2015年7月31日 

いずこの日本語教室もそうであろうが、我が日本語塾も生徒さんは老若男女、多種多彩。仕事がないという人から学生、勤め人、ル・マンやFIA GTグランプリ経験の現役ドライバー、国内十指に納まる大企業の時期後継者までと、実に賑やかである。年齢もまちまちで15才から83歳までいる。

うち、わたしがGG´s(ジィジィーズ)と呼ぶ65歳以上の生徒が5人、中に74歳の女性が入るのだが、言えば、教えるわたしもGG´sの一人なのであった(笑)

グループも個人も週に一度の授業なので、その間、少なくとも一回は日本語のテキストを開いてもらうべく、翌週に提出する宿題を少し出す。生徒さんたちには予め、日本語学習はロングランであることを理解してもらう。修了書、証明書の類を発行できないゆえ、実力を判断するのは漢字検定試験である。その合格証明書が強いては彼らの修了書になる。名もない米粒かの塾のより、余程しっかりした修了、証明書に値する。

日本語を学習する目的はと問えば、若者たちはマンガを通して、日本文化に興味を持っているというが主だ。しかし、ご存知かと思うが、ポルトガル経済は長年低迷状態で、若い人たちは仕事がないという現状を抱えており、職を求めて国外へ出るのが多く、中には、できれば日本で働いてみたい、という人も増えてきている。

GG´sは、日本文化に大いに興味をもっている人たちで、自国のと日本の違いを面白がり、生涯学習として続けている。

生徒たちの学習歴に関すれば、今年1月に市立図書館で始めた初級コースをのぞけば、みな、2年、3年から、長くなると10年に至る。週1で、10年間、個人で教えた生徒にJLPT(外国人のための日本語能力試験)2級合格、漢字検定試験2級を90%以上の成績で合格したのがいるが、彼は昨年卒業してもらった。ここまで来ると、後は独学できると思っている。

他に2人、10年近く学習しているGG´sがいるが、彼らには、文法の復習、繰り返し学習をすると同時に、短編小説やエッセイを中心の読解力養成に取り組む。これが、日本の習慣や文化への理解につながり、わたしも楽しむことができるのである。できればできるなりに、できねばできぬなりに、どの生徒もみな可愛い。

ざっとこんな風に運んでいる日本語塾も、今日でやっと夏休みに入ろうかというところだ。

さて、日本語を学び始めて5、6年になるGG´sの一人にマリオ・アグアスさんがいる。ご本人が言わないので、わたしは最初知らなかったのだが、教師をしながら、空手道50年、ポルトガル空手道界の第一人者であり、またヨーロッパ有段者会の副会長でもある師範のマリオさんが、この7月にポルト市から功労賞の金メダルを受賞したとのこと。

Marioaguas
セラルヴェス庭園での授賞式の様子

Marioaguas

マリオさんは、今年始めの漢字検定試験8級を合格し、目下わたしと7級の勉強に兆戦している。日本の奨学生も同じだが、日本語学習者にとり、10、9級はたいてい取れる。 しかし、対象漢字数が440になる8級からが大変なのである。7級ともなると、640の漢字の語彙を駆使することが望まれる。

7級の漢字、3分の1を終えたただ今、とりあえず一休みに入る。マリオさんは、あれをしてください、これをしてくださいと、指示を出す必要がない生徒さんの一人なのだ。それもそのはず、師範です。彼に「せんせい」と呼ばれると、なんだか気恥ずかしくなってしまう、わたしであります。

マリオさん、おめでとうございます!若い学習者にも刺激になること、請け合いです。


にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年7月28日 アリゾナ留学記:Ep.19「ミセス・エヴァンスのはかりごと」(2)
              
ミセス・エヴァンスの昼食にはわたしともう一人、招待客がおりました。エヴァンス氏の同僚で、同じくアリゾナ大学天文学研究所に籍を置くドゥエンさん。年恰好はエヴァンス氏と同じくらいの中年男性。どこか、リチャード・ウイドマークに似た感じで独身だそうである。

食後の緩慢な午後のおしゃべりも途絶えがちになり、わたしもそろそろと腰を上げて失礼しようという段で、ドゥエンさんが車で下宿先まで送ってくれる運びとなった。すると、ミセス・エヴァンス、わたしにこっそりと耳打ちしてきた。
 
「あのね、車が下宿先に着いたら、彼が車のドアを開けてくれるまでちゃんと座席に座って待ってるのよ。それが女性のエチケットなの。近頃の若い女性と来たら、自分でドアを開けてサッサと車を降りてしまう。これだと男性は興ざめします。」

おお、なるほど。分かり申した。アメリカ映画では良く見かけるシーンではないの^^ふむふむ。
と、すっかり気取ったわたし、乗車するときもドアを開けてもらい、降りるときは「自分で降りたほうが早いがな」と思いながらも、じっと座ってドゥエンさんがドアを開けてくれるのを待ったのである。別れ際に、ドゥエンさんから、明日の日曜日、フェニクスまで一緒に食事に行かないかとのお誘い。

特別予定は入っていなかったことだし、たまには息抜きも要る。せんだってのグレイハウンドバスの一件から、女一人がアメリカの見知らぬ町を歩き回ることには、すっかり警戒心を持ってしまっていたわたしだ、願ってもない申し出で、連れていってもらうことにした。

翌朝、ドゥエンさんが我が下宿先ケンタッキーインに横付けしたその車をみて、わたしはひっくり返りそうになった!「ポ、ポ、ポルシェ・・・・」

ポルシェを駆って、ハイウエイをツーソンから一時間半ほどにある、保安官ワイアットアープ、ドク・ホリディ達とマコーり兄弟とのガンファイトを描いた「OK牧場の決闘」で有名な町「Tombstone」(墓場の町の意味)へと向かった。ま、まさか今度は、トム・カツコーとの時のように、後方から「その車、停車せよ!」なんてことはあるまいと一瞬不安が横切ったことを付け加えておく。
その名の如く、西部劇に出てくる古い町がそのまま観光地化され、実話とされるガンファイターたちの墓場も観光のスポットになっており・・・^^:しかし、いかななんでも、縁もゆかりもない墓場の写真をとるは、少し不謹慎であろうと思い、その頃はカメラのシャッターは切らなかった。

後年、ポルトの芸術的な墓石が多いアグラモンテ墓地を訪ねたときも、最初は撮影できなかったのだが、あまりの素晴らしさに、撮影したい誘惑に勝てず、「すんません、一枚撮らせてください」とカメラを向けたのではあった。

夕食をしながらの話題は、意外や、星の話、宇宙人の話と及んだ。渡米する前までのわたしは、考古学遺跡やオーパーツを研究し、古代宇宙飛行士説という独自の持論を唱えるエリック・フォン・デニケンの本を何冊か読んでおり、一般的に世には知られていないものの、この世には、科学的な説明が及ばない古代人の高度な知識があったという、広大な論に思いを馳せては夢見ていたこともあり、ドゥエンさんのなかなかに面白い見解に大いに興味をそそられたのであった。

ドゥエンさん曰く、「ほら、 わたしたちが蟻を目にしても、たかが蟻と、格別、意も払わずにいるだろ?しかし、蟻は蟻で社会があり法則があるのだ。人間社会と似てるのだよ。それと同じようなもので、もしかすると、我々人間は宇宙単位では、科学も技術も非常に遅れた、言わば我々から見る蟻社会と同じに見えるのかも知れないね。」

kaniken
今もわたしの手元にあるデニケン著書「未来の記憶」。1970年代発行。ページはもうすすけている。

翌日大学へ行くと早速ミセス・エヴァンスが、
「ドゥエンがあなたと正式にお付き合いしたいと言ってるんだけど、どう?彼は人柄はわたし達が保証する。ご両親はもう他界してるから、舅姑の問題はないし、ポルシェを2台、そのほかに2台車をもってるくらいで、経済的にはとても安定した生活ができる人よ。」

や、やっぱりそうか^^; エヴァンスさん、最初からそう言ってくださいよ~。
正式なお付き合いはまだあきまへん。わたしはこれから先、本当にアメリカに根を下ろすのか、日本にいるポルトガル人のかの人(夫となった人)とは、果たしてどういう結果になるのか、全て未解決のままなのであって・・・暇だからとてノコノコ誘いに付いて行った己を反省。しかしなぁ、それでいくと、アメリカ人との付き合いは女性に限られ、男性であれば、最初から「友達として」なんて野暮な断りを入れなければいけなくなるのである。

