2015年2月27日 

クリスタル公園内にあるアルメイ・ガレッテ市立図書館の夕方コースを開講して2ヶ月になる。

授業が終わる6時には、外が真っ暗だったのが、日々日が長くなり、このごろは夕闇が迫りかかる頃で、図書館を後に足早に駐車場に向かおうとすると、木々の間からこぼれる夕焼けの美しさについ目を奪われ、教材カバンを提げながら、その足を園内でも一番見晴らしのいい場所へと運んでみる。

jardim_cristal

ドウロ川にかかるアラビダ橋の向こうは大西洋。左側は隣町ガイアだ。今、日が沈もうとしている。絵に描かれたような赤く染まっ景色に見入る。

jardim_cristal
 
と、帰路につこうと体の向きを変えたわたしの前を、孔雀が横切ろうとしている。

jardim_cristal

バッグから取り出したカメラを向けると、「なに?」とでも言うかのように首をまっすぐ伸ばし、こちらに視線を向けてくる。うっ!お、襲ってこないかしらん?そう思いながらも何度かシャッターを切った。

jardim_cristal

時にはその美しい羽根を広げて、公園を訪れる人たちを喜ばせてくれる、クリスタル公園の主の彼は誇り高い。わたしの目の前でも何度か見事な姿を見せてくれた。引きずる尾もまた色鮮やか。

こんな夕暮れ時に、公園などへ来ることはまずないわたしだ。なんだか得をしたような気になり、疲れも吹っ飛んだ。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年2月25日 

うっかり携帯電話をバッグに丸一日入れたままになることが、ちょこちょこある。わたしの携帯利用は、日本語関係と夫との緊急連絡に限られている。

今朝のこと。居間から自分の部屋へ戻ると、バッグの中から携帯のメッセ音が聞こえてきたので、慌ててバッグから取り出した。
「Dear Yuko, Can we start lesson from 12:00? Is it possible?」
のメッセージが二度、マセラティの君から入っている。

ん?12時からって、今日日本語レッスン、あったっけ?と、慌てふためいてカレンダーを見ると、あちゃ~、てっきり明日かと思っていたのが、今日ジャン!通常は10時から始まる日本語レッスン、もう9時45分ではないか^^;

いいもなにも、勿怪の幸い。今日の午前中は日本語なしとのんびり構え、まだパジャマ姿なのではあった(笑) 「Ohayou gozaimasu.12jikara ok desu」なんて、返信いたします。 助かった^^;
近頃こういう思い込みが多いので気をつけなければ。
Spaさん、粗忽は元からじゃないかって?それを言っちゃ、おしまいよ^^

さて、本日は久しぶりに新しく開拓した、ポルトのレストランをご紹介します。

前回記事、土曜日の出来事のあと、せっかくダウンタウンまで来たのだからと、夫の提案で、俗にライオン広場(Praça dos Liões。下の画像。正式名はPraça de Gomes Teixeira)と呼ばれる辺りのレストランへ出かけてきました。

praca_lioes.jpg
ダウンタウン、クレリゴス塔の近く、ライオンの噴水がある広場です。

右側に見えるのは、かつてのポルト大学理学部の校舎でしたが、現在はReitoria、大学長がいる
建物になっています。

ワインバー&ステーキハウス「Reitoria」はこれに絡んで付けられた名前で、2013年の秋にオープン、この噴水の向かいにある細い路地を入ってすぐにあります。

reitoria

レストランは19世紀に作られた建物で近くにあるカルメリタ教会の一部だったそうです。ステーキハウスに改造する際は、できるだけ建物の特徴と古風な雰囲気を取り入れるよう工夫を凝らしたそうです。
左側の狭いドアを開けるとパテオです↓

reitoria

一階は、フォカッチャと呼ばれるイタリアのパンのサンドイッチが食べられるワイン・バー。

reitoria

夫の知人の息子さんが料理人さんをしているというので、以前フォカッチャサンドイッチを食べに来たことがあるのですが、今日は2階のステーキハウス案内です。

reitoria

スペースは広くないが、落ち着いた雰囲気だ。
三角の天井には明かり取りの天窓がたくさん。天気がいい夜は星が見えるかも。

reitoria 

ポルトガルのサラダと言えば、塩、オリーブオイルにヴィネガーをかけた質素な味付けが定番。わたしはそれにすっかり慣れて、日本に帰国するとなぜか、たまらなくその素朴なドレッシングが恋しくなるのだが、このサラダドレッシングはとてもおいしかった。
reitoria2.jpg

わたしが頼んだのはマスタード入りのお肉、それにリゾット。
reitoria9.jpg
わたしにとってはちょうどいい量だが、ポルトガル人からすれば、とても足るまい(笑)

reitoria10.jpg
リゾットはクリーム味。クリーム抜きのほうがいいとは、わたしの感想。
 
panacota.jpg
デザートに、生チョコレートつきのパナコッタ。

BGMのジャズもいい。
生ビールもいれて一人当たり30ユーロほど。一階のサンドイッチは10ユーロくらい。

下記、インフォメーションです。

Wine Bar &Steak House 「Reitoria」
住所:R. de Sá de Noronha 33、Porto
営業:火~日曜日 12am-12pm
日曜日は休日

本日もありがとうございました。
お時間あらば、ランキングクリックをお願いできたら嬉しいです。

では、また明日!


にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年2月22日 

昨日はいつもの通り、ラパ教会(Igreja da Lapa)の通りに車をとめ、目の前の細い道を入った。毎週土曜日は、10時から1時までの3時間を、Oちゃん宅の一階である我らのYY塾で2クラスの授業をする。グループ授業の面白さに目覚めた近頃のわたしだ。


授業が終わり、「センセ、マッタ、ライシュ(先生、また来週)」と生徒たちの挨拶を受け、塾を後に車を止めていた場所に戻ると、げ!・・・・なんとまぁ、わたしの車と前の車の車間が20センチほどしかないではないか!スペースが十分あるっちゅうに、なんちゅう止め方をしてくれるの!

