2016年5月29日 

どこの国でも観光地を訪れる醍醐味は、その歴史を知ってこそ味わえるのではないか、とはわたしの思うところです。

さて、そんなことを思いながら、コインブラの「Porutugal dos pequenitos」(後日記事に)を雑誌記事の取材をしがてら、久しぶりにコインブラの「Quinta das Lágrimas(キンタ・ダス・ラグリマス)」を訪れてきました。ここを最後に訪れたのは、もう記憶も薄れてしまったくらいの遠い昔です。

Quinta das Lágrimas(Lágrimas=涙、日本語訳は涙の館)はモンデゴ川を挟んで、コインブラ学生街の対岸にあります。ロマンチックな館の名はポルトガル歴史の中でもペドロ王子とイネスの悲恋物語からきます。

随分前に、この悲恋を取り上げたことがありますので、少し長いですが、それと併せて今回の写真を紹介します。

南米コロンビアのノーベル賞作家ガブリエル・ガルシア・マルケスの小説に「コレラの時代の愛」がある。
19世紀から20世紀のコロンビアを舞台に、ひとりの女性を51年9ヶ月と4日待ち続け、ついに思いを遂げる男の熱愛を描いた物語で2007年に映画化もされている。
このような愛情は狂気にも近いような気がしたりするのだが、ポルトガルの王家にも狂気の類のロマンスがある。「ペドロとイネスの悲恋」として小学校のポルトガル歴史の本でも必ず記述され、またポルトガル民族の歌ファドにも歌われる。
      
今回はイラストと突っ込み入りでペドロ王子とイネスの悲恋物語をご紹介。

ペドロとイネス

ポルト北部のギマラインスから興ったアフォンソ王子率いる、レオン・カスティーリャ(現在のスペイン上部)からのポルトカレンス独立運動を経て、王子がポルトガルを建国し、初代王アフォンソ一世となったのは12世紀のことです。

下の地図は、スペインと共にポルトガル初代王も活躍した、レコンキスタ運動(註:8世紀初期にイベリア半島に侵入し占領していたイスラム教徒からキリスト教徒による国土奪回運動のこと。この頃にテンプル騎士団がポルトガルに入った。)の時代のもの。

Quintadaslagrimas

赤丸で囲まれたのがポルトガル。12世紀のレコンキスタ運動が進められるまでは、図のようにイベリア半島の下半分はMouros(イスラム教徒)が占領していました。

これから話すペドロ王子の時代にはイスラム教徒からの領土奪回も終わっており、半島の下半分は赤線を境界に、ポルトガル、スペインとなっていました。

ポルトガル建国から2世紀後の14世紀も半ば、7代目の王アフォンソ4世の時代。

独立国とは言え、地図から分かるようにレオン・カスティーリャ王国に隣接するポルトガルは、友好政策に心をくだかなければなりませんでした。そこでアフォンソ4世の取り計らいで、王位後継者である息子のペドロ王子にカスティーリャからコンスタンス姫を迎えることになります。

ところがペドロ王子、あらんことか、コンスタンス姫にお付きで来た女官のイネスに心を奪われてしまい、政略結婚の相手である正妻コンスタンスを見返りません。(よくあるお話)

下の画像はイネス・デ・カストロ。金髪で澄んだ目をし、白鳥のように優雅な首を持っていたとイネスの美しさは後世に言い伝えられている。
Quintadaslagrimas

父王アフォンソ4世は、公務をないがしろにしてイネスにおぼれるペドロを憂慮、王子にイネスとの関係を切るように申し伝えますが、「はい」とそれを聞き入れるペドロではありません。二人の不倫はやがて人々の口に上るようになり、父王はイネスを遠く離れたcastelo de Alburuqueruqueに送りますが、この距離も二人を遠ざけることはできませんでした。

Quintadaslagrimas

後ろに見えるのはサンタ・クララ修道院であろう。

この翌年、一子(後のフェルナンド国王)を生んですぐコンスタンスは、23歳の若さで亡くなります。(痛ましきかな、コンスタンス。しかし世継ぎを残して死ぬとは、Good Job ) さて、自由になったペドロは早速イネスを自分の下に呼び戻し一緒に暮らし始め、これは大きなスキャンダルとなり、父王とペドロ王子の間を裂くことになります。ペドロとイネスは4人の子供をもうけます(うち一人は死亡)。
  
父王はペドロに再婚を何度か進めますが(イネスとではない)、その都度、「妻を亡くした悲しみがまだ消えず、再婚などは今考えられない」と断ります。 (こういう見え透いた嘘を平気で言うかぁ~w)

