2015年4月29日

ツーソンはTucsonと書き、インディアンの言葉で「暗い山の麓」と言う意味だ。
一年の360日が晴天の日の、砂漠にあるオアシスのような学生の町である。

4、5月から10月までは夏の季節になり、平均気温は37度。
初めてツーソンを訪れる者は、必ず「夏は路上のアスファルトの上で目玉焼きができる」とのジョークを聞かされるのである。

太平洋を越え、ロス・アンジェルス経由でローカル便に乗り換えて、ツーソンに降り立ったのは、1978年1月。1月でも気温が時には20度くらいまで上昇することもあり、ツーソンに降り立つ異国人は、見知らぬ土地にいて、寒さから襲われる孤独からは少なくとも救われるのだ。

空港を出るとアリゾナ大学の寮生の世話役である、男子学生たちが数人、その日東京から到着した日本人留学生を出迎えに来ていた。その日は何人くらいの留学生がツーソンに到着したであろうか、わたしの記憶にはない。

「男子寮!」「女子寮!」という呼び声が飛び交う中、迎え客の中にわたしは知っている顔をみつけた。7ヶ月ぶりで再会するイギリス人のロバート・ギアこと、ロブである。

バーミンガム出身のロブは、イギリスの大学を卒業後、お役所に2年ほど勤めた後、単独で世界一周を試みていた、今でいうバッグパッカーである。イギリス本国からフランス、ドイツ、イタリア等のヨーロッパ諸国を経て、トルコ、インド、ネパール、タイ、香港から日本へ渡ったという。

行く先々で英会話学校で英語を教えながら、そこに数ヶ月滞在し、旅費ができたところで再び移動する、という無銭旅行をしていたのである。当時は、今のように誰でも手軽気軽に外国旅行が出来るような時代ではなかった。若者といえば、普通は例外なくお金がなくて、それでも未知との遭遇に冒険心を駆られ、それを振り払うことができない者たちは、「無銭旅行」という手立てに出たのだ。

ロブもそのひとりで、ボロボロの旅行日記帳を肌身離さず、わたしがアリゾナ大学の学生ヴィザを手にするより先に、日本からアメリカへと渡り、「世界一周」実施中であった。

次のエピソードに続きます。

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2015年4月27日 

レロ書店Pt.2を終えないままに、ポルトガルを出発し、ただいま3週間ほどの予定で日本に滞在しています。Pt.2は、ポルト帰国後に持ち込みたいと思います。
その間、1970年代も終わりの我がアリゾナ大学留学体験を記したいと思います。

今日はそのエピローグです。

広大なアメリカは、西海岸と東海岸距離からして、また州ひとつひとつを取り上げてみても、それぞれが他の国のような気すらする。故に、「アメリカ」と言っても、訪れるその場所その時によってアメリカは姿を変え、これがアメリカだ!と言い切れることはない。しかし、一点において「これこそが」と言えるものがあると思う。 

それは、飽くこともなくこれまでのいつの時代にも、ハリウッドの永遠のスターたちのように、その魅惑で世界の多くの若者の心を惹きつけてきたことだ。

その昔、「新世界」と呼ばれ、本国でのうだつの上がらない生活に見切りをつけた人々が、限りない憧れと夢を抱いて苦難の船旅の末たどり着いたアメリカ 。

わたしも、それから時代はずっと後になり、20世紀も後半にではあるが、かつてそのアメリカに魅せられ、たいしたことのない身代ではあったが、その一切合財を売り払って、トランク一つを全財産に、太平洋を飛行機で渡ったひとりであった。

手にしていたのは、映画「モロッコ」の女主人公アミー・ジョリーではないが、片道切符とアサヒ・ビアハウスの歌姫バイトで貯め込んだ当座の生活費、そして、ツーソンはアリゾナ大学での大学入学準備のELS (English as a Secound
Language)コース受講の学生ヴィザだけである。

