2016年1月29日

pack up all my care and woe  苦労も哀しいことも みんな詰め込んで
here I go, singing low       低い声で歌いながら、さぁ行こう
bye bye blackbird         バイバイ・ブラックバード

where somebody waits for me どこか わたしを待っている人がいるとこへ
sugar´s sweet, so is she      あまく優しい人、母さんのとこへ
bye bye blackbird         バイバイ・ブラックバード
no one here can love or understand me    
ここじゃ誰もわたしを分かっちゃくれない
oh what hard luck sotries they all hand me  
なんてひどい巡り合わせばかりなのよ
make my bed and light the light  わたしのベッドを作っておいて 
母さん 灯りもつけといて
I´ll arrivebe late tonight       今夜遅く帰るわ
blackbird, bye bye          バイバイ・ブラックバード 
                                    (訳:著者)                                                       
      
1926年に作られた古いジャズソングである。
「Sleepless in Seatle」(トム・ハンクス、メグ・ライアン共演)などの近年の映画でもよく使われているそうだが、Sleepless in Seattleを観たというのに、Joe Cockerが歌っているのを全く覚えていないのは不思議だ。
 
それは多分昔観た古い映画、「裸足のイサドラ」の船上のパーティー・シーンで使われていた印象があまりにも強烈だったからかも知れない。
 
「裸足のイサドラ」は、斬新的な踊りで当時の閉鎖的な社会に物議をかもし出し、後にモダンダンスの祖と言われた、イサドラ・ダンカンの生涯をフィルムにしたものである。彼女の生きざまもさることながら、衝撃的な最後を遂げた人でもある。恋多きイサドラはパーティーで出会った若い男に心惹かれ、彼とオープンカーに乗り込み、走行中に首に巻いていた長いスカーフが車輪にからみつき、最後を終えたのだ。

ビアソングが主流のアサヒで、わたしは時折「yesterday」やシャンソン、そしてこの「バイバイ ブラックバード」などをアコーディオンのヨシさんに頼んで入れてもらっていた。こういう歌を歌えるのは、毎晩、人でごった返しの夏場ではなくて、客のほとんどが常連ばかりというビアハウスの落ち着いた冬場である。イントロもあるのだが、多くの著名歌手がスローテンポでイントロなしで歌い上げている。わたしは聞くのも歌うのもデキシーランドジャズ的に軽いノリの方が好きだ。この歌もリクエストがよく入ったものだ。
   
ビアハウスでは「ゆうちゃん、ゆうちゃん」と可愛がられながらも、自分の居場所をここかあそこかと探し求めていた当時のわたしの気持ちが、この歌にはいささかある。 ビアハウス歌姫時代は、人とのめり込んだ個人的な付き合いはしなかった。

byebyeblackbird1.jpg

ビアハウスが閉まる9時半以降に、店長の塩さんが声をかけてくれる、「おい、ゆうこ。今日は夕霧そば(ビアハウスの近くお初天神界隈にあるおいしい蕎麦屋さんの名物)食べに行こう!」の誘い以外は、たいがい独り住まいの枚方は宮之阪のアパートに
直行である。翌日のオフィスの仕事もあったことも理由ではある。夕霧そばを食べながら、塩さんを前に熱く語るは、「日本脱出」の夢」!その資金作りの歌姫家業であった。

ほぼ目標金額達成を目前に舞い込んできた当時の話に、梅田の新開店の喫茶店(この店は横山ノックさんのお兄さんの店だと聞いた)で、アサヒが終わった後の2週間、アコーディオンのヨシさんと歌ったことがあったが、これはきつかった・・・

喫茶店はビアハウスのホールと違い、床に絨毯が敷き詰められており、太くて大きなはずのわたしの声がそこに吸い込まれてしまって、店内に響かないのだ。 歌い終えて終電車へと足早に急ぐわたしは、自分のアパートの駅にたどり着くころはヘトヘトになっていた。9時からオフィス、そして、アサヒ、喫茶店での歌と、一日にこんなに掛け持ちで働いたのは、後にも先にもこのしんどかった2週間だけである。
 
「お前、死ぬぞ」と友人に言われるほど、クタクタになるまで稼ぎに稼いだ2週間ではあった。
そして目標の留学、移住資金は達成された。

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2016年1月28日 

毎年12月初めに、ポルト大学で実施される、日本語学習者向けの「日本語能力試験(JLPTとも呼ばれる)」に、今年は初めて、グループ授業の生徒たちを送りました。

これまでも5人ほど、我が教室から受験した生徒がいますが、彼らはみな個人レッスンの生徒たちで、比較的指導し易かったと思います。以前の受験者は60代以上が多かったことを考えれば、合格率の70%は上々のできだといえるでしょうか。

