2016年2月28日

ポルトガルはイタリアに継ぐ世界第二位の大理石産出国です。
大理石には、白、クリーム色、ピンク、黒、模様入りと模様に種類がありますが、特にエストレモスはエストレモス・ピンクと呼ばれるピンク・マーブルが採掘されることで知られます。国内の大理石の80%がエストレモス近辺で採掘されるとのこと。

大理石

ポルトガル南部アルガルヴェ地方、エストレモスからヴィラ・ヴィソーザへ向かう途中、車内からこんなもの見えました。何かと思い、どんどん近づいて行くと↓

大理石

採掘された大理石が積み上げられた山です。

大理石

下は大理石採掘現場です。(↓写真は本から)

大理石

大理石

ヴィラ・ヴィソーザやエストレモスは小さな町ですがよく気をつけて見ると、どの家のドアの枠、窓枠も、果てはベランダまで大理石仕込みです。

石畳の道も、こんな具合に黒、白、ピンクがかったのと色々な大理石が敷き詰められています。↓
          
大理石

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こちらはヴィラ・ヴィソーザの町の中央の公園ですが、広場の石畳も、置いてある椅子もふんだんに大理石が使われています。

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アレンテージュ地方に限らず、ポルトガルの家庭の台所では、大理石がよく使われています。これまでわたしが住んだ古い二軒の家の台所もそうでした。下は我が家の台所の敷居と調理台ですが、やはり模様入りの大理石になっています。

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昔、わが義母が言っておりましたが、直接、大理石台の上でケーキやパンの生地を練ったり伸ばしたりすると美味しくできるのだそうで、義母はよくしていました。
ポルトガルはその昔、アフリカやインド、ブラジルにも大理石を輸出していました。また、リスボンの川沿いに並ぶジェロニモス修道院やべレンの塔、バターリャやアルコバッサの修道院等に使われた大理石もここから運ばれています。
   
大理石は温かみがあります。その輝きは、大理石の内部で反射を繰り返す光の一部が表面に出るからだそうです。
さて、アレンテージュ地方エストレモスの大理石について、ちょっと興味のあるお話を。あまり自慢のできることでもないのですが、しかし、人物とその人が建てたものとを切り離して考えていただくとして。

ハンムラビ王が制覇したユーフラテス川に栄えたバビロン(現在のイラク)は、メソポタミアの古代都市として知られます。ネブカドネザル王が、2500年の昔に后のために建てたのが、バビロンの空中庭園を持つバビロニア宮殿ですが、現在は遺跡の残るのみ。

1982年、600もの部屋を持っていたこのバビロニア宮殿に似せて遺跡の横に大統領宮殿を建築しようとしたのが、サダム・フセインでした。宮殿に使われた大理石は、アレンテージュ地方エストレモスから運ばれたと言われます。

それではまた。

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2016年2月25日 ジェラ城:ポルトガル版・兵どもが夢の跡

夏の昼下がり、Vez(ヴェス)川を渡り山中に古城を求めて行きました。
10分ほど、田舎の小道を小山の頂上を目指して車で上った目の前に「Paço da Giela(ジェラ城)」が
現れました。

paço da giela

車を手前の広場に駐車し、門をくぐって横手に城の一部を見ながら坂道を少しのぼります。

paço da giela

ジェラ城はゴチック建築マヌエル建築様式で、中世期に建てられた塔のある部分と、17世紀に同じ敷地に増築された貴族の住居の部分とがあります。

paço da giela
ポルトガル北部ではあまり見られない「マヌエル建築の窓」

実は、古城を想像して訪ねたもので、城を見た時は石の色の白さにちょっと面食らったのでした。

paço da giela

城中の写真をご覧の通りまだまだ修繕は続きます。長い間放置されていたのが2009年から修繕建築に入り、少しツーリストに見学させられるところまで来たのが2015年の夏です。

paço da giela

 
一説のよると、この城の前身はポルトガル建国前に既に存在していたとのこと。サンベント駅アズレージュ絵にある「Torneio de Arcos de Valdevez(アルコス・デ・ヴァルデヴェスの戦)は、この山中であろうかと推測されます。

見学はガイド付きですので、その戦はどの辺りであったのか、と質問してみましたら、「はっきりした場所は調査中で未だ不明だが、この周辺であろうと言われる」とのことでした。

paço da giela

城のあたりをグルリ巡ると、視線の向こうにはVez川の流れが見えます。山中のどこかで、建国を巡り馬上の騎士たちの激戦があったと言う思いで眺めわたせば、

夏草や つわものどもが 夢のあと

と、芭蕉の一句を思い浮かべたのでありました。

それにしても修繕されて白過ぎるジェラ城には、その面影もない。下はネットで見つけた廃墟ジェラ城ですが、このままで補強できなかったのかなぁ、と残念な思いです。

城は現在国内の文化財指定を受けています。見学の最後に騎士たちの激戦を描いた3Dが見られます。

サンベント駅のアズレージュ絵ひとつが5パートまで来てしまいました。お付き合いいただき、ありがとうございます。ランキングに参加していますので、よろしかったらどれでもポチッと押していただけたら嬉しいです。


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2016年2月23日 

さても、前回の5人のアラブ王(イスラム王)を破り、ポルトガル王を名乗ったエンリッケスは勢いも得て、翌年1140年にはTui和睦もなんのその、ポルトガル独立の強い意思をレオン国王に示し、再び兵を挙げて、今度はGaliza(ガリーザ=現在のポルトガル北部とスペインの境界にある州)を攻めます。
ガリーザは下図、Tui(スペイン語ではTuy)がある州です。

arcos de Valdevez
地図はWikiより

レオン国王もポルトカーレ領土を侵攻し、両軍はArcos de Valdevezで騎士同士の戦をします。

「Torneio」とはトーナメントのことですが、これは「中世の騎士の競技」ではなく戦い、しかも激戦でしたこのときのArcos de Valdevezの大地は真っ赤な血に染まったと言われます。 

