2015年8月31日

友人MoriとMontereyでしばらくホームステイをしながら、わたしはサリナスにあるアダルト・スクールをあたってみた。サリナスはスタインベックの「エデンの東」の舞台になった小さな町である。

これは自分がアメリカに居残るとしたら、を考えてのことである。アダルト・スクールと言うのは、年齢に関係なく、そして、時には国籍も関係なく、市民が英語やカルチュア関係の勉強ができる夜間学校である。また、アメリカの大学には、学部レベルと院レベルの夜間社会人クラスがあり、必修単位を修めれば、学位やCertificateも貰え、これらのコースは学費が安いと聞いていた。

常々、わたしが思うことだが、色々な理由で大学へ行くことができない、あるいはできなかった人に、勉学の機会を与えてくれるアメリカと言う国のこのような制度の素晴らしさである。

少子化で学生定員を割る大学も今後、大いに出てくるだろう、日本の状況を考えると、どうして定年退職して時間をもてあましている団塊世代を大学に呼び込まないのだろうかと、わたしは思うのだ。日本の大学で学ぶには、日本語が必須である。経営のため定員数を埋めるために、下手に日本語もろくすぽ理解できない海外からの留学生を際限なく呼び込むより、この方法に目を向ける価値はあると思うのだ。

もちろん、団塊世代は年金生活者であるから、入学費、授業料は正規の学生より大いに下げる必要がある。定員に満たないがため、志望者全員入学など愚かな策をとって日本の最高学府の学力を下げてしまうより、わたしの提案する策の方が、若い人と人生経験者である年配者との交流を生み、老若男女、切磋琢磨することで、キャンパスそのものに活気が溢れ、学力向上にもつながると考えるのは、わたしだけだろうか。

これはわたしの持論なのだが、大学入学において経済的な問題を抱えていても、頭がいい人は、周囲のサポートがあったり、大学入学時の成績によっては授業料免除などの制度を受けることができたりと、なんとか道が開けるのである。
経済的な問題を解決できるひとつの方法として「学生奨学金」があるではないかと言うかも知れないが、
それで学費をまかなうことはできても、生活費がいるのである。都市の大学に通うのであれば尚更だ。生活費を稼ぐために日夜バイトづくめでは、学業に支障をきたすこと明確であり、奨学金を受けながら勉強するとしても、親が生活費を支援しない限り経済的な問題はまだ残るということだ。

頭脳明晰とは行かなくとも向学心に燃える若者はたくさんいると思う。そのような若者が経済的な理由で進学を諦めることは往々にしてある。アメリカの大学のように、学部レベルと院レベルの夜間社会人クラスはこういう環境にある若者たちのみならず、向学心のある年配者にも勉学する機会を与えることになり、しかも、少子化で困難な大学運営の改善につながるのではないかと思うのだが、どうだろうか。

留学記が横道にそれてしまったが、さて、ESLコース終了後は、できればアメリカの大学で勉強したいと思い、準備していった高校時代の成績証明書をアダルト・スクールの事務所で示したときに、それを見た事務員が笑ったものである。
「あら、あなた、国語や英語は抜群なのに、家庭科は2・・・あはははは」 はい、家庭科はまったくやる気がありませんでした(笑)

そうして、一応の道はつけておき、Moriとは別れて再びツーソンへ引き返した。そうです。前のエピソードで書いたとおり、サンフランシスコでこの時別れたわたしとMoriは、その先20年は会う事がなかったのである。

6月に入ると、アリゾナ大学ESLコースの最終試験が始まり、アメリカではお決まりの卒業パーティーが市内のホテルで行われた。講師も生徒も着飾りの食事会兼ダンスパーティーである。留学生学生も一人また一人と少しずつ帰国して行った。

最初のエピソードで出てきた我が友ロブは、自分の世界一周旅行の残り半周を続けるため、この頃既にメキシコへ渡っていて、
「Hey,飛行機の操縦を習っている。こっちへ来ないか?」と古代遺跡のある町から絵葉書でお誘いがかかった。
「来ないかい」ってあぁた、ギター抱えてストリートコンサートしながら世界一周するなんて(ロブのアイデアw)、わたしゃそんな訳にはいかないのだよ^^;

書いてはおりませなんだが、広島で研究していた現夫とは、3日にあげず航空便のやり取りをしており、この頃受け取った手紙には、「来年3月にはポルトガルへの帰国が決まった」とあった・
「アメリカに残るべきか、残らざるべきか、That is a question」なんて、ハムレット気取りで、わたしは考えた、うんと考えた。

今でこそ、格安、自由に飛行機で移動できる世界の距離ではあるが、1970年も終わろうとしていた頃、アメリカに住んでしまえば、ポルトガルとアメリカの距離は、考えただけで遠く感じられ、恐らく永遠に彼と再び会うことはないであろう。これが彼に会う最後のチャンスだ。そう分かったとき、「Back to Japan」だ、これしかない!自分の心に聞いて素直に従うのがわたしの生きる道である^^

ESLコースの終了証明書もなんのその、いったん決めたが最後、spacesis、後も振り向かず、唖然とするツーソンの友人達を振り切って、LA経由でさっさと大阪へ引き返したのであります。(笑)

到着した伊丹空港には、和歌山は「かつらぎ山房」の主こと、我が親友「みちべぇ」と、「あの頃ビアハウス:グッドチーフ・バッドチーフ」で登場している「グッドチーフ」とが待っていてくれた。日本ではもはや行くあてもない風来坊のわたしは、出発したときと同じ白い旅行かばんひとつを引きずって、そのまま空港から3人で梅田新道にある、我が心のふるさと、そして、わたしにアメリカ留学資金を作る機会を与えてくれた「アサヒ・ビアハウス」へと直行したのであった。

次回は「アリゾナ留学記」最終回です。

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1978 年夏。半年後に再び梅新アサヒビアハウスの入り口をくぐることになろうとは。
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2015年8月29日
 
痩せているわけではないのに、わたしは小食です。37年もポルトガルにおりますが、この国の食生活にはいまだ慣れないのが正直なところです。オリーブオイルは好きですが、それをたっぷり使った料理が多量に皿に盛られて出されると、もうそれだけで、食に取り組む気が失せます。

オリーブオイルに限らず、ポルトガル料理は油たっぷりが定番です。これと長年付き合っていくにはしっかりした胃袋が必要だと思います。また、一人分の量の多いことと言ったらありません。

通常、こちらのレストランのメニューには、分量として「uma dose(ウマ・ドーゼ) 」 「meia dose(メイア・ドーゼ)」の2種類が見られます。uma doseは一皿の分量ですが、これを一人分だと思って注文すると、大変な目にあいます。わたしからすると、この分量は3人分はある。その半分のmeia doseが日本人の大人の胃にはちょうど一人分になります。

ところが、このmeia doseもわたしには食べきれない。欧米のきちんとしたレストランでは一皿を二人で分けて食べます、というのは、マナー違反になり、そういうレストランに行くと、わたしはまったく困ってしまいます。
わたしが「うちのダイニングルーム」と呼ぶ、近くのよく行くレストランは長年通っているもので、わたしの小食を知っており、そこでは、常にmeia doseをお願いし、それを夫婦でたべるのですが、十分の量です。まぁ、かほどにポルトガル人の胃袋は大きいということでしょう。

そのように小食のわたしですから、昼食などはタパス(スペイン語「タパ」が語源で、小皿料理の種類)を望むところですが、これがポルトではあまりないのです。隠れ場を見つけて通い始めるも、いつの間にか閉店してしまうのは、小皿料理ゆえ少量なのと、料金が少し高いことから、ポルトガル人にはあまり人気がないのであろうと推測しています。今まで気に入って通ってきたタパス・レストランは全部なくなっています。

前置きが長くなりましたが、そんな訳で、今回通ったポンテ・デ・リマでは、おいしいと噂のタパスもメニューにあるレストラン「タベルナ「Vaca das Cordas」で簡単な昼食をしてきました。

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タパス、タパという言葉は日本語でも一般的に知られてきたようですが、ポルトガルでこれに似たようなものは「petiscos(ぺティースコス。複数です)」と言いますが、タパスに比べると種類が少ない。

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店内の壁は「Vaca das Cordas祭」のポスター一色です。
vaca_das_cordas

