2016年4月27日 

毎土曜日は、所沢に住む我が妹夫婦が、近くのスターバックスで朝食を取るのが習慣だ。日本で社会人として生活する二人の子供たちが別々に居を構えた2年前から、わたしの帰国時の滞在先は妹宅になり、必然、土曜日は彼らのお供をする。

9時半ともなると満席になり、通りに面した全面ガラス窓の席は明るいのと通りが見られるのとで人気があり、この席に座るには9時ころにはそタバに向かうことになる。

土曜日の朝、大きなカップに淹れたてのコーヒーの香りをくゆらしながらのスタバでのひと時は、店内を流れるBGMも耳障りでなく、ゆったりして快い空間である。パソコンを持ち込んでなにやら真剣に画面に向かう外国人もよく見かける。

さて、日本から帰ってまだ二日経っていない月曜日、食料買出しと眠気覚ましにと、しばらく前に開店したポルトガル第2店目のスターバックスへ夫と行って来た。隣町ガイアにあるスペイン系チェーン店のEl Corte Inglés(エル・コルテ・イングレース)デパート内、一階のコーナーを占めている。

starbucks

スタバの食べ物には日本もここも、あまり期待していないので、さて置き、 ポルトガルでは飲めなかった「カフェラテ」がメニューにあり、注文。すると、紙コップに名前を書くのだという。
 
starbucks

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夫に任して、テーブルで受け取った紙コップには・・・「Nuko」と書かれてあった^^;

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Y(イプシロンとポルトガル語では言う)で始まる言葉も人名もポルトガル語にはないので、Sr.Juko(=セニョール・Juko.最後がoで終わる名前は男なのだ)だったり、DonaJukaだったりと、わたしの名前は散々な目に会うのであるが、Nukoってなんでんねん^^; 初めてだよ(笑)

ポルトガルに帰ってきたんだなぁと、こんな小さなことではあるが感じ入った休日ではあった。

ところで、スターバックスのロゴに興味をもち、かつて調べたことがありますので、本日は過去記事をここに再掲載いたします。お時間と興味のあるかたはご一読を。

2009年1月5日

エスプレッソコーヒーをメインに世界中にチェーン店を展開するスターバックスが、昨秋、リスボンのペレン通りに出店した。
食後は必ずと言っていいほど仕上げにエスプレッソを飲むポルトガル人だが、さてスターバックスはそのポルトガルに定着するかな?いずれポルトにもやってくるであろうと思った程度で、さほど気にもかけないでいたところ、12月の新聞付録のマガジンのページをめくって、ふと目についたスターバックスのロゴマークに、あれ?と思った。
 
そのロゴマークが大きく入ったマガジンのスターバックス・クリスマス商品の宣伝である。↓スターバックスロゴ2

日本に帰国するとあちこちで見かけるスターバックスではあるが、ロゴマークに目がいったのは今度が初めてだ。見た瞬間「あ!これはメルシーナ(ポルトガル語。Melusina=Melusine=メリュジーヌとも言う。以後、メリュジーヌと記します)ではないか!」が我が口を思わずついて出た言葉であった。

メリュジーヌとは、10世紀初期にフランス西部Poitouに興ったリュジニャン(Lusignan)王朝の起源にまつわる、下半身が蛇、もしくは魚の伝説の「水の精」のことで、いわゆる人魚である。人魚はギリシャ神話にも登場しSiren=セイレーンと呼ばれ、童話
「人魚姫」はこのメリュジーヌ伝説やギリシャ神話に由来すると言われる。メリュジーヌのイメージ画は時には下半身が2本の魚の尾、またそれと共に背中にドラゴンの翼も描かれ、王冠を頭上に頂いている。
  
伝説
Poitouのレイモンドが森の泉のほとりで美しいメリュジーヌに出会い結婚、やがて二人の間には子供たちも生まれる。メリュジーヌはリュジニャン城を始め多くの城や修道院をリュジニャン地方に建てる。(リュジニャン城は現在城跡のみが残っている)
しかし、ある日、してはならぬと約束していた妻メリュジーヌの水浴を覗き見したレイモンドは彼女が半人半魚であることを知る。
そして、ある時、何かの拍子に怒りに任せてメリュジーヌを「蛇女」呼ばわりしてしまう。本来の姿を知られ、ドラゴンに変身したメリュジーヌは、夫レイモンドに二つの魔法の指輪を残し飛び去り、再び姿を現すことはなかった。