が、グループ授業の生徒たちをまとめて4人送ったのは初めてです。

グループの生徒たちの受験指導は、全員が受けない限り授業に取り上げられないのですが、このグループは、みな20代で仲間意識もあり全員受けたいという。そこで、昨年10月、11月と、週に一度の授業を、2度ほど、日曜日返上で取り組んできたのですが(ボランティアですw)、これが、大変でありました^^;

試験は総合復習につながるので、これまでの日本語学習を振り返る意味で、とてもいいと思うのですが、なにしろ、大学の勉強や試験もある生徒たちなので、週に一度とわずかの宿題を与えると言った日本語学習の形式ですから、忘れている文法、漢字、語彙の多いこと~~!生徒より教えてきた自分が悲鳴をあげていたのでした^^;

そして、日本語能力試験が終わるや否や、そのまま、1月末の漢字検定試験の指導に入ったというわけです。件の能力試験受験を終えた生徒たちも、引き続き、漢字検定9級に兆戦です。

今回は、その4人に加え、別グループの5人も9級受験です。
更に、昨年2月から始まった市立図書館の初級クラス、6人も、10級を受けたいと言い出し・・・・

通常は1年未満の学習者には受験させないわたしが、ついつい情にほだされ、「じゃぁ、やってみっか!」と相成り、自らの首をしめることになってしまいました。
漢字検定試験に関しては、我が教室の合格率はこれまで100%だったというのが、ちょっとした自慢ではありましたが、ちょうど、この時期はこちらの大学の多くの科目の試験期間でもあり、今回はどうなることやら。

最終的には指導の力より生徒の力です。ここまでモチベーションを落とさず、上げるのがわたしの役割です。試験にパスしたらもちろん嬉しいが、大事なことは、受験という目標に向かって、自分がする勉強である。その間に学ぶものは多くあるはず。最後の最後まで諦めるな!と、生徒をメールで叱咤激励。

漢字検定試験は今週土曜日の午後です。昨日の水曜日の図書館授業で、ひとまず指導は終わりましたが、当日、会場には30分前に入り、「質問、試験直前ギリギリまで受けます!」です。

で、ふっと思いました。これ、日本の受験のやり方に似てはないか?はははは。

本日はこれにて!


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2016年1月16日

♪vor der Kaserne      夜霧深く
or dem grossen Tor    たちこめて
 stand eine Laterne     灯りのともる街角に
 Und steht sie noch davor  やさしくたたずむ恋人の姿
 do wolle´n wir uns da wieder seh´n
Bei der Laterune wollen wir steh´n
 Wie einst Lili Marleen     いとしい リリー・マルレーン
 Wie einst Lili Marleen     いとしい リリー・マルレーン

若い人には馴染みが薄いかも知れないこの歌、「リリー・マルレーン」は第二次世界大戦中にナチへの反戦歌として戦場で歌われた。自らがドイツ人でありながら国策に反抗し亡命したドイツの大女優、マルレーネ・ディートリッヒの低い声でささやくように歌ったこの歌に戦場の兵士たちはつかの間の安らぎを得、望郷とともに国に残してきた恋人に思いを馳せたことであろう。

ビア・ソングやオペレッタを持ち歌にするには、私の声は低すぎた。出ない声は出ないのである。暗黙のうちにできあがったのが、「場内を盛り上げる魚浮名歌は先輩歌姫宝木嬢、そして、ひっそりがわたしの歌」。もちろんわたしの持ち歌全てがそうではないが、男性の声ならいざ知らず、一応女性の声ではあるので、低音でガンガンとリズムに乗って歌うというのも、多少の違和感は免れない。

場内の盛り上がりは7時半の「5リッタージョッキーの回しのみ」で始まる。 「ビア樽ポルカ」の曲にあわせてわたしたちはタンバリンを手に目いっぱい陽気に歌い、まず常連の一人がステージ前の丸テーブルの上に乗りあがり、ヨッコラショとばかりに大きく重いジョッキーを片手に飲み始め、そのうちにそれに続く飲み人の列ができる。
 
アサヒビアハウス
アサヒビアハウス梅田の名物、回し飲み。1977年「週間朝日」2-4号掲載

順番に回しのみして行き、最後に飲み干した人には商品が与えられ、そのすぐ後、全員総立ちでそれぞれのジョッキーを片手に
  
 ♪Ein Prosit Ein Prosi der Gemutlichkit!!
  (アインプローズィト アインプローズィト デル ゲミュートリッヒカイト=乾杯!)
   