この頃には、カスティーリャ王国内に紛争が起こり、イネスの元にはその兄や同派の人たちが集まるようになり、やがてペドロ王子にも思想的な影響を与えていきます。

イネスとつながるカスティリャ王国の内紛に巻き込まれるのを慮り、また、コンスタンスが残した正統な世継ぎであるフェルナンド小王子の暗殺が予測され、イネスの子供たちとの間に起こるであろう家督争いも憂慮され、宮廷では、国政の争いごとのタネになりつつあるイネスに不審不信不満の目を向けるようになり、父王の早急な対策がとられます。(次期世継ぎがこれでは当然こうなりますね)

国安泰のために側近の意見を聞き入れ、アフォンソ王はついにイネス処刑の命をくだすため、ペドロが狩りに行っている間を見計らい、当時二人が住いにしていた館へ、3人の処刑実行者を伴います。

Quintadaslagrimas
絵はアフォンソ王を前に、この子供たちのためにと命乞いするイネス。(一瞬気持ちが揺らぐか、国王!)

イネスの涙ながらの哀願に国王は3人の処刑実行者に「後はそちたちに任せる」と言い、その場を立ち去るのですが、イネス処刑されます。伝説では、この時のイネスの流した涙が、コインブラを流れるモンデーゴを溢れさせキンタ・ダス・ラグリマス=Quinta das Lágrimas)の「涙の泉=Fonte dos Amors」ができ、そこの赤い藻はイネスから流れた血でできたと言われます。

Quintadaslagrimas
「涙の泉」

さて、物語はイネスのこの死でペドロ王子も諦めがつき、終わりかと思うと、実はそうではないのです。
この後日談がまたすごいのであります。それは次回にするとして、今回は上述の「愛の泉」と二人が逢瀬を重ねたと言われる「愛の泉」を紹介します。
 
Quintadaslagrimas
Jardim da Quinta das Lágrimas(公園)の入り口。入ると直ぐ横が打ちっぱなしのゴルフ場になっている。

Quintadaslagrimas
  しばらく小道を歩くとやがて「愛の泉(Fonte de amores)」にぶつかる。
   
Quintadaslagrimas
ロマネスク建築を思わせる美しいアーチ。直ぐ横には素晴らしい巨木が根を張っている。

ペドロ王子とイネスが愛を語った「愛の泉」とは呼ばれるが、どうもこの呼び名はそれ以前からあったようです。泉の話は、実は14世紀始めにイザベル女王がキンタの近くに建てたサンタ・クララ修道院に水を引くために造られた溝工事に始まります。写真にみられる水道溝がそれです。後にこれが「Fonte dos amores」、愛の泉と呼ばれ始めたのですが、恐らくは、涼しい森の中、ペドロ王子やイネスのように、中世の恋人たちにとって、愛を語らう格好の場所だったのでしょうか。

Quintadaslagrimas

Fonte dos amoresは、16世紀のポルトガルの偉大な詩人ルイス・デ・カモインスがその叙事詩「Os Lusíadas」の中の一節に取り上げて以来、人々の間に広まったと言われます。

愛の泉から少し離れたところには、ペドロとイネスの悲恋物語に欠かせないもうひとつの泉「Fonte das Lágrimas」(涙の泉)があります。
Quintadaslagrimas

Quintadaslagrimas
公園内には野外劇場も見られる、園内の散歩もできる↑↓
Quintadaslagrimas

次回は「涙の館」ことQuinta das Lágrimasの紹介です。
本日もおつきあいくださり、ありがとうございます。では、また!

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2016年5月26日 

日本語教室の合間を縫ってのイヴェント二つ、引き上げて自宅での片付けも終わったところで、さて、残るは雑誌の記事執筆です。

今回はポルト市内でなくコインブラなので、遠方取材です。時間がなく、初めて締切日の延長をお願いして、
先週日曜日に夫と昼食がてら、コインブラまで遠出をし、記事を書き始めていた昨日のこと、それは起こりやんした。

午前中の出張授業を終え、その足でハイパーマーケットへ食料買を出しに行き、重い荷物を車から出してフラットに運び上げる。5匹ネコたちが、腹減った、待ってましたとばかりに玄関で出迎え。大急ぎで内ネコ飯をあげ、どれ、それでは、外ネコへもエサを運ぼうか、と準備し、えーっと家の鍵鍵。バッグの中だ。