というのだが、下はwikiから引っ張り出した15世紀に描かれたリュジニャン城の美しい絵。 

スターバックスロゴ1

塔の上を飛んでいるのがドラゴンに化身したメリュジーヌ。その上の半円図は占星術の黄道12宮であろう。世はおひつじ座の時代からイエス・キリストの魚座の時代に入ろうとしている。真ん中の光は恐らく「神の子イエス/太陽、光をもたらす者の到来」を表している(と勝手に分析)
画像はwikiより

何故わたしがこんな話に首を突っ込んでいるかというと、「spacesis、謎を追う」シリーズで目下取り上げている、昨夏訪れた「シントラ:キンタ・ダ・レガレイラ」の謎解きのためにと読んでいる関連のポルトガル語の本、凡才頭脳ゆえなかなか読み進まないのではあるが、その中にメリュジーヌの話が出てきて、検索しながらの考察中なのである。
  
つながらない糸の端を見つけるのに、目下、四苦八苦。錬金術やタロットカードまでに検索が及び、我が娘には「おっかさん、段々怪しい分野に入っていってるのでは?」と笑われ、自らも「こんなところまで行っちゃっていいのか?」と思いながらの暗中模索中なのではある。
  
このロゴを見て咄嗟に「メルシーナ=メリュジーヌ」だと判断したわたしの勘はまんざら当たっていないわけではないようだ。

英語のブログサイトでも既にこのロゴマークについては取り上げられているのだが、スターバックスのロゴは、これまでに何度か変更されている。

スターバックスロゴ3
5世紀の古い木版画を元にしたと言わ れる初期1971年のロゴ。 

ス他0バックスロゴ5
変更された1987年のロゴ。王冠の星と周囲の星で三つの星が加わっている。

アメリカ国内の一部で女性が脚を広げているようだと顰蹙(ひんしゅく)をかい、ボイコット運動があったため再び下記にあるように、ヘソから下を隠した現在のロゴに変更。
スターバックスロゴ4

ソース:How the Starbucks Siren became less naughty

さて、ここからはspacesis独自の謎解き推論に入ります(笑)

描かれた異様なシンボルゆえに教会から異端崇拝に結び付けられた、今日のトランプの原型になる「タロットカード」には抹殺され
た6枚がある(マーガレット・スターバード著・ 「マグラダのマリアと聖杯」引用)と言われる。その中の一枚はローマ教会からすると
反体制の女性原理をあらわす「女教皇」であり、そのカードの別名は「Siren of the Philosophers=賢者の人魚」である。
  
これらを考え併せたわたしの推論だが、メリュジーヌの変身は(これもまたローマ教会からは異端とされた)錬金術に通ずるのではないか。(錬金術は一般的に鉛を金に換えることだと思われているが、これは隠れ蓑である。錬金術の奥義は神学的、哲学的、心理学的なものであり、生まれたままの人間「鉛」が、精神も人生の試練の中で浄化され、霊的な変容をとげること、つまり「金」になることである。)
  
スターバックスロゴのデザイナーに古(いにしえ)の異端の知識があり、意図的にメリュジーヌを使ったかどうかは知らない。しかし、初期のロゴから変更された二つの図に、王冠の上の五ぼう星と周囲のふたつの五ぼう星、併せて三つの五ぼう星が加わっているのこと(五ぼう星も3という数字も秘儀に関連する)、二つ目のロゴから垂らした髪と尾が水がめ現代は魚座から水がめ座の時代に入ったと言われる)のシンボルとされる波線の形になっていることから総合して考えると、スターバックスのロゴは、異端の香りがぷんぷんしているのである。

最後に余談ではあるが、メリュジーヌの子孫、ギー・ド・リュジニャンは12世紀に十字軍が聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回後、エルサレム王、後にはキプロス王となる。リュジニャン第二王朝はその舞台をキプロスに移すが、15世紀のシャルロット・リュジニャン王女は、ポルトガルのドン・ジュアン王子に嫁ぎ、二度目はジュアン一世の孫である第二コインブラ公と結婚している。

スターバックス・ロゴから発したメリュジーヌ調査ですが、その子孫のポルトガル嫁ぎから、なにやら、ポルトガル国内でふんだんに見かけられる錬金術シンボルとの関連の糸口が見つかったような気がするのでした。

本日も読んでいただき、ありがとうさんでございます。
ではまた!

