2015年5月31日 

今日は久しぶりにレストランを紹介します。

ポルトのレストラン

「タベルニーニャ・ド・マネル」と読む。マネルさんのお食事処です。

ポルトのレストラン
上の写真はドウロ川を挟んだポルト河岸リベイラだが、タベルナ・ド・マネルは対岸ガイア側の散歩道に入って直ぐ左にある。

ポルトのレストラン
ポルト側のリベイラが眺められるオープン席もあるが、店内が面白い。天井には種々のコーヒーカップがぶら下がっており、壁にも興味深いものが見られる。
ポルトのレストラン

ポルトのレストラン

使われる皿類はポルトガルの伝統的な赤土で作られたLouça de Barro (Louça=食器、Barro=赤土)。

ポルトのレストラン
アルコールで焼いたショリース(chouriço=ソーセージの種類)と、オリーブの漬物(azeitonas)、タラのコロッケ(bolo de bacalhau)、それにワイン、もしくはビールでわたしなどは十分な昼ごはんになる。

軽く食べたいときにわたしたちが行く庶民的な食事どころだ。


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2015年5月28日 

今朝やっと、目が覚めるのが5時台になった。
これまで毎日、3時、3時半、4時に目覚め、一度目覚めたが最後、もう寝付くことができないタイプなので起床してしまい、このところ仕事がきつかったのだが、ようやく体の時計が日本時間からポルトガル時間にもどったというところだ。

日本滞在から帰って10日ほどの間に悩まされるのは、時差ボケだけではない。食の移行、気分の移行も実は意外と大変で、この間は、がんばって旅行カバンに入れて持ち込んだ日本食を胃に詰め込む。そして、日本をまだ引きずりポルトガルに足をつっこんでいる期間中は、あれこれの思考をしばらく停止するように努める。この期間をわたしは勝手に「空間の落差」と名づけている。

二人の子供たちと共に、2、3年ごとに帰国していた時分は、ポルトに帰るなり、することが山積みだったので、それらをこなすことに追われて「気分の移行」など思いつく暇もなかった。が、これが結構やっかいなことに気づいたのはここ数年のことだ。

子供たちにレンタル携帯でメッセージを送り、池袋の宝くじ売り場前で待ち合わせしよう~、とか、台所に立つ妹が、包丁を持ってまな板の上でトントン野菜を刻む音とか、食卓に並ぶ和食器の優雅さ、舌鼓するうまい酒、など等、これら身近だったものが、わずか22時間で自分の生活から消失してしまう現実を迎える気分は、今、結構堪えたりするのである。

この5月で異国在住37年目に入り、わたしの生活は日本でのよりずっと長くなったが、郷愁の思いはなんだか年々深くなっている。 そして、ポルトを後に日本へ帰国する前より、こちらへ帰ってきてからの方がその思いは後を引いたりしているのだ。

マナコ(ナマコじゃないぞ)、つぶればなぁ・・・・・と言うこの感傷に負けまいぞ!負けん気を起こすのに10日ほどかかるのであった。 spacesis、そろそろポルトで正気にもどりつつあります。

dawn1.jpg
朝方5時の空はほんのりと幻色である。
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2015年5月26日

これには参った!
たいがいのことでは、そう簡単に音を上げるわたしではありません。が、クラス編成前のテスト成績が運悪く良かったのか(^^;)、Reading Comprehension(読解力)はとてつもなく難しいクラスに入れられた・・・これは、文法が得意な日本人によくありがちなことのようです。クラスでは長文を読んで質問に答えていくのだが、語彙力不足でチンプンカンプン、トホホでありました。クラスで日本人はわたしがただ一人です。周囲の様子をそぉ~っと目で探って見ると、みな平然とした顔であります。

前もって予習できるテキストを使う分にはなんとかできる。しかし、突発的にクラスで配られるそのReadingテキスト、クラスでパァ~ッと読んですぐ答えろなんて、あぁた、きついよ、そりゃ。この手の授業形態はまさに実力を試すもの。もう泣きたい思いです。

