2016年3月28日

16世紀に作られた花通りことRua das Flores(ルア・ダス・フローレス)はかつてもっとも賑わった界隈である。当時建築された教会や屋敷が今日も見られる。

Memorias, porto

その教会の真向かいにあるアンティークショップのような店がMemórias(メモーリアス。思い出の意味)である。センスよく並べられた商品は全てポルトガル職人の手によって作られる。これらは伝統工芸品の消滅に危機感を持った女性オーナーが各地の職人たちと協力して提供する良質のポルトガル伝統工芸品である。

鮮やかな色彩を使った南部地方のセラミックやazulejo(アズレージュ)と呼ばれる青タイル絵などが店内を彩っている。他店では見られない北部の手織りテキスタイルや伝統刺繍の布物も取り扱っているのがメモーリアスの特徴だ。特に今や目にすることが少なくなった大きな編み目を利用したRenda de Filé(レンダ・デ・フィレ)やボビンレース編みが見られるのは嬉しい。

Memorias, porto

Memorias, porto

また150年もの歴史をもつマデイラ、アソーレス刺繍を施したテーブルクロスやテーブルランナーもここでは入手できる。ハンドメイドとは思えないようなその精巧な刺繍には必ず証明札がつけられる。店員にお願いするとクローゼットから色々取り出して見せてもらえる。

Memorias, porto

小さな商品も一つ一つメモーリアス特製のコトンの袋に入れてくれる。袋には多くの人に手作りの良さを知って欲しいというオーナーの思いがこめられた「木」のロゴがあしらわれている
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20156年3月24日

ポルトガルの春は早い。
春の訪れをいち早く告げるのは公園だが、中でも町の中心部の人や車の往来が多い「サン・ラザロ公園」は、向かいに旧市立図書館と美術大学があり、3月になるや、お近隣の住民や親子連れ、てーぶるを持ち込んでカードゲームに興じる念バイシャたちでにぎわう。

サン・ラザロ

この辺りはかつてサン・ラザロと呼ばれ、年に一度大きな「市」が開かれた一帯で、ドン・ペドロ国王の命により1834年に「サン・ラザロ公園」がお目見え。当時はセレブ専用の公園だった。 その名残で今でもこの公園は柵で囲まれ、市内では唯一、四方に門が取り付けられ、開閉時間のある最も古い公園だ。

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現在では、「マルケス・デ・オリヴェイラ公園」が正式名だが、市民からは昔ながらの「サン・ラザロ公園」と呼ばれ、市民に親しまれている。

園内には可愛いバンドスタンド(小さな野外音楽堂)が王子の郷愁を誘う湯に建ち、地上最古の花といわれる大きなマグノリアの気が12本、池の周りを取り囲み、春にはその爛漫の花で、市民の目を楽しませてくれる。

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この公園でもうひとつ興味深いものは、壊滅した13世紀のサン。ドミンゴス修道院の遺跡と泉水がここに移動されていることだ。

sao-razaro-chafariz2-1.jpg

赤いベンチに腰をおろし、パソコンを開いている美大生の姿も見られ、多世代の市民が憩うワン・ラザロ公園は、ポルト市内の公園では最も多くの訪問者がある。さながら町の中の小さなオアシスだ。

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2016年3月23日 
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ベルギー、ブリュッセルのテロ爆破は、3年ほど前に訪れて大いに楽しんできたことがあるので、見知らぬ街での出来だという気がしません。また、少なくとも年に一度は空の旅をする身ですから、やはり不安を感じずにはいられません。

30年以上もポルトガル日本を往復して来ましたが、今回はフランス管制官のストにぶつかり、旅程変更を余儀なくされるいう初めての経験をしましたが、テロ事件とて、いつ何時、それに遭遇しないとは誰にも明言できないことです。怖いなと思いながらも、子供たち恋しさ、日本恋しさの気持ちには勝てません。

神様仏様、ご先祖さま、お守りください、と念じながら、あっと思い出した事がありました。
毎回、日本へ飛ぶときには、近くの墓地に眠る義母殿のお墓参りをして、「あなたの息子さん、孫のために、わたしをお守りくだされ」とお願いするのですが、今回は忙しさも加わって、コロッと忘れていたのでした^^; 本日、墓地の昼休み(昼、2時間くらい、閉まるんです^^;)が終わったら行って参ります。