と、歌いながら見知らぬ隣席の人々とグラスをあわせ鳴らすのである。 場内はこのときが最高潮。そんな後にちょっと一息、静かな歌としてリクエストの多かったひとつが、この「リリー・マルレーン」であった。

アサヒビアハウス

ドイツ語で歌い始めると場内は静まり返り、さほど上手でもないわたしの歌に人は耳を傾けてくれる。ほの暗いビア・ホールに流れる「リリー・マルレーン」はその哀愁あるメロディで熱気溢れる回し飲みやムカデ行進の後が、聴いてもらうのに抜群の効果があった。

わたしの大好きな歌である。

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2016年1月24日

シマ、タコ君、ブログを読んでるかな?
メール、送りました。確認、乞う!
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2016年1月23日 

このところ、日本語教室、YY塾の生徒たちの、漢字検定試験対策と指導に追われ、忙しくしており、ついついブログ更新が滞ってしましましが、それも一週間後に迫りました。今日は4日ぶりの記事です。

随分前から訪れたいと思いながら、なかなか時間がとれず、未だ実現していない、ローマ時代の面白い遺跡があります。

ポルトから車で1時間足らずのPenafiel(ぺナフィエル)という町の山頂にあるCastro de Monte Mozinho(カストロ・デ・モンテ・モズィーニュ)と呼ばれる遺跡なのですが、これが世界のあちこちで見られるローマ遺跡とは少し様子を異していることに、わたしは興味を持っているのです。

Castroは英語ではHill fort(ヒルフォート)と言い、中央ローロッパ、イギリス、イベリア半島に多く散らばっています。

わたしが興味をもつのは、一つには、この遺跡を天空から眺めたら、ナスカ高原の地上絵の態をなしたりしていないか?あるいは、ヨーロッパのカストロを点で結んだら、なにか面白いことが発見できないかなどと、ひとり想像をたくましくしているからなのです。

カストロを少し説明すると、元は古代ローマ以前の青銅器時代から鉄器時代にケルト人によって造られた避難用の村で、周辺を見渡すことができる小高い丘の頂上に見られます。
カストロ の周囲には、ケルト人以前の文化の遺物であるメンヒルやドルメンのような青銅器時代の巨石記念物が多く見られます。土や石や木材でできた防壁がめぐらされています。また、カストロには湧き水や渓流の水源があり、住居は円形に並んでおり、草葺屋根をかけています。カストロの大きさは直径数十メートルから数百メートルまでと、大小さまざま。下は復元されたカストロの例です。

castro

ぺナフィエルのカストロは、まだ全様がさだかではないのですが、恐らくイベリア半島で一番大きなCastroと推測されているようです。

さて、今日、夕食を取りながらテレビニュースを見ていると、ぺナフィエルのカストロとスター・ウォーズのミレニアム・ファルコンに似ている、いや、ミレニアム・ファルコンがカストロに似ている(!)と言うおも白いニュースが流れたのですが、あっと思った次第です。

ミレニアム・ファルコンと言うのは、スター・ウォーズの花形の一人、ハリスン・フォード演じるところの、ハン・ソロが持つ宇宙船のことです。優れた高速力を持っていますが、その外見から「銀河系最速のガラクタ」と呼ばれ、今回わたしが見たエピソード7「フォースの覚醒」では、埃に埋もれて姿を現します。
下がハン・ソロのミレニアム・ファルコンなり。

mileniumFalcon

そして、こちらが、ぺナフィエルの山頂にある遺跡、カストロです。

castro

いかが?似てると思いませんか?わたしなどはポルトガル人と一緒になって「ひゃ~~!」と嬉し喜びです(笑)
もちろん、この話、ジョークではありますがね^^

このところ、ずっと遠ざかっている古代宇宙学への興味がムクムク湧き出して来そうです。これは調べ始めると病みつきになるので、日本語教室を卒業した暁には、たっぷりと時間をかけてネットと本で追っかけをしようと、老後の楽しみのひとつにとっておいてるわたしであります。
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2016年1月19日

takaragijou
アサヒビアハウス梅田時代の我が先輩歌姫宝木嬢
    
♪ 春すみれ咲き 春をつげる
  人なぜみな 春を憧れ待つ
  楽しくもなやましき春
  愛の夢にいつも 人の心甘く酔わす
  そは すみれ咲く春

 すみれの花咲く頃~ 

ご存知、「宝塚歌劇団の歌」として広く世に知られている「すみれの花咲く頃」のイントロです。おそらく誰もがこの歌を耳にした記憶があるのではないでしょうか。宝塚歌劇「パリゼット」の主題歌として取り上げられ流行しましたが、もとはといえば、オーストりアの歌がシャンソンとして歌われていたとも言われます。

このイントロで「すみれのは~な~咲く~ころ~」と歌が始まる時には、ビアハウス場内がみな一斉の合唱になるのでした。春を待ち焦がれる者と、遠き春をしのぶ者と、馳せる心は皆違うだろうが、それぞれの思い入れがこの大合唱からうかがわれるのでした。

