2015年1月29日 

日本人ジャーナリスト拉致ニュースに気持ちが沈み、落ち着きません。
が、気持ちの向きを変えて、懐かしき我が青春の大阪時代、「あのころ、ビアハウス」を取り上げてみました。
どぞ。


アサヒを語るとき、この人なくして語れない。
塩さん。梅新アサヒビアハウス黄金時代の店長でした。
  
小柄で腰が低く接客がうまかった。笑うと目がなくなるような細い垂れ目でした。ホールを動き回っていても目立たないのですが、これがああいう客商売ではいいのでしょう。ホールのどこかに塩さんの姿を見ると、わたしはなぜかホッとしたもので、アサヒビアハウスの空気に見事に溶け込んだ人でした。

先輩歌姫の宝木嬢から、一緒に歌わないかと誘われる前は、若い身空で毎日のように一人ででもビアハウスに出入りしていたわたしを塩さんは何と見ていたでしょう。女だてらに、一丁前に常連客が占領する立ち席にいるわたしに、しょっちゅうこっそりビールを持って来てくれましたっけ。もう時効だから白状してもいいですよね?

アサヒビアハウス

梅新アサヒビアハウスは当時何度か雑誌TVの取材を受けました。上は1977年週間朝日2-4号から。アサヒ名物5リットルジョッキ回し飲み。前で手をたたいているのが塩さんです。アコーディオンのヨシさん、ドイツ民族衣装を着ているのが先輩歌姫「宝木嬢」、その横のピンクのドレスがわたし。

アサヒの歌姫バイトで留学資金を作っているわたしに
「ユーコ、今日はあそこへ行こう。」
と、9時半の閉店後に、お初天神を通った向こう側にあるお蕎麦屋で、「夕霧そば」を食べによく連れて行ってくれました。

アサヒビアハウス
   
いまでもこの老舗、同じ場所に存在することを確認しました。創業60年の「瓢店」です。 
ここの蕎麦は本当においしいのです。最後に出てくる蕎麦つゆがまたうまかった^^6時頃にオフィスを出てバイト先に直行ですから毎晩夕食抜きです。そのおいしい夕霧そばをかっぽぎながら(!)塩さんを目の前に語るは、熱きアメリカ移住の夢。いつも黙って頷きながら、目を細めて聞いてくれました。

さて、最初のエピソードでも触れましたように、アサヒでは演歌はご法度です。それでも例外はいたのでして、その一人が店長の塩さんだったのです。客入りが少ないとき、そして歌う常連もあまりいないときに、アコーディオンのヨシさんが「めんない千鳥」のイントロで塩さんを呼びます。

すると嬉しそうにツツーッとホールのテーブルの間を縫いステージへ向かって行く。ご本人は演歌ご法度を知っているわけですから、歌うのを楽しみにしているもののなかなか出番がないのです。

のっぴきならぬ事情で渡米半年後、ツーソンはアリゾナ大ESLコースを終えるや否や、日本に引き返し、しばらくの間アサヒでカムバックしたときには、塩さんはもうそこにおらず。それから再会まで26年の月日が流れていました。

「アサヒビアハウス」とネット検索したのがきっかけで、とある掲示板にたどり着き、かつてのアサヒの常連仲間の一人から塩さんへと連絡がつき、長い年月を経て塩さんから手紙が届いたときは、嬉しくて、次の帰国が待ち遠しかったものです。


後日談:2004年10月14日

塩さんとはこのエピソードを書いた後、かつてのビアハウスこと、内装がすっかり変わってしまい昔の面影がなくなってしまった「アサヒスーパードライ梅田」で、26年ぶりの再会を果たしました。

アサヒビアハウス

店長が偶然、昔ホールの主任をしていた人で、これも嬉しい再会でした。

アサヒビアハウス

80歳を超えて尚趣味の油絵を描き続けてらっしゃる。写真を見ると、んまぁ!ビアハウス時代とうって変わり、長髪を後ろで結わえたアーティストではありませんか。
この夜は、かつての常連さんたちがアサヒに集まってくれ、懐かしい懐かしい一時をみなで乾杯し、再会を喜びました。

アサヒビアハウス
後列右端に塩さん、その隣が我がオフィス時代の上司、板倉さん、赤いチロル帽を被るわたし、その後ろはマック、更に後ろが、アサヒ名物男の一人、杉ヤン。わたしの左に前中氏、これまたアサヒ名物男のコジマ氏。前列真ん中がアコーディオンのヨシさん、その左隣が我が先輩歌姫だった宝木嬢。
 
アサヒビアハウス
我が友ゴッチも初めてのアサヒビアハウス。

アサヒビアハウス
昔からの常連さん、前中氏。彼のハッピーな雰囲気は美味しいビールを飲んで歌って語らいあうこのアサヒなればこそ!

