2014年9月29日 

前回の記事最後のリンクがきちんとなされていなかったようで、失礼しました。再度リンクのし直しをしましたので、興味のある方はどうぞ。
さて、カルモ教会ですが、カルモとはなんぞや?と思われる方もおられるのではないでしょうか。記事更新を終えてからふと気がついたのです。テンプル騎士団や石工たちが教会に施したシンボルに興味を持ち始めたころは、わたしも多くの修道会の名称や、聖母マリアのたくさんの呼称に手を焼いたものです。

そしてやっと分かったのが「Nossa Senhora de ~」で始まるのは全て聖母マリアの呼称だということです。「Nossa Senhora」は英語で「Our Lady」となり、聖母マリアを意味します。
じゃ、カルモは?となるのですが、Carmo修道会、日本語ではカルメル修道会だそうです。
「カルメル」はパレスティナにある山の名前で、ここで、十字軍戦士としてパレスティナに赴いていたベルトールド(Berthold of Calabria)が修道士となり12世紀にカルメル山で開いた派です。カルモ修道会のシンボルは山の形と三つの星です。

brasao_do_carmo.jpg

ポルトにも側面一面、アズレージュこと青タイル絵で覆われたカルモ教会がありますが、この紹介は後日にして、カルモ修道会の知名人にポルトガルの聖地、ファティマの聖母出現の幻視者シスター・ルシアがいます。
(→こちらで紹介) 

リスボンのカルモ修道院(教会はこの一部)は、ポルトガルの独立をかけてスペイン、カスティーリャ軍とのアルジュバロータの戦いで名を上げた名将ヌーノ・アルヴァレス・ペレイラ(Nuno Álvares Pereira)によって建築されました。彼はこの時の勝利の感謝として、聖母マリアに捧げるバターリャ修道院を建築しています。

ここからは、アルジュバロータの戦いでの有名なエピソード、「アルジュバロータのパン屋」です。

「アルジュバロータのパン屋」

アルジョバロータの戦いと言えば学校の教科書にも載り必ず聞かされるのがこの話、「A Padeira de Aljubarrota」です。「Padeira」は女性のパン焼きのことです。2008年に撮った通りがかりに寄った小さな村Aljubarrotaの写真が下です。

aljubarrota3-hiroba[1]
小さな村で、広場がこれなのですが、大通りに面した村の入り口にある建物の壁に大きなアズレージュ(Azulejo=タイル絵)で、Padeiraの伝説が下方に書かれてありました。

aljubarrota1-azulajo-2[1]

曰く、Brites de Almeida (ブリッテス・デ・アルメイダ=パン焼き)は骨格逞しく、六本の手指を持っており、とても醜かった。(←これ、言わんでもええやないのね^^;)1385年8月14日、パン焼きシャベルを武器に、アルジュバロータで大胆不適に85人のポルトガル兵士たちに加わわり戦った。

そしてパンを焼く釜に入って隠れていたカスティーリャ兵が一人ずつ出てくるところをパン焼きシャベルでブリッテスさんが叩き殺した数7人ですと。

ブリッテスさん、男勝りで20歳のころから、当時は貴族のみが学ぶ剣を習い、食い扶持を稼ぐためにあちこちの「市=いち」へ行っては、男相手に見世物試合をしていたようです。

ある日、噂を聞いた兵たちがやってきて、その一人と賭け試合をすることになりましたとさ。兵士が勝てばブリッテスと結婚する、ブリッテスが勝てば兵士をそのまま殺してもよい。

結果、兵士は負けてあの世行き。勝ったはいいが当時は庶民が兵士を殺害するは大罪、ブリッテスさん、アフリカ大陸アルジェリアに逃げるっきゃない。そうして再びポルトガルに帰ってきて、アルジュバロッタのパン焼きばあさんのところに弟子入りし、この活躍です。
      
さて、後日談ですが、この後ブリッテスさん、40歳でお金持ちの牛飼いとめでたく結婚し、子供に恵まれましたとさ。 


アルヴァレス・ペレイラは後年自分もこの修道院に入り終生をここで終えます。臨終の間際、ドン・ジュアン1世王は、共にアルジュバロータで戦い、ポルトガルの独立を獲得し、ジュアン1世に王位につく機会を作った彼を親友として扱い抱擁したと言われます。

カルモ教会にあったアルヴァレス・ぺレイラの墓石はリスボン大地震で失われました。

ヌーノ・アルヴァレス・ペレイラの戦い振りについては下記で記事にしています。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1026.html

カルモ教会については、これで一段落といたしたい。
本日もお付き合いいただき、ありがとうございました。
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2014年9月28日 

2年前に我らがモイケル娘と我ら夫婦3人で訪れたリスボン、見たかった肝心のカルモ修道院が休日で見学不可だったのにひどくがっかりしました。雑誌記事の取材も兼ねて~などと目論んでおりまして^^; この時の旅行計画は全て夫に任せきりで出かけたのですが、やはり行きたいところは自分が事前に調べるべし、と肝に銘じたのでした。

前回は街の中心地であるロシオ広場のある大通りから小高い丘に建つカルモ修道院が見えるので歩いて行ったものの、方向音痴の夫に黙ってついて行ったはいいが、案の定、迷いに迷い。それでも始めは、ま、道草を食ったと思えばいい、意外な発見もあるわいなと思っていたものの、さすが終いにはくたびれてきて、ついついその不満が顔にも出ようというもの(笑)やっと見つけたと思ったら休日でしょ?む~~っとなりましたっけ。

そんなことがありましたから、今回はロシオ広場から少し歩いたところにあるサンタ・ジュスタ・エレベーターに乗って行きました。このエレベーターで上ったところからすぐカルモ修道院へ続く通路があるのです。サンタ・ジュスタ・エレベーターについては2012年に記事にしてありますので、最後に案内いたします。

igreja_carmo
サンタ・ジュスタ・エレベーター

7月はツーリストシーズンです、切符売り場では人の列ができてしばらく待たなければなりませんでした。リフトも満員だったため、内部の撮影ができなかったのが残念。エレベーター横のある狭い螺旋階段を上って展望台へ。

igreja_carmo
旧市街の赤レンガの屋根屋根の彼方にはテージュ川が望まれます。

igreja_carmo

エレベーターからカルモ修道院へと続く通路から見えるカルモ教会↑と教会入り口↓

igreja_carmo

上の画像は2012年撮影です。ここで入場券を買います。ポルトガルは65歳以上は電車もそうですが、ツーリストスポットの入場券も割引になります。わたしの2歳下の妹を除いて今回の我ら3人はそれにあやかり^^;利用しましたが、義弟とわたしはどこへ行っても「65だなんてウソでしょ。」と、しつこく身分証明を迫られましたが、このカルモ教会では先立って「身分証明書を見せましょうか?」と言うと、「いいよいいよ。日本人はみんな若く見えるんだ。」との返答(笑) それほどここを訪れる日本人ツーリストが多いと言うことです。

igreja_carmo

カルモ修道院の一部、教会はすっぽり天井が抜けて真っ青な空が見えました。  
1755年11月1日のリスボン大地震はマグネチュード8.5から9度、リスボン南のサン・ヴィセント岬の西南西200キロの大西洋海底が震源と推定されています。この時の死者は津波も合わせて10000とも90000とも言われていますが、多くの宮殿を含む建物の85パーセントは破壊されリスボンは壊滅しました。後にリスボンは大々的に新都市計画が始まるのですが、カルモ教会は大地震の記憶を後の世に伝えようとそのまま残されたのです。