「アサヒ・ビアハウスは人生のるつぼである」とわたしは言う。
ここは恋あり歌ありの人生劇場で、ビアホールを訪れる多くの客を目の当たりにし、少なからず数編の恋物語をビアハウスで読んだ感がわたしにはある。

ここで出会って別れた人たち、出会ってハッピーエンドに結ばれた人たち、苦しい恋をずっとここでひきずった人たち。さまざまな歌の合間合間に、アサヒ・ビア・ハウス人生劇場の登場人物たちが思い出の中でフラッシュ・バックするアサヒビアハウス梅田はその魅力で未だにわたしを捕えて放しません。

宝木嬢が歌う「すみれの花咲く頃」は、素晴らしかった。

わたしよりずっと年上である彼女は当時すでに40代半ばを過ぎていたと思う。その独身の彼女と一回り以上も年下の男性、マックとの恋は周りをドキドキ冷や冷やさせながら、数年間は客たちの話題をさらっていました。

ビアハウスのバイトが終わると、わたしはその二人と連れ立って、梅田地下街あった、京美人の姉妹が営む小さなカウンターの食事処に腹ごしらえに誘われて行ったことも何度かあります。

アメリカ移住の夢を放り出し急遽アリゾナから日本に帰国し、その後、ポルトガルに嫁いだわたしは、2度ほど、一時帰国中、堺にある宝木嬢の家に、幼児の息子を伴い数ヶ月滞在しながら、ビアハウスでカムバックしては歌っていましたが、この時期、宝木嬢と恋人マックが同居している中に加わったのでした。

少し面白い同居人構成ではありましたが、宝木嬢の自宅は、上空から見ると、ひしめき合った民家の中で、そこだけ緑がこんもりとしていると言われるほど、結構広い自然体の庭があったのです。そして、その庭たるや、何匹もの猫たちが住人でもありました。ネコ好きのわたしも息子も大いに数ヶ月の滞在を楽しんだものです。

恐らく未だに同居していると思われるのだが、あれから四半世紀以上を経た今、果たして宝木嬢とマックの恋の結論はどう出たのだろうか、と、春まだ浅い頃には、この歌に思いを馳せるのです。
  
「すみれの花咲く頃 今も心ふるうよ
忘れ君 我らが恋 すみれの花咲くころ」

この恋物語だけは、わたしの中で未完なのです。

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2016年1月17日 

新春から始まったNHK大河ドラマ「真田丸」第一話を見ましたが、久しぶりに心がうきうきしました。

真田丸って船?と一瞬思ったものの、待てよ、だって、真田一族は信濃の国に城を築いたわけであるから、船というのでは話が合わないと思い、早速調べてみますと、大阪冬の陣のときに、豊臣方についた真田幸村が徳川方の攻撃を防ぐために大阪城の南方に築いた半円型の城とは呼び難い「出城」なのだそうです。

(追加:このエントリーを書いた後で、真田丸を取り上げたNHK番組ヒストリアを見た結果、俗に言われてきた半円型ではなくて、四角だったをの説が有力だそうです。その作戦や、思わずほぉ!と膝も叩かんばかりに喜んだわたしでした)


fuyunojin.jpg
大阪冬の陣図。赤丸が真田丸、青丸が大阪城(Wikiより)

この真田丸により、徳川軍は散々な目にあったと言われますが、大阪玉造周辺が真田丸跡になり、幸村は大阪城と玉造の三光神社をつなぐ抜け道を作ったとの言い伝えもあるとのことで、にわか、大阪城がらみの歴史が面白くなりました。

sankojinja.jpg
(Wikiより)

歴史ミステリーはわたしの好きなところですが、この抜け穴の話は、以前読んだ万城目学のミステリー「プリンセス・トヨトミ」にも出てきます。現代を舞台にした物語ですが、豊臣家の子孫を守る「真田家」子孫も出てくるゆえ、もう一度、このフィクション本を読み返してみようと思っているところです。「プリンセス・トヨトミ」は映画化されているとのこと、興味のある方は、ネットで検索してみてください。

ドラマ「真田丸」の面白さは、主演男優、堺雅人さんにもあるかと思います。彼の作品の順序はしりませんが、ドラマ「半沢直樹」「リーガル・ハイ」「大奥」と、こなしてる役柄があまりにも違いすぎ、この役者さんにはいつもドッキリさせられるのですが、今回はその彼がどんな幸村を演じてくれるか。また、猿飛佐助(第一話で既に登場)、霧隠才蔵などの真田十勇士の登場も待たれ、久しぶりに楽しみにしている時代劇です。

このような戦国ドラマは、現代のようにツールをふんだんに使った遊びがなかった昭和20年代、女だてらにもっぱらチャンバラごっこに明け暮れたわたしの子供時代を懐かしく思い出させます。
以下、過去ログですが、どぞ。