玄関ホールの椅子の上に置きっぱなしのバッグから鍵を取り出し、パッと出て、ドアを閉めた、と、その瞬間、「ぬぬ?」と己の両手を眺めたところが、左手には外ネコエサのトレイ、右手には、デ、デ、デジカメ??なんでやのん?家の鍵でなければならんのに、右手に載ってるのはなんで、デジカメなんよ!一瞬、頭ん中が真っ白。

そして、理解した。鍵を室内に置いたままドアを閉めてしまったおバカな自分がそこにいる、と言うことを。
うーーーっ!これが午後1時半。

水曜日は夕方4時半から、ダウンタウンの塾で日本語があるのであった。ふむ、慌てることはないぞ。
まずは、こういうときのために、すぐ近くに住む義兄のもとに合鍵を預けてあるのだ。そこへ行って見よう。

それがダメなら次の手がある。いつも家を出るのは3時45分だから、夫がそのうち帰ってくるだろう。水曜日の午後は夫、仕事がないので、図書館で教えていたときは、よって、水曜日はいつも夫がショファ(お抱え運転手)のお役目をしてくれていたのだ。塾にこのグループを移してからは、比較的スムースに帰宅できるので、今は自分の車で行くのであります。

とりあえず外ネコへエサを運び、義兄の家の呼び鈴をおしたんです。だが、応答なし。だが、2時間ほど外で待っていれば夫が帰ってくるだろう、とタカをくくったのが運の尽きでありました。

4時をまわったに、夫の姿は見えず。待て待て、4時15分でもまだ、クラスはなんとかできるぞ。いつも、ちょっと困るくらい早めに教室に着く生徒がいるので、家に入れたらすぐさま、ケータイで「ちょっと遅れるから待っておれ」と電話連絡ができる。 しかし、気になるので、向かいのカフェへ行き、「おいちゃん、すみません。鍵を家の中に置いたまま出てしまったので、お金あらしまへん。後で払いますよって、電話かしてくなんしょ」と頼み、塾先である相棒のOちゃんに電話してみたものの、こちらも応答なし。

し、しまったかな? と、この辺りから心細くなってまいりました。この間、何度義兄の呼び鈴を押しに行ったことか。
な、なんでぃ、かんじんの時におらんなんて、合鍵預ける意味がないやんか・・・と、ひとり愚痴るものの、どうにもならしまへん。

この時点で、クラスは完全に諦め申した。どうにもできません。こんなのは初めてのことであります。いえ、鍵を家の中に忘れたのではなくて、初めてなのは、クラスをうっちゃったということです。遅刻すらすることがなかったのです。これまでは・・・・

外で待つのも6時くらいになると、ご近所やコンドミニアムの住人たちが心配して声をかけ始めました。水を差し入れてくれたり、「うちで待たない?」と申し出てくれたり。

matsu1.jpg
フラットドアの前で突っ立って待っとるわたし・・・

「ケータイ使っていいから、ダンナに電話してみたら?」と言われるものの、番号暗記は全てスマホに任せて、自分は覚えとらんのだす^^; 唯一つ、しっかり頭に入ってたのが相棒Oちゃんの電話番号だったなんて。とほほほ。

コンドミニアムの住人が、緊急連絡の際にと、夫のケータイ番号を持っていました。それで、彼が電話をしてくれたものの、これまた応答なし。診察中検査中はゼッタイ電話に出ない人です。んで、あれ?今日はなんで仕事やの?ま、まさか、まさか、へたすると、8時まで帰ってこない?なんて、考えたくない~~!

matsu2.jpg
鍵代わりにデジカメ持ってたので、こんな空を写してみたり↑、こんなご近所の手入れの行き届いた庭を写してみたり↓
matsu3.jpg

そんで、こちらはご近所ネコの「マンマ」。わたしを見つけると、すぐ飛んでやってきます。
mamma2.jpg

mamma1.jpg

やっと、検査が終わった夫からコンドミニアムの住人の一人に連絡が入ったのが午後8時。一人の患者の検査に3時間かかってしまった。まだもう一人いるんだけど、どうかしたの?・・・・・

ウソやん、なんで今日が仕事の日なの。どこにおんねん!と叫ばんばかりのわたくし。仕事仲間が休暇をとったので、この日は臨時で仕事とのこと。もう待ちくたびれ果てて、抗議する気もおこりまへん~。

義兄に連絡を取った夫、後30分ほど待て、とお達しを受けました。なんでぃなんでぃ、7時間外で待っとるんじゃ~~。

やっとこさ、義兄から合鍵を受け取り家に入ると、スマホにOちゃんから8回もの電話(笑)。最後は、生徒さんもわたしも、何かあったんじゃないかと心配してますぅ、とメッセが残っていました。へぃ、何かありましたぞ、とすぐさま連絡を入れ、デジカメ右手に、ネコエサ左手に、かくかくしかじかと話し二人して大笑い。生徒たちには即メールで詫び状を書き。足痛、腰痛、ヘトヘトになった一日でありました。

