2016年6月28日
 
さて、今月24日に参院選投票のため、リスボンの日本大使館に出かけた折、事実確認をしたいと思い現地で行った見たのがロシオ駅のファサード。ファサードとは装飾で飾り付けられた表玄関のことです。

夜景でも美しいロシオ駅は、大使館があるリべりダーデ大通りをテージュ河口に向かって下りていく、旧市街、Baixa(バイシャ)と呼ばれるロシオ広場に面しています。

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建物は19世紀後半にネオ・マヌエル建築様式で造られ、主要入り口は馬蹄をかたどった華麗なアーチ型になっています。右側は、ポルトガル初の「スターバックス」。

Rossio

建物の上階がシントラなどのリスボン近郊路線の発着駅となっています。さて、本題はここからです。
この二つの馬蹄型アーチ入り口の間の窪みには、125年前に造られたポルトガル国王、ドン・セバスチャン1世の石像で、国の歴史遺産に指定されています。

Rossio

で、この石像、今回の確認はこれ↓
Rossio

あるはずの場所に石像がない!

これは、去る5月に心無い若いツーリストが自撮りしようと、カメラ片手にここによじのぼろうとした結果、重みで石像がくぼみから地面に落ち、粉々になってしまったのであります↓

Rossio

ツーリストは現場から逃げようとしたところを警察に取り押さえられ、歴史文化遺産管理局は破壊事件として立件、追訴もありうると言う、「あちゃ~」な出来事でした。

実は警察はこのツーリストの国籍を明かしていません。 昨年、ここを訪れたときに目にしたたくさんのツーーリスト、その中で特に若い人たちがキャーキャー言いながら自撮り棒で写真を撮っていましたが、それを横目に夫と「あれ、大丈夫かしら?」と話していたことを思い出し、とうとうこんなことが起こってしまったな、の感です。

上の写真を見ると分かるとおり、ほとんど粉々になった石像は修復不可、が、長年ポルトガル王家と強い絆を結んできたリスボンのGama Pinto眼科病院(かつてのConde de Penamacor宮殿)が、同じようなドン・セバスチャン1世の石像を所有しており、これが寄贈されることになりました。

というのは、Condes de Penamacor宮殿は、ロシオ駅に置かれてあった石像作者、Edmund Bartissolの宿泊先でもあったことで、ここでオリジナルモデルが長い間保管されてきたのだそうです。

いずれにせよ、壊された石像はもう元には戻らないけれど、なんとかこれで埋めることができるという決着がつきそうですが、観光地を訪れるときは、それにダメージを与えないように、わたしたちも日頃から十分きをつけなければなりませんね。

最後に、ドン・セバスチャン王について。実はミステリアスな王なのであります。
アヴィス王朝の最後から二人目の国王で、1557年に3才にして王になったものの、祖母ドナ・カタリナが摂政となり、14歳になった1578年に王座につきました。他の王があだ名を持つように、ドン・セバスチャンもまた、人々からは「O desejado(待望王)」と呼ばれ、冒険心に富んでいたようです。

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しかし、その冒険心が裏目に出て、かつて征服した北アフリカ領土を、夢よ、もう一度と18000の兵を率いてアルカセール・キビール遠征を試みたのが、惨敗を喫します。この時、敵のムーア人は十分に訓練された兵70000。 ドン・セバスチャン王24歳で、この戦いで行方不明になり、遺体は発見されずじまいです。このため、1580年から1680年の間には、ドン・セバスチャン王だと名乗る人も数人出ました。

行方不明になった王に因み、ポルトガルの伝説には「ドン・セバスチャンがいつの日か、霧の深い朝に白馬にまたがり戻ってくる」と言う伝説が生まれました。

この戦には国家歳入の半分が費やされ、王国は大きな損失を受け、独身だった王には後継者がなく、
200年続いたアヴィス王朝は、次のエンリケ1世のわずか3年の在位で、終焉を迎えます。

壊されてしまったロシオ駅のドン・ジュアン国王、少なくともその石像は、再び同じ場所に戻って来る日も近いでしょう。ひょっとして、リスボン、その伝説に則り、オリジナル石像があると言う、かつてのConde de Penamacor宮殿からロシオ駅まで、白馬に乗せてドン・セバスチャンを戻らせたら粋じゃないの?なぁんてことを想像しているわたしです。