「思い出のバスに乗って(1)赤胴鈴之助

「オリャー!」 「ッとー!」
「え~い、ちょ、ちょこざいな小僧め。名を、名をなのれぇ!」(大人の声)
「あかどうー、鈴之助だ!」(と、元気な少年の声)

ここから主題曲が
♪剣をとっては日本一の 夢は大きな少年剣士
  親はいないが元気な笑顔弱いものには味方する  
  お!がんばれ強いぞ 
  僕らの仲間 赤胴鈴之助

と、始まります。
みなさんはご存知ないでしょうねぇ(笑) 

幼い頃を青森県は弘前の下町で過ごしたわたしは、何を隠そう、近所のガキ大将だったのでした。
学校が退けて家へ帰り、することはと言えば、宿題などほとんどなかった、いやしなかったあの頃です。
よって、夕方まで子供達は外で遊びほうけることができたのでした。

テレビは当然なかった時代ですから、もっぱら自然を相手のちっともお金のかからない遊びばかりでした。その最たるものが、チャンバラごっこ。チャンバラと言っても、木刀とか竹刀とかそんな上等なものを持つのではなくてちょっと長めの棒っきれをその辺から探し出して来ては振り回すんです。

当時は今では無くなってしまった「東映」時代劇の最盛期で、片岡千恵蔵、市川右太衛門、大河内伝次郎、月形龍之介、東千代之助、中村錦之助(後の萬屋錦之助)、大川橋蔵、大友柳太郎、などの花形スターの黄金時代で、名を挙げていけばきりがない。そうそう、美空ひばりさんを忘れてはいけません。ひばりさんはよく男役を演じており、そのカッコよさにわたしは随分と憧れたものです。

机龍之介の必殺技音無しの構えや眠狂四郎の円月殺法の剣法を見よう見まねでカッコつけしてみたのもこの子供の頃で、チャンバラには本当に、今風に言えば「ハマッタ」ものでした。
あの頃近所ではわたしを打ち負かす子はおらんかったです。

ところがです、これがあぁた、学校へ行きますと押し黙った貝です。ひと学期に一回もしゃべらなかったとか、一度も手を挙げなかった、とかそういうことが、通信簿に書かれてきますねん。
言うなれば、究極の内弁慶だったわけですね。

冒頭に掲げた節、これは当時のNHKラジオドラマ、「赤胴鈴之助」の毎回のプロローグなのです。毎夕方6時から15分間(だったと思う)、子供達は各家庭のラジオの前に集まって、時には手に汗握りながら、また時には主人公と情を同じくして悔しさを噛みしめながら、ラジオから流れてくる朗読に耳を傾けます。

こうして聴いたラジオドラマは今でもわたしの心に残っています。この「赤胴鈴之助」のみならず、「紅孔雀」「黄金孔雀城」「オテナの塔」「ああ、無情」そして、これまた大好きだった「怪人二十面相」。

わっはっはっは。これじゃぁ、すっかりおん歳がバレちまいます。

怪人二十面相にいたっては、ドラマを真似て、ご近所の子供たち、手下どもを集めては「下町少年探偵団」なるものまで結成したお調子ものではありました。

子供の世界とは言え、犬や猫にあるのと同様、それぞれ子供グループの縄張りがあるのでして、その縄張りを侵す危険までして探検した「下町少年探偵団」!これはスリル満点の遊びでした。

視覚に訴える現代の映像教育は、たしかにわたしたちをあたかもその場にいるかのような錯覚を与え、リアリティに富みます。教育現場、家庭などでも視覚教育が取り上げられてから久しい。
しかし、テレビのなかったわたしの幼い頃、子供達はラジオで朗読を聴き、自分の想像を拡げていったように思います。

それは、テレビをひねれば、電源を入れれば、自ずと映像が目に脳に入ってくると言うような受動的なものではなく、自らが想像で創りだす能動的な世界でした。

映像のなかった時代の方が、わたしには遥かに想像力、かつ創造力を拡げることができたような気がしてしまうのは不思議なことです。

思い出のバスに乗って
黄色い帽子の子が走ってくる
人差し指の 向こうの坂道  
(詠み人知らず。遠い昔の友人の作ではなかったかと思うが)

わたしは、今でも時折、こうして遥かな過ぎ越しの時間を思って、この歌が詠むように思い出のバスにヒョイと乗ってみます。思い出の坂道の向こうには、父母が、祖母が、大所帯で一緒に住んだ叔父叔母が、従兄弟たちが、そして、下町少年探偵団がニコッと笑っているのが見える気がするのです。