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現在、屋根のない部分には古い展示物が置かれている。

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上部の山の形と三つの八ぼう星はカルモ修道院会のシンボル。(星はペンタゴン、六ぼう星の場合もある)

D.Francisco de Faria (ドン・フランシスコ・デ・ファリア)16世紀の墓石とあるマヌエル建築様式。
igreja_carmo

D.Francisco de Fariaとは何者かと調べているものの、ヒットせず。16世紀というのとこの像の衣服からして恐らくキリスト教騎士団かと推測するも不明。気になるのは足元に伏せられている像です。

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髪型からして修道院僧と思われる像が二つの馬蹄のようなものを手に持っているのは何を意味するのか?騎士団、16世紀、僧侶との対立、と色々調べてみたものの、今のところD.Francisco de Fariaの名前自体が二日かけたものの見つかりません。

突き当たり正面はかつての教会のアプス(教会内部のつきあたり、半円形に窪んだ一番奥の部分)でしたが、現在は博物館になっています。

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入って正面に見えるのはフェルナンド王(14世紀)の墓石。

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下はポルトガルの歴史教科書で必ず見られる、ポルトガルのレコンキスタ(国土奪回)初代王、ドン・アフォンソ・エンリケスの胸像。(12世紀)

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ふむ。これはメリュジヌと呼ばれるフランスはポアチエ地方の町リュジニャンに伝わる半身半漁、もしくは反蛇の二つの尾を持った伝説の異端の美しい女性のことです。スターバックスのロゴにも使われていますし、メリュジーヌの子孫と言われるギー・ド・リュジニャンは後の世で十字軍騎士となり、イスラム教徒から奪回したキリスト教エルサレム国王になるのですが・・・

こんなところでメリュジーヌにお目にかかるとは。カトリックの国だったとは言え、異端のシンボルをたくさん目にするポルトガルの歴史は本当に面白い。

igreja_carmo
真ん中にテンプル騎士団、もしくは十字軍のシンボルマークと八芒星が見られる石。

↓最後はコンスタンサ王妃の墓石。

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16歳でポルトガルのペドロ王子に嫁ぎ25歳で生涯を終えました。ポルトガルの歴史では、ペドロ王子(後のペドロ1世王)とこのコンスタンス姫、そして姫の侍女イネスとの三角関係はよく知られています。下記で案内していますので是非、読んでいただきたいです^^

今日は関連するリンクのオンパレードですが、読んでいただけたら嬉しいです。

悲恋の王妃と王」(1)お勧め!
悲恋の王妃と王」(2) お勧め!          
アルコバッサ・ペドロとイネスの石棺お勧め! 
1755年・リスボンの大地震
サン・ヴィセント最西南端」 
リスボン、サンタジュスタ・エレベーター
スターバックスのロゴ お勧め!

それではみなさま、本日はこれにて。
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2014年9月25日 

わたしにとって中世時代の建築物を見る楽しみのひとつは、「こんなものがどうして?」と思われる彫り物や絵を発見することです。これらは造り手である建築家や依頼主の思想を表すシンボルであり、建築物は彼らの哲学を書いた一冊の本であると信じるからです。

ローマ・カトリックから異端と断じられたテンプル騎士団による建築物には、キリスト教がらみの多くの宗教画を目にしますが、よく探してみると気づかぬ箇所にたくさんの異端のシンボルが散りばめられています。

キリスト教を禁じたという歴史があるものの、日本人は宗教に非常に寛大だとわたしは思っています。なにしろ、一つ屋根の下に神棚と仏壇があるのが当然であった国です。それに比べ、ヨーロッパはキリスト教一色に染められ、政治的道徳的にもキリスト教信者にあらずば人にあらずと、異端審問所が設けらるなど異端者に対する迫害は残酷なものでした。

素晴らしい哲学者、思想家や芸術家たちが盲滅法に時のキリスト教を受け入れることはなかったとは、わたしの推測するところです。ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエルなどの著名な芸術家たちがキリスト教徒を隠れ蓑にし、バチカンに気づかれないように知恵を絞って彼らの思想を作品に織り込んだことは、現代のわたしたちが知るところです。これは一国の王にも言えるのではないか。今も昔も、どんな宗教も主義も私たちの考える自由を抑えることはできないということです。そんなことを思いながら今回ジェロニモス修道院内のサンタマリア教会に、とある探し物の目的があって入りました。

ジェロニモス修道院

かつてポルトガルのお城、教会の写真集の中で、「バターリャ修道院内にあるトウモロシ。当時トウモロコシはまだーロッパに伝わっていないのになぜ?」とのキャプションを見て大いに気に入り、是非これを探してみようと思っていたのでした。

それはバターリャ修道院の屋根のない、「未完の礼拝堂」で見つけています↓

Batalha

今になると、このキャプションの「当時トウモロコシはまだヨーロッパに伝わっていないのになぜ?」部分にはいささか反論するのです。トウモロコシがヨーロッパにもたされたのは、1492年、コロンブスに寄ってです。バターリャ修道院の建築が始まったのが1386年。それで行くと、たしかにその頃はまだ大航海時代は始まっていないわけです。

しかし、バターリャ修道院が完成を見たのは1517年、120年も後です。更に、「未完の礼拝堂」は名の通り建築が終えられなかった、つまりここが最後に取り掛かった建築部分と言えます。ですから、礼拝堂の建築に及んでいたころは既にトウモロコシはヨーロッパに持ち込まれていたとなります。礼拝堂が未完になったのには諸説がありますが、そのひとつはジェロニモス修道院建築に取り掛かるため、建築家の総動員が行われたというものです。

さて、このバターリャのトウモロコシよりももっと面白い彫り物がジェロニモス修道院にあるという話を目にしたのは随分前のことです。それが、「トウモロコシを掴んだ手」です。ジェロニモス修道院の2度目の訪問は、補習校の子供達の引率で行きましたから、子供達から目を離すことができません。自分の趣味のシンボルを探すなどとんでもない。そうこうしているうちに何年も経ってしまい今年の夏になったのでした。

見つけましたんですよ^^ 下記の画像です。

ジェロニモス修道院

内部は暗かったので画像があまりよくありませんが、トウモロコシをしっかり掴んだ手です。

トウモロコシは紀元前5000年頃にはアメリカ大陸で主要農産物になっており、マヤ、アステカ、インカでも広く栽培されていたと言われます。アメリカ大陸のインディオの間では創造主からの賜物だと信じられていますが、トウモロコシの起源は不明。

トウモロコシは富と子孫繁栄のシンボルです。このトウモロコシをしかと握った手と言うのは果たして「幸運王」の別称を冠し、ポルトガル大航海時代の富を一手にして、マヌエル建築様式まで創り出し、テンプル騎士団修道院、ジェロニモス修道院などの素晴らしい建築を後世に残した「ドン・・マヌエル1世」の手なのでしょうか。

う~ん、シンボルは面白い!え?教会のどこにあるかって?それを探してみるのも面白いと思いますよん。ヒントのみ。教会内のどこかにありまっす!