いえね、苦手な縦列駐車もやっと近頃できるようになり、平坦な道ならもう焦らないで車を出せるのだが、ここ、坂道なんよ・・・(汗) わたしのことゆえ、なにかの拍子に、ポコンと前車にあてないとも限らない。それを考え始めると心臓がドキ、ドキ、ドキ・・・・

とにかく一回やってみよう、と不安な面持ちでエンジンかけバックしようとしたら、逆に前にズと進んでしまい、大いに慌てた。車を出てみると、更に縮まった車間距離!あちゃ~、だめだ、こりゃ。授業が終わる少し前に外出したOちゃんのご主人、帰ってこないかなぁ、お願いするんだが、と思い、10分ほど様子をみてみたが、兆しなし。仕方がない、夫を呼び出す最後の切り札だぃ。

ケータイから連絡すると、わたしのドジさ加減をよく知っている夫、もうこんなので保険を使うのはカナワナイとて、すかさず、「直ぐ行くからそのままにせよ」とのお達し。へえ~い。

さて、30分くらいは待つことになろう。目の前にはカフェがあるが、昼食前なのでコーヒーと言うわけにも行くまい。車内で待つのは嫌いな性分。そだ。以前から気になっていたものの、なかなか歩くことができないできた。この辺り、確か「Monte da Lapa(ラパの山)」の話を小耳に挟んだことがある。

そこで、この機会に歩いてみた。

monte_Lapa

ラパ教会があるRua de Antelo Quental(アンテロ・ケンタル通り)には、写真の小さなカペラ(礼拝堂)があり、車で通るたびに気になりながら横目でみてきた。カペラは「Capela do senhor do soccoro」が正式名だが、一般に「Capela do Olho Vivo」と呼ばれている。

ポルトの歴史家Germano Silvaによると、この通りは昔、北部ブラガへ通じる道になり、泥棒が横行したので、ここを通るときは「よく気をつけて(=Olho vivo)」と言われていたためにこの名前が定着したとのこと。

monte_Lapa
カペラの側の坂道を上ると、狭い石畳の道が入り込んでいる。この辺りはIlha(イーリャ)と呼ばれる区域で、Ilhaはポルトガル語で「島」の意味だが、ここでは、日本語で言えば「長屋」となろうか、古くからの集合住宅地区である。

monte_Lapa

迷路のような細い小道を上へと歩いていくと、小高い丘に出た。
 
これが言うところのMonte da Lapa。
monte_Lapa

上に見える丸い建物は粉引き小屋だ。
monte_Lapa
 
狭い足場だが、ここからはポルトの町、その向こうの町も一望できるのは発見だった。

monte_Lapa

1829年から34年まで 、ポルトガルは絶対王政主義者のドン・ミゲルと自由主義者のドン・ペドロ4世(ブラジル皇帝ドン・ペドロ1世と同人物。二人は兄弟)との間に起こった王位争いでポルトガルは内戦に陥る。北部ポルトが一時期、圧倒的多数のドン・ミゲル軍に包囲され、自由主義陣営は1年にわたる篭城を強いられたが、これを「Cerco do Porto(ポルトの包囲)」と呼ぶ。

このとき、ブラジル皇帝ドン・ペドロ1世の位を息子に譲り、ポルトガルに入ったドン・ペドロは、このMonte da Lapaにある粉引き小屋に登り、街を眺めては作戦を練ったと言われる。今回調べて分かったことだ。

実は、高校を定年退職して10年ほどになるポルトガル語のディアス先生と、毎水曜日、ポルトの歴史を勉強しているのだが、先週、この「ポルトの包囲」が少し出てきたところだったので、奇遇な発見ではあった。時にわたしの方が、あそこにあれがあって、あの通りがあれで、などと知っていることもあったりするのだが、よし!来週はディアス先生にこのことを話してみよう、と密かにMonte do Lapaの発見を喜んでいるのである。

で、車はどうした?はい、半時間後に夫はこともなくスーとバックして。いやはや面目ない。

ポルトガルの内戦については下記で書いていますので、興味あらばどぞ。

メモリア海岸のオベリスク

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年2月18日 

取調室の床いっぱいに落ちた、無数の羽根のような感情の残滓。一美の掌から舞い上がった心の断片。嘘と真実。武上の目の裏で、そのイメージが、頼りない蝶の羽ばたきと重なった。寄る辺なく孤独で、真っ白で。
「やがて地獄へ下るとき・・・」わずかに抑揚をつけて、呟くように徳永が言った。
「そこに待つ父母や友人に、私は何を持っていこう」
「何を持っていくんだ?」
「え?確か・・・・」徳永は考えた。「あおざめ破れた蝶の死骸・・・」

つい、先だって読み終えた文庫本宮部みゆきの「R.P.G.(Roll Play Game)」の最後の場面の書き抜きなのですが、こんなところで、西条八十の詩にめぐり合おうとは思いもしませんでした。

やがて地獄へ下るとき、
そこに待つ父母や
友人にわたしは何を持って行こう。

たぶん私は懐から
蒼白め、破れた
蝶の死骸をとり出すだろう。
そうして渡しながら言うだろう。

一生を
子供のように、 さみしく
これを追っていました、と。

父母や友人たちが待つ場所を「地獄」とうたうところが、とても斬新に感じられ、夢を追う人の一生の儚さ、淋しさが摘み取られる心に残った詩のひとつです。西条八十と言えば、そのほか心に残っているのは小説「人間の証明」に出てくる「ぼくの帽子」です。

母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。


本を読んでいる時に、自分が知っている忘れかけた詩をその中に見出すのは、わたしにとってとても嬉しいものです。ミステリー小説でよく出会うな、と思い、過去に、長年かかってやっと、詩の出所を発見したという経験を思い出しました。下記はそのときの日記を引っ張り出したものです。


2006年11月19日

daiary
★我が日記の35年の時間のページで眠る押し花たち

高校時代には、苦手な理数系の勉強はほったらかしに、フランス文学、ロシア文学、ドイツ文学の著名なものを図書館から借り出し、片っ端から本を読みふけったものですが、どういうわけか、日本文学にはほとんど手を出した覚えがありません。外国文学の起承転結の明確なところに、わたしは心を躍らしたようです。

ところが、20歳頃に、グワッとのめりこんだのに、純文学ではありませんが、松本清張シリーズがあります。
「黒い画集」から始まり、砂の器、点と線、波の塔、霧の旗、黒革の手帳、けもの道、等等、あげるときりがなく、松本清張の全作品を読破したとは言いませんが、かなりの冊数を読みきりました。

「社会派推理小説」と当時呼ばれた清張の作品は、大人の匂いがプンプンして、まだ20歳のわたしには大きな刺激でした。もちろん、創作の話ですからそのまま鵜呑みにすることはしませんでしたが、それでも、世の中の理不尽や犯罪に駆り立てられた人の心理のようなものを、こっそり覗いたような、心が寂しくなるような、それは不思議な刺激でした。 

それらの中で特に心に残ったものは、霧の旗(清張の作品ではこれが最も心に残っており、柳田桐子という主人公の名までも覚えています)砂の器、そして、ゼロの焦点です。つい先ごろ、この「ゼロの焦点」をもう一度読み返す機会がありました。 職場の図書室の隅っこで偶然みつけたのです。

現在形で読む本を手になくしては、生活がおちつかないわたしは、このところ、日本から送られてくる本が途切れており、40年近くも前に読んだこの本をもう一度手にとってみました。そして、思い出したのです、あの20歳のころ、気になりながら、調べようもなかった詩の1節があったことを。

