2014年10月30日 

影絵劇のボランティア活動を始めて今年は3年目になる。
ポルト市立図書館での上映を皮切りに、現地小学校の幼稚園部、知人がリセウの生徒達と開催する日本文化行事、隣町ガイアでの上映と、声がかかると時間が許される限り同僚のOちゃんと二人、出かけて行っては細々と続けている活動だ。今回は思い切って、その活動を「主催:YY影絵劇グループ」と名付けた。我らの日本語塾同様、YYはわたしとOちゃんの頭文字をとったのである。

せっかく手間隙かけて作成する影絵、できるものならもっと活動範囲をもっと広めたい気持ちがあるが、いかんせん、わたしはウィークデイも週末も日本語教室があるし、Oちゃんも子育てと日本語を少し教えるので、今のところそれは少し難しい。

年に一作は作成したいと、今年も先だってからとりかかっている。ポルトガル語翻訳とBGM選択は春の時点で既にできている。今回は佐野洋子さんの絵本から「100万回生きたねこ」をとりあげた。BGMにはラフマニノフの交響曲第2番からアダージョを選んでみた。約15分間のアダージョはゆっくりした朗読が上手い具合に当てはまり、素人選曲にしては上出来だと悦に入っている。

kagee

が、今回は背景に苦労している。読んだ人はご存知だろうが、王様猫の場面、サーカス猫の場面、夜更けの街を歩くドロボー猫の場面などだが、登場人物を影絵で映すので、背景を同じスクリーンに出すと絵が重なることになり、人物が映らない状態になるのだ。目下試行錯誤で実験しながら絵を切りぬいている。

kagee
 
本日はボランティア以前に前の補習校で初めて手がけた頃の画像を入れながら、自分のメモとしてここに書きとめておきたいと思う。

最初に手がけたのは、小学生のクラスのこどもたちとの作品で教科書から、星新一氏のSH作品「おみやげ」と言う作品だった。フロル星人の宇宙船が人類出現前の地球に立ち寄り、宇宙船の設計図やどんな病気も治せる薬、人類が平和に暮らすための方法を書いた本等、色々なものを金属製の卵型の容器に入れて砂漠に埋めて行くのだが・・・という話で、これを「宇宙人のおみやげ」と題して上映した。が、かれこれ20年も昔のことで、残念ながら画像は手元にない。BGMを使用しなかった。

2作目は、わたしが好きな絵本のひとつ、小野木学氏の「かたあしだちょうのエルフ」だった。
BGMは当時、毎週見ていたイギリスのTVミニシリーズ「The Flame Trees of Thika」の主題曲を自分が弾いた。このドラマは主人公がアフリカのケニアに家族と住んだ子供時代、子供の目を通してみた大人の世界、キクユ民族との交流の思い出を描いたもので、アフリカの自然が思い浮かんでくるような主題曲だった。下はわたしが持っている原作の画像。
theflametreesofthika

エルフと豹がもつれこんで戦う場面、子供達に任せてできあがったのが、何のことやら意味不明の場面で大笑いしたものだ^^; 残念ながら影絵の画像なし。

3作目は有名なシェル・シルバスタインの「Giving Tree」。りんごの木と少年、そして少年が老人になるまでの交流を描いた話だが、尽きることない少年への木の大きな愛情を美しく描かれた名作で、大人向けでもあると思う作品だ。BGMにはバッハの「G線上のアリア」を使用した。自分で言うのもなんだが、この影絵がわたしは大好きだ。
この頃から難しい場面は自分が切り抜くことになる。

kagee 

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画面のシワは、白いシーツのシワだ。当時はそれを使って影絵を映し出しており、白黒だ。

4作目は「キョーリュー年代記」だが、3年前に保存が効くようにと、分厚い紙で切り絵作成をしなおして更にセロファン紙を使って背景も色づけてみあた。この時にそれまで影絵を映し出すスクリーンは白いシーツで間に合わせていたのを特注して大きな画面にした。下が3年前に作り直したカラー版だ。

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影絵

地球誕生からキョウリュウの出現とその特徴、そしてキョウリュウの滅亡から人類誕生までBGMはスティーブン・スピルバーグとジョージ・ルーカスが製作したアメリカアニメ「 The Land Before Time(リトルフット)」とテーマソングとダイアナ・ロスの「If We Hold on Together」の2曲を使用、素晴らしい音楽のおかげで、大人にも子供にも受けたようで、ポルトガル人の何人かの親御さんから「子供も喜んでいたが、わたしも久しぶりに素晴らしいものを見た」と褒めてもらい、その時はヒャッホーの気分でありました。上映していてとても楽しい気分になる作品だ。

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5作目は日本の中学生の英語教科書にあった「子守歌」。これは広島の原爆投下の夜を扱った物語なのだが、この時は生徒たちと原爆について少し勉強した。

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余談だが、この時初めてわたしは広島の原爆被爆者慰霊碑碑文の内容を知ったのである。
「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」

この碑文は主語がないことから論議を呼んでいる。「誰が」過ちをくりかえしません、と言っているのか、過ちとはなんなのか。原爆投下が過ちだとすると、投下したのはアメリカだから、そう考えると文の意味がおかしい。アメリカが「過ちはくりかえしませぬ」と言ったわけではないのだ。日本人を主語にするのも納得がいかない。

この碑文を作ったのは故広島大学の雑賀忠義教授だそうで、氏の見解は次のようだとある。

「広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。 これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。
そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない」

う~ん・・・だって、「世界市民」て言われてもなぁ・・・『原爆投下は広島市民の過ちではない』これは事実だとわたしは思うのだ。教授の言う「世界市民」はどういう人たちを指すのかわからないが、その言葉が通じないとしたら、では、原爆投下は広島市民の過ちなの?と突っ込める。拡大解釈するにしろ、曖昧さが目立つ。

影絵の最後にこの碑文をあげようとして、色々考えさせられ、納得できなかったわたしは結局使用しないことにした。教授には「英詩入門」の著書があると言うから、英語が専門だったのであろうか。独学英語のわたしではあるが、英語では「過ちは繰り返されませんから」と言う風に人が主語ではなく「It」を主語にして言われるのではないか?さすれば、今のような大きな論議に至らなかったかも知れない。とまぁ、大した学歴もないわたしが思うことではある。

閑話休題、あだしごとはさて置き、この作品はもう一度手直しして、是非とも復活させこちらで上映したいと考えている。

6作目のかぐや姫は「キョーリュー」のカラー版で味をしめ、初めて和紙を使ってみた。
kagee

「かぐや姫」は、土曜日の補習校の中学生クラスを担当した時の国語教科書に古文の単元があり、「今は昔、竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて竹をとりつつ、よろづのことに使ひけり。」で始まる竹取物語を、毎年11月に補習校で開催されたクラスごとの発表会に取り上げてみた。影絵作成の発表もさることながら、真の狙いは、影絵作成をすることによって、とっつきにくい古文に慣れ親しんで欲しいと思ったからである。

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BGMはボロディンのオペラ作品「イーゴリー公」から「ダッタン人の踊り」と導入してみた。この作品はこれまでに4回上映している。和紙の美しい模様を映し出すにはまだまだ工夫が要る。和紙の裏側を水で少し塗らした布で擦ってみたり、カッターで削ってみたりと、これも試行錯誤中である。アドバイスをお持ちの方は是非ご意見いただきたい。
 
本日はこれにて。 
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2014年10月26日 

多いときは週に午前中4回ほども出かける某企業、「マセラッティの君」とわたしが密かに呼ぶ若い重役さんの日本語出張授業だが、そうなるとなんだか通勤しているようで、ビルの階段を4階まで上りながら、大阪でのOL時代をふと思い出したりする。いえね、某企業のビルにエレベーターはあるのだが、わたしは自分の足腰の運動のためにと階段を上るのである。

