紀に、ペスト患者がこの地域に送られ、しっくい壁を張り巡らし隔離した祭の名残りがその名に残ったと言われます。この話は、エヘン(笑)、現在、我がポルトガル語のディアス先生と勉強しているポルトの歴史で学んだのであります。

この通りに来るたびに気になってきたのが下の古い家です。
ポルト
崩れかけていますがファシャーダ(正面玄関)に見られるのは立派な家紋。これを目に留めた何年か前には通りでタムロしていたおじさんたちをつかまえて誰の家なのか、だったのか、と聞いたものの分からないとのこと、中で人が働いているから聞いてみなと言われたのには、え?誰か住んでるの?と驚いた。横に回ってみると小さな作業所のようなのがドア越しに見え、勇気を出して中へ入り受付のおじさんに「この家の持ち主さんですか」と聞いたことがあります。

聞けば商売に一階を借りているのだそうで、外のファシャーダのいきさつも元々は誰の家だったかも知らないとの返事にガッカリしたことがあります。
これはPalacete dos Vilares de Perdizes(ヴィラーレス・デ・ペルディーゼス小宮殿)と呼ばれ17、18世紀にかけてブルジョアのその一族の住まいだったということが判明し長年の疑問が解けてこの度はすっきりしたところであります。

さて、この通りと交差するのがRua Sao Miguel、サン・ミゲル通りです。

ポルト
↑サン・ミゲル通りからタイパス通りを見る。下は通りの突き当りのヴィトーリア教会。
ポルト

この通りも古い歴史をもっています。14世紀の終わり頃にドン・ジュアン1世の命で作らたポルト最後のユダヤ人街、ゲットーでとしては1386年から1496年まで111年間存在しました。
当時のポルトのユダヤ人は日中市内での物の売買は自由でしたが、トリンダーデ教会(Igreja de Trindade。ポルト市庁舎の後ろにある)の夜の鐘が鳴ると同時にゲットーに入らなければなりませんでした。

1496年にドン・マヌエル1世王により、一年間の猶予でポルトガル国内のユダヤ人はキリスト教に回心するか国外へ出るかの選択を迫られました。ドン・マヌエル1世王のこの方策は、スペインのアラゴン王女との婚姻の契約事項でした。この時にキリスト教徒に回心したユダヤ人を新キリスト教徒と呼びます。

回心せずに家を捨てて国をでる者、回心しても旧ユダヤ人との交流を避けるためにこれまで住んだ家を捨てる者が多々あり、ユダヤ人街は実質上、無人の町と化しました。後、16世紀の半ばドン・ジュアン3世国王の命で、ポルトの新キリスト教徒は全てリベイラ広場かサン・ミゲル通りに押し込められることになりました。以来この通りは新キリスト教徒の町になったわけですが、さて、次回はこの通りに関する面白い話をご紹介します。

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