貧乏だった大阪の青春時代、アメリカ移住の夢を見続けて、日中のOL仕事とビアハウス歌姫バイトで、そこまでこぎつけるにはずいぶん年月を経てしまいました。 
spacesis、齢30、やっとたいして額ではないが目的額を達し、希望とガッツを胸に抱いて1978年1月、当時の国際空港羽田をアメリカに向けて旅立ったのでした。

いやぁ、あちらでも色々やってまいりました。
では、次回からのアリゾナ大学留学記、お時間のある方、どうぞお立ちよりください。
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2015年4月18日 

さて、前回の混雑したダウンタウンの話に続きます。

ひと際目立つポルトの象徴、クレリゴス塔を毎水曜日の夕方に通って帰宅するのですが、直ぐ側には近頃、観光客が富に訪れ、その足が絶えない、「Livraria Lello=リブラリア・レロ」こと、レロ書店があります。

何年か前にも拙ブログで案内していますが、今回は新情報を加え、写真満載で再度紹介したいと思います。

レロ書店

レロ書店は「世界で最も美しい本屋」とポルトガルが誇る世界遺産指定になっています。写真のような建物の正面デザインはポルトガル語で「Fachada=ファシャーダ」と呼ばれますが、これが遺産なのです。

1906年にレロ書店として現在地、Rua das Carmalitasに開店。ネオゴチック・スタイルのレロ書店は現在も文学作品や古書など、10万冊の書籍をそろえて営業しています。Carmelitasと言うのはカトリックの一派で18世紀に女子カルメル修道会がこの辺りにあった名残です。

近年、イギリスのガーディアン紙を始め、タイム誌やオーストラリアのロンリー・プラネット出版社などで美しい書店として取り上げています。ファシャーダの上部、両脇にはアール・ヌーボーのイラストが描かれています。向かって右が科学を、左が芸術を象徴しています↓

レロ書店

何度か撮影に足を運んでいるのですが、先ごろ、久しぶりに覗いてみたところ、以前は自由に写真が撮れたのに、今回は店内の撮影時間が制限されていました。フラッシュはもちろん禁止です。

レロ書店

そして、あらら、と思ったのは、「天国への階段」と呼ばれる、一階中央にある赤い階段のところどころが、多くの訪問者に踏まれるため、色ハゲが激しくなっていることです。上の写真を撮るのも人が多くて難儀しました。

レロ書店

この階段、なんとかする必要があります。

長年店で働いている老店員さんいわく、「ツーリストがたくさん来てくれるのだが、誰も本を買ってくれないのだよ」(笑) 時折、日本語でのポルトガル写真集なども置いてありますので、もし、お出かけする機会があるときは、是非一冊、お求めくださるといいですね。とは言うものの、ポルトガルの本は写真集に限らず、重いのが玉にキズ^^; 旅行者には負担になるかもしれませんね。わたしも写真を撮るばかりでは気がひけますので、本を買うようにしています。

赤い階段もさることながら、店内の書棚から天井一面の木彫細工には圧倒されます。
レロ書店

レロ書店

一階書棚のところどころには、ポルトガルを代表する文豪たち、エッサ・デ・ケイロス、カステロ・ブランコなどのモチーフも見られます。

レロ書店
一階子供用書籍コーナー。どことなくノスタルジックな雰囲気がある。

ハリー・ポッターの著者J.K.ローリングが著書を発表する前は、ポルトで英語教師をしていたことは意外と知られていませんが、彼女は、老舗のカフェ「カフェ・マジェスティック(Café Majestic)やこの本屋にも来ていたそうです。著書のホグワーツ魔法学校の一部はレロ書店からインスピレーションを得たとも言われています。