In her tomb by the sounding sea.  とどろく海辺の妻(彼女)の墓。

戦後の自分の職業を隠さんがため、今では上流社会夫人になっている妻が過去を暴かれるのを恐れ犯罪を犯し、冬の日本海の荒れた海にひとり小船を出して沖へ沖へと漕いでいく姿をじっと見送る夫を描く最後のシーンに出てくる英詩です。

当時、この詩がいったい誰によって書かれたものなのか、これだけではヒントにすらならず、長い年月の間にいつの間にか記憶の彼方に押しやられていたのでした。
読み終わったところで、今ならgoogleで検索できるかも知れないと思いつき、英文でそのままキーワードとして打ち込みました。

おおおお!出た!出たではないか!詩の全部に行き着きました。
この詩は、「Annabel Lee=アナベル・リー」と題されるエドガー・アラン・ポーの最後の作品なのでした。(詩全部をお読みになりたい方はWikipediaで、アナベル・リーと検索しますと出てきます)

詩、「アナベル・リー」は、14歳でポーと結婚し、24歳で亡くなった妻、ヴァージニアへの愛をうたったものだそうで、ポー最後の詩だとされています。

「とどろく海辺の妻の墓」は、その詩の最後の1節です。エドガー・アラン・ポーといいますと、わたしなどは、「アッシャー家の滅亡」の幽鬼推理小説家としての一面しか知らず、詩人でもあったとは!

Wikipediaで検索しますと、ポーの大まかな半生が書かれていますが、あれが事実だとすると、残した作品にたがわないような激しい愛の一生を終えた人です。

40年近くも経ってようやく、「ゼロの焦点」のラストシーンと、このポーの人生の結晶である「アナベル・リー」の詩がつながったのでした。

う~ん、これは清張ばりで行くと、彼の作品同様に、「点と線」がつながったとでも言えるかしら(笑)


本日もお付き合いくださり、ありがとうございました。

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年2月14日 

午前中の日本語教授業2クラス、いつもより少し遅く終え、帰宅すると1時半を回っていました。
夫は土曜日は仕事なし。わたしの変わりにネコたちに昼ごはんをあげてくれます。人間さまより先に食べる、いいご身分なのであります(笑)

土曜日の昼食はこの数年来外で食事をする習慣です。「ただいま」と帰り、教材カバンを家の中に置いて出かけました。時間も少し遅い故、よく行く近くのレストランへ向かうと思いきや、あれ?方向が違うぞ。いつもだと、車に乗ってから必ず、「どこのレストランへ行く?」と聞いてくる夫、今日に限ってそれもない。

ふむ・・・「いつものところじゃないの?ダンナさん」と問うと、「一番」を予約している、と言う。「一番」と言うのは、ポルトに数ある日本食レストランの中で、たった一軒、日本人の板前さんがいるFoz(海岸通り)にあるレストランです。

「予約って、またなんで?」と聞きかけて、ハッと気がついた!しまった!今日はバレンタインデーじゃん!昨日の午前中はバレンタインデーだと覚えていたのに、その後、自宅での日本語授業やら、今日の授業準備、ポルトガル語レッスンの予習やらですっかり失念しておった^^;

日本ではバレンタインデーは女性が男性に贈り物をし、そのお返しがホワイトデーらしいが、ポルトガルでは、「Dia dos Namorados(恋人たちの日)」と言って、今では夫婦、恋人同士、友達同士が贈り物を交換する日になっています。

この日は食事をレストランでするというカップルも多く、特に夕食時間は、どこのレストランもテーブルがないことも往々にしてあります。わたしたちも満席で、何軒かレストランを回る羽目になった経験があります。今日の「一番」も満席で夫が予約席を確保していたのは正解でした。

こんなわけで面目ないが、夫へは、遅ればせのプレゼントで参るよりほか、ありませんです^^;

さて、「恋人たちの日」と言えば、ポルトガルで必ず思い出されるのが「Lenço dos Namorados(レンソ・ドナモラードス・)」と呼ばれる伝統的なハンカチ、「恋人たちのハンカチ」があります。レンソはハンカチ、ナモラードスは男性の恋人と言う意味です。

下記は2007年2月のリニューアル記事です。

「恋人たちのハンカチ」

「恋人たちのハンカチ」の起源は17世紀に遡り、ポルトガル北部のミーニュ地方(Minho)が発祥地だと言われます。これを作るのは当時の女性のたしなみで、仕上げたハンカチを思う男性に贈ります。それを受け取った男性は、女性の告白を受けた場合、公でそのハンカチを使用し、恋人同士であることを周囲に告げます。「否」の場合は、ハンカチを使用しないというわけです。

ハンカチは真四角のリネン布に綿の刺繍糸で刺繍します。写真でご覧のように、刺繍の模様は決められています。

lenco4.jpg 恋人たちのハンカチ 恋人たちのハンカチ

ハートは愛情を、鍵は二人の心の結合を意味し、わたしのハンカチには刺繍されていませんが、この他、忠実をあらわす鳩なども使われます。また、バラ科の植物は、愛の牢獄、捕えられた愛を意味します。

もうひとつ、このハンカチに欠かせないものが、男性に贈る短い詩です。2005年にポルトガル北部Minho地方で手に入れた恋人たちのハンカチある詩2点を紹介します。

恋人たちのハンカチ

ハートの模様と短い詩は「恋人たちのハンカチ」には必須。

「Amor é a estrela que há-de guiar a minha vida」 
     (アモール=愛は我が人生を導く星)

このハンカチに刺繍されてある言葉のスペルは、故意にところどころを間違えてあるのが特徴です。赤の部分がミススペルを訂正した箇所。このハンカチは17世紀が起源ですから当時の一般女性はまだ正確に読み書きができなかったことや方言も含まれることから来ています。

恋人たちのハンカチ
「Meu coração leal merecerá grande castigo quem no quiser falsear」
(我が誠実な心に偽りを言うあなたは、大きな罰を受くるに値する)

こちらは情熱的な愛の詩ですね。しかし、ちょっと恐いかな(笑)モチーフとしてハート、そして心を預ける「鍵」も刺繍されています。

2枚とも布はリネンです。サイズは20cmX20cmで、各25ユーロ(約3500円)。
チョコレートを贈るよりも遙かにホットなポルトガル女性の熱き心情が窺がえます。自分でデザインを考え思いを託した詩を作り、何週間も自らの手で刺繍する乙女心は、現代では失われつつあるように思われます。

それでも、テレビを見ながら、バスや電車の中で、またクリニックでの待ち時間中にせっせとレース編みや毛糸編みに手を動かすポルトガル女性を時折見かけるにつけ、頬が緩んでしまいます。が、忙しくなった現代女性は「恋人たちのハンカチ」を刺繍する時間もなく、美しいハンカチは現在ではインテリアとして額に入り、往時の求愛の言葉をわたしたちは眺めるだけになりました。