ポルシェの人、ドゥエンとはそれきりになったものの、ミセス・エヴァンスとは以後も友人関係を保ち、彼女の経験を通して、国際結婚について多くを聞かされたのであった。その時のわたしはまだ、国際結婚の当事者になるとは、不明だったのである。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年7月27日 
             

チェリー氏のクラスが終わったある日のこと、同じクラスのミセス・エヴァンスが声をかけて来た。
「Yuko、今度の土曜日時間がある?うちで小さなパーティーするんだけど、昼食、食べに来ない?」

ミセス・エヴァンスは、アメリカ国籍をもってはいるけれども、れっきとした日本人である。お連れ合いはアメリカの方で、アリゾナ大学にある天文学研究所の職員だ。ちなみに、アリゾナ大学の天文学研究所はかなり名を知られているのだそうだ。このことをわたしは後年知ったという、のほほん者であった。

しかし、ツーソンにあるキット・ピーク天文台には、例のロブ、ブルースのズッコケ組と一緒に出かけ、たった3人の訪問者ということで、丁重に案内してもらい巨大な天体望遠鏡を見学してきたのである。



画像はWikiから拝借したキットピーク国立天文台。この山は、アリゾナ州南部に居住するネイティブ・アメリカン、パパゴの聖地であるバボキバリ山です。23台の望遠鏡があり世界でも有数の天文観測機器が集まっている世界最大の太陽観測望遠鏡もあるのだそ。

さて、ミセス・エヴァンスだが、二人の子供が大学生になり、もう自分をあまり必要としなくなった。これまで聞きかじりのブロークン・イングリッシュでやってきたけれど、もう少しまとまな英語が書けるようになりたいと一念発起。40半ばを過ぎたその年、大学のESLコースを取り、作文クラスでわたし達は席を並べることになったのである。

アメリカの一般家庭がどういうものなのかという興味も手伝って、彼女の住所を教えてもらい、わたしはその週末でかけることになった。

ケンタッキー・インから大学に向かって左に折れ、もと住んでいた927番地を通り過ぎて、大通りのスピード・ウェイからバスに乗るのである。ところがバスに乗って行けども行けども目的地が出てこない・・・運転手によくよく聞いてみると、反対方向のバスに乗ってしまったらしい。慌てて降りたわたしは、週末で他に待つ人もいない向かい側のバス停でボケーットとバスの来るのを待っていた。しかし、車社会のアメリカ、おまけにバスの本数が少ない週末のことだ、待てど暮らせどバスは来るものではない。

と、その時、目の前にスーッと一台の中古のキャデラックが止まった。車窓が開き、「どしたの?どこまで行くの?」と、優しそうなおいさんである。(この頃はパット見で年齢推定できなかった)住所を書いたメモを見せると、「お乗りよ。連れてってあげるから。」とのこと。そのまま乗せてもらい、かの住居に着いたところで、家の前でうろうろしているエヴァンスさんの姿が見えたw

おいさんにありがとうと礼を言い、車を降りしなに、「君の電話番号、教えてくれない?」と訊かれ、ハイ、と、気軽に教えたお調子ものだった^^;

エヴァンスさんが早速近づいて来、「さっきの彼、友達なの?」と訊く。
「いえ、初めての人です。バス停で拾ってくれて、ここまで送っていただきました」
「んまぁーーあぁた!そ、それはね、知らない人に車に乗せてもらうってことはね、何があってもオッケーの意味なのよ~~~」と悲鳴! な、何があってもオッケーって・・・(大汗)

エヴァンスさんの家に入り、家族を紹介してもらい、チキンのグリル焼きの昼食卓はわたしの無謀なヒッチハイクの話題で持ちきりだったのだ。 どうも、わたしは時々普通しでかさないようなことを、無頓着にすることがあるようだ。中学時代の弘前から大阪までの夜汽車での家出から始まり、友人との九州旅行のヒッチハイクと数えてみるとけっこうたくさんあるではないか。家出など、あの頃はまだ人さらいがいた時代だろうから、何事もおこらず何度も無事家出を成し遂げられたのは、運がよかったとしか言いようがない。

後年、わたしはこれら若い頃の、自分の無謀な冒険を振り返ってみて、その幸運さに、「ご先祖さまが守ってくれてるんかなぁ。」などとのたもうて、親友に大笑いされたことがある。わたしは、これまで大抵こういうきわどい経験をしたことに、後で気づくことが往々なのだった。
しかし、かのゲーテは言っているではないか。向こう見ずは天才であり魔法であり力だ、と。
さて、ミセス・エヴァンスのはかりごと、実はこらから始まるのであります。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年7月24日 

水曜日午後と土曜日の三つの日本語グループクラスが先週末で夏休みに入った。後は週に11レッスンある個人授業を、どうしてもと言う生徒を除いては、この1、2週間で休暇にしようと思っている。欲張りすぎて、少し疲労気味のspacesisです。

そこで、水曜日の午後は、市立図書館の日本語クラスがなかったゆえ、四ヶ月振りでダウンタウンを行き当たりばったりに歩いてきました。今日はポルトの街を少し写真で案内したいと思います。

Aliados

メトロ、アリアードス(Aliados)で下車し階段を上るとすぐ目の前に現れるポルト市庁舎。3年ほど前には、この直ぐ近くにある息子の友人のアトリエを借りて土曜日の日本語塾を開いていたので、通い慣れ、見慣れた景色です。また、2010年にポルト市と日本の国際親善協会共催で開かれたJapan Weekのコーディネーターをした際に、この市庁舎には打ち合わせで何度も足を運んだものです。

ダウンタウンをポルトガル語では俗にBaixa(=バイシャ。下の意味)と言います。 そのダウンタウンの目抜き通りが歩行者天国のサンタ・カタリナ通り。わたしがポルトに来たばかりの36年前は、ショッピングと言えばこのサンタ・カタリナ通りでした。特にクリスマスの時期には人でごった返し、通りは身動きができないほどのにぎやかさでしたが、その後、郊外に、コンティネント、IKEAを始め大手のショッピングセンターが6軒も出現し、往年の賑やかさはなくなっていましたが、ポルトは2014年に、ヨーロッパで一番訪れてみたい都市に選ばれるなど、ここ数年、観光客がうなぎのぼりに増えています。サンタ・カタリナ通りには、ブティックが軒を並べている中、古い歴史を持つハイライトも幾つかあります。
そのひとつが、Capela das Almas(カペラ・ダス・アルマス。Capela=礼拝堂 almas=魂、精神)です。

capela das almas

18世紀初期に建てられた小さな礼拝堂ですが、外部を覆うAzulejo(=アズレージュ。青タイル絵)が完成したのは20世紀に入った1929年。総数15947枚のアズレージュが語るは、サンタ(聖女)・カタリナとアッシジのサン・フランシスコです。
 
capela das almas

capela das almas

さて、聖女カタリナとは?と、わたしはこういうことにすぐ興味をそそられるのです。カトリック信者が多い国には、聖人聖女がたくさんおり、これらの名前と伝説を整理して覚えるのは生半可なことではありませんが、それを知らずしてこのアズレージュを見てなんとしよう!というので、以下。

サンタ・カタリナとは?