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2016年4月25日 

今日は「Vinte-cinco de Abril(ヴィンテスィンコ・デ・アブリル=4月25日))で、休日です。ブルジョアジーにも民衆にもポルトガル人にとって4月25日は特別の日です。

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別名を「カーネーション革命(Revolução dos Cravos=Cravosはカーネーションのこと)」とするこの無血革命は、1974年にヨーロッパでも最も長かった独裁政治を終わらせた軍事クーデターです。わたしがポルトに来たのは1978年の春でしたから、ポルトガルが独裁政権から自由を奪回してまだたった4年しか経っていなかったことになります。

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当時のポルトを振り返れば、町全体が薄汚れた感が否めず、好きな人の国とは言え、「大変なところに来ちゃったなぁ」との索漠とした思いを抱いたのが正直なところです。近所の年端もいかぬ子供の口から、野良犬を相手に棒っきれを振り回しながら「ファシスタ!」と言う言葉が聞かれたのには、ギョッとしたものです。その野良犬は後にわたしの愛犬になるというオチがあるのですが(笑)

日本語の若い生徒たちは、そんな時代のポルトを知らないわけで、時に授業の流れで当時のポルトを語ることもあり、今やわたしは語り部のグランマ(Grandmother)もどき。また、同年代の生徒さんたちと、あんな時代があったと話し合えるのも、授業の潤滑油になること、しばしばです。

数年前に日本からやってきた甥をコインブラ大学を案内した際、昔のままの姿を残す大学周辺の細い路地に並ぶ下宿屋を散策しました。その折に一軒の下宿屋の外壁に、人の顔の青タイル絵がはめ込まれているのを見つけました。 「Zeca Afonso、大学生時代にここに下宿」と書かれてありました。カーネーション革命に彼の名は欠かせないのです。
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本名はJose Manuel Cerqueira Afonso dos Santosですが、Zeca Afonso(ゼカ・アフォンソ)若しくは単にZecaとして知られます。

幼い頃から健康に恵まれず、裁判官として当時のポルトガル領アフリカ・モサンビークに赴任した親兄弟と離れて、本土の親戚の家で育ちました。

学生時代にコインブラ・ファドを歌い、地方の人々の暮らしや伝統にまつわる音楽を自作し、後にAlcobaça(アルコバッサ)の高校でフランス語と歴史の教師を勤めながら(この職もやがて追われる)、社会問題を取り上げた作品を多く自作して歌い、この頃からサラザール独裁政権に対する反ファシスト
地下運動のシンボルとなって行きます。

やがて、Zecaの歌は放送禁止となり、コンサートの多くは政治警察によってキャンセルされ、投獄されます。その名前も検閲にひっかかるようになり、そのため「Esoj Osnofa」というアナグラムを使ったり、レコーディングをフランスやロンドンでしたりしますが、この間、共産党入党に招待されているが、断っています。

1974年3月29日、満席のリスボンのコリゼウ劇場で催されたZeca を始めその他多くのミュージシャン共演コンサートの最終幕で、彼の歌、 「Glandra ,Vila Morena」(you tube)が全員で高らかに歌われましたが、この時会場には密かに準備されていた4月革命のMFA(国軍運動)のメンバーが聴衆に混じっており、革命の「カウンターサイン」として、この「Grandla 」の歌を選んだと言われます。
  
註:Grândla =グランドラは南部アレンテージュ地方にある小さな町の名前。Zeca Afonsoはローカル色豊かで素朴なこの歌でグランドラの人々の同胞愛を歌っている。

1974年4月24日午後10時55分、革命開始の合図として最初にPaulo de Carvalhoの歌、「E depois do adeus」(そして、さようならの後で)がラジオで流され、それを合図に革命は静かに始まりました。約1時間後の翌4月25日真夜中00:20、ラジオルネッサンスで流された「Grândla 」は、「全て順調。行動に移れ」の二度目の合図で、これを聴いて左翼の若手将校たちが先頭になり無血革命の出撃が始まったのです。