レロ書店

エキセントリックな雰囲気があるレロ書店ならば、なるほどと頷けます。

レロ書店、Pt.2に続きます。

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2015年4月16日 

毎水曜日は市立図書館で4時半から閉館ぎりぎりの6時まで日本語を教えている。

ようやく体もそのスケジュールに慣れてきたと言える。混雑しているラッシュ時間帯の夕方のダウンタウンを通ってくるまで帰宅するのだが、1時間以上要していた最初の頃に比べ、近頃は40分ほど、運がよければそれ以下の所要時間で我が家に付くことができる。

対岸ガイア市から望むポルトの街並み。ひと際目立つのがポルトの象徴クレリゴス塔。この塔を横目にして帰宅する。
ポルト
2015年4月撮影

下は近頃お目見えした「100%電気」のツーリスト用三輪車。ポルトはいよいよ観光の街としてブームの数年は生き延びるか。
ポルト

が、昨日は参った。込み具合がハンパじゃなかった。図書館に行くときも「今日は車が多いな」とは思っていたのだが、帰りは駐車場を出るなり混雑していた。ポルトは坂道が多い街である。我が車はマニュアル車なので上り下りの道で止まる度にクラッチ、ブレーキを踏んでいなければならず、とにかく足が疲れるのだ。

それにしても車が多いと思っていたら、2箇所で小さな車の衝突事故があり、それかと思いながら1時間20分をかけて、やっと帰宅したころには足の腿が痛くなっていた。ふ~っと安堵の一息。さぁ、今から晩飯作りだぞ、といつもならすぐ取り掛かる主婦の役割だが、さすが、くたびれて、「腰をおろしたらいかんぞ、夕食が作れなくなるぞ」と自ら言い聞かせるものの、休みたいとの誘惑に負けた・・・

30分ほどもソファで横になり、ヨッコラショと起き上がって台所にたった。8時を過ぎていた。夫がまだ帰宅しないのが幸いである。で、しばらくすると、フラットのあちこちから、「ゴローー!ドンドンドン!バンバンバン!」との歓声と同時に卓や床を叩く音がする。ゴローはうちの猫の名前でもあるが、これはポルトガル語でサッカーの「ゴール」の意味。してみると、その夜は、ドラゴンスタジアムで、FCポルト対バイエルンのサッカー試合があったのだ。

ははん、それで混雑の謎がとけたと言うもの。知っていたら少し遠回りになるが海岸沿いの道を通って帰ってきたものを。「今日試合があるのを君に言うの、忘れていたよ」と、帰宅するなりテレビをつけて、試合に見入っていた夫が言う。3:1でFCポルトの勝ち。

のろのろ運転は体全体が疲れるというのを身をもって昨日は知った。毎夜1時過ぎまで起きている宵っ張りのわたしが昨夜は珍しくも11時に就寝したのであった。
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2015年4月10日 

古典文学から現代小説まで、好きな本はたくさんある。
根っからの活字中毒で、本は借りるより、自分で買って手に取り読むタイプです。話題に上る現代作家のものにも惹かれる本は多いが、サイン会などに出かけて行って直接署名をお願いする、などは、正直、一度もしたことがない。まぁ、したいと思ってもポルトガルからでは無理なのだが、元来が著名人にサインをもらう、ということに、さして興味がないからでもある。

そのわたしが、署名してもらったものがたった一冊、いや上下だから二冊ある。
LuisMiguelRocha

ポルトガル人作家、ルイス・ミゲル・ローシャの作品、「O Último Papa (最後の法王)」だ。
日本語学習者の一人とたまたま本の話をするに及び、ローシャ氏を知っているという。「P2」を読み終えた直後であり、彼の本を持っていると言ったところ、希望ならば署名をもらってきてあげますという。

その際、持っているのは単行本ではなくて、文庫本なのだが失礼はないのか、と尋ねると、大丈夫大丈夫というので、せっかくの生徒さんの申し出に甘えることにした。

LuisMiguelRocha

ローシャ氏は親切にも上下両方に「Yukoへ:この本をあなたが楽しみますように。Beijinho(ベイジーニュ=ポルトガル語でKissの意味)」と書き入れてくれた。わたしは、お礼に、間に入ってくれた日本語の生徒さんとローシャ氏に、日本の小物をさしあげたのである。それが昨春のことだ。