軍配はドン・アフォンソ・エンリッケスのポルトカーレにあがり、レオン国王は休戦をもちかけ、これを機に、このトーナメントの3年後、1143年、エンリケス王子はアフォンソ7世からついにポルトガル王の称号を認められる。

しかし、エンリッケスが名実ともにポルトガル初代王になるには、アレキサンドレ三世教皇の承認を得た1179年まで待たなければなりませんでした。

しかし、ポルトガルは1143年を建国年号としています。
サンベント駅のアズレージュ絵、Torneio deArcos de Valdevezは1140年の両軍の騎士たちの激戦の模様を描いたものなのです。

こうしてみると、ポルトガルは、わずかな軍で大軍と戦わなければならないことが何度もあり、その都度、大軍を負かしてきたという歴史的事実があるわけですが、今回のオウリッケの戦い、Arcos de Valdevez の戦い、そして再びスペインが絡むポルトガル内戦のときの、14世紀のBatalhaでの戦いと、小国ながら、なかなかに勇猛な武人が多かったと言えるのではないでしょうか。それは、この後にやってくる大航海時代にもつながります。

今回取り上げてきた、エンリッケス伯は、ポルトガル北部のギマラインスに生まれ、ポルトガルを建国し「ブルゴーニュ王朝」を開いた初代国王、アフォンソ・エンリッケス王です。この後もエンリッケやアフォンソ○世と似たような名前が王国で使われ、紛らわしいのですが、これは現在のポルトガルでも同様で、同姓同名がとても多く、電話帳など開くものなら、もう大変なことです。

さて、昨年夏にポルトガル北部の銘酒、アルヴァリーニュの里である、メルガッソ、モンサォンと周ってきたのですが、帰途、たまたま「Arcos deValdevez」の名前を目にしたわたし、夫に是非と頼んで昼食しがてら寄り道してもらったのでした。

arcosdevaldev1.jpg
Wikiより

「歴史的な騎士の激戦の跡」を探して、標識案内がないものかと、町の中を捜し歩いたのですが、見当たらず。そこで、市役所に入って思い切って聞いてみました。すると、役所内にはポルトのサンベント駅にあると同様のコラッソのアズレージュ絵が壁にかけてありました。

arcos de Valdevez
 
市役所の受付の女性に、コラッソのアズレージュに描かれてある戦場跡はどこかと訊ねますと、「はっきり特定できない」のだそうです。う~む・・・しかし、戦場は平地ではなくて山中と記録ではなっているそうです。ご当地もよく分からないということであれば、こちらはなんともし難し。何のヒントもないのに、素人が探し回るわけにも行きますまい。

そして、諦めかけたとき、町外れ山中に古城があることを知りました。わたしたちはその古城を見てみることにしました。

次回はその古城についてです。

本日も読んでいただき、ありがとうございました。
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2016年2月20日 

さて、サンベント駅、構内左壁上方の アズレージュ絵の関連話に戻りまして。

1137年にレオン王国とTuiで和睦を結び、ポルトカーレ独立を諦めたかに見えたエンリッケスですが、実はしかとした勘定があったのです。彼は独立よりまず先に、イスラム教徒軍からリベリア半島を奪回することを優先させました。

Tui和平条約の2年後、1139年7月に、エンリッケス軍は、アレンテージュ地方のオウリッ(Ourique)にて、5人の王のイスラム軍団と戦うことになります。ここからは、ポルトガル国旗に因む伝説です。

オウリッケ開戦の朝のこと、エンリッケスとその軍はまぶしいばかりの幻想を目にします。エンリッケス郡の前にキリストが現れ勝利を約束したと言われます。

batalha-de-ourique.png

ポルトガル北部Esposende、Forjãesにある「centro cultural Rodrigues de Faria」保存のアズレージュ絵、「オウリッケの戦い」。これもジョルジョ・コラッソの作品です。

奇跡的にこの戦に勝利したエンリッケスですが、この戦いの歴史がポルトガル国旗に描かれているのです。

bandeira2.gif

ポルトガル語で国旗はBandeira(=バンデイラ)と言います。現在の国旗は、ポルトガルが王政から共和国になった後の、1911年6月に制定されました。

濃い緑と赤の比率は緑が五分の二、赤が残り五分の三を占めます。赤は、ポルトガル建国で流された血、勇気、喜びを表し、緑は海と希望の色、また、戦いに於いてポルトガルに勝利を与えた栄誉ある色とし選ばれました。

中央にあるのは、ドン・マヌエル一世がポルトガルの大航海時代の象徴として地球儀を据えてあります。真ん中の五つの盾は、「オウリッケの戦い」で破った5人のイスラム王を表し、盾の中の五つの点はイエス・キリストがゴルゴタの丘で磔刑になったときに受けた五つの傷跡(聖痕)を表し、ポルトガル王国の紋章で、この五つの盾を「quinas(キーナス)」とも呼びます。ポルトガルサッカーチームの名前「equipa das quinas(キーナスチーム)」は、これから来ます。

キーナスの周りにある七つの黄色いcastelo=城は、13世紀、ドン・アフォンソ三世によって、イスラム教徒から取り戻された七つの城を意味します。レコンキスタ運動はこれで完了することになりますが、実に何世紀もの時をかけて、終にイベリア半島はキリスト教徒の手に落ちました。

さて、ポルトカーレ独立を諦めたかに見えたエンリッケス伯ですが、奇跡的なオウリックの戦いに勝利した勢いで、ポルトガル国王の宣言します。そして、次回はいよいよ、サンベント駅、アズレージュ絵にある「Torneio de Arcos de Valdevez(ヴァルデヴェスにおける騎士たちの激戦」に入ります。