バターリャ修道院の記事は下記に。

バターリャ修道院(1)http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1026.html
バターリャ修道院(2)
バターリャ修道院のシンボル

本日も読んでいただきありがとうございます。
では、また!
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2014年9月24日 

Booklet

父は頑固な上に理不尽なところの多い人であった。わたしは密かに父をして、「このクソ親父」と内心何度思ったことであろう。わたし達姉妹が幼い頃は、岩手の盛岡競馬場で騎手をしていた人である。よって年中家にいた試しはなく、母とわたしたち姉妹は弘前の祖母の家に、父は盛岡にと、家族別居生活を余儀なくされていたのだ。
   
今でこそ、競馬と言えば花形スターのような趣があるが、この時代は職業とも言い難かった父のこの仕事は、言ってみれば「ヤクザな仕事」(註:ヤクザの仕事ではないので要注意)だったのではないかとわたしは今でも思っている。
   
父親が家を留守にしていては収入はなし。母とわたしたち姉妹は、祖母の家でなんとか食いつなぐことができたと言えようか。それが、少し歳もいって来て、体重が増え始めるたために騎手の仕事ができなくなり、わたしたちのもとに舞い戻って来た。菊池寛の「父帰る」であります^^;
   
それまで母は経済的に苦労してきただろうが、祖母の家で大家族と暮らしていたわたしは父親の不在をさほど感じたことはなかった。それが、思春期に入る中学生の頃、ひょっこり帰って来たわけで、父の存在にはいささかとまどいを感じずにはおられなかった。父は定職につけない人で、わたしたち家族の生活は結果的に父が帰ってきたことによって苦しい経済状態から抜け出すということにはならなかった。
   
思春期真っ只中の高校時代、父に対する反抗心を抱えながら、わたしは好きな学課を除いて他は、皆目勉強もせず、もっぱら図書館から本を借り出して、だたただ読書に熱中しては、本の世界に逃げ込んでいた。

「知と愛」「狭き門」「嵐が丘」「谷間の百合」「ボバリー夫人」「チャタレイ夫人の恋人」「若きウェルテルの悩み」「凱旋門」「女の一生」とあげ連ねてていけば、きりがない。わたしはこれでもか、という程に本を借り漁っては何かにとり憑かれたかのように外国文学を読破していったのである。想像力を逞しくすれば、読書に浸っている間は少なくとも貧困の現実から逃れて自分の精神を自由に遊ばせることはできる。

あぁ、それなのにそれなのにぃ~~。ある日理不尽な父は言う。
「女は勉強せんでよろしい。本日より午後10時、消灯なり。」
それはないでしょ、おとっつぁん。
   
その日から夜10時になると、自分は高いびきかいて寝、消灯である。二間しかない埴生の我が家、電源はオヤジ殿の寝る部屋にあるのでありまして。父の寝静まった頃合を見計らって、月明かりでソ~ッとそちらの部屋へ忍び込み、これまたソ~ッと電源のレバーに手をかけ、挙げようとするとその瞬間!
「くぉら~~!」と、怒声が起きて叱責であります。
いびきかいて寝てたんじゃないのかい・・・

これでは本が読めぬ。そこでわたしは考えた、うんと考えた。 そして見つけたひとつの方法。それは、細長い木板にろうそくを1本立て、その灯りが父の寝ている隣室にもれないように、ほとんど上布団を被せんばかりにして本を読むことである。なんのことはない、単なる原始的な方法ではありました^^;

こうして読んだあの頃の本は忘れるものではない。なかでも、木板に1本のろうそくという原始的な方法を使ってまでわたしを読書へと駆り立てた一冊の本、それは、レマルクの「西部戦線異状なし」である。

『僕の心はすっかり落ち着いた。幾月、幾年と勝手に過ぎて
 いくがいい。月も年も、この僕には何ももってきてはくれない。
 何物も持ってくることはできないのだ。僕はまったく孤独だ。』


この記を最後に1918年、志願兵パウル・ボイメルは17年の生涯を戦場で終える。

わたしは薄明かりの寝床の中で、この本の、感動して止まない文章を何箇所となく涙をぬぐい鼻をすすりながらノートしたのであった。わたしが若い頃から強度の近眼になったのは、この頃が原因だとわたしは思っている。しかし、それと引き換えに得たものは、「人は本を通してでも、大きく生き方を学び、疑似体験できる」ということだ。

頑固だった父が亡くなって、30年になろうとしている。わたしの蛍雪時代の上にも幾星霜が重なった。


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2014年9月23日  

炊飯器のスイッチを入れ、今日の晩御飯はトンカツと決め、小麦粉、卵、パン粉(このパン粉も日本から持ち込む)の順でカツができあがり、後は揚げるだけと言う矢先の日曜日の夕方8時半ごろ。

ん?夜8時半じゃないのって?いやいや、ポルトガルはまだ完全に暗くなく、夕方ですってば(笑)、うわーー、なに、この空!と、夫を呼びつけ、驚き半分と興味半分でデジカメを手に写していると、

sora1-1-2014.jpg

見る間に空模様が変わり↓雨が降り出しました。
sora2_2014.jpg

この時期の8時半ごろは、夕方と夜の狭間、あっと言う間に夕闇迫るのであります。あらよあらよと見てる間に、激しい雷雨になり、おー!稲妻がビカビカ!ネコたちも恐ろしがり、エサもろくに食べずにどこぞへと姿を隠しました。

そして、突然停電です。
我が家はIHクッキングヒーターを使用していますから、こうなると料理ができない。それに、さっきスイッチを入れた炊飯器、どないしてくれまんねん!
我が家の電話もインターネットのプロバイダーを通しているので不通だス。それで、こういう時のためにと、夫が固定電話を取り払おうとした際に、わたしは反対を唱えて基本料金を払っているのであります。

15年位前までは、しょっちゅう停電や断水があったこの区域もやっとそれがなくなり、まぁなんとか平均的な現代生活が送れるようになったと、それまで在庫確認を欠かさなかったロウソク、マッチの類は、いったいどこぞへ・・・^^;

まさかのためにと、ガスランプは台所のすぐ手の届く場所に置いてあるのですが、これだって大きなものではないので、ガスがいつ切れてもおかしくない。「おーい、ロウソクはどこだ?」って聞かれてもねぇ^^;
 
暗闇の中、ごそごそ探し出して出てきたのが、クリスマス用の赤いキャンドルでござんした(笑)とにかく台所のカツを早いことタッパーに入れるなりしないと、小ざかしいネコどもにやられてしまいます。夫にそれを任せて、薄暗いリビングに来て見ると、なんと夫め、ぎ、銀の蜀台を使ってるジャン!

teiden.jpg

ちょ、ちょいとダンさん、そりゃまずいですぞ。それの手入れは誰が後でするんや~~。(写真は翌朝、ロウソクの溶けたロウを片付けてから撮ってしまったw) ロウって固まった後、簡単に片付けられると思うでしょうが、受け皿などを傷つけずにするのが、わたしには大変なんです。

で、仕方ない、寝床に入ってどれ、コーヒーでも・・・あ、電気がないからお湯が沸かせないんであった。しからば本でも読みながら寝ようかと思いきや、キャンドルの灯りではどうもよくない。そして、ふと、高校時代のことを思い出していたのでありました。(これについては、明日、
当ブログに載せます)

そんなわけで、先週日曜日はわたしとしてはまずもってあるべきもない、就寝時間10時!
眠気もないのに寝床に入り、暗闇で目を開けてるなんぞ、いただけませんが、どうしようもありません。そのうち、寝入ってしまい目が覚めたのが午前3時半。一度目が覚めると寝付かれなくなるわたしは、起きてパソコンに向かい、いつもより早い、ネット新聞サーフィングと書き出したままのブログに手をつけました。

この気候異変はかなり気になります。地震が多い日本に住む子供達には、ベッドの横か下のすぐ手が届くところに、非常用のグッズを入れたリュックを常置せよ、と言っているのですが、わたしたちも万が一のために、その類のものを用意した方がいいかもな・・・と思ったりしています。なにしろ、ポルトガルでは聞いたこともない竜巻なども起こっていますからね。