前もって予習できるテキストも10ページやそこらではありまへん。ぎっしり言葉がつまったページが30、40ページとあり、未知の単語を一語一語拾い上げて、辞書と首っぴきでしても、他の科目の宿題もあり、一晩かかってもしきれない・・・
10日ほどねばってみたけど、ダメダこりゃ。歯がたたないや。思い余って授業終了後のある日、クラス担当のMrs. Chisholmに掛け合いに行きました。

「レベル、間違ってますよ。とてもこのクラスでみんなとやっていく能力ありません。」
と、音を上げるわたしを先生はじっと見つめてきます。少し間を置いて返ってきた彼女の返答は、
「後2週間がんばってひっついて来なさい。」

あと2週間も、このクラスで悶々としてダンマリなんて、止めてくれ~。こんな心の叫びも素知らぬ顔のMrs.Chisholm、そう言い残してサッサと行ってしまわれた。更に2週間ほどたった金曜日、「月曜日はテストをします。この本を読んでらっしゃい。」と仰せられる。よ、読んでらっしゃいって、あぁた、一冊の分厚い本じゃないですか・・・

手渡されたのは、スタインベックの「Travel with Charlie」でありました。1960年代の「アメリカを探して」と副題がつく、スタインベックのロードトリップもので、愛犬のプードル、チャーリーとともに、ドン・キホーテの馬に因んで「ロシナンテ」と著者が名づけたキャンピングカーで、ニューヨークから西海岸カリフォルニア、スタインベックの故郷であるサリナスに辿りつき、再び大陸を横切ってニューヨークへ帰る1万マイル(16000キロ)の旅を綴ったものです。

クラスで既に音を上げがちなわたしである。いかにして週末明けのテストに臨むことができるのか、おそろしや・・・。

Tucson
週末のレクレーションに参加し、こんな写真を撮ってもらえるようになったのは、3ヶ月も経った頃ではある。

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2015年5月22日

ご連絡:「ポルトへの留学について」と「ビスタ・アレグレ等」について、ご質問の方へ

日本から帰国したばかりで、ご連絡が遅れていました。
が、当方の管理人サイトから、残されているメールアドレスにアクセス不可能です。

お手数でも、もう一度、コメント本文内に、メールアドレスを記してくださるよう、お願いいたします。

spacesis


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2015年5月22日

クラス分けも決まりESLコースの初日の授業は緊張の「Audio-Lingual」である。読み、読解、質問の受け答えです。

教室に入るなり驚いた。生徒用の机が黒板向きにズラリと並んでいるのは、どこでも同じだが、それぞれの机には目隠し用に前左右と仕切りがあり、ヘッドフォン、マイクが取り付けられていました。今ではどうということのない光景でしょうが、今から36、7年も昔のことで、わたしにとって始めて目にする設備でした。
正面にある講師の机に仕切りはないので、生徒からは講師が見えるのである。生徒たちはヘッドフォンを通して講師の声を聞く。
使用するテキストには、とある、架空の国が設定されており、その国の政治、経済、地理、文化等を学ぶ様式になっていて、興味深いテキストだった。
このクラスで印象に残ったのは、生徒の緊張感をほぐそうとしてか、授業のしょっぱなに、毎回必ず講師がPop musicを流してくれることである。これはかなり嬉しかった。様々な国から語学研修に留学してきている生徒たちにとって、Pop musicは世界共通の言語とも言えよう。わたしのみならず、他の生徒たちもこれである程度気分的にリラックスできたのは間違いない。
講師はMr.Jensen。 30代前半と思われ、アメリカ人にしては小柄であったが、なかなかのイケメンではありました。一度わたしは、授業も終わって彼が後片付けしているところへ行き、
「朝の音楽、リクエスト可能ですか?」
「Yes, you may」
そうして、翌日ヘッドフォンを通して流れて来た音楽は、わたしがリクエストしたものでした。
「クラスのyukoのリクエストです」と前置きして、わたしがAudioクラスにいる間、この曲を何度も流してくれたのでした^^
 
