2015年12月31日 

午前中の某企業と、図書館での夕方コースをもって、やっと昨日、日本語教室の仕事納めになりました。
晦日、雨模様の夕方のダウンタウンは大変な交通停滞で、家にたどり着くのに1時間以上も車のハンドルを握らなければなりませんでした。

が、とにかく、一段落つきました。あとは、わが日本語塾から今回送ることになった21人の来年1月末の漢字検定試験、まっしぐらです。

さて、今朝のこと、シャワーを終えた夫がわたしの元に来て、「洗濯物入れがないぞ!」と言います。洗濯物入れとはこういう感じでござんす↓プラスティックでできており、かれこれ13年間使ってきました。

cesto-roupa.jpg

夫にこう言われた時のわたしは、「げ!・・・」なのでありました^^;なんとならば、長年使って来たとは言え、まだまだつかえるのでありました。それが何ゆえ無くなったのか。

聞いてくだされ、おっかさん(笑
実を言えば、ジョアキンおじさんの畑のねこたちの冬場避難所と化したのでありまして。寒いだけならなんとかなるが、雨が多いポルトの冬です、とても可哀相で見ておられません。

以前から小さな避難所が作れないかと頭をしぼって、実は秋にこれをジョアキンおじさんさんの畑に置いて試してみたのでした、

abrigo_do_gato

ところが、いつの間にやら、なくなってしまいました。おじさん、これは便利そうだと、なにかに利用せんがため持っていったのでしょう、んとにもう・・・

それで、数日前に思いついたのが、洗濯物入れなのです。昨日、午前中の仕事から帰るなり、すぐとりかかりました。両脇に空いている穴をプラスティック袋でふさぎ、皿に容器全体を大きなプラスティック袋で包みました。最後に中にカーペットを敷き、その上に毛布を置いて、畑に置かれてある古い大きな木に箱の中に横にして置いてきました。ジョアキンおじさんの畑のネコへのプレゼントです。

昨夜、晩御飯をもっていくと、その中から2匹ほど、出てきましたが、雨の日、寒い夜には、みんななかよく、そこで固まって寝るんだよ。それがあったかいんだから、と言い残してきたものの、分かるかなぁ。

と言うので、夫には、「うん、大分古くなってきたからねぇ・・・」と、内心冷や汗かきながら、ごまかしたのでありました。そこまで、君がすることない、と返事がくるのは分かってるからね。
今年最後の、方便のウソだ(笑)

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まだ、仕事なのぉ?と、pcの前でジャマをする猫たちを前に、やっと今年、最後の仕事も仕上がり、当方、これから、家の大掃除に入ります。

みなさま、今年も拙ブログを訪れていただき、ありがとうございました。どうぞよいお年を!

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2015年12月29日 

イベリア半島でエレトゥリコ(Electorico)と呼ばれる路面電車が最初に走ったのはポルトでした。わたしがポルトに来た当時、もう37年も昔になりますが、トロリー電車とエレトゥリコが街を網羅していました。

路面電車

今では、その路電が、混雑したポルトの旧市街をノロノロ行くのは、ノスタルジックでなかなかいいものだと思って眺めるのですが、大阪に住んでいた頃は、京阪電車やメトロの公共交通機関で毎日のように通勤していたのですから、当時のそんな時代遅れめいたポルトにはいささか、失望したものでした。

路電やトロリーが少しずつ姿を消し、ドウロ川沿いの一路線を除いては全て退役となり、市民の足として長年活躍してきた路電たちを展示する「路面電車博物館」が、マサレロ区域にオープンしたのは1992年のことです。それが、老朽化と同時に入館客も減りついに2010年に閉鎖され、いったいいつ再開されるのかという状況でした。

しかし、ポルトはここ2年ほどのうちに、多くのツーリストが訪れるようになり、先月11月にやっと開館されました。修繕には860万ユーロがかけられたと言われます。早速、新装した路電博物館へ行ってきました。
路面電車
現在走行する3路線のひとつ、Line18

路面電車

路面電車

路面電車
 
路面電車
初期のオープン路電
   
16台の路電コレクションを始め、今回は緊急時の支援車やトロッコ車なども加えられました。

路面電車

路面電車

ここで、思いがけなく、[Ermesinde行き]と書かれた、昔、我が家の近くを走っていたトロリーバスに出会うとは、なんて懐かしい!
車が運転できなかった当時、ダウンタウンへはこれに乗って出かけていました。

路面電車

さて、ハイライトはこれまではなかった、当時の路電へ送電されていた熱電力センターが2階に再現されたことです。

路面電車

路面電車
古い機械類も磨かれてみると、美しいものです。


路面電車
入り口にあるギャラリーには、昔の切符やパスも展示されており、興味深い。


路面電車博物館へは、ポルト旧市街のLine1の起点インファンテ駅、もしくはLine18の起点カルモ駅から乗車します。また、博物館では、150ユーロから路電の貸し出しサービスもしていて、イベントなどにも利用されているとのこと。これは面白いアイデアではあります。

では、みなさま、本日はこれにて。
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2015年12月27日 

♪It´s a long way to Tipperary
  I´ts a long way to go
  It´s a long way to Tipperary,
  to the sweetest girl I know
  la la good'bye Piccadilly, farewell Leicester Square
  It´s a long long way to Tipperary 
  but my heart´s right there !
            