本日も拙ブログにお付き合いいただき、ありがとうございます。では、また!
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2016年6月24日 

例年ですと6月23日のサン・ジュアン前夜祭には、デジカメ持って晩御飯後にダウンタウンへと繰り出すのですが、翌朝、金曜日のサン・ジュアン祝日を利用して、リスボンの日本大使館で第4回参院選投票をする予定だったので、今年は祭には出かけませんでした。

これまで在外投票は郵便を通してしてきたのですが、ここ数年、自分が所属する地域の選管に投票用紙を郵送請求しそれを送ってもらい、用紙に名前を記入してもう一度を送るというのに、郵便事情がうまくいっても最低3週間はかかり、この2度ほど郵送しても間に合わないというので、諦めざるを得なかったのでした。

業を煮やし、もう郵送での在外投票は止めだ、今後は大使館でしようと決心。今回初めてリスボンにある大使館で投票してきました。

リスボンまで投票に行くとなると、電車、車、いずも、丸一日かかりますが、休日も大使館の投票会場は空いているというので、夫も付き合ってくれ、車で片道3時間半、行って来ました。

大使館での在外投票をするには、前もって申請し発行された在外選挙人証とパスポートを呈示することでできます。
リスボン

投票場では、投票人が用紙を封筒に入れ会場の係員に手渡します。更に、係員が投票人の目の前で規定の封筒に入れ、投票が完了します。

24日にはイギリスのEU離脱結果も出て、これからヨーロッパはどんな風になっていくのかと、大きな不安に襲われたことで、たかが一票なれど、投票したい党、候補者に初めて迷いました。が、とにかく日本のみなさんより一足先に、投票を済ませて来ました。
投票後は、のどを潤しに以前雑誌記事に書いた曰くが面白いレストラン「Trindade(トリンダーデ)」で遅い昼食を。

リスボン
   
ここのビールはサグレス(Sagres)なり。タコ、バカリャウ(タラの種類)等の3種類のつまみ。
リスボン

レストラン「トリンダーデ」店内
リスボン

壁一面のアズレージュ絵(Azurejo=青タイル)はフリーメーソンがらみ。

リスボン

このレストランについては下記にて案内しています。
 シンボルがいっぱいのビア・レストラン

次回は、リスボンの古い区域Birro Altoを案内します。では、本日はこれにて!
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2016年6月23日 
昔からStar Warsファンのわたしである。補習校講師時代には、わが子のみならず補習校の子どもたちをも引き連れてシリーズを見に行ったりもしました。

さて、シリーズ最新作を観たのは今年の初めでしたが、そのときに、ポルトガルでちょっとした面白い話として、主人公の一人、ハン・ソロが持つ宇宙船Millenium FalconがPenafiel(ぺナフィエル)山頂にある
「Cidade Morta(死んだ町)」とそっくりだと、テレビニュースで取り上げられていたのです。

下がWikiで得たMillenium FalconとCidade Mortaの画像です。

優れた高速力を持ち、その外見から「銀河系最速のガラクタ」と呼ばれ、今回わたしが見たエピソード7「フォースの覚醒」では、埃に埋もれて姿を現します。

castro_mt_mozinho

castro_mt_mozinho

いかが?似てるでしょう?

Penafielはポルトから車で40分ほどでしょうか、近場ですし、大いに興興味をそそられ、近いうちに行って見ようと思っていましたが、先ごろ週末を利用してやっと行って来ました。

正式には「Castro de Monte Mozinho(カストロ・デ・モンテ・モズィーニュ)遺跡」と呼ばれます。

カストロを少し説明すると、元は古代ローマ以前の青銅器時代から鉄器時代にケルト人によって造られた避難用の村で、周辺を見渡すことができる小高い丘の頂上に見られます。
カストロ の周囲には、ケルト人以前の文化の遺物であるメンヒルやドルメンのような青銅器時代の巨石記念物が多く見られます。土や石や木材でできた防壁がめぐらされています。また、カストロには湧き水や渓流の水源があり、住居は円形に並んでおり、草葺屋根をかけています。カストロの大きさは直径数十メートルから数百メートルまでと、大小さまざま。下は復元されたカストロの例です。

castro

Castro de Monte Mozinhoが発掘されたのは、1943年で、再発掘は1974年で現在に至ります。随分長いこと放置されたのは、国にお金がなかったのか、古代遺跡発掘に興味がなかったのか。

一世紀から中世まで人が住む、競技やアセンブリが行われ、マーケットもあったとされています。下の画像は上空写真です。

そして、ここからはわたしが撮影してきたもの。

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山頂への入り口には小さな博物館があります。日曜日だと言うのに、人がほとんどおらず.