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2015年1月10日

「JSTV」といって、海外で日本のテレビ番組の一部が見られるシステムがあります。
それを受信するためには、普及し始めた頃、パラボラアンテナ設置では足らず、特殊なアンテナを取り付け、さらにカードを差し込む機械を購入しなければならなかったのです。その上、受信料が20年ほど前で月々35ユーロほど。それはポ国の物価からすると、かなりな値段になるのでありました。

見たい気持ちは山々なれど、パソコンを使い始めたおかげで、今ではネット上で新聞は読めるし、ポルトガルに住んでいながら、あまりに日本一辺倒というのでは、現在の自分を見失いがちになることも考えて、我が家ではそのTSTVを導入していません。

そんなわたしのために、ポルト市に滞在していて親しくなった、とある企業関係の知人がわたしの好きなNHKのドキュメンタリー番組「プロジェクトX」を録画して送ってくれ、月遅れになるのですが楽しみに見ていました。

さて、とある夕べ、娘と二人、日本から届けられたそのビデオテープを見ておりました。
中島みゆきのヒット曲「地上の星」でオープニングです。

今回送ってもらったビデオ最初のエピソードは、瀬戸大橋を建設するために奮闘した男たちの話でした。 「いい話だね。もうひとエピソード、見ようか。」などと言いもって、少し遅い時間ではありましたが、続けて次のエピソードへと進めました。わたしも娘も、見始めると止まらなくなってしまうのです。

二つ目のエピソードは、1970年に大阪で開催された「万博会場」に入場する、その数5千万人と予測された入場客の警備の指揮をとった男の物語。

「おお!この頃わたしは20歳もそこそこで~」などと言いながら、始まる画面を見ていたら・・・出てきたその男の人の顔を見るなり、「あれーー!こ、こ、小だてさんや~!」。実名出しちゃいましたけど、いいですよね、テレビにも出てましたし。素っ頓狂な声をあげたので一緒に見ていた娘がびっくりです。
      
そうです、アサヒ・ビアハウス時代の常連客のひとり、その人でした。いやぁ、驚きましたよ。 そう言われて見れば、番組のなかでも紹介していたように、確かにアサヒでも時々「村長さん」て呼ばれていましたっけ。元々は新潟県警のお人だったのですね、知りませんでしたが、今思えば東北なまりがしっかとありました。

アサヒ・ビア・ハウスはお酒を提供する場所にしては、珍しく「その道の人」と思し召す客が入って来ませんでした。その手の人がうっかりビアハウスに入って来ても、場違いなことにすぐ気づき、そそくさと出ていくのでした。

歌姫としてバイトし始めるときに、店長の塩さんが「店に変な客は来ないから安心していい」と保証してくれましたが、まさにその通りでした。そのはずです。アサヒビアハウス梅田には、曾○崎署関係者が毎日のように入れ替わり立ち代わり来ていたのでした。
     
ビデオを見終わってから早速に歌姫時代のアルバムを持ち出してきては、娘に「ホレ、見てごらん。これ、わたしと一緒に写っている人、さっきテレビに出てた人でしょ?」と、自慢たらしく話したのでありました。

アサヒビアハウス梅田
小館氏、歌われたのは多分この時が最初で最後だったように思います。送別会の席でした。

世の中せまい!明日はあちこち、ポルトの友達に電話してやろっと。エピローグの歌「ヘッドライト・テールライト」を心で歌いながら、そう思ってホクホク顔で床に就いた夕べでありました。
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2016年1月6日

「ほな、トクさん、お先に例んとこ行ってますわ。」

一日の勤務が終わって、帰り支度を終えた若い営業マンのザワちゃんが、オフィスのドアを開けながら最後に残っていたバッドチーフに声を言った!帰り仕度が終わってデスクを離れかけていたわたしは、「あ!ザちゃん・・・」と一瞬思ったが後の祭り。

わたしがステージに立つその日は、オフィスの所長とバッドチーフを除いて、皆で申し合わせ、ビアハウスで落ち合うことになっていたのである。

「例んとこて、どこや?」とバッドチーフがザワちゃんに問う。
「ゆうこちゃんが歌ってるとこですがな」

まな板の上の鯉とはこのことなり。わたしは二の句もつけず固まりましたです。ザワちゃんに口止めするのを誰もが忘れていたのだ。これでバレてしまった。わたしが歌姫のバイトをしていることが、である。
アサヒビアハウス
グッドチーフとオフィスの仲間たち

アサヒビアハウス
ザワちゃんと我が親友みちこ

当然のことながら、その夜はグッド、バッド、両チーフがビアハウスにお目見えし、盛り上がったのはいいが、わたしは覚悟しなければならなかった。原則としてはどこの会社もバイトは禁止である。バッドチーフの口から、バイト歌姫の噂が本社に入る前に、何か行動を起こさなければならない。