我ながら、たまんねぇな。

とっつばれ(津軽弁。終わりの意味)
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2016年5月23日

この春、4週間ほど日本に帰ってきたのですが、我がモイケル娘の野暮用と自分の休息を主に考えたもので、故郷弘前、親友やビアハウス時代の仲間がいる大阪へは、残念ながら行くことができず。再会を楽しみにしてくれていたみなさんには、ご勘弁のほどを。

しかし、東京に住む子供たちや近辺の友人たちとは、久しぶりの再会に乾杯、歓談しながら日本料理を楽しんできたのでした。

そんな中、一度この電話電話番号に連絡してみてくれと夫から送られてきたのが、彼の広島大学病院研究生時代の友人であるDr.Dのコンタクト先です。息子がまだ2歳になるかならないかの頃、家族3人(まだ娘は生まれていなかった)で日本へ行き、D先生の家族と一緒に旅行をしたこともあります。

また、D先生とわたしたちとはちょっと面白いいきさつもあり、長い間、文通を続けていたものの、いつのまにか年に1度のクリスマスカードの交換でお互いに近況を知らせあうにとどまり、この数年は、それも途絶えていたのでした。夫は何度か国際電話を思ったものの、既に退職年齢を過ぎており、はたして現在も同住所に住んでいるものかどうかとの疑問を持っていたので、控えていました。

そこで、今回は、3箇所ほどの電話番号を手にして、わたしが東京からのコンタクトを試みたというわけです。

最初の2件とも応答なし。これもダメかもな、と思いながらケータイ電話の番号をプッシュしてみました。D先生からすると、こちらの電話番号はもちろん非通知番号です。と、なんと応答あり!

懐かしいD先生の声がケータイを通して聞こえて来ました。
「D先生?Yukoです」しばらくの沈黙。
「ポルトガルの・・・」と付け加えると、「おお!Santosさん!」

と言うので、それこそ長い年月を経てのケータイおしゃべり。埼玉に滞在していることを話すと、「実は来週学会で東京へ行く」とのこと。奥方もご一緒で、しかも、滞在先が、その少し前に、モイケル娘の婚約祝いの会食会場とした池袋メトロポリタンホテル!これは奇遇なり。万章繰り合わせて、お会いせねば!

そうやって、ホテルのロビーで待ち合わせし、D先生、奥方、そして、結婚する前のわたしが夫に連れられて広島のD先生ご夫妻のお宅を訪ねたときに、また赤ん坊でだっこしたことがあるお嬢さんも加わり、つもり積もった話をしながら、その日の午後の3時間ほどをかけて、再会の食事をしたのでした。

電話を切ってしまってから、ハタと思ったこと、ひとつあり。D先生との再会は35年ぶりほどになるのですが、このわたし、当時体重40キロが、すっかりの幸せ太りで、ゆうに10キロは増えてるっけ!!分かるかな、わたしが・・・

そして、ロビーで会って思わずハグ。第一声、「ふ、太ったねぇ、少し」
先生、少しじゃござんせん、10キロでありんす。かく言う先生も、お太りで、おあいこでござんした(爆)
daitokusensei2016.jpg

わたしがポルトガルに渡ったのは1979年5月です。夫は3月に2年の研究生期間を終え先に帰国しておりました。どういう話でそうなったのか、覚えてはいないのですが、D先生もわたし一緒に行くことになり、二人で揃ってポルトの地を踏んだのであります。

到着したその日に、夫の家では結婚の披露パーティが準備されており、近隣から遠方からと親戚一同がアジアの東の果てから来た花嫁を興味津々、待ち構えておりました(笑) 以下、写真盛りだくさんです。