聖人、聖女の名はあまたあり、国によっては同じ聖人聖女なので呼び方も違います。わたし自身はカトリック信者ではありませんが、現代に残る気になる名前の由来をたずねるのが好きで、よく調べます。さて、サンタ(聖)・カタリナですが、どうも二人いるようです。

そのひとりは、アレキサンドリアの聖女カタリナ、もうひとりがイタリア、トスカーナ地方、シエナの聖女カタリナです。二人の物語は一部似通ったところもあり、混乱を招くようです。

アレキサンドリアのカタリナは名家に生まれ、高い教育を受けました。才女と美貌の誉れ高く、皇帝からの改宗命令を拒み投獄されます。車輪に手足をくくりつけられて転がされるという拷問が命じられますが、カタリナが車輪に手を触れると車輪はひとりでに壊れてしまったがため、斬首、19歳で殉教しています。サンタ・カタリナのシンボルは、壊れた車輪、足元の王冠、剣、本、異教の哲学者と論争する女性、などなど。

この伝説は、場所がアレキサンドリアということ、才女と美貌の誉れが高い、ということ、惨殺されたという点から、わたしは、4世紀のアレキサンドリアの数学者、天動説に疑問をいだいた天文学者であり、新プラトン主義哲学者でもあった女性「ヒュパティア(Hypatia)」を思い出します。

分裂していた東西ローマ帝国を統一して治めたただ一人のローマ帝国皇帝テオドシウス1世はキリスト教徒であった。哲学学校の校長であり、学術的、科学的な哲学を持つヒュパティアはキリスト教徒からすると、異端とみられていた。皇帝の異端迫害方針により、エジプトの非キリスト教宗教施設や神殿、有名なアレキサンドリア図書館と共にヒュパティアの学校も破壊され、彼女は修道士たちに惨殺される。これにより、多くの学者たちがアレキサンドリアを後にする。学問が繁栄したアレキサンドリアの凋落の引き金になったのである。

ヒュパティアについては、2009年カンヌ映画祭で受賞した「Agora」(芳名:アレキサンドリア)があります。タイトル「Agora」についても、知ってみるとなかなか面白いですぞ。 「アゴーラ」と読み、語源はギリシャ語。古代ギリシャの政治的人民集会や、その広場の意味になりますが、スペイン語では「予言する」の動詞、さらにポルトガル語の「Agora」は「今、現在」の意味です。なんとも意味深なタイトルではありませんか。 下記、予告編です。



あだし事はさておき、さて、もう一人、シエナのカタリナは14世紀の人で幼児期から幻視体験を持つといわれ、長じてドミニク修道女となります。興味のある方は検索してみてください。

で、件のアズレージュ絵は下図のシンボルから、アレキサンドリアのサンタ・カタリナと判断します。

capela das almas
シンボルの剣と本をもっている。      

capela das almas
こちらは異教の哲学者との論争場面と推察。


夜も更けそうろう。アズレージュのもう一場面「サン・フランシスコ」ついては、次回にて。では、また明日。

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年7月21日  
             
ケンタッキー・インの日本人下宿人がわたしだけではなかったのには、少なからず驚いた。
その若い日本人青年は、高校卒業後すぐ日本のとある大手建設会社に入り、まもなく会社の費用によるアリゾナ大学留学を命ぜられ、3年目であった。21歳、若いはずである。しかし、ケンタッキー・インでの驚きはそんなものでは終わらなかったのであるwこれは、今日の題とは関わり合いないので、後日に回させてください。

今回はバック・トゥー・ザ・スクール、大学のESLコースに戻ります^^

University of Arizona,Tucson
1978年1月か2月の大学キャンパス。下はWikiから拾った現在のアリゾナ大学キャンパス。あの頃と違うのは緑がずいぶ増えて見える。写真の季節が違うのか、それとも緑地化に大いなる力を注いできたのかも知れない。

University of Arizona,Tucson


「Mr.Cherry~!」
「だめだめ!ハーモニーがなってない。もう一度!せぇの」
「ミスター・チェリィ~!」

わたしは今でもこの光景を思い浮かべると思わずククッと一人笑ってしまう。

「R」の発音は日本人にとってだけではなく、フランス人、スペイン系、アラブ人にとってもなかなか手ごわいのだった。日本人はLとRの区別がつけられず、スペイン系やアラブ人は、Rがどうしても巻き舌になってしまうのだ。

英作文のクラス担任であるMr.Cherryは毎回授業の始めに、わたしたち全員にRが二つ入ってる自分の名前を合唱させるのであった(笑)
両手をタクトのごとく空中で振り、「せぇの」「ミスター・チェリィ~~」とやるのだ。Rの発音だけではなく、ハーモニーも持たせよ、とわたし達に注文なさる(笑)

こうして書くと、このCherry氏、なんとなくダンディーに思ったりはしませんか?
期待を裏切るようで悪いのだが、ダンディーとはお世辞にも言い難い御仁だった(笑)60に入っていたのだろうか、頭は白髪で頭上真ん中には既に髪の毛一本たりとも残っておらなんだ。いつも白シャツにヨレヨレの細くて短めのズボン。

ホモセクシュアルとの噂も耳にはしたが、真偽のほどはわからない。それは非常に個人的な問題だと私自身は思うので、たいして気にはならなかった。なにしろ、わたしはCherry氏のクラスがコースの中で一番楽しかったのである。

教室ではまず文法を学ぶ。
そして、毎回必ずと言っていいほど、ここではアラブ系の学生が「Why, why」と乱発する。あまりのひどさにわたしなどは、「クソ!お前ら、こんなクラスに来て、まだこういうことも分からんのかぁ。下へ行け、下へ」と内心何度思ったことかw・・・

もちろん口外はしまへんわよ(笑)しかし、思うのは自由なのだ。自分の読解力クラスでのことは忘れて、いい加減なものであるw彼らは文法を考えながら話すわけではないので文法そのものはメチャクチャだが、とても流暢に英語を話しているような錯覚を日本人はおこすのだ(笑)

さて、毎週宿題として英作文の課題が与えられる。
「これまでの人生でしでかした一番大きな失敗」「初めて英語を本格的に学ぼうと思ったきっかけ」「創作(←これは短編小説ですだw)」エトセトラ。どれをとっても面白い課題であった。

わたしはこのとき、生まれて初めて短編小説を創作してみた。英語で・・・^^; 後にも先にも短編創作はこれ一本だけです。超高層ビルが隣接し、太陽光が地上に届かないような未来都市の話。花を一度も見たことがないという不治の病を持つ少女と若い脱獄囚の物語ですわ。 暗~^^;

添削された作文は数日後教室で、構成、内容と、文法力評価になる2段階の成績がつけられて手渡される。

その日も授業の始めに先だっての作文の評価が一人一人の生徒に渡されていった。
と、Mr.Cherry、わたしのところでヒタと立ち止まり、宿題を片手に持ちながら、
「Yuko,この成績は、この2年間わたしは誰にも上げたことがないのだよ。おめでとう。」

ひゃっほ~~、やった!
クラスの視線がこちらに向いているのをわたしはしっかりと感じた。手にした成績は、構成内容がA-、文法がB+。厳しい点数をつけるMr.Cherryからこれをもらったのは、非常に嬉しいことだった。
作文の内容?
はい、「これまでの人生でしでかした一番大きな失敗」でした。まるで、わたしのために用意されたようなものだ(笑)。今ならもっともっと書けるぞ!(爆笑)

読解力クラス、作文クラスと、こうしてわたしは少しずつ鍛えてもらったのである。英語を学ぶことが目的でアメリカに渡ったのであるが、ここでわたしはそれ以外に、いかにして生徒を授業にひきつけ、楽しさを交えて学んでもらうか、という教授法を垣間見た気がする。ツーソンのESLコースは本当に楽しかった。

後年、わたしはポルト補習校でいずれ帰国して日本の学校に再び通うはずの日本の子供達、ポルトガルの日本語せいとたちに、曲がりなりにも言葉を教える羽目になったのだが、我が娘がよく言ったものである。

「いいな、隣のおかあさんのクラス。いつも笑い声が聞こえてくる。」
家での日本語教室にいたっては、レッスンが終わり生徒さんが帰るなりすぐ顔を出して、
「おっかさん、ほんとに日本語教えてるの?デッカイ笑い声ばかりが聞こえてるよ」 大丈夫だい!ちゃんと勉強はしてらぃ!