♪月が出た出た 月がでた ヨイヨイ
 三池炭鉱の上に出た
 あんまり~煙突が~高いので
 さぞやお月さん 煙たかろ
 サノヨイヨイ
        
この歌は第一次世界大戦中に流行った歌である。「Tepperary」とはアイルランド共和国にある、地方の村の名前だ。この村から出征した兵たちが歌い始めて広まったのだそうだ。第一次世界大戦を背景にしたイギリス映画を見る機会があれば、バックに流れる音楽に耳を傾けてみて欲しい。恐らくこの曲が聞けるはずである。

下におかしな日本語の歌詞が入ってる?いかにも。            
これは日本民謡の「炭坑節」です。
この歌のイントロ、そして「but my heart´s right there」のエンディングの後に、「炭坑節」は実にうまい具合に続けられるのであります。歌の二番目、「炭坑節」に来たところで、客はドッと笑い転げる、受けのいい歌なのである。 この「さらば、Tipperary」は梅田アサヒ・ビアハウスではずっとこのように歌い継がれてきたのであります。

この歌と重なって必ずわたしの脳裏に浮かんで来るのが、キャセイ・パスィフィックのクルーたちである。 彼らが来ると、必ずこれをリクエストされる。ほとんどがイギリス人のクルーたちは、当時の国際空港伊丹に到着し、ロイヤル・ホテルに入り、一風呂浴びてのち徒党を組んで、我らのアサヒ・ビアハウスにやってくる。

ビアハウスは9時半で閉店であるから、彼らはそれでは騒ぎ足りず、必然、英語を少しかじっていたわたしも一緒に連れだって、ピザパブの「梅田シェイキーズ」へと繰り出したものだ。  

ここでは、ピザ、生ビールとともに、ディキシーランド・ジャズの生演奏が聴ける。わたしたちのお気に入りは、そこでクラルネットを吹いていた若い女性演奏者だった。 アサヒビアハウスも楽しかったが、この「シェイキーズ」もそれに劣らず愉快な酒場であった。
わたしは、このクルーたちを炉端焼きなどにも案内したりして、よく可愛がってもらい、大いに英語のブラッシュ・アップをさせたのでした。

わたしがいよいよアメリカに向けて羽田空港から飛び立つという日に、母や親友、義弟にまじって、そのクルーたちの一人Davidが代表で空港まで見送りに来てくれたことは、素晴らしい感激でした。

アサヒビアハウス
宝木嬢と「エーデルワイス」歌うキャセイのわが友David.

今でも梅田シェイキーズは同じ場所にあるのだろうか・・・キャセイの仲間たちは皆どこにいるのだろうか。

It´s a long long way to the olden times
It´s a long long way to ABH
but my heart´s right there!

と、我が心の中でそっと歌ってみる。
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2015年12月25日
 
メリー・クリスマス!
ポルトガル語ではFeliz Natal(フェリース・ナタル)と言います。

今日のクリスマスは例年通り、Aveiro市の義姉宅で夫の家族が集合して昼食会です。この時期、女性は料理や買い物、掃除と、することがたくさんあり、とかく忙しい。

が、夕べのうちにケーキと生姜酢漬けを作り、今朝は、みながあてにしている巻きずし5本を用意しました。
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久しぶりに作った十八番のパイナップルケーキ。ちょっと大きすぎたのでした^^;
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昼頃にAveiroに向かうのですが、一休みにここ数日の写真をアップします。

22日の夜、長年の日本語の生徒さんであり、友人でもあるマリアさんのお孫さんが、ポルト音楽コンテストで受賞し、夫と二人、Casa da Musicaへ彼のピアノ演奏を聴きに行ってきました。

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何度もコンテストに誘われたのですが、なかなか日程が合わず、これまで失礼してきました。今回は演奏会場がCasa da Musicaというのと、時間が夜7時半からというので、あげるという切符をとんでもないと買って行ってきました。

casamusica1.jpg

ハープとピアノ、1時間少しの独奏会でしたが、ハープのは初めてです。時分が想像していた澄んだ音色とは違っていたのが意外でした。

国内でいくつも受賞しているお孫さん、17、8歳のウゴ君のピアノ演奏は、モーツアルトとショパンでしたが、このままピアニストの道を歩んでいくのでしょう。ポルトガルには国際的に名が知れたピアニスト「MariaJoão Pires」がおり、わたしも彼女のCDをもっていますが、今回、彼の演奏を聴き、もしかすると・・・?と期待を抱きました。今後は応援にコンテスト会場に是非、かけつけたいと思っています。

casamusica3.jpg

してみると、マリアさんのお母さんはピアノの先生だったと聞きますし、実は最近知ったのですが、彼女もピアノを弾くとのこと。子供の頃は、お母さんに手ほどきをうけたものの、厳しくて、横に座られると緊張してしまい、自分はものにならなかったのだと。

マリアさんは音楽の道を選ばず、英語、ドイツ語の教師を長年勤めた人ですが、ウゴ君のご両親は、クラシックギタリストという音楽一家でもあります。クラシック音楽演奏家を作るのは、3代かかるということは、あながち言い伝えだけではないようです。

マリアさんとはポルトのフレイシュ宮殿探検でも関連があります。過去記事、よろしかったら、どぞ。
フレイシュ宮殿への道

さて、コンサート終了後、久しぶりに夜のポルトを回ってきました。

clerigos Porto
ポルトの象徴クレリゴス塔。 クレリゴス塔を市庁舎通りに向かって下りる坂道。

porto
市庁舎通り、Rua dos Aliados。  

サン・ジュアン祭
高さ26mの市庁舎前の今年のクリスマスツリー。不況でこの数年は氏のクリスマスツリーも非常に質素なものでしたが、去年からポルトはヨーロッパで人気が上がり、観光客も増えて、今年のツリーはこんな風になりました。

下は、我が家の近くにある小さな丘の小さな教会。
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では、みなさま、ポルトよりハッピー・クリスマス!