義母、叔母と同居の夫の家は、もうこれ以上入らないというくらいの大勢の親戚が押しかけていました。

omoide
英語が話せたので、すぐに仲良くなった夫の従弟の娘、マヌエラ。 

omoide
ポルトの海岸で。今と違いこの頃は殺風景だった。5月だと言うのに、寒くて夫のセーターを。

omoide
そして、夫の黄色い車で3人で新婚旅行でありました。

国境の町、スペインのVigoのポザーダ(ホテルの種類)にて。
omoide
何しろ珍しい東洋人の男女二人です、どこへ行ってもD先生とわたしが新婚さんと思われ、大笑いでした。

vigo.jpg
Vigoのレストランで。             

omoide
こちらは夫の医者仲間たちと、Viana de Casteloの鰯祭り会場にて。この中の夫の親友は既に鬼籍に入っています。
 
omoide
「おかわり、いかが?」「おーっとっとっと」

omoide
Aveiro近くのSan Jacinto海岸で。     

omoide
ポルトのクリスタル公園にて。

これらの写真は、ポルトガルに着いてすぐのころです。D先生もやがて日本へ帰国し、この後わたしはポルトガルのなじめない習慣と、同居する3人のおばぁさんたちとの衝突に突入します。まぁ、長い人生には辛いこと苦しいことが色々ありますが、いい思い出は人生と人を豊かにしてくれように思います。

D先生、この次はいつ、会えるでしょうか。それを考えるのまた楽しみではあります。

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2016年5月19日 

土日の昼食は外で、がわたしたちの習慣です。

理由はひとつには、家事をこなしながら一方で月曜日から土曜日まで、毎日、日本語教室の仕事もしているわたしですから、土日の昼食作りからは開放されたい。それと、ポルト市内のレストランを食べ歩くのも、楽しみの一つだからです。

もうひとつは、我が家では純ポルトガル料理を作ることはまずありません。どうしても日本料理の味つけになります。夫にしてみれば、苦情は言わないものの、ポルトガル料理も欲しいところでしょう。(と、いいように解釈しているw)

そうした中で通っているうちに、味とサービスが気に入った行きつけのレストランも何軒かあります。
その一つが、ダウンタウンにある小さなレストラン「Buraco(ブラコ)」。意味は「穴」なんですが、その名のごとく、実は知る人ぞ知る穴場のレストランなのです。

buraco

入り口が小さくて、大きな正面看板も出ていないので、うっかり通り過ぎてしまいそうです。が、ここはわたしがポルトに来て以来、夫と時々足を運んできたレストランですから、長年知っているところでもあります。ウイークデイは近辺のサラリーマンで満席になりますが、週末もこの店を知っている人たちがたくさんやって来ます。

buraco

典型的なポルトガルの家庭料理で、値段も手ごろ、量もポルトガルのレストランのどこでも出されるようにバカ多くなく、しかもおいしいと来ています。店内が手狭で、その時間には次から次へと客がやってくるので、ゆっくりできないのが玉に瑕でしょうか。

buraco
画像はWikiより

今年67歳になるマヌエルさんは12才からここで働いているとのこと、わたしたちが行き始めて37年ほどになりますから、顔見知りですが、上述のように、ゆっくりできないので、わたしたちがここに知人を案内することはめったにありません。

buraco
2015年に新聞で取り上げられたレストラン「O Buraco」とマヌエルさん。

メニューを少し挙げてみますと、

Carde Verde(スープ)  1.50€ 
Saldinha Fritas(揚げ小鰯。上の写真にある) 一皿 6.00€
Carapao Fritos(揚げ小鯵) 一皿  6.00€
Tripas(ポルトの臓物煮料理)   6.00€
Bife à Buraco(Buraco式ステーキ) 6.00€

肉魚は他のポテトフライや豆ご飯等の副食共に、どれも6€(720円くらい)。時間があるツーリストのようにゆったりはできませんが、おいしく手ごろな値段で食べられること請け合いです。

インフォメーション
レストラン「O Buraco」
所在地: Rua do Bolhão 95, Porto

では、本日はこれにて。

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2016年5月18日 

ポルトに帰ってここ3週間、YY日本語塾恒例の「日本語を話す会」パーティーと、昨日火曜日に終えたポルト大学での小さな日本文化展示会のイヴェント二つ、それに先週土曜日から始まった日本語初級新コースとで、さしものわたしも顎を出す寸前で、齢69の数字が目の前にちらついているような気すらします。

が、とにかくこれでやっと夏休みまでは日本語教室授業いっぺんでやれそうです。ボランティアの話がきても、ひきうけないぞ~と、夫にもらしましたら、曰く、「どんなもんかね。数日もしたら、そのしんどさを忘れて、話が来たらまた引き受けそうだ。」・・・・

本日は昨日のイヴェントの写真をば。下が今回の「U.Porto:Once upon Another Time.Nultilinguim & Multi-
Cculturalism」イヴェントが行われた会場、ダウンタウン、ライオン広場前のポルト大学Reitoria(大学総長の執務室とでも訳すのかな?)です。20世紀初期に造られました。