ある日など、エレベーターの前で「マセラッティの君」と鉢合わせ、「どうぞ」と勧められるのを、「わたくしは、階段を上りますのよ。しからば、どちらが4階に先に着くか、競争とまいりましょうか。オホホホホ」などと断り、苦笑する彼にふざけて張り合ったことがあったが、わたしはエレベーターと同時に4階に着いたのであった。

今週はその出張授業が続いて入り、金曜日の朝、いつも通りに守衛さんがいる門を通り企業ビルがある敷地に車で乗り入れようとした。わたしは部外者だが顔パスである。すると、初めてその日は呼び止められた。おや?何かあったかな?と思いながら車を止めて窓を開けると、「車のタイヤに釘がささってるよ」と言う。

え?着いたばかりのわたしの車、どうやって分かるのか?と、一瞬思いはしたが、授業の時間が迫っていたので、「ご親切にありがとう。後で見て見ます」と門をパスして、授業に入る前に、終わった後、このまま自動車道路を走って行く事は可能かと夫の職場に連絡を入れてみた。わたしにとっては初めてのことなのだ。夫曰く、「いや、走る前にできればそこの工場で見てもらったほうがいい」。

授業終了後、日頃から懇意にしてもらっているマセラッティの君の秘書に相談してみると、すぐ手配してくれ、結局敷地内の工場は結構時間がかかるので、すぐそばにある所を案内しようと、男性社員が車で近くの工場へ誘導してくれたのだが、見てみると右後車輪に、あららら、釘が食い入っておりました。

金曜日はこの出張授業の後すぐ12時から自宅での授業も入っているので、生徒にキャンセルのれんらくを入れ、修理をお願いした。徐々にタイヤの空気が抜け高速道路を走っている最中に事が起こったら大事故になりまっせ、と言われ、冷や汗をかいた朝であった。

入り口の守衛さんが、タイヤに釘がささっていると見たのは、当日の金曜日ではなく、恐らく前日木曜日だろう。なぜならば、そのタイヤは当日の朝、入り口に入る時は反対側であり、見えるはずがないのだ。それで、わたしが入るのを待ち構えていた風な様子が見て取れたのが理解できた。真にありがたいことで、改めてお礼を言おうと思っている。

車の運転等、若い時は考えが及びもしなかったのだが、ポルトガルで子供達の学校の送迎にどうしても必要になり、日本への帰国中に自動車学校に通い運転免許を取ったのは40も半ばであったかと思う。

車の運転が怖くて、ハラハラドキドキの毎日だったが、意地の悪い教官に当たった日など「止めてやろうか!」と何度思ったことだろう。ひたすら子供の教育のために我慢だと教官の皮肉やイケズに辛抱し、なんとか免許を取得したときは「快哉」の感であった。フン!

日本で車を運転したのは試験の時を最後に、以後一度もしたことがない。ポルトガルでの運転は運転席が反対なのだが、運動神経がさほど良くないわたしだ、却ってそれでよかったかもしれない。ポルトガル人の運転は荒いとこちらに滞在する日本の人たちがよく口にしていたが、それも運転しない人には分からぬことで、自分が運転してみて始めてその怖さを知ったものである。

子供達の学校送迎の必要に迫られ嫌々取得した運転免許ではあったが、これが今、役立っているのである。ポルトにもメトロはあるが、それが東京や大阪のように網目のごとく張り巡らされているわけではない。車がなければおいそれと買い物もできず、しょっちゅう夫に頼らなければならないし、出張日本語授業も時間がかかり、日に三レッスンもは難しい。車を運転することによって行動範囲が広がり、何らかの活動もし易くなったのは事実である。そそっかしいわたしのことなので、危なっかしいところもあるが、車を運転するときは傲慢になるまいと心に決めている。

さて、その運転免許だが、我がモイケル娘がただ今日本で挑戦中である。彼女のブログ報告を読んで大笑いしながら、自分の遠い昔の体験を思い出し、ガンバレガンバレと激励したりしている。ポルトガルは多くがマニュアル車ゆえ、夫の忠告で彼女は「マニュアル」運転を習っているのだが、運動神経に関しては多分母親に似ていると思われるので、四苦八苦していることだろう。

院の修論書き上げに自動車学校、バイトと、なかなか厳しい毎日だろうが、卒業まで後数ヶ月、再び社会人復帰をするモイケル娘、ガンバレ!と、ポルトから声援を送って、本日は最後に彼女のブログ記事を引用してを終えたい。

モイケル娘の「新たなる挑戦」

私は失敗をする事で学ぶ人間である。

要領は悪く呑み込みが遅い。というかペースが遅い。しかし頭は悪くないと思っている。
つまり失敗さえさせてくれればいいのである。

とバカ正直に就職の面接で言ってみたいものだ。たぶん落ちるけど。

さて、実は最近夏休みに入って自動車教習所に通いだした。関東に住んでいる限り、車を運転する事はほとんどないだろうが、社会人になってから取るのも大変そうだし、海外生活という無根拠な可能性も視野に入れて(夢はいつでも大きい方がいい( ̄▽ ̄))、免許が取れるようになった年から約10年、ようやく重い腰を上げることにした。

ほんで、娘の運動(無)能力も知らずに、ポルトガルはまだマニュアル車が多いからマニュアルで取れという父に従い、昨日はシミュレーションで人生初めての運転を経験したのである。

運転席のシートあたりから聞こえてくるガイダンスの声と目の前の画面に従いながらあれこれと操作をしていくのだが、しょっぱなからうまく行かなくて、「まあいいや」と諦めて運転を開始しようとした所で教員が慌てて駆けつけてきた。

そりゃそうだろう。これから映画でも観るのかってぐらいシートが後ろに倒れてんだから。
運転以前の問題である。

その後もハンドルを回す練習で「なんか違う」と言われ、「なんとかを引く」の「引く」の意味が分からず(これは日本語の問題だねw)見当違いな操作をし、左ウィンカーをいくら押しても出てこないと思ったらワイパースイッチを押していた、となかなかの苦戦っぷり。

一旦休憩を挟んだ際に技能マニュアルを懸命に読む迷える子羊を憐れに思ったのか、「今やっているのはこことここ」とわざわざ声をかけてくれた。

そしていよいよ運転操作に突入!
はい、ブレーキ踏みます!
クラッチ踏みます!
チェンジレバーはローにー
ハンドブレーキ下ろしてー
アクセル踏んでー クラッチ上げる。

次停止!
ブレーキ踏んでスピード緩めてー
はいクラッチ、え、クラッチ?ブレーキは?あたふた『エンストしました☆』

・・・・・

【加速】
アクセル離して クラッチ踏んで チェンジレバー
アクセル離して チェンジレバー、あ、クラッチ忘れた
【減速】
アクセル離して ブレーキ踏んで、クラッチ、早く、クラッチ『エンストしました☆』
(#`皿´)あ;えrlkj;とhrsろいhrちh
【カーブ】
ハンドル回してー ブーーーン(のほほん)
お、お、ガードレールにぶつかるぶつかる回して回してーー
教官「それ反対車線です(ボソッ)」
わかっとるわいい~~~!!