さは言いながらも、秋の季節が巡ってくるのが身近に感じられます。
今週はポルトガルでは「Vindima(ヴィンディーマ)」と言ってブドウの収穫があちこちで行われます。ご近所から、そして、日本語の生徒さんから届けられた秋の味覚をご紹介。

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ふどう、桃、りんご、いちじくが盛り付けらて届けられました。
下はポルトガルでは非常に珍しい「Nashi」。そうです、「日本の20世紀梨」ですが、こちらではたまに大手のスーパーで「Nashi」として店頭に出されます。
kudamono2.jpg

もうひとつのお届けものは「オリーブオイル」。

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昨年から揚げ物をする時を覗いては、完全にオリーブオイル使用に切り替えましたから、とても重宝します。お届け主曰く、「不純物が入っていない純粋のオリーブオイル」なのだそうです^^
少し早目かもしれませんが、こうして豊穣の秋を味わっています。有りがたいことです。

明日は前述の停電に関する高校時代の思い出を載せたいと思います。
それでは、本日はこれにて。

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2014年9月18日 

mosteiro_jeronimo

わたしは、歴史を知らずして観光に行くのはもったいないと思う性質なもので、ブログの案内がついついクドくなりがちです。今回もそのパターンを外れることなく参りますので、ご勘弁のほどを。

ジェロニモス修道院を最初に訪れたのは、30年以上も昔になります。今は亡き我が母をともなって家族で行きました。当時はパリー成田間が17、8時間もかかり、そこから更にポルトへ飛ぶわけですから、その長旅は30代のわたしでもかなりきつかったものです。翌年には70になろうかと言う母、旅程を考えると何かあったらどうしようかとの思いが強かったのですが、どしても娘のわたしが住む国を一目見たいというので、一緒に連れて来ました。

当時の母の年代で一般人がヨーロッパへ出かけることは稀だったと思います。よくぞまぁ、はるばる来てくれたものだと、ジェロニモス修道院を見ると母のことが思い出されるのです。そのジェロニモス修道院へ今夏は、妹夫婦と行ってきましたが、リスボン市内の他の観光もしていたものでジェロニモス修道院は最後になり、修道院内部の既に見学時間に間に合わず教会のみを見るに留まりました。

mosteiros-dos-jeronimos1.jpg
大きなジェロニモス修道院の全容は我がデジカメには納まらず。写真はWikipedia からです。

ジェロニモス修道院の正式名はサンタマリア・ド・べレン修道院です。
ここには15世紀の半ばに既にキリスト教騎士団団長のエンリケ航海王子がジェロニモス教団のために建てた教会がありましたが、ローマ法王の許可を得て、大航海時代の巨万の富を元に莫大な費用をかけて、「幸運の王」との別称を持つ、ドマヌエル1世が大きく完成させました。1502年に建築が始まり完成には100年の年月を費やしたといわれます。

俗に「ジェロニモス修道院」と呼ばれるのは、ドン・マヌエル一世が、王の永遠の魂と世界の大発見の航海に出る船乗りたちに精神的な援助を与えるために祈ることを条件として、ジェロニモス教団を住まわせることにしたからです。この約束はポルトガル王国が崩壊する1833年まで400年もの間続けられました。

さて、写真はテージュ側に面した南門、サンタ・マリア教会の入り口です。
mosteiro_jeronimo

これから、ジェロニモスとは、そしてわたしがここで発見したことを書いてみたいと思います。

ジェロニモと聞けば、わたしなどは「アメリカインディアンの戦士ジェロニモ」、「ジェロニモ太郎」が先ず浮かんでくるのですが、皆さんは知らないか(笑)
「ジェロニモ太郎」はわたしの記憶では、テレビがなかった我が子供時代のラジオドラマのひとつだったと思います^^;アメリカへ渡り西部を冒険する日本少年の話で、頭のどこかに未だ、

「♪馬にまたがり 縦横無人 強く正しくたくましく 正義の人とうたわれん。 その名を呼んでジェロニモたろ~ あ~あ、テキサス快男児~♪」

ちゅう、テーマソングが残っているのです(笑)

今回、画像を拡大するまで、なんか不思議な名前だなぁくらいに実は思っていたのです。
さて、南門、二つの門の間に立つ像はエンリケ航海王子ですが、その上部画像を拡大して、あれ?と思ったのは、ライオンとともにいる人物像、
mosteiro_jeronimo

更に拡大してみましょう。
mosteiro_jeronimo

あらま、これは「荒野の聖人ヒエロニムス」ではありませんか。ヒエロニムスと分かるのは側にライオンが見られるからです。(←1の部分 )ヒエロニムスは4世紀 の神学研究者であり、シリアの砂漠で隠遁生活をしながらヘブライ語を学び、聖書をラテン語に翻訳します。中世から現在まで、彼のラテン語訳聖書はカトリック界のスタンダードになっており、後に聖人、もしくは教父とされます。

ヒエロニムス像にいつもライオンが描かれるのは、彼の前に現われたライオンの前足に刺さっていた棘を抜いてあげ、以来ライオンはヒエロニムスの側にはべるようになったという伝説から来ます。
jeronimos9.jpg

ヒエロニムスが描かれる絵のもうひとつの特徴は、赤い衣と赤い帽子です。

そこで、今回、インディアン・ジェロニモとこのジェロニモスとの関連があるか否かは置いときまして、そんなことを思い出しクックッと笑いを嚙みしめながらポルトガル語のJeronimosを引いてみると、正にヒエロニムスのポルトガル語でした!

そして、ジェロニモス像にある帽子(2→の部分)と上の絵の帽子、これを見て、あっ!と思い出したのがこれ!

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2010年にコルドバのメスキータ内で見た「不思議~」と思っていたシンボルが今はっきり解明したのであります。ヒエロニムスの独特なデザインの帽子は枢機卿の帽子とのこと。

コルドバの不思議記事はこちら→「メスキータで見つけた面白いもの

なるほどなるほど。この紋章が果たして誰のものかは分かりませんが枢機卿の帽子ねぇ。それを、「ばいきんまんUFO」と比べるなんて、トホホホ^^;

というわけで、ジェロニモス修道院はヒエロニムス修道院、荒野の聖人ヒエロニムスとの関連が判明し、すっきりしたところです。

ジェロニモス修道院に彫られた絵から、このような展開になった本日の記事でしたが、お付き合いいただきありがとうございました。

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2014年9月17日 

今回は自分の日本語授業のメモも併せて書きます。

日本帰国時に必ず寄るのが銀座にある鳩居堂です。
鳩居堂は京都にも本店がある、和紙工芸品、お香、書画用品、色紙など和文化を取り扱っている店ですが、銀座5丁目という場所柄もあり、いつ行っても観光客で賑わっています。ここでわたしは、毎回、影絵用の和紙やお土産、日本文化展示用のものを買い求めます。

さて、本日は先週の平家物語「扇の的」に引き続き、「平敦盛」を日本語の生徒と読んでいるのですが、この鳩居堂との意外な関係を発見しました。

平家一門が官職についている中、一人官職についておらず、「無官の大夫(むかんのたいふ)と呼ばれた敦盛は満15歳で、一の谷の合戦にて命を落とします。この年齢で落命することころが敦盛編を読むたびに、わたしが目頭を熱くせずにおられない点なのです。敦盛の首をかいた熊谷直実の心境が少しは伝わってきます。

多くの日本人は「扇の的」同様、このエピソードを知っていることと思いますが、恐らく記おっ国はないであろう、我が子たちのために手短に敦盛と直実のシーンを書き抜いて見ます。