Mr.Cherryからわたしがいただいたものは、あの成績よりもむしろ、努力も必要なことをもちろん踏まえて、「笑いながら学ぶ、こんな楽しいことはない。」 これである。

University of Arizona,Tucson1978
Mr.Cherry と一部のクラスメートたち。左から二人目はこの後登場するミセス・エヴァンス。

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年7月19日 

レロ書店(1)をエントリーに取り上げたのは4月中旬のことでした。↓  
ハリポタのモデルにもなったレロ書店 

レロ書店については、何度か書いているので、ついそのままになっていたのですが、先だってのこと、テレビでその書店のニュースが流され、やはりこうなったかと、頷いたのでした。

ニュースでは、この8月から、レロ書店内部見学には3ユーロの入場料を設定するとのこと。わたしは昔から何度も訪れて写真を撮ってきたのですが、この頃の観光客の多さと店内の傷みが気になっていたのです。 特に「天国への階段」と呼ばれてきた二階ギャラリーに続く赤い階段ですが、今年2月に訪れた時には、ひどい状態になっていました。 ちょっと見比べてみましょう。

これが昔の「天国への階段」
レロ書店

こちらは今年2月に階上ギャラリーから撮ってきたものです。
レロ書店

レロ書店

階段には厚手の真っ赤なリノリウム(かな?)がしっかり敷き詰められているのですが、ご覧のようにあまりの激しい人の出入りで、かなり擦り切れています。人事ながら、これはまずいなぁと思っていました。

日に4000人のツーリストが訪れることもあり、店内は騒然となります。わたしが行ったシーズンオフの2月ですら、カメラアングルに人物が入らないように写真を撮るのが難しいくらいひっきりなしの人でした。

わたしは行くたびに、本や絵葉書を買うようにしてきたのですが、多くのツーリストは観てカメラを向けてそのまま出て行きます。加えて、常に人がいっぱいなので、いつの間にかこれまで本を買い求めてきた固定客が離れていくという深刻な問題が起きてきました。

世界遺産指定とは言え、現在も本屋として営業しているレロ書店です。指定を受けてもユネスコからの補助金、助成金は出ないとあります。では、市、国からはどうなのかというと、その辺は調べているのですが、はっきりしません。

一旦指定を受けると、建物内外の変更はできないと、かつて別件の市遺産指定を受けたお店を訪ねた時に耳にしました。国や地方公共団体に属するものは援助を受けることができるのでしょうが、保有者が個人の場合はどうなるのでしょう。今回の入場料設定を通して、個人物件の文化遺産指定後に起こる問題点も浮き上がってくることを、考えさせられました。

多くの人にその存在を知ってほしいという思いと、レロ書店のように多勢が押し寄せて商売あがったり、では、困ったものです。

それで、前回のエントリー(1)では、訪問時にはガイドブック一冊、絵葉書1セットでも、購入していただきたい、と書いたのですが。

店内で本購入時には書籍代から入場料3ユーロを差し引くようです。また、従来の顧客には1年間有効の10ユーロパスが利用できるとのこと。こちらからも書籍購入した場合には割引になるそうです。

レロ書店
写真は2006年当事にわたしが撮影したもの。二階ギャラリー。

レロ書店 レロ書店

↑一時期にはギャラリーでコーヒー、ポルトワインを注文して一休み、などもできたのですが、今はそれどころではないでしょう^^;

レロ書店
レロ書店のハイライトでもある、天井の明かり取り窓ステンドグラス

レロ書店
「労働の誉れ」とラテン語が見られる書店のロゴ

入場料3ユーロを払ってでも店内を見る価値があるかどうかは、その人次第ですが、パリのギャラリー・ラファイエット百貨店をモデルにしているという建築構造と、J.K.ローリングがホグワーツ魔法学校の着想を得たと言われる物語の世界に迷い込んだような雰囲気のレロ書店、ハリポタファンには興味深いと思います。

わたしも、観光シーズンが落ち着いたら、また、入ってみようと思っています。もちろん、3ユーロ払って^^その価値はあると思っているのです。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年7月17日

ツーソン、2軒目の我が住まい、ケンタッキー・インの住所である。インを出て左の道をまっすぐ歩いて行くと間もなく大学のキャンパスに入る。
     
Tucson
Kentucky Innの大家さん、Mrs.Maria Mercyから下宿人への復活祭プレゼント、イースターエッグのチョコレート。住人同士、またマースィからの連絡用に使われる掲示板と手紙受け。

わたしの部屋は二階にあり、ベッド、机、それに小さなテーブルの家具付き部屋だった。共同台所には、コンロが6つくらい備え付けられており、調理台と大きな流し台、それまでアメリカ映画でしか見たことがなかった、自分の背丈をはるかに上回る冷蔵庫、その他包丁まな板、鍋などの調理用具や食器類は一通り取り揃えられてあり、調理にだいたい用は足りた。
 
Tucson
当時、月100ドルだった2階のわたしの家具つき部屋。立てかけてあるギターは小型で、ツーソンに着くなりすぐ買い求めたもの。日本では白いギターを持ち歩いていたが持ってくるわけには行かず、親友であり会社の後輩でもあった、我が友、みちべぇに託してきたのであった。わたしにとって音楽なしの生活は味気ないのである。

Tucson


一階の台所の真ん中には大きなテーブルが置いてあって、そこで食事をとるもよし、もうひとつ、台所の横の通路に通じた空間にある小さなテーブルでとるもよし。住人の自由である。

ふと、台所の隅にある台の上にある錠前付きの細長いアルミ製の箱に目がいった。
「なんだろか。」と思ったものの、その時は大して気にもせず、わたしは翌日からの食料調達のために、斜め向かいにあるマーケットへ出かけ、ミルク、コーンフレークス、果物等を仕入れ、一見してすぐ自分の物と分かるように、袋にまとめて冷蔵庫に入れて置いた。

翌朝は台所横の小さなテーブルでコンーフレークスの朝食を一人とり、新しい下宿先からその日の8時過ぎからの授業に気合を入れて意気揚々と出かけたのである。

大学初日の一日も終わって、夕食時にはまだ時間があり、少しだけ腹ごしらえに、どれ、果物でも、と思い冷蔵庫をあけると・・・・
むむ?りんごの数が減ってるような気がするぞ。 あ、バターが開いてるじゃん・・・
ちょっとちょっとぉ。今朝、口を開けたばかりのミルクがほとんどなくなってるくらいに軽いじゃないの!
これはいったいどういうことでせう~~。

すると、背後から、「こんにちは。日本の人ですか?」との英語が、声が聞こえた。振り返ると、まだ少年の香りがするようなとても若い、背の低目な日本人青年がいたのである。しかしです、慌てふためいてる時のわたしは、ホント、だめ^^;

この青年のきちんとした挨拶の始めの言葉もろくに聞かず、(海外では、同国人と思って声をかけると違っていることが往々にしてある。日本語で話しかけてキョトンとした顔をされ、「i am Chinese」「 i am Korean」と返事が返ってきて、赤面してごめんなさい、とやることはよくある)

青年の最初の問いに答えもせず、「入れて置いた物がなくなってるような気がする」と日本語で^^;ホンマにもう、こういう時のわたしは、自分が悪いことでもしたかのように、慌てふためいてしまうので、困ったものです(笑)

すると、「自分の食料はあそこにあるアルミボックスに名前を書き、錠をかけてそれごと冷蔵庫に入れて置くのです。ホラ、こんな具合に」と、彼が言います。よく見ると、冷蔵庫の中にはアルミボックスがたくさん入れてありまして。箱に入っていない物は、誰でも自由に食べていい、と言うのと同じなのだそうだ・・・

か、家族と同じってこと?そんなぁ、なんだか納得がいかない・・・自分が買い込んだ食糧を「ええのよ^^」と言って済ませる経済的余裕も精神的余裕も当時わたしは持ってなく、その場で即座に青年に教えてもらったように、アルミの箱に自分の食料をしっかり入れて名前を書き確保したのだった。
これは、今でも時々アメリカ留学経験を持つ人と話す機会があると、相手が日本人に限らず、エピソードとしてよく話題に上る話である。

さて、その若い日本人青年、二階にあるわたしの部屋の向かいに住むケンタッキーインの住人なのでした。

ー続くー
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年7月16日 弘前紀行:昔日巡礼(1)

右足かかとに一文字の傷痕がある。
小学校に上がって間もない頃であろうか、さだかではないのだが、叔父に自転車に乗せてもらって起こった事故の傷痕だ。
子供の頃は、当事、上新町(かみあらまち)と呼ばれていた弘前の下町の祖母の家に住んでいた。祖母を孫のわたしたちは「あばちゃ(おばあちゃん)」と呼んでいたが、わたしは祖母にとって初孫である。