さて、帰国するゆえと、日本語教室の仕事は全てキャンセルしておるわけで、今更、まだポルトなんだけど、みなさん、来る?とは言えまい。そこで、天気もよかった昨日は、デジカメもち、数ヶ月ぶりに2時間半ほどポルトの街を歩いてきました。
この数年、ポルトは人気の観光都市で近隣諸国からたくさんのツーリストがやってきています。

ポルト・サンタカタリナ

また、今週はイースターの週でもあり、学校はいわゆる春休み、歩行者天国のサンタカタリナ通りはたくさんの人でひしめき合っていました。写真を撮るのも通行人と肩が触れ合ったりで、なかなか思うようにできませんでした。

ポルトのカフェなら見逃してはならぬと名が知られた、「Majestic Café」の前もこの通り。
ポルト・サンタカタリナ

しばらく足が遠のいているうちに、新しい店舗ができ、特に目についたのが、このビルです。

ポルト・サンタカタリナ

このビルは元「Casa Inglesa」という衣料品店だったのですが、それがいつからか「Marcolino時計宝石店」になっています。マルコリーノは宝石のほか、オメガ、ローレックス、室内高級装飾品なども取り扱っています。1926年にサンタカタリナ通りと交わるパッソス・マヌエル通りに店舗を構えていたのが、85周年を記念して2012年に両通りに面するコーナーのこのビルに移転したとのこと。

ポルト・サンタカタリナ

えー!ということは、ここ3年ほど気づかずにいたということになります、わたし^^; 確かにこの3年ほどは、月火水木金土と日本語授業とその準備に追われ、ゆっくり街を歩くなどしてこなかったとは言え、あんまりな。これでは、「ポルトのことならお任せよ!」の名が廃ると言うもの。

この5月からは、デジカメ探検、いや、デジカメ・スマホ探検を再開しようと改心している次第です。

日本出発前の明日は、このホコ天で目にしたTunaについてご案内します。「ツナ缶」じゃ、ありませんてば(笑)

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2016年3月21日  

本当は今頃、日本に上陸し、池袋で息子と遅い昼食を済まし所沢にいるはずだった・・・それが、今こうしてブログ記事を書いているということは、出発しなかったのであります(泣)

昨日、ポルトの空港へ行くと、いつもの違いチェックインカウンターの長蛇の列ができており、チェックイン作業が遅々として進んでいないようす。こんなのは初めてだと見送りにきた夫と話しながら、辛抱強く待つ事、1時間以上。こんな調子でラストコールに間に合う?と不安な面持ち。

やっと自分の番がきたと思いきや、12時半出発の予定の便は大幅に遅れて2時出発になるのだと言う。
えーー!そんな!それじゃぁ、乗り換え時間が1時間半しかないのに、日本行きの便に間に合わないじゃない!

実はおフランスのコントロールタワーがストライキで上空を飛行するのに問題ありとの説明。
チェックインカウンターで手間取っていたのは、乗り継ぎ客のフライト変更ゆえだったのだ。ちょーっと待ってよ!それならそれで、アナウンスとか、掲示板で知らせるとか、係員が説明すべきじゃないの?

そんなの一切なしでした。そこで不満を言っても仕方がないので、日本へのほかのフライトを検索してもらったところ、当日は全て満席。翌日、つまり今日のフランクフルトー日本間はある。しかし、ストは明日までの予定なので、結局、2時のフライトに乗り、フランクフルトで昨日一泊しなければならず。しかも、チェックアウトするのだから、荷物を引き取ってホテルまで自分が引きずることになる。