では、また。
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2016年2月18日 

サンベント駅入り口を入って左壁上方のアズレージュ絵は、Arcos de Valdeves(アルコス・デ・ヴァルデヴェス)におけるエンリッケ軍とレオン王国軍との激戦を描いたものです。

saobento_azurejo.jpg

この激戦に至るまでのストーリーを少し。

8世紀にはイスラム軍に征服されたイベリア半島ですが、レコンキスタ運動は8世紀初期にはキリスト教徒による、アストーリアス、レオンなどのイベリア半島北部から、既に始まっており、11世紀から12世紀は国土奪回運動レコンキスタが大きく進展しました。ポルトガル王国はこのレコンキスタの過程で生まれたということができます。

エンリッケス軍と先のレオン・カスティーリャ王国との小競り合いは続いていたものの、この戦とイスラム軍と、同時に闘うことは不可能。そこで、エンリッケスは従弟でもあるレオン国王とTui(トゥイ)で和睦を結びます。

Tuiはスペイン北西部ガリシア地方にあり、ポルトガルとの国境にあります。
昨夏、アルバリーニュワインの町を旅行したときに、Tuiを訪れました。そこで、アズレージュ絵本題に入る前にTuiを少しご案内します。Spain Tui
Tuiの大聖堂.

Spain Tui
昼下がりの大聖堂界隈は人影もなく。

Tui4.jpg
大聖堂周辺の教会で見かけたシンボル。

Spain Tui
Tuiの町の中心はオープンカフェがたくさんの人でにぎわっていた

Spain Tui

Spain Tui

夫の友人、スペイン人の医者夫妻と大聖堂前で落ち合い、久しぶりに語りあう。あちらはスペイン語で、わたしたちはポルトガル語で(爆)奥方は遠慮なく、スペイン語一筋^^;二つの言語は似ているとは言えども、分かったような分からなかったような、こんないい加減で話が続けられるのもビールがあればこそ。

Spain Tui
夫妻に誘われてTuiのとあるレストランで食べた前菜の「マグロ料理」。これはおいしかった。機会あらば、おすすめしたい。

サンベント駅のアズレージュ絵、次回は「騎士たちの激戦」です。
本日はこれにて。
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2016年2月16日 

うんざりするくらい雨が降り続き、昨日は強風と霰に見舞われました。
少し早いけれど、これは春嵐でしょう。昨日の嵐がまるで嘘だったかのように真っ青な空が仰げる今日のポルトです。

ダウンタウンのポルト歴史地区、アルメイダ・ガレッテ広場にあるサンベント駅は、19世紀にはベネディクト会のサンベント修道院(正式名:S. Bento de Avé-Maria)があったところです。

ベネディクト会は5世紀から6世紀の聖人ヌルシア(イタリア)のベント(ベネディクトのポルトガル語呼称)が開いた宗教会で、後にヨーロッパでは多くのベネディクト修道院が作られました。修道士たちは黒い修道服を着ていたことから、別名「黒い修道士」とも呼ばれました。

ポルトのサンベント修道院は19世紀に建てられたのですが、ポルトガル本国の経済を支えてきた植民地ブラジルの独立により、国家は収入源を失いました。そこで、国王財産を国有化し、修道院、修道会、教会の莫大な財産と領地を没収し、それらを消滅に追い込みました。この時に売却された修道院の数は500と言われています。この改革を進めたのが、現在サンベント駅から伸びている通りに名を残す「Mouzinho da Silveira」なのです。

そして、この修道院区域に1916年に建築完成されたのが、北部ローカル線の始発駅、現在のサンベント駅です。

建築家マルケス・ダ・シルバ。サンベント駅の圧巻はなんと言っても20世紀初期の画家ジョルジュ・コラソによって描かれた駅構内の2万枚のアズレージュ絵です。azulejoの語源はアラブ語でal-zu-leycha(小さい石)から来ますが、azulはポルトガル語では青の意味で、わたしは青タイル絵とします。コラソについて付け加えれば、ブサコ宮殿、サント・イルデフォンソ教会、今グレガードス教会の外壁絵、その他、海外でも彼はアズレージュ作品を多く残しています。

サンベント駅構内のアズレージュこと、青タイル絵は、実はポルトガル建国にまつわる重要な歴史場面が描かれているのです。

Saobento

まず、入って左側の壁に掲げられる下方の絵から参りましょう。8年ほど前に一度取り上げていますが、今回は撮影しなおした写真と共に、記事も書き直してみました。

Saobento

ポルトガル初代国王となるドン・アフォンソ・エンリッケス(航海王子ではない。航海王子は「エンリッケ」)が、まだ王子の時代、12世紀初期の出来事である。

ポルトガルはかつてスペイン、レオン国の領土でポルトカーレと呼ばれていました。ポルトガルの名前はこれが起源なのです。
ポルトカ-レのエンリッケス王子はスペインからの独立を望み、レオン国との小競り合いを繰り返し、ついに従弟のレオン国王がポルトカーレのギマラインス城を包囲したときのこと。
     
エンリッケス王子のポルトカーレ軍はよく戦ったものの、いかんせん、相手の大群には歯が立たない。
このままでは落城の憂き目を見ることになる。そこで、王子が3才の頃から教育係であった「エーガス・モニス(Egas Monis)」は密かに城を出てレオン国王のもとへ出向きます。

 「レオン国王よ、包囲を解かれよ。わたくしめが王子をあなたの臣下としてかしずくよう説得いたしますれば。」と言った。
レオン国王曰く、「その言葉が真実である証拠は?」「わたくしの名誉にかけて!」