PortoUniversityevent

PortoUniversityevent

展示会場廊下なのですが、構内、もう一箇所では、各国からの留学生による自国紹介のプレゼンテーションや民族舞踊等が紹介されました。

PortoUniversityevent

PortoUniversityevent

残念ながら日本人留学生はいない様子で、プレゼンテーションはなしですが、その代わり、展示会は他国と比べてかなり大きなものになりました。

PortoUniversityevent
モロッコ、ブラジル、ベトナムなど意外やシンプルな展示をしている中、じゃ~~ん、わが国はこんな風に十分なスペースをいただいて、並べられるだけ並べてみました。できるだけたくさんのものを皆さんに見ていただきたいと思うもので、芸術的な展示からは程遠く、ついついこうなってしまうのが、YY塾です^^;

PortoUniversityevent
 
ただ物を並べたと思うなかれ。実は、会場がかつての図書室なもので壁がない!背景のセッティングに随分と手間がかかり、2時間半を要してしまいました。

PortoUniversityevent
毎年いただいたものをずっと集めてきた知人の墨絵葉書も今回は紹介させていただきました。
   
PortoUniversityevent
いつもの如く親友みちこの作品も欠くことなし^^

PortoUniversityevent

各国国旗の折鶴は、友人のアーティストちゅうさんからいただいたものです。
PortoUniversityevent

PortoUniversityevent
こけしも、ちゅうさんからの寄贈です。

毎回、相棒のOちゃんとの展示会写真を撮りわすれてしまうのですが、今回もOちゃんは先に帰り、残った
わたしのみ。すまん、Oちゃん!
PortoUniversityevent
母の形見の紋付ももちろん登場。

5時半終了のはずが、さすがポルトガル、おおまかにスケジュールが送れ、展示会場に人がどっとやってきたのは6時半も過ぎ。日本へ何度か足を運んでおられると言う女性の副大学長が見えられて、日本の展示を是非皆さんに見て欲しいので、申し訳ないが予定時間をオーバーしてくれないか、と申し出があり、お断りもできませんでした。

PortoUniversityevent

結局、7時まで会場に残り、その後の後片付けには、やってきた夫に手伝ってもらい、1時半から8時近くまで会場につめることになってしまったのでした。

わたしにとっては少しハードワークになりましたが、この会場では偶然の嬉しい出会いがいくつかありました。
ひとつは、2010年の国際親善協会と市の主催で催されたポルトJapan Weekのイヴェントで、この大仕事を1年間共にした市の女性職員マルタさんとここで再会したこと、また、わが子たちと子供時代に一緒に遊んだという近所に住んでいたブルーノ君に声をかけられて、えーー!と驚かされたこと、カンボジアの学生さんのツーショットの申し込みがあったこと(なんでだろ?国のばぁちゃんにでも似てたのかなw)などなど。

もちろん、相も変らず失敗も欠くものではござらん。

Oちゃん: あれ? Sodeさん、ここにあった「Furoshiki」の説明札、どこへいったんかしら?
ソデ:う~ん、おかしいね。
Oちゃん: (横にある紋付の袖に視線をやり)、あー!ここに付けてる!
       「Montsuki」が「Furoshiki」にされるところですぞ、ソデさん!
ソデ: うっ、面目ありまへん。

という具合で、全くもってあぶのうございました。後はこのまま夏休みまで日本語教室に没頭です。ブログも
あまり間を開けないよう勤めますので、どうぞ宜しくお願いいたします。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
では、また!

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2016年5月10日 

バタバタしていたこの一週間、気がつけば、なんと一週間以上もブログを留守にしているではないか^^;

ポルトに帰るや、大学がらみの小さな日本展示会の話が舞い込み、その打ち合わせ、そして、今週土曜日からの日本語新コース、加えてつい先週末に終わることができた、恒例の「日本語を話す会」こと、我らが呼ぶNHKパーティーの三つが絡み、怒涛のような忙しさでした。

個人授業の生徒たちとグループ授業の生徒たちとの交流を図ろう、また、生徒たちの日本語関係の情報交換の場になればと思い、2011年に相棒のOちゃんと立ち上げた年に一度のNHKパーティーは今年で第6回目を迎え、いつのまにか生徒たちから催促がくるようになりました。

例年は3月頃のイースター休暇時に開く昼食会なのですが、今回はその時期にわたしが日本に帰国したもので、5月になってしまいました。

実はこの食事会、わたしとOちゃんが自家製の日本食もどきを用意するのですが、年々増えてきて、今年は30人分の食事を作る羽目に!自分のメモとして、一応、メニューをちょいと書きとめてみましょう。