もう一度、こうしてみなさんと会えるだろうか、そんな思いで大阪を後にしたのでした。


更なる後日談: この26年ぶりの再会の1年後に、塩さんは83歳で永眠しました。

2005年年10月12日(水曜日)の日記

人生は嬉しいこと悲しいこと、日々その繰り返しです。
今回の放送(電話でのNHKラジオ出演)、大したことではないけれど、聴いていただきたい人がおりました。「あのころ、ビア・ハウス」のエピソードで登場する、我が友「塩さん」。それを聴かずに83歳の一生を閉じられました。この方なしには、アサヒ・ビアハウスは語れないと言っていいほど、わたしが誘われてバイトで歌い始めた頃は、梅新アサヒは、最高潮の黄金時代でした。

人前で初めて歌い、慣れなくて何度へんちくりんな失敗をしでかしたことか。そのたびに「気にせんでええのや。そこがまた素人っぽくてあんたのええとこやで」と渡米するまで力付けてくれたものです。

昨年帰国したとき、あの頃の仲間たちが集まってくれ、その塩さんとの連絡もとれ、26数年ぶりで再開しました。以後、ポルトガルへ戻って来てからも、時々電話をかけたり、あちらからかけて来たり。

 「今年はもう帰ってけぇへんの?」
 「塩さん、今年は無理よ。もいける娘が日本の大学に入ったからね。色々物入りです。去年に続けては帰られへんのよ。そのかわり、来年はなんとか頑張って行きます。だから、塩さんもがんばらんと」

塩さんとの会話はこの電話が最後になりました。

放送の連絡をしようと思った矢先に、奥様から知らせが入ったのです。ヘタクソで、あちこち誤字やらがあるわたしのエッセイではありますが、アサヒ・ビア・ハウスは塩さんとわたしの共有の思い出です。

あのなかに登場してくる常連さんもみな塩さんの時代からの人たち。しばらく前に、そのエッセイ集とあの頃の写真のページをプリント・アウトして、お送りしましたらとても喜び、何度も何度も読み返して往時を懐かしみ家人にも回していたとのこと。
 
報せを聞いてわたしはしばらく呆然としてしまいました。ビアハウスのあの独特な楽しい雰囲気を、わたしたち歌姫やアコーディオン弾きのヨシさん、そして常連仲間とともに、毎日当時のアサヒビアハウスを盛り上げた人です。
きっと塩さんは涙を流されるよりも、「アイン・プローズト!」と乾杯で送られることを喜ぶでしょう。
わたしは悲しまないことにしました。

めんないちどりの塩さん、Ein Prosit! お疲れさまでした。

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2015年1月26日 

本日は当時のポルト商人の繁栄を今に伝える「Salão Arabe」、アラブの間です。
スペインはグラナダのアルハンブラ宮殿を模して作られた「アラブの間」は、1862年から約20年ほどをかけて作られました。

ポルト・ボルサ宮
このドアのガラス絵は手描きで、部屋への入口として同じドアが三つあり、コーランがかかれているのだそうです。ドアをくぐるとアラベスクの世界です。

ポルト・ボルサ宮

マホガニー、ジャカランダ、プラタナなど、良質の木材が使用され、極彩色のアラベスク模様が天井まで施されており、目を奪われます。
 
ポルト・ボルサ宮
室内のアラベスク模様は、漆喰と木、そして黄色の部分は金箔が使用されています。

ポルト・ボルサ宮

↓小さな赤い模様の中には「アラーに栄光あれ(Glória a Alá)」と書かれ、青の部分には、このアラブ式の部屋を作る許可を下したマリア二世女王に敬意を払い、「アラーはマリア2世女王を加護する(Alá guarda a Califa Miriam II。Miriamはヘブライ語でマリアと同じ)」と書かれています。
ポルト・ボルサ宮

ポルト・ボルサ宮
ボルサ宮入口に展示されるアラブの間、アラベスク柱。

アラベスク様式は19世紀にはエキゾチックな趣向がポルトのブルジョア階級の間で流行し、富と権力の象徴でもあったようです。アラブの間で見られるポルトガルの象徴はポルト市とポルトガルの紋章のみ。ポルト商工会の建物が世に宮殿と呼ばれるのは、この部屋の豪華さとエキゾチックさゆえであろうかと考えます。現在もアラブの間は国内外からの主賓のレセプションや、ピアノコンテスト、コンサートに利用される国家遺産でもあります。

お時間あらば、下記をクリックして3年ほど前にわたしたちが訪れた「アルハンブラ宮殿」もご覧ください↓
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1081.html
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1086.html
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1087.html
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1088.html
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1093.html
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1079.html


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2015年1月24日 

「リスボンは遊び、ブラガは祈り、ポルトは働く」とは、ポルトガルでよく言われることです。
リスボンはなんと言ってもポルトガルの首都、華やかで歴史遺跡もたくさんあり、その点ではポルトは太刀打ちできない。しかし、昔から今に及び、リスボンに密かなる対抗心を燃やしているのがポルトで、それを揶揄しては喜んでいるのがリスボン。

こんな小噺があります。

とあるリスボンでのコンクールの賞品が、

1位 ポルト滞在 1日
2位 ポルト滞在 2日
3位 ポルト滞在 3日

え?1位がポルト滞在3日で、3位は滞在1日じゃないのかって?そうじゃないんですってば。
つまりリスボンっ子からするとポルト滞在は1日で充分、ポルトに2日3日の滞在ともなると、嬉しい賞品どころか苦しい賞品になる。それほど、ポルトはつまらない、とでも言いたいのでしょう(笑) 冗談、きついよw

大きな都市は娯楽も多く、便利な面も多々あるでしょうが、こじんまりとしたポルトはリスボンとは違った魅力があり、人も親切です。また、「ポルトは働く」と言われるように、ポルトワイン業者を中心にポルト商人の贅を表したのが、アラベスク様式の「アラブの間(Salão Arabe)」です。

ボルサ宮
パテオを通り、正面、大理石の階段を上り階上の部屋へ。

ボルサ宮
階上の部屋のひとつ、「ギュスターブ・エッフェルの部屋」。

エッフェルと聞けば誰でも思い浮かべるのがパリのエッフェル塔ですが、彼はこの部屋で、ドウロ川にかかる6つの橋の一つ、「ドナ・マリア・ピア橋(PonteDona Maria Pia)を設計したと言われます。