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2015年12月24日 

イヴをポルトガル語で「Véspera de Natal」(Natal=クリスマス)と言います。この日と大晦日にはバカリャウを食べます。「Bacalhau」と綴り、塩漬けの大きな干しダラのことです。年中売られてはいますが、特にこの時期になると、下の写真のようにダウンタウンの店でもたくさん見かけます。こうやってぶら下がっているバカリャウは弦楽器バラライカのような感じがしないでもないが。

バカリャウ

ポルトガル社会は国民人口の約80%が名義上ローマ・カトリック教とされますが、ミサに参会したり洗礼を受けたりする事実上のカトリック信者はそのうちの20%ほどだそうです。しかし、カトリック教会での洗礼や挙式、葬式を望む人は多いようです。
バカリャウをこの時期に食する習慣は、ひとつにはイヴや復活祭の聖なる週には肉を食べないことからきます。

では、ポルトガルは目前が大西洋という広大な海に面しているのになぜ乾物か?わざわざ乾物にしないで獲れたてのバカリャウを食べればいいのでは?と思うことでしょう。
実を言えば、バカリャウはポルトガル近海では獲れないのであります。バカリャウの主な生産地は北欧で、ポルトガルは北欧から輸入しているのが実情です。

ポルトガルががその歴史で最も誇る出来事である15世紀の大航海時代にこの乾物は長い航海中の食物として大いに役立ったのです。これは、バイキングがタラを保存食としていたのを真似たことから始まったようです。

丸ごと塩漬けにした大きなタラは、例えば我が家が昨夜切ったのは42x92cmの大きさ、厚みは一番分厚いところで5cmにもなります。重さは5キロあったでしょうか。値段はピンからキリまであり、偽者のバカリャウもどきも出回ります。1キロ24ユーロで4キロだと100ユーロ近くでかなりリッパなバカリャウになります。

写真は開いた一枚のバカリャウ。これ一枚を家族4人でクリスマス、年末と料理しても食べきれません。
バカリャウ

そこで、我が家では小さめに切って保存します。まずヒレを切り取ります↓
バカリャウ

次はたて半分に包丁で切り、その半身を下の写真のように更に小さく切ります。

バカリャウ

バカリャウを切るには力が要りますから、これは毎年夫の仕事になります。上、手前の白いのは切るときにバカリャウから落ちた塩です。写真では大きさが分かりにくいでしょうが、干した後もかなり大きなタラで、厚い部分は7、8cmはあります。固い上に厚みのある一枚のバカリャウを切り身にするには、女の力では無理。我が家ではこの仕事は昔から男の仕事と決まっています。

バカリャウ
一番おいしい部分は厚みのところだとわたしは思うのですが、夫に言わせると、骨付きの部分を好む人も多いそうです。

食べるときはこれをイヴや大晦日に食べられるように2、3日水に漬けて塩抜きします。バカリャウ料理は伝統的に他の野菜、じゃがいも、にんじん、かぶ、Couveと呼ばれる大きな葉のキャベツの種類、ゆで卵などと茹でて、食べるときに、オリーブオイルと酢をかけます。
バカリャウ

バカリャウはその他、オーブンで焼いたり、炒めたりグラタン風にしたりと、料理法500とも1000とも言われ実に多彩です。

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わたし式のバカリャウタルト。 右はもっともポピュラーなバカリャウ料理、bolo de bacalhau(バカリャウコロッケ)は、カフェでも食べられる。

イヴの今日は、我が家もバカリャウです。

では、みなさま、よいクリスマス・イヴを。
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2015年12月22日 

クリスマスシーズンの過去エッセイを今日は再掲載します。

「クリスマス」をポルトガル語では「Natal」と言うのだが、昔はこの時期になると、各テレビ局はクリスマスに因んだ、じぃ~んと胸に響くような物語の放映でにぎわったものです。

旧約新約聖書に基づくものはもちろんのこと、「ニューヨーク東8番街の奇跡」(原題:Battery is not included)「34丁目の奇跡(原題:Miracle on the 34th street)」「Sleepless in Seatle」 などなど、クリスマスの時期をとりあげたドラマは、枚挙にいとまがないのだが、何度見てもその都度感動を新たにするものもいくつかあります。同じクリスマス物語でも、子供たちと一緒に楽しめるヒューマンラブストーリーの方にわたしはより惹かれます。

映画だけではなく、クリスマスに関した本もたくさんある中で、この時期のわたしの愛読書と言えば、O.ヘンリーの「賢者の贈りもの」とチャールズ・ディケンズの「クリスマスキャロル」です。

「賢者の贈りもの」
ニューヨークに住む貧しい若い夫婦がお互いのクリスマスの贈り物を買うだけの余裕もなく、毎日の生活に追われて暮らしているのだが、いよいよクリスマスが近づいてきたところで、夫は自分の父親から譲り受けて、今では鎖がなくなってしまった金の懐中時計を質屋に売り、妻の美しい髪をひきたてるであろう髪飾りを買う。

妻は、夫が人前で恥ずかしげに、鎖のついていない懐中金時計を覗き込んで時間を見ているのを知っていて、自分の素晴らしい金髪を、かつら屋へ行ってバッサリ切って売ってしまうのである。(昔は女性は髪を長くしておくものであった)そして、そのお金で、夫のために金時計用の金の鎖を買う。