キーンコーンカーンコーン『まもなく教習は終了します』

ぜー、ぜー・・・ぜ、前途多難だぜ(((((= ̄ ェ  ̄;=)


「マセラッティの君」についてはこちら→http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-621.html
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2014年10月22日

今回は「パリのアメリカ人」ならず、ポルトのイギリス人のお話であります。

川沿いリベイラ近辺、ポルト歴史地区Rua do Infante D. Henrique通りにかなり古い建物Casa feitoria inglesa(カーザ・フェイトリーア・イングレーザ)と呼ばれるのがあります。Casa feitoria inglesa.英国在外商会ハウスとでも訳せるのでしょうか。外見からは中の豪華な様子が想像できません。

feitoria_englesa

この建物は1785年から1790年の間に、イギリス人ジョン・ホワイトヘッド領事によって、当時のイギリス国王の承認を得て、ポルトに住むイギリス人商人たちのために建てられたとのこと。このイギリス商人というのは、ポルトワインを商いとする人たちです。

地階は七つのアーチ型の門でできている石造りの建築物です。数年前に夫のお供でこの上階での晩餐会に招かれて行ったことがあります。聞けば、この建物を利用できるのはイギリス人でなければならず、例外が会食のメンバーにイギリス人が入っていることなのだそうです。この時は夫の仕事関係の国際会議がポルトで開催中であり、英国からもお客様が見えていたので借りることができた、ということなのです。

階上のホールのインテリアは天井、四方の壁が、すべてウエッジウッド造りでありましたぞ^^

feitoria_englesa

こようなな機会でもなければ、ウエッジウッドインテリアなどそうそう見られるものではありません。その夜はホールの隅にグランドピアノが置いてあり、女性ピアニストが弾いていました。

夕食はそのホールの隣の部屋でしたが、シャンデリアがあるというものの部屋はとても暗いのです。コペンハーゲンを訪れた時にも、感じたことですが、街もレストランも真に暗く、少し驚いた記憶があります。コペンハーゲン旅行記については、いずれ、ブログに書きたいと思います。

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ポルトガルに来た当時、わたしは夫の母や叔母たちと6年ほど同居したのですが、最初に感じたことは家中の照明が得てして暗いということでした。わたしなど、できれば全部100wにしたいくらいですが、電気スタンドなどは40wなどの限度があって薄暗いのです。
    
それで、自ずと家の中のあちらこちらに電気スタンドを置くことになります。「二人しか家のなかにいないのに、あっちにもこっちにも電気点けまくって。」と夫に言われようが、そ知らん顔w 家の中の照明が薄暗いと気分もなんとなく暗くなり、それが嫌なのです。

昔、ポルトガル国内を家族旅行をしたときにわたしが決まって準備して持っていくものの一つに、「100Wの電球」がありました(笑) 宿につくなり、部屋の電球を取り替えることなのです。古い宿は天井が高いので、ベッドの上に椅子を乗せ、それをわたしが押さえて背の高い夫がその椅子に乗り天井の電球を変えるのです。これはしょっちゅうしていました。(笑)
      
おっと、話がそれました。
さて、件のCasa feitoria inglesaでの食事はおいしかったです^^ 特にいただいた赤ワインはまろやかでえも言われぬ上質なワインでした。ところが、会席仲間とその美味なワインが話題に上ったものの誰も聞いたことが銘柄です。つまり、市場には出ていない代物なのです。

食事も終わるころ、支配人と思し召しき人が、由緒あるCasaの歴史を披露してくれます。(これなどもいかにも由緒好きなイギリス人気質でしょう?)創立当時から今に至る200年以上の歴史です。そうです、つまり、前回触れた「ドナ・アントニア・フェレイラ」より長い歴史があるのですね。このイギリス商人コミュニティーを相手に彼女は殆ど一人でやりあっていたのですから、脱帽です。

支配人によると、ここで行われる伝統的な年間行事の代表的なものは三つあり、

1)わたしたちが食事をした部屋の隣室の長~~いテーブルでは、その当時から現在に至るまでずっと、昔と代わらぬスタイルで毎週水曜日午後1時から40人のポルト在住のポルトワイン関係のイギリス人達が、昼食をする慣わしになっているのだそうな。

2)トレジュラーズ・ディナーと言って、11月のだい4金曜日には組織の中心人物たちが招待されたメンバーたちと食卓を囲み、食後のポートワインが注がれる前にゲストスピーカーの講義をきくのだそうな。

3)クリスマス舞踏会。クリスマス前の土曜日の午後、ワイナリー業者、その家族、また招待された友人達、ほぼ200名が集い一晩中の舞踏会が催され、明け方に朝食が用意されるのだそうな。

feitoria_englesa
このホールが舞踏会会場になるのでしょう。

「何はなくとも誇りだけは」、と時々陰口をたたかれるイギリス人ですが、古き良き習慣を現在に受け継ぐことは、歴史の持つ重厚さがうかがわれて、なかなかよろしいかな、とわたしは思ったりします。
    
それにしても、市場に出されない上質のワインを独り占めとは^^;あの美味なる赤ワインをもう一度口にする機会がありやなしや?

ポルトにはこのように、イギリス人が集まるレストランが他にも数箇所あります。下記で案内していますので、どうぞ。

 英国風のレストランバー・Oporto ↓
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 O Paparico ↓
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1309.html

ここで晩餐会をした頃は、写真にあまり興味なく、よって、本日の画像は全てWikipediaからです。

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2014年10月21日 

昨日今日と初夏のような気温です。仕舞いこんだ夏服を再び引っ張り出すのも億劫で、暑いのを我慢しているのですが、小春日和には少し早いではないの?日本はいかがでしょうか。

さて、ネット友のなみちゃんから前回の記事について、ワインセラーの女主人、「ドナ、と付くから王家の遠縁だったのか」との質問がありました。

普段から耳慣れ使い慣れているもので、うっかり説明を忘れてしまいましたが、Dona Antonia Ferreiraの「Dona=ドナ」は、かつては貴人の女性のタイトルでした。これに対するのが男性に使われた「Don=ドン」です。「ドン・アフォンソ」「ドン・マヌエル」などに見られるように、ポルトガルの歴代の王には最初に「ドン」のタイトルが付きますが、妃には「ドナ」が使われます。また、女王のマリア1世も「Dona Maria 1(=ドナ・マリア プリメイロ=マリア1世)と、「ドナ」が使われます。

では、ドナ・アントニアはと言うと、彼女は貴族ではありません。が、王から「伯爵夫人=Condessa」のタイトルを与えられています。これも面白いのですよ。ドナ・アントニアはタイトルなど自分は要らぬと、最初は断っています。数年後、再び王から「進ぜよう」と言われ、「2度もタイトルを王に断るのはどうか。それに、俺には何のタイトルもない」とのたまうドラ息子の意見を仕方なく飲んだと言うのが本当のところです。このタイトルは息子が引ぎ継いで貴族に引き上げられることになるのでしょう。

20世紀初期のこと、ドン・マヌエル2世を最後に王政時代も終わり、ポルトガルは共和国になりましたが、以後、「ドナ」の称号はいつの間に一般の既婚女性を呼ぶ際に使われるようになったのです。ですから、わたしもここでは「ドナ・ユーコ」と周囲から呼ばれています。しかし、「ドン」は男性に使用されません。男性に対しては一般的には「Senhor=セニョール」、「Doutor=ドクター(医者、弁護士、学士など)」、「Engenheiro=エンジェニェイロ(工学部卒)などが使われます。

話を戻して、ドナ・アントニアの子息を「ドラ息子」と書きましたが、散在しつくした父親の血を引いてか、まぁ、本当にそうだったのですね。ドナ・アントニアはロンドン滞在の3年をのぞき、生涯のほとんどをドウロ川上流レグア(Régua)の葡萄農園で過ごしたのですが、ワイン業ゆえ、葡萄収穫後、樽詰めにされたポートワインを「Barco Rabelo」と呼ばれた帆掛け舟で川を下りガイア市側のワインセラーでそれらを寝かせることになります。そうすると、商売上、自ずとポルトにも自宅が必要になります。

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帆が張られていないBarco Rabelo.現在は運送に船を使わないが観光用に浮かべられてある。

下がその邸宅の古い写真です。大きな邸です。「Palacete da Dona Antonia(パラセッテ=小宮殿。豪華な邸宅をこう呼びました)」と呼ばれました。今ではもうなくなってしまいましたが、現在のポルト市庁舎の右側、中央郵便局等がある一帯がそうだったとのこと。

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(写真はwikiより)