古希を迎えるわたしにそんなことを要求するなんざ、おふざけじゃござんせん。

そんな訳で、空港のルフトハンザカウンターで切符の予約を取り直しして、再び「ただいま~」と荷物を持って帰った昨日でありました。

ポルト、日本間を長年往復してきたけれど、ストに遭遇したのは初めてです。

出発前日の夜中まで、ジョアキンおじさんの畑の野良猫ちゃんたちの週末のえさを運んでくれる人を探し回り、それもようやく見つかり(ウイークデイはお掃除のベルミラおばさんに依頼)、このこともやっと安心して4週間の休暇を日本で過ごせると思ったというのに、昨日の朝は出鼻をくじかれ、意気揚々と出発する気持ちが少ししぼんだ気がします。

下は切符変更の手続きも終え、長蛇の列もなくなったポルトのサ・カルネイロ空港内。
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我が東京息子と娘に急遽スカイプで「昼食キャンセル、所沢の妹宅に連絡乞う」とメッセージを送り、「ただいま~」と帰宅。随分お早いお帰りで、と、ネコどものお迎え(笑) 「ママ、パパにやつあたりしないでよ」と息子にクギをさされました。分かってますがな、おパパのせいじゃないくらい!

チェックインカウンターに辿りつくまで、何のアナウンスもないこのやり方に、「あぁ、自分はポルトガルに住んでるんだったっけ」の感を、久しぶりに思い出した昨日のハプニングではありました。

ところで、拙ブログへのコメントは事情あり、承認制にしましたので、ご了承ください。

それでは、ポルトから、また明日!
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2016年3月19日

ポルト、ボアヴィスタ区域の閑静な住宅街に、18ヘクタールの広大な敷地を構えるのはセラルヴェス財団だ。
カーザ(Casa=家、屋敷)は、ポルト、サンベント駅の建築家として有名なマルケス・シルバた造った元伯爵低で、ポルトガル唯一のアールデコ調建物だ。ここではポルトガルのアーティスト作品展が開かれる。カーザと庭園の見事な調和美はベルサイユ宮殿をヒントにしたと言われる。

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また、セラルヴェス現代美術館は、世界でも著名なポルトの建築家シザ・ヴィエイラが手がけ、1999年にオープンした。シザ独特の直線と空間を生かした透明感を放つ白一色の建物だ。国外のモダンアーティストの作品が展示され、併設する図書館も広く利用されている。
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更に、見逃せないのは、現代美術館横に立つ、色鮮やかな赤いシャベルのオブジェだ。日用品を持ちールにする彫刻で、いまや押しも押される世界のポップアーティスト、スェーデン生まれ、アメリカのクレス・オルデンバーグとその妻、コーシェ・ファン・ブルッゲンの共同作品である。

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ラルヴェスはアートファンのみならず建築ファンをも惹き付けずにはおくまい。
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2016年3月15日 

日々、思うことはあれど、以前していたようにそれを整理してブログにしたためる時間がないのが残念です。忙しくて、ポルトデジカメ探検もさっぱり行っておらないのであります。

しかし、このところ、自分が今まで思っていた日本とあまりにも隔たりがあるようなニュースに度々出会うもので、実は困惑気味なのです。世代が、時代が違うと言って片付けてしまうには危うすぎる問題ではないでしょうか。

そのひとつが、「保育園落ちた、日本死ね」ツィッターです。

そもそものきっかけは、政府が「輝く女性」「1億総活躍社会」を持ち出し女性の社会進出を煽ったからだ、という意見もみられますが、働けと言われたから働くのか?輝けと言われたから輝くのか?と、あまりにも大人気ない騒ぎように、めまいを起こしそうな気分なのです。

1億総活躍というのは、なにも老若男女、外へ出て働くことだけではないとわたしは思っています。自分の持ち場で責任を持ってなすべきことを成就するように努力することではないでしょうか。「保育園は入れなかった、連鎖で仕事を辞めなければならなくなった、政府よ、どうしてくれる、1億総活躍を言ったのはそっちではないか、国が子供産ませないでどうする」では、子供を産んだり育てたりする責任はいったいどこにあるのでしょう。

少子化だからと言われ、本当に国のために子供を産んであげたんだ、20万よこせだなんて、おいおい、ちょっと待ってくださいよ。

これは女性のツィッターだと言われていすが、そうだとしたら、残念ながらこのツィッター主にわたしは子供への愛情や、自分が母親になったという思いが感じられないのです。反現政権のプロパガンダかも知れないとの思いを、わたしは頭から完全に払いのけることができないでいるのですが、それなら、ここで取り上げること事態、無意味になります。