マリアピア橋

一見、 リベイラに架かるドン・ルイス一世橋と見間違われます。それもそのはず、ドン・ルイス1世橋は、ギュスターブ・エッフェルの弟子、テオフィロ・セイリングのプロジェクトなのです。二つの橋の違いは、ドン・ルイス・1世橋が二重橋になっているところです。橋がある通りは彼に敬意を表して「Avenida de Gustavo Eiffle(エッフェル通り))と名付けられています。
    
1877年に完成されたこのドナ・マリア・ピア橋は、ドウロ川にかけられた最初の鉄橋です。1600トンの鉄からなる橋ですが、ゴツゴツした鉄橋のイメージを見事に払拭した美しいアーチ型の姿をドウロ川に映しています。

長い間リスボン、ポルト間の鉄橋として使用されましたが、100年以上もの古い橋で、時速は20キロ、重量も制限されるようになり、現在では閉鎖されています。
     
写真ドナ・マリア・ピア橋の後方に写っているサン・ジュアン橋が今ではリスボン、 ポルト間の鉄道橋として使われています。橋に付けられたドン・ルイス一世、ドナ・マリア・ピアはこれらの建築を推進した当時のポルトガル王と王妃の名前。   
今回、ドナ・マリア・ピア橋を調べていたところ、面白い発見がありました。エッフェル塔が建てられたのは、パリ万博に合わせた1889年。ドウロ川に架かる二つの鉄橋、ドン・ルイス一世橋とドナ・マリア・ピア橋は、エッフェル塔に先駆けて建造されているということです。

フランスの作家、詩人のモーパッサンが生前、エッフェル塔にあるレストランによく通ったのは、そこへ行くと忌々しいエッフェル塔(彼からすると)を見なくて済むからだと、いう逸話があるほど、建築完成後、賛否両論を巻き起こした奇抜なエッフェル塔のデザインは、すでにポルトガルの二つの橋で実験済みだったということになります。

この三つ建造物を見比べると、同じプロジェクトチームが関わったことは、それらのデザインからして一目瞭然です。

次回は「アラブの間」を紹介します。

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2015年1月18日 

ポルトガルを「鍵社会」とわたしは呼ぶ。何しろ持ち歩かなければならない鍵が多いのである。下はわたしが外出時に肌身離さず落ち歩くキーホルダーだが、この鍵をうっかり家の中に置き忘れ、ドアを閉めてしまったがためのハプニングは数々あり、後に記しますが、参ったものである。

keyholder1.jpg

開くと中はざっとこんな感じ。
keyholder2.jpg

フラットの建物に入るためのメインドアの鍵、自分のフラットドアの鍵二つ、車庫通路の門の鍵、それに郵便箱の鍵。この中に車のキー、車庫のキーは入っていない。キーホルダーを開いたときのジャラジャラ感が重ったらしい。

この鍵類なのだが、つい最近、このホルダーに夫に内緒の鍵が一つ、加わったんであります。え?え?spacesisさん、そんな秘密のこと、ブログであげちゃってええのん?ええのええの、ドンドンあげちゃうの(笑)

なんの、どこの鍵かと言うと、ジョアキンおじさんの鍵なんであります。

わたしの好きな古いコメディ映画に「アパートの鍵かします」なんてのがあります。これまた、わたしが好きな二人の俳優さん、ジャーリー・マクレーンとジャック・レモンなのですが、自分のアパートを上司の浮気場所として提供し昇進するちゃっかり者が、あろうことか上司の浮気相手に恋するという話。興味ある方はおググリ(googleでの検索)遊ばせ。

で、「小金持ちのジョアキンおじさんから合鍵、もらったの?」
はい、そうなんであります。おっと、勘違いしてもらっては困りますぞ。鍵は鍵でもおじさんとこの畑に入る鍵ですがな(笑)
古くから拙ブログにお出で頂いている方はご存知でしょうが、我が家で買っている5匹猫のほかに、数年前からご近所のジョアキンおじさんの畑に棲みついている猫たちのエサのめんどうをみているのだが、これが半端な数じゃない。多いときで10匹以上、現在は黒い子猫も入れて8匹、健在なのであります。

自分とこのねこの数を上回っており、夫にときどき一言二言いいたそうな目で見られるのですが、放って置けない性質で、雨の日も風の日も、自分が風邪で寝込んだ日も決まった時間にエサと水をもっては出かけます。

かつては開け放しにしていたおじさんの畑、ブタドロボー、ニワトリドロボーに何度も入られるもので、ついに頑丈な鉄のドアを取り付けてしまいやんした。それで、エサやりは畑のそばの歩道の隅で、となっていたのですが、わたしが合図の呼び声をかけても塀にのぼって出て来られないのもいるわけです。そういう猫には、仕方ない、アルミホイルで包んだエサを塀の外からポイと中に放り込むのであります。