そうして貧しいクリスマスイブの食卓を囲み、二人は贈りものを交換するのだが、妻が贈った鎖につなぐべき夫の懐中時計はなく、夫が妻の美しい髪にと贈った髪飾りのつけるべき長い髪がなかったのである。

O.ヘンリーは最後にこう結んでいる。「この二人こそ、世界中の誰よりも、クリスマスの贈りものの真の意味を知っている」と。「賢者の贈りもの」の「賢者」とは、イエス・キリスト生誕の時、それを祝って空に輝く大きな星を道しるべに、東方からはるばる旅して贈りものを届けに馬小屋にたどり着いた三人の東方からの王のことである。

ディケンズの「クリスマス・キャロル」は、初めてその本を手にした時から40年近くを経た今でも変わらずわたしの愛読書のトップ。 「人は変われる、遅すぎることはない」という教訓を思い起こさせます。 

Xmascarol
           
エベネゼール・スクルージは、金持ちでありながら大変なケチで有名である。事業の共同経営者兼、世界で唯一の友であったマーレーが亡くなってからと言うもの、益々吝嗇(りんしょく)に、偏屈に、そして人間嫌いになる。「クリスマス?ヘッ!」なのである。

クリスマスの時期に慈善院や教会から寄付のお願いがあってもビタ一文たりとも出さない。長年雇用している事務職員ことボブには、最低賃金しか払わず、冬の事務所を暖める燃料の使用量さえケチって、使わせる量は微々たるもの。ボブは厳寒の中、凍えそうな両手を擦り合わせて事務を執るのである。

ボブには、足の病気を持つ幼い子供ティムがいるのだが、スクルージがくれる安月給では、ティムの手術もしてやれない。

そんなスクルージの前にある夜、過去、現在、未来の3人のクリスマスの精霊が姿を現し、スクルージに過去、現在、未来の三つのクリスマスを見せてくれるのである。

貧しかったが幸せだった子供のころのクリスマス、薄給であるにも拘わらず、文句を言わず心優しいボブ一家の貧しい食卓とティム坊やの現在のクリスマス、自分の葬式だと言うのに町の誰一人として出席者のいない未来のクリスマス。

年老いたスクルージは、生まれて初めて自分の生き方を激しく後悔するのである。
そして目覚めた彼は・・・・
              
という話なのですが、写真はわたしが1973年11月9日に大阪で買った英語版の「クリスマス・キャロル」の表紙。もう色も黄ばんでボロボロになっています。クリスマスの精霊と寝巻き姿のスクルージです。わたしは、この絵のスクルージに何故かとても惹かれるのです^^

幼い頃、若い頃の貧困から抜け出すために、守銭奴になったのでしょうが、根っからの守銭奴ではなく、本来は人恋しいという人間性がこの絵の表情に表れているような気がしてなりません。
 
近年クリスマス番組もすっかり変わってしまいました。このような物語は心が洗われる気がするわたしですが、お涙ちょうだいものは、今の世では受けないでしょうか。 賑やかなコメディものもいいのだけれど、古くからの真のクリスマス精神をこういう時期にこそ紹介してくれ、引き継いで行けたらたらいいのにな、と、クリスチャンでもないわたしですが、思います。

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2015年12月19日

ノンちゃんのグループは3日とあげずにビア・ハウスにやってきてはホールの一隅を陣取り、ノンちゃんの常人ならざる風貌と数人のお供を従えて来ることとで、たちまちビアハウス内で名の知られる存在になった。ゆえに、彼のリクエストでわたしは、しょっちゅうイタリア語の「雨」を歌う羽目になったのである。

カンツォーネ雨
黄ばんですっかり古くなってしまった思い出の楽譜。
   
どこにあったか、場所はさだかではないが、藤本儀一さんが行きつけの「zoo」というバーに、時折出入りしたのはこの頃で、ノンちゃんグループとつるんでの話である。言っておきますれば、藤本義一さんはアサヒビアハウスにおいでになったことはあるが、このバーでわたしが出会ったことはない。

TV、ラジオ放送が終わったら来るから待て、とノンちゃんたちが言うのだが、翌日オフィスの仕事を持っているわたしに、そんな時間まで待って「明け方の君」でいられるはずもないのである。しかし、このグループとはまったくもって、よく大阪北、南界隈を一緒に彷徨したものである。
    
さて、この一件から数年たって、渡米したはずが、移住を辞めてアメリカから帰って来たわたしは、広島に住む男友達と、岡山で待ち合わせ、見知らぬ通りを行き当たりばったり、外装に興味惹かれたカフェに二人で入った。

カフェは、夜はディスコに変わるのであろう。店内はとても広く天井が高くて床は板張りである。面白いことに、店の片隅にイギリスで見かける赤い電話ボックスがデンと突っ立っていた。
    
二人でコーヒーなどをすすっていると、ボーイさんがツツ~っとわたしたちの席に向かって来、
「恐れ入ります。お客様にお電話が入っております。」とわたしに言う。
    
「え?お客様にって、こんなとこでわたし知り合い、いませんよ。」
「はい、でも外国の方とご一緒の女性は、お客様しかいらっしゃいません。あちらの赤電話にお出になってください。」

えー!だって、こんなとこに来るなんて誰にも言ってないし、岡山は初めての町だし、いったいどうなってるの?と摩訶不思議な面持ちで出た赤電話の受話器の向こうから、
  
「お久しぶりでございます。ノンちゃんグループのワダです。念願叶ってボスに岡山でコピーライターオフィスを開いてもらいました。
今日たった今、向かいのビルにあるオフィスの窓から、偶然あなたがそこへお入りになるのを見かけたので、懐かしくてお電話を差し上げた次第です。」
    