ポルトの邸宅には息子夫婦が住んでいました。家業を継ぐ気もなく母親と反りが合わず、しょっちゅうお金の無心をしており、子供の養育費を除いては金銭面では援助しないとドナ・アントニアから言われる始末です。が、後に政治家の道へ進み、ポルトの企業家社会のトップに立ち、1865年にクリスタル公園のクリスタル宮殿で開催された国際博覧会の音頭をとったりしています。(クリスタル公園については後日追します)ドナ・アントニアが1896年に没していますから、彼女の生存中になんとかマシな男になったということでしょう。

さて、娘のほうですが、11歳でドナ・アントニアと渡英しそのままロンドンに留学しますが、ポルトガルの伯爵と結婚します。ところがこの伯爵、家名はあれど金はなし。夫婦でドナ・アントニアに際限なく無心し、さすがのドナ・アントニアもあきれ果て、これも息子と同じように、孫達の養育費、学費は援助しますが、他の一切の援助を切ってしまいます。

女性にとって仕事も子育ても上手にこなせたらそれに越したことはありませんが、仕事は敏腕を振るい人々から慈悲深いと言われたドナ・アントニアも二人の子供には随分と頭を悩まされたようで、世の中、あれもこれもと全て上手い具合に運ぶのは稀なのだなぁと思わされました。

ドナ・アントニアの莫大な遺産は世代が変わるうちに失われましたが、彼女の曽孫の手になるレグアのQuinta do Valladoは現在も葡萄園兼ワインホテルとして営まれています。

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キンタ(農園)の入り口。(写真はwikiより)

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ホテルは左が18世紀調の部屋、右が21世紀の部屋になっています。(写真はwikiより)

30近い葡萄園を持っていたフェレイラ一家でしたが、あれから1世紀半経った今、Sograpeというワイナリーが現在はFerreiraを所有しています。Sograpeがポルトガル企業なのがまだ救いがあると言えましょう。 英国人が買い叩こうとする葡萄園を買いとり、後に買い取った葡萄園は同じ持ち主たちに買い値より安く売り渡したり、時にはただ同然で譲ったりもしたドナ・アントニアは単にFerreira社にだけでなく、ドウロ川地域の、ひいてはポルトガル北部のワイン産業に多大な貢献をしました。彼女の功績を讃え、「Dona Anotnia」と命名されたポートワインがありますので、それを紹介して、ドン・アントニアの記事を終えます。

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(写真はwikiより)

最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
次回は、ポートワイン絡みのポルトに住むイギリス人について書きたいと思います。
それではみなさま、またあした!

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2014年10月19日 

ドナ・アントニア・フェレイラ(Dona Antonia Ferreira)と言えばポルトを含む北部では知らぬ人はいない。19世紀に女手一つでワインセラー「Ferreira」の今日の基礎を築いた女性企業家です。

ferreira

ワインセラー・Ferreiraの入り口ホールには2011年のドナ・アントニアの生誕200年を記念した彼女の大きな写真パネルが見られます。

1811年にドウロ川上流にあるブドウ畑の町レグア(正式名はPeso da Régua)の、裕福なフェレイラ家に一人娘として生まれました。ここで採れた葡萄はポートワインの原料になるのです。

後にいとこ結婚し、息子と娘、二人の子供をもうけます。しかし、浪費家で家業に興味を持たない夫とは互いに理解しあえなかったようです。夫はパリに遊びその地で亡くなり、ドナ・アントニアは33歳で未亡人になります。
多くの使用人を抱えた家業の葡萄農園長として、またポルトガルの葡萄農園を守ろうとして辣腕を振るいます。ドナ・アントニアは政治家にも堂々たる態度で意見を述べる卓越した人物でした。

彼女が世間から「Ferreirinha=フェレイリーニャ」と親しみを込めて呼ばれたのは、使用人を始め貧しい人たちを常に気に留めて、援助をしていたからです。農園での事故で働けなくなったり、亡くなったりした使用人や遺族には、当時はどこの農園でも手助けをしませんでしたが、フェレイリーニャはいつも彼らが生活に困らないように手を差し伸べていました。

家業が火の車であっても病院を建てるための資金も惜しみなく出しています。そうして建てられた病院は北部に3つほどあると言われます。フェレイリーニャは慈悲の人であり、ノーブレス・オブリージュの考えの人でもあったのです。
現在のポートワイン会社がほぼポルトガル人ではなく外国人所有者に占められるのは書いたことですが、この当時、既にイギリス人による葡萄畑の買占めが始まっていました。道路造りとスペインからのワイン購入に熱心で自国のワイン産業への援助に無関心な政府や政治家にも意見を述べることが度々ありました。

政府がしないなら、と、ドナ・アントニアは不況や葡萄の病害などでやもなく売りに出されるのが二束三文で外国人の手に落ちることに抗い、多くの葡萄畑を買い取っています。彼女の没後遺された葡萄畑は30箇所ほどにもなっていたと言われます。

葡萄の病害防止の勉強のためにイギリスへ渡っていますが、この時は、フェレイラ家の財産を目当てに11歳の娘を息子の嫁にと結婚を申し込んできた貴族から逃れることも理由でした。この渡英時に同行させたフェレイラ家の長年の管財人ジュゼ・シルバ・トーレスが二人目の夫になります。彼はその生涯をフェレイラ家に捧げ、ドナ・アントニアを支えました。

こうしてドナ・アントニアは太陽光を浴びることが葡萄を病気から守るということを知り、日当たりのいい場所を葡萄栽培に選ぶことになりますが、これらの彼女の葡萄園への意欲、熱意が彼女を人々から「Rainha do Douro=ライニャ・ド・ドウロ=ドウロの女王」と呼ばせる所以でしょう。

しかし、二度目の夫を除き、彼女は家族関係にはあまり恵まれなかったようです。次回はそれについて書きたいと思います。
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2014年10月15日 

前回の記事の続きです。
  
36年目の同期会の翌朝、台風はどうにか弘前をそれてくれたようだ。
夕べの一回生たちとの再会の興奮も冷めやらず、結局頭が冴えて早朝に起き出してしまった。
先祖の墓参りという大事な役目も終えることができたし、一路東京へ向かう準備をし始めたのであります。

衣類を畳み込んで旅行かばんに詰め始めたのだが、何とはなしにふとバッグの中身をチェックしてみた。
「あ、あれ?デカイ財布が見当たらんぞ・・確かバッグの底に入れてたはずなんだが・・・」
バッグをひっくり返してみた。が、あるはずの、そのデカイ財布がない・・・

 「えぇぇぇ!だって、あれには帰路のためのユーロ札と、それよかパスポートが入ってたのだよ。ウソやん!なんでやのぉ?」と、ほぼ悲鳴に近い独りごと!もしかして、タクシーでお金を払うときに座席に落ちたかも・・・あぁあぁぁぁ、タクシー会社の名前、覚えとらんわ~!さぁ、大変!朝の7時からフロントのおっさんに頼み込んで、あちこちのタクシー会社の電話番号を調べてもらい、公衆電話からかけまくった。その時点では、どこにも落し物の届け出はないとのこと。
 
フロントのおじさんが言う。「あのね、警察に届けたほうが一番早いかもしれないよ。」アドバイスに従って警察にも電話してみた、が、それらしい物は出ていないようだ。おまけにあったところですぐに手渡しはできなくて、数日かかるのだそうな・・・そんなん、待っておられまへんて^^;

うぬ?待てよ。そう言えば、夕べ「あすなろスナック」で財布に入れていた名刺が切れてデカ財布に
入っている名刺を取り出すためにバッグから引き出したんではなかったか?・・・もしかしてあそこに落ちてはいまいか?誰かが見つけたとしても、わたしの弘前での連絡先は誰も知らぬのだからきっと見つけた御仁は困っているにちがいない。(←勝手解釈w)
まっこと申し訳ないとは思うものの、前夜一緒だったゆりこさんに電話をしてみた。