わたしの担当料理
・ゆうこ式白身魚のグラタン
・大鍋カレーライス 
・太巻き厨子8本
・鶏のから揚げ   
・鶏の胸肉塩蒸し焼き (今年初出、大いに人気あり)
・一口カツ   
・ゆうこ式サンドイッチ  (パンにハムをはさむだけのポルトガルのサンドイッチとはかなり違うので大人気)
・ポテトサラダ 

日本語を話す会

Oちゃんの担当料理:
・焼きそば
・押し寿司(Oちゃんは飾りつけがうまい)
・細巻き寿司
・野菜サラダ
・フルーツサラダ
・チーズ類

日本語を話す会

Oちゃんは普段教室に使っているリビングをパーティー会場にして、コップや皿類等のセッティングも受け持ちます。

そして、今回は彼女の提案で、パテオを利用しての「たこ焼き」デモンストレーションを取り入れました。
日本語を話す会

と言うのも、日本のアニメファンが多い若い人達、マンガやアニメにしょっちゅう出てくる「たこ焼き」とはどんなものかとの興味を膨らませておるのです。写真でご覧のように、うまい具合に丸くひっくり返そうと、みな必死に兆戦したのでありました。

メニューの最後はデザートのフルーツサラダ、もしくはケーキ類です。
日本語を話す会

日本語を話す会

これは毎回、生徒の一人にケーキ作りを専門にする女性がいますので、彼女に注文します。彼女特性のおいしいポプコーンも出ます。彼女の作品でわたしが一番気に入ったのは、2013年に作ってくれた桜の花びらをあしらった美しいこのケーキです。

日本語を話す会

わたしがGG´s(じぃじぃず)と呼ぶところのYY塾ご長老たち4人には常にワインの差し入れをお願いして、
若い生徒たちは意外にもアルコールを飲まないので、ジュース類を揃え、そうそう、日本酒も少し試していただきます。そして、最後にはコーヒーマシンでエスプレッソをサービス。

日本語を話す会
話に花咲かせるYY塾のGG´s(じぃじぃず)こと、ご長老たち

NHKパーティーの準備はほとんどがわたしたちの手作り料理ですから、30人分を用意するとなると実を言うと大変なのであります。

土曜日午前中の日本語教室を終え、夕食後にはすぐ翌日の料理の準備に取り掛かりますが、真夜中過ぎまでかかります。翌日、つまりパーティーの当日は朝6時起床、正午まで、台所に立ちっぱなしで上記メニューをひたすら作るのですが、今回はさすがに疲れたびぃ・・・・

料理をYY塾に運ぶころには腰痛は始まり鎮静剤をいただく羽目に相成りましたが、みなさん、始まるじかんより早くドアを叩くんですよね(笑) それだけ楽しみにしているのだと思うと、しんどさも忘れてまた来年もがんばってみるか!と決心を新たにするのでありました、なんてね(笑)

日本語を話す会
数人撮影時に遅れてきた人がおり、参加者全員が写っていないのは残念です。

と言うわけで、今年のNHKパーティーも無事終わりました。
ポチッとランキングを押していただけたらありがたいです。

では、みなさま、また明日!

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2016年5月3日 

こんなのがポルトで見られるとは、なんと幸運な!
これが東京などだったら、ごった返しの人で、恐らく観た気もしなかったのではないかと思います。

ポルト、ドウロ川沿いにある建物、Alfándega do Porto(アルファンデガ・ド・ポルト)は、かつて税関だったのが、一度は博物館として使用された、後、大々的に改築され、現在は国際会議場となり大きなイヴェント開催場としても利用されています。

ツタンカーメン

6,000㎡もの広さがあってこそ、このツタンカーメン展ができたと言えましょう。フラッシュさえたかなければ撮影は自由だというのが、嬉しかった。思い切りデジカメのシャッターを押してきました。

 
ツタンカーメン

入り口の造りがあたかも発掘場に下るかのようで、わくわくしてきます。
20世紀初期に、カーナヴォン卿の援助を受けたイギリス人考古学者ハワード・カーターがエジプトの王家の谷で発見、発掘したツタンカーメン王墓は、20世紀最大の発見と言われ、3000年以上の時を経て、黄金のマスク、服飾品などがほぼ完全な形で発見されました。

重さ11キロ、23金の純金で作られているツタンカーメンの黄金のマスク。

ツタンカーメン

正式名は「ツーツ・アンク・アメン」。名前の意味は「アメン神の生ける似姿」とにありますが、最初の名前は
「トゥト・アンク・アテン(アテン神の生ける似姿)」でした。父王王妃の神を引き継いだものの、後に名を変えてアメン(ラー)神を復活させています。