そうです、ノンちゃんの付き人をやっていたあのワダちゃんからの数年ぶりの、思いもしなかったコールでした。あの頃と同じく馬鹿丁寧な口調だ。懐かしさが胸いっぱいにこみ上げてきたのは言うまでもない。このような偶然はあるのだ。
世の中広いようで、ホンマにせまいんやなぁ、とつくづく思わされた出来事であった。

そして、付け加えるならば、その時一緒にカフェに入ってコーヒーをすすっていた「外国の方」とは、言わずもがな、後のわが夫になる人であった。

LaPioggia、一件落着なり。

アサヒビアハウス 
La Pioggiaを歌っていた頃。この頃はまだドイツの民族衣装を着ていなかった。
 
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2015年12月18日      
  
誰でも、「世の中は広いようで狭いんだなぁ」と感じずにいられないような出来事に遭遇したことがあると思う。

今回はこの題である「雨」にまつわる、わたしの「世の中せまい」版です。6時半から始まる最初のステージを終え、そこで楽譜を片付けていた時だ。おそらく30代前半であろう、小柄な、丸メガネをかけてスーツをバシッと着こなした男性が、一輪の赤いバラの花を手に、ステージの壇を下りようと振り向いたわたしのまん前につっ立っていた。

「誠に恐れ入ります。わがボスが是非ともあなた様にわれらの席までお運びいただいきたいと申しております。ご迷惑なこととは思いますがいらしていただけないでしょうか。」と、そのバラの花を差し出すではないか。

当時、アサヒ・ビア・ハウスでは、歌姫やアコーディオニストが客と同席してともに楽しむ事を禁じてはいなかった。常連たちは客というよりむしろ友人とも言えた。
 
わが先輩の歌姫宝木嬢は、ゆえに、ステージが終わって後の休憩時間30分は、常連仲間とワイワイガヤガヤ、飲みながら食べながらのおしゃべりであった。客との話しに夢中になって、次のステージ時間が来、アコーディオンのヨシさんが舞台にあがり、音楽で呼ぶまで居座ってしまうこと、しばしばなのだった。
  
わたしは、と言えば歌い始めた頃は、たいがい自分の安物の白いギターを抱えては、調理場裏の間にある、せまいホールで歌を歌って次の出番までの時間を過ごしていたのである。

asahibeerhouse
「La Pioggia」を歌っていた頃

さて、男性の態度があまりにも丁重ゆえ、つい断りきれずに向かったその席は6、7人の男性グループの席だ。
「ご紹介いたします。こちらがわれらのボスです。」と紹介されたのは、薄暗いビア・ハウス内だというのにお構いなくサングラスをかけたままの、40代の男性で、彼もまた、スーツをビシッと着こなしていらっしゃる。
  
わたしが最初いぶかったのは、当時の、しかも、その年齢にしては珍しい肩までたらした長髪だった。
「なにか怪しい感じだぞ・・・」とは思ったものの、今更、退くわけには行かず席に座ってしまったのが運命の始まり、べんべんべんべ~ん。笑。
後に、われらが「ノンちゃん」と呼ぶことになる彼は、コピーライターなのであった。彼の周囲に控えていたのは、シナリオライター、カメラマン、照明係で、いんぎんな態度を決め込んで、わたしを誘導したのは、「ノンちゃん」の付き人、兼コピーライター志望者のワダちゃんである。

「ノンちゃん」のたっての願いで、リクエスト曲として覚えて歌わなければならなかったのが、1969年にイタリアのサンレモ音楽祭の「夢見る思い( Non Ho L'Eta)」で、優勝した16歳のジリオラ・ティンクエッティが、後に歌って大ヒットした「La pioggiaー雨」。
       
♪sul giornale ho letto che
   il tempo canbiera le nuvole son nere in chielo e
   i paseri lassu non voleranno piu
   chissa peruche
   
   空には黒い雲、天気は変わると新聞では言ってるけれど
   雨が降っても わたしの気持ちは変わらない。
   まったく変わらない
  
と、恋心を歌っている。
レコードを買い、イタリア語を耳で覚え、楽譜を探し出してビアハウスに持ち込み、アコーディオンのヨシさんに演奏を頼んで歌い始めたこの歌は、わたしの「リクエストが一番多い歌」になったのである。

 (続く)
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2015年12月17日 

親がよく遊んでいたので、花札の花合わせ遊びは知っている。
小さな一枚一枚の黒い縁取りのカードに、鮮やかな色彩の花が描かれているのを見ては、美しいと子供心に思ったものだ。少し厚めで裏が黒色の花札は、一枚一枚置くときのピシッと音がするような感覚も好きだった。

日本から持ってきた花札は、ここで遊ぶことはないが、日本文化展示会に使うことがある。その鮮やかさな色彩はポルトガル人たちの目をひくようだ。

花札が一式を48枚だとするのは、ポルトガルから伝来した、「カルタ」もしくは「バラーリュ(Bbaralho)」と呼ぶ)いう遊びカードが、一組48枚だったことから来ると言われる。後に、このカルタ、バラーリュは日本語で「トランプ」と呼ばれるようになったが、その語源はさだかでない。

カード遊びと言えば、日本の代表として上げられるのに小倉百人一首の歌がるたがある。小倉百人一首は13世紀始めに京都の小倉山の山荘で、歌人藤原定家が8世紀から13世紀の間に詠まれた和歌を編纂(へんさん)したものだ。、それが江戸時代に入ると歌がるたとして広く普及し、現代に至る。