ジョアキンおじさん、見かねたのか(と言うけど、自分とこの畑の猫やからねぇ^^; でも、今はエサをあげません)、「ドナ・ユーコ、いつでも畑に入っていいぞ。」と、なんとまぁ、合鍵をくれたのでしたっけ。結局エサやりはわたしなのね、と笑うっきゃないです。

joaquinojisan2.jpg

新米の黒猫子猫がまだ来ていませんが、ご覧のように後方には鶏どもがネコが食べ終わるのを今かと待ち構えております。わたしが少しでも帰る素振りを見せると、脱兎の如く押し寄せ、猫を押しのけ来るもので、まったくもう、「あんたらlまだよ!シッ、シッ」とネコたちが食べ終わるまでそこに立って待つことになります。
ところが、です、最近、わたしのエサの合図を聞き込んでいつの間にかやってくる常連客がもうひとかた増えたのであります。

joaquimojisan4.jpg

カ、カモメちゃん^^; 畑の中の木柱てっぺんにいて猫が食べている下界を見下ろしています。
無理もない。海辺でエサを得ることが難しくなったのでしょう。海岸からかなり離れたこの区域にも最近はカモメがたくさんやってきます。

ネコたちが残したエサ、全部下においたままだとニワトリ達が全部食べますので、こうして塀の上に。

joaquimojisan3.jpg
 
ニワトリも羽があるとて、ここまでは飛べまいて、おほほほほ。

本日はこれにて。
下記は鍵にまつわるエピソードです。よろしかったらどぞ。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-date-20060701.html

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1160.html

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-758.html

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-343.html

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-320.html

追:どんだけ失敗やらかしとるねん^^;



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2015年1月15日 

閑話休題、今日は話題を「ボルサ宮」に戻します。

ポルトガル初の大規模な鉄筋建築物として建てられたボルサ宮は、内部装飾の完成も入れると1842年の施行から70年ほどを経て数人の建築家によって建築されました。

実は本日2015年1月15日、ボルサ宮はポルト商工会創立180周年を記念して、宮殿内のフラッシュ付き撮影を観光客に許可していたとのニュースがありました。行きたいところでしたが、午前午後と仕事があり、加えて今日のポルトは大雨が降ったりで天気が悪く、室内は暗いので、例えフラッシュをたいたとしてもわたしのデジカメでは大した出来栄えは期待できなかったでしょう。

ポルト・ボルサ宮
↑受付ホールの左横にある重厚な図書室。その昔、この図書室はポルト商人がここで新聞や本を読んで過ごしたが、非常に貴重な書籍や時計のコレクションや19世紀の大きな地球儀などが置かれてあるので、観光客は中に入って見ることはできない。

世界各国から訪れる観光客は年間22万人を越えるボルサ宮、正面パテオから↓、案内人がついて、撮影はフラッシュなしです。案内時間は夏場は観光客が多いので、ひっきりなしに人が集まった時点で始まりますが、人の少ない冬場のこの日、わたしと男女一組の3人だけで、案内はポルトガル語でした。

ポルト・ボルサ宮

「ナショナル・パテオ」と呼ばれる。上に見られる紋章は代表的なポルトガルとの商業友好国の紋章。床はポンペイのグレコローマンスタイルにならったセラミック・モザイク。
ポルト・ボルサ宮

ポルト・ボルサ宮
四隅にはそれぞれ違ったシンボルが見られる。

ポルト・ボルサ宮
鉄線とガラスの美しい明り取りの天窓が特徴だ。

パテオは近年、年に一度開催されるEssencia do Vinho と言うワイン・フェスティバル等のイベント場にも使われる。
このフェスティバルではその年のワインのトップ賞が選ばれる。
ポルト・ボルサ宮

下のイヴェントはポルトでは有名なConfraria do Vinho do Porto(コンフラリーア・ド・ヴィーニュ・ド・ポルト)のセレモニー。ちょっと見て「ぬぬ?」と感じるところはありませんか?(笑)これに反応する人は、ダヴィンチ・コードファンでしょうね。

ポルト・ボルサ宮

Confrariaと言うのは「社会的機能を持つ友愛の連帯組織」とでも言うのでしょうか。「結社」とも言えましょう。日本語に直訳すると「ポートワイン友愛組織」となります。「友愛」なんて、どこぞの元総理をつい思い出したりしますがな(笑)なにかしら「フリーメーソン」じみたところが無きにしも非ず。しかし、メーソンではありませんぞ。ポルトの商工会議所と言えば何と言ってもワイン業者がメイン、ボルサ宮の商工会議所は実質ポートワイン業者が牛耳るでしょう。

さて、ボルサ宮内でのこのセレモニーをご覧あれ。

ポルト・ボルサ宮
ボルサ宮内の一室「Sala doTribunal(審判室)」での入会承認式。

メンバーもそうそうたる面々です。
 
ポルト・ボルサ宮
モナコ、アルベール2世大公。   

ポルト・ボルサ宮
カバコ・シルバ現ポルトガル大統領

そしてこの方、元サッカー選手、フィーゴ。
ポルト・ボルサ宮

フィーゴの参入式の様子についてはこちらで書いています。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-788.html 「あのルイス・フィーゴが結社参入!」 

本日はこれにて。次回はボルサ宮の最も美しいサロンの案内です。

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2015年1月13日 

前回、ボルサ宮前の小さな広場にあるエンリケ航海王子の立像に話題が逸れましたが、逸れついでに、アップロードし忘れていた「エンリケ航海王子が目指した先は?」のPart2をあげます。Part 1はこちらでどぞ↓

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-454.html> 「エンリケ航海王子が目指した先は(1)」

14世紀初頭、フランス王フリップ4世のもと、異端、偶像崇拝の罪名を科せられ、弾圧を受けたテンプル騎士団はジャック・ド・モレーを最後の総長(グランドマスター)に壊滅するわけですが、騎士団の財宝はどこぞへと消え、残った団員たちも他の騎士団に加わったり、引退するものがいたりしましたが、ポルトガルのテンプル騎士団はローマ法王の許可を得て国王の庇護の下、「テンプル騎士団」から「キリスト騎士団」と名前を変え生き残りました。