昼食の時間帯でしたが、店員さんに正規の食事でなくて、軽くpetiscosでいいかと聞きましたら、OKと言われ、4皿ほどのそれと生ビールを。下はその一皿、Cogumelos com Presunto(生ハムとマッシュルーム)です。

vaca_das_cordas

その他、Bolinhos de Bacalhau(タラのコロッケ)、サラダ等などをいただいて、これで十分な昼食です。

生ビールは、尋ねられた時はポルトガル産の「Super Bock」がわたしたちの定番ですが、レストランにより、取り扱い専門のビールがあったりするので、店のお任せです。冷たい一口で、ドイツかベルギー産か?と思ったらベルギー産でした。

vaca_das_cordas
 
インフォメーション:
住所:Rua Beato Francisco Pacheco 39 - 41, Ponte de Lima Portugal
営業:10:00-2:00
休日:日曜日
平均料金:一人当たり15ユーロ
駐車場なし

ベルギーのビールについては、ブリュッセルを訪れた時に、こちらで書いていますので、よろしかったらどぞ。

ベルギー・ビア
「突然死」と言う名のビアカフェ

ではみなさま、また。

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2015年8月26日 

ポルトガル北部を周って来た今夏の休暇旅行は既に述べたとおりですが、前回紹介したバルセロスから、昼食がてら、ポンテ・デ・リマ(Ponte de Lima)に立ち寄りました。
 
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人口44000人ほどの小さな町ですが、12世紀初期に町として作られた、ポルトガルでも最も古い町のひとつです。古代ローマ時代、この町はローマ人兵がブラガからサン・チアゴ・デ・コンポステラへ向かう通り道になり駐留地でした。町の名から分かるようにリマ川に長い古代ローマ橋がかかっています。古代ローマ人がこの橋を渡って行進して行った事を想像すると、小さな町が一挙に壮大な歴史の1シーンを担う重要性を帯びてくるような気がします。

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後姿で失礼(笑)

さて、昼食は夫の知人が勧めてくれたタベルナ「Vaca das Cordas(ヴァカ・ダス・コルダス)」を探して。タベルナについてはPt.2でご案内します。

Vacaは雌牛、Cordasは縄のことです。タベルナの名前になっていますが、Vaca das Cordasは毎年春にこの町で開催される「牛に追われる祭り」なのです。

ponte_de_lima

「牛祭り」と呼ぶ人もいますが、わたしはむしろ「牛に追われる祭り」と言いたいところです。群集の中に雌牛が放たれ、けしかけるのですね。時には怪我人や死人が出ることもあります。

因みに私的な意見として、わたしはこの手の動物を使った行事には国技と言えども同意しません。闘牛も動物愛護団体の強い批判を受けスペインのカタルーニア地方では禁止されるようになり、スペイン国内でも大分なりを潜めてきましたが、まだ闘牛は行われています。

ポルトガルの闘牛はスペインと少し違い、牛を殺さないと言われますが、それでもゲームとして牛をけしかけ、血を流さすことに違いはありません。わたし自身は見たこともありませんし見たいとも思わず。見世物で生き物の命を公共の場にて奪うことには、どうしても反感を覚え、むしろこの手の催し物禁止の署名運動に参加する方です。

今回はこの祭の成り立ちを調べてみました。
Vaca das Cordasの伝統は17世紀に始まったと言われます。17世紀といえば、ポルトガルは国王に世継ぎなく、スペイン国王とその国王に嫁いだポルトガル王后との間に生まれた王子がフェリペ1世ポルトガル王とし即位し、以後フィリペ王朝として20年間「同君連合」の時代が続きます。

スペイン王がポルトガル王を兼任するということです。ポルトガルは不覚にもスペイン王の半島統一の野望に好機を与えてしまったということになります。17世紀半ばにドン・ジュアン4世を国王に立てポルトガルは再独立し、ブラガンサ王朝が始まるという時代です。

起源はこの地方に伝わる伝説にあります。現在もリマ川の側に残るIgreja Matriz(Mother church)ですが、この教会はその昔、女神が雌牛の形として崇められた異端教の寺院でした。その寺院がキリスト教会に変えられた際、寺院内にあった雌牛の像が祭壇から取り出され、縄がかけられて寺院の周りを3度引きずり回された後、人々が町の通りを引きずりまわしておもしろがったとのこと。

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こういう話を聞くと、その前までは神として奉っていたものであろうに、異教だからとてそこまでせんでもええがな、今も昔も人間は残酷なものだなとわたしなどは思います。これは一神教の怖い面です。

ところで、恥ずかしいことに、雌牛は角がないものだとばかり本日今まで勘違いしておりましが、今回調べて初めて、牡牛雌牛に関わりなくほとんどの品種には角があるということを知りました。角がないのは、除角(角をとりさる)するからなのだそうです^^; みなさま、ご存知でしたか?

さて、雌牛が女神として崇められていたという点でわたしに思い浮かぶのはこれです。

ponte_de_lima
  
これは、わたしが神秘主義やシンボル研究の参考にと思い入手したタロットの1枚で、「女教皇」と呼ばれるカードです。タロットカードにはマルセイユ版とウエイト版があり、「キリスト教徒でなければ人にあらず」の中世時代に、神秘主義者たちがタロットカードを通じてその教義を密かに学んだとされます。

タロットには56枚のカードをセットとする小アルカナ(アルカナ=秘密、神秘の意味)と22枚セットの大アルカナがありますが、一般的には大アルカナが知られています。一枚一枚の意味深なカードには興味があるものの、私自身は占いは不気味でしませんぞ^^

カードのシンボルを簡単に説明すると、左右にある柱のうち左Bとあるのは「Boaz(闇)」、右Jは「Jakin(光)」を意味するエルサレム神殿にあった柱から来ます。女教皇が手にするのは「モーゼ5書のトーラ」です。女教皇は足元に上弦の月(乙女を意味する)を踏んでおり、後ろには豊穣のを意味するザクロが見えます。

頭上にはトリプルゴッデスと呼ばれる三相女神の印である、上弦の月、満月、下弦の月を乗せています。これは、死、再生を永遠に繰り返す循環を意味します。古代エジプトの女神ハトホルと同じです。ハトホルのシンボルは雌牛です。
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というので、やっと「雌牛」にたどり着きました。キリスト教から見れば異教とは言え、雌牛は女神のシンボルです、遊んではなりませんぞ~~。

では、本日はこれにて。次回の旅行記は「ポンテ・デ・リマ」がもう少し続きます。

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2015年8月23日

ポルトガル時間、真夜中の3時ごろ、電話が鳴る。夫が枕もとの受話器を取り、英語で受け答えする。
「Moriからだよ」
するとわたしは眠気まなこをこすりながら、起き上がって玄関口に備えてある親子電話に出る。
「おい、今そっち何時?」
「夜中の3時です~」
「うん。それでさ」(←なんで、それでさ、なのか(笑))

こうして始まるアメリカとポルトガルの真夜中談話(笑)向こうは少々お酒も入ってご機嫌なのである。
わたしには少しアイツの気持ちが分かるのだ。お酒が入ったりしてちょっと気が緩むと、とたんに日本や日本の友人が恋しくなる^^。どんなに異国に長く住んでも、そこでの生活に根をおろしていようとも、そういうときにはたちまちに、祖国へのノスタルジアが頭をもたげて来て取り込まれ、やるせない気持ちになるのが。人恋しくて母国語で思う存分話したい思いに駆られる。深夜の国際電話は決まってこのMoriなのである。
移住するつもりのわたしが半年で日本へとって返し、カリフォルニアに短期間ホームステイする予定の彼が、その年の秋からMontereyにある大学院に入学し、奨学金とバイトで頑張り通して現地学生を尻目に主席で卒業したのには、随分驚いた。

卒業と同時に、2年間付き合って来たアメリカ女性と結婚し、男3人女1人の4人の子供にめぐまれ、院で取ったコースとはまったく関係のない、バイト時代の延長そのままに、日本庭園師の事業を起こしたのにもまた、少なからず驚かされた。今では、市の請負までするようになり、30人ほどのアメリカ人も雇用していると言う。

人生はなって見なければ分からないものだ。だからこそ面白い。

電話で手紙でとお互いの近況を知らせ合いながら、「いつか会おうぜ」の合言葉が一向に現実味を帯びず、お互い日本へ帰国してもすれ違うばかり。そうこうしているうちにいよいよ、20世紀も終わろうという年に入ったある日、
「おい、俺たち20世紀が終わる前には、会おうぜ!」ということになり、いよいよもって、彼は娘を、わたしは我がモイケル娘をお供に、4人で家族旅行をしようとあいなった。