すると、「いや、落し物などなかったように思うけど」との返事。電話を切りしな、「気になるから結果を知らせてね」と、彼女。やもえない、あすなろママに聞いてみるしかない。夜遅くまでの仕事でお疲れのところではあろうが、背に腹は変えられん。わたしは今日帰らなあかんのだ~。震える手で彼女の電話番号をダイヤル、じゃない、プッシュボタンで押した。
なかなか出てきぇへん^^; あ、出られました、ママさん!
「スンマセン、こんな朝早くに。」と事情を話したら、早速、彼女、店に行って見てくれると言う。 

シャワーを浴び洗髪したその髪も乾かさないまま、電話をかけまくっていたわたしを、フロントのおじさんも心配顔で見ておられます。

ママさんが店に着くまでしばらく時間を要するので、いったん部屋にもどることにした。もしも見つからなかった場合のことを想定すると、ガックリと肩も落ちるとこまで落ち込み、階段を上る足も重く、夕べの幸せはすっかり吹っ飛んでしまいました。
隣室の妹夫婦の部屋をコンコンと元気なくノック。「あ、おはよう。」と妹。
「う、うん^^;あのね、パスポートの入ったお財布、なくしてん・・・」
「え?なくしたの?あららら・・・」
「でね、今あちこち電話で頼んで探してもらってるねん・・・」
「んもう、いっつもこんなんだから・・・でもね、パスポートなんて普通は国内で持って歩かないでしょ」
「・・・・!!!!!!」それもそうだ。
もしかして最初からなかったのん?ほ、ほぇ?その場で妹の携帯から所沢で留守番をしているモイケル娘に電話をした。
  
「あ、あんね、机の中の引き出しに茶色い大きな財布、入ってない?」しばらく受話器を持ったまま待つ。すると、
「んーー?あるぅー!パスポートも入ってる~~!!キャッホー、ハレルーヤ!」
どこが、名刺が切れて、デカ財布をバックから取り出しただ?と、自分のいい加減な記憶と思い込みにがっくりした。

傍でこれを聞いていた妹いわく、
「実は最初からありませんでした、なんて同窓生に言えないよね」苦笑。ご~~ん。い、言えまへん・・・36年ぶり同窓会に出席したの今の段階ではとてもとても言えまへん^^;」
トントンと足取りも軽く階下に下りて電話です。フロントのおっさんには、
「あのぉ、ありましたのよ、おほほほほ」で誤魔化しw
「はい、よくあることなんですよね。」としっかり言われました。
連絡を待っているであろうゆりこさんとあすなろママには・・・「あ、ありましたぁ~~~!」で、済ますしかなかったのであります^^;ごめんよぉ~、同窓生!この埋め合わせ、きっとさせていただきますれば。

「思い出のグリーングラス」がこのような結末になり、赤面の至りではあった。
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2014年10月14日 

前回の記事に続くポートワインFerreira社のドナ・アントニア・フェレイラについては、ただ今、勉強中でありますれば、今しばらくお待ち乞う。これがなかなかに面白いのです。

さて、妹夫婦の3週間の我が家滞在、東京の大学で非常勤講師をしている息子の帰省と嬉し楽しの夏休みも終わった9月の始めに、このところお互いのメール交換が途絶えていた高校時代の同窓生から連絡が入った。「10月11日に、1期会があるぞ」と言うのだ。

我が母校は青森県弘前市にある南高校(以後南校と書く)だ。わたしたちは会の名前が示すように南校の第1期生なのである。わたしが弘前の同窓会に出席したのは今から10年も前の2004年でその年が初めての出席、38年振りであった。以来、帰国する度にできるだけ弘前に足を運ぶようにし、同窓生の幾人かに会っていた。しかし、10年前にたまたま帰国できた秋を除くとわたしの帰国は春が多いので、多くの人が全国から集う所謂同期会に出席したのは、10年前の一度のみである。その時のことは、ビアハウス・エピソードのひとつとして綴ってあるので、後ほどここにアップしたいと思う。

こういう時はおいそれと帰国できないのでいささか残念ではある。そこで、よし、身は行くことができないが、しからばポルトガルのワインでも出席代わりに送って皆に口味わってもらえるかもしれない、とお伺いをたててみると、即、OKの返答をもらった。早速、冷やす必要のない赤のテーブルワインを、足りないのは重々承知の上だが2本だけ送った次第である。
今朝の報告がてら同期会の様子を知らせ通称「シマ」からメールが入っていた。

わざわざコーナーを設けてワイ2本と同封した、わたしが執筆するポルトガル情報の会員雑誌を置いてくれたとのこと、な、なんだかちょっとエラそうやなぁ^^;恥ずかしいなぁ。よし!ワイン2本ぽっちじゃダメだ、次回は4本だぁ!とつい調子にのっているわたしではある。

それにしても卒業して48年も経ってしまったとは夢幻の如しだ。そして今こうして再び繋がりができるとは、歳を重ねた向こうにこんな喜びがあるとは、若い時分には思ってもみなかったことだ。人生も夕暮れ時に差し掛かった今、誰かが言ったこの言葉を嚙みしめる。
Each day is a gift of God, and this is why we call it the " present".
(その日その日が神からの贈り物である。だから、わたしたちは贈り物をプレゼント(現在の意味もある)と呼ぶのだ)

同期会のコーナーにはわたしのブログアドレスも紹介してくれたとのこと、シマ、ゆりこさん、ありがとう!そして、もしかしたら、同期会からこのブログを覗いている我が同窓生がいるかもしれない1期生よ、メッセージを残して行ってくれたら、こんなに嬉しいことはない。

下記、10年前の1期生初出席時の記事を。

あの頃、ビアハウス:「思い出のグリーングラス」(1)

♪汽車からおりたら  ちいさな駅に
         迎えてくれるママとパパ~
         手をふりながら呼ぶのは 彼の姿なの
         思い出の Grren Grass of Home
  
         まぶたを閉じれば 聴こえてくるわ
         懐かしい古里の歌が 
         子どもの頃、遊んだ山や川 そして
         思い出の Green Grass of Home 
  
カントリーソングである。明るいメロディーで故郷に降り立つ主人公が家族や恋人に迎えられる、と始まるのだが、
英語の歌詞を聴くと最後の方には、こんな語りが入る

  そして俺は目が覚めた。四方を灰色の壁に囲まれた部屋で
  俺は故郷の夢をみていたんだ
  看守と神父さんに両腕を引かれ、
  夜明けに俺はグリーンマイルを歩いていく
           註:グリーンマイル:アメリカの死刑囚が
             歩く緑色の絨毯が敷かれた死刑台に続く道

  俺はもう一度、故郷のグリーングラスに触れるんだ
  そうさ、みんな俺に会いに来る。
  古い樫の木の下で
  故郷のグリーングラスの下に埋められるとき
           ーspacesis 勝手翻訳ー         
  
こんな明るい曲にはまったく似つかわしくない、故郷を出たまま帰らなかった死刑囚の最後の夢を歌ったのが「思い出のグリーングラス」なのですね。外国の歌はできれば日本語訳しないで、原語で歌うのが個人的には好きなのだが、この歌は本語歌詞がとても気に入ってアサヒで歌い始めた。

わたしがラジオで日本語版を耳にしたのだが、覚えることができたのは一番目の歌詞だけで、残りの部分は今のようにネットで検索などということはなかった時代、アサヒで歌うために自作したのであるから、いい加減なものだ^^;

わたしは度々こういうことをやっている。わからない歌詞は自分で作るのである。誰に遠慮がいるものか~~。「作詞:spacesis」やもんね。
  
わたしの故郷は弘前である。もう5、6年ほども前になるだろうか、アメリカへ移住して今ではカリフォルニアに居を
構えてすっかりそこの住民として腰をおろしてしまっている、大阪時代の男友達と彼の娘、そしてわたしとモイケル娘の4人で東北を回ったことがある。