「戦敗れにければ、熊谷二郎直実、「平家の公達、助け舟に乗らんと、みぎわの方へぞ落ちたまふらん。
(平家が戦に破れてしまったゆえ、平家方が波打ち際の助け舟にのろうとして落ち延びて行かれるところであろう)

平家を海辺に追い詰めた源氏方の勇士、熊谷直実は、海上の船に逃れようとする平家方の中に一人の公達(きんだち)を発見します。

heikemonogatari
愛笛の小枝を取りに行き、逃げ遅れて汀に入る敦盛 Wikiより

「正なうも敵に後ろを見せさせたまふものかな。返させたまへ。」
(見苦しくも敵にうしろをお見せになるかな。お戻りなされ)と、扇を上げて武者を招きます。

heikemonogatari
公達を呼び止め扇で招く熊谷直実 Wikiより

すると武者は引き返してくるではありませんか。二人が取り組み馬から落ちたところで、直実は武者の首をかかんとかぶとを取ってみると、我が子と同じ年ほどの、「容顔、まことに美麗な」若者であったので、思わず振り上げた刀のやり場に躊躇します。

名乗りを上げる直実に、若武者は名を告げず、「わたしの首は、そなたにとってよい手柄になろう。さぁ、討つがよい」と言います。

その言葉に「あっぱり大将軍。」と言いながらも、この一人を討たずとも今更、源氏が負けるはずもなし。我が子小次郎が軽い傷をおっただけでも、親のわたしは辛いのに、この殿の父は討たれたと知れば、どんなにか嘆き悲しむだろう」と助けようとします。

が、後方にはすでに味方の源氏侍が近づいており、自分が首をとらずとも彼らがとるであろう、最早逃すこともままならぬ。他に手をかけさせるよりこのわたしが。そしてご供養をいたし候(そうろう)」と泣く泣く、敦盛の首をかきます。

さて、よろい直垂(ひたたれ)に首をつつもうとしたところ、若武者の腰に差された錦の袋に入れた笛を発見します。「暁に流れていた音楽はこの人々だったのか。味方の源氏方、何万騎とあるだろうが、こんな戦の陣に笛を持つ人は、よもやあるまい。なんと哀れな、なんと優雅な人々であろうか」

後に聞けば件の若武者は、平経盛(たいらのつねもり)の子息、敦盛といい、笛は小枝(さえだ)呼ばれ、敦盛の祖父が鳥羽院よりいただいたもの。別名「青葉の笛」とも呼ばれるものでした。


こうして熊谷直実は敦盛との一件で、仏門に入ることを決心したというのが一般説です。

生徒は読むのにたじたじですが、古文の美しいリズミカルな文章がわたしは大好きです。これは七五調のDMAが刷り込まれた日本人ならではの思うところでしょう。

さて、授業では、単に取り上げた物語のみでなく、もう少し枠を広げてみるのが好きです。今回もその方法で熊谷直実のその後を追ったところが、冒頭の鳩居堂にぶつかり、え!となった次第なのです。

頼朝から手柄を讃えられ「向かい鳩」の家紋を頂戴した直実ですが、出家してしまいます。直実から数えて20代目の子孫が薬種商として創業したのが、今日と本店の鳩居堂で、17世紀のことだそうです。

下図にあるように、銀座本店の店頭に「向かい鳩」が見られます。生徒に教えることで、自分も面白いことにぶつかるのは楽しいものです。
kyukyodo
Wikiより

もうひとつ、今川義元との桶狭間の戦、出陣前夜、織田信長が謡いながら舞ったのが、能の原形と言われる幸若舞「敦盛」です。

「人間(にんげん、じんかんとも読む)50年 化天(下天)のうちを比ぶれば 夢幻の如く也。 ひとたび生(しょう)を享け 滅せぬもののあるべきか」

化天とは仏教語の化楽天(けらくてん)のことで、仏教の世界観による人間に近い天上界、六欲天の第5番目の天だそうです。そこでは一昼夜は人間界の800年にあたり、化天では8000年生きるとされます。

たった50年の人の世、500年、800年の化天にくらべれば、夢幻のようなものだ。ひとたびこの世に生を受けて滅びぬものはない。と、謡ったわけですが、これもまた、幸若舞「敦盛」の中で、熊谷直実が出家後、世をはかなむ一節から取られています。

平均寿命が80歳にも及んだ現代、それでも「化天」に比べれば、変わらず夢幻の如く。60も半ばを過ぎて平家物語に触れると、滅せぬもののあるべきか、と諸行無常の言葉が頭をかすめるのを振りきって、三全世界の片隅、ポルトガルにて、日本語を教えながらその日その日を楽しんで生きているわたしであります。

齢80を過ぎた生徒、ドイツ系ポルトガル人でありながら日本人の心を持ったようなアルフレッドさんが平家物語に惹かれる気持ちが分かるような気がします。わたしも含めて、日本語学習を通して古くからの日本独特の人生観を学んでいるとも言えます。

時には読書を通してこんな風に立ち止まり、現在を振り返ってみるのも自分には必要だ思っています。
本日もお付き合いくださり、ありがとうございました。
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2014年8月15日 
Obidos

わたしたちが立ち寄ったのはジンジーニャ・バー「Ibn Errik Rex」です。2度目です。

Obidos

数年前にも紹介していますが、妹夫婦4人で入った今回、もう一度記事にとりあげます。バーを取り仕切っているのは前に入った時と同じおじさんです。天井からぶらさがっているのはあまたの酒ビン。
そして店内の壁に描かれてあるのは城外にある、ドン・ジュアン3世の王妃、ドナ・カタリナ・アスト-リアによって16世紀に造られた長さ3キロに及ぶ水道橋です。

Obidos

ジンジーニャ(Jinjinha)は、リスボン、オビドス、アルコバッサで造られる黒さくらんぼのリキュールです。このまま飲んだりチョコレートとあわせて飲んだりしますが、わたしたちは昼食代わりに。わははは。

Obidos

 ど~んと出されたのは野性味ある大きなショリーソ(Choriço)ことイベリア半島発祥の豚肉腸詰ソーセージ。これをアルコールであぶり焼きしているところです。まずはビールで乾杯し、チーズとパンとショリーソ、それにジンジーニャで昼ごはんです。コップにたっぷり注がれたジンジーニャ、飲みがいがあるというものです。義弟はお酒好き、妹も毎晩晩酌をしますので、彼らとの今回の旅行はよく飲んだこと!でも、気心しれた家族と飲むのはほんとうに楽しいものです。

Obidos

ジンジーニャは食前酒にも食後酒にもなります。甘いので口当たりはいいのですが、アルコール度数は20度と強くポルトワインと同じです。飲むときはお気をつけ遊ばせ。

では、本日はこれにて。
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2014年9月14日 

リスボンから北へ80キロほどの所にある中世の城壁に囲まれた小さな町、オビドス(Obidos)へこの夏、日本から来ていた妹夫婦と三度行ってきました。

obidos
写真は遠方から見た小高い丘に、城壁に囲まれたオビドスの旧市街です。

夏の訪問は今回が初めてです。真っ青な空の下、白い家々に赤いブーゲンビリアの花が映えて、オビドスはポルトガルでもとりわけ美しい町です。

obidos
オビドス旧市街への入り口。ここをくぐると中世の町にタイプスリップ。

少しこの町の歴史に触れてみましょう。
13席後半、ディニス王はその美しさに心を奪われたイザベル王妃に、結婚の贈り物としてプレゼントしたのがオビドスでした。以来オビドスは「ウエディング・プレゼント・タウン」と呼ばれ
1883年までポルトガル歴代王妃が所有権を受け継いで来ました。

obidos
美しいオビドス城は現在はポザーダ(Pousada)と呼ばれる高級歴史宿泊施設になっています。

obidos

人口800人ほどの旧市街オビドスは見るだけなら、ゆっくり歩いても40分ほどでしょうか。

obidos9-2014.jpg

obidos

obidos
この可愛い家は、ゲストハウス「カーザ・サンティアーゴ・ド・カステロ」(Casa Sao Tiago do Castelo)です。

obidos


どこもかしこも花盛り。白壁に映えた美しさに目を奪われてしまいます。

明日は、わたしのお気に入りのお店を紹介します。

ではみなさま、また明日。
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2014年9月11日 

名月

中秋の名月もこちらではスーパームーンの名を冠し、ポルトでは闇雲の合間に顔を出してはまた隠れ、それでも美しい姿を見せてくれました。写真は9日午前4時頃の空に見えた月です。わたしのデジカメは夜景や
空を撮影するのに機能がよくないのですが、時に面白い写真ができたりします。