ルイス・ミゲル・ローシャ氏は、ポルト生まれである。ポルトガルのテレビ局TV1で番組制作の仕事をしていたが、イギリスへ渡り、脚本家、プロデュサーとして番組制作に携わっていた。2006年に「最後の法王」を発表し、イギリス、アメリカ、ブラジルなど、30カ国以上で翻訳され、2009年にはニューヨークタイムズ紙で、ベストセラートップにあげられた。

この本、邦題は「P2」とされている。「P2」とは、正式名を「ロッジP2 」もしくは「Propaganda Due(プロパガンダ2)」の略で、イタリアフリーメーソン大東社のロッジのひとつだったのだが、目的のためには手段を選ばない違反活動により、P2はフリーメーソンから破門されている。後、極右秘密結社組織「ロッジP2」となる。スキャンダルまみれで失脚に追い込まれたイタリア元首相ベルルスコーニはこのメンバーだ。

ローシャ氏が、この本で取り上げているヨハネ・パウロ1世は1978年9月に自室で遺体で発見され、在位がたった33日という歴代の法王で在位最短であり、暗殺、陰謀説が囁かれる。ヨハネ・パウロ1世は周囲をこのP2メンバーに取り囲まれていたと言われる。

ローシャ氏はこの作品をヨハネ・パウロ1世に捧げている。

残念ながら日本語訳はまだ出ていないが、この他、「The Holly Bulle(聖なる弾丸)」「The Pope´s Assassine(法王の暗殺)」などが、ローシャ氏のバチカン・ミステリーシリーズとして出版されている。

さて、早く他の日本語翻訳版がでないかなぁと、常々思っていた矢先の3月26日のこと、「最後の法王の著者、ルイス・ミゲル・ローシャ、亡くなる」と流れたニュースに驚かざるを得なかった。39歳の若さである。どのニュースでも、死亡原因が「長い間の持病」としか書いておらず、実は検索しまわったのである。

LuisMiguelRocha
ルイス・ミゲル・ローシャ

とあるサイトでやっと見つけたのが「癌」だ。ふ~む、一体なんの癌だったのだろうか、と思いつつ、数日前に、もう一度本を読み返してみようかと、まず、訳者あとがきから始めた。以下、要約を許されたし。

「ローシャは複数のインタビューで法王の死をめぐる自説について重大なコメントをしている。小説中の場面はすべて独自に入手した情報、資料を基にして再構築した。最大の情報源は10数年前に知り合い、書面で長く交流があった人物で、2005年に、ポルトまでローシャを訪ねてき、法王の死は暗殺だったこと、下手人は自分だと告白し、死亡当夜、法王が持っていた書類や日記をローシャに手渡した。

その人物は当時すでに高齢で今はこの世の人ではない。ローシャによると、それらの証拠書類は、法王の没後40年目の2018年9月29日午前1時に公開されることになっている。」

ローシャ氏が存命中に読んだはずこの文章は、当時さほど気にしなかったが、この赤字の文にわたしの目は吸い寄せられしばらく呆然としたのである。ローシャ氏は本当に病死だったのか?その書類は今、どこにあるのか?言うではないか、事実は小説より奇なり、と。

ここまで来て、わたしは寒気を覚えたのである。

Rest in peace, Senhor Luis Miguel Rocha.