その数年前、ローンを組んでケンブリッジ語学留学のために、社員としてはおそらく初めて、一ヶ月の休暇をわたしが会社に申し出たときに、力添えしてくれた本社の専務に事情を話した。

「会社の給料だけでは、自活しているわたしに、アメリカ留学の資金はとても貯まりません。アメリカ留学がわたしの夢なのです。」本当を言えば、留学ではなくて「移住」なのであったが。

それからしばらくして、ある日の夕方、ビアハウスでマイクを持って歌っていると、東京本社から、その日、大阪オフィスに出張で来ていた件のボスの姿を客席の隅で見かけた。逃げも隠れもできない。もう迷うことはないと観念して、わたしはステージが終わるなり、ボスの席まで挨拶に出向いたのは言うまでもない。
 
以来、オフィスの同僚たちはもちろんのこと、時には大阪へ出張してきた本社からの上司たちの顔が、ホール内で時々見られるようになったのである。

本社からは何の沙汰もなかった。思うに、あの楽しき愉快なビアハウスの雰囲気が彼らをも魅了し、ここならいいか、と、わたしをこっそり見逃してくれることになったのではないかと、ずっと勝手に思っている。 わたしのアメリカ行きはこの数年後になるのだが、この事件の発端となったおっとり者の「ザワちゃん」は、後にわたしと夫の婚姻届の際、証人となり、そして彼とは、下記に引用するように、アメリカで奇遇なエピソードが待っていたのである。

いや~、人生ってまったくもって面白い!

ここから引用:「アリゾナの空は青かった」エピソード5:おどろ木桃の木

アリゾナ大学は、ソノラ砂漠にあるツーソンの町に位置する。当時は考古学、天文学でも世界に名を馳せる大学だということをわたしは知らずして留学したのであった。ツーソンは、北へ160キロのところに、州都フェニックスがあり、ソノラ砂漠を南へ100キロほど突っ切ると、やがてメキシコ国境、ノガレスにぶつかる。

わたしの大学での第一日目は、ESLクラス編成の試験であった。大学のキャンパスはNorth 2nd Ave,から近く、徒歩で7、8分の距離である。登校初日の朝、シャワーを浴び、すぐそばにあるマーケットで前日買い入れたコーンフレークスにバナナの輪切りと牛乳を加えての朝食を追え、8時過ぎ、わたしは「いよいよ始まるぞ!」と興奮で高まる胸をおさえ、キャンパスに向かった。

広いキャンパスの入り口近くの一角に、ESL(English as a Second Language)センターの建物はあり、そこの数箇所の教室で、クラス分けの試験である。留学生はメキシコ、ブラジル、ベネズエラなどの南米からのみならず、ヨーロッパからも来ていた。当時はオイルマネーを使ってのアラブ諸国からの留学生のなんとまぁ多かったことか。

受験票を渡されてウロウロと教室を探し回り、無事時間いっぱいに試験を終えて廊下に出てみると、各国のグループがかたまってお互いを紹介しあったりして廊下は人だかりでにぎわっていた。
すると、「あ、あれぇ~、まさか・・・まさか・・・」

日本人グループの中に見覚えのあると思われる顔が見えたのだ。そんなはずがあるわけもない、と疑惑の面持ちで、念のためにとかたまっているその日本人のグループに、わたしはそぞろ近づいて行ってみた。

「ほ、ほ、ほ、ほんざわちゃん!!」
このときの驚きたる!

本沢ちゃんとは、 大阪のオフィスで退職するまでの6年間、いっしょに仕事をしていた営業マンで皆から「ザワちゃん」と呼ばれていた同僚なのだが、その本人が目の前にいるではないか!

なんでやの?なんでざわちゃんがここにおるん?おどろき桃の木山椒の木とはこのことなり。あまりの驚きに人目も構わず右手人差し指で彼を指し、「ザ、ザワちゃん!」と日本語で叫んでしまったわたしでありました。

渡米前、12月のボーナスが出るや即座に退職し、それまでバイト歌姫として歌っていた大阪梅新アサヒビアハウスの仲間たちに盛大に見送られ、大阪のアパートを引き払って後、渡米するまで横浜のおば宅に居候して、羽田空港からわたしは飛び立って来たのである。ザワちゃんはと言えば、わたしのすぐ後に退職し、日を違えて渡米とのこと。

しかし、広いアメリカやのに、なんで、なんで同じ大学やのよ・・・
それをさて置いても、一緒に会社で騒いだ間柄なのに、なんで一言も「ボクも同じとこに留学すんねんで~」と言わんかったのやよ・・・

と、このように、大学第一日目からして、波乱万丈な留学生活は幕開けとなったのでありまする。
こんな偶然てあり?
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2016年1月5日 