実はしょっぱなから勘違いですれ違い(笑)。大阪から新幹線で上京してくる彼らと、わたしはプラットホームで会うものと思い、MoriはMoriで、東京駅のご存知「銀の鈴」で会うものと・・・^^;その年は殊の外暑く、ホームを行ったり来たりのあげく、妹を連絡口とし、約1時間後にやっと「銀の鈴」で20世紀最後、20年ぶりの再会を果たしたのであった。
「俺の出世祝いだ」と言って、アメリカで用意して持ってきた日本国内一週間のJapan Rail Pass周遊券を贈られたわたしとモイケルは、東京を振り出しに彼らと東北の旅へと向かった。しかし、なんせ酒には強いヤツ、おまけに20年間の話が溜まりに溜まって汽車のなかでも宿でも喋るわ喋るわ(笑)

行く先々で、「僕ら、家族ではありまへんねん。こっちのアネさんはポルトガルから、でボクはアメリカから。夫婦でのぉて、友だちでんねん。20年振りに日本で再会して旅行してます~」と聞かれもしないのに説明に走り、相手をキョトンとさせるアイツ^^ わたしはホテルの方がいいというのに、「せっかくの日本や、旅館やで。温泉やで」と言って譲らないアイツ。

前の晩、遅くまで飲んでたと言うのに、朝方早く5時頃にはもう起き出して、一人サッサと温泉に浸かり、部屋に帰ってきては、まだ寝こけてる3人を「Hey, guys!」とたたき起こし、またまたわたしを朝酒につきあわせるアイツ。二人の女子は逞しくも抵抗して、朝っぱらから部屋で大声で話し、大笑いしている大人二人を尻目に、頭から布団かぶって徹底的に寝入っていたのであった(笑)

「一杯のコーヒーが欲しい」と言うわたしに、
「お前、コーヒー中毒ちゃうんか?」 何でやネン・・・
「自分はどうやねん!お酒飲み過ぎちがうんかい!」とは、周遊券をいただいてしまった手前、よう言いまへん^^;

モイケル娘と彼の娘が生まれて初めての温泉だ、共に裸になって入るのはいややと言うに、「何事も経験や。入るまで出てくるな。」(笑)と言い張って譲らないアイツ。結局、二人はどうしたかと言うと、片方が入ってる間は、もう片方が脱衣場で待ってる、ということをしたようで^^;一応入るのも出るのも一緒ということでw)しっちゃかめっちゃかのヤツには、いい加減閉口気味のわたし、彼の娘に
「お父さん、うちでもああなの?」
「Yah」(←娘日本語話せないのだ~~w)
「お母さん、たいへんだね^^;」
「Yah, でも彼女、辛抱強いから。アハハ」

結局わたしたちは3日一緒に過ごしただけで、彼のバイタリティーに完敗w 四日目にして、彼らは更に北上して北海道へ、わたしたちは知人が待つ福島へと、我が故郷弘前の駅で二手に分かれたのであった。アイツを見送った後のわたしたちの姿、想像あれ(笑) モイケル娘、即、「おっかさん、疲れた~。」 もうあごを出してへなへなであった。(笑)

「俺ね、大阪でお前に会ったころ、やけくそになってたのよ。外大出てもずっと仕事につけなかった。オヤジもお袋もとっくに死んでたし、オヤジはあっちの人間だしね。お前がけっこうな歳(どういう意味じゃい!)食ってるのに、アメリカ行きの夢持って働きまくってるの見たら、俺も頑張る気になってよ・・・」

旅で初めてそんな話をしたのであった。

いいじゃないの。手紙と電話の交流だけで20年も続いたアイツとわたしの友情だ。少々疲れた再会ではあったが^^そして20世紀最後の思いのたけが叶ったとでも言おうか、ここず~っと、お互い音沙汰なしではある。

しかし、わたしは信じてるのだ。
いつかどこかから、「おい、会おうぜ。お前がくたばる前に、もう一度よ」と、深夜コールが入ってくるだろうことを。

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2015年8月22日

しばらく滞っていたアリゾナ留学記に戻って。

我が家の二人の子供達から幼い頃からずっと「Tio Mori」(=Moriおじさん)と呼ばれて来たこの御仁、わたしとは不思議な縁で付き合いが長年続いている。

わたしが渡米する少し前に、「ずっこけ3人組」エピソードで出て来るアメリカ人の友人、ブルースの紹介で、日本にいた時に知り合いになった、かなり年下の親友である。アサヒビアハウスにも時たま顔を出していたこともあるが、彼とは日本での付き合いよりもわたしがポルトガルに来てからの、20年来の手紙の交流の方が遥かに長い。

それがなぜ「アリゾナ」物語に出てくるかと言うと、これはず~っと後になってだが、彼が打ち明けてくれたのに寄ると、わたしのアメリカ移住の話に大いに触発されて、自分も、と一大決心。わたしより少し遅れて、Moriもカリフォルニアへと渡ったのだそうだ。

大学のESLコースも残すところわずかとなった6月頃、ケンタッキー・インの下宿のわたしに電話が入った。
「おい、俺、今カリフォルニアのMontereyでホームステイしてるぞ。そっちの大学コースが一段落したら、こっちへ来ないか?ここのオヤジさん、お前も引き受けていいと言ってるんだ。」

ツーソンに来て以来、この先まだどうなるか皆目見えない自分の未来、とにかく無駄金だけは遣うまいと、観光旅行などは一切避けてきたのだが、気持ちの整理をしてみたかった。わたしのような、たいして資金のない外国人がアメリカに居残るのに、そうそうおいしい話があるわけではない。今も恐らく同じような話があると思われるのだが、便宜上、アメリカ人と結婚する、というのは、わたしたち留学生の間で結構話題になってはいた。

当時の日本の旧い国際法と違い、欧米では婚姻関係を結ぶことにより、自動的にその国の国籍取得ができるのであった。国籍取得ができたら働くも自由である。ツーソンに幾人かアメリカ人の友人もできていたし、万が一の場合はと、それを申し込んでくれる男友達も中にはいたが、わたしは元来がドライな性格ではないらしい。 そのような便宜上の関係は、気持ちが向かない。

「あいつとちょっと話してみてもいいか」と気持ちが動き、思い切ってサン・フランシスコへと飛んだのである。

こうして空港まで出迎えてくれたMoriと紳士ウィリー。ホストファミリーのウィリーは、リーダーズ・ダイジェスト社にて編集長の仕事を退職し、悠々自適の年金生活をしている紳士であった。シスコの空港からウィリーおじさんの住むMontereyへ向かった。

住まいに案内されて、わたしはちょっと驚いた。何に驚いたかというと、そこは裕福な年金生活者たちのコミュニティーが、所有する閑静で広大な土地の一角であったからだ。こんなのは、サボテンの田舎ツーソンではお目にかかったことがなかった。さすが、都会である。その土地内に入るには、約束をしている訪問者と言えども、門にいる警備が敷地内の相手に電話で確認をとって初めて入れるのである。
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ウイリーは独身だが、育てた養子は既に成人で当事は入隊していると聞かされた。

提供されたわたしの部屋は、バストイレ付き、これはホテルと変わりない(笑) 部屋からは庭というより森と言ったほうがぴったりの、静かで落ち着いたたたずまいを見せる小さな自然が見渡せた。

夜ともなると、庭に突き出たベランダには、どこからかラクーン(アライグマ)の親子が姿を現し餌をもらいに来るのだ(笑)真夜中には、「天井を走り回る輩はネズミであるか、こんな家で走り回るのがいるとは!」と思っていたら、ネズミにあらず、リスだった。朝方の庭には、その小リスが現れ、庭を散歩していて人馴れしたものだった。すぐ近くには、スタインベックの「エデンの東」の舞台となったSalinasがある。

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サリナスにて。

ウィリー叔父さんから車を借りて我が友Moirと出かけたSan Francisco旅行は、二人とも金欠だったものでYMCAに泊まり(男女、部屋は別々だよん^^)、かなりけちった旅行になったのだが、Moriとの旅行は、これよりも、もうひとつ、日本でしたものの方が、遥かに記憶に残っているのだ。
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ゴールデンゲイト・ブリッジを背景に。Mori撮影。
  
サン・フランシスコの海峡を背景に。風に吹かれて髪がボーボーw
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2部へ続きます。
                                        