レオン国王はエーガス・モニスの真剣さに打たれ、包囲を解き兵を引き上げました。この時に、ポルトカーれ軍は大喜びしたものの、何ゆえレオン軍は引き上げたか理解していなかったのでした。

しかし、それから数年たってもエンリッケス王子は独立の志を捨てず、レオン軍との戦いを続けていました。ある日、エーガス・モニスは妻と息子たちを連れレオン国へ旅立ちます。ボロ服をまとい、自ら首に縄をつけた死刑囚の服装をし、裸足でレオン国王の前にひざまずき言います。
 「レオン国王よ、エーガス・モニスは己の言質をたがえるものではありません。王との約束が果たせなかった今、我が身と妻、二人の息子の命をご存分に。」

Saobento

その忠信と勇気に打たれたレオン国王、
 「このような家臣を持つ王子はきっと偉大なものになるであろう」と言い、エーガス・モニスを解放したと言われます。

それから約10年後、レオン国王はポルトカレンス領土の独立がローマ法王から承認され、エンリッケス王子はポルトガル初代国王となったことを知るに至ります。エンリッケス王は別名「征服者=Conquistador」と呼ばれています。

写真はギマラインスにあるアフォンソ・エンリッケスポルトガル初代国王。この当時既に楯にはテンプル騎士団のシンボルが入っています。
                    
さて、当時、父親ドン・エンリッケ伯は亡くなっており(ポルトガルは今でも同姓同名が多くて混乱するのです)、レオン国から嫁いできた母親のドナ・テレザが領土を治めていたのですが、レオン国からの独立を勝ち取るために、エンリッケス王子は独立に反対する母親とも戦うことになり、勝利を収め事実上ポルトカーレを手中に収めます。この時、エンリッケス王子は18歳。

さて、ここで少しエンリッケス王子の盾のシンボルにある、ポルトガルのテンプル騎士団について書き添えておきます。

フランスで発起したテンプル騎士団の総長ユーゴ・ド・パイアンは1120年代に初めてドナ・テレザ(王子の母)に宛てて、イスラム教徒からのイベリア半島国土奪回のためにと、テンプル騎士団を領土内に駐在させることを懇願しています。
 
この懇願を受け、ドナ・テレザはテンプル騎士団に初めてSoure(コインブラ近辺)の土地と城を寄贈します。以後、ディニス6代目国王の時代まで、ポルトガルはテンプル騎士団の多大な援助を受けながら、3世紀もの間、レコンキスタ(イスラム教徒からの国土奪回運動)を展開、南下して行くわけです。

ここで、もしも、エーガス・モニスがレオン国王に約束したように、エンリッケス王子を説き伏せていたら、今日のポルトガルはなかったやも知れませんね。

それとも、と、ふとわたしの頭をかすめるのは、エーガス・モニスは、ポルトガル建国のために軍力を蓄える3年間という時間稼ぎを計画し、最初から全て承知の上で王子を説得する振りをして、最後に自らを犠牲にしようとしたのか?

そして、レオン国王はそこまで読んで、
「このような家臣を持つ王子はきっと偉大なものになるであろう。」と言い、エーガス・モニスを許したのか? 

う~ん・・・こうして教科書に書かれてあるままを少しひねくって考察して見ると、歴史はぐんと面白みが出てきますね^^

それでは次回は駅構内上方に青タイル絵についてです。お楽しみに。     
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2016年2月13日

何が大変といって、アパートの明け渡しほど、ややこしいことはなかった。
アメリカでの暮らしに必要な最小限の身の回り品をだけを残して、後は全て処分しなければならなかったからだ。

家具類は当然ながら、ステレオ、クーラー、冷蔵庫、電話、衣類、書籍ETC(自慢ではないが、テレビは持っていなかったw)。
売れる物はすべて友人知人、その他のつてで二束三文で換金したり引き取ってもらったりした。

その中でどうしても処分しきれないものに、当時飼っていた「ポチ」というトラネコちゃん、そして、お気に入りの白いギターとLPたちがあった。キャッツ・スティーブン、ジャニス・イアン、スティーリー・ダン、中山ラビ、エディット・ピアフ、MJQ、 サイモン&ガーファンクル、ジョン・デンバー、ジョルジュ・ムスタキ・・・どれもわたしの青春時代の心の支えになった音楽である。とても捨てられはしない。

野良猫だったのを拾い上げたポチといえば、毎朝の出勤に、追い返しても追い返しても駅までついてきて、わたしを見送ってその後は、我がアパートの開けっ放しの台所の窓から入り込み、日中ひっそりわたしの帰宅を待っているネコだったのである。
これをどうして捨てられよか。

ポチも白いギターもLPも、近くに住んでいた「ミチべぇ」こと、会社の後輩&親友のご両親宅で、いつ帰るともわからないわたしではあったが、預かってもらえることになった。

白いサムソナイトの旅行かばん20キロの荷物がわたしの全財産である。その中にたった一枚、聴けるわけでもないのにわたしは大好きな自由人歌手とわたしが呼ぶ「ジョルジュ・ムスタキ」のLPを忍び込ませた。

1978年1月19日、母、義弟、親友のミチべぇ、キャセイクルーズの我が友Davidに見送られて、当時の東京国際空港「羽田」から飛び立ったのです。

さらばアサヒ、さらば我が仲間たち、さらば我が、苦しくも楽しかりし大阪の青春。

アサヒビアハウス

と言うわけで、「あの頃、ビア・ハウス」は、yuko、アメリカへひとッ飛びと相成り、アサヒのステージ同様、今回を持ちまして取り合えずいったん幕をおろさしていただきます。アサヒでの歌姫家業は、これで終わらず、再びアメリカからの帰国、そして、ポルトガルからの一時帰国時にカムバックするのでありますが、それは、またいずれかの折にでも。