なにしろ、数世紀にも渡ったレコンキスタ運動(イベリア半島のイスラム教徒占領からキリスト教徒の手による奪回運動の戦いのこと)の成就は、テンプル騎士団の助力無くしては実らなかったのですから、ポルトガル王はこのあたりを突いてローマ法王に話を持ち出したのではないか?もちろん、トマールのテンプル騎士団修道院に秘匿され騎士団の財宝の一部が法王には献上されたことであろう、と言うのはspcersisの勝手推測です(笑)

テンプル騎士団については、左カテゴリメニュー欄の「spacesis, 謎を追う」で綴っていますが、興味のある方はどぞ。

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1072.html 「トマール:テンプル・キリスト騎士団修道院(1

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1074.html 「トマール:テンプル・キリスト騎士団修道院(2  

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1094.html 「テンプル騎士団聖堂、再び
 

さて、テンプル騎士団の後継、キリスト騎士団の総長となったエンリケ王子は、騎士団の財産を冒険事業の資金源とし、新しい船の造船にも力を注ぎました。

エンリケ航海王子
大航海時代に使われたastrolabio(アストロラービオ)こと、天体観測儀。我が家にはこのレプリカがある。    

エンリケ航海王子
遠洋航海用として開発された三角帆と三本マストを持つカラベラ船(carravela)。

大航海時代初期、エンリケ王子の命を受け初の海外遠征隊としてサグレスから未知の大海に船を漕ぎ出した王子の従者、ジョアン・ゴンサルベスとトリスタン・テイシェイラたちは、大西洋中のマデイラ諸島を、そして後に大西洋の中央にあるアソーレス諸島を発見します。(現在もこの2諸島はポルトガル領である)

1444年に遠征隊はカーボ・ベルデとセネガル川(現在のダカール近辺)に到達しアフリカ南部から大量の金を得ることになります。1444年から1446年にかけ、約14隻ほどの探検船がエンリケ王子の命にてポルトガルから出港し、1460年にはシエラ・レオーネ(ギニア)に到達。この年、エンリケ王子はサグレスにて66歳の生涯を閉じるのですが、王子の騎士団はアフリカ沿岸遠征のシエラ・レオーネまでの2400キロメートルを南下したことになり、ポルトガルはこうして大航海時代の幕開けとなります。

さて、エンリケ航海王子のこのアフリカへの果てしない冒険、探検事業への夢を駆り立てた源泉はいったい何だったのか?

一つには12世紀十字軍遠征の時代から語り継がれて来た「プレステ・ジュアン」伝説です。(Preste Joao。英語ではプレスター・ジョンと言う)

イスラム勢力との苦しい戦いの中で、「プレステ・ジュアン」と言うキリスト教徒がアフリカに王国を作っており、やがて彼の軍が十字軍の援助にやって来てイスラム教徒を敗北に追いやると言う噂が十字軍兵士達に希望をもたらしたことから始まります。この噂は時を経て伝説となり17世紀までキリスト教徒の間で流布されました。

イベリア半島をイスラム勢力に長い間支配されていたスペイン、ポルトガルは、国土奪回運動(レコンキスタと言う)を展開し、ついにイスラム教徒を半島から追い出すことにこぎつけたわけです。

キリスト騎士団のグランドマスターでもあったエンリケ王子はプレステ・ジュアン王国の力を借りて、キリスト教徒の(と、取りあえず書くのだが、騎士団のマスター、エンリケ王子は果たしてキリスト教徒か?もしかすると、テンプル騎士団同様、キリスト教徒と言うのは隠れ蓑であって、事実はローマ・カトリックからする異教徒の可能性はないかと思うところあり)ひいてはポルトガルの勢力を拡大したいと考えていたようです。エンリケ王子のアフリカ沿岸遠征は、「プレステ・ジュアン王国」を探すことでもあったのでしょう。
 
エンリケ航海王子
プレステ・ジュアン王国が描かれているアフリカの古代地図。エチオピアの辺りに位置している。                    
エンリケ航海王子
12世紀にプレステ・ジュアンが使者を通してビザンチン皇帝に送ったという手紙が出回った。その絵。

二つ目は、マルコ・ポーロの「東方見聞録」に書かれてあった「黄金の国・ジパング」、わが国です。黄金はいつの世にも権力者を魅了してきました。エンリケ王子はアフリカに沿って行けばインド洋に出て、やがて中国大陸にたどり着き、その東方のジパングを発見できると考えていたようです。
                             
黄金への夢はアフリカ南部から大量な金を獲得できるようになったことでとりあえず叶えられたわけですが、エンリケ航海王子の死後もポルトガルは更にインド航路発見を経てポルトガル世界海洋帝国となって行きます。ちなみに、インド航路発見をしたヴァスコ・ダ・ガマもキリスト騎士団の騎士でした。

ポルトガル語でO Navegador(オ・ナヴィガドール=航海者)という代名詞を冠するエンリケ王子の目指した先は、あるいは黄金の国と言われたジパングであったのかも知れません。 
     
さて、最後にエンリケ航海王子は、キリスト騎士団総長、グランドマスターとして騎士団に多くのアフリカ沿岸遠征命令を下したのですが、意外なことに、遠征航海そのものには参可してはいないのです。王子は机上で夢を描き、駒を動かしていた、という事実にわたしは少し驚かされたのでした。   