名月

2階になる我がフラットの嬉しいところは、向かいに並ぶ4、5階建てのフラットの最上階の後ろから月が昇ってくるのが眺められることです。満月が向かいから昇りきった夜は、ベランダの窓のカーテンを全開しておくと、かすかに月光が差し込んできます。それを発見した時はちょっと興奮しました。

かすかに、と言うのは表通りの街灯がやたら多く明るいので、その灯りの影響で月光がとらえにくいからです。が、ある夜、偶然暗い部屋の窓から差し込んでいる青白い光を見つけ、それが月光だと分かるには数秒とかかりませんでした。引越しする前の古い家でもそうだったからです。

満月が眺められる夜は、時間があればベランダに座り込んでしばし月の美しさに見とれるのですが、時々、我がネコもやってきます。月を眺めるネコはなかなかに哲学的であります。
時々夫にも「今夜の月はきれいだよ」と声をかけるのですが、「あ、そう。」で終わり(笑) 周囲を見回してみると、どうも月が美しいだの、紅葉がきれいだの、吸い込まれそうな真っ青な空だのと言うのはどうもこちらの人の一般的な感覚ではないようです。

それは、8月最後の日曜日に近所で催される花火の打ち上げについてもいえるのですが、華やかに花火が空にあがっても、ベランダや窓から顔を出して眺めるのはご近所にはわたし以外いません。いくぞ!と大きな音とともに打ち上げられ、夜空に瞬間に散る花火をみては思わず「きれいやなぁ・・・」といつも独りつぶやいています。

さて、話は中秋の名月こと「十五夜」です。この季節、満月を見る毎に思い出されるのが、もう60年位も遡らなければならない、父が地方競馬の騎手で家にいたことがなく、母子3人で弘前下町の祖母の家に大家族の一員として住んでいた子供のころの「十五夜」です。

十五夜なると、毎年決まって祖母が「おはぎ」を作り、季節の果物の梨やりんご、すすきを縁側に置いて、お月様にお供えをしていました。あの頃の記憶をたどり、似たような祖母の家の縁側の画像をネットでさがしてみたら、ありました!

名月
Wikiより

祖母の家もこういう感じで、縁側の前には庭がありそこには小さな池があったと思います。縁側の右手前の建物は台所で、そこには水ポンプ、釜戸がありました。

名月
水ポンプ 
kamado2.jpg
釜戸 (Wikiより)

祖母の家は玄関口を入ると裏の畑まで土間が続き、庭のトイレの、当時は便所と言いましたが、側にはドクダミが植えてありました。ドクダミの強烈な臭いは今でも覚えています。
縁側の画像を探している最中にこんなイラストに出会い、思わず吹き出しました。

名月
Wikiより
服装、方法こそ違え、わたしと妹もおはぎが待ちきれずに、こっそり縁側に行ってつまみ食いせんとするところを、毎度祖母に見つかり、「お月様が先だよ」と言われたことだろうか。チョコレートやケーキなどお目にかかれず、おやつといえば握り飯はいいほう、たいては畑のトマトやキュウリー。そのキューリを縦半分に切って種の部分を取りのぞき、そこに味噌を少しつけたのが、これまた美味しかったのであります。昔ながらの田舎のこの食べ方は我が東京息子が子供の頃好きで、大人になった今でも、わたしが日本に帰国したときは、たまに食卓にのります。

スーパームーンなる名称に比べて、なんとまぁ、かけ離れた、月見にまつわる遠い昔の話でございました。

水ポンプにまつわる子供時代のこんな話があります。よろしかったらどうぞ。
鬼さんこちら、手のなる方へ

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2014年9月7日 

今日は日本語教室の話です。

週末のグループレッスンや出張授業除いて、日本語を習いに自宅に通ってくる生徒さんは現在11人います。年齢層は広く、15歳から80歳まで。相棒のOちゃんとわたしのYY塾は文法を中心にひらがな、カタカナ、漢字を学んでもらうことが基本ですから、文法を理解してもらうには18歳以上が妥当かと思い、それ以下の年齢の人は受けないできました。きちんと日本語を学ぶならば、時間がかかるものの漢字学習は必須です。漢字が分からなければ日本語は読めないのですから。

が、ここ数年で日本語を学習したいという人の年齢がグンと下がって、13歳だが、14歳だができないかとの申し込みが増えてきました。日頃から日本語を耳にしているなどの日本語環境にいる日本語補習校に通う日本人の子供たちとは違い、外国人の子供に日本語を教えるのは実にたいへんなことだと思っています。日本語学習は、ポルトガルの子供が英語やフランス語を習うのとは訳がちがいます。第一、これといったテキストがありません。それに一週間に1度、多くて2度です。やはり13、4歳では難しさがあるでしょう。

子供はその環境に放り込めば数カ国語でも吸収できる、バイリンガル、トライリンガルにもなれるというのを耳にしますが、補習校講師と、母親として自分の子供たちの日本語教育にも多少携わってきたわたしの経験からすると、日本語に関する限り、親の協力が条件です。その条件が満たされて、所謂日本語を含むバイリンガル、トライリンガルが可能になると思っています。

そのような理由で18歳以下は引き受けないできたのですが、問い合わせが多いとちょっと気持ちが動くものです^^;13、4歳は無理にしても、それでは16歳以上を設定して、まずはうまく行くかどうかしてみようというので、近頃は16歳以上の希望者を引き受けることにしています。

さて、上限は?となると、これはもう、個人レッスンなら年齢制限は無しです。
我が家の生徒さん11人のうち5人は65歳以上で最高齢者は80歳です。しかし、グループ授業で60歳以上の生徒さんはこれまでの例からして、例外もいるでしょうが、どうしても遅れがちになり、止めていく人が多いのです。その点、その人その人の能力に合わせて進度が設定できるのが個人授業のいいところです。

さて、個人授業の生徒さん、80歳、最高年齢の生徒さんのアルフレッドさんの話です。

彼の日本語学習暦はかれこれ17、8年になるでしょうか。自宅外でわたしが初めて教えた、とある小さな日本語教室で出会ったのが最初です。その時既に60歳を少し越えていました。1年少しほどして、その日本語教室は閉鎖に追いやられ、その後、アルフレッドさんは夫人と一緒に、ポルトの自宅をそのままにして、娘さん家族が住むドイツへ孫の世話の手伝いに引っ越して行きました。

引っ越した当時は、メールや葉書で連絡を取り合っていたのですがそのうちに音沙汰が途絶えてしまっていたところ、二年前のある土曜日に、日本語コースを開いていた市立図書館の教室にひょっこり顔を出したもので、ん、まぁ、驚いたこと!