エピローグとして、2016年、ビアハウスから37年後の現在をつづります。

夫と初めて会ったのも、この思い出のアサヒ・ビアハウス梅田です。1977年6月30日でした。その日は彼の30才の誕生日でしたからよく覚えています。出会ってから2ヵ月後に、彼は広島大学病院研修生として広島へ移動したので、わたしたちは今で言う「遠距離恋愛」でした。会うのは月に一度か二度、わたしが広島に出かけたり、彼が大阪に来たりの逢瀬でした。

わたしたちが出会って半年後には、わたしはアメリカ行きの目的金額を達成し長年の夢だった渡米の準備です。彼にも後押しされ、アリゾナのツーソンと言う学生町へ。距離を置いて国際結婚についてお互い考える期間を置くためにも、別れ別れになりました。が、結果として、わたしはアメリカ移住の夢を捨て、翌年、大学の英語コースを終えるなり、日本に帰国したのではありました。

わたしたちは結婚式こそ挙げませんでしたが、親友michikoとかつての会社の同僚ザワちゃん二人に証人になってもらい、京都府伏見区役所に婚姻届を出したあと、このビア・ハウスで常連や会社の仲間たちが祝福してくれました。

黄金時代の重役さんMr.高松曰く、「なに、アメリカから半年で帰ってきたのと同じく、ポルトガルへ行っても、ゆうちゃんはまたすぐ戻ってくるさ。あははは。」

確かに時々帰国はしますが、あれから37年、結局「ふうてんのおゆう」はその名を返上して、海を隔てた向こうはアフリカ大陸があるというポルトガルで、二児に恵まれ子育てに専念し、あっという間に年月は過ぎました。子供たちが成長した後は、日本語教室を開講し、現在は小さいながらも20数名のポルトガル人の老若男女を抱える日本語塾を開いています。日本でよりポルトガルでの生活が長くなった今、ここが終の棲家になりそうです。

わたしが歌ったアサヒビアハウス梅田があった同和火災ビルは改築され、フェニックスビルとなり、ビアハウス梅田は現在、「アサヒスーパードライ梅田」とその名を変え、今も同じ場所、ビルの地下にあり、今でも月に一度の割で常連たちは集っているそうです。

昨年喜寿を迎えたアコーディオンのヨシさんはその会合で相も変わらず変わらずアコーディオンを弾くとのこと、アサヒスーパードライを訪れたら、ひょっとすると、わたしが紹介してきた常連に会えるかもしれません。

わたしの中でのアサヒ・ビアハウスは今も変わらず、少し薄暗くて、大理石柱があり、ヨシさんのアコーディオンと大先輩、宝木嬢の姿がホールに見え、常連たちが立ち飲み席で飲んでいる、あの光景なのです。それこそが、わたしの梅新のアサヒ・ビアハウスです。目を閉じればあの頃の常連たちのそれぞれの持ち歌が今も聴こえて来るようです。

yuko14-1.jpg

旧アサヒ・ビアハウスの仲間には、塩さん、歯医者さん、土佐さん、A.D.葉室先生、高橋店長さん、タンゴのおじさんと、もうアサヒには来るにも来られない人たちもいますが、みなさん、きっと天上で再会し乾杯していることでしょう。このような素敵な思い出を残してくれたみなさんに心から感謝して、Ein Prosit!
               
このシリーズは、これで一件落着です。読んでくださったみな様、つたない文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。
また、この後、すぐツーソン留学記につながりますが、既にアップ済みです。興味がある方は、左メニューから「アリゾナの空は青かった」へどぞ。
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今日は、まず最初に、ビアハウス仲間だった杉ヤンへのメッセージです。

杉ヤン、了解です。大阪へ向かう日程が決まったら、連絡いたします。前中さんにもどうぞよろしくお伝えのほどを。
ところで、わたしのメール、届きましたか?

では、このところ、しばらく書き滞っていた「あの頃、ビアハウス」ですが、そろそろ終盤に入ります。
本日は、「アウフ・ヴィーダゼン(1)」です。どぞ。

2016年2月12日

♪Auf Wiederseh'n,Auf Wiederseh'n,
bleib nicht so lange fort
denn ohne dich ist's halb so scho:n,
darauf hast du mein Wort.
Auf Wiederseh'n,Auf Wiederseh'n,
das eine glaube mir,
nachher wird es nochmal so scho:n,
das Wiederseh'n mit dir.

 「アウフ・ヴィーダーゼン」とは、日本語の「さよなら」という意味である。
梅田アサヒビアハウスは6時から9時半までの営業時間内で、3度の30分のステージがある、8時半が最終ステージ。その最後のステージで先輩の歌姫、宝木嬢とデュオで必ず歌ったのがこの曲だ。

アサヒに数あるドイツ音楽の中でも、わたしはこれがとびきり好きだ。ビアホールで見知らぬもの同士が、いつのまに肩たたきあい、ジョッキをぶつけあって乾杯し、あるいは大きな5リットルジョッキの回しのみに参加して、陽気に騒いで、最後にこのしんみりした「アウフ・ヴィーダーゼン」で客のそれぞれが帰路につくのです。

「Auf Wiederséh´n」と歌い始めると、常連のだった、今は亡き土佐氏が必ずや客席から「アウフ・ヴィーーダーーゼーーン~」と合いの手を入れてくれるのだった。最後の歌「das Wiederseh´n mit dir」はゆっくりと盛り上げてナレーションで締めくくる。

「みなさま、本日は当店アサヒ・ビアハウスにお越しくださいまして、ありがとうございました。本日のステージはこれにて終わらせていただきます。みなさまのまたのお越しを心よりお待ち申し上げております。アウフ・ヴィーダーゼン!またお会いしましょう!」 
この語りで一日のステージが終わるのであった。