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職員さんが暇そうにしていて、わたしたちにどこから来たのかと話しかけてきました。

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ゆるやかな山道を少し歩くとすぐでした。

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ここが遺跡の入り口です。丘を下りてくる人たちとすれちがいました。

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まるで天に向かって歩いていくかのよう。石段をのぼったところが、石塀に囲まれた集落の中心になっています.
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入り口の巨大な石はケルト民族、ドルイドの名残か?
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つわものどもが 夢のあと。石の間から生命力たくましく咲く花に蝶々が。
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ミステリー好きのわたしとしては、「紀元1世紀には人が住み始めた」などと聞かされるよりも、古代ローマ時代以前のケルト民族によって最初に造られた、ともっと宣伝文句を押し出してもらい、もっと面白い展開が欲しいところですが、考古学と天文考古学とはなかなか相容れず、説明はありきたりのものであったのが、残念でした。

本日もお付き合いいただき、ありがとうございました。ではまた!
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2016年6月21日

19日の日曜日は、夫と義兄を誘って、日本から来ている和太鼓グループ「どんがら」のコンサートへ行って来ました。入場料は海外では珍しい「投げ銭」でした。

Boavista界隈にある、Casa das Artesでのコンサートでしたが、会場の入り口は二つの通りに面しており、わたしたちは、Cada d´Allen(カーザ・デ・アレン)と呼ばれる屋敷の表玄関から入りました。Casa das Artesはこの敷地内にあります。

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Cada d´Allenはかなり古く、長い間放置、閉鎖されていました。当時はこの前を通るたびに、蘇らせることはできないのかとカメラに収めては帰ってきたものです。
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裏の庭も自然体で美しく、散歩に開放しているようです。ここは改めて訪問しようと思っています。

casa_artes

会場は195席の小さな会場ですが、ほぼ満席。

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丸1時間の迫力あるコンサートにしびれ、会場を後にしたときには、ここしばらくの意気消沈も吹っ飛び(笑)してみると、この4人グループ創立者は、昔、ポルトのコリゼウ劇場で、満席の会場の聴衆を興奮で湧かした「鼓動」のメンバーなのだそうで。

拙ブログを探りましたら、なんと、一昔も前のことでした。以下、過去記事から引用。

(ここから引用)2006年3月18日(土曜日)

しびれた!久しく経験していない、体中の毛穴全開の昨夜のコンサートでした。「やっぱりわたしは、芯はどうにもないほど日本人だな、津軽衆だな」と実感して、真夜中12時近くのコンサート会場を後にして帰ってきたのでした。

会場のPorto Coliseu(ポルト・コリゼウ)劇場は満場。わたしも教室の生徒に宣伝しましたが、そのほか、日本びいきのポルトガル人や夫の知り合いもたくさんおりました。聴衆総立ちのアンコールの拍手が鳴り止みませんでした。両てのひらが痛くなるほど、わたしも拍手喝采して来ました。和太鼓のみでグングン聴衆を惹きつけていくあの迫力、力強さ、躍動力!15分の中休みも入れて2時間、いやぁ、もう参りました!堪能しました。

その中休みは、と言うと、カフェでも飲みにと席を立ち上がった途端に、あちこちから知り合いに声をかけられ、中でももう何年も会っていなかったイギリス人のマジシャン、Tony Brookに出会い、「おおおお!まだ、いるの!(どういうこっちゃw)君、ちっとも歳とってないじゃないの。
ボクはもう60になっちゃうよ」
「ウフフフ」(←これでごまかしとくw)
「ジュアンはどうしてるの?もいける娘は?」

この御仁は親子三代に渡る生粋のマジシャン。知り合ったきっかけは子供達が通うBritish Schoolでした。

現在副業としてこれまたマジシャンをしている息子さんが、当時同じ学校に通っており、迎えにいくとしょっちゅう顔をあわせることから話が始まりました。実は一度ポルトの日本人会忘年会でその腕前を披露してくれ、もう一度、今度はご子息が我が補習校のクリスマスコンサートで、子供達に「shinobiマジッック」を見せてくれたのでした。