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2015年8月20日 

バルセロスは人口12万ほどの自治体だが、中世からポルトガルのサン・チアゴ・デ・コンポステーラ巡礼者にとっては、重要なローカル地点のひとつでした。町を流れるカヴァダ川(Rio Cavada)にかかるバルセロス中世橋(Ponte medieval de Barcelos)は、その巡礼者のために造られたといわれます。

奇跡の雄鶏の主人公が後に建てたと言われる十字架石碑は、その橋を中心街の反対側に渡った丘に建つ、バルセロス伯宮殿(Paço dos Condes de Barcelos)遺跡にありました。この遺跡は現在、「バルセロス考古学博物館」になっており、国のナショナル・モニュメントにでもあります。

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アズレージュ絵では、かつての宮殿が見られます。1755年のリスボン大地震でかなり破壊されたと言われます。
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野ざらしの博物館で、宮殿跡のいくつかの遺跡があります。

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件の十字架石碑、Cruzeiro de Galoは外庭にありました。1940年にこの場所に移動されたとあります。

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上から、十字架のキリスト、その下にガロ、首吊りの男、一番下が巡礼杖サン・チアゴです。石碑の裏はこれ。

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上はキリスト、その下は逆光で陰になってしまい判別しにくいのですが、ドラゴンだそうです。そして次が右隅に太陽左隅に月、その下が聖母マリア、最後は右手に羊飼いの棒、左手に開かれた本(聖書)を持つことから、サント・アントニオ。

石碑の正面は問題ないとして、裏側はドラゴン、太陽、月と神秘主義のシンボルが入っています。

サンチアゴ・コンポステラへの路は、キリスト教徒の巡礼路であると同時に、その実、ポルトガルのシントラから、サン・チアゴ・コンポステラ、フランスのシャルトル大聖堂、パリのノートルダム寺院、フランス北部のアミアン大聖堂を中継地とする、スコットランドのロスリン礼拝堂へ到達する秘儀参入の巡礼路ではないかとは、わたしの推測です。

してみると、伝説に「ガリシアの男」とあるのも、このシンボルを考え合わせると合点がいく気がします。スペイン、ガリシア州の州「ガラスの町コルーニャ(ラ・コリューニャとも言う)」は、紀元前にはケルト系民族が住んでおり、神秘主義にもつながります。数年前に訪れたコルーニュでは多くの面白いシンボルを見つけ、小躍りしたものです。ガリシアに近い北部ポルトガルも少なくともその影響を受けているはずです。

「ガリシアの男」とは、暗に神秘主義者、秘儀参入者を指しているとすれば、奇跡を起こしたという伝説は、いかにもと、頷けるわたしであります。

下記はコリューニャの旅行記です。
 スペイン、ヘラクレスの塔

スペイン人と英語、見習うべきかもだ

では、また。
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2015年8月18日 

今月上旬の夏季旅行で、ポルトガル北部のBarcelos, Ponte de Lima,Melgaço,Monçãoを周って来ました。体調もようやく回復し始たところで、今回はその旅行記を。

毎回のことですが、わたしたちの国内旅行の足は全て車です。日本からの旅行者用に、少し電車情報を。バルセーロス(Barcelos)へは、ポルトの街の中心にあるサン・ベント駅とカンパニャン駅から電車が出ます。ローカル電車(Regional=レジョナル)で1時間ちょっと、それより早いインター・レジョナル(InterRegional)だと45分ほど。両方あわせて、日に10本以上出ていますので便利です。

参考がてら、下はポルトガル鉄道(Comboio do Portugal. 通常、頭文字をとってセーペーと呼ぶ)のミーニュ線(Linha do Minho)の時刻表サイトです。
https://www.cp.pt/StaticFiles/Passageiros/horarios/horarios/PDF/r_ir_uc/porto_
valenca.pdf


バルセロスと言えばガロ(Galo=雄鶏)、と、今では日本人の間でずいぶん広まったと思います。ポルトの土産店でも大小のガロの置物から、エプロン、鍋つかみ、テーブルクロスなど、様々な布にもデザインとして使われています。

barcelos_galo
この画像はWikiより。

わたしが、「バルセロスの雄鶏」としてエッセイに取り上げたのは2006年のことで、その頃は大して知られていなかったものです。今回は再度、そのエッセイをここに掲載してみます。


真実の証、ポルトガル、バルセロスの雄鶏

barcelos
バルセロスの町中、いたるところで見られる大きな雄鶏こと「ガロ」


ポルトガルの雄鶏「galo=ガロ」が世にでたのは、1966年にイギリスで行われたワールドサッカーのイギリス対ポルトガル戦の準決勝の時であります。このガロはポルトガルチームのマスコットとして登場し、準決勝では惜しくもイギリスに下され、三位に甘んじたポルトガルチームですが、それでもポルトガルが上位に躍り出たのはこの時が初めて。

大喜びのポルトガルチームは会場でマスコットのガロを掲げ、以後、この雄鶏はポルトガルの象徴となったのでした。ちなみに、この時のワールドサッカーの得点王は、ポルトガル選手、Eusebio(エウゼビウ。20104に心不全で死亡。71歳。国立のパンテオンに眠っている)なのです。

このガロはポルトガルでは「真実の証、バルセロスの雄鶏」として知れらています。バルセロスは地理上でポルトの上部、ミーニュ地方にあり、当地ポルトのサン・ベント駅から約1時間ほどで行くことができます。「真実の証の雄鶏」の伝説に似たり寄ったりのものがいくつかありますが、下記に載せるのはそのひとつです。

昔から、イベリア半島の巡礼地のと言えば、スペイン、ガリシア地方にある「サンチアゴ・デ・コンポステラ」でした。9世紀の初めに、キリスト12使徒の一人、聖ヤコブ(ポルトガル語スペイン語ではサン・チアゴ)の墓がここで発見され、以後聖地と定められました。ファティマ巡礼同様、サンチアゴ巡礼も現代でも行われまれていますが、サンチアゴ・デ・コンポステラは、わたしも二度、家族旅行で訪れたことがある地です。(後記にて案内)

さて、バルセロスは今でもそうですが、ポルトガルからサンチアゴ巡礼をする時の巡礼路のひとつになりますが、巡礼路にあたる町では下に見る帆立貝の標識が見られます。帆立貝はサン・チアーゴのシンボルです。

barcelos

16世紀のこと。

ある日、この地を一人のガリシア人が通りかかり、宿をとります。ちょうどこの当時、町では盗みが横行し、なかなか泥棒がつかまらない。なんの因果でか、このガリシア人に容疑がかかり逮捕されます。自分は、サンチアーゴにかけた願がかなったのでそのお礼参りの巡礼をしている途中なのだ、と男は無実を訴えるのですが誰にも信じてもらえず、とうとう絞首刑を言い渡されます。

聞き届けられる最後の願いとして、男は自分にその判決を言い渡した裁判官を訪ねたいと言います。町の名士を集めて自宅で宴を開いていた裁判官に、男は再度自分の無実を訴えますが、居合わせた誰もがこれを聞いて信じはしませんでした。

テーブルの上に載せられている丸焼きの雄鶏のご馳走を目にした男は言います。「明日の朝、刑に処せられる時、わたしの無実の証として、この丸焼きの雄鶏が鳴きだすだろう」 これを聞いた人々は大笑いしますが、それでもその雄鶏の丸焼きのご馳走に手をつけないで、明朝まで置いておくことにします。

翌朝、処刑の時刻が来たとき、突如として、テーブルに載っていたご馳走の雄鶏が起き上がり、「コケコッコー!」と鳴いたのであります。びっくり仰天した裁判官は即座に男の無実を悟って刑場まで走り、自分の判決を翻したのでした。

数年経ち、ガリシア人の男は再びバルセロスに立ち寄り、自分の信仰に応えてくれた聖母マリアとサンチアゴを讃えるために十字架を掲げる石碑を建てたということです。その石碑は現在もバルセロスの町に残っています。

と言う訳で、これがガロが「真実の証」と言われる所以なのですが、色鮮やかなバルセロスのガロは、現在ではポルトガルの土産物屋では、飾り物、栓抜き、テーブルセンター等等、色々なものにこのデザインが使われ、大小も様々です。