アサヒビアハウス
誰が撮ったか記憶にないが、一番気に入ったビアハウス当時の一枚。

1977年12月、足掛け4年のステージを通じて、移住資金調達を達成したわたしは、これまでのOL生活にも、そしてこの愉快なビアハウスの歌姫生活にも別れを告げ、翌年1月、いよいよ長年の夢であったアメリカ移住への第一歩を踏み出すのだ。
   
同時に、日本で出会った、後、夫になるポルトガル人の恋人ともとりあえず別れて行くのでありました。

下記にて英語版ですが、イギリスの国民歌手、Vera Lynnの「アウフ・ヴィーダゼン」が聞けます。



 
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2016年2月7日 

我が家にはネコが5匹いる。
最年長は推定年齢15、6才のゴンタ。人間で言うと80歳くらいに相当するそうだ。白内障でほとんど見えないが、さして広くもない勝手知ったる我が家であるから、ほとんど頭をぶつけずに歩いている。少し高いところなら、手探りで、いや、前足さぐりで上がる。一番若いのが8才のトラネコ、おしゃべりゴロー君。間に入るのが13さいのクルルと12才の黒猫ぺト、そして我が家の紅一点、チビちゃんだ。

いったん飼ったからには最後まで面倒を見るつもりなので、彼らを見送るまで頑張って生きなければならない^^;、と、思っている。

5匹もいると、小さいけれども問題はある。ネコ同士の喧嘩の仲裁はたいがいゴンタが入るのだが、それでも、の時には人間が出る。エサもわれらと同じく日に3回、トイレは三つあるが、これもちょこちょこ片付けたり、洗ったりする。我が家では、夫もしくはわたしのうち、朝、先に起きたほうの一番の仕事が、ネコのトイレ清掃ではある。

そして、これも困ることのひとつ。

neko
ちょっと油断すると、pc台は彼らのものとなり、仕事が思うようにいかないことだってある。

さて、これら、手のかかることの中で、特に冬場に困ることは、炊飯器だ。
neko

ねこたちは、わたしたちの就寝時には、台所に置く大きな寝かごで全匹一緒に寝るのだが、二匹が炊飯器が暖かいことを発見したようで、いつの間にかこの上に乗っかってるのである。

ちょうどご飯の保温の空気が出る穴の上に座るので、ご飯が干からびたようになるのと、ネコにとり
体に悪いのではないかと思うので、今年は工夫してみた↓
neko

昔、日本から持ち込んだ「食卓カバー」をかぶせて乗れないようにしたのだ。我ながら良いアイディアだと悦に入っていたのだが、翌朝、起きてみると「ん?」

neko

そして、現行犯でひっ捕まえた犯人は、ペト!なんとまぁ、しっかり中に納まっているではないか(笑) 

maitta1.jpg

うまい具合に入ったものだのぉ。 お前、まさか、Zikaウイルス防止ってか~、と、これを見せるため夫をも呼んで、二人で思わず笑っていたのであった。

う~む、たかがネコとは言え、敵もさるもの、次の一手を考えねば。

では!
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2016年2月4日

週に一度、金曜日の午後にディアス先生宅へポルトガル語のレッスンに通っています。
ディアス先生は子供たちのポルトガル語の個人レッスンの先生でしたが、子供たちが卒業したあとは、わたしが頼み込んで入門した始めての外国人生徒、といういきさつがあります。

金曜日は午前中に二つと夕方6時からの日本語が入り、翌日土曜日の二クラスのグループ授業の準備もあるので、その合間に入るポルトガル語の勉強は、なかなか大変だ、が本音です。

しかし、自分の日本語授業のため、これ以外の時間帯の都合がつかないので、致し方なし。もっと腰を入れて取り組まないと語学に進歩がないのは重々承知しているのですが、復習の時間はとても持てず、目下のところ、ディアス先生のところへ行く前の1時間くらいを予習にあてるのがせいぜい。

そうしてなんとか続けてきたポルトガル語の授業ですが、やっと一冊の本を読み終えました。

portugalbook1.jpg

著者はGermano Silva(ジェルマーノ・シルヴァ)、ポルトの歴史家で、285ページに及、48箇所のポルトの「通りの歴史」について書かれてあります。

今でこそ日本語教室で多忙になり、あまりポルトの街を歩く時間がなくなりましたが、数年前までは、今日はどこを探検しようかと、ずいぶんあちこちに足を運んだものですから、この本で語られる道はほぼデジカメ探検で知っています。

が、歴史を通して遂げてきた「通り」の変移は、わたしの大いに興味があるところで、意外と面白く、年配者のディアス先生がしてくれる色々な思い出話も捨てがたい。ポルト37年在住のわたしとは、歴史的に(笑)重なる部分もあり、時にはまるで二人でポルトの昔話に花を咲かせるような授業になったりします。わたしが、ポルトガル語授業を途中で放り出さずに続けられているのは、ディアス先生の話上手もあろうかと思います。

何ゆえ、歴史物語をこうして続けて勉強しているかというと、目標はこの本をきちんと読んで、謎解きに再度兆戦したいとの思惑あってのことです。

quinta_da_realeira.jpg

リスボン近くにあるシントラの「キンタ・ダ・レガレイラ」は、既になんども拙ブログでもとりあげてきましたが、更に詳しいことを知りたいがため、この本をポルトガル語勉強の次の次のステップくらいにと準備してあるのであります。

ディアス先生は若い頃ポルトの大寺院の全寮制の神学校で神学を学ばれましたが、広い視野を持っている方だと、これまでの授業でわたしは確信しています。この異教的なテーマのわたしの謎解きに、協力してもらえることを期待しているのであります。ディアス先生がお元気なうちに、と^^