鼓童のコンサートにあやかった、これまた嬉しい再会でした。(引用ここまで)

今回も知っている人の顔を何人も見かけましたが、補習校の元同僚、I氏も家族で来ており、コンサート終了後、しばし立ち話。

夏時間でまだ日が高い夕方6時に、こんな大きな樹を目にしながら再びCada d´Allen(カーザ・デ・アレン)の庭を通っての帰宅です。
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2016年6月16日  

この2週間ほど、負の小事が度重なり、これはひょっとして、これまでの生活の流れが変わろうとしている前兆かな?と、自分の粗忽を棚にあげて思ったりしている。

いや、ほんとにね、小事でもこう度重なると、いかな、のほほん者のわたしとて、さすがコウベが下がるというもの。情けないったらありゃしません。

先週土曜日のこと。この日はいつもどおり、10時から1時までの3時間を日本語のグループ授業を2クラス
教えます。相棒、Oちゃんの自宅の広いリビングを借りての授業ですから、合鍵をもらってます。

その日は、少し早めにやってくる生徒の一人と、駐車場になっている教会前の広場で、「あ、おはよー」と相成りました。車をおりると、いつものごとく、arrumador(アルマドール=無料の駐車場で多少のチップをもらい、車の番をする人)が、わたしと認めて、小走りにやって来ます。「おくさん、おはようさん」。

わずかですが、その日も毎週するように、バッグから財布を出して少しチップをあげます。そうして生徒と言葉を交わしながら、歩いて行きます。

教室のある小さな通りには、おお、サッカー、UEFA欧州選手権(今フランスで開催されている)の応援国旗がたくさん、たなびいているではありませんか。

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バッグからスマホを取り出し、パチリ。そして、どれどれ、塾の鍵は、とバッグの中をさぐったのだが・・・・出てこない。ない・・・・。え~~!!再度、バッグの中を注意深く探してみる。この時まではゼッタイあるはずだと思っていたのです。なぜなら、今朝、家を出がけに、鍵を取り出しやすいようにと、バッグの内ポケットにいれたのでありますから。それが、ない・・・・・

そうこうしているうちの、他の生徒たちも登校してきて、加わり、そこを探せあそこを探せと、まぁ、野次馬のごとし。結果、鍵は見つからず、1時間目の授業は、申し訳ない!とうとうキャンセルせざるを得なかったのであります。

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画像はWikiより

2時間目はどうしたかと言うと、土曜日のかつての我が職場、補習校がすぐ側で、Oちゃんはそこで講師をしている故、車でひとっ走り、補習校まで行き、かくかくしかじか、すまない、鍵をおくれ、と、Oちゃんから借りて、なんとか納まったのでした。

ひょっとして、拾った人が善意で教会にでも届けていないかと行ってみたものの、なし。どんな人が拾ってるか不安大きく、ついにOちゃんに話して、費用は自分がもつ由、業者に頼んで別の鍵をドアに取り付けてもらうようにとお願いしたのでした。

すぐの取り付けはできないからと、昨日、「はい、ソデさん、これ。」ともう一つの合鍵を手渡されたのがこれでございます。御覧なさいましよ。
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がびーーーん!これならなくならない!と長いひも付きの鍵だ!!更にゼッタイ忘れないように、バッグを変えたときも、必ず気づくようにとバッグの手に取り付け、鍵はバッグ内に収めるということに^^; 
Oちゃんよ、なんだかいっぺんに歳取った気分だぃ^^;

負の小事、ひとつでありました^^;

おやすみなさいませ。


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2016年6月11日 

本日は写真満載です。

「Portugal dos Pequenitos」は、小規模のテーマパークで、直訳すると「小さなポルトガル」です。
1940年に開園され、今年で76年目を迎えます。

小さなポルトガル・子どもの国

ポルトガルに来て間もなしの30数年前に訪れたのが最初で当時のわたしが記憶しているのはポルトガル独特のミニチュアの民家だけです。今回は雑誌記事の取材で二度目の訪問になるのですが、自分の記憶違いを訂正することになりました。

園内はポルトガル全土の歴史的国家遺産のモニュメント、それに、アフリカのモサンビーク、アンゴラ、カーボ・ヴェルデ、ギネビサウ、インドの一部の領土、チモール、マカオ、それにブラジルの、かつてのポルトガル領土にある記念されるべき建物のミニチュアたちが所狭しと並んでおり、子どもたちにとってはおとぎの国と言えましょう。