下記、航海王子が人生の後半期を過ごしたと言われるサグレス旅行記です。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1118.html「サグレス・航海王子の夢の跡」                                               
では、明日はボルサ宮です。
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2015年1月12日

晩餐会やピアノコンテストで何度か入ったことがあるボルサ宮(ぼるさ宮殿とも言う)ですが、きちんと案内してもらったことがありませんでした。

内部は撮影禁止となっています。何とか内部の写真が撮れないものかと出かける前に電話を入れて確認すると、フラッシュ無しだったらとOKをもらい出かけたのは昨年12月。今日はそのボルサ宮を紹介します。

ポルトガル語で「Palacio da Bolsa(パラシオ・ダ・ボルサ)」と呼びます。Palacioは宮殿、Bolsaは「株式・証券取引所」を意味します。はて?宮殿と株式、証券取引所とはこれいかに?この疑問への解答は後にとっておきましょう。
ボルサ宮はすぐ横のサン・フランシスコ教会に隣接しています。

ボルサ宮
写真左が現在の教会の一部、右がボルサ宮。

左の部分はかつてそのボルサ宮も含む教会の修道院だったのですが、19世紀初期に王位継承を争ったポルトガル内戦が起こり、その時に修道院は現在ボルサ宮が建っているところが焼け落ちてしまいます。この焼け地をドナ・マリア2世女王はポルト商工会にに寄贈、そうして建築されたのがボルサ宮です。

内戦の1エピソードはこちら→http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-556.html「メモリア海岸のオベリスク

さて、ボルサ宮内部は2、3回くらいの記事になると思いますが、ここでちょっと横道に逸れます。下がドウロ河岸、リベイラもすぐ近いところに建つボルサ宮なのですが、正面は「Praça do Infante D.Henrique=ヘンリケ航海王子広場」という小さな広場になっています。中央にはどこかを指差したエンリケ航海王子の像が立っています。

ボルサ宮

この像についてのこんなエピソードがあります↓
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-454.html>「エンリケ航海王子が目指した先は(1)」

と、ここまで来て、あれ?「航海王子が目指した先は?」の後編をまだ、ブログに移動していないことに気付き^^; タハッ!わたしとしたことが!
後ほど、アップロードといたしますれば。とりあえず、Pt.1をどうぞ。
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2015年1月7日 

さて、12月に入るなり結局4週間ほど飲まず食わずで、いよいよ諦めなければならないのか、と思ったほどの重病に陥った我が家の一番若いゴロー猫、運よく回復しました。

少し、自分用に簡単なメモを残しておきたいと思います。

血液検査を3度しました。最初はかかりつけの獣医で、他の2度は大学病院で。エコグラフィー検査(日本語で超音波検査?)のためと点滴を受けるために大学病院には一週間ほど入院しました。エコグラフィーの結果は問題なし。しかし、2度目の血液検査では、夫が検査結果をみて提議し、しぼった検査の結論がHaemobartonela Felis, 日本語で「猫ヘモプラズマ感染症」らしいと診断が出ました。

夫に、人間を診るのを止めた後、犬猫を診る?なんて冗談を言ったりしてました。

ヘモバルトネラ症の原因は、ヘモバルトネラ(ヘモプラズマ)という寄生虫の感染です。それが猫の体内に侵入すると、血液の赤血球に付着し赤血球を破壊するのだそうです。最後の血液検査では、赤血球だけでなく白血球の数値も減っているとの報告を受けました。
猫を飼っていない人は興味がないでしょうから、この病気について詳しいことを知りたい方は、下記のサイトへお出かけください。
http://www.jabfid.jp/disease/Pages/infection_hemoplasma.aspx

ゴロー猫がホンの数粒ずつドライフードを食べ始めたのは病気になって4週間ほど経ってからです。観察してみると、水も飲みたくても飲めなかった状態だったような気がします。これは深刻な食道炎が発症していたのではないかと勝手判断。

一ヶ月近くも飲まず食わずで、「大きなナマコ~」とわたしが遊びながら抱いていた元気な頃と比べてガリガリになり、お尻のあたりの骨が浮き出てる感じでした。「にゃぉにゃぉにゃぉん」のおしゃべりも全くなくなり、四六時中ただひたすら寝るのみでした。

その間で苦労したのは最後の2週間の日に2回、2種類の口径薬です。これが正に毎回ゴローとわたしのバトル。どんな方法を使っても飲みこもうとせず、むりやり薬を押し込むと、口から泡を吹くのです。薬を飲まないことには、ひょっとして治るかもしれないのも治るはずはなし。ネットで検索してみると、同じ症状の多くの猫ちゃんは亡くなっています。心を鬼にして無理やり飲ませると言う毎日でした。

日本語授業、影絵作成、ゴローの退院後の点滴通院、薬バトルと忙しかった年末年始でしたっけ^^;

猫
まだ本調子ではないが、もう大丈夫かな?日向ぼっこをするゴロー。血液検査、エコグラフィー、毎日の点滴で、腹ハゲ、腕ハゲ、喉ハゲです。体重が2割落ちました。

猫
こちらはここ数日の寒さでヒーターに引っ付いている3匹。お尻ならず鼻先をあぶってるなり(笑)

本日はこれにて。

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2015年1月6日 

暖かいと高をくくって薄着をし、初日没を見るのだ、などと言いもって海岸に出かけた後、情けないことに実は風邪を引いて二日から寝ておりました^^;一日中寝ているとさすが背中が痛くなり、起きてはちょびっとブログをとぎれとぎれ書いての更新でありました。我ながらよくやるよ(苦笑)

今日から仕事始めです。咳が残っているものの、エイヤっと参りますぞ!