かく言うわたしも、忙しさにかまけて、夫のプレゼントを買い忘れた現代女性の一人ではありました^^;

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年2月13日  

考え込まされるような本を読み終えました。

2010年に出版されたNHK「無縁社会プロジェクト取材班」による「無縁社会」です。

book

これは同年1月に放映されたNHKのプロジェクト番組でもあるそうです。

「ひとりぼっちが増え続ける日本」を序章に、各章が、行旅(旅行の間違いではない)死亡人、薄れる家族の絆、単身化の時代、社縁が切れた後に、おひとりさまの女性たち、若い世代に広がる無縁死の恐怖、と、中高齢者に限らず、若者たちをも含む、現代の日本社会の索漠たる一面を表すサブタイトルです。

行旅死亡人とは、警察でも自治体でも身元がつかめなかった無縁死を指すのだそうだ。このような死を迎えた人を実はわたしは一人知っています。彼のことについては後述したい。

今春、ポルトガル在住37年目に入るわたしは、母国で暮らした月日よりこちらでの生活の方が長くなりました。時に、日本語学習をする若い生徒たちを相手に、「昔はね、」と彼らの知らないポルトガルを話し聞かせる自分がいることに気づいて、しみじみとポルトガル在住の長い時間を感じることがあります。

母国に関しては帰国時のわずかな期間で現在の日本(と言えば大げさになるが)を垣間見るのが、関の山。よって、わたしの中の日本は、パソコンを自由に使って、ネット新聞を読めるようになる時期まで、1960年代から1980年代で時間が止まっていたのでありました。

我が子たちに語り継いできたのはその時代の日本で、そういう日本に憧れて、モイケル娘は日本の大学受験を目指したのですが、日本に住み始めてしばらくたったある日、彼女がボソッとわたしにつぶやきました。
「おっかさんから聞いてきた日本とちがう・・・・」

さもありなん。ネット新聞を読むにつけ、いったい日本はどうなっていくのかと、自身で分からなくなり、
子供たちが住むゆえ、益々母国の先行きに大きな不安を覚えるこのごろだというのが正直な気持ちです。

プロジェクトは、家庭より仕事を優先し、熟年離婚。やがて会社との縁が切れた、つまり定年退職で仕事と言う社会とのつながりがなくなったとたん、無縁化してしまったという男性から、就職氷河期で非正規雇用、未婚の都会の一人暮らしの女性、孤独死、悲惨な結末の可能性を秘めるひきこもり等を取り上げながら、「無縁死」や「孤独死」は、何もごく一握りの人たちに起こることではない。親子や兄弟などの家族が離れて暮らすという今の時代の住み方の中で、わたしたちの周囲でも起こりうることだと警鐘を鳴らしています。

同時に、すさまじい勢いで進む高齢化、雇用と家族の崩壊という現実が水面下で想像をはるかにしのぐ勢いで進行していると訴えています。

家族に囲まれ黄泉へと旅立つ最期を終えるのが今まではごく当たり前であったことは幸運のひとつだという時代が目の前に来ているような気がして、切実にこの本に反応してしまった今回のわたしであります。

親子たりとも「歳をとって迷惑をかけたくない」といった本の中の言葉が気になりました。わたしはこの言葉をこれまでに周囲の同年代の人たちから何度か聞いているのです。「親子の間で迷惑とはなんだろうか」と、その言葉の意味を考えるとき、日本の社会はもはや家族の間にても、それぞれに「個」の責任が求められるようになったのだろうかと、いささか愕然とするのです。

弱い者へのいたわりを忘れ、他人に興味を持たない自己中心の社会が、「家族」というものをどんな風に定義していくのだろうか。近年にない衝撃をこの本から受けました。

本題、ブログで取り上げるのに躊躇しながら書いたもので、文章にちぐはぐなところがあると思います。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

最後に、つい先だって見て、命とはかくも素晴らしい奇跡であるのかと感動した「Miracle of Life(生命の神秘)」受精から出産までのCG動画のリンクをはります。

http://spotlight-media.jp/article/113137193906920330?utm_source=facebook&utm_medium=social&utm_campaign=own_page

写真の説明から始まり、CG画像はページの最期にあります。

We are all the miracle。わたしたちはみんな奇跡の結果なのだ。
この本を読んだ後のCG動画は、「家族」という言葉に捕らえられ、頭の軸がグラグラぶれそうになっていたわたしにとって大きな感動でした。

下記は、上述の無縁死を迎えた知人についてのエッセイです。よろしかったら読んでください。

あの頃、ビアハウス: 「A.D.」

アサヒビアハウスの常連で名物男の一人に「AD」と皆から呼ばれていたおじさんがいました。毎日顔を出すわけではないのですが、ちょっとした風貌で人気者でした。その風貌と言うのが、 いつも広島カープの赤い帽子をかぶり、ガニまたで歩く足に履く赤い靴だけはやけにピカピカ光っているのです。
  
けっこうなお歳で当時はもう70近くだったかも知れません、小柄な人でした。赤い帽子をとると頭はこれまた靴と同じくツッルツルのぴっかぴか!

よく気をつけて見ると、両目がアンバランスなのですね。それで片足が少し不自由で、足を引きずって歩いていました。若い頃はボクサーだったと聞きました。

多く話す人ではないのですが、話し始めると江戸っ子弁かと思われるようなべらんめぇ調が入ってきます。^^顔いっぱいに浮かべる笑みは、どこか少年のような無邪気さがあってとても魅力的な小さいおじさんでした。
  
独り身だとのことで、当時は大阪のどこかのボクシング・ジムに住んでいると噂されていました。が、ADについては、誰も多くを知らないのです。他の常連たちのように9時半までの長居をしたことはなく、ビールを1、2杯飲んだ後、片足をひきずって地下にあるビアハウスのドアを出て行くADの背中には一抹の寂しさが漂っている気がしてならないのでした。

ビアハウスの歌は6時半から30分間が第1ステージ、歌姫は30分休憩です。7時半から第ステージで再び3分の休憩、そして8時半からの30分が第3ステージで、ステージの終了時には、わたし達二人の歌姫が合唱で「Auf Wiederseh´n」(アウフ・ヴィーダゼーン=ドイツ語、また会いましょうの意味)と、ドイツ語で歌い、マイクで挨拶をして9時に終了です。ラストステージの「アウフ・ヴィーダーゼン」についてはいずれ綴るつもりです。

ステージが終わり休憩に入ると、わたしは呼ばれもしないのに両腕に自分の歌の楽譜を抱えて、時々、ADの立ち席まで行ったものです。(彼はけして席をとりません)
 
 「おじさん、元気?」と声をかけると、決まって、
 「おお、あんたも元気かい?」
  
ADのアンバランスな目が、なぜかウインクしたように見えたりするのでした。

あれからふた昔以上が過ぎていましたが、ポルトガルに来てからこのかた、一度もADのことを思い浮かべたことはありませんでした。

それがしばらく前のある日、ひとづてに、そのADのことが耳に入りました。ADが何歳で、そしていつのことだったかは知らないけれども、亡くなっていたのです。路傍での孤独死だったと聞きます。