小さなポルトガル・子どもの国
エンリケ航海王子の像を右に、ポルトガル大航海時代の航路地図。ヨーロッパの端の小さな国の輝かしい歴史の1ページです。

小さなポルトガル・子どもの国
入り口を入ると見られるいかにもアフリカらしいモニュメント。

小さなポルトガル・子どもの国
カーボヴェルデ。                  

小さなポルトガル・子どもの国
マカオ。

小さなポルトガル・子どもの国
園内を走る可愛い乗り物。後ろ中央に見えるのはポルトのクレリゴス塔です。

小さなポルトガル・子どもの国
ポルトガル発祥の地、ギマラインス城。

小さなポルトガル・子どもの国

おもしろいのはモニュメントの造りです。個々の建物ではなく、夫々の特徴をとって、一つのモニュメントに仕上げています。例えば上の建物は、リスボンのベレンの塔、Casa dos Bicos(くちばしの家)、コメルシオ広場の門、サン・ジョルジュ城、アルファマにある大寺院等々。探せばまだあるかも知れません。

小さなポルトガル・子どもの国
↑そして、こちらは、わたしが憧れて謎解きに挑戦している、テンプル・キリスト教騎士団修道院のマヌエルの大窓です

小さなポルトガル・子どもの国
この鈴の意味を数年来追跡中。

小さなポルトガル・子どもの国
さて、ポルトガル独特の伝統民家です。

小さなポルトガル・子どもの国
身長153cmのわたしが横に立ってみました。子どもたちはこれらの家の中に入っては窓から顔を出し、よろこびます。

小さなポルトガル・子どもの国
南部独特の煙突を持った色鮮やかな家々。
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北部で多く見られる石造りの家。
小さなポルトガル・子どもの国

パークの後部には幼稚園とプレイグラウンドや小さな庭園があります。

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美しいアズレージュの幼稚園の入り口。

わたしが最初にここを訪れた頃は、コインブラに住む日本人の友人がここで幼稚園の先生をしていました。あの頃と比べ入り口はすっかり変わりました。

小さなポルトガル・子どもの国

小さなポルトガル・子どもの国
ティーカップハウス。

小さなポルトガル・子どもの国

大人も子どもも楽しめる「Portugal dos Pequenitos」、これからの季節はきっと楽しめるでしょう。

インフォーメーション
所在地:Rossio de Santa Clara 3040-256 Coimbra Portugal
開園時間6~9月15日 9:00~20:00 
入園料:2才以下無料 
    3~13才、65才以上5.95€
    大人14~64才 9.50€ 


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2016年6月5日

津国ビル下宿屋には門限があった。シンデレラ・タイムの12時である。
それを過ぎると、例え前もって電話で、「ちょっとだけ12時過ぎるけど開けといて~」と頼もうが何しようが、玄関は管理人夫婦がバッチリ閉めて、決して開けられることがない。

いずれにせよ、門限時間まで遊ぼうとしたら、タクシーで帰れるだけの経済的余裕がないといけないのであり、貧乏学生やわたしのように定職のないようなのが多いのだから、そういうことで締め出しを食うのは、あまりいない。いたとしても男の話であるから、さほど心配にも及ぶまい。

と、言いたいところであるが、何を隠そう、女のこのわたしこそ、実は門限破りの常習犯であったのだ。しかし、一言言わせてください。それは遊び呆けてではなく、レストラン等の宣伝撮影のためのバイトが理由である。

下宿にカメラマンN君がおり、彼も副職としてこういう撮影の仕事をしていて、照明やらなんやらのアシスタントがいる。そこで、わたしにこの話が回ってきたのだ。ところがこの仕事、レストランが閉店してからでないとできない。よって、撮影は夜10時半ころから始まり一時間半ほどで終わるのだ。下宿屋に着くのは、後片付けも入るから、どうしても12時を回る。

撮影場所のライトのあたり具合に小道具を使うので、わたしがそれを上げたり下げたりと照明ライトを持ったりしてのバイト。大した収入にはならないが、それでも生活の足しである。撮影の話が来るたび、
わたしは引き受けたのだが、問題は門限だ。