何の曲かって言うと、キャッツ・スティーブンスの「Morning has broken」。
大阪にいた時分からテレビこそ持たなかったが、音質のいいステレオには目がなく、新しいLPレコードを購入するのが楽しみのひとつだったかな?そのたくさんのLPがある中で、たった一枚選んで、アメリカ行きの旅行カバンに入れたのは、ジョルジュ・ムスタキでしたが、キャッツ・スティーブンスも、この歌を始め、「Peace Train」 「Father and Son」, 「Oh Very Young」など、あの頃とても好きな歌でした。

arizona
アリゾナ大学のキャンパスにて。どこまでも続く澄んだツーソンの青い空。

この歌をわたしはもう一度、今度はポルトガルで耳にするのでありました。

我がモイケル娘がOporto British Schoolの小学部に入っていた頃です。いつものように、午後3時半の授業が終わる時間に合わせて車で迎えに行き、その帰りに彼女が突然「今日学校で習ったよ」と車の中で歌いだしたのです。
    
     ♪Morning has broken like the first morning
      Blackbird has spoken like the first bird      
      Praise for the singing, praise for the morning
      Praise for the springing fresh from the Word

おお!それは母が好きな歌であるぞ、と勿論はしゃいだわけだが、「キャッツ・スティーブンスの歌を教えるなど、学校もなかなか進んでるではないの^^」と思いましたら、この歌はイギリスの古いフォークソングで、賛美歌444番にあるのだそうです。
    
    世のはじめさながらに 朝日照り 鳥歌う 
    讃えよ 新しき歌を 讃えよ 新しき朝を

とでも訳せるのでしょうか。

歌ひとつとの出会いをとってしても、こうして世の中のことは連鎖になってるのだなぁ、と、思わされたものでした。
下記、Youtubeより拝借。


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2015年5月22日 

某大学の非常勤講師に加え、もうひとつ仕事を得てこの4月からは二箇所を掛け持ちで教える我が東京息子もポルトガルを後にして7年目に入ります。

同じ環境で育った兄妹と言えども、妹のほうは心中で思っていることとは多少違っていても、なんとか日本人に合わせてやって行けそうなのに比べ、兄貴の方は考え方が100%ポルトガル人です。己の意をなかなか曲げない父親譲りの頑固さも入ってますので(いや、わたしの分も受け継いでるかもw)、果たして日本社会に馴染めるのかと当初は心配していたのですが、なんとか、日本で生き延びる術を彼なりに多少身に着けたかに見えます。

もっとも日本滞在期間では先輩にあたるモイケル娘に言わせると、本来の息子の性格からして、大分辛抱しているとのこと。そう言われてみると、今でこそ、多少の角がとれて少しは丸くなったものの、若いときのわたしも、あからさまに態度には出さなかったが、周囲の慣習に、ことごとく反発を感じていたものでした。そういうわたしの部分がモロに出たんだなぁ。その生き方はしんどいのだがねぇ、息子よ、と思いつつ・・・

我がモイケル娘はと言うと、修士論文提出後の口答試験も済み、2月末には院卒業が確定し、授与式も3月に終わり、めでたく院を修了しました。また、手こずっていた自動車免許証もついに取得!本人も肩の荷がおりたようです。後は就職活動まっしぐら。なのだが、就活時期外と、20代前半ではない年齢もひっかかり、これが一番大変な現実でしょうか。諦めずに粘って欲しい、と願って来たのが、やっと決めたようです。

自動車免許取得に手こずったのは、夫が「オートマでなくマニュアルをとれ」と忠言したからであります。本人も万が一ポルトガルに帰国しないとも限らない将来のことも考え合わせて(ポルトガルはMT車が主要)、MT免許を選択したのですが、なかなかに大変だったようです。途中で根をあげそうになり、「誰が車なんか運転してやるか!」なんて罵っておりましたっけ(笑)

AT免許は「エンスト」がないし、運転が簡単、MTの方は、わたしもそうでしたがモイケル娘もさんざん「エンスト」をやらかしたようであります(笑) そんなとこまで親に忠実に似なくたってええのにw
ただね、MT免許は両手両足を使うので、車との一体感を味わえるぜ、娘よ^^ と、車の運転に関しては、エラそうなことを言えないおっかさんが言っております(笑)