わたしが中学に上がるくらいまで、盛岡で競馬騎手をしていた父は家にいることがなかった。わたしたち母子はその祖母の家に同居していたのである。9人兄弟だった母の長兄はすでに戦死しており、母の弟の一人と妹一人は結婚して別に所帯を構えていた。物心ついた頃には、母の未婚の弟が3人、結婚して家族ぐるみで同居していたのがわたしたち親子3人のほかに叔父と叔母の二家族がおり、頭数を数えれば一つ屋根の下に14人という大所帯だった。

子供の数は一番年上のわたしを筆頭に妹、他に従弟が3人で計5人。同居人14人のうち男が9人もおり、そんな環境で育ったわたしが、しとやかになるはずもなかった。が、それは町内での話であって、実を言えば、わたしは「究極の内弁慶」であった。このことは下記にて綴ってある。

綴り方教室」 

にぎやかな暮らしのある日、なんの拍子でか覚えていないが、叔父の自転車の後ろに乗り、新町坂(あらまちさか)をおりていた時に、子供のわたしは右かかとを車輪に取られてしまったらしい。

hirosaki

新町坂と言うのはS字型で急勾配の長い坂である。城のある上町(うわまち)と低地帯の下町を結ぶ坂のひとつだが、坂の降り口から見る岩木山の姿は実に美しい。そして、坂を下りきるとその山がグンと近づいて見えるのである。

hirosaki

今回、改めて再訪してきた。 今はアスファルトに舗装されフェンスがあるが、わたしが子供のころは土坂でフェンスなしだ。冬は大きな荷橇(にぞり)に数人で乗り込み、みんなで奇声をあげながら、この坂を何度も滑ってはS字のカーブでひっくり返り、大いにスリルを楽しんだものだ。もちろん、先頭でそりの手綱を取るのはわたしである。
 
hirosaki
坂の中腹にある樹齢300年の「サイカチ」の樹。こんな樹があったのを覚えていない^^;

さて、パックリ開いたかかとの傷口は、今なら縫うのであろうが当時はそれをしなかったらしく、その怪我で痛さと歩けないのとで、近所の子供たちを集めては「ガキ大将」さながらに、活動的であったわたしは、さぞかし、苦労したであろう。

「であろう」と言うのは、この数年後に起こった「ターザン事件」の痛みのインパクトが強く、この時のかかとの痛みを覚えておりませんのです^^; かかとの怪我で強烈に記憶に残っているのは、「寂しさ」である。

ぐじゅぐじゅぐと治らないかかとの傷を湯治で治してやろうと「タマあばちゃ」は思ったらしい。わたしを連れて田舎バスに揺られ、行ったのが岩木山ふもとにある嶽温泉の湯治宿だった。わたしと妹夫婦は、岩木山神社(いわきやまじんじゃ)へ詣でる途中で、祖母を偲び昔日を偲び、その宿を訪ねてみることにした。

dake1.jpg

hirosaki

ところがである。60年も昔のことで嶽温泉はすっかり様変わりしており、記憶もおぼろのわたしには、数軒ある宿のどれなのか、わかるはずもなかった。この湯治のことをかすかに覚えていた妹と、あれかこれかと話しながら、ここかあそこか?である。

hirosaki

建物はすっかり改築されているが、3階の表廊下の木の部分が、やたら古めかしく見えるが、この3軒の他にも古い宿はあるので、手がかりなしだ。
dake4.jpg

湯治に行った先で、祖母は、日中、山菜採りに山に入るので、その間、わたしは宿に一人残された。
部屋に押入れがなかったのであろう、畳んだ布団は部屋の隅に寄せられていた。テレビなどない時代だ。大家族の中で、また勤めに出て大人たちがいなくなったとしても、妹や従弟たちが常に周りにいる生活が普段である。突如、一人で過ごすことになってしまったわたしは、心細さに日がな一日、隅に寄せられた布団にしがみついて泣いていた。

昔の造りで襖ひとつで仕切られた部屋である。隣に逗留していたお年より夫婦が声をかけてくれ、飴玉やらを差し伸べるのだが、わたしはそれももらわず、祖母が帰るまでシュンシュンと泣いていたのであった。旅館の名前も場所も記憶していないのに、隅に畳まれた布団のある安宿の部屋の光景は今でも妙に覚えている。

わたしが温泉嫌いなのには、子供のころのこの寂しかった思い出が関わっているのかも知れない。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年7月13日 

2300年ほど前の中国戦国時代、盧生(ろせい)と言う青年が、人生の迷いを晴らしたいがため、楚の国、羊蹄山の聖者に会わんと遥か旅をして、趙(ちょう)の国の都、邯鄲(かんたん)に宿を求める。 宿のおかみが出してくれた枕で昼寝をするうちに、盧生は出世し、その内、冤罪で投獄され、疑いが晴れ、やがて栄華を極め、楚の帝となる。子にも恵まれ、50年を過ごし、ついに年老いて死を迎える夢を見る。

覚めてみると、寝る前に仕掛けられた宿の粟粥が、まだやっと炊きあがろうとしているところだった。盧生は、人生は束の間の夢だと悟り、故郷へ帰っていく。

これは中国の故事のひとつで、「邯鄲の枕」とも呼ばれ、日本では能の演目のひとつとされる。故事では宿のおかみが、仙人になっている。ちなみに「邯鄲」は小さいコオロギをも意味し、中国では「天鈴」と呼ぶと言う。

この話を知ったのは数年前の、とある本でだが、わたしはその時この歌を思い浮かべたのだった。

Row, row, row your boat,
Gently down the stream.
Merrily, merrily, merrily, merrily,
Life is but a dream.

英語を習い始めて、誰もが耳にする子供の歌だが、これはメタファー(隠喩)だと考えたのは大人になってずっと後である。 Boatはわたしたちの人生を指し、 Streamはわたしたちが逆らうことのできない時間の流れである。最後の「Life is but a dream」は他の説もあるが、わたしは「人生は束の間の夢のように短いものなのだ」と訳している。

上述の盧生が、人生は束の間だと悟り帰郷したのをなるほどと頷けるのは、わたしも65半ばの齢を既に越したからであろう。盧生のように人生を悟り、故郷へ戻ると言うのは、若い者には似合うまい。人生に迷いあり、夢あってこそ若さだと言えよう。故事に異を唱えるつもりは決してないが、若いうちに人生を悟ってしまうのは面白くないような気がする。

と、こんな長い前書きと故事まで引き出して何を言いたいかと言うと、若いときに悟ることはできなかったが、人生はWhat?と自問して生きてきた後の楽しみのようなものがわたしにはあったりする。今日はそれを書いてみたい。

わたしは時折、記憶を辿って昭和の子供時代をブログに綴ったりしているが、それは今日まで前を前をと、なりふり構わずやって来たから、あちこちに置き忘れて来たものを、今になって、懐かしく振り返り、記憶の糸を探って手にって眺めてみたい気持ちがある。

この春日本へ帰国した際、2年ぶりに妹夫婦と車で東北自動車道路を走って故郷弘前へ向かった。片道8、9時間の旅だ。義弟も弘前出身である。故郷を後にして半世紀が経とうとするが、その間、わたしが訪れたのは数えるほどで、それもここ、数年のことである。36年近くも故郷にまともに足を踏み入れることがなかったのだった。

9人兄弟だった母の兄弟もみな鬼籍に入り、いとこたちとの交流も途絶えてしまった今となっては、帰郷したところで、たいした親戚はいないわけだが、実は、高校時代の同窓生に会えるという大きな楽しみがある。今回も、久しぶりに帰郷したわたしのために、恩師を始め10人ほどが集まってくれたのだが、
この話は後に回して、と。

iwakisan

弘前の町のどこからでも望まられる美しい故郷の山、岩木山、今回は、まだまだ続くアリゾナ留学記をちょっと置き、2度に渡って岩木山にまつわる、我が昔日を記してみたい。

では、みなさま、また明日!