その日の出会いは下記に。
It´s been a long time

聞けば夫人が亡くなり、半年くらいずつ、ドイツ、ポルトを行き来している現在とのこと、そこで、もう一度日本語を教えてもらいたいとの申し出でした。ドイツにいた数年間は、親切な日本人のご婦人に文法はその方はできないので、わたしがお別れにとあげた日本の中学生の国語教科書を中心に、その他、原語で、つまり日本語で一緒に読んでいたのだそうです。

漢字検定試験は5級までパスしていますので、漢字の指導はしませんが、日本語中級の読解力テキストを中心に目下進めています。しかし、これだけでは飽きてくることもあり、間に時々、日本語での短編やエッセイを取りいれることにしています。

こういうときにわたしが取りあげるのは、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」、向田邦子の作品、太宰治の「走れメロス」、翻訳物になりますが、O.ヘンリーの「二十年後」などなどです。「蜘蛛の糸」などは仏教も関連しててきますので、背景を説明するのにこちらもとても楽しい勉強になります。

少し、難しいかな?と思いながら今回取り上げたのが、中学2年生の国語教科書にある「平家物語:扇の的」です。

heikemonogatari

その教科書には、かの有名な冒頭部分、
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 紗羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。」
が、載せられていないので、そこから始めました。

現代文と古文とを照らし合わせての源平合戦屋島の戦い、那須与一が小船に揺れる平家方の扇を見事、射落とす場面ですが、アルフレッドさん、教科書にある鎧兜の名称についても質問してくるものですから、わたしも久しぶりに古文を勉強し直すと同時にやネットを活用して当時の平家方の衣装や日本古来の色彩の呼び名の勉強になり、さてもさてもいったい喜んでいるのは生徒か先生か、ではあるけれど、大いに楽し^^ 

heikemonogatari
ネットからのイラストも利用しました。

那須与一や平敦盛のエピソードは亡き母から昔話として小さい頃に聞かされていて記憶があるので、小難しい古文も何度も朗読して読み返しているうちに、なぁんとなく分かってきた、という高校時代のわたしではありました。

今回は教科書に載っている場面のみならず、那須与一のその後の説明を下のように試みてみました。

屋島のこの活躍にも拘わらず、与一は義経の手勢だったがため、合戦後、頼朝からの褒賞も少なく、頼朝の御家人だった梶原景時に、「忠義の侍とは、鎌倉殿のおんために射てこそ真の御家人。美しい女性が掲げた扇などを見世物のように射たとて、なんの自慢ぞ。武者の命を誰のものと思う。言語道断な」と、その誉れを罵倒されたとの話があります。与一はやがて出家し34歳で亡くなったとの説があります。

エピソード「扇の的」では、那須与一が見事、扇を射落とすところで終わるので、勢力を上げてきた源氏側の手柄話と捉えられがちですが、テキストにはできればこのことも余談として入れられていればいいのになぁ、与一のこのオチはいかにも「諸行無常」「哀れ」を語るではないかと思われるのですが、いかに。

とは、読後感としてアルフレッドさんと語りあったのでした。

本日はこれにて。

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2014年9月5日 

前回の続きなり。

ドン・フェルナンド2世は1885年に69歳で亡くなります。
その遺言で、シントラにあるムーア人の城やペナ城を含む森など自分の全財産をエリゼに遺すわけですが、これはさぞかし騒動になったことでしょう。ドン・フェルナンド2世の死後、エリゼはこの小さなシャレーに住みますが、後にこの二つの城はドン・カルロス1世(ポルトガル王国最後から二人目の暗殺された国王)に、エドラ公爵夫人ことエリゼ・ヘンスラーから買い取られ王国のものになります。

同時に、エリゼはシントラを去り、一人娘のアリスとともにリスボンに住むのですが、娘アリスについては、ドン・フェルナンド2世との間の娘かどうかは不明だとの説があります。エリゼにはドン・フェルナンド2世と結婚する前にすでに娘がいたと言われていますが、二人が知り合ったのは1860年、そして結婚したのが1869年ですから、アリスがドン・フェルナンド2世との間の娘であることは十分考えられます。

カトリックの国、ポルトガルはわたしが来た頃にはまだ離婚が認められていませんでしたから、19世紀のポルトガル社会で結婚前に生まれた子供については、どのような扱いになったか想像がつくというものです。エリゼの庶民出身であるのと、正式な結婚以前の娘の誕生は王家にいざこざを起こす可能性があり、二人はそれを回避しようとしたのではないか。と、わたしは推測するのですが、真実はいかに。

condess_edla
後年のドン・フェルナンド2世とエリゼ(Wikiより)

1929年にエリゼは92歳でリスボンで生涯を閉じます。ポルトガル最後の国王だったドン・マヌエル2世と、前ドナ・アメリア王太后は1910年の革命でイギリス、フランスへ各々亡命しており、ブラガンサ王朝は崩壊し、ポルトガルは共和国になっていました。亡命先からの帰国は禁じられていました。庶民出身とは言え王家とゆかりのあるエリゼの葬儀には二人とも代理を送り、かつての王妃に礼を尽くしています。

ポルトガル王家のペナ城での最後の様子はこちらで書いています。
華麗なるペナ城宮殿(2):ポルトガル王家最後のアメリア王妃

エリゼは自分の墓石について遺言を下記のように遺していました。

縦横4メートルの土地を買い シントラ山頂にあるのと同じ十字架(Cruz Altaと呼ばれる)を墓石のトップに置くこと、十字架のサイズは墓地の大きさに比例しること、墓石には「ここにドン・フェルナンド2世王の寡婦、眠る。1836年生誕」と刻むこと。

condess_edla
シントラ山頂の薔薇十字です(Wikiより)登山できますが、わたしはまだ行っていません。

下がエリゼ・ヘンスラーの墓地。リスボンのプラゼーレス墓地(Cemitério dos Prazeres)に彼女は眠っています。

condessa_elda

エリゼことエドラ伯爵夫人に関する記録は少なく、オペラ歌手から王妃になった彼女の生涯に少なからず興味を持つわたしですが、ここまでの調査に時間を費やし、やっと少しだけ綴ることができました。

同じく、明治時代に一般庶民からオーストリア=ハンガリー貴族と結婚して伯爵夫人になった日本女性、クーデンホーフ光子がいますが、夫の死後、相続した財産を巡り一族と裁判沙汰になるも勝訴して伯爵家を取り仕切った光子に比べて、伝記もなく歴史から忘れ去られたようなエリゼ伯爵夫人の生涯について、いつかもう一度焦点をあててみたい気がします。

エリゼ・ヘンスラーとシャレーについては、今回で終わりです。
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2014年9月1日 シントラ:エドラ伯爵夫人のシャレー(2)

9月に入りました。今夏は小雨が降ったり曇りだったりで、長年住んでいますがポルトでこんな変な夏は初めてのような気がします。

さて、前回の続きなのですが、毎度のことで記事内に数箇所、脱字があり・・・
知っている人たちは「相変わらずやってるわぃ」と良いように取ってもらってると思うのですけど、記事を書きながら、文章のあちこちをコピペして移動したり削除したりするもので、そういうことの跡がそのままになったりしていて面目ない。おかしな箇所は訂正しました。

では、本日の話題に。

庶民の出とは言え、エリゼは国王フェルナンド2世の妃です。どんなにか豪華なシャレーであろうかと期待するところですが、ご覧あれ。なんとまぁ小さな、そして可愛いらしい!エリゼの故国スイスのアルプスとアメリカの田舎の山荘をイメージして、彼女自らが手がけたデザインです。1869年に建築されました。

chalet_condessa_edla
ドアや窓枠、ベランダなどにはコルク材が使われています。

chalet_condessa_edla
窓に小さなローズが絡んでロマンチックなこと!