日本にいると、車の運転ができないのはたいして不便なことではないですが、運転の可不可はポルトガルでは大きなメリット、デメリットにつながります。わたしが自宅、外でと家を出たり入ったりして日本語を教えることができるのも車の運転ができることによって公共交通機関に時間を合わせなくて済むからです。さもなくば、体力的にも自宅と外の掛け持ちは恐らく無理ではなかったか。

わたしが運転免許を取ったのには、息子の学校が遠いところにあり、夫が出勤前に連れていくのはいいとして(それでも当時はゆうに1時間はかかった)、迎えが不可能だというので、その学校に通わせるには、どうしてもわたしの免許と車を必要としたからです。

息子同伴で数ヶ月の帰国時に大阪で自動車学校に通いましたが、40歳近くでもあり、娘同様てこずったが度合いが違う(笑)何度投げ出そうと思ったか知れません。が、取っておいて本当によかった。
人間、いつどこで何が役立つか分かりません。

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羽田昼到着後すぐ池袋で子供たちと待ち合わせ。夫もともに、日本で家族が顔を合わせるのはいつになるだろう。

今朝も時差ぼけで午前3:30起床。まいったな^^;

本日はこれにて。
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2015年5月21日 

時差ボケが抜けないまま、昨日水曜日から、某企業と市立図書館の日本語コースを再開しました。

日本帰国前の1週間は授業ができず、約一ヶ月ぶりの午前中の企業レッスンです。
「ただいま。お久しぶりです」と挨拶をするや、マセラッティの君が満面の笑顔で「お帰りなさい」と迎えてくれました。久しぶりに出されたエスプレッソ・カフェのおいしかったこと!企業レッスンは毎回このエスプレッソで開始するのであります。

市立図書館のコースは夕方からで、ちょうどこの時間帯に睡魔に襲われ、抗いきれなくなるのが常。「こやつにこんなとき、ハンドルを回されるのは危険極まりない」と思ったのでしょうか、「今日は午後の仕事が速く終わるので、ショーファー(Chauffeur=お抱え運転手のこと)をしてあげるよ」と、夫が車で送り迎えです。

コースを始めた1月はクラスが終了して図書館を出ると既に日が落ちかけ、クリスタル公園内も薄暗くなり、やがてすっかり日が暮れて街の灯りがついたダウンタウンを車で抜けていたのが、夏時間の6時は夜には程遠い。

日中に準備をしていたので、通常より1時間も早い夕食と相成り、さっさと食器洗機に食器を放り込み、「11時に起こしてね」と夫に頼み、就寝したのが9時。ところが、起こされても起きられるものではない。「放っといてんか」と、結局そのまま曝酔して4時起床という羽目になったのでした。

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夫を始め、我が家の5匹猫もベルミーラおばさんに餌運びを頼んで行ったジョアキンおじさんの畑の猫も無事で、ベランダは花盛りになっていました。

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hana

こら!なんばしとっか、チビw
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本日はこれにて。
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2015年5月19日

3週間の日本滞在を終え、日曜日にポルトに帰ってきました。
昨日からJet Lagこと、時差ぼけと闘っているのですが、時差による睡魔の波浪に誘われ誘われ。おぬし、年々手ごわくなってきてるのぉ、と恨み言ほひとつも言いたくなります。寄る年波にはさすがのわたしもお手上げであります。

日本語授業も明日には開催、早朝に目が覚めてしまい、その時間を授業準備にして、本日は今から、食料買出しです。
なにしろ、わたしが持ち込んだ日本食を除いては、冷蔵庫が空っぽ状態。というので、日本滞在記はもう少し気が落ち着いてからにいたし、アリゾナ留学記の手続きを載せたいと思います。

ここからアリゾナ留学記

そこつ者のわたしと違って、どんなときにも慌てふためくことなく悠長。いつも笑顔が絶えない(←ここはわたしと一緒^^)
関西のええとこのぼんぼんであるザワちゃん。この御仁、実は「あの頃ビアハウス」の「グッドチーフ、バッドチーフ」で既に
登場しております↓ 
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-855.html