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年7月12日 

これはエライことになった・・・

中学時代は田舎から大阪へと急行の夜行列車で22時間もかけて、何度か家出冒険したり、高校を卒業して後は、深夜の大阪街を徘徊したりしたわたしではありますが、このときはさすがに、見知らぬ異国の町にたった一人放り出されて、心細いと言ったらなかった・・・

おまけにトム君、別れ際に「Hey、警官と言えども信用するな。」って、そんな言葉を投げつけないで欲しい^^;パトカーに乗って送ってもらうしか、他に手段はないのだ、アホめ~。元はと言えばあんたのせいだ!と、言いたい不満もこの時は、ひっこんでしまうほどの心細さでありました。

そうです、わたしはフラッグスタッフにあるグレイハウンドバス停までパトカーで送ってもらったのでした。
標高2300mの少し雪の降った町の昼下がり、バス停でわたしはツーソンまでの切符を買い、待合室の長椅子に腰を下ろした。内心は不安でブルブル震えていたのである。

長椅子に腰かけて、周囲を恐る恐る盗み見してみる。周囲が皆、わたしを、わたしのバッグを狙っているかの錯覚に襲われ、グレイハウンドバスがやって来るまでの2時間、生きた心地もなしにその長椅子にひっついて、微動だにせず化石の如し。
やがてバスが到着し、乗り込んだその一瞬、あちゃ~~~、乗客に白人は一人もいなかった・・・

偏見を持ってはいけないぞ、Yukoと、己に言い聞かせて席をとる。しかし、これは初めて見るドキッとした光景でした。欧米人が、日本人ばかりのバスにうっかり乗ってしまったら、同じように感じるのだろうか・・・単一民族国家の日本では当時は起こりえない、そしてこれが移民国家アメリカなのだ、とこの件を後で振り返って思ったことでした。認識甘し^^:

それから数時間のグレイハウンド・ジャーニーの、ただただ長かったこと。フェニックスについた時はすっかり夜になり、そこから2時間くらいがツーソンなのでした。

ツーソン着、夜の10時を回っており、休暇週末と重なって、バス停があるダウンタウンは人影も無く、ひっそりと静まっております。その時のわたしは、タクシーに乗ることすら恐怖でした。もう乗り物はいやだ・・・家への道はダウンタウンの地下道を通らねばならず、響く己の足音にびくつきながら、わたしは足早に走るが如く。いったいそんなわたしの姿はどんな風に見えただろうか・・・

ついに辿り着いた927番地!ドアを思いっきり開けて、わたしはそこにしばらく突っ立ったままだったようですw リビングで思い思いのことをしていた住人達が一斉に振り返り、「どうしたの?」と言われ、初めて、我に帰った(笑)「何が?」と、とっさに平素を装ってみたものの、「顔が真っ青だよ」の一言に、わたしはその場にヘナヘナと座ってしまったのでした。

止むを得ない数時間とは言え、グレイハウンドバスに乗って独りアメリカを走った日本女性って、他にもいるのだろうか・・・

これはわたしが上述したバスの乗客云々を別にして、女性には決してお勧めできる旅行ではありません。恐怖が三話にも渡ってしまいました^^;

とっつばれ。(←津軽弁で「終わり」の意味w)

中学時代の家出冒険はこちら↓

「夜汽車に乗って:急行日本海(1)」
夜汽車に乗って(2)」
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年7月11日 

留学記掲載をまだ終えていないのに、早や番外編とはこれいかに?(笑)
ま、お笑いなさらずお付き合いくださいませ。と言うのも、今、書かずと置かば忘れてしまわないとも限らないからであります。

3年ほど前のエントリーに、こう書いている。以下。

先週末のこと、いつものようにメールチェックをしましたら、Facebookより、
「R.G. wants to be your friend」とある。
「ろ、ろぶ?ろぶって、ともだちって!アヒャヒャのオホホのウハハハハ!」

驚いたのなんの、言い表しがたい感動が体内を駆け巡り、側にいて自分のパソコンを操っていた夫、わたしの異様な興奮振りをいぶかしがり、「なにやってるの、ドナ・ユーコ? 大丈夫かい?」と心配顔。

大丈夫かいって?大丈夫じゃない、まったく大丈夫じゃない!だって、こんなこと、ある??ええ、30年40年以上音信不通でいた旧知の友から、ある日、突然別世界から来る葉書の如く、連絡が舞い込んで来ることが!

フェイスブックは日本語教室の生徒さんとの交流の場になるかも知れないと言うのと、もうひとつは、2010年のポルトと国際親善協会共催のJapan Weekコーディネータをした際に、市のスタッフから宣伝になるから入っておけばいい、と勧めけられたのでありました。結局登録したのがJapan Weekも終了した後で、宣伝には何の役にも立たなかったのですが、わたしからするとフフェイスブックは入ったもののブログ、ホームページの更新もあってほとんど放ったらかしだったのです。

それがなんと、ツーソン留学以来、お互い音信不通になってしまっていたズッコケ仲間の一人からこうして連絡が入ろうとは。ロブとのエピソードは「アリゾナ留学記」の下記エピソードに綴ってあります。

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1577.html 「エピソード2」
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1578.html 「エピソード3」
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1598.html 「エピソード10:ずっこけ3人組」
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1601.html 「エピソード12」

実は、こんな再会がこのロブも含めて、ひょんなことから連絡がついた中学時代の親友、高校時代の親友、そして、永遠のペンフレンドことIさんたちとの再会がある。

わたしは以前にもブログで取り上げたのだが、亡くなった写真家の星野道夫さんの「人生はからくりに満ちている」と言う言葉を、ホンマやなぁと、この歳になってつくづく、そして何度も近年は噛み締めているのである。

そうそう、もうひとり、我が永遠のペンフレンドIさんのお嬢さんともフェイスブックを通して知り合いになったのだが、まさに世代を超えてのつながりができるのはネットの魅力、利点であろう。

こんなわけで、我がフェイスブックはわたしのヘタクソな英語とロブのヘンチクリンなローマ字日本語とでにわかににぎやかになっている昨今だ。


と書いたのは2012年2月2日のこと。
さて、一昨日、現在はオマーンの大学で英語教授をしているそのロブが久しぶりにフェイスブック(以下FB)にメッセージを残していた。

「Hi, genki?  今、北欧にいる(奥方も英語教授で北欧の大学で教えている)。来週にはロンドンで開催される父の生誕100年記念の絵画展示会のオープニングのため、英国へ向かう。それからアメリカだ。」
そう言えば、大阪で知り合った当時、父は画家、パリでアメリカ人の母と出会ったのだ、兄貴がいる、と言っていたのを思い出した。人のことを根掘り葉掘り聞くのは趣味でないわたしは、取り立ててどんな画家?など、彼に訊ねることもしなかった。

しかし、ロンドンで生誕100年記念の展示会と聞いて、苗字から検索してみると、あららのら、Wikipediaに載っているではないの。 そのお父上の顔写真を目にして、「きゃ!ロブそっくり!」、いや、ロブがお父上にそっくり!、であった。 経歴には抽象画家とあり、国内外で数々の賞を受賞しており、その作品の多くは国内のアートギャラリーなどで展示されている。家族としてロブの名前も記されていた。

ロブはと言えば、奥方との共著でケンブリッジ大学出版のTOEC 試験受験用の本を出している。わたしはこれらのことを今回検索するまで知らなかったのであった。近頃の、メッセージに残すわたしのハチャメチャな英語を目にして、アハハハ、ロブめ、「おい、Yuko。なんちゅう英語だ」と、内心目を回しているに違いない。

わたしがロブと知り合ったのは大阪で、「ずっこけ3人組」とわたしが呼ぶところの一人、アメリカ人のブルースを通じての、今から37、8年も昔のこと。彼が持病の喘息を抱えながら吸入薬を肌身離さず、ヨーロッパ、アジアの行く先々で、英語講師をしながら、費用ができたところで次の国を目指すという、バックパッカー世界一周旅行をしていた途中でのことだった。

イギリスの大学を出てしばらく役所に勤務後にこの旅行に出たと聞いていたから、ツーソンを出て南米を回り、恐らくその後、自国に帰国して大学院で再び学んだのだろう。あの頃の彼は、旅での記録の日記を常に書いていたのを覚えている。

もしかしたら、いずれ、世界旅行記でも出すのかもしれないと思い、「わたしのこと、変な風に書かないでよ!」などと、時々冗談めかして言っていたのだが、あの旅行記録はどうなったのだろうか。ロブが書くよりもわたしが先に、拙ブログで彼のことを取り上げているとは、かれ、夢、ご存知あるまい(笑)