そうそう、日本では恐らく一箇所、このバルセロスの雄鶏の一番大きいのが、所沢市小手指の北中小学校で、見られるはずです^^なんとならば、我が息子がこちらの学校を少し早めに夏休みし(笑)、小学校2年生の時に、北中小学校で約1ヶ月間、海外からの体験入学生として受け入れていただき、そのお礼にと、わたしが置いて来たものなのです^^

この伝説の中で、わたしには昔からどうしても気になる点があるのです。「ガリシアの男」と「バルセロス」の接点です。上記、伝説の赤字部分にあるように、男は、「サン・チアーゴ・デ・コンポステラへお礼参りの巡礼をしている」と言っていますが、ガリシアは、ガリザ(Galiza)とも言い、ポルトガル北部国境を挟んで接し、州都はサン・チアーゴ・デ・コンポステラです。

すると、ガリシアの男は、巡礼をするのに、上部を目指さないで、わざわざ下方のポルトガル、バルセロスに下りてきたことになります。ガリシアの男がポルトガルに移民して住んでいたのなら話は合うのですが。というので、ガリシア男版の伝説は、いまいちわたしには腑に落ちないのであります。

調べてみると、「ガリシアの男」を単純に「巡礼者」としているものもありますので、そちらの方が話としては納得できます。「ガリシアの男」としたからには、このバージョンを広めた人には、何か理由があるのではないか?ひょっとして、男が後に建てたという「十字架の石碑」と関係がありはしないか?

そこで、今回はその石碑を探しに行ってきました。続きは明日に。

サン・チアーゴ・デ・コンポステラ大寺院については、下記にて案内しています。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1224.html

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2015年8月17日(月)

今朝ほどの出来事です。
夫は夫で、わたしはわたしで、それぞれパソコンにて野暮用を足していたときのこと、固定電話のベルが鳴りました。日本語教室の問い合わせや、現生徒さんたちとのれんらくにはメールや携帯電話を使用しているので、こうして固定電話にかかるのは、知り合いでもほんの数人しかいません。

それで、友達だな、と思っていると、応対した夫が英語で話している・・・・ん?まさか、このところすっかり通信が途絶えているカリフォルニア在住の友人?いぶかしんでいると、しばらくして夫が電話を切った。

夫曰く、マイクロソフトからの電話で、うちのpcから、ウイルスに感染していると発信されているので、pcを今立ち上げてくれ、と言いのだそうです。それで、夫、2台あるけど、どっちだ? 話がよくわからないけど、15分後にもう一度電話してくれ。と一旦電話を切ったのだそうです。

マイクロソフトから、直接電話連絡なんて聞いたことないよ。第一、どうやってうちの電話番号を入手したの?それに、ここはポルトガルなのに、何ゆえ英語で言ってくるのか?今、pc開けて使ってるけど、
最近は遠隔操作もできると聞くので、言われたとおりに開くと同時に、なにかやられるかも知れない。怪しい・・・と思ったわたし、夫の目の前ですぐググってみました。

「マイクロソフトから電話」っと・・・すると、出るわ出るわ、電話詐欺!「ほれほれ、日本語だけど、こんなに出たよ」と、夫に示していると、再び電話です。

夫、今度は、全部ポルトガル語で応対(笑) 「電話が遠くてよく聞こえません。ポルトガル語で言ってくれ」って・・・さっき、英語で応対していたにも拘わらず^^;
ネットで拾ったマイクロソフトのセキュリティセンターの記事を下にあげますので、参考にしてください。

テクニカル サポート電話詐欺を避ける

サイバー犯罪は、詐欺のメール メッセージを送信したり、偽の Web サイトを設定したりするだけではありません。 お客様に電話をしてマイクロソフト テクニカル サポートの担当者であると主張する場合もあります。 サイバー犯罪者は、コンピューターの問題を解決するための支援や、ソフトウェア ライセンスの販売を提案する場合があります。 犯罪者がコンピューターへのアクセス権を取得すると、以下のような操作が実行できるようになります。

ユーザーを騙して、オンライン銀行のユーザー名やパスワードなどの機密データを取り込むことができる悪意のあるソフトウェアをインストールします。また、このソフトウェアを削除するための料金を請求する場合もあります。

・コンピューターを遠隔操作し、設定を調整することで、コンピューターを脆弱な状態にします。
・クレジット カード情報を要求し、電話サービス料金を課金します。
・詐欺の Web サイトに誘導し、クレジット カード、その他の個人情報、金融情報を入力させます。

マイクロソフトもそのパートナーも、未承認の電話 (「コールド コール」とも呼ばれる) を一方的にかけて、コンピューター セキュリティやソフトウェアの修正プログラムの料金を請求することはありません。

電話テクニカル サポート詐欺: 知っておくべきこと

多くの場合サイバー犯罪は、公共で利用できる電話帳を使用して、電話をかける相手の名前やその他の個人情報を把握します。使用しているオペレーティング システムでさえも推測できる場合があります。

いったんユーザーの信頼を獲得すると、ユーザー名やパスワードを尋ねてきたり、特定の Web サイトにアクセスし、問題を修正するためにコンピューターを遠隔操作できる状態にするソフトウェアをインストールするよう指示したりする場合があります。この通りにすると、コンピューターと個人情報が脅威にさらされることになります。

1)サイバー犯罪者が名乗る組織には、以下のようなものがあります。
Windows ヘルプデスク
Windows サービス センター
マイクロソフト テクニカル サポート
マイクロソフト サポート Windows テクニカル部門サポート グループ
マイクロソフト 研究開発チーム (Microsoft R & D チーム)

2)電話テクニカル サポート詐欺から身を守る方法

マイクロソフト テクニカル サポートを名乗る電話があった場合:
・ソフトウェアやサービスを購入しないでください。
・「サービス」に関連する料金や登録が発生するかどうかを確認します。発生する場合は、電話を切ります。
・既に使用している製品の合法的なサポート チームの担当者であることを確認できる場合を除き、第三者にはコンピューターのアクセス情報を提供しないでください。
・相手の情報をメモして、速やかに各国の機関に報告します。
・マイクロソフト テクニカル サポートを名乗る相手には、クレジット カード情報や金融情報を提供しないでください。

3)既にテクニカル サポートを名乗る人に情報を提供してしまった場合

電話サポート詐欺の Web サイトからマルウェアをダウンロードした可能性がある場合、またはサイバー犯罪者によるコンピューター アクセスを許可してしまったと考えられる場合は、以下の手順を実施します。

・コンピューターのパスワードを変更 し、メインの電子メール アカウントのパスワードを変更します。さらに、特に銀行やクレジット カードなど、金融機関のアカウントがある場合はパスワードを変更します。
・Microsoft Safety Scanner を使用してコンピューターをスキャンし、コンピューターにマルウェアがインストールされているかどうかを確認します。
・Microsoft Security Essentials をインストールします。 (Microsoft Security Essentials は無料プログラムです。 このソフトウェアのインストール料金を要求する電話も詐欺です。)

マイクロソフト・セキュリティーセンターサイトは下記に。
https://www.microsoft.com/ja-jp/security/online-privacy/avoid-phone-scams.aspx

マイクロソフトから一般人に直接電話がかかるなど、まずあり得ないということを肝に銘じておきましょう。

クワバラクワバラ。みなさまもお気をつけください。では、また明日!