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2015年4月6日 

復活祭に乗じて、もうひとつ。今日はこの時期によく見かけられる「パォン・デ・ロ(pão de ló)」というケーキについてです。

日本語の外来語には多くのポルトガル語が見られます。カルタ、メリヤス、ボタン、コップ、パン、カッパ、キャラメル、テンプラ、ビロード、タバコ、金平糖と身近にある言葉でもこんなにたくさん挙げることができます。

この中には、語源から離れてほとんど日本語として一人歩きし定着したものもあります。例えばメリヤスがそうです。メリヤスはmeiasが語源でmeia=靴下の複数です。当時の靴下のポルトガル語がそのままメリヤスという生地名になったのでしょうか。

テンプラは日本では揚げ物を意味しますが、ポルトガル語のtemperarは、肉をやいたり、魚を料理したりするときに、塩、胡椒、レモンなどで「下ごしらえをする」という意味です。

少し面白いところですと、京都の花街「先斗町=ぽんとちょう」はどうでしょう。この名の由来の説は、オランダ語、ポルトガル語、英語が語源だと別れていますが、ポルトガル語のponto(=地点、終わり)が有力説だそうです。

厚かましくわたしの説を述べますと、もしかしてポルトガル語の「ponte」(=橋)」は関係ないか?です。

先斗町の側あたりは高瀬川が流れており、三條小橋 、 大黒橋 、材木橋を始め小さな橋がたくさんかかっています。橋がたくさんある花街で「ポント町」、という意味も考えられるのではないでしょうか。

さて、本題です。
南蛮菓子の「カステラ」がポルトガルから伝わったということは、あまねく知られるところです。フランシスコ・ザビエルを代表とするスペイン、ポルトガルの宣教師たちが日本にもたらしたと言われます。ところが、「カステラ」というお菓子、ケーキはポルトガルにないのです。こはいかに?と、カステラのルーツを探ったのはずいぶん昔になります。今回は新しい発見も加えて主だった説を取り上げてみたいと思います。

ポルトガル語にあるcastelaは強いて言えば、ポルトガルが独立する以前のイベリア半島北部、今のスペインにあったカスティーリャ王国castelaを指します。カスティーリャ王国は、キリスト教徒によるレコンキスタ運動、つまり、イベリア半島をアラブ人からキリスト教徒の手に奪回する戦いを推し進める主導国であり、後のスペイン国の中心になりました。

もう20年以上も前になりますが、子どもたちが小さい頃、家族旅行で、アルタミラ洞窟画を見るために、スペイン北部にあるカンタブリア海に面したサンタンデールへ行く途中で、トレド、マドリッドがあるカスティーリャ地方を通ったことがあります。

その時に一泊した小さな町の店先で見かけたケーキが、色は濃い黄色だったものの、形も長崎のカステラそっくりでした。その地方の名前からして、もしかしたら、これが日本でいうカステラの出所ではないか?と思ったものです。

歴史を紐解けば、かつてはイベリア半島の南半分はイスラム教徒に支配されていました。ポルトガルも北部のギマラインスやポルトを中心とする「portucalense=ポルトカレンス」と呼ばれる伯爵領土にすぎない時代でした。

ポルトカレンスの貴族たちが、側にある大国のレオン王国やカスティーリャ王国の姫君たちと政略結婚しないはずはありません。カスティーリャ王国のお姫様がポルトカレンスに嫁いで来たときに、きっと料理やお菓子も一緒に持ち込んだことでしょう。カスティーリャのパン、pão de Castelaがやがて庶民の間の浸透し、形を変えて「パン・デ・ロ」のポルトガルのお菓子になり、定着した、という説。

カステラ
カステラによく似た、ポルトガル、アロウカ地方のパォン・デ・ロ

もうひとつの説は、日本に浸透しているものと形は違うが16世紀にポルトガル北部の修道院を発祥の地とする「パォン・デ・ロ(pão de ló)」というケーキです。

カステラ
パォン・デ・ロ。真ん中に穴が開いている。直径26cm、高さ6cm。直径40cmのも中にはある。

「パォン」はパン、「ロ」は柔らかい絹織物のことで、焼き上がりのふわふわした感じを薄い絹の布地に例えて名づけられたと言います。パォン・デ・ロは小麦粉と砂糖、卵のみで作られますが、日本人にこのケーキの作り方を教えるときに、「卵白をお城のように高く十分に泡立てる」という意味で使った「encastelar(エンカステラール)」が語源に因む説が有力です。この言葉をポルトガル語で発音すると、
アクセントは二つ目の母音、”a”にありますから、早く発音すると、最初の” en”が、聞き取れなかったりして、外国語を耳にすることがそれまでなかった日本人には、「カステラ」と聞こえたとは、十分考えられるのではないでしょうか。