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4月25日朝、クーデターを知った民衆は続々と町へ繰り出し、リスボンのアベニーダ・ドゥ・リベルダーデ(自由通り=息子のアパートがかつてあったこところ)は民衆と革命軍で埋め尽くされ、兵士たちの銃にはこの自由の勝利を祝って、民衆が投げたカーネーションの花が挿し込まれていました。以来、ポルトガルではカーネーションは自由のシンボルとなったと言う訳です。

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Zecaは1983年、かつて追われた教師の職を再認定され復帰しています。この年にはその功労をねぎらう行賞が与えられたが辞退し、1987年2月23日Setubal(セトゥーバル)にて病没。3万人が葬列をなし、棺は遺言通り何のシンボルも持たない真っ赤な旗で覆われました。

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享年58才、どんな党への所属なく勲章なく、ポルトガルの自由を夢見、歌を武器に闘った抵抗の歌人です。

思想の右、左関係なく、貧しくとも自由のある生活をわたしは望みます。生活を向上させたいとがんばり努力できる自由。書物を選び読みすることができる自由。枠にとらわれず自己表現ができる自由。国の政策を言葉や態度で批判できる自由。

この当たり前に思われる自由を、わたしは今、空気のごとく全身で吸っているのですが、ポルトガルが本の40年ほど前は言論の自由がない国だったとは思えないほど、それは歴史の一部になりました。秘密警察がいたサラザールの独裁政治時代をわたしは知りませんが、おぞましい社会であったろうことを想像してみることはできます。

自由であることがどんなに素晴らしいかを今再び思い出すために、わたしたちは歴史を振り返る必要があるのです。

希望はいいものだ。多分なによりもいいものだ。そして、いいものは決して死なない。(スティーブン・キング、「監獄のリタ・ヘイワース」(映画名:ショーシャンクの空の下)より」

本日もお付き合いくださり、ありがとうございます。

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2016年4月24日 

23日の夜間飛行で羽田を発ち、昨日同日昼頃にポルトに戻りました。(日本、ポルト間には現在8時間の時差がある)

滞在中に起きた熊本地震には心が痛みます。一日も早い復興を心から願っています。

さて、東京滞在中はスカッとした空模様にあまり出会わずでしたが、花曇りという言葉があるくらいの日本の春、東京でさくらを十分に楽しみましたが、見よ、ポルトのこの空。

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透き通るような真っ青な空色、心が吸い込まれそうです。これこそポルトの空!

東京で別々に居を構え、 仕事をもつ東京息子、モイケル娘とは、毎日のようには顔を合わせることが
できませんでしたが、忙しい合間を縫って、わたしの観桜、靖国神社参拝などに付き合ってくれました。今回は夜も遅いところ、二人が、羽田空港まで見送りに来てくれ、最後の逢瀬を楽しみました。

我が家の5匹ネコも、ジョアキンおじさんの畑に住む外ネコたちも元気。もちろん夫も元気でありました。
とは言え、わたしの留守中に彼は3キロ痩せたのだそうで^^;それに引き換え、わたくしめは、滞在した妹宅でも友人たちとの外での会食でも美食を振舞われ、夫にはすまないが2キロ体重を増やして、帰ってきたのでありました。

これまで長年、ポルトに帰っても数日を睡魔と奮戦するのが常だったのが、今回はどういうことでしょう、着くなり、荷解きをさっさと済ませ、夕食を作り、きちんと後片付けができ、外猫たちへのえさ運びも終え、夜10時に就寝、今朝は5時に起床。

なんと段取りのいいこと!あれれ?睡魔はいずこへ?という具合ですが、よもや、日本へ行くときにフランクフルトで購入した「ネック・ピロー(首枕?)」の効力であろうかと思ったりしているのであります↓
neckpillow.jpg


これまで一度もそれを使用したことがなく、今回は値段が高いが使ってみようかという気になり入手したのです。ただし、この枕、スポンジが入っており、折り畳み不可。移動時にちょっと邪魔だったりします。

今回は故郷の弘前、大阪にも行かなかったので、会えなかった友達がたくさんいますが、ごめんなさい。
来年こそはきっと!

火曜日からはこれまで同様の日常生活に戻り、日本語教室が始まりますが、来年の帰国を励みにがんばろうと思います。そして、ブログも今日から復活です。拙いブログですが、みなさま、ご贔屓のほど、どうぞよろしくお願いいたします。

では、本日は、無事帰国のご報告にて。
Aé amanhã ! また、明日!