関西のとある大学の英文科を出ていて、当時独学で英語を勉強していたわたしとは、しょっちゅう、
    「ザワちゃん、ホンマに英文科出たんか~。ここもこれも違ってるやん。」
    「キツイなぁ、ソデさん」
    「教えてあげてるんやもん、ありがたいと思い~。」
とこういう具合で周囲を笑わしていた仲ではあった。

それが、こんなアリゾナくんだりで再び顔をあわせ、同じ学窓で学ぶことになろうとは、夢にも思わなんだ。長年夢見たアメリカに学びに来たわたしだ。ザワちゃんであろうと、日本人同士つるんで時間を無駄にはすまい、そうでなければ一体なんのための語学留学になるのか、と同国人同士つるまないことを決心した。

翌日のクラス編成発表では、わたしたちは別々になっており、ザワちゃんは大学寮の仲間を、わたしはシェアハウスの仲間を中心の、それぞれの生活が始まり、しばらく時間をともにすることはなかった。そ、しばらくは・・・わたしがNorth 2nd Ave. 927の家を出るまでは・・・

後日談になるが、わたしが人生の一大決心をして、渡米した夢見たアメリカ、ツーソンなのだが、のっぴきならぬ事情でコース終了後には、大阪へと帰国したその日、伊丹空港で我が親友みちべぇとグッドチーフが迎えに来てくれた。
そのときに聞いた話なのだが、(空港から思い荷物をズルズル引きずって、そのままアサヒビアハウスへと直行したわたしたちではあった(爆)
「おい、お前がザワちゃんをかどわかして、アメリカくんだりまで引っ張って行ったという噂だぞ。」
「お前の後を追っかけて行ったという噂もあるで~」

ご、ご冗談でしょ。なんでやのよん^^;本人の預かり知らぬことやで(泣)

更にもうひとつ、後日談を語らせてもらえば、
このザワちゃん、わたしと夫が、京都は伏見区役所へ婚姻届を出しに行った際に、我が親友と共に、証人の一人として同行した人なのであります。

わたしがポ国に渡って何年か後帰国した折に、かつてのオフィス仲間がアサヒ・ビアハウスで歓迎会を開いてくれたことがあるのだが、その時会った彼は、異国の女性と結婚しており、ファーストフード店の経営者になっていた。

時折、わたしはあの若かりし日のザワちゃんを思うことがある。
「わたしの後を追っかけて行ったと言うあの噂はホンマやったん?」

今ではもう聞くよしもない、遠い昔の人生のあどけないひとコマである。

次回エピソードに続く
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2015年5月12日

アリゾナ大学は、ソノラ砂漠にあるツーソンの町に位置する。当時は考古学、天文学でも世界に名を馳せる大学だということをわたしは知らずして留学したのであった。。
ツーソンは、北へ160キロのところに、州都フェニックスがあり、ソノラ砂漠を南へ100キロほど突っ切ると、やがてメキシコ国境、ノガレスにぶつかる。

わたしの大学での第一日目は、ESLクラス編成の試験であった。大学のキャンパスはNorth 2nd Ave,から近く、徒歩で7、8分の距離である。登校初日の朝、シャワーを浴び、すぐそばにあるマーケットで前日買い入れたコーンフレークスにバナナの輪切りと牛乳を加えての朝食を追え、8時過ぎ、わたしは「いよいよ始まるぞ!」と興奮で高まる胸をおさえ、キャンパスに向かった。

広いキャンパスの入り口近くの一角に、ESL(English as a Second Language)センターの建物はあり、そこの数箇所の教室で、クラス分けの試験である。留学生はメキシコ、ブラジル、ベネズエラなどの南米からのみならず、ヨーロッパからも来ていた。当時はオイルマネーを使ってのアラブ諸国からの留学生のなんとまぁ多かったことか。

受験票を渡されてウロウロと教室を探し回り、無事時間いっぱいに試験を終えて廊下に出てみると、各国のグループがかたまってお互いを紹介しあったりして廊下は人だかりでにぎわっていた。
すると、「あ、あれぇ~、まさか・・・まさか・・・」

日本人グループの中に見覚えのあると思われる顔が見えたのだ。そんなはずがあるわけもない、と疑惑の面持ちで、念のためにとかたまっているその日本人のグループに、わたしはそぞろ近づいて行ってみた。

「ほ、ほ、ほ、ほんざわちゃん!!」
このときの驚きたる!