誰も引き取り手がなく、アサヒの常連の一人が引き取り彼を知る常連たちが集まっての見送りになったそうです。
  
その話を聞いてわたしは少し堪えました。
随分若い頃、20代も半ばを過ぎる頃までのわたしは、若気の至りで「例え明日、この身の命が無くなってもいい」くらいの無茶な意気込みで、日々を、あの頃にしてみたら一生懸命、しかし、今振り返って見ると無謀にしか見えないような生き方をしていたものです。「例え路傍死しても」との思いがあったのも若さゆえだったと、今にして思います。

「路傍死」
その言葉に記憶があるわたしは、A.D.のその孤独な死が堪えまして涙が後から後から出て止まりませんでした。
ADが若い頃どんなボクサーだったのか、誰か覚えている人はいないのか、今となっては知る由もありません。

「アサヒは人生のるつぼ」だとわたしが思うひとつのストーリーであります。

A.D.に、心をこめて、合掌します。


にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年2月10日 

プロフィールからお分かりのように、子供が二人います。なのにspaさん、モイケル娘さんの話題ばかりでちっとも息子さんの話が出てこないが、なにか事情でもあるのでは?なんて思ってらっしゃる人もいるかも(笑)

事情などなし。強いて言えば、我が東京息子、日本上陸間もないころは、スカイプでよくその日にしでかしたおバカな話などしたのですが、もう30をとっくに過ぎた男です。親があまり、スカイプで呼び出してどないしますの(笑)、と言う事情であります。

息子はもちろん、我がブログを知っていますが、果たしてこれをモイケル娘のように読みこなせるかが疑問であります^^;せいぜい、「お、この漢字、ボクまだ読めるよ、ママ。 I am jenius!」と来るのが関の山かも(笑) お気楽息子め、日本語教育に費やした金、返せ~~。

というので、今日は息子ネタの、思い出話と参ります。この記事は削除予定のHPからの移動記事ですので、既に読んだ方はスルーしてくださいませませ。


「曽根崎署始末記」

大阪は曽根崎と聞けば、わたしなどはすぐ「曽根崎心中」と「曽根崎警察署」を思い浮かべる。

「曽根崎心中」は、近松門左衛門の文楽で知られる。

この世のなごり 夜もなごり。死にに行く身をたとふれば
あだしが原の道の霜 一足づつに消えて行く 夢の夢こそ あわれなれ。
あれ 数うれば暁の 七つの時が六つ鳴りて 残る一つが今生の
鐘の響きの聞きおさめ。寂滅為楽とひびくなり。


大阪商家の手代徳兵衛と遊女おはつの道行(ミチユキ)の場面である。この世で結ばれぬ恋をあの世で成就させようとする二人が、手に手を取って心中へと連れだって行く姿の哀れさは、人形劇と言えども真に迫り、見る者の心を濡らさずにはおかない。

若い時に観たこの人形浄瑠璃の美しさに目を、心を奪われ、わたしは近松の本を手に取り、機会を得て、更に「女殺し油の地獄」「心中天の網島」と観に行ったものである。上の道行の部分は、今でも間違えずにそらんじている。

しかし、なんでまたこれに「曽根崎警察」?これが、まったく面目ないことで^^;

母子で3年ぶりに初めて帰国したわたしは夫を7ヶ月もポルトガルにほったらかして(^^;)堺のアサヒ・ビアハウスの先輩歌姫、宝木嬢宅に同居し、ビアハウスでも週に何回かバイトで歌っていました。いつ帰るとも分からないわたし達に、とうとうシビレを切らした夫が迎えに来、ビアハウスで常連さんたち仲間たちがわたし達家族3人の送別会を開いてくれた、息子がまもなく2歳になろうかという夏の夜のできごとです。

jonboy1
↑大阪堺の宝木嬢たくの界隈で。後ろに見える自動販売機がいたく気に入ったようで、しょっちゅうここに連れていけとせがまれたものです。ご近所に皆さんもにとても可愛がってもらいました。
ビアハウスのステージも終わり閉店の夜9時半、数人のアサヒ仲間と帰路に着き、ゾロゾロ数人連れ立って梅田地下街を歩いていました。

夫がちょっと用足しに行くと言い、「はいはい、ここで待ってます」とわたし。10時頃の地下街はまだまだ人通りが多く、同行していた宝木嬢とホンの一言二言話をして、ひょいと横をみたら、い、い、いない!息子がおれへんやん!ええええ!慌てて周りを見回したものの、見当たりまへん。え~らいこっちゃです!即座に同行していた仲間と手分けして、地下街のあっちこっち走り回って探したものの、あかん・・・
  
トイレの目の前にはビルの上のオフイス街へと続く数台のエレベータードアがズラリ^^;真っ青になりました。このどれかにヨチヨチと乗っていったとしたら、いったいどうなるのだろう^^;もう泣かんばかりの面持ちです。すぐビルの夜勤管理人に連絡をし上を下をのとてんやわんや。
  
かれこれ1時間半も探し回りましたが、見つかるものではない。心配と探し回ったのとで皆くたびれ果てたころ、管理人の電話が鳴った。
「おかあさん、ちょっと出ておくんなはれ」と管理人さんに差し出された受話器の向こうから、ウェ~ンウェ~ンと大声で泣いてる息子の声が。

「あ、もしもし、こちら曽根崎警察署です。この子ハーフちがうのん?○色のちっちゃなリュックしょって。もうオシッコでビショ濡れやで。」
万が一を思い、管理人さんに頼んで曽根崎警察署に連絡を入れていたのだ。

息子は通りかかった若い数人の男女のグループに連れて行かれたのか、あるいはついて行ったか。だとすると、そのグループが地下街から外へ出て置いて行ったとも考えられる。そう見ると、丁度わたし達とすれ違いざまに、若いグループの「うわ!この子可愛い!」との声を思い出した。息子はまったく人見知りしない子だったのだ。ニコニコとついていったのだろうか。

jonboy2
↑宝木嬢のご近所、土居さん宅の前。ここのご家族には本当によくしてもらいました。孫のように可愛がってもらい、居心地がよかったようです。ビアハウスのバイト時は、このお宅に息子を預け、安心して出かけて行ったものです

わたしたち夫婦と、その日、お宅に泊まることになっていた先輩歌姫、宝木嬢たちと曽根崎署まで急いだ。署内2階で、涙と鼻水とオシッコでグショグショのジョンボーイ(ポルトガルではこう呼ばれていた)を引き取り、曽根崎署でしかとお小言をいただき、始末書を書いたのでありました。
  