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歌がるたこそした経験はないが、百人一首の歌の何首かは知っている。恋の歌が多いなというのが、これまでのわたしの感想であった。

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ところが、しばらく前に、「今の百人一首の解釈の多くは間違っている」と書いてあるのをネットで目にしたもので、どこがど間違っているのかしりたいものだと、好奇心が頭をもたげ、日本に住むもいける娘に依頼して送ってもらった本が「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」だ。

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サブタイトルに「千年の時を超えてあ明かされる真実」とある、国史研究家、小名木善行氏の著書である。小名木氏は、日本の良い話をブログ「ねずさんのひとりごと」で発信するブロガーであり、わたしはよく訪問する。

一週間ほど前から、夜寝床に入って寝入る前に読み始めたこの百人一首だが、一挙にその解説に引き込まれてしまった。ハードカバーの分厚い本なので、親指の付け根に腱鞘炎があるわたしには、しばらく手に抱えて読むのが厳しい。それで、夜寝る前に百人一首の1、2首とその解釈を読んで本を置くことにしている。

小名木氏の解説は、文法解釈もあるが、同時に時代背景の歴史を絡め、歌の詠み人の心情にせまっていく。なんだか、ミステリーを紐解いていくようで、わたしは大いに興味をそそられているのである。


例を上げると、百人一首のトップは、中大兄皇子こと、後の天智天皇の詠んだ、

秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露に濡れつつ

は、通常、「小屋が粗末だから、わたしの着ている服が梅雨で濡れてしまったよ」が解釈だが、小名木氏は、「天智天皇ご自身が太陽が出ていない時間帯に、粗末な庵で、長時間、自ら苫(ござ)を編んでいたのであり、民と共に働く天皇、上に立つものから率先して働く天皇の姿」がうかがい知れる。世界史上でも類まれな偉大な天皇の和歌を、一番歌として定家は持ってきた、と解説している。
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2番歌には、女性天皇、持統天皇の

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山

は、究極の夫婦愛と日本人の死生観を歌ったものだと言う。そして、「日本」と言う国号を正式に決め発令したのはこの持統天皇だと解説にある。

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ひとつひとつの和歌の解説は、その当時の歴史的出来事をとりあげ、まるで歴史を短編を読んでいるような気がすると同時に、目からウロコの解釈に驚くばかりだ。

久しく、ズシリと重さも読み応えもある一冊に出会った思いだ。

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2015年12月15日              

♪ 一夜さ モンテカルロ 
しゅろ茂る 葉隠れに
君がかいな取りて 共に歩まん
一夜さ モンテカルロ
星降る空を見 
君が熱きくちづけに酔わん
      
これが、オペレッタ「狂乱のモンテカルロ」の中のヒットしたタンゴ曲、「Eine Nacht in Monte-Carlo(モンテカルロの一夜)」だと知ったのはずっと後年です。昭和8年製作とありますから、遠当然わたしは、まだまだこの世に生を受けておりません。しかし、これはわが先輩歌姫こと宝木嬢の持ち歌の中でも、わたしが好きな一曲なのです。

仮想の王国ポンテネロの巡洋艦長、のんびりと魚つりを楽しんでいるところへ、
女王陛下の地中海遊覧の命令が入ります。そんな窮屈なお役はご免とばかりに、
艦長はモンテカルロへ向けて出発してしまう。
女王は艦長を懲らしめるべく、先回りして妖艶な仇し女に変装、その女王に
まんまと引っかかり、二人は艦長室で一夜を明かすのである。
翌朝、パリッと女王陛下の制服で現れたのを見て艦長は仰天、巡洋艦から
ざんぶと海中にとびこみ、ハワイに向けて出向する外国船に乗るのだが、
女王さまも負けじと命令一下、巡洋艦をハワイに向けて追跡させるのである。

                         「世界映画名作全史戦前編」引用

     
さて、歌姫宝木嬢がこれを歌うと、必ずや曜日常連のI氏とお連れの女性が、歌に合わせてステージ前の小さなスペースで、タンゴをちょっとおふざけ気味に披露してくれる。二人の踊る呼吸は実にピッタリ。ベレー帽がトレードマークのI氏は当時70をとうに越していたと思うが、かくしゃくたるものであった。お連れの女性は女医氏と聞いた。
  
思うに、ダンス教室の帰りにビアハウスに立ち寄ってタンゴを遊びがてら披露していたとわたしは推測している。なぜなら、タンゴは上手なはずなのに、片足を挙げたりして多少おふざけが入っていたからだ。
                  
アサヒビアハウス梅田

1977年、女性セブン6月16日号に掲載されたアサヒビアハウス。アコーディオンのヨシさんと、マイクを持っているのはわたし。
「モンテカルロの一夜」「夜のタンゴ」が歌われると、必ず踊り出す、常連の中でもひときわ目立つカップルでした。I氏ももう故人です。

それぞれ強い個性を持つ 常連が多い、愉快な大人の集いのビアハウスでした。

モンテカルロはカジノとF1レースの国である。 1980年代にわたしは家族と一週間ほど滞在したことがある。ホテルはモナコ王室も利用し、F1レースが催されるときは、部屋のバルコニーから、いながらにして観戦できるというところだ。
しかし、それよりもモンテカルロでの忘れられない思い出は、そこで野外に大きなテントを張ったドイツのビアホールがあったことである!もちろんドイツからビアソング楽団が来て演奏しており、わたしは夫を説得して引っ張って行った。
  
バイトとは言え、ビアハウスで歌っていながら本場のビアソングを聴いたことなし、本場のビアハウスを見たことなしのわたしだったのである。初めて体験した本場のビアソング楽団!見知らぬ隣席の、どこの国の人とも知れぬ人たちと、テーブルをたたき肩組んで、楽団のビアソングに、そしてビールに酔いしれた。

わたしたちの「モンテカルロの一夜」だった。

きいてみますか?