次の教材は?はい、凝り性なもので、もう一冊、同じ著者のポルトの歴史本ですばい。

そう言えば、ポルトの歴史家に、もう一人、わたしのお気に入りの人、Germano Silva氏以前の「Helder Pacheco氏(エルデール・パシェコ)」がいます。これまで多くのポルト関係の本を出版していますが、かつて、この人が絡むこういう経験があります。過去の日記からどぞ。

2007年7月1日 初めての電話突撃

今週はデジカメ探検ならず、ポルトガル人の友人にそそのかされてw電話突撃(笑)しました。
しかし、夫に話すまではこの人がかなりな著名人だということを知らずにしたのですから、やはりこれも「盲、蛇におじず」です^^;

去年も今年も、サン・ジュアン祭りに(まだ言ってるw)使う「野生にんにくの花つき茎」、何ゆえあれを使うのか、そのいわれを誰に聞いても分からない。
ネットで検索しても、サン・ジュアン祭りそのものの歴史は出てくると言うのに、「alhos porros」(にんにくの茎)がピコピコハンマーに近年はとって変わったというのも出てくるというのに、肝心のにんにくのいわれがない。

いろんなことを良く知っている我が友マリアさんに、先日の日本語レッスンのとき話してみました。すると、

「ポルトの伝統的なことなら、なんでも知っている人がひとりいるわよ。電話帳持ってきて。」

と、さっさ電話を調べ番号をメモ。そのまますぐ、我が家の電話のダイヤルを回した。ところが、応答なし。

翌日朝、彼女からの電話です。
「むこうさんに、日本人でどうしてもそのことを知りたいと調べてる人がいると話したら、直接説明してくれるみたいよ。2時にあちらに電話して」と言う。

名前と電話番号を控えて電話しようとしていた矢先に再びマリアさんから電話。

「ねね!わたし、その人の本をたくさん持ってるんだけど、今調べてみたら書いてあった!」、おいおい、マリアさん・・・

話をもう一度よく聞いてみると、その方「Helder Pacheco(エルデール・パシェコ」」という著名人だそうです。マリアさん、自分も面識は無しなのだ・・・
そんな人のとこに、ポルトガル語がいまいちヤバイわたしに電話突撃させるつもりか~!!

しかし、すでに2時電話すると約束を取り付けているし、日本人ともあちらには明かしてあるので、そのまま知らぬを決め込むのは、日本人の名折れになろうし、第一失礼をすることになる。

んんもう、仕方ない、ヘタクソなポルトガル語で電突でした^^;にも拘わらず、親切にきちんと応対してくださり、最後には、また何かあったらいつでも連絡していいとまで言っていただき、少し感激しspacesisでありました。

よし!Pachecoさんの著書を買って、次回にはご自宅まで押しかけよう!ともくろんでいるのであります(笑)

夜帰宅した夫に、
「Herdel Pachecoって知ってる?」と問うわたしに、「もちろん。本をたくさん書いてる。なんで?」と言う。
「きょ、今日、その人と電話で話した・・・」

いきさつを説明すると、聞くなり夫、「ププッ。」っと笑うのでありました^^;「お主、いったいどこまで行き着くのやら」と、面白がってること、間違いない・・・

いいのだ、好奇心と日本魂の誠意でぶつかっていくのだ!(笑)



ということで、本日はこれにて。
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2016年2月1日 

我ら4人仲間の食事会は、わたしとOちゃんの仕事の都合で、いつも日曜日の昼食だったのが、今回は週日にしてみました。
実を言えば、週日のダウンタウンのレストラン、カフェ類は多くが休みで閉店で、故にわたしたちの昼食会は、名が知れて日曜日でも開いている「Solar Moinho de Vento」だったのです。

今回予約して出かけたのが、「Abadia(アバディア)」です。ホコ天サンタ・カタリナ通り、グランドホテルのの裏側にあります。内部は4ホールに分かれ、300人ほどが受け入れられます。これまでにも何度か食事をしていますが、わたしは観光シーズンは避けます。団体のツーリストが入ると落ちかないからです。

ポルトのレストランAbadia

ごらんの通り、入り口左はロマネスク教会の小塔仕様ですが、それも然り。「Abadia」とは「修道院」のことで、英語なら「Abbey」。聞くところによると、創立は1939年で現在レストランがある場所にはかつてスペインのガリシア地方の「サンチアゴ・コンポステラ」へ向かう巡礼者たちの休息所、簡易宿泊所があり、食事も提供していたとのことです。
「サンチアゴ・コンポステラ」はこちらにて案内しています。

ポルトのレストランabadia
若い修道士の笑みが気になって仕方がないわたしだw

入り口ドアの前にはビールを片手にした修道士像が迎えてくれます。欧州では修道院と言えば、グルメの発祥地とも言われます。ワイン、ビールを始め、料理からデザートに至るまで、美味なるものは修道院が源。道理でポルトガル語で「Abade(修道長)」の隠語が「太った人」と言うのは、うなづけます。

ポルトのレストランabadia
一階ホール。店内ではステンドグラスや青タイル絵(Azulejo)も見られる。

ポルトのレストランAbadia
わたしたちが取ったテーブルのコーナーのステンドグラス。

ポルトのレストランabadia
   
Abadiaの料理はどれもお勧め。左はバカリャウ(Bacalhao=大タラ)、下は牛すね肉、豚肉、各種臓物、ベーコン、ソーセージにキャベツ、にんじん、じゃがいも、カブなどの野菜のポルトガル風シチューことCozido à portuguesa(クズィード・ア・ポルトゥゲーザ)。

ポルトのレストランabadia

この他、タコ料理もおいしい。量が多いので、老舗のレストランで、二人で一人文の注文は恥ずかしいが、4人で3人分はいけるのであります^^ なにしろ、わたしは小食ゆえ。