いや~、これにはさすがのわたしも肝がつぶれる思いでしたよ。
大騒動のその間もその後も、夫は一言とて、わたしを責める言葉を口にしなかったのでありました。この時はまったくもって面目なかった。以来、外で子供たちから目や手を離すことあるまじ、と心に決めてきたのでした。

このことは息子の記憶にないだろうな。私自身も自分の記憶にはないのだが、弘前の下町にあった祖母の家に母や妹と一緒に住んでいた3歳くらいの頃に、行方不明になり捜索に近所の人たちも狩り出されたと聞かされている。

こんなとこ、似なくていいよw
わたしのことの顛末は、ちょっと恥ずかしいけど、こちらでござる。

娘の英作文

お時間あらば、ポチッとランキングクリックしていただけると嬉しいです。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年2月9日 

去年の秋口からずっと、修士論文、狂歌師に取り組んできた我がモイケル娘ですが、しばらく前に口頭面接試験も終わり、なんとか院卒業にこぎつけそうです。

娘から送られた修論の一部を目にして即、「なんじゃいな?この黒人て?江戸時代に日本に黒人がおったとは思えないぞ」と言ったら、笑われた^^;
「おっかさん、コクジンじゃなくて、クロウドと読むのじゃ」。

そう言えば、江戸時代の狂歌師をテーマにとりあげて、数ヶ月、市立図書館や大学の図書館に通い詰めで、ほとんど悲鳴をあげんばかりの娘であった。それはそうだろう。大学4年間は英語系だったのを、いきなり院で近世日本文学だと言うのだから。18歳までポルトガル生まれポルトガル育ちの彼女にしてみれば、英語、ポルトガル語、日本語のトライリンガルに、もうひとつ、「江戸時代の日本語」という外国語が加わるようなものです。

古文などは、週に1度の補習校の中学教科書で、「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」と言うようなさわりの部分を目にしたくらいで、知らないと同様の状態で取り組んだのですから、その大胆、かつ無鉄砲なるところ、その母の如し(爆)

浜辺黒人なんて、「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ」の歌人、山部赤人(やまべのあかひと)のもじりではないか(笑)

狂歌は和歌をパロディ化したものらしい。そこで、ちょいとネットで検索してみると、あはははは。狂歌師たちの狂名に笑ってしまった。

朱楽菅江(あけらかんこう=「あっけらかん」のもじり)、
宿屋飯盛(やどやのめしもり)、
頭光(つむりのひかる)、
元木網(もとのもくあみ)、 
多田人成(ただのひとなり)、
加保茶元成(かぼちゃのもとなり)、
南陀楼綾繁(ナンダロウアヤシゲ)
筆の綾丸(ふでのあやまる)←これなどはしょっちゅうキーボードでミスタイプして誤字を出すわたが使えそうだ。わたしの場合は「指の綾丸」とでもなろう(笑)

筆の綾丸(ふでのあやまる)は、かの浮世絵師、喜多川歌麿の狂名だという。中には、芝○んこ、○の中には母音のひとつが入るのだが、これなどには唖然としてしまう^^;

おいおい、モイケル娘よ、こんなヘンチクリンな狂歌師たちとその作品を相手の修論、資料が少ないともがき苦しんでいたなんてホンマかいな。腹を抱えて笑うのにもがき苦しんでいたんではないか?等と勘ぐったりしているのはこのおっかさんで、当たり前だが修論はいたってまじめに仕上げられている。この研究が生活にはすぐ役立たないが、そういう学業を教養と言うのかもしれない。高くついた教養ではあるが(^^;)

修論にかかりきりで、今やっと遅い就職活動に入れたのだが、焦らないでもいいぞ、人生は長いのだからと、おっかさんは伝えたいのである。

気がつけば、ポルトガルの高卒国家試験受験結果を携え、東京の大学を目指して日本へ行ったモイケル娘だが、早10年が経つ。

mariana

この頃は、今日の結果を予想できるわけもなく、ひたすら子育てを楽しんだ時期だった。

思えば、補習校中学校の卒業式答辞で、「わたしは日本へ行くのではありません。日本へ帰るのです」と読んで、わたしを始め出席していた人たちを驚かせたモイケル娘であったが、それも一昔前のことになり、彼女の夢は実現して日本定着10年。

息子よ、娘よ、、若いうちは失敗を恐れるな。失敗のない人生こそ、失敗であるぞ。いつもポルトから応援しながら見ている母である。

本日も読んでいただき、ありがとうございます。ではまた明日!

ポルトガルから日本の大学受験パスまでのエピソード「帰国子女受験編」に興味のあるかたは下記からどぞ。
シリーズトップから「前のページ」へ、そしてそのページの最下から読むと日付順になります。
カテゴリ・「帰国子女受験編

そんなの面倒だと言う方はこちら、「受験戦記・めざせ夢!日本の大学」でどぞ。記事は同じですがすぐ順番に読めます。
ズッコケ親子の受験戦記・めざせ夢!日本の大学
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年2月8日 

去年の夏まで毎土曜日午前中を、日本語教室2カ所の掛け持ちで移動していた。

Lapa教会の側にあるOちゃんとわたしのYY塾の授業が終わるなり直ぐ、次の教室にあたる、クリスタル公園内のAlmeida Garrett(アルメイダ・ガレッテ)市立図書館へ車を走らせる。そのクラスが日本語学習を継続したいというので、図書館のコースが終わった後、グループをYY塾に移した。で、昨秋からはYY塾で2クラスを教えることになった。

1時間半ほどのグループが2クラスだから、土曜日は午後1時まで授業となる。

せっかく開拓した市立図書館の日本語教室である。土曜日だと実は人が集まりやすいが上述の理由で午前中は無理だ。土曜日午後コースはどうしようかと悩んだ。昼食を挟んで土曜日を丸一日教えることになるわけだ。気力でこれを続けることはできないわけでもないだろうが、自分の己の体力と見合わせれば、そのスケジュールでは、日曜日をひたすら寝ることに費やす恐れがあり、夫にも多少の我慢を強いることになるだろうと見込み、さすがこの考えは捨てた。

そこで開設してみたのが水曜日、午後4時半から閉館時間の6時までの初級コースだ。図書館へは我が家から車で20分ほどで着ける。

こんな状況で始まった水曜日のコースは20人近く集まった。実はこの人数がコース終了までいくことはまずない。1、2回来たきりのやら、2回ほど続けて休んでついて来られないのやらで、最初の人数が数人減って定期的に出席する人数が落ち着くのは一月ばかりたった頃だ。先週でちょうど一月経ち、17人と落ち着いた。

ところが、夕方のコースを開講するにあたり見落としていた点があったのである^^;
ダウンタウンを通る岐路がラッシュアワーにぶつかり、行き20分が、まぁ、1時間もかかるのだとさ!オートマがまだまだ普及していないポルトガル、わたしの車もマニュアルで、のろのろと進んでは止まるという具合。帰り道1時間はきついっつうのであります。