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2015年8月16日 

ダウンタウンのサン・ベント駅正面から始まるRua das Flores(花通り)には、ポルトガル民芸品を置いている、昔からのわたしの贔屓の店、「Memórias」があり、よく足を運んでいました(末文にて紹介)。ここで取り扱う手織物の布が好きで、ダウンタウン散策がてら顔を出しては、素敵な布物がないかと女主人や店子とおしゃべりして来ます。

nuno1.jpg

写真は、この店で手に入れて気に入って使っている手織りのテーブルクロス。目が粗く少しゴツゴツした感じですが、手織りの暖かさが伝わってきます。

16世紀初期に開通し栄えた道ですが、「花通り」の名前が示すようにそれ以前は、樹木が生い茂げ、花畑だったと言われます。しかし、新たに広いサンタ・カタリナ通りができたことで、客足はそちらに引っ張られ、この通りはまた狭いので一方通行の車が通るくらいで、長い間、廃れていました。
が、市のプロジェクトで歩行者通りとして道が舗装され、2014年3月にポルトの新しいスポットとしてオープンし、現在は昔ながらの店舗に、ワインショップ、チョコレートショッなどの新店舗が加わり、ストリート・アーティストが見かけられる賑やかな通りに変身です。

さて、その新旧店舗のなかでも、ひと際目を引く店が「Joia da Coroa」、直訳すると「王冠の宝石」という4階建ての建物。

joia da coroa porto

ここは1925年から1964年までイベリア半島でもっとも有名な宝石店のひとつで、上流社会に人たちが通った「Ourivesaria Aliança=オリベザリーア・アリアンサ」(Aliança=縁組、結婚指輪、同盟の意味)と言う宝石店でした。

joia da coroa

今日は「Joia da Coroa」の一階にあるカフェ、「Nunca é Tarde」(遅すぎることはない)をご案内します。
外からウインドー越しに見ると、ちょっと敷居が高そうな気がしたのですが、構うもんかと入ってみました。
joia da coroa
 
そしてそして、見よ、このソファ!カフェのハイライトだと思います。
joia da coroa
この写真、入ったときには客が陣取っており、帰るのを待って撮ったのであります。

joia da coroa
天井は吹く抜けでこの上階はメザニン(中二階スペース)になっており、宝石店です。

Joia da coroa porto
ベル・エポック・スタイルの内装はロマンチックです。この日は、コーヒーとスコーンをいただいてきました。

この朝の客は、わたしが一人残っていたので、わたしを旅行者だと思ったらしく、「どう?この店?気に入りましたか?」と、英語で話しかけてきました。ポルトの街を歩くときは、頭の中はポルトガル語です、下手な英語よりその方が分かりやすい。そこで、ポルトガル語で話してきました。次回訪問時には上階も上ってみたいと思っています。

Rua das Flores の民芸品店「 Memórias」はこちら

では、本日はこれにて。

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2015年8月15日 

あれを入れろこれを入れろと、内外からのお願いごとならず、半脅迫的なスッタモンダに安部首相が承知したとのニュースも目にしていたので、不安であった70年談話を聞き、してやったり!の感です。因みに公明党に配慮して「お詫び」を入れると言う報道が出ましたが、あれはメディアの作り話だそうです。

「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」 安部首相の談話は、この一文だけでも高い評価がされると思います。さきの戦争への深い哀悼と平和への誓い、諸国への感謝を示し、未来志向で今後歩む姿勢で談合を結んでいます。

不満を持つ人もいるようですが、わたし個人としては、十分言及してくれたと思います。

実験的な二度ものアメリカによる原爆投下、日ソ中立条約を破り卑劣にも終戦後に参戦し60万人の日本人をシベリアでの強制労働を謀り、8月15日の終戦後も日本人避難民1000人以上を虐殺したソ連、中国による葛根廟事件(かっこんびょう)、中国軍による通州事件など、大陸に於ける日本人避難民の虐殺については、これまでわたしたちが歴史で教わって来なかったことがたくさんあると思います。日本人も多くの辛酸を舐めたのが先の戦争でした。下記をクリックするとWikipediaの説明があります。

葛根廟事件 
通州事件

日本は未来志向で、謝罪を求めず、恨まず、国防力で外国の侵入を断固拒絶し、粛々と平和を求道していけばいいと、わたしは思います。

戦争のない、飢餓のない、言論の自由な平和社会に生きられる幸運を心から感謝し、終戦の日をかみしめながら、下記に今回の安部首相談話を自分のメモとしてコピーいたします。それでは、みなさま、本日はこれにて。

「首相談話」全文 

 終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。

 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。

 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。

 そして七十年前。日本は、敗戦しました。

 戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。

 先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。

 戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。

 何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。

 これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。

 二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。

 事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。

 先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。

 こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。

 ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。

 ですから、私たちは、心に留めなければなりません。

 戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。

 戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。

 そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。

 寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。

 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。

 しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

 私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。

 そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。

 私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。

 私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。

 私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。

 私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。

 終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。

 平成二十七年八月十四日

 内閣総理大臣 安倍晋三
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2015年8月12日 
              
ある日の午後、下宿先、ケンタッキーインにある二階の自分の部屋を出たら、出会いがしらにごっつんこ。「あれーー!」思わず白昼夢でも見たかと目をつぶり、我が頭を振って再び目を凝らした。目の前にいるのは、しかし、まぎれもなく、大阪でのかつての同僚、ざわちゃんである。

クラスが違うこともあり、しばらく大学では顔をあまりあわせていなかったのだが、彼は寮を出て下宿生活をすることにしたんだそうな。部屋はと言えば、何てことったい!隣室ではないか。ケンタッキーイン、これで日本人下宿人3人にあいなった。日本人が寄り集まることに、なんだか悪い予感がしたのである。

案の条、そのうち、ざわちゃんの部屋には、やれ送別会だTGIF(Thank God It´s Friday!の頭文字で、神様、今日は金曜日だぜ!の意味)だと言っては日本人男子の溜まり場になったではないか(笑) そこにお呼びがかかって、紅一点のわたし、んもう!と言いながらもノコノコ集まりに出かけるのでした(笑)

結局ざわちゃんとは腐れ縁と諦めて、ギアも伴って3人でメキシコ国境にあるノガレスへ日帰りバス旅行したり、砂漠でバイク乗りしたりと、ちょっとした冒険をして楽しんだのである。

本日はくだくだと書くより、そのお遊びを写真でご紹介(笑)どぞ^^。

Tucson Tucson
Kentucky Inn玄関ポーチのわたしと住人ネコの「ティンカベル」

Tucson
Kentucky Inn二階のテラスにて。後ろに大通りが見える。

Tucson Tucson
留学生の一人の送別会と、砂漠での初のライフル体験。

ライフルと拳銃に直に触ったのは後にも先にもこのときのみ。アメリカなればこその体験だが、わたしはこわごわであった。

では、本日はこれにて。
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2015年8月11日 

先週始めから、夫と二人でポルトガル北部地方の小さな町を旅してきたのですが、酷暑というわけでもないのに、今回はやたら疲れました。いつもなら、帰宅後、それっ!と旅行先の写真を載せてブログ更新にかかるのですが、しばらく後になります。そう言えば、春の日本滞在記も未だ置きっぱなしではありましたっけ。 

さて、毎年のことではありますが、日本の8月は世間の声がかまびすしい月です。特に今年は戦後70年にあたり、安部首相の談話、安保法案などなど、日本国外からこれらのニュースを読んだり様子を見ていたりして、気が気でならないこの頃です。果たして首相がどのような談話を発表するのか、楽しみでもあり不安でもあり、という心境でしょうか。

一連の安保法案反対派の言動を見てると、わたしなどは、皆さん、もっと勉強して自分の頭で考えましょう、と言いたくなります。ナ○スなど国際感覚からして使わざるべき言葉を、平気で文字に、口にするとは、ナ○スがしたことを知っていたら、自国の首相に向けるとは、いくら安部憎しと言えど言語道断でしょう。

関連などどうでもいい、腹立たしい憎いというので、とにかく、罵るやり込め方は、隣国の手段に似通っており、とても正気の沙汰とは思えません。こういう人たちにはほんとにガッカリ。正当な手段で、議論でかかってこい!と。いったいに、近頃の日本人は、自分の本分を忘れて、口汚い言葉で相手を批判し過ぎです。国内にいると意外や気づかないのかも知れませんが、この二昔ほどで、日本人は確実に、なんだか訳の分からない風に変わったなと言う気がするわたしは、もはや浦島太郎のごときでしょうか。

8月になると、一族が久しぶりに顔を合わせる先祖の墓参や線香の香り、古く日焼けた畳の懐かしい匂いと、家の一部なのか外部なのか、見分けのつかない縁側の風景とが重なって、祖母や母の口から、まだ、終戦や戦死という言葉を耳にした幼い頃が思い出されます。それがどんな重みのある言葉であったか、子供のわたしが知るわけもありませんでした。

亡くなった我が母の青春時代は戦時中です。亡くなった父はシナで兵隊だったそうで、左腕上には、自分で切って弾を取り出したのだという、ケロイドのような傷が残っていました。母の9人兄弟の一番上の兄は戦死したと聞いています。わたしの身近でも、このようにかつては戦争体験者がいたのですが、今はみな鬼籍に入っています。

彼らが歩いてきたその道に、戦争というものがあった。わたしや妹、わたしたちの子供たちは、みな、それらの歴史の延線上に今日、今を生きているのです。70年間、戦争に無関係だったのは、憲法9条のお陰だとは、わたし自身は思っていません。国内83か所にもある米軍専用基地がこれまで日本を共産圏から守ってきたと思います。