伝統的なポルトガル料理を提供する老舗ですから、カバコ・シルバポルトガル元大統領やポルトガルのノーベル文学賞受賞者ジュゼ・サラマーゴ(José Saramago)、女優のソフィア・ローレンなどの著名人も訪れています。

久しぶりに会うわたしたちは話が尽きず、昼食最後の客と相成りったのでありました。

インフォーメーション
所在地:Rua Ateneu Comercial, 22/24 4000-380 Porto 
Tel: 222-008-757
営業時間:火~土12:00-15:30 ・18:30-23:00
       月曜日 18:30-23:00
定休日:日曜日

    
では、また!
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2016年1月31日
 
2、3ヵ月に一度ほどの割で、食事会を持つ4人の日本人仲間がいる。4人とも連れ合いはポルトガルの人である。

ポルト在住が25年以上になるI氏は、ポルト補習校の創立間もない頃から共に携わって来た人で、彼の子供たちも何年か受け持ってきたが、わたしに続いていったん補習校講師を退いたものの、今年度は全くのボランティアで高校生を教えている。毎年、秋からこの時期くらいまで、彼の自家製の大根は大いに重宝している。

大阪出身の多少口さがない友とも、一時往来が途絶えたことがあったが、かれこれ30年来の付き合いになる。話し出せば面白く、わたしもポルトに来る前は10年ほど大阪にいたので、つい釣られて 関西なまりが出てしまう間柄だ。

ポルトの在住日本人の中でもそうなのだが、この二人とわたしは同年代でわたしが最年長になる。日本で育った時代を共有するので、価値観がどこか似通っている。

この三人の年寄りたちの中に、一緒に日本語教室をしている40代のOちゃんが入る。小中学生二人の子供がいる。わたしたち3人とは親子ほどの年齢差になるが、彼女の価値観はわたしたちのに近いのが面白い。

待ち合わせ場所を決め、レストランで乾杯し、久しぶりにポルトガル料理に舌鼓しながら、わいわいおしゃべりするのは、楽しいものだ。時間がたつのも忘れ、毎回3時間以上の食事になり、その後、はしごして、もう一軒カフェに入っては、おしゃべりが更に続く。

話の内容はと言えば、子供たち、家族のこと、仕事のこと、日本の政治のこと、将来我々が入るであろう、お墓のことなど多岐にわたる。

レストランはダウンタウンにある「Solar Moinho de Vento」
Solar Moinho de Vento
こちらにて案内 →http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1197.html

少し高めのお値段だが、ダウンタウンにあるほとんどのレストランは日曜日が閉店なのに、ここは空いているので助かるのと、いつも予約する二階の窓際のテーブルは、ゆっくり話ができるのがいい。

そして、レストラン閉店ぎりぎりまで話しこみ、この後、ちょうどわたしたちが行く時間にはピアノが流れる「Guarany(グアラニ)」で一息ついて解散するのが定番だ。

しかし、今回は食事をレストランAbadia(後日案内)で、カフェはサンタ・カタリナ通りのマジェスティック・カフェへと繰り出した。日本語教室で忙しくなる前に、わたしは独りでよく訪れ、カフェとスコーンを注文したものだ。

と言うので、前置きが随分と長くなりましたが、マジェスティック・カフェ(Majestic Café)のご案内です。

ベル・エポック(フランス語、belle epoque )と言う言葉をご存知だろうか。フランスでパリを中心に新しい文化や芸術が栄えた19世紀末から20世紀初めにかけての時代を言う。女優のサラ・ベルナール、ロートレック、詩人ランボー、ボードレールなどが活躍した時代だ。
 
パリの一番最初のカフェのお目見えは1667年と聞く。1715年には300ほどのカフェがパリにあった。これらの中でも最も有名なのは「カフェ・ド・プロコープ」。ボルテールやルソーが常連客だった。
 
フランス革命時期には、政治家やマラー、ロベスピエール、そして若き日のナポレオン・ボナパルトも集っていたと言われる。このカフェは現在では「ル・プロコープ」としてパリでも老舗のレストランとして営業おり、筆者は2007年秋にパリを訪れた際、そこで夕食を楽しんで来た。(後日紹介)

さて、ポルトの最初のカフェは「Café Lusitano」と呼ばれ1853年に開店した。1921年、パリにはかなり遅れてではあるが、ポルトの目抜き通りSanta Catarinaに建築家ジュアン・ケイロス(João Queirós)によって開店された「カフェ・エリート」が、Majestic Caféの前身になる。(1922年改名)

20年代には文人や芸術家たちが集い、討論に花咲かせたマジェスティックは、ベル・エポック時代の歴史を語る「ポルトのエスプリ」とも言えよう。マジェスティック はその古きよき時代の名残を今に残している。
マジェスティックカフェ
2016年1月現在 

しかし、60年代に入ると、時代の変化に抗えずに衰退。80年代に入って詩の文化遺産としてポルトっ子たちの関心を集めるになった。10年の年月をかけてオリジナルの華麗なアール・ヌーボースタイルを見事に復元した。

マジェスティックカフェ

美しいファシャーダ(正面入り口)をくぐると、店内には小さな白大理石のテーブルにアンティークの椅子、木彫り細工の大鏡が訪問者を別世界に誘う。

マジェスティックカフェ

マジェスティックカフェ

マジェスティックはシラク元大統領を始め国内外の著名人が多く訪れている。かのJ.K.ローリングは、ポルト在住中にここを気に入り、第一巻「ハリー・ポッターと賢者の石」の一部をここで書いたと言われる。

マジェスティックカフェ

ローリングがどのテーブルに着いてどの章を綴ったのか、とエスプレッソをすすりながら想像してみるのも魅力的ではないか。

本日はこれにて。
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