水曜日は夫もあまり仕事を入れない日なので、家に着くと彼が先に帰っている。「ただいま~」と言うなりすぐエプロンを付け、夕食の準備にとりかかるのですが、これって共稼ぎ状態ではないか・・・今のところ、水曜日の午後だけだけど。

そして思う。まだまだ現役でいくつもりのわたし、ファーストフードはとうの昔に見限り、冷凍食品も使わない我が家、できあがりの惣菜などないポルトガルです、夫をなんとかせにゃならんかも(笑)

いえね、これまでは子育て、ほんの数人の日本語個人授業、毎土曜日の補習授業校と、おおまか専業主婦できましたので、家事、台所の分担はわたし、なんの不服もござんせんでした。が、自宅での授業と違い外での日本語授業は、自分も楽しいもので、知らず知らずの内に気合が入ってしまうらしく、終わった後にドッと来て、結構体力を使うのです。

二人とも仕事から解放されたら料理当番を交代でどないな?と夫に持ちかけたことがありますが、即、蹴られ、後片付けはいい、と言う。待て待て夫よ。大概の人は台所の後片付けなど簡単だと思いがちで夫もその類。バシッと片付けるには手間暇かかり、楽ではないんだから(笑)

結局この話は、まだ先のこと、等と言いもってその場限りになったが、はて、如何にしたものかのぉ、とつぶやくこの頃ではあります。

では、また!



にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年2月7日 

幼い頃のもの悲しい思い出は、いくつになっても時折ふっと顔を出し、フラッシュ・バックする。
それは夕暮れ時が多く、たいていの些細な面倒は、普段ガハガハ笑ってやりすごすわたしであるが、このときばかりは心が沈む。
     
秋も夕暮れ時のその向こう、やがて日が落ちて街に灯りが灯り、人通りも少なくなった雫石の夜の町を、父に手を引かれて、トボトボ歩いている6歳の自分が見えてくる。

わたしは本籍が雫石だと聞かされてきた。父はその土地の人である。しかし、生まれて間もなく、母は出身地の弘前へ戻ったようである。詳しい話はどちらからも聞かされていないが、わたしが中学生になって初めて一家四人で暮らすことになったのだから、父はその後も雫石に残り、地方競馬の騎手の仕事を続けたのである。事情はどうあれ、当時両親は別居していたことになる。母はその間、7人の兄弟と共に大所帯の我が祖母タマさんの家に同居し、私も妹もそこでチャンバラの子供時代をすごしたのである。

しかし、わたしが小学校に上がって間もない頃、妹は弘前の母の元に残り、わたしは父の住む雫石に引き取られることになったようだ。ずっと後年、父も既に鬼籍に入り、わたしが子供達を連れてポルトガルから帰国していた折に、どういう拍子でかはもう覚えていないが、母と二人、ふとあの頃に話が及んだことがある。

「父親がどちらかをよこせ、と言って来、 二人を育てあげるのは、女手ひとりでは食うことさえ大変だったこと」
     
そんな事情で、妹を雫石に送るのはあまりにも幼な過ぎて不憫、そのあげくが、わたしが「父に手を引かれ、トボトボ」となったのである。1年に一度、顔を見せるか見せないかの人であったので、当時のわたしにしてみれば、父とは名ばかりの、ほとんど赤の他人に等しい人だった。しかし、6歳のわたしに、どうして抗議ができようか、そんな術を知るはずもなかった。

父に手を引かれてたどり着いた家は二間の借家で、そこには母より若い、着物を着た儚げな女性が夕食を用意して待っていた。夕食は「湯漬け」と言って、ご飯にお湯をかけて食べるものだ。挨拶もなにも、しどろもどろの6歳のわたしは、ちゃぶ台に向かい、その湯漬けの入った茶碗を手に、ボロボロ泪をこぼしながら食べたのを鮮烈に覚えている。わたしの人生で、泣きながら食べ物を口にしたのは、後にも先にもこの時だけだ。

わたしがその女人を「儚げな女性」と言うのは、若くて少しきれいでそして物静かで、しかし、結局、父とは添い遂げることができなかった不幸せな人と思うからである。
 
雫石の家の真向かいにある境内で、チャンバラごっこなどをして遊ぶ子分もなく、わたしはよくひとりで遊んだ。現在のわたししか知らない人たちにこれを打ち明けると、誰しもが「ウソだろう!」と言いのだが、当時のわたしと言えば、一歩ご近所を出るや、「究極の内弁慶」であったのだから、見知らぬ土地ですぐに遊び友だちなどできなかった。

同居する女性が優しいからといって、祖母や母、妹が恋しくないはずはない。夕暮れ時の境内で、弘前恋しさにわたしは隠れて独りよく泣いた。

半年後、盛岡の競馬に出場している父の留守を狙って、祖母と母が迎えに来た。母によると、「一人育てるも二人育てるも苦労は同じ。あの子が可哀想だ。迎えに行こう。」と、祖母のその言葉で決まったそうである。 わたしは祖母にとっては初孫なのであった。

雫石から弘前に連れ戻され、水を得た魚のように、チャンバラ、ターザン事件、少年探偵団等の懐かしき子供時代を送ることになるのだが、この雫石の思い出だけは、いつまでたっても、わたしの心の片隅で、夕暮れの中、途方に暮れて突っ立っている。(チャンバラ時代の思い出は後記に↓)

twilight

思い出のバスに乗って

思い出のバスに乗って:ふしみ・かなめ君

梅の木のある家

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年2月3日 

このところ鬱陶しい天気が続いているポルトですが、そんな中、先週土曜日は、午前中の日本語クラスを終えてから、日本語の生徒さん8人ほどを引き連れて、年に1度の漢字検定試験が行われる会場であるポルト補習校へ行ってきました。補習校はわたしがかつて22年間毎土曜日に勤め上げた古巣です。

相棒Oちゃんの生徒も併せると、我らのYY塾から今回は11人の受験者で、その内の一人が67歳の生徒で8級受験です。漢字を覚えてもらうには、検定試験のような目標があると、生徒がよく勉強します。また受験料が安いのも魅力なのです。

YY塾では、ひらがなを一通り習い、日本語テキストに切り替えてカタカナを覚え、テキストがだいたい読めるようになった時点で、漢検10級、つまり小1の漢字80文字を習い始めます。

yyjuku3.jpg YY-juku2
左:始めた頃。  右:現在。机と椅子が増えました。クラスも増えました。
画像をクリックすると拡大します。

そして、10月から週一回の日本語授業で、毎回20分ほどの模試を繰り返します。模試に使用するのは過去問題集一冊ですが、これを宿題と授業とで併せて3回繰り返してもらいます。
つまり、一冊の問題集を3回繰り返すということです。