本沢ちゃんとは、 大阪のオフィスで退職するまでの6年間、いっしょに仕事をしていた営業マンで皆から「ザワちゃん」と呼ばれていた同僚なのだが、その本人が目の前にいるではないか!

なんでやの?なんでざわちゃんがここにおるん?おどろき桃の木山椒の木とはこのことなり。あまりの驚きに人目も構わず右手人差し指で彼を指し、「ザ、ザワちゃん!」と日本語で叫んでしまったわたしでありました。

渡米前、12月のボーナスが出るや即座に退職し、それまでバイト歌姫として歌っていた大阪梅新アサヒビアハウスの仲間たちに盛大に見送られ、大阪のアパートを引き払って後、渡米するまで横浜のおば宅に居候して、羽田空港からわたしは飛び立って来たのである。ザワちゃんはと言えば、わたしのすぐ後に退職し、日を違えて渡米とのこと。

しかし、広いアメリカやのに、なんで、なんで同じ大学やのよ・・・
それをさて置いても、一緒に会社で騒いだ間柄なのに、なんで一言も「ボクも同じとこに留学すんねんで~」と言わんかったのやよ・・・

と、このように、大学第一日目からして、波乱万丈な留学生活は幕開けとなったのでありまする。
こんな偶然てあり?
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2015年5月7日

目下、日本滞在中です。ただいま午前1時半過ぎ。
間もなく車で故郷、弘前へ妹夫婦と出発です。今年の桜は早期に咲いてしまい、訪れるも残念ながら今回も見ること
叶わず。

でも、りんごの花を楽しみに行ってまいります。PCなしですので、4日ほど、ブログを空けますが、目下ポルトは市内の大学生による祭典開催中、いや、もしかしたらもう終わったかな?

そこで、今日は、学生祭について書いた過去記事を下記にて案内します。色彩豊か、にぎやかで街中が盛り上がる伝統的なこの時期の学生祭典です。

「若者たちの熱気溢れるポルト大学学生祭典」
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-915.html

それでは!
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2015年」5月7日

「927 North 2nd Ave.」は実は知る人ぞ知る家であった。
アメリカで「デリンジャー」と言えば、「石川五右衛門知ってますか?」と外国人に聞かれて日本人が苦笑するのと同じくらいの、知らずもがなの人物である。
アメリカの大恐慌時代、「プリティ・ボーイ」「ベイビー・フェイス」の、映画でもお馴染みの名だたる手下を従えて、各地の銀行を荒らしまわり、捕まっては脱獄してFBIに「Public enemy No.1」と指定され、多額の懸賞金がかけられた。シカゴでFBIと銃撃戦を交え、31歳で最後を終えた銀行ギャングだ。

ジョニ・デップが映画「パブリック・エネミ-ズ」でデリンジャーを演じている。

dillinger-wanted-poster.png

デリンジャーは逃亡中の一時期、この「927番地」の家を隠れ家にしており、1934年1月にここで逮捕されている。もちろん、その後再び脱獄を図るのだが、なんともはや、あまり名誉な歴史を持つ家ではないのだが、ロブはかなりご自慢の様子であった。

「どこがデリンジャーの部屋だったのよ?」なんてわたしは訊ねない。デリンジャーの怨霊に取り付かれでもしたら、わたしのアメリカ生活の夢は悲惨なものになってしまうではないか。
参考がてら、下は1930年代の927 North 2nd Ave。 敷地の周りに囲いがある。