来週からは市立図書館で日本語新コースを開講します。土曜日の午前中はYY塾で2クラスがあるので、更に午後までもとは、体力無けれど根性で突っ走ってるわたしです、さすが毎土曜日午前午後の授業となるとぶっ倒れるのは目に見えています、そこで新コースは水曜日の夕方にしました。

日本語教室

図書館内の教室が確保できなくて、ギャラリーの隅を使っての図書館での最初の日本語クラス。これはこれで楽しかった^^
日本語教室

平日の4時半から6時まで、そんな時間帯ですからせいぜい6、7人のこじんまりしたクラスで行けるであろうと思っていたら、うわ!ふたを開けてみてびっくりです。すでに16人の申込者がいるそうで、ただいま、それら連絡対応に追われているところで、ポルトにおける日本語熱の高さをこのところ実感することが多くなりました。

授業料は安め、全コースまとめて払う必要なし。なぜならば、今のポルトガル、色々経済的に難しいのです。まとめても大きな金額ではないと思う人もいれば、そうでない人もたくさんいます。で、途中で止めたければそのまま去ることもできます。

こんな風ですから、これらの授業料から、税金、往復のガソリン代、車の駐車料金等を差し引くと、テヘ、こんなものかぁ、ってな具合なのですが、日本語を教えることでポルトガルの人たちと接することも楽しく、続ける理由のひとつです。
これまでの経験で、最初20人いて最後まで残るのは4分の1です。週に1度というのは、生徒自身の多少の努力なしでは授業についてくるのが難しい。初めのうちは興味があり、文字をしっかり覚えてくれるのですが、授業が進むにつれ、宿題をしてくる生徒としてこない生徒の差が出てきます。この、生徒の興味を果たしてどこまで持続させてひっぱっていけるか、が難しいところです。

さて、今期はいかなる新手でまいろうか?これを思い巡らすのも楽しいのであります。

本日は、これにてごめん^^
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2015年1月3日 

拙ブログでも取り上げたことがある隣町Matosinhosの海辺に面したレストラン、Boa Nova(ボア・ノヴァ)。
実は老朽化でここ数年見捨てられていました。
Casa de cháと言う様に、Tea Houseでもあった前身ですが、このレストランが有名なのはポルトガルを代表し、ポルトを拠点にする著名な建築家アルヴァロ・シザ(Alvaro Siza)の手になる建築だからです。

わたしの印象では、シザの建築は多くに直方体を用い、シンプルな直線と空間を生かした透明感を放つデザインです。
海岸を訪れる度に朽ち果てていく建物を見ては、もったいないなぁと思っていたのですが、この度、建物に少し手を入れて、同名を引き継ぎレストランとしてオープンしました。

レストランBoa Nova
岩場に建てられ目前に大西洋が広がる。

レストランのシェフは北部では名の知られた、ルイ・パウラ氏。ポルト旧市街にあるレストランDOPとドウロ川上流のDOCの持ち主でもあります。わたしは、2010年、ポルト市国際親善協会が共催したJapan Weekのコーディネーターとして手伝った際に、ルイ・パウラ氏の市内レストランDOPPもこの行事の一環として文化交流をしましたので、その時、打ち合わせで氏に何度か会いました。
おいそれとは入れない高級級レストランですが、Japan Weekのスタッフとともに、昼食の招待を受けたことがあります。

dop4nin3.jpg

左端がRui Paula氏。Japan Week2010のスタッフ、市のMarta嬢とOちゃんと共に。

レストランDOPは下記拙ブログでも案内しています。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-912.html

話をBoa Nova に戻しまして、所在地は、元日に日没を見に行ったと同じ場所にあります。
テーブルの予約は必須、費用は一人最低60€(9000円前後)と言われますが、フルコースでワイン、デザート、コーヒーまで行くとなると100€は越すでしょう。DOPもそうでしたが、ワイン選びはソムリアがアドバイスすると思います。

レストラン内の建築とインテリに興味がありますが、これではそう簡単に入るわけにはいきません。以前はレストラン時間外はティーハウスとしても機能していたので、割りと入りやすかったのですが、今回は一般人にはかなり敷居が高い。恐らく上流客を対象に造られたのでしょう。シェフ・ルイ・パウラ、商人です。

でも、この建物は確か国立記念物になっていなかったっけ?と思い、検索してみると、営業時間外に予約でグループにて内部見学の案内をしてもらえるとのこと。見学料は6ユーロ。しっかりしてます^^;
暖かくなったら一度申し込んでみたいと思っています。

トップの写真はわたしが撮影しましたが、以下、ネットから拾ったのをいくつか紹介します。

レストランBoa Nova
シザ独特の白い方形と階段の直線が美しい。

レストランBoa Nova
数メートル先に波が打ち寄せます。

レストランBoa Nova
ふんだんに木を使った贅沢な落ち着いた寛ぎ場。

レストランBoa Nova

レストランBoa Nova
海に沈む夕日を眺めながらの食事は素敵なことでしょう。

では、また。

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2015年1月2日

ポルトの海岸

いつもは近所に住む、独身の夫の兄が加わる元日の昼食ですが、今年はその義兄が大晦日からAveiroの姉宅へ出かけたので、夫と二人だけの静かな昼食でした。TV番組も興味のないものばかり。そんなんで、「海岸へ散歩に行こう!」の夫の提案に、「寒いに~」と言いながらも重い腰をあげて行ってきました。