持病があったので自分が60過ぎまでも生きられるとは思ってもいなかった。数年後の退職後にはどこか気候のいいところに落ち着くつもりだ、とは彼の言。その「数年後」も迫っている。ロブよ、ポルトガル南部アルガルブ地方は年中いい気候だし、定年後、移住しているヨーロッパ人がたくさんいるよ。なんだったらポルトガルに来る?世界を歩き回った彼とは比べられないが、わたしも生きる意味も求めて、若い頃はあちこち彷徨したものだ。そうした二人がポルトガルを終の棲家にするとしたら、なんと愉快な話ではないか。

「人生はからくりに満ちている」と、写真家、星野道夫さんは言っていた。そうしたら、またひとつのからくりがほどけることになる^^ そんなことを想像しながら、彼が最終的にどこを落ち着き場所に決めるのか、実は楽しみにしているのである。

よろしかったら、こんな話に因んだ下記過去ブログをどぞ。

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-371.html「人生はからくり()」
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-846.html 「人生はからくりに満ちている(2)

本日もお付き合いいただき、ありがとうございます。お時間あらば、下記、ランキングをクリックいただけると、嬉しいです。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年7月10日 

同じアリゾナ州と言えども、フラッグスタッフは標高2300mとあって、ツーソンとは俄然気候が違う。
翌朝目が覚めると、宿泊した屋内ではガンガンストーブを焚いておりまして、外はうっすら雪化粧。近くの小さなスタンドカフェに入って、わたしたちは軽くブランチ(朝食兼昼食)を終え、さて、ハイウェイへと向かってトム君が走らていましたら、後ろからゆ~っくり、スゥーっとパトカーが来まして、ピタッと横付けに止まりました。

えぇ?と思っていますと、トム君が運転席に座ったまま制服姿の警官と一言二言話して、免許証を出しましたです。

「雪が車の屋根に少し積もってるし、道にも気をつけて、だそうだ」

と何事もなかったようで、わたしたちは、後は市街を抜けてツーソンへ一路まっしぐら。しばらくハイウェイを突っ走っていましたら、バックミラーにパトカーが後ろに走って来るのが見えた・・・しかも、かなりのスピードです。

「あれ?。まさか、この車を追っかけて来てるわけじゃありませんよね?」
「なんで。だって別に悪いこと何もしてないよ」
「うん。そうだよね・・・だけど、他にこのルートを走ってる車、ありませんですが・・・」
ふと、嫌な予感が・・・した。

するとですよ、後ろからパトカーがなんか叫んでるのが聞こえてきた!
「フリーズ!その車、止まれぇー!」 (←映画ならこうなるとこだろうかw 「フリーズ」とはアメリカの警官語で「動くな!止まれ!」である。アクション映画でよく耳にする言葉だ)

こちらの車は走ってる訳でして、実際にあちらさんが、なんとガナッってるのかわたくしは存じませんでしたが、かなりヤバイことが起こりつつあるのは、なんぼドンくさいくても、雰囲気から分かりましたです^^;運転していたトム君も、「な、なにがやの?」と訳が分からない顔で、しかし、即座に停車。

二人の警官がこちらへやって来て、トム君、車外にでるよう促されました。見ると、先ほどフラグスタッフの町で、「雪道だから気をつけて行きなさいよ。」と声をかけてくれた二人ではありませんか。あれはこちらを心配して注意してくれたのではなくて、車のナンバーからよそ者とわかって、それで様子を見がてら、と言うことだったのでしょ・・・

トム君と警官とのやりとりがしばらく外で続いていたと思ったら、ありゃ?ト、トム君^^;て、手錠なんかかけられてます~~~????警官の一人が助手席に座ったままのわたしのところに来て、

「彼が君と話したいと言ってるよ。」 い、いったいこれはどういうことなのよ?

トムの説明はこうでした。
フェニックスの大学にいたとき、交通違反で罰金を科された。しかし、しょっちゅう住居を移動したので、(アメリカ学生の間ではよくあることです)その通知が届かなくなり、罰金未納が重なってドンドン増えて行き、結局「Wanted」で、警察のコンピューター検索でひっかかったとのこと。1000ドルを払ったらすぐ釈放て・・・^^;

「持ってますけど、持ってまへん~~~」

ごめんよ、トム君。1000ドルが例え君を今救うとは分かっていても、これを使うことは、できない。なぜなら、わたしは学生ビザで滞在していて、この留学のために数年アサヒビアハウスの歌姫バイトをして貯めた留学のためのキチキチの預金証明を、アメリカで求められたら常に出せる状態でいなければならない、しがない貧乏留学生なのです^^;

許しておくんなさい、おっかさん~。(ちなみに、当時のツーソンでのわたしの生活費は月に300ドルでした)

友人トムをフラッグスタッフの留置場に見捨てて、わたしはひとり、グレイハウンドバスで、ツーソンに帰ることになったのでありました。なんでも経験してみるものだとは言うものの、こんな経験は果たしてしてみていいものかどうか。おすすめできるものではありまへん・・・

まだまだ続くこの恐怖~。

-to be continued-
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
エピソード13 「恐怖のグレイハウンド・バス」(1)

註】グレイハウンドバス:アメリカ全土を網羅する長距離バス。車体に大きく走るグレイハウンド(痩せた快速の灰色の猟犬)
の絵が描かれている。

greyhoundbus.jpg
画像はwikiから。


927番地を早く出たい思いで、話が前後してしまいました(笑)ケンタッキーインに移るしばらく前の恐怖の体験をばひとつ^^;

いや~、おアホがいろいろ失敗してきましたが、これは我が人生でたった二つある真の「お顔真っ青」事件のひとつです。

たったふたつだけ?て、突っ込みですか。あっはははは。
数ある失敗はしてきましたが、まぁ、なんとか許されるものがほとんどでしょう。勝手に決めてますw 心底冷や汗が出るような事件というのには、普通の人間であればそうそうザラに出会うものではないと思うのです。しかし、これは、今思い出しても汗がタラーと流れてまいります。

謝肉祭、つまりカーニバルの短い休暇の時のことです。謝肉祭は移動祝日でその年によって変わるのですが、あの時は2月だったと記憶しています。そろそろアメリカ人の友人も何人か出来てきた頃でした。

キャンパス内で声をかけられて知り合った大学生に、トム・カツコー君と言う20歳そこそこの若者がいました。ツーソンの大学に来る前は、フェニクスのアリゾナ大学で学んでいたのが、興味のある教授がツーソンの方にいたので、こちらに学籍を移した、と聞きました。アメリカの大学制度の羨ましいところは、ここですね。

日本の大学受験を目指し合格した我がモイケル娘が3年目に入るという時になって、早稲田大学から北九州大学へ編入したときは、諸々あり、おおっぴらに反対はしなかったものの、母として焦ったのは事実です。なにしろ、日本では途中で他大学への編入はほとんどないらしい。モイケル娘のこの件についてはこちらで綴っています。

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-401.html

モイケルよ、あのまま早稲田に残って卒業していたら、いいか悪いかは別にして、人生は変わっていたぞ。いえいえ、決してあのままが良かったという意味ではない。ちと、遠回りの道を歩んだということであります。

話をもどしまして、その友人トムに誘われて、フラッグ・スタッフと言う町に住む彼の友人のパーティーに一緒に行こうと言うことになったのです。フラッグスタッフは、ツーソン、フェニックスからグランドキャニオンへ向かうルートの中継地。標高2300mにあってアメリカでも一番高所にある町と言われる。

始めはロブも同行の予定だったのですが、急遽彼は予定を変更し、結局トムと二人で出かけることになりました。
ツーソンからは車で数時間かかり・・・なにしろトムの車もロブのに劣らぬほどのポンコツ車ではありましたから^^;トムの友人とフラッグスタッフの学生寮で合流し、その夜はカーニバルパーティーへと繰り出しました。なに、パーティーと言ってもあちこちから集まった知り合い、知り合いのまた知り合い、そのまた知り合いであれば、誰でも入れると言った具合で、会場は個人の持ち家。みんな床に座り込んで、軽い飲み物とスナックで後は自由に会話です。