これまではそれでよかった。しかし、世界の状況は刻々と変わっています。20年前と今では、隣国中韓との力関係を見ても分かります。いつまでものほほんと、これまでどおり9条を守っていれば平和でいられるなど、それが絵空事だと気づかないのは勉強不足でしょう。今現在、アジアで何が起こっているか、それを知ると、日本の未来も見えてくるはずです。

アメリカの基地はいらない、出て行ってくれ。オーケー。戦争はごめんだ、9条を守り抜こう。オーケー。それならば、この場合の方法がひとつあるとわたしは思います。現時点では米国とのいきさつもあり、そうそう簡単には進まないかもしれませんが、それでも考えてみる価値はあると思います。それはスイスのように「永久中立国」になることです。

しかし、「今日からわが国は永久中立国だ。どの戦争にも参加しない。だから、戦争をしかけることもしないでね」などと、甘いことにはなりません。しないでね、と言ってもしかけてくるから戦争が起こるのです。

この場合、スイスについて少し調べてみましたが、「永世中立国」に、つまり戦争をしない国になるというのは、大変な軍備力が必要だということを知りました。スイスでは政府が国民に配る「民間防衛」というマニュアル本があります。戦争に備えて、各人の日頃の行動や準備が詳細に書かれているそうです。

簡単にリストアップしてみます。

1)核シェルターの確保が原則義務で、スイスの総人口750万人に対してシェルター収容可能人数は860万人。シェルター内には、国民全員の4ヶ月分の食料が備蓄され、ベッド、水道、調理場などの十分なスペースがとられています。

2)20~30歳まで徴兵制度あり。訓練を受けた後は、有事の際、予備兵となるために普段から銃を家屋に隠し持っている。

3)スイスでは自然を利用した目に見えない大砲を備える隠し基地がいたるところに設置されている。

自分の身も家族も自分で守る、「リスク0」を目指して万一に備えて大げさに考えるくらいがちょうどいい、との考えが国民に広く理解されているのです。

もうひとつ、付け加えたい点は、スイスは軍事国家なのですが、自国防衛の軍のみで、他国に侵攻できる軍を持たない、ということです。

下は今年8月に放映された「世界の日本妻は見た」というTBS番組ですが、この番組から一部をリストアップしてみました。興味のある方は下記でどぞ。

https://www.youtube.com/watch?v=ZRbp_LBjdgQ#t=2009

安保反対派、少なくとも、スイスのようにしてはどうか、くらいの案を提示してくれないと!「日本は第9条で戦争放棄をうたっている。平和主義ですから、どうぞ侵攻しないでくださいね」などは寝言です。

ニーチェは言っています。
生身のわたしたちの体験の範囲と距離はいつも限られている。全ての音を聞くことはないし、全てのものに触れることもできない。それなのに、大きいだの小さいだの、固いだのやわらかいだのと、勝手判断をしている。最初から限界があるのに、自分たちの判断が間違っているかもしれないということに気づかないでいる。これが人間であることの大小さまざまの宿命である。

人間の大小さまざまの宿命の大に入るのが戦争と言えるでしょう。
相手あっての戦争です。その宿命から辛うじて逃れるには、「戦争反対」と叫ぶだけではダメです。巻き込まれないように最大の国防力が必要だとはわたしの考えです。世界は腹黒いのです。
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2015年8月6日 

今日は前回のオールド・ツーソン絡みで、私たち一家が大ファンだった、そして、今も大好きな「大草原の小さな家」の過去記事を再度載せたいと思います。

2006年3月15日(水曜日) 大草原の小さな家

わたしがポルトガルに来た26年前(2015年現在では36年前になる)は、テレビが白黒だったのに、えっ!と驚いたものである。
  
日本では5年間ほど「テレビを持たない主義」を通したわたしではあるが、それでも白黒テレビが日本では既になくなって、カラーテレビが当たり前の時代に入っていたくらいは、いくらなんでも知っていた。ポルトガルでカラーテレビがお目見えしたのは、それから数年たってからである。

テレビチャンネルも当時は2局のみ、いずれも国営放送だった。放送開始は午後からで、夜11時ころには終了である。そのときは必ず、はためくポルトガル国旗をバックに、ポルトガル国歌が流された。だから、わたしはポルトガル国歌を自然に覚えてしまったといういきさつがある。

それはさて置きまして、タイトルの「大草原の小さな家」だが、これはアメリカの作家ローラ・インガルズ・ワイルダーが、自分の子供の頃に住んでいたミネソタ州の小さな村、ウォールナット・グローブでの様々な出来事を綴った本で、アメリカの子供なら必読と言える名作である。

これを原作にして作られた、マイケル・ランドンのTVドラマは我が家の永久保存版になっている。

わたしたち4人家族は夕食卓を囲みながら、何度このドラマを繰り返して見たことだろう。特に娘などは、セリフを殆ど暗記するほどの執心ぶりであった。亭主にいたっては、「まぁたか・・・」と言いながらも、わたしたちと同じように、次がどんな展開をするのか全て知っていながら、いつの間にか各々のエピソードから目を放せなくなっているのであった。
   
ドラマはもちろん素晴らしい。
しかし、わたしが子供達にこのドラマを見せだしたのには、もうひとつ理由があった。ポルトガルでは海外ドラマや海外映画は吹き替えをせず、そのまま原語で放映される。これはある意味、とても素晴らしいことだと思う。吹き替えをすると、本当のドラマや映画の味がどうしても損なわれてしまうとわたしは思うのだ。

だから、この「大草原の小さな家」を通して、子供達には英語のセリフをそのまま、学んで欲しいと思ったのである。
   
子供たちをポルトガルの学校ではなく、英国式教育のBritish Schoolに通わせることをわたしたち夫婦は話し合って決めたいきさつがある。できれば、自然な言い回しの言葉をこのドラマを通して学んでくれたらそれに越したことはあるまい。もちろん、アメリカ英語とブリティッシュ英語との違いは多少あるが、それがわたしの作戦であった。そして、この作戦はみごと功を奏したと言える。

ドラマは、ローラとその父親チャールズと家族を中心に、その他、様々なキャラクターを装って多くの子供が登場してくる。同時に、世間によくいがちな自己中心的なタイプの大人たちも多く描かれている。

「大草原の小さな家」では、言葉だけでなく、そのドラマを通して感動したり、意地悪で計算高く、わが子となると見境なく溺愛してしまうミセス・オールソンや、うそつきでわがままなその娘ネリーに憤慨したりと、世間の一窓を垣間見ることができる。

私自身も、ドラマのローラの両親のように子供と真剣に向き合う親になりたいと願い、子供を育てる上で多くのヒントと教訓を「大草原の小さな家」から得たと思う。

我が家にある録画ビデオ本数、一本が6時間撮りで20本以上はあろう。ビデオを通しての疑似体験が、あたかも私達家族の思い出であるかのように、記録されている1セットである。

参考:原題 Little House on the Prairie
原作 Laura Ingalls Wilder

2008年3月8日 何度見てもいい「大草原の小さな家」

日本の大学の春休みを利用して1年半ぶりに我がモイケル娘がポルトに帰国しています。
時差ぼけがまだ取れない三日目の昨日、わたしは朝から翌日の授業準備をしていたのですが、以前入手したDVD「大草原の小さな家」シリーズを娘が見始めました。

子どもたちが小さかった昔、英語の勉強になるからだけではなく、優れた教育番組のひとつとして、このシリーズをずっと録画したのですが、やがてビデオシステムがなくなるであろうことを考えDVDを買ったのです。

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3枚のDVDに24エピソードが収録されています。

小さい頃すでに何度も観たはずのこのシリーズ、20歳を過ぎて娘は再び見ています。わたしも釣られて、仕事の合間合間についつい目をやってしまい毎度いつものシーンでジワ~ッと来たり、モイケル娘と一緒に笑いあったり。

自分の損得を考えずに、公平に物事を受け止め実行するということは美徳のひとつだと思います。
ドラマのインガルズ一家にはそういう姿勢が見られ、非常に魅力的なエピソードがたくさん散りばめられています。、チャールズとキャロラインのインガルズ夫妻の忍耐強い、ウイットに富んだ子育てにはわたしも学ぶところが山ほどあり、こんな親に、いえ、こんな人間になれたらなりたいものだと今も思っています。