生前に足に不自由があったとされるツタンカーメン王は虚弱体質で在位が短く、かなり若くして死んだと思われています。
ツタンカーメンの黄金の石棺。

ツタンカーメン

ツタンカーメン
 
再現されたツタンカーメンの墓。

ツタンカーメン

ツタンカーメン

ツタンカーメンの黄金の玉座。
ツタンカーメン

背もたれにはツタンカーメン王に香油を塗ると王妃アンケセナーメン(アンケセパーテンとも呼ばれる。)の姿が描かれています。よく見ると王も王妃もサンダルを片方しか履いていません。一足のサンダルを片方ずつ履くというのは、夫婦の仲の良さを表すのだそうですよ。

王と王妃の頭上にあるのは太陽神アテンです。ツタンカーメンの義母であり、古代エジプトの3美女の一人、ネフェルティティは、太陽神ラーではなく、このアテン神を信仰したと言われます。アテン神は、手の形状を取る太陽光線を何本も放ち、光線の一つに生命の象徴アンク(ankh)を握った太陽円盤の形をしている平和と恵みの神です。下図、ぶれていますが、アンクが見えますか?
 
ツタンカーメン
エジプト十字とも呼ばれる生命のシンボル、アンク。

ツタンカーメン
ネフェリティティの胸像。ツタンカーメンの父であるファラオ、アクエアテンの王妃だったネフェリティティには謎が多く、彼女に関する記録は消失している。ネフェリティティはツタンカーメンの王妃アンケセナーメンの母親である。
  
ツタンカーメン
古代エジプトの聖なる象徴スカラベ(コガネムシ)を頭上にいただく像。スカラベは再生や復活の象徴である聖なる虫として崇拝されました。

ツタンカーメン

ツタンカーメン時代の装飾品。
ツタンカーメン

黄金のサンダル。
ツタンカーメン

歴史上、謎の多いツタンカーメンですが、お時間がある方はどうぞネットででも探ってみてください。

では、本日はこれにて。

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
2016年5月1日 

週末の昼食は夫と外で取ります。これは、ひとつにはわたしの土曜日の日本語教室の授業が1時に終わり、それから帰宅して昼食を作るとなると、夫はどうも待ちきれないようなのと、週末はわたしを少なくとも昼は、台所作業から解放しようとの、夫の思惑もあるからです。

そんなわけで、いつもの近場のレストランを避けて、昨日は35年来の付き合いである、ダウンタウンの小さなレストランに行ってみました。このレストランについては後日紹介しますが、今日はダウンタウンで久しくかけていなかった夏の到来を告げるシンボルを目にしたので、その話です。  

5月1日と言えば、メーデーを真っ先に思い受けべる人も多いでしょうが、4月30日、5月1日とポルトガル北部では、5月祭(Maias=マイアス。ポルトガル語で5月をMaiaと言います)を祝う人も多く、エニシダを玄関や窓に飾るのです。下が昨日、街で見かけたものです。

1stofMay1.jpg

ダウンタウンでは、このエニシダを売り歩く人を数人見かけました。こちらはブリャオン市場前の花売りおばさん。

1stofay2.jpg

五月祭は元々は夏の到来を祝うケルト民族の祭りだったようです(ケルト文化はカトリック教からすると異端教になります)。エニシダをドアや窓に飾るのは魔除けになります。ネットから拾った画像を少しあげてみます。

1stofMay4.jpg

1stofMay5.jpg

1stofMay3.jpg

1stofMay7.jpg

シンプルに差し込まれたエニシダはなぜかそのままで美しいですね。

エニシダと聞けば、わたしは、それを家紋にしていたイギリス初王朝プランタジネット朝(プランタジネット=エニシダ)を思い浮かべます。フランスのアンジュー伯アンリ(英国風にはヘンリー2世)が興したのですが、かれがこの花を愛し帽子に指していたことから、紋章とされています。アンジュー伯家出身の歴代のイングランド王は、先日わたしが取り上げたスターバックスのロゴになっている「メリュジーヌ」の後裔であるという説もあるんですよ^^

最後に、わたしが住む近辺をGiesta(ジエスタ)と呼ぶのですが、「エニシダ」と言う意味です。その昔、このあたり一面がきっとエニシダが咲いていたのでしょう。なんだか、不思議な縁を感じた今日でありました。

では、みなさま、また!
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ blogram投票ボタン
Click for Porto, Portugal Forecast 
ポルトガル ポルトの口コミ
ポルトガル ポルトの口コミ にほんブログ村 外国語ブログ マルチリンガルへ
にほんブログ村