もうひとつ、最近行き当たったのは、発祥がドイツ人の”Ló”という菓子屋が作ったという説です。Lóという名前は、旧約聖書にも見られる名前「ロト」のドイツ語、ポルトガル語です。 ソドムとゴモラの町を神が滅ぼすときに、信心深いロトの家族に町をでるように、そして、決して後ろをふりむいてはならぬと伝えますが、ロトの妻は見たい欲望に逆らいきれず、とうとう後ろを振り向いたところが、一瞬にして塩の柱になったという有名な話がロトの物語です。

ドイツ系の貴族家系、ハプススブルグ家は16世紀には、強大な勢力を誇り、スペインを含むヨーロッパを手中に収め、皇帝の家系になりました。16世紀、ハプスブルグ家出身の神聖ローマ皇帝、カール5世は、スペイン国王カルロス1世です。「ドイツのロト」が作ったケーキは、ハプスブルグ家とともにスペインへ、ポルトガルへと渡ったといいうのはどうでしょう。

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17世紀に女流画家、ジョゼファ・デ・オビドスによって描かれた絵の中にカステラが見られる。

パォン・デ・ロ(pão de ló)は、かつては貴族や裕福な宗教関係者が口にし、庶民はイースターやクリスマスにのみ食べた贅沢なお菓子でしたが、現在では多種多様、大衆的なケーキになり、年中ケーキ屋の店先でみられます。

黄金の国ジパングを目指し、2年半の大航海を経て日本に渡来、秀吉も献上されたものを大いに喜んだとされるカステラ。ポルトガルからアフリカ、アジアへと通じた航路は、シルクロードを倣えば、さしずめ「カステラロード」と呼ぶことができますね。カステラロードの行く先々、アジアでも、パォン・デ・ロ(pão de ló)の変化したものが見られるような気がします。
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2015年4月3日 

先週日曜日から、ポルトガルは夏時間に切り替わりました。日本との時差はこれまで9時間だったのが8時間です。

今日は聖金曜日で休日。今週末は復活祭の時期にあたり学校もこの時期が日本で言う春休みになります。復活祭をポルトガル語で「Pascoa(パスコア)」と言いますが、「春分の日の後の、最初の満月の次の日曜日」に祝いますので、復活祭は毎年日が変わる移動祝日です。

子供たちがポルトのBritish Schoolに通っていた頃は、英国の慣わしで、イースターエッグを作って学校に持って行ったり、校庭の草むらに隠してあるイースターエッグを子供たちが探すなどの行事がありました。大人を含む花飾りのついた帽子(Easter bonnet)のコンテストも催されます。

イースター イースター
ーwikiより-

ポルトガルでは知り合い同士、卵型の大小様々なチョコレートや、チョコレートにくるまれたアーモンドを送りあったりします。イースターバニーと言われるウサギもこの時期のキャラクターとしてよく登場します。

日本語で「復活祭」と言われるように、イエス・キリスト復活の祝い事なのに、どうして卵やうさぎがでてくるのかと、不思議に思い調べたことがありますので、今日はそれをあげたいと思います。

風活際(←ギャボン。いつものごとく誤字であったw)復活祭ことイースターは、今日ではイエス・キリストの復活を祝うものとされていますが、カトリック教会が制定するよりももっと古くからこれに似た行事がありました。そのひとつは、旧約聖書から来ます。

ポルトガル語の「Páscoa」は、ヘブライ語「pessah=ペサハ」と語源とし、ギリシャ語ではパスカ、「旅」「移動」を意味しますが、この言葉は元を辿ればモーゼの出エジプトに由来し、現代に至ってユダヤ民族が受け継いでいる祭りのことです。