が、そうでないと言う仮定で話をすすめます。
個人的な意見ですが、経済的に苦労があっても、できれば子供は4歳くらいまでは母親が手元に置いて育てるほうにわたしは同意します。

この時期は、わが子の成長を日々目の辺りにする喜びがあります。寝たままでいた赤ん坊がやがて歩き始めるまでの過程を見るのは大きな喜びです。言わずもがなですが、こんな喜びを見出せるのは、もう二度とないのです。

どうしても共稼ぎをしないと生活が成り立たない、どうしてもキャリアを積みたいというのなら別ですが、二人のうち、どちらか一人の収入でなんとかやりくりできるのであれば、わたしなら過去にしてきたように、もう一度、そちらをとります。

子供を育てることは、自分の再教育にもつながるような気がします。忍耐力を学びます。子育てはロングランです。わたしの場合は母親を必要とする時期に、自分の持てる時間を全てを子育てに費やしようと腹を括ったのですが、ふとある日、自分が子育てを大いに楽しんでいることに気がつきました。

子供が眠っている時間は、それまでしたこともない編み物を独学したり、すきな木彫をしたり。そうそう、
おむつは、洗剤でかぶれるのを防ぐために、なんどもなんどもすすいで全て手洗いでした。一人で外出など、できたものではありませんでした。それでも、気にならなかったのです。子育てはわたし自身を大いに成長に導いてくれた感があります。

日本語教室で結構忙しくしている昨今ですが、言うなれば63歳を過ぎてからのキャリアです。
人それぞれ、生き方が違いますが、子供がある程度成長して、あまり手がかからなくなった時から
始められる仕事もあるのです。

世代の違いと嫁姑の確執に心労した3世代の共同生活から核家族生活が当たり前になった現代社会ですが、どちらにも長短があることを知ったわたしたちは、全て自分の望むように物事は運ばないということを学ばなければなりません。

どのようにするかは個人個人の選択になりますが、自己責任を忘れてはいけないでしょう。子供は自分が、自分たちが育てるのです。そして、その自己責任と選択は、子供と自分の将来に必ずつながるとわたしは思っています。

件のツィッター主は保育園に入れない場合を想定して、別の選択技を考慮したのでしょうか。入るのが難しいという実感がなかったのでしょうか。保育所増築には国や市がしようとしても思うようにはかどらない他の問題、たとえば、建築する地域住民の、子供の声がうるさいという反対、保育士の確保が難しいなどもあるようです。いたずらに「日本死ね」はダメでしょう。


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2016年3月13日 

拙ブログで何度か取り上げているぺナ城だが、今日は、文章をまとめてご案内。

ぺナ城
ぺナ城ことPalácio da Pena

かつて避暑地として王侯貴族がこぞって離宮を建てたシントラ。中でも町を一望する山頂のペナ城のエキゾチズムは訪れる人を魅惑する。19世紀始めにマリア2世女王の王配であった、ドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ家出身のフェルナンド2世は1755年のリスボン大地震以来廃墟と化していた岩山のペナ礼拝堂跡にネオゴチック、ネオマヌエル、ネオ・ルネサンス、イスラムの多様な建築様式を取り混ぜてファンタジーな王家の離宮ペナ城を建築した。

ぺナ城
イスラム建築様式のオニオンドーム

城の周辺には樹木を植えて大きな森へと変身させ、現在では国内で最も美しい森とされる。90年代に修繕されて公にお目見えした際、ピンクと黄色に色塗りされた城を目にしたシントラ市民は度肝を抜かれたそうな。何しろそれまで町から市民が見上げてきた城は灰色だったのだから無理からぬこと。