その折に、彼が気を利かしてか、四半世紀以上も帰っていないわたしの故郷、弘前に立ち寄ろうと言い出し、一晩宿に泊まったことがある。その時、ホームから駅舎を出て駅前に降り立った時には度肝を抜かれてしまった。駅舎も駅前も、なにもかもが新しく計画建築され、様子はすっかり変わってしまい、まるで見知らぬ町に足を踏み入れた気がしたものだ。
  
それもそのはずであろう、わたしが故郷を出たのは札幌放浪の19の春で、以来、盆正月も両親に顔を見せることもせず、帰郷したのはポ国に来るまでに、たった2度ほど。30年近く帰郷していなかったのだから・・・
しかし、故郷を思うとき、わたしは今でもこの歌にあるように、心の中の東北の田舎の小さな駅に降り立って入っていくのだ。

パパもママもとうに鬼籍に入り、もう迎えてくれるわけではないが、この歌を歌うとき、わたしは思わずセンチメンタルになり、二番目の歌詞で自ら書いたように、「まぶたを閉じれば浮かんでくるわ」なのである。

今年、2004年10月、2年ほど前に亡くなった母の法要代わりに、弘前に住む親戚へのあいさつ回りで、妹夫婦と車で帰郷してきた。たまたま2泊3日のその一夜が、高校の「一期会」との知らせを京都に住む同窓生から聞き、わたしは「舞踏会の手帖」をほどくごとく、やおら出席を決したのである。
参照:「舞踏会の手帳」(1938年の映画) 

夫に先立たれた女主人、クリスティーヌが若い時分の古い荷物を整理している。と、中から出てきた一冊の手帖が目に付く。それは彼女が初めて社交界にデビューした夜の、舞踏の相手の名を記しておく手帖だった。
思い出が泉のように心に染み広がり、ふとこの舞踏会の相手を一人一人訪ねてみようとする。今その人たちはどうしているだろう・・・その「舞踏会の手帖」を頼りにかつての相手を訪ねて行く、と言うようなお話なのですが・・・
        (猪俣勝人著:世界映画名作全史引用)

高校卒業以来、39年振りの、わたしとしては初めての一期会出席だ。
一期会というのは、わたしたちが「弘前南高校の第一回生」というのから来る。新設公立高校であった。
    
「39年」と一口に言うけれど、言うけれど・・・それぞれが重ねた幾星霜。
みんなどんな風になってるかな?わたしはどんな風に変わったのかな?少し恐いようなドギマギする心を抱きながら、台風が近づきつつある弘前の夕方の雨降る町を、タクシーで会場へと向かう。

すると、会場から、おお、聞こえる聞こえる!

       ♪北の涯 垂氷は消えて
           さみどりの 千草萌え出づ
           見よ 生命匂ふ 若人の群
           この丘に競ひ 自由を謳ふ
           ああ そは我等なり
           無限の希望 胸に奏でて
           大いなる理想を 此処に求めん

初代小野正文校長作詞、芥川也寸志氏作曲の我が母校校歌が、開会時間に少し遅れて到着し、古い和式の階段を上っていくわたしの耳に飛び込んできた。かなり目の悪いわたしは、特に知らない場所では、夜でも度つきグラサンを放さないことが多いのだが、今回はみなさんに失礼にあたると思い、それをはずし、会場の受付へ。

「あ!袖○さん!いらっしゃい。おひさしぶり!」
「ようこそ遠方から。今日はすみませんが、乾杯の音頭、とってください。」
「ええ!わ、わたしが?乾杯の音頭て・・・だって準備してまへんよぉ^^;」
「毎回、一番遠いところから出席する人に、これをお願いすることになってるのよ^^」
    
確かにポルトガルから出かけたわたしは、一番の遠方来訪者ではあるけど、突然はひどいよぉ^^

ひとしきり当時の学校長、幹事の挨拶が終わったところで、ついに回ってきました、乾杯の音頭とりのお役目が。慌てふためいて立ち上がり、「お役目光栄」の一言を加えて、「我が母校、我が同窓生たちに乾杯!」ということで、無事になんとかお役目を果たしたと思いきや・・・

何気なく自分のいるテーブルの後ろにふと目をやると、
「お、おろ?」
かつての開校時代の諸先生方がズラリと座っておられるではないか!!
「し、しまった!」
   
諸先生方のテーブルに尻をば向けて、乾杯の音頭をとってしまったではないか!ご~~~ん。いえね、度つきグラサンをはずしていたもので、よく見えなかったのであります^^;

しかし、そんなことを気にしてかしないでか、かつての担任のS先生、
「おおお!袖○、ささ、こっちへこっちへ」
「出席者名簿を見たら、なんと君の名前があるではないの。これは逃すわけには行かないと思って、今日はがんばって来たぞ」とは、世界史を教わったS先生、少しお歳は召したが昔と少しも変わらず^^

少し偏屈にツッパッて生きていたであろうあの頃のわたし、そして、その後の卒業名簿ではずっと住居不明のままだったのを、長い間気にかけていただいたようでした。 S先生、もうどうぞご安心を。紆余曲折、人生いろいろありましたが、半世紀かけて、生きることがなんとなく楽しいと思えるようになりました。

この会の3時間は結局「なつかしや~」の諸先生方や同窓生たちとの挨拶でほとんど飲まず食わず^^;
二次会会場にあたる同窓生のひとりが持つ「あすなろ」なるスナックへほぼ全員が繰り出しカウンターの中も外も満員^^
みな、「勝手知ったる台所」で、好き放題にやっておりました。

ああ、いいなぁ、こんな雰囲気。
あの頃のわたしは一匹狼のごとく、密かにツッパリ、孤独を愛していつも本ばかり読んで、同窓生たちと交わることが少なかったのだが、長い年月はそんな角も取り去り、心も体も随分と丸くしてくれました。
    
まるで学生時代のあの頃に帰ったような一期生たちの団結力を目の辺りにしながら、翌朝東京に向かう予定ゆえ、みなに別れを惜しんでスナックを後にしたのでした。

実は、この時のことで、白状しなければならない事があるんでして・・・
長くなりましたので、この項、次回の続きに。


Youtubeから、トム・ジョーンズのGreen Green Grass of Homeを拾いました。



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2014年10月13日 

ポートワイン(ポルトワイン)はその名がポルトの街の名を冠する豊穣の酒と言える。ドウロ川上流で収穫されたブドウから造られるが、発行する途中でブランディーが加えられ、それが酵母の働くを止め、独特のコクと甘みをかもし出す。樽で最低3年間熟成されたものがポートワインと呼ばれ食後酒として嗜まれる。

河の下流岸、ポルトのリベイラの対岸になるカイス・デ・ガイアにはワイナリーのセラーが軒を並べる。
Ferreira

ポルトと隣町ガイアの間を流れるドウロ川に架かるドン・ルイス1世橋を渡ってカイス・デ・ガイアに入ってみる。下の写真は鉄橋の間から覗いた対岸のポルト、リベイラ。ガイア側から眺めるリベイラはポルトの最も美しいスポットだ。
Ferreira

主なワイナリーは30以上に及ぶ。河岸には各社の名前入りポールが並んでいる。
ferreira

ポルトワインとは言うものの、イギリス、ドイツなどの外国人の所有社が殆どで、ポルトガル人が持つワイナリーは意外と少ない。今回はそのひとつ、「Ferreira」を訪れてみた。

Ferreira
Ferreira入り口ホール

2011年で生誕200年を迎えたドナ・アントニアの肖像が中心にある。ドナ・アントニア・フェレイラは、33歳で未亡人になり、以後、数々の苦難を乗り越えてフェレイラ社を盛り上げるのに奮闘し、「ドウロの女王」と呼ばれた女性だ。彼女については後ほど綴ってみたいと思っている。
 