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2015年12月13日 

この数日、夜遅くまでパソコンとにらめっこしていました。さすが今日は目が痛い。取り組んでいたのはこれです↓

アサヒビアハウス

1970年の後半からわたしが渡米するまでの数年間を、歌姫バイトで過ごした、わが思い出のアサヒビアハウス時代のエッセイと写真集を一冊のファイルにまとめました。

エッセイについては、ところどころ書き直したものの、元来がわたしの拙文です、これ以上、手の入れようがなし、はははは。写真集は一部撮り直したりしてみました。今日はこれをショッピングセンター内にあるコピー専門店に持ち込み、上の写真にあるように、見栄えがするように作ってもらいました。

アサヒビアハウス

アサヒビアハウス
 

一週間ほど前のことです。ブログのコメント欄に、アサヒビアハウスの歌姫時代の仲間の一人のご子息からのメッセージが入りました。お父上が今度、喜寿を迎えるゆえ、spacesisさんからメッセージをいただけないか、それをサプライズにしたいのだ、そうです。

喜寿を迎えるお父上とは、アサヒでいつも一緒だったアコーディオン奏者のヨシさんでした!ビアハウスでアコを弾いていながら、実はほとんで飲めないという方なのでした。

アサヒビアハウス

わたしの記憶にあるヨシさんは、いつもニコニコしている人でした。わたしが新しい楽譜を引っさげて、ほとんど音合わせなしの新曲を歌うとき、ステージで時々失敗、伴奏と合わなくなったりするのです。
そんなときは、二人とも顔を見合わせて、わたしなどはマイクを持ったまま目を丸めて「うげ!」です。

が、ヨシさんはひょうきんな表情で、その場をなんとか取り繕ってくれ、危機を切り抜けたことが何度かありました。そのヨシさんが喜寿かぁ・・・と、感慨にふけ、そうだ!これを送ってあげよう!と思いついたのが、長い間、放ったらかしにしていた、「あの頃、ビアハウス」のエッセイ集です。

ヨシさんは恐らくパソコンを使っていないことでしょう。
ご子息が「アサヒビアハウスは父の青春なのです」と、言っておりましたが、それはわたしにも同じことが言えます。

色々な大人たちにそこで出会い、共に歌を、ビールを楽しみ、アメリカ移住の夢を育んだ場所です。アサヒビアハウス梅田は、言うなればわたしの古巣なのです。

そんなわけで、この一週間ほど、ビアソングや、ビアハウスでよく歌われた第二次世界大戦前後の懐かしい歌を聴きながら、久しぶりにアサヒビアハウスのあの頃にひたっていたのでした。
アサヒビアハウス

エッセイ集にも写真を挿入し、カラーコピーで仕上げてもらいました。
え?誤字脱字はないのか、って? それを言っちゃぁおしまいよ(爆)

いえね、出来上がったアルバムを見直して、あちゃ~、番号がずれてるぞ、とか、タイトルが抜けてるぞとか、色々発見いたしまして^^;先ほどまで、訂正箇所に紙を貼り付けておったという次第であります。
ペンに入れてコピー店に持っていく前に、確認したつもりなんだが、やっぱりわたしの目は節穴でありました(笑)

これもわたしの愛嬌ということで、ヨシさん、かんにんしてくださんせ。

今回こんな風にアルバムにしたのは初めてですが、これをあと2冊作ってもらい、母親の人生の軌跡を子供たちに残そうと思いました。

昔と違い、写真はパソコンに取り込まれることが多く、何かあったときには全部失せる可能性もありことだし、親子で懐かしく語り合うのもパソコンを開けて、というのでは、いささか興ざめというもの、わたしはいまだにアナログ人間ではあります。

現在、「あの頃、ビアハウス」は、7編ほどで止まったままですが、今回、完了させましたので、順番にアップしてまいります。

では、みなさま、また。

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2015年12月8日 

先日、ノヴァ・シントラ公園の古い噴水類を紹介しましたが、今日はその続きで、写真を楽しんでいただけたらと思います。

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chafariz do convento de Avé Maria

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Arca de Àgua de St. Isídro

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Arca de água do Mercado do Anjo

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Fonte do Ribeirinho ou dos Ablativos

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赤い椿が園内の石畳を埋めていました。 

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↑↓Fachada(ファサーダ)        

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カルロス・アルベルト広場にあった家畜の水のみ場。両脇に水の受け皿があり、ひとつは馬、もうひとつは犬猫用だったそうです。

本日はこれにて。  

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2015年12月5日 
4人の日本語能力試験(JLPT)受験生を抱え、ここ3週間ほど、その対策の問題準備と復習授業で生徒たちをガンガンやってきました。今回は唯一の休日である日曜日を返上してのエキストラ授業が続き、多少疲れ気味ですが、久しぶりに気持ちが高揚しています。

明日、6日、日曜日、朝9時からJLPTの試験です。今日は最後の仕上げをし、ポルト大学文学部の受験場での注意をいくつか与えてきました。

決して遅刻するな、4人待ち合わせて行くべし、ケータイはスイッチを切るだけでなく、普段アラームを使っている場合は、それも必ず解消することを忘れるべからず、持参する受験票、身分証明書となるIDカード、えんぴつ、消しゴムを朝、確認せよ、などなど、ほとんど我が子に与える注意と違えませんです、(笑)