ぺナ城
山頂の宮殿からは森と海が見渡せる

外装に多くのシンボリックな装飾を施したフェルナンド2世だが、ピンクと黄色の色彩は建立期のオリジナルカラーだと言うから建造主の華麗なる遊び心がうかがえるというもの。城内は装飾も含め王家の美術品蒐集の館さながらだ。

portugal_03-3.jpg
世界を創造する半神半漁のトリトン

ぺナ城
シンボリックな二匹の蛇。左には小ピラミッド装飾が見られる

ペナ城は夫国王と長男を殺害されたポルトガル最後の王妃ドナ・アメリアが亡命寸前まで居城していたことでも知られる。1910年10月、共和国樹立の報せを城で受けた王家は即、英国へと亡命する。王妃が再びペナ城に足を踏み入れることができたのは35年後の色褪せた城だった。王妃の悲運に比して、今、目にも鮮やかなペナ城は蘇ったように山頂にそそり立つ。

インフォメーション:
開場時間:9:45~19:00 (夏場)
休日:1月1日、12月25日
入場料:大人 9€

ぺナ城について、もっと詳しい情報を知りたい方は、下記サイトまでどぞ。

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1249.html
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1252.html

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2016年3月10日

夜空の星を見上げることは過去を見ることである。何十光年、何百光年、果ては何千何億光年もの長い宇宙の旅を経て、銀河系宇宙の端っこにある我らが太陽系の、その中の地球という惑星に住む私たちの目に入る星たちの光。何気なく見上げる夜空の星星には人類の想像の域を超える旅の物語があるに違いない。

夜空を見上げ、星座表を手にして星を探すようになったのは、ポルトガルへ来てからである。星星の中の地球と同じ太陽系の仲間である赤い惑星、『火星』を台所のベランダから偶然見出し、その動きを目で追い始めたのが始まりだった。家人が寝静まった深夜に起き出し、わけが分からないながらも、星座表を手に、見上げる真冬の夜半の空は、だたただ壮大で、翌日の首の痛さは別にして、ため息が出るほどに美しかった。
  
ポルトガルに来ることがなかったら、私も日本の都会で行き交う人跡に混じる毎日にこの身を置き、おそらく星の観察などに目を向けなかったであろう。しかし、日本と同じ地球上にありながら、ここでは時間はゆったりと、そして、一日の終わりがあくせくとではなく、窓から夕日が彼方の森の向こうに少しずつ隠れて行くのが見えるのと同じように、ゆっくりと時間を閉じるのである。このような自然の光景に、わたしはしばしば幸福の本質のようなものを垣間見る気がする。

1998年11月、待ち焦がれた彗星テンプル・タトルが引き起こす流星群をついに自分の肉眼で見た。彗星は太陽の周りを環状にまわりながら、その中身をこぼして行くのだ。こぼれているところは尾部と呼ばれ、その尾部の部分が地球の大気圏に入って燃えながら落ちるときに光る・・・いっぺんに何百何千と燃え上がる、小さなかけらが、まるで星が落ちるかのように見えるのである。テンプル・タトルから落ちる星のかけらは「リーオニド」と呼ばれ、リーオニドの流星群は33年に一度しか見られないと言われている。
   
1998年11月17日午前3時、表通りに面したベランダから北東の空を仰ぐわたしの頭上に落ちてきた流星群は、1時間で数えること49個!それはまさに、大いなるものの手になる、夜空の奇術ショーそのもので、しばし、どんな言葉も浮かんでこないひと時だった。
   
わたしたちが再びこの流星群『リーオニド』にであうのは2032年である。もう一度、この「夜空の奇術ショー」に招待される切符を再び手に入れることがわたしはできるだろうか・・・その日11月17日はわたしの誕生日にあたり、これまでの誕生日でわたしが得た最高の贈り物であった。

誕生しては夜空に輝き、自らの重さに耐えられなくなった時、大爆発を起こして死んでいく無数の星を持つ宇宙。宇宙はそれ自体が哲学であり、人の生に似ているようにわたしには思われる。
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2016年3月1日 

たいして上手くもない文章ではありますが、拙ブログは、わが子たちに母親がどのようなことをし、どんなことを考えて生きたかを伝えたいと思い、始めた日記形式のブログでした。それが足掛け12年ほどにもなっていることに気づきました。ブログは2006年2月に始めていますが、それ以前は2年ほどホームページで日記を綴っています。