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2016年4月21日

更新もすっかり無沙汰をしてしまい、何度か拙ブログを訪れていた方がおりましたら、お詫びいたします。

4週間ほど前から、日本に滞在しておりますが、ご存知のように、九州熊本は先週来、多大の地震の被害をこうむっており、日本滞在のわたしの方には、「大丈夫か」と、ポルトガルの心配してくれる知人たちから連絡が入っております。

当方、東京近郊に滞在していますので、直接的な影響はなく、相変わらずせわしくで出歩いていますので、どうぞご安心ください。

今回の日本帰国は、娘の婚約がために、相手の方のご両親への挨拶が主要でしたが、それも無事済み、明日、夜にはポルトに向けて羽田空港を発ちます。

日本滞在記はポルト帰国後、ポルトガル情報と併せて、ぼちぼち記事にしてして行こうと思っております。

それでは、みなさま、次回の更新はポルトからになりますが、今後もどうぞよろしくお願いいたします!

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2016年4月4日

リスボンから列車で橋を渡って入ってくると両脇に開けるドウロ川のパノラミックな展望にまるで「魔女の宅急便」の舞台に出会ったような錯覚を味わうことだろう。そのドウロ河畔がリベイラ(Ribeira=川岸)だ。世界遺産指定区域でもあり四季を通じて訪れる人々を魅了し続けるリベイラを下流から歩いてみよう。

Porto Ribeira
昔がならの路地裏は古い街ポルトに似つかわしい

左手上方には川に面して建ち並ぶ色とりどりのカザリオ(casario)と呼ばれる古い家々が見られ、天気のいい日にそこにたなびく洗濯物はポルトの風物詩でもある。川岸にはオープンカフェ、ポルトガル料理レストランの老舗や土産店もぎっし並べんでいる。また二重橋鉄橋のドン・ルイス一世橋が前方に美しい弧を描き、橋の上段を黄色のメトロがゆっくりと渡って行くのが見られる。

Porto Ribeira

Porto Ribeira

道の中ほど、壁に埋め込まれている「Alminha da Ponte(アルミニャ・ダ・ポンテ)」青銅版は1809年3月29日のナポレオン軍侵入時に対岸へ逃げようと押し寄せ川で命を落とした多くの市民の慰霊碑で現在でも鎮魂のろうそくが灯される。見逃し易いので要注意。二重橋を渡って対岸の隣街、新しい観光スポットとして近年人気を集めるガイア河岸へ渡る。
2016年4月4日

Porto Ribeira
リベイラの土産店

古くからのポートワインセラーが軒を並べる。見逃せないのはガイア対岸から眺める、赤レンガの屋根が段々畑のように重なった絵のようなポルトの最たる景色だ。歩き疲れたらガイア河岸からテレフェリコに乗ってたゆとうドウロ川の絶景を眼下に橋を渡って旧市街に出るのもよい。

Porto Ribeira
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2016年4月1日

18世紀にイタリアのトスカーナからやって来、ポルトでその生涯を終えた画家、建築家の二コラウ・ナゾニは多くのバロック洋式建築をポルトに残した。

中でも傑作とされるのが、ドウロ河岸の「フレイシュ宮殿」だ。老朽化したその宮殿を2009年にポルトガル細大のホテルチェーン、ぺスターナグループが修繕した。

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宮殿をレセプション、ラウンジ、レストランに、隣接するピンクの製粉工場だったのを87のモダンな豪華客室に改築、最高級歴史ポザーダとして「ポーザーダ・フレイシュ宮殿」をオープン。ポザーダとは、ポルトガル人であれば誰もが一度は泊まってみたいと願う古城や宮殿を改築した高級宿泊施設を言う。

赤、青、金の寓意的な色彩で彩られたエントランスは幻想的で、訪問客を18世紀の小宮殿へと導いてくれる。エントランスをくぐると、かつては晩餐会が開かれた豪華なロビー「鏡の間」に入る。

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画家でもあったナゾニの緻密で色彩溢れる天井画や壁画が宮殿内にみられ、ポザーダそのものが美術館である。


別館は客室のほかフィットネスクラブ、スパからなり、屋内温水プールがある。 このポザーダでは、モダニズムと歴史遺跡を同時に楽しむことができる。 
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