こうすることで、授業で使う日本語テキストには出てこない漢字熟語を覚え、よくする間違いをクリアしてもらいます。筆跡、筆順も改めてこの時に指導します。3回繰り返し自分の弱点をクリアすることで、受験を2、3週間後に控えた頃には、合格点が総合得点の80%のところを、全員ほぼ90%以上のところまで到達します。

これで、見たこともない新語を目にして間違ったとしてもほぼ全員合格できるというわけです。

普段、生徒さんたちは芯の硬い鉛筆やボールペンを使っていますが、問題集に取り組む時点で、わたしは生徒さんたちに日本から持ち込んだB もしくはB2の鉛筆を二本ずつあげます。
若い生徒さんたちには、ドラゴンボールyやワンピースなどのキャラデザインのをあげるのですが、これが結構人気があり、その鉛筆を使って受験です^^

受験前には、「みんな、合格点は150点満点の120点。つまり、問題を15こ間違ってもいいんだよ!」と送り出します(笑)

試験を終えて全員が会場から出てくるまで、わたしは控え室でお弁当を開きながら待ちます。
40分の受験時間ですが、25分くらい経過後、ほぼ全員が出てきて、あそこがどうの、ここがどうのと、みな、少し興奮気味の顔で言い合っていました。こういう光景を見るのが実はわたし、大好き^^ たかが10級の漢字検定試験と思われるかもしれませんが、生徒は学ぶことの喜びを、わたしは教えることの喜びを実感する一瞬です。

OちゃんとわたしのYY塾は少しずつ拡張してきています。欲張らず地道に、生徒さんたちとワイワイ(YY)ガヤガヤ、日本語学習を楽しみながら頑張ってもらえる塾を目指したい。まだまだ、まいりますわよ!

本日も読んでいただき、ありがとうございます。
では、また明日!
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年2月1日
  
たまたま目にし、一瞬「ゥワオ!」と飛びついたこの写真。ご覧あれ。

サラマンカ

この彫り物が、スペイン、サラマンカにあるゴシック建築の大寺院ファシャーダ(正門)に見られるというから、さぁ、大変。思わず身を乗り出したのでした。

ポルトガルのマヌエル建築様式の代表とされ、かつてはテンプル騎士団の町と言われたトマール(Tomar)にあるテンプル騎士団修道院(後にキリスト騎士団修道院と改称)のシンボル解明に挑戦しているわたしとしてはこの手のオーパーツには目がない!
サラマンカはスペインで一番古い大学がある町として知られます。サラマンカ大学は現在も約32000人程の学生を抱える総合大学です。かの有名な「ドン・キホーテ」の著者、セルバンテスも正規の学生ではなかったにしろ、ここで学んだと言われます。
サラマンカには12世紀に建てられた旧大寺院と16世紀から18世紀に建てられたゴチック・バロック様式の新大寺院のふたつの大寺院がありますが、上述の宇宙飛行士の彫り物が見られるのは新大寺院の方。こうなるとわたしなどはウッホッホです。

現代科学の先端を行く宇宙飛行士の姿が中世の大寺院に見られるとはこれいかに?あな、摩訶不思議と踊る心でこの話を追跡して行くと、件の大寺院ファシャードにこんな彫り物もある。

サラマンカ

ライオンか,はたまたドラゴンか。しかも、手にコーンに盛り付けられたアイスクリームを持っているではありませんか!え?え? ここまで来ると、いかな乗せられやすいわたしでも、ちょいとお待ちよ、と相成ります。こうなると徹底して調べる作業に駆られます。

新大寺院とは呼ばれるものの、16世紀から18世紀にかけて建築されたのですから、今では「新」とも言えません。大寺院のファシャード(正門)はこの数世紀でかなりの損傷を受け、1992年に修繕作業が入りました。この時に、彫刻家がその道の許可を得て「宇宙飛行士」と「アイスクリームコーンを持つドラゴン(ライオン?)」とを付け加えたのだそうです。これはどういうことかと言うと、慣習として、大寺院の修繕では度々、修繕する時代の象徴的な物が付け加えられるとのこと。現代の象徴として「宇宙飛行士」が選ばれたとあります。

サラマンカ

サラマンカは、昔、子供達を連れて車でピレネー山脈を越え、アンドラ王国から南フランスに入って家族旅行をしたときに通ったことがありますが、これが1992年に付け足されたのだったら、見られたはずもなし。
しかしながら、別説もあり、修繕以前の写真がないことから、この彫像が後で付け加えられたという確証はない。「宇宙飛行士」は修繕以前にあった可能性もあるとの別の説もある。
う~~む。ここで言われる「慣習」ってスペインだけのことだろうか?と、ポルトガルのシンボル追っかけとしてはいささか不安になってきますのぉ。

さて、この宇宙飛行士ですが、2010年にバンダリズムこと破壊行為を受けて片方の腕がなくなっていました。
サラマンカ

トップの写真は、見てお分かりのように右腕が修繕されたものです。

「なんでこんなものを今さら大寺院に付け加えるのだ!」との反対意見もあるでしょうし、また、歴史観点からもこれらの彫り物は困惑を招くので、気持ちは分かりますが、バンダリズムはいただけません。

サラマンカには他にも興味深いシンボルがたくさん見られるそうです。そのひとつが下のサラマンカ大学正門にあるもの。蛙を頭上に乗せたドクロ。これを見たものは学業成就するとのジンクスがあるそうです。左横にはユニコーンも見られます。ドクロもカエルも錬金術のシンボルであることを一言付け加えておきます。

サラマンカ

今回、大寺院とシンボルについても調べてみたところ、意外やサラマンカ大寺院のようにモダンなガーゴイルシンボル(Gargoyle怪物などをかたどった雨樋の機能をもつ彫刻)が加えられているところが意外や、あるのに驚きました。それら中から面白いものをいくつか拾い上げてみました。

gargois1.jpg

この辺はまだいい。

フランス、ナントの近くにある小さなベツレヘム礼拝堂のガーゴイルたち。
PaisleyAbbey _Scotland
エイリアン!

Chapelle-de-Bethlehem-Alien.jpg
もどき、ダーツヴェーダーと思ったらこちらには本当にダーツ・ヴェーダーが(笑)↓

darthvader1.jpg
ワシントン国立大寺院に。んで、こちらは、カマを手にしたヨダ?ET?↓

gargois6-1.jpg

グレムリンのギズモじゃん!
Gizmo-1.jpg

なんか笑っちゃいますよ。人が真面目にシンボルの謎解きに取り組んでいるのに、なんじゃいな、これはw おふざけじゃござんせん^^;

本日の画像は全てWikiからです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
では、また!

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
Click for Porto, Portugal Forecast 
ポルトガル ポルトの口コミ
ポルトガル ポルトの口コミ にほんブログ村 外国語ブログ マルチリンガルへ
にほんブログ村