Ferreira
フェレイラ社独特のマークとポートワイン

Ferreira
1903年12月23日の水害で水位がここまで上がったとの印だ。

ferreira
ポートワインを熟成させるPipas(ピパス)と呼ばれる木の酒樽。

ferreira
セラーは暗い。

ferreira
ワイン造りの古い道具が展示されている。

ferreira
ガイド付きのコース終了後は白、赤、2種類のポートワインの試飲だ。     

壁にはぎっしりとワインボトルが収納されている。
ferreira

こちらは出口。Ferreiraは河岸でも奥の方にある。
ferreira12.jpg

年中無休で10:00~12:30、14:00~18:00
入場料は5€
ガイドはポルトガル語、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語がある。

次回はフェレイラを守り立てて今日の基礎を築いた、Dona Antonia Ferreiraについて綴ります。それでは、本日はこれにて。
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2014年10月11日 

「憲法9条にノーベル平和賞を」運動が展開されているというのを目にして、わたしが思ったのは「はてな?」である。まず、基本的な二つの疑問を持った。

ノーベルはその遺言において「前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする」と残している。 「日本国憲法第9条」がこれに当てはまるとは言いがたい。例え「前年に」を除いたとしても、具体的に人類にどのような貢献をこの憲法第9条がしたかという点が疑問である。それが一つ。

もう一つが賞金の行き先だ。
1905年に創立されたノーベル賞は医学生理学、物理学、化学、文学、平和の5種類であった。それに1968年にスエーデン銀行が300周年を記念して設立させたのが経済学賞で、正式には「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン銀行賞」と呼ばれるそうだ。賞金は1000万クローネ、日本円で約1億2000万円、1部門につき受賞者は最大3人と決められてあり、同部門で複数の受賞者がいた場合、賞金は分割される。

さて、仮にだ、「第九条」が平和賞を受賞したとして、この賞金は誰のものになるのだろうか?
9条を70年近く遵守してきた日本国か?それとも、「9条にノーベル平和賞を」運動を推賞してきた「実行委員会」だろうか?いや、実行委員会に渡るのはおかしいであろう、とは私の思うところだ。
なぜなら彼らの運動はと言えば、「人類のために最大たる貢献をした」というノーベル賞の選考主旨に合わないであろう。また、第9条はこの実行委員会によって制定されたものではない。この条文の発案者については未だ議論があるのだ。曰く、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう。外交官、政治家)、マッカーサー主導、チャールズ・L・ケーディス(GHQ民政局)などだ。
よって、「第9条」は賞の行き所がないというのがわたしの結論だ。

もうひとつ、「日本国憲法」はわたしたち国民が議論して選択するべきものだとわたしは思っている。特に「第9条」については、大いに議論する必要がある。

第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
「戦争の放棄」にはわたしも異論はない。だが、第9条護持を主張する人たちの「このすばらしい憲法をなんとしても守りたい」というのには簡単に同意しかねる。なぜなら、「素晴らしい憲法」も他国の侵略がなければこそだ。昨今の隣国とのいざこざを見れば、そんな侵略は有り得ないなどと考えるのは平和ボケを通り越して無知ですらある。自分の国は誰が守るのか。

現憲法のままでは、他国の侵略があった場合、どのような対処ができるのか?それを考えた時、現第9条では対処できないとわたしは思う。国自らが侵略のための武力行使はしない。しかし、降りかかる火の粉は自らが払ってこそ独立国、自立国なのだ。パスカルが言うではないか。「力なき正義は無効である。正義なき力は圧政である」と。理念のみで平和は築けない。

わたしは時折、日本はスイスのように永世中立国になるのも選択技に入れることができると思う。しかし、かのスイスとて自国は自分たちの力で守るとの基本線に立ち、国軍を有するのだ。

Malala
マララ・ユサフザイ

今回のノーベル平和賞を受賞したパキスタンの少女、マララは2012年15才の時、スクールバスで学校からの帰途、タリバンの銃撃で頭部と首に銃弾を受け、治療と身の安全確保のためイギリスへ移送され奇跡的に回復した。受賞者発表の席では、史上最年少の17才の平和賞授与に対して「若すぎるのではないか」と記者団から質問が浴びせられたとの事。
若干17才ながら、「一人の子ども、一人の教師、一冊の本、そして一本のペンが、世界を変えられるのです。教育以外に解決策はありません」と世に訴えてきたこの少女は、この受賞で大きな援助を得、今後も活動して行くであろう。

片や今日のネットジャーナルの記事で「中国版“ノーベル平和賞”と呼ばせる今年の「孔子平和賞」候補に鳩山元首相、韓国の朴大統領」と言うのを見ては、思わず吹いてしまったわたしであった。

下記にマララさんの国連での演説があります。興味のある方はどうぞ。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2014101102000131.html

本日はちょっと硬い話題だったと思いますが、お付き合いいただきありがとうございます。よろしかったらランキングクリックをしていただけると嬉しいです。

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2014年10月6日 

1970年代も後半、わたしが心密かに「人生のるつぼ」と呼んだ大阪、梅田新道にあったアサヒ・ビアハウスでのできごとをレトロ感覚で綴ります。2005年くらいに書いたものに手を入れ写真を加えて書き直してみました。今日は「六甲おろし」が持ち歌の杉ヤンの話です。

1970年代の梅新ビア・ハウス夕方6時半ともなると、ホールは満席になるほど、盛況であった。常連が多く、明らかに彼らがビアハウスの雰囲気を盛り上げる一端を担っていた。その常連はと言うと二組に分かれていた。毎日欠かさず通ってくる「毎日常連」と、決まった曜日に来る「曜日常連」である。彼らはみなそれぞれに一曲だけ持ち歌があり、ビア・ハウスに来る客の中には、歌姫のよりも彼らの歌を聞くのを楽しみに来る客も多いのである。

tachiseki.jpg
↑知る人ぞ知る小さな丸テーブルを囲むアサヒ常連の立ち飲み席。どこの店でも常連の席を確保するものであるが、アサヒでは常連自ら立ち飲み席を陣取る。

さて、野球のシーズンともなれば、ビア・ハウス内のそこここで、タイガースファンこと「トラきち」(タイガース気狂い)が席を陣取ることになる。みな口角泡とばし、贔屓チームの持論を振り回すのである。このシーズンは毎日常連の杉ヤンの出番である。

アサヒビアハウス
体を前後に揺らしてリズムをとり、声張り上げて応援歌を歌う杉やん。

杉ヤンは仕事が退けたあと、自ら一日の労をねぎらうために、毎夕帰途にあるこのビアハウスに足を運んで来る常連の中の常連で、自他ともに認める「トラきち」である。
 「杉ヤン、六甲おろし、行け!」
場内の興もたけなわになったころ、ヨシさんのアコーディオンが杉ヤンを呼ぶ。
     
♪六甲おろしにさっそうと
      そう天かける日輪の~
      
  で始まり、
♪お!お!お!おー、阪神タイガース
      フレーフレフレフレー
    
場内は沸きに沸く。すると、「六甲おろし」の直後に、すかさず出てくるのが対抗歌「巨人の星」の主題歌 「行け行け飛雄馬」だ。
     
♪思い込んだら試練の道を
  行くが男のど根性
  真っ赤に燃える王者のしるし
  巨人の星をつかむまで~

どこかに必ずいるものです、巨人ファン。オー!オー!とあちこちで気勢があがり、場内はまさに総立ちの景観。これを見ては、映画「カサブランカ」において、ハンフリー・ボガード扮するリックの酒場でナチ将校たちが歌うドイツ国歌に負けじと、反対のコーナーからフランス人達がいっせいに「ラ・マルセーズ」を歌い、火のような対決の二つの合唱がかちあう場面をわたしは思い出してしまいます。