エジプトのファラオの元で奴隷として扱われていたイスラエル人を、モーゼが奴隷状態から開放するよう、ファラオに願いでるのですが、王はこれを聞き入れません。モーゼは、神の導きによりエジプトに10の災いを施します。

最後の災いが「人や家畜などの長子を死に導く災い」です。この時、神の指示により、イスラエル人は子羊の血を「家の柱と鴨居」に塗ります。(←日本の神道の赤い鳥居と重なるとの説を読んだことがあります) この疫病(恐らくビールスや病原菌とわたしは推察する)はこうして闇の中、赤い印のあるイスラエル人の家は過ぎこされるのです。ファラオの長子もこれで死にます。

哀しみに打ちひしがれたファラオはついに、イスラエル人がエジプトを出ることを認め、この後、映画「十戒」でもあるように、出エジプト記の山場「紅海」が真っ二つに割れてモーゼがイスラエル民族を率いて海を渡るというのは、聖書の有名な部分です。

ユダヤ民族の「過ぎ越しの祭り」はこの故事に由来し、モーゼと共に果たした出エジプト、「Exodus=奴隷から開放され約束の地までの40年間の長い旅」を祝して、3000年もの昔から伝わってきた民族の祝い事です。

このようにキリストが生まれるそれ以前にユダヤの人々の間では「過ぎ越しの祭り=pessah=ぺサハ」として、この時期に祝されていました。

また、古代ヨーロッパ、女神Ostera(Easter=イースターとも言う)を崇めたことに始まるとも言われます。元々は長く暗い冬の終わり、春の訪れを告げる祭りで、大自然の生命の復活を祝ったもの。

Osteraは春の女神で、その手に生命の実、新生の命のシンボルである卵(球)を持ち、繁殖の象徴のうさぎを従えています。
イースター
ーWikiよりー

卵は、古代ギリシャを始め、ケルト民族、エジプト、フェニキア、古代中国では、卵白は天、卵黄は地球と言う風に宇宙と関連付けられて来ました。

では、何ゆえ卵にデコレーションがなされるようになったのか。
 
それは、10世紀のイギリスにおいて、エドワード一世がイースターに金めっきした卵400個以上を作らせ、友人や兵士に贈ったことから始まり、以後、色とりどりに飾られた卵は、幸運、繁栄、愛、富をもたらすものと信じられたのだそうです。

さて、これは余談になりますが、数年前に米国ナショナル・ジオグラフィック協会が、エジプトの砂漠の洞窟で1978年に発見された、約1700年前のパピルス文書が修復されたと発表しました。この写本は、イエスやユダの死後100年ほどしてから書かれたものだそうです。

12使徒の一人でありながら、銀貨30枚と引き換えにイエスを裏切ったと言われる、イスカリオテのユダは現在でも裏切り者の代名詞です。それが、この写本では、ユダがしたことは全てイエスの指示に従ったことであり、この役割を任命されたユダは弟子達の中でも特別な地位にあった証拠だと書かれてあるそうです。

それが真実だとすれば、では、いったい誰がユダヤ人のユダを裏切り者と仕立て上げ、2000年もの昔から現在に至るまで、陰謀を計ったのか。これは、政治が関係してくるのだとわたしは思います。古今東西、宗教と政治が切り離せないとはよく言ったものです。

こうしてみると、歴史は人間の手によっていろいろに捏造されている部分があります。「イースター」一つを取っても調べて分かるのですが、思うに、歴史の捏造は昨日今日できたものではなく、遡れば遥かな古代文明にでさえあるのかもしれません。

故に長い歴史あるものは、思想の違いを超えて、後の世に研究されるべく、人類の遺産として残していくべきではないか。そう思ったのでした。

本日もお付き合いいただき、ありがとうございました。
では、A Happy Easter!
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