ホームページ開設は2004年6月とあり、ちょうど我がモイケル娘が日本の大学受験を目指して旅立った頃で、タイプだけは早打ちできるものの、パソコンの、ネットの何たるかを皆目知らず、モイケル娘に手ほどきを受けながらやっと開設に漕ぎつけたものですが、当初はホームページ更新に随分苦労したものです。

このホームページ開設は、自分が日本へ行った後の母親のことを慮った娘のわたしへの置き土産だと思っています。実際に、ホームページやブログのお陰で、子供たちが家を出た後の寂しさから随分救われてきました。また、それらを通して、新しい友人や旧友との再会もあったりして、文明の利器とはかくあらん、と頷いています。

時には、もう少しゆっくりしたいと思うこともあれ、近頃はブログを始めた当時と比べ、日々、日本語教室で忙しい生活が送れるようになったのも、夫と二人きりの暮らしになったことが関係していると考えています。しかし、時折、年に一度しか会えない子供たちに思いを馳せるとき、古い日記を紐解いてみるのです。先日の寒い日曜日の午後はそんな日でした。

古い日記をあれこれ読むにつけ思うのは、わたしってホンマ、アホなことをして来てるかもなぁ、と、笑わずにおられず、読みながら一人、あははは、あはははとやっていました。そばから夫が何がおかしいのかとイブカシゲに聞いてきます。これが、日本語の機微をつかめていない人にはうまく伝わらんのです。えらそうにw

というので、何を笑っていたかのと、言うと、閑話休題、題して「ズッコケエイリアン」。

「文章の書き方のコツ」の授業で、英語の短い作文の宿題が出たと、昨日、モイケル娘。とにかく、脚色していいから面白いものを書けという米人講師の話に乗って、彼女がさっさと書き上げたと言う文章を読んで、思わず「おいおい^^;」のわたしでした。

「作文のネタに困ったときは、おっかさんをダシにする。いっくらでも書けるんだよ。」って、知らない人が聞いたら、あたしゃ、なにかい、ズッコケてばっかりじゃないの・・・^^;

人に話すと「いい歳コイて」と蔑みの目で見られかねないと、ずっと言わないでいる話がある。
が、妹や我が家族は知っていて、時々彼らのからかいの的にされてはわたしがプンプン怒る羽目になる話ですが、それを暴露しているのであります(笑)ブログやホームページ記事では、わたしもせっせとモイケル娘や息子の暴露記事を書いているので抗議できない。

で、モイケル娘、わたしの好きな「宇宙考古学」から宇宙人話を引っ張りだして来ている(笑)
この手の本はわたしが日本から持ち込むと、熱中して読むので他のことはほったらかしになることが往々にしてあり、夫も子どもたちも「まぁた、始まったか・・」とほぼ諦めの境地のようであります。
ひとり密かな楽しみとして読んでおればいいものを、家族にはついつい本で得た知識を披露しないではおられず、それをしては息子などに「ぐははは」と毎回笑われてしまうのでした。
「おまいら、そうやって笑っておけぃ・・・。シュリーマンだって、周囲にさんざん嘲笑されながらも、見てみぃ、最後には見つけたのだ、トロイの遺跡を・・・」と面白くないわたしは、途中で口をつぐみ、悔し紛れに心中この言葉を繰り返すのであります(笑)

ところが、わたしと同じ趣味の人が夫の親戚にいたのですね。今はもう定年退職した、夫の叔父にあたる人ですが、彼も数十年来こういう本を集めて読んでは面白がっているのです。職業は医者であった笑)ねぇ、だから、あながち、わたしがねじ一本抜けているとは言えないでしょ?