後年、よくその場面を思い浮かべては、わたしは古き良き時代の梅新ビアハウスに思いを馳せる。「六甲おろし」と「巨人の星」は、わたしの中の「カサブランカ」にも等しいのである。 
ついでに付け加えると、この杉ヤン62歳にして、2003年にタイガース応援歌、「みごと優勝!ザ・タイガース・オンド」を歌ってテイチクからデビュー!30年ただ一筋に「六甲おろし」を歌ってきた甲斐があると言うものです。
 
いや~、人生ってこれだから面白い!
アサヒスーパードライ梅田に行けば、今でも杉ヤンに会えると思います。

下記、Youtubeより「六甲おろし」


あの頃、ビアハウス Episod 1 はこちら
             Episod 2 はこちら

最後までお付き合いいただきあがとうございました。
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2014年10月5日 

日本への一時帰国を目前にした今年4月の終わりころ、少し分厚い印刷物が届けられた。封を切ってみると一冊の写真エッセイ集であった。「ケラー・サロン 30周年記念集」と題されている。

梅新アサヒビアハウス

そうしてみれば、と思い当たったことは、昨年の終わりごろにN氏と言う見知らぬ方からメールが入り、「旧同和火災ビルのアサヒ・ビアハウスのことを調べたくて検索していたところ、あなたのサイトに行き当たった。ついては、2014年のわたしたちの同好会、ケラー・サロン30周年記念集を発行するに当たり、是非、ギャラリーに掲載されているかつてのアサヒ・ビアハウスの写真を提供してもらえないか」とのことだった。

30周年と言うと、わたしが日本とビアハウスを後にしてポルトガルへ来た6年後にできた同好会と言うことになる。メンバーにわたしが知っているあの頃の常連客数人の名前が見られた。当時の梅新アサヒ・ビアハウスには、特別室があり、そこは同好会などの定例会会場として貸切になり、アコーディオンの吉(ヨシ)さん、先輩歌姫の宝木嬢と一緒に、ステージの休憩時間に席を盛り上げるためにその部屋でときどき歌ったものだ。マイクなしである。

サロン・ケラーはわたしも知っている、当時は某大学病院で執刀していた中川先生が主催していると言う。中川先生は1970年代にドイツ留学し、本来はクラシック音楽愛好家であったのが、どうやらそのドイツでビアソングの楽しさに触れられたようだ。ビアソングのファンになったのは、帰国して我が先輩歌姫、宝木嬢の歌う梅新アサヒ・ビアハウスに出会ってからだとエッセイに書かれている。わたしが宝木嬢に一緒に歌ってみないかとスカウトされて歌い始めたのは1975年だから、丁度同じくらいの旧アサヒ・ビアハウス歴を持つことになろうか。

梅新アサヒビアハウス
我が青春の梅新アサヒ・ビアハウス入り口

そのような申し込みで、もちろんどうぞどうぞ、お好きなだけ持ってってください、と返信したのであった。我が青春の同和火災ビル地下にあった梅新アサヒ・ビアハウスは、その後ビルの改築でふ「フェニックスタワービル」と名を変え、その地下に「アサヒスーパードライ梅田」として現存している、(恐らく日本で)最古のビアハウスだ。わたしが歌っていた頃と内装はすっかり変わってしまったが。

下が、記念誌ゲスト参加として掲載されたわたしの大切な写真なのだが、見開きページにぎっしり使っていただき、嬉しいかぎりだ。
 
      梅新アサヒビアハウス
    画像をクリックすると拡大写真が見られます。

右ページ、ステージで座り込んでマイクを握っているのは今では30歳を過ぎた我が「東京息子」。一時帰国の際にも時々わたしは歌っていた。写真には今は亡きアサヒビアハウス高松社長、高橋店長の姿も見られる。

ケラー・サロンで歌った曲目リストを見るにつけ懐かしさがこみあげてくる。わたしは声域の関係でソロでビアソング、ドイツフォークソングの全てを歌うことはできなかったが、これらの中にはわたしの持ち歌もあった。

梅新アサヒビアハウス

「Du Kannst nicht true sein(お前は浮気者)」、「Trink, trink, Bruderlein(trink=飲めよ)、「Lustig ist das Zigeunerleben(さしらいの旅は楽し)」、「Lili Marleen(リリー・マルレーン)」などがそれだが、宝木嬢と合唱する曲は「Schnee walzer(雪のワルツ)」「Schone Maid(美しいお嬢さん)」、「Rosamunde」など、どれも歌って実に楽しい曲であった。(ドイツ語のアクセント記号は付けていないことをお断りしておく)
そんな訳で、ブログに移動しようと決めた「あの頃、ビアハウス」、2エピソードをアップしただけでそのままにしていましたが、おいおい、こちらに載せるつもりでいます。
下記にて、旧梅新アサヒ・ビアハウスで歌われた愉快な曲をいくつか紹介して、本日はこれにて。

♪雪のワルツ


♪ミュンヘンのホフブロィハウス


♪Du Kannst nicht true sein
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2014年10月1日 

同僚のOちゃんと二人で土曜日日本語塾を始めてかれこれ5年ほどになる。ポルトガルの経済不況を考慮して二人で話し合いなんだか年々授業料が安くなっているわたしたちの土曜塾である。

毎年二人ができる時間に合わせて新コースを開設してきたが、この秋は新しい日本語クラスを作る必要に迫られた。Oちゃんのクラスとわたしのクラスの進行度がほぼ同じだったので、二つを合併させ、2週間前に新しいクラスをスタートさせた。

YYjuku
一クラスの人数が増えて机も椅子も買い足した。

グループ授業の難しいところは、入ってきた生徒に続けてもらえるかどうかだ。進行具合が速過ぎても遅すぎてもいけない。分かっていそうにないと思われる箇所をカリキュラムがあるからと言って、ドンドン進める事は、いずれ生徒が理解できなくなるので、わたしたちは極力避ける。分からない?しからば生徒たちと話し合い、了解を得て重点的に分からない部分を繰り返す、という手段をとるようにしている。

8月中旬から、ウエイティングリストの名簿に沿って案内のチラシをメールで送り、質問に回答し登録にこぎつく。この間の手配はわたしが窓口になっているので、一ヶ月ほどはその対応に追われて外出もほとんどなく、パソコンに向かっている時間が多かった。

メル友のI氏からはブログ更新に励んでいるね、元気そうでなにより、との言葉をもらったのだが、種を明かせば、外出できない分、準備の合間を見ては気分転換にブログ更新にいそしんでいたのでありました。
さて、新コースも始まったところで一件落着、昨日は自宅の個人授業がキャンセルになり、それ!と車で出かけてきたのが、Quinta da Lameira(ラメイラの森)ことロック公園(Parque de Roque)。

Parque_roque
散歩している人も少なく、公園は静寂。前を散歩しているのは白猫ちゃん。
 
Parque_roque

撮影目的のラビリンスの中に入ってみたところ、くもの巣を見つけました。
Parque_roque

ということは、この中に入る人があまりいなかった?何度か行き止まりにぶつかりながら、行ったり来たり。無事に出た後は、以前来た時と比べ、どうなっているかと森の中にあるCasa da Lameira(カーザ・ダ・ラメイラ=ラメイラ邸。Lameira=湿気の多い牧草地)に足を向けました。

Parque_roque
これはサンルームだったのか?以前来た時、邸は市の事務所の一部として使われていたのですが、閉鎖されていたのに失望。

Parque_roque
邸の正面

Parque_roque
石畳は白い花びらに敷き詰められて。

Parque_roque

鉄材の曲線が美しい。

Parque_roque 

Parque_roque
    
Parque_roque
意味ありげなドアノブ
 
Parque_roque

見事に紅葉したツタ。葉っぱを取って押し葉にしたい心を抑えました^^;

Parque_roque

忙しくしているうちに、秋が来ていました。

本日はこれにて。

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