ここで少しフェルナンド2世についてメモしておきたい。
当時のポルトガル王家の決まりでは、王配、つまり女王の夫はプリンスというタイトルでした。
これは現在のイギリスのエリザベス女王の夫、プリンス・フィリップが例に挙げられます。イギリスと違うところは、女王との間に子供が生まれた場合、女王の夫には国王の称号が与えられるという点です。

実は、女王ドナ・マリア2世はドン・フェルナンドとは2度目の結婚なのです。最初の夫はドイツのロイヒテンベルグ公アウグストですが、結婚後間もなく肺結核で急逝、女王との間に子供は生まれませんでした。ドナ・マリア2世17才にとっては再婚のドン・フェルナンド2世19才との結婚17年間に、二人の間にはなんと11人の子供が生まれています。(うち、4人は誕生後死亡)。

よって、ドン・フェルナンド2世は第一子が生まれると同時に国王の称号を得ますが、摂政として国政を行ったものの、国王としてはしていません。ドン・フェルナンド2世は女王の政策を多方面でサポートしたと言われます。陶芸、水彩画も趣味で芸術面に造詣が深いフェルナンド2世は人々から「芸術王」の別称を与えられています。

また、彼は中世から存在し錬金術の叡智を持ち、後のフリーメーソンにも影響を与えている秘密結社「薔薇十字団」のグランドマスターだったとも言われます。そうして見ると、ドン・フェルナンドが精魂込めて造りあげた不思議な雰囲気を持つペナ城はなるほどと頷けます。

余談ですが、薔薇十字団員として名を馳せるせるのは、18世紀にヨーロッパで多くの伝説を残したサン・ジェルマン伯爵がいます。彼はフランスを中心に活躍しました。哲学者ボルテールをして「決して死ぬことがなく全てを知る人」と言わしめています。

わたしが20代に読んだ本では、サン・ジェルマン伯爵は歳をとらない。周囲が知らないうちにいつのまにか何年もどこかへ姿をくらますのだが、再び姿を現しても歳をとっていない。ヒマラヤへ行くらしい、と書かれてあったのを覚えています。サン・ジェルマン伯爵については調べてみると色々面白い物語があると思いますので、興味のある方は検索してください。
 
さて、シャレーの内部です。
広い間はなく、部屋のインテリは統一されておらず、どの部屋もそれぞれ特徴をもっています。
 
chalet_condessa_edla
ちょっと変わった雰囲気の階段。      

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天井には薔薇十字団のシンボルである大きな薔薇の花が見られる。

chalet_condessa_edla
レースを思わせる青と白を貴重にした部屋

chalet_condessa_edla

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葉を伝わしたデザインは白い壁に緑が映えて可愛らしい。

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二階のどの部屋からもベランダに出られる。

シャレーの四方にあるベランダからは、遥か彼方に海や山頂のムーア人の城、そしてこんもりとした森の上に姿を見せるペナ城が眺められます。この小さなシャレーは、特に、とかく低い身分に対する周囲の蔑みも受けたであろう、妃エリゼにとっては息苦しい宮中生活からの逃避の場であり憩いの場でもあったことは想像に難くない。ドン・フェルナンドとエリゼはよくこのシャレーに留まったようです。

して見れば、二人とも異国の人です。エリゼは多言語を話すことができたと言われますし、ドイツ出身の彼女、きっとドイツ語も話せたことでしょう。オーストリア人のドン・フェルナンド2世とは言語の面でも意思にこと欠かなかったと思います。

さて、その後の二人はどうなったのかと気になるところではありますがこれは次回にしましょう。

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2014年8月31日 

何度か訪れているシントラ山中だが、この夏は「Chalet de Condessa d´Edla(エドラ伯爵夫人のシャレー)」を初めて足を運んでみました。

chale-condessa
Chalet de Condessa d´Edlanの入り口

「Chalet」はスイスアルプス等で見かけられる山荘のことです。 

「エドラ伯爵夫人のシャレー」はペナ城(こちらで案内しています)を取り囲む広大な森の中に造られましたが、1999年に山荘は火災被害を受けて、長い間放置されていました。修復され一般公開されたのは2011年、つい数年前のことです。
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エドラ伯爵夫人については面白い歴史話がありますので、本日はシャレーと森の案内とともにそれも一緒に取り上げてみたいと思います。

「エドラ伯爵夫人」と言うタイトルは夫人がドン・フェルナンド2世と結婚する際にもらったものです。ドン・フェルナンド2世は19世紀のブラガンサ王朝、ドナ・マリア2世女王の王配(女王の配偶者のこと)です。オーストラリア人でハンガリーの名門貴族出身のドン・フェルナンド2世は、1755年のリスボン大地震以来荒れたままになっていたペナ城に惚れこみ、今日の姿に造り上げたので知られています。

34歳の若さで亡くなったドナ・マリア2世の跡を継いだのは、後継者のペドロ王子がまだ13歳であったため摂政となりましたが、15年間寡夫を通した後、運命の女性、エリゼ・ヘンスラーという女性に出会います。
エリゼはスイス生まれで、アメリカ、パリで教育を受け、スカラ座でも歌ったことがあるオペラ歌手でした。

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エリゼ・ヘンスラーことエドラ伯爵夫人の肖像(wikiより)

1860年2月のこと、エリゼはポルトのサン・ジュアン国立劇場で、そして4月にはリスボンのサン・カルロス国立劇場でヴェルディのオペラ「仮面舞踏会」に出演しました。見ていたフェルナンド2世はこの25歳の美しい歌手、エリゼにたちまちのうちに恋に落ちます。エリゼは歌手というだけではなく彫刻、絵画、建築など芸術にも博識で非常に教養のある女性でした。

ドン・フェルナンドはエリゼと正式に結婚し妃に迎えたいと言うのですから、さぁ、大変。国王と庶民、しかも歌手という身分違いのこの結婚にはどれほどの障碍があったことでしょう。これはエリゼに結婚前日にようやく「エドラ伯爵夫人」と言うタイトルが王の甥によって与えられたことからわかりますし、また、ポルトガル王家の歴史から忘れ去られていたということからも分かります。

しかし、ドン・フェルナンド2世、御歳53歳にて1869年6月10日にリスボンのベンフィーカでエリゼ・ヘンスラーとの結婚にこぎつけます。進歩的な思想ゆえか恋ゆえか。フェルナンド2世が手がけた異国風の不思議な様式のペナ城を見ると、自由な想像力を持ち合わせた王だったということが窺えます。

chale-condessa
シャレーのある森からはまるでお伽話にでも出てくるようなペナ城が見える。

さて、ペナ宮殿にいたのでは生きた心地もしなかったであろうエリゼは、やがてガーデニングという趣味を同じくするフェルナンド2世の協力を得て北アメリカやニュージーランドなど世界中から植物を集め土地の特質を生かしたペナ公園の造庭の乗り出します。この中には日本からの杉も植えられています。

chale-condessa
シダあり、

chale-condessa
岩あり。シントラ山中の岩には神秘性が感じられる。
 
chale-condessa
巨大な石を支えんとする我が妹夫婦と夫。遊んでますw

chale-condessa
森の中は散策できるように配慮されている。

次回はエドラ伯爵夫人のシャレー内を紹介します。

では、また!
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