さて、内輪だけが知ってて言わないで来たその話とは。

娘が高2で、東京練馬区にある大泉学園高校に一月ほど体験入学した年の事。
相変わらずわたしは、宇宙考古学の本を買いあさっていたのですが、ある夕食時、なんの拍子にか、ずっと以前から気になっていた、自分の左耳にある小さな穴について話したのです。当時は母がまだ元気で、記憶もしっかりしていました。母は覚えていて、「子どもの時から、あったのだよ」と言う。

ふ~んと、そんなことはあるわけもないだろうと思いながら、遊び半分の気持ちで、続けて

わたし「おかあちゃん、わたし、子供のころ、行方不明になった、なんてことないわよね?」
母   「いや、あるよ。3歳くらいの時に。近所のもう一人の子といなくなってしまって、警察、
    ご近所で大騒ぎで探し回った。夕方にやっと見つかったその場所が、裏の田んぼのずっと
    向こうにある大きな墓地内で、墓石にチョコンと二人座っていた。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この時のわたし、鳥肌がたったのでありましたっけ。うわ!abduction!(拉致)w

もちろん、本人であるわたしに全く記憶はなし。この話を夫や息子に話して以来、我が家でのわたしのあだ名は「エイリアン」・・・・

モイケル娘の作文のコメントは、米国人講師のお言葉で「Is your mother OK?」@@ご~~ん
お、おふざけじゃござんせん^^;ジョークもほどほどで行こうよ、ほどほどで。事実をちょっと脚色したものだと、しっかり言っといてよ・・^^;んもう!

時折、わたしは母のこの話を思い出しては、一緒に行方不明になったというそのもう一人の子に会って聞いてみたいと思うことがある。「ねね。あなた、耳に小さな穴、もってない?」

その子が近所の誰なのか、母が亡くなった今は知る術もない。 
下の写真は60年ほども前の古いものだ。母が言った、「裏の田んぼのずっと向こうにある墓地」の「裏のたんぼ」とはこんなところなのです。
   
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我が故郷、弘前の同窓生たちには分かるであろうが、彼方右に突き出て見えるのは「仏舎利塔」である。

写っているのは、我が祖母タマばぁちゃん、後ろの三姉妹が向かって右から我が母、その横の二人が叔母たちの若き日の姿だ。左が姉妹で一番下の、わたしが中学時代に一時期大阪で一緒に住んだ叔母で、わたしはこの叔母にとてもよく似てると言われたものである。

左端に移っている坊主は、もう何十年も会っていないわたしの従兄妹。下町のタマばぁちゃんのうちは大所帯で、少なくとも4家族が同居していたのであった。この従兄妹の家族も同居家族であった。
こうして今、改めて昔の写真を見ると大きかったと思われていた小川がなんとまぁ、小さいこと!川に渡してある板橋に腰掛けて、妹と二人で水草を足に引っ掛けて遊んだのは夏の遠い遠い日々のことだ。
この川の辺りでたくさんの蛍をとって持ち帰り、蚊帳の中に離してひと時の夢に浸った遠い夏の日々だ。

わたしは今でもカナヅチだが、この浅い川底に両手、腹をついて(笑)泳ぎの真似の如きをして、得意がったものだった。田んぼの向こうにうっそうと茂る林の辺りが墓地になるのだが、小学生の頃は空になった炭俵を背負い、この田んぼを通ってではなく、表通りの道からグルッと遠回りしたところにある坂道を上り、墓地で薪の燃料となる落ちた杉の枝拾いをしたものだ。

この写真を見ても思うのだが、広い田んぼを越え、恐らくは崖をよじ登りでもしないと辿り着けない墓地まで、三歳のわたしがどうやって行ったのか不思議でならない。

表通りを歩いて行ったとしても、今と違い、町内同士親も子も顔見知りであったあの時代に、昼日中誰の目にも触れず、二人の幼児が誰かに手を引かれでもして行ったのだろうか。いくら、記憶を掘り起こそうにも三歳のことでは、掘り起こしようがない。

この写真にあった田んぼも川も、ある年、みぞれの降る中、同窓生のタコ君の車で40年ぶりに訪れたのだが、今ではつぶされて跡形もなく、あたりは新興住宅街になっていた。

わたしの左耳にある、ちょっと見では他人に気づかれない小さな耳穴は、今ではこうやって家族の笑いのネタにされてしまったが、本当のところはというと、どうにも分からないのである。

「is your mother ok?」娘の米人教授の声が、また聞こえてきそうだが、してみると、子供たちに残さんがため綴るこのブログ日記は、「ズッコケエイリアンの遺書」とも言えそうな気がしてきた(笑)


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