Tucson

↓こちらは1978年にわたしがハウスシェアリングした当時。囲いが取り払われているが、
Tucson

ネットで見つけた現在の927番地は再び囲いが作られている。

Tucson

わたしの部屋は玄関ドアのすぐ左、表通りの庭に面した大きな窓のある広い部屋である。
アーリー・アメリカン調の古い家具とその家具の上にかけられてある大きな長方形の鏡、そして木製のベッドが備え付けれれていた。
この部屋をデリンジャーが使用したとは考え難い。通り向きの部屋で窓も大きいし、通行人人に見られることもあるからだ。

窓を開けると、手がかけられたことがないと分かる大きなグレープ・フルーツの木があり、手を伸ばすとたわわに実った果実をそのままつんで食べることができた。

住人は、友人のロブ、アメリカ人でアリゾナ大学男子学生A、そしてツーソンの小さなカレッジで歴史の講師をしているジョン、それに新参のわたしと4人である。
玄関口のドアを開けるとすぐにある、暖炉付きの大きなリビング、それに続くダイニング・ホール、その右横に台所、左横にバスルーム。電話電気水道は、使おうと使うまいと全て共有で月末に均等負担。
夜ともなると、時折4人が暖炉を焚いたリビングに集まり、ギターを爪弾いたり本を読んだり、テレビを見たりと、それぞれ思い思いのことをした。ツーソンでは、冬でも気温が20度近く上がるとは言っても、夜は結構冷えるのである。だからセントラル・ヒーティングが入っていても暖炉を炊くことがある。
わたしの記憶に残るツーソンの屋内の灯りは、柔らかくやさしい。見知らぬもの同士でも一つ屋根の下で生活し、週末の午後や夕方に申し合わせることもなく自然にリビングに集まり、それぞれ好きなことをしながら流れる時間を共有する。
FBIをして、「パブリック・エネミー・ナンバー・ワン」と呼ばれたデリンジャーの隠れ家であったとしても、わたしが住んだ1978年の「Tucson North 2nd Ave.927番地」は少なくとも平和だった。 

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927番地の部屋。窓の外に見えるのがグレープフルーツの木。
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2015年5月3日

「やぁ、ひさしぶり。」と空港で再会したロブに、 「今、3人でハウスシェアしてるんだけどね、一部屋空いてるよ。うちへ来ない?」と持ちかけられたわたしは、一も二もなく「もちろんそっちへ行く!」と即答。
       *ハウスシェア⇒一軒の普通の借家に家族でないもの同士
                  が数人で住むこと。

まだあちこちで、「男子寮、女子寮のひと~」と叫んでいる迎えの学生に、「あの、すみません、寮の予約をしてたんですけど、ここでキャンセルしますぅ。」と、しょっぱなからドタキャンするこの度胸!

女が集まるととかくいざこざが多い。ゆえに女子寮にはあまり気乗りしなかったのである。しかし、ツーソンにはロブがいるとは言え、彼はいつまた他国へ移動するかわからないバッグパッカーではあるし、ハウスシェアの話などツーソンに到着するまで知らなかったのである。

「大丈夫かいな?」とでも言いたげな迎えの学生を後に、わたしはかつてイギリスまで一往復したものの、まだその真っ白さを損なっていないサムソナイトの旅行かばんをズルズルひきずって空港外へ出た。

そして、そこに見たのである。
ロブが手紙で「買った」と自慢していたイギリス人の愛車、中古のフォルクス・ワーゲンを。

当時まだ運転免許など持っていなかったわたし、車のことなど知る由もなかったが、そのド素人目にも明らかにポンコツとわかる代物であったのだ。

「これ、フォルクス・ワーゲンどころか、あぁた、ボロクソ・ワーゲンだねぇ」と、笑い転げる乗客に気を悪くした友ではあるが、とにかく走りました(笑)

ツーソンの市街を走りぬけ、着いたところが、「North Secound Avenue 927番地」
2番街北通りとでも訳しましょうか。
家が通りに面しているものの、玄関ポーチは通りから7、8メートルは入る。
サンフランシスコやN.Yの家々とは少し趣の違ったどこか、南米を思わせるような四角で白い大きな一軒家であった。
わたしのツーソン第一日はここから始まったのである。
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