「先生は来てくれないの?」なんて、君たち、もう子供じゃないぜ!と、返事をしながら、頼られているのを喜んでいる自分がおり、いったい、どっちが受験するんだか、あっはっは、の感が無きにしもあらず。
それで、冒頭の高揚感あり、なのでした。

と言うのは、漢字検定試験の際には、わたしは、受験場である、かつての我が職場、補習校へ生徒たちと一緒に出向かい、試験が終わるまで控え室で待っているのが常だからです。ちょっと甘やかし過ぎかな?と思いながらも、生徒たちのウイークポイントをクリアするために、最後のぎりぎりの時間まで、確認するためでもあります。

さて、教えるが側として、もうちょっとできたかもしれないけれど、体力が弊害になり、他のクラスもあるので、そこをセーブしたことは否めませんが、できることはしたと思っています。後は生徒たちが力を本場で発揮すること、そして幸運を祈るばかりです。

今日の授業の終わり、「プレゼントである。JLPT試験が終わったらすぐ次の試験の厳しい試練が待っておるのだ。」と、1月末に控えている漢字検定試験の例題集を手渡し、「せ、せんせ・・・」とあっけに
とられている生徒を教室から送りだしたのでした。

明日の生徒たちの幸運を祈りながら、本日はこれにて。
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2015年12月3日

今日は、息抜きに半日休んで歩いてきたポルトの穴場、ノヴァ・シントラ公園です。

以前から気になっていた場所でしたが、日本語教室を始めてからここ4年ほど、ポルトデジカメ探検の時間がなく、今日まで行かずじまいでした。

現在、一旦中断しているものの、ポルト市内にある古い噴水(ポルトガル語でchafaríz, fontaría)や共同水汲み場を追っかけて一時は撮影し始めていました。昔ながらの噴水で市内に残っているものもありますが、多くは都市計画のため、市内のあちこちの公園に移動されています。

メトロ「Heroísomo」駅から目の前のRua do Barão Nova sintra通りを少し歩いて右側にあるノヴァ・シントラ公園は、現在ポルト市の管轄で入り口にある建物は水道局になっています。

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公園の入り口。

門番がいますから、「公園を見たい」と一言お願いすると、通してくれます。

parque_novasintra

入るとすぐに見えるのが、Brasão de Font de São Domingos(サン・ドミンゴス泉の一部だった紋章)王冠の上にドラゴンが座っています。1850年に造られた泉は、現在のサンードミンゴス広場にありましたが1992年に、商店建築のため移動されました。


parque_novasintra
O Universo (4+3), de 1987
水道局の正面にある新しいブロンズの噴水、「O Universo(ウニヴェルソ=宇宙)。1987年に彫刻家Irene Vilarによって造られました。

parque_novasintra
fonte da Rua Garrett
いつ造られたのかは年号が消えていた不明。1948年に再建されました。カルロス・アルベルト広場に置かれていた。

parque_novasintra

Campo do Alegreに設置されていた水汲み場。花崗岩からの自然水でしたが、水が流れてこなくなり、1945年に移動されました。

紹介したい噴水はまだまだあるのですが、2回に分けて案内します。人っこひとりいない園内は秋深く、わくら葉を踏みしめる音が心地よかった。
 
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丘陵にある公園からは、わたしが仕事柄、隣町のガイアにある大手企業へ行くときによく渡るドウロ川に架かる橋、フレイシュ橋が見えます。
  
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では、また。 
                               
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2015年11月30日 

日本語学習者の日本語能力試験が一週間後に控えています。
昨日の日曜日も3時間の試験対策授業をして来ました。先週の日曜日、授業が終わった後、「しんどいぞ。次の日曜日は止めようかな」と密かに思っていたのですが、生徒たちの顔を見たらそれが言い出せず、結局、昨日もノリノリ調子でやってきたのでありました。

この「ノリノリ」は、先日紹介した「ビリギャル」の影響かと思われ(笑)
われながら、「ブタもおだてりゃ 木に登る」の典型的なタイプだな、と自覚する次第であります。

そんな週末でしたが、こんなポルトの夕暮れの景色には、一日の疲れをスーッとひかせるような美しさと懐かしさがあります。この中を車を駆って我が家に帰れる幸せとでもいおうか^^

2015_nov.jpg

思わず車を止めて、思わずカメラを向けていました。

そして、この日は車のトランクに嬉しい届けものを積んでいたのであります。

この時期になると、必ず「ユー子さん、いりませんか?」と親切に声をかけてくれる、食事会仲間のI氏手作りの「だ・い・こ・ん」!ポルトガルでは大根が手に入りませんから、とても嬉しい申し出なのです。
↓見た目にはゴツゴツしていて、あまり見目麗しいとは思えないでしょうが、これが水分たっぷり、実にうまいのです。

daikon.jpg

畑の土の中から掘り出して、ついた土を丁寧に洗い流して持ってきてくれるのです。Iさん、本当に感謝いたします。醤油、みりん、砂糖で煮付けた輪切り大根は夫も大好きで、早速夕べ、作りました。

さて、いつもは迷わず捨ててしまう大根の皮なのですが、どういう拍子でか、この皮をキンピラ風にできるかも知れないのでは?と思い、即、にんじんを併せ、ゴマをふりかけて試してみましたら、おお!いけるではないですか!

daikonkinpira

疲れているとは言え、好きな食材を目の前にすると、仕事の具合が違ってきますね。わたしとしては、珍しく自分が作った食べ物の話でありました。

では、みなさま、また!

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