わたしの本職ではなかったが、アサヒ・ビア・ハウスでは通算6年ほども歌っていたことになろう。始めのエピソードにもあるように、わたしはそこに出入りして常連になり、ある日、そこの名物歌姫である宝木嬢と店長にスカウトされたのである。
日中は東京に本社を持つ、堂島のオフィスで9時から5時まできちんと仕事していたのであります。

Ofice
1970年代、パソコンなしのオフィスのわたし。誰が写真を撮ってくれたのか、記憶もなし^^;

オフィスは所長を筆頭に、営業マンが9人、顧問兼翻訳仕事のB 紳士。お湯のみ茶碗にいつもお酒が入ってる経理のおっちゃん。アル中でした。ですから、おっちゃんの帳簿の字を見ると、通常の数字とちがってそれが微妙に波打っているのでありました。
 
それに、事務関係処理のわたしと大阪生まれのわたしの同僚である女子が二人と言う、スタッフである。堂島のビルの一室、オフィスはこじんまりとしていて、みな会社の同僚と言うより仲間のような雰囲気で、仕事だけに限らず、会社が退けた後も皆でよく連れ立っては飲みに遊びに出かけ、このアサヒビアハウス梅田に巡りあったというもの。

さてさて、そのオフィスの話なのだが、どこにもいい奴わるい奴はいるものです。
そんな小さなオフィスでも若いチーフが二人おりました。二人とも当時30代のおない年である。ワイワイがやがや、飲む席で皆で
騒いで酔いも回ってくると、どうしても出てくる日頃の仕事の愚痴話。

これがある日、前日の愚痴話の内容が、どうもそっくりそのまま所長の耳に筒抜けになっているらしいことに、わたしたちは気がついた・・・
 「おかしいぞ」とあいなり、所長も退社した、とある夕方も夜に移ろうかと言う時刻、その場にいた全員で、まず、隠しマイクが設置されていないかどうか、オフィス中を探し回ったのである。
 
だれじゃ~~、そんなアホなこと考え付いたのは!あんなちっちゃなとこで、そんなもん、あるわけありません、ホンマに^^;と、後でみなが思ったことではあった。
                  
あれこれ思案した末、我らがたどり着いた結論は・・・二人のチーフのうちの一人が隠密だったのだ・・・

「グッドチーフ・バッドチーフ」はこうして二人の上司にわたしたちが授けたニックネームであった。 以後、わたしたちはバッドチーフ同席時には、愚痴話は無しにしたのでありました。

それが「ビアハウス話」になんの関係があるのかって?あるんですよぉ、これが。(笑)

というので次回に!
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2016年1月4日

明けまして おめでとうございます。
ポルトは元日から雨が降り出し、今日で4日目になります。

夫とネコ5匹との篭り正月と相成りましてございます。

一休和尚のに、
「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」

との狂歌があるそうですが、なるほどなぁ、と、暇に任せて、ネット巡りをしては感じ入っているのですが、正月早々縁起でもない、滅相もない、と、叱られるでしょうか(笑

しかし、一休さんと親しまれている室町時代に生きた一休宗純が反骨精神逞しく、風狂の人であったとは、この正月に知ったのでした。なかなかに奇行の多い人だったようです。

「有ろじ(有漏路=うろじ)より 無ろじ(無漏路=むろじ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」

有漏路とは迷いの多いこの世界、無漏路は悟りの世界、人生は迷いの多い仮の世界、あちらの世界への旅中ちょっと一休みのできごとゆえ、この世のことは、どうということもない、という風にとれるのでしょうか。

一休の名前はこれから取られたと言われます。

そうしてみると、NHKの大河ドラマの「平清盛」の冒頭が「遊びをせんとや生まれけむ」で始まっていましたが、わたしはいたくこの歌に惹かれたのでした。これは平安時代も末期、後白河法皇編集の「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」と言われる歌謡集のひとつだそうです。

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昔の人は短い人生を達観していたのでしょう。

おさな子がしだいしだいに知恵づきて 仏に遠くなるぞ悲しき

南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ

と、ここまで読んで、大笑いしていたこの三が日でした。

88歳で往生した一休和尚の最後の言葉はなんと、「死にとうはない」だそうですよ。この仮の世でもっと遊んでいたかったとは、いかにも一休和尚ではないですか。

実は、この正月二日三日に見た夢が、「一富士、二鷹、三なすび」どころか、なんと、鬼籍に入って何年もたつわが母とおばの夢でした。夢から覚め、懐かしい母とおばに会えはしたけれど、「母ちゃん、ぬい子おばさん、まだ10年は待ってちょうだいな」と思わず心中でいったのでありました。

わたしもあと10年、いや、できれば20年ほどは、有漏路で遊んでいたいゆえ。

さて、今日から仕事始めです。みなみなさま、今年もどうぞよろしくお付き合いくださいませ。
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