パーティーのその後、知り合いになった皆さんがどうなるかは、わたしは存じませんで、はいw。
少なくともわたしとトムは、翌午前中にはツーソンに向かって発ちたいと思っていましたので、友達の友達宅に(つまりわたしからすれば会ったこともない人でしてw)泊めてもらったのでした。ここまでは、事件も起こらず無事に事は運んだのであります。グレイハウンドバスがなんでタイトルになっとるのかと、不思議に思うでござんしょう。

この翌日なんです、恐ろしいことにであったのは・・・    

-to be continued-

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年7月6日 

先週水曜日の小児病棟での影絵ボランティアは、子供用テーブルを高さを上げるなどのセッティングに手間取り、終わって見たら、「あ!」と一枚の写真も撮っていなかったことに気づき、あははは^^;なのでありました。

高さを上げるために使おうかと考えた積み木は不安定気味なので結局使用せず、前日にあちこちの建材所を見て回り、見つけて買ったのがこれです↓

ashitate.jpg

これを写真の右のようにして、テーブルの脚を乗せ、Oちゃんのアイデアで脚に新聞紙で筒を作って巻き付けガムテープでテーブルの脚が動かないようにしっかり固定しました。四方の角ばった部分が危険なので、この箇所も同じように新聞紙でカバーしました。子供がいるところですし、わたしたちも結構そそっかしいので、この角に脚でもぶつけたら怪我をします。これは万全の処置です^^

観客は入院中の子供たちは7人くらいに、看護師さんやボランティアの人たちも加わり14、5人だったでしょうか。中には車椅子で点滴用スタンドを付けた子供がいました。わずか20分ほどの上映ですが、
これくらいが丁度良いのかも知れないと思いました。影絵が終わった後の簡単な折り紙ワークショップは、子供たちよりも看護師さんやボランティアの大人が残り、ティラノサウルスと折鶴を作りました。

が、折鶴はなかなか手こずっていました。でも、彼らに覚えてもらうと、入院している子供たちに教えるたり作ってあげたりすることもできるであろうと思います。なんだか再び声がかかりそうな気配です。


さて、認定が延期されていた「軍艦島」や「韮山反射炉」など、幕末から明治にかけての重工業施設を中心とした23施設が世界文化遺産へ登録されたとのニュースを今朝、読みましたが、わたしは手放しでは喜べないのです。

日本の世界遺産申請の認定が延期されたのは、事前の日韓外相合意があったにも拘わらず、隣国が、当日「強制徴用」をめぐって合意を反故、反対活動を展開し、世界遺産登録が紛糾したからです。遺産登録に向かっての日韓合意を知った時、「これは、日本、大丈夫じゃないぞ」と思っていたら、案の定、当日になって紛糾ですとさ!

今朝、登録されたとの記事、内容を読んで、大いに失望しました。世界文化遺産登録が決まったというけど、土壇場で韓国の理不尽な要求に従ったみたいで、ちっとも嬉しくない。今後、この「forced to work(働かされた)」の表現がどんな風に韓国で利用されていくのか、南京虐殺、慰安婦問題のようにまた国際社会であたかも事実のように広められるのです。

政府は「『強制労働』を意味するものでない」なんて説明していますが、forced to work、は 「強制労働」じゃないの、この英語。施設一部で「その意思に反して働かされた」、「犠牲記憶する施設」設置の意向も、だなんて、強制労働を認めさせられたではないですか。
これまでのあの国のやり方を考えると、またぞろ問題になってくることをわたしは確信できます。ほんとだめだなぁ、日本の対外政策。情けない。こんな条件がつくなら登録されなくてもよかった。世界遺産という目先の益に捉われ、国の将来に大きな禍根を残したとわたしは思います。

国会の幼稚で的外れな質疑応答を見るにつけ、日本よ、母国よ、どないなっとるん?と、このところ、ため息ばかりを漏らす日々、久しぶりにこんな美しい夕空を台所のベランダから見ました。

July2015-1.jpg

神、空にしろしめす。なべて世はこともなし。か・・・・

本日もお付き合いくださり、ありがとうございます。
お時間あらば、下記のどれでも結構、ランキングクリックをしていただけたら嬉しいです。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2015年7月3日
 
さすが紳士の国のイギリス人。
ギクシャクしていた仲とは言え、わたしが引っ越し先を探すとなると、内心はどう思ってか知りませんが(笑)我が友ロブは、少なくとも表面は何気ない顔で、あちこち一緒に行動してくれました。

まず、大学構内にある学生の情報交換場である掲示板でめぼしをつけた。ここへ行くと、いろんな情報が貼ってある。
「ルームメイト求む。月々○○ドル負担」
「当方女性。同性のルームメイト求む。個室あり。光熱費共同負担」
と言った具合です。

「ふむ。どれどれ、ここなんか値段もそんなに高くないし、大学からも、これまで住んだ927番地からも近い。それに女の子募集とあるぞ。よし、とりあえずここをあたってみよう。」

ということでロブと連れだって下見にでかけた一軒家。

呼び鈴を押すと、あ、あれ?出て来たのは若い男・・・
だって、女の子募集とあったぞ・・・おかしいなと思いながらもとりあえず、案内されたリビングに入った。

早速シェアハウスの話を聞いてみると、なぬ?寝室は一部屋しかない?あたしはどこで寝るのよ?
あんたはリビングのソファで寝て、わたしはその一部屋のベッドだって?冗談じゃないぜ。なんだそりゃ。危ないったらありゃしない。そんなんなら最初から掲示板に「当方、若い男だが女性求む」と書いてくれぃ!考えさせておくんなさい、とその場をそそくさと出た。

歩きながらロブいわく。
「Hey、Yuko、あそこ、止めといた方がいい。あの家に庭があったけど、ぜったい2、3人の女の死体が埋まってるぞ。」なんて、ニタニタしながら言うのである。それこそ止めてよね、ロブ^^;

そう言いながら歩いてぶつかったUniversity Boulevard。「Boulevard」はフランス語を語源とし、ブールヴァールと読むようだが、アメリカ英語では「ブールヴァード」だ。街路樹が側道が整えられて大通りを言う。 「空き部屋あり」と看板が出ている。「あそこを見てみよう」とロブと二人ドアと叩いてみたら、案内してくれたのは、そこの下宿人の一人、男子学生だった。

部屋は個室だ。よろしい。台所トイレは共同。うん。これもよろしい。しかし、シャワールームを見てびびった・・・西部劇の酒場の玄関の両開き扉、あるでしょ?客が出入りするたびに、前後にバタンバタンと開き閉めするちっちゃいの。あれなんですよ。あれがシャワールームのドアで、それが6つくらい並んでる。下手すると、いや、下手しなくたって見えるじゃん!男ならまだしも、いつ、誰がシャワーを浴びに入ってくるか分からない。そんな中じゃ、オチオチとシャワーも浴びていられまへん。け、けっこうでございますと、これもそそくさと退去した。

そうして入った同じ通りの数件向こう、2軒目の「空き室あり」の下宿屋。丁度いい具合に、おばさんが掃除をしていました。聞くと彼女がこの下宿屋の持ち主で、メキシコからの移民でこの一軒家を手に入れ、現在は下宿屋にしているとのこと。

下宿人は12人おり、あと二部屋空き室がある。入っているのはみなアリゾナ大学の男子学生。個室にはベッドと机があり、バスルームも上階下階と2つずつ、4つある。もちろん、アメリカの一般家庭ならどこででも見かける普通のバスルームである。台所もかなり広い。自炊はもちろん自由だ。ちょっと高いと思うが、よっしゃ!ここに決めた。

こうして移った下宿屋は、その名も「ケンタッキー・イン」。わたしは、そこの13人目の下宿人で、たった一人の女子であった。

では、みなさま、次回に続きます。

Kentucky-Inn

「ケンタッキー・イン」。まこと、古い写真で恐縮である。右端にスッピンで半分写っているのがわたし。中央には日本人学生らしき人が。この写真はインで日本人のパーティーの時に撮影されたのをもらったものだ。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
Click for Porto, Portugal Forecast 
ポルトガル ポルトの口コミ
ポルトガル ポルトの口コミ にほんブログ村 外国語ブログ マルチリンガルへ
にほんブログ村