人間として、親としての基本的な姿勢がここにあり、親子も含め人間関係が希薄になりつつある今こそ、こういうドラマが再放送されたらいいのにな、と娘と久しぶりに観ながら思いました。現代映画もきれいではないけれど、昨今の暴力的な映画、ドラマには辟易しているわたしです。



日付を見て、ひゃ~、かれこれ10年近くもブログに書き綴っているんだ、と我ながら感心と言うか呆れるというか。元はといえば、
我が子たちに自分の記録として残したいと思って、始めたブログですが、中にはこの10年間、拙ブログにお付き合いくださり、我が子たちの成長を、またわたし自身のポルトにおける生活の変化を見てくださる方が、おられるかも知れません。心からお礼を申し上げたいと思います。

それでは、本日は過去記事にて、失礼!
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2015年8月4日 

大学のESLコースでは、グランドキャニオンと近場のオールド・ツーソン(Old Tucson)へのバス旅行があった。まだ先行きをどうするか決めておらず、お金に不安があったわたしは費用のかかるグランドキャニオンを避けてオールド・ツーソンのみにしたが、今にして思えば無理してでもグランドキャニオンは行っておくべきだったと多少後悔している。
というので、取り立てて何があったわけではないが、今日はオールド・ツーソンの話。

長い間、Old Tucsonとばかり思っていたのが、今回調べてみると、正式には Old Tucson Studiosと呼ばれ、1940年の映画「Arizona(ジーン・アーサー、ウイリアム・ホールデン主演)」撮影のために作られたとWikipediaにある。

以来、ひとつの町単位のオールド・ツーーソンは、スタジオとして、「OK牧場の決闘」「リオ・ブラボー」「トゥムストーン」「Red River」など、多くの西部劇映画やウェスターンTVドラマの撮影現場に使用され、現在はテーマパークになっている。
 
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スタントマンのガンファイト・シーンが目の前で見られる。サルーンから取っ組み合いながら外へ転がり込み、突然始まったのには驚いたが(笑)

1995年に火災にあい、多くの映画やドラマの撮影に使用された記念建物が失われ、再びオープンしたのは1997年とある。わたしが訪れたのは1978年のことで、もっと注意して情報を集めることができていたら、今日ブログに書くことも違っていたはずである。

oldtucson9.jpg
オールドツーソンの記念写真。古い写真で失礼。

と言うのは、渡米前まで日本にいたときのわたしはステレオは持っていたものの、テレビは主義で持たなかった。後にポルトガルに来て、こちらのテレビで見たシリーズ、「大草原の小さな家」は一家で大ファンになったのだが、日本では1975年から1982年まで放映されていたとのこと。実はこのオールド・ツーソンがシリーズ一部の撮影現場であったのだ!

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↑初期のインガルズ一家   ↓後半、長女のメアリーの結婚相手と養子として向かえたアルバートもメンバーに。
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現在のオールドツーソン。写真の看板「Olsen´s Mercantile」を見て、お、大草原のMrs.Olsonの店のセットが!と一瞬早とちりしたのだが、店のペンキが白だったことを思い出し、よく見ると一文字違いの、「Olsen´s」であった。バックにアリゾナ山脈が連なっている。

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ドラマではちょっと意地悪で計算高く、娘を溺愛する個性的な役で、「大草原」も彼女なくしては盛り上がらないであろう。脇役ながら大きな存在感があった↓
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多くのセットが火災で失われてしまったのは返す返すも残念なことである。
「大草原の小さな家」については過去にも何度がこのブログで取り上げているので、次回はそれを紹介したい。

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2015年8月2日

つい放っておくことができず、近所にあるジョアキンおじさんの畑に住み着く猫たちの餌運びをしてもう何年になるだろうか。
春、日本に帰国するにあたり、エサの買いだめをして、お手伝いのベルミラおばさんに頼んで代わりにそれをしてもらったのだが、3週間後にポルトに帰ってきたら、季節もあるのだろうか、それとも姿を現さないわたし恋しさか、みんなガリガリにやせ細っていた。

無理もない。ベルミラおばさんも我が家のほかに、何軒かかけもちで掃除、アイロンあての仕事をしているので、わたしのように毎日決まった時間にエサを運ぶわけには行かないのだ。それは重々承知の上での、依頼ではあった。そこで、もう少し太らせたいと、それまでは日に一度夕方だけだったのを二度、畑猫たちにエサを運ぶことにした。7匹が常連で、付け加えれば我が家には5匹猫がいるので、12匹の猫たちの食事をまかなっていることになる。いやもう、文句を言わずに黙って横で見ている夫に、ただ感謝です^^

犬猫が好きで、捨て犬猫を黙って見ていられない性分であるのと、大阪時代、おじおばの社宅団地に同居していた中学生のころ、野良猫を拾って帰ったところが、飼えないのだと諭され泣く泣く元の場所に捨てに行かなければならなく、自分が大人になったら犬猫は捨てない、見かけたら飼う事ができなくても、できうる限りエサを運ぶのだと、その時心に決めたのだった。それがわたしの、あの時、拾って再び捨てた猫への罪滅しのようなものなのだ。

畑は石壁で囲まれ、通りに面した一部にクソ重たい引きドアがついており、鍵なしでは入れないのだが、ジョアキンおいさん、いつでも餌が運べるようにと、わたし用に合鍵を用意してくれたのは、数ヶ月前のこと。なんだか、おいさんにうまい具合に利用されているような気がしないでもないが、なに、勝手にエサ運びをしていて、それで猫たちがなんとか食べていける、というのでわたしは納得なのである。

できれば引き戸の外でエサをあげたいのだが、人が通るので一部の猫たちはそのたびにビクビクしたり逃げたりするので、それでは食った気もしないであろうと、それに平気な猫たちは外、ダメなのは内側と、二箇所に分ける。もうひとつには、外に置きっぱなしにすると近所から苦情が出ることも気になり、近頃は畑内におくようにする。だが、これには、おいさんが日中放し飼いにしている鶏どもがそのエサを狙うという困った問題がある。それで、猫たちが食い終わるまで、その場で監視(笑)、近づく鶏たちを「シューシュー!」と追っ払う役までしているおアホである。

2週間ほど前の夕方のこと、いつものように、ジョアキンおじさんの畑へ7匹分のエサと水を持って行った。 引き戸を開けると、うげ!4引きの子猫が飛び出してきたではないか!側には母猫と思しき、まだ若い猫が一緒におる。今まで畑では見たこともない母猫で、新顔だ、しかも子猫も一緒となると、おいおい、ここに捨てて行きおったな・・・だ、誰かは知らぬが、ふ、ふざけんな~~。ジョアキンおいさんに聞いてみると、いつの間にか増えていた、新顔だと言う。

という訳で、以来、子猫用の猫缶、カリカリえさを買い揃えて、朝と夕方のこの2週間、せっせとエサ運びをしているのである。古参の猫の中には、スネてしまって、わたしが合図をしても近寄らなくなったのもいる。が、従来どおり彼らの分も用意して、後で食べられるように置いてくる毎日だ。

このような犬猫たちを保護しようと有志が立ち上げているボランティア組織がポルトでは最近増え、ネットでわたしとつながっているグループもある。これを報告して引き取ってもらおうか、どうしようかと、目下思案中なのである。多くの組織があるとは言え、無責任な飼い主が捨てるペットの数があまりにも多く、追いつかないのが実態である。

ボランティア組織に引き取ってもらい、どんどん増えるであろう、犬猫たちが狭いケージで暮らすのと、もうちょっと手を入れてきれいにすりゃぁいいのになぁと思われる、しかし、だたっぴろいジョアキンおいさんの畑で暮らすのと、果たしてどっちがいいのだろうか、と、考えたりしているこのところ。

ネコたちにとり、畑での暮らしは、もちろん、病気などのリスクも付き、心配なのではあるが。

こんな風にして8月に入り、我が夏休み、始まりやんした。
下記、我が猫たち、とある日の3コママンガ(笑)

neko
「はい、ゴローく~ん、こっちこっち」とネコ撫で声でゴローをモデルに写真を撮っていたら、その声を聞きつけ、やってきたのが黒猫ぺト。

neko
うは!「やっるってかぁ?」と、一触即発現場の一瞬! 

neko
結局、ゴローを追い出し、「オレ、撮ってくれ」(爆) 

首にある白い毛の部分を「エンジェルマーク」と言うんだそうだが、どこがエンジェルなんだか、とは、飼い主の独り言。
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