ポルトの海岸

天気のよい元旦の海岸は、家族連れ、恋人同士の散歩するたくさんの人でいっぱいでした。暖かいとは言えませんが、海の風は冷たくなくて心地よく、海岸沿いを少し歩いて、その延長線にある隣町Matosinhos(マトズィーニュス)に足を延ばしました。

ポルトの海岸
この巨大な赤い網がポルトとマトズィーニュスの境界線です。グルッと回り道をして、可動橋を渡りLeça da Palmeira(マトズィーニュスの海沿い区域)まで。

ポルトの海岸

わずか10分ほどの距離ですが、冬の日暮れは早い。日没が始まっていました。
ポルトの海岸

ポルトの海岸
日没を見に、岩の上にしばしたたずむ人影も情緒あり。

ポルトの海岸
今、海に触れんとする太陽。

ポルトの海岸日没
岩の合間に沈もうとする太陽

わたしも岩場に登ってみました。ヨイコラショ。

ポルトの海岸
さすが海から吹く風は冷たく、暖めあうかのように抱き合いながら日没を見る恋人たち。

ポルトの海岸
岩場から降りようとしたら、ちょうど礼拝堂の裏にあたり、十字架の上に宵の月が。

ポルトの海岸日没
燃え尽きるかのような残照。

家でのんびりもいいけれど、こんな元日も悪くはない。2015年、いい年にしたいと思います。

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2015年1月1日 

yugure2014.jpg
2014年大晦日の夕暮れ。

ポルトは雲一つない真っ青な空で元旦の朝を迎えました。
時折、最近エサを求めてこの区域に集まり始めたカモメが白い直線を描いてゆったりと空を横切って飛んで行きます。今年も穏やかな元旦を迎えられたことに感謝し、みなさまにとってもよい一年になりますよう、願っております。

shinnen1.jpg
例年通り、暖炉の上に正月アイテムを並べてみました。

思えば、古くは右リンク欄にあるホームページ、そしてこのブログを通し、日記もどきを公開し始めてから足かけ11年になっていました。パソコンの右も左も分からないまま、昔とった杵柄のタイピングの腕だけを頼りに、我がモイケル娘に手取り足取り教えてもらい、ホームページなるものを始めたのが最初でした。10年前2004年晦日の日記にこうあります。

2004年12月30日(木曜日)

ただいまと 突然帰国の子の笑顔 今朝の目覚めのすがしきことよ

へたクソだけど、ご勘弁(笑)
数日前に見た夢、台所で食事を作っていましたら、突然ドアが開き、
「ただいま~」と娘の顔が!
「えええ!あんた、どうしたん!」
「うん。宝くじ当たった。で、それで前触れなしで帰ってきてみた^^」と。
さすが、欲深きかぁちゃん、ちゃんと宝くじが当たったオチまでついてる、などど言うなかれ(爆)
夫にその夢話をして、二人であったかい気分の朝だったのでした(笑)
息子はと言えば、バイトが年末まであるとかで、すでにリスボンにお戻り。今年は結婚して初めて二人きりのお正月になりそうです。


この年の夏に我がモイケル娘を日本の大学入試に送り出したのでしたが、日記をアップし始めたのは2004年の6月、モイケル娘が日本へ出陣(!)する前です。彼女を6月末日に送り出してしばらくしての日記、

2004年7月13日(火曜日)「ネコの砂さらいと生きること」(!)

子育てが済んだらその時間であれができよう、これができよう。この6匹のネコたちが(当時は6匹いた。いなかったら、朝一番、眠気まなこでトイレの砂を片付けんで済むし、さらに日本語教室で生徒が家に出入りするので、
匂いを避けるために日中しょっちゅうトイレ砂をさらわんですむ。(我が家では大トイレが二つ、小トイレがひとつあるのでありまして、人間のトイレですら、二つというに)えさ代だってバカにはなりません。
そう考えることは度々ある。子育ての方は、「そう考えることが度々あった」と過去形で言ったほうが正しいかもしれません。もちろん、これで親としての役割が終わりだとは思っていないけれども、一区切りついたとは言えるでしょう。
さぁ、あれもできるし、これもできるぞ!好きなことをして充実した時間を持とう!人生はこれからだ!

と、ところがですね、なんといいましょうか・・・そう行かないんですよね、これが・・・
もう、毎日昼ごはんを食べに学校から戻ってくる子がいないし、食事をつくる手間がはぶけて、時間は十分あるはず。それなのに、なぜか家の中をウロウロしてばかり、一体どこが充実しているのだ・・・


こんな一昔前でしたが、この10年の間に、娘に手ほどきを得て始めたホームページやブログがきっかけで、何件かの記事執筆の申し込みがあったり、またラジオで声の出演も何度かすることができました。縁あってロンドンの小さな出版関係社からの誘いで、写真込みのポルトガル案内記事執筆も、編集者がお手伝いしますからと言われ、こわごわ始めたのがいつの間にか7年以上になっていました。

毎週土曜日の補習校勤務を退いた後も、気付いてみると土曜日のその時間帯は自分の日本語教室にあてがわれ、総合的に我が人生は、なんだか歳を取るごとに活発になってきたように思います、これまでは(笑)

先のことは誰にも分からないけれど、2015年も含めて、「あぁあ、楽しかった~」と終えられるような人生が織り成せたら本望とは、元旦に思ったことです。
今年もわたしなりに精進して参りますので、みなさま、どうぞよろしくお願いいたします。

では、また明日!
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