わたしの部屋は一階中庭に面していた。しかし、運良くN君の部屋は通りを前の、だだっ広い畑に面していたのだ。そこで、仕事がある日は、N君、自分の部屋の窓の鍵をかけずに出かける。そして、仕事終了後、二人でタクシーで下宿屋の近くまで乗りつけ、畑をざざ~っと横切って、手はず通り開けてある窓から入り込む、ということを、わたしたちは繰り返したのでした・

あの頃は今のように物騒な世の中ではなかった。わたしなど、後年、自分のアパートの台所の窓は、飼いネコのポチがわたしの留守中の日中に自由に出入りできるよう、年中開けっ放しにしていても、一度も泥棒に入られたことはない。

さて、その夜も大阪、難波にある中華料理店の撮影を事なく終えて、いつもの通りN君の窓から入り込む。「お疲れさん、またあしたね^^」と言いもって、わたしは入り込むときに脱いだ靴を両手に軽く持ち上げ、抜き足差し足の素振りでN君の部屋のドアを開けた。
とたん、「こらぁーーー!」
なんと、目の前に怒声とともに、管理人のおっさんがつっ立っているではないか。
「また、お前らか!一回や二回ならいざ知らず、何べんやっとるねん!」

これはもう完全に袋のねずみ、現行犯で何の言い訳もできない。もとより、嘘をつくのが下手なわたしである。現行犯ともなれば、もやは潔くするに越したことはない。

おっさんは、毎夜門限時間になると、下宿屋ビルの屋上から通りに面した側を見張っておったのである。
悪い趣味だぜ。

二人とも現行犯の写真を撮られたわけではないから、しらを切ろうと思えばできたやもしれない。なぜなら、若いわたしたちはしょっちゅう下宿仲間の誰かの部屋に集まっては、夜更けまで話し込んだりしていたのだし、それについては何のおとがめもなかったのだから。
しかし、両手に靴を下げて、人様の部屋を出るかい?(^^;)

あっさり門限破りを白状したわたしたち、こっぴどく叱られ、以後すっかり目をつけられ、深夜に及ぶ撮影のバイトは終了せざるを得なかったのであった。

これも若者が多かった大下宿屋なればこその懐かしい思い出ではあった。

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2016年6月3日 

6月4日、5日のポルトガルグッズ・イヴェントです。最寄の方、興味のある方はどうぞ!

~ペンギン翻訳特別企画~

【東のポルト屋】限定オープン!

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ペンギン翻訳オフィスオープン記念特別企画として、
ポルトガルアイテムプチ販売会を行います。

並ぶのはどれも現地で買いつけた一点もの。
日本では手に入らない、ユニークでカラフルなポルトガルならではの
デザインは、手に取った人を笑顔にします。

当日はポルトガル生まれポルトガル育ちの買い付け担当スタッフも
おりますので、商品にまつわるエピソードも詳しく聞けるかも?

会場となるオフィスは、東京駅から約20分、豊かな自然に囲まれ、
永井荷風、幸田露伴や北原白秋などの文人が好んで住んだという
歴史ある街、市川に位置しています。

広々としたフラワーガーデンや美術館、おしゃれな商店街や古刹など、
たくさんのお散歩スポット、こだわりの雑貨屋さん、おいしい飲食店などが
集まっていますので、休日のお散歩がてら、ぶらりとお立ち寄りください。

[東のポルト屋]
●日時: 6月4日(土) 12:00~18:0
   5日(日)12:00~17:00
    (販売アイテムがなくなり次第終了となります。)
●会場:ペンギン翻訳
  千葉県市川市真間1-15-21真間ビル401
※JR市川駅から徒歩5分、京成市川真間駅から徒歩1分。
  和菓子屋「市川ちもと」の道路を挟んで向かいのビルになります。
  一階に「第一クリニック」の表記があります。
※入り口階段の上り下りにご注意ください。
お問い合わせ:info@penguin-translation.com
          http://www.penguin-translation.com/       
  (明快・クリエイティブな英日仏翻訳を提供するペンギン翻訳)

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2016年6月2日

今日は思い出話です。どぞ。

思い出話をすると、「そんな時代にわたしも生まれたかったなぁ。」と、我が娘が羨む、1960年代後半、わたしの19から20歳にかけての、今日は話である。

その昔、大阪は杉本町、大阪市立大学の近辺に「津国ビル」と呼ばれる大きな下宿ビルがあった。コの字型の二棟に分かれている下宿ビルは、三階建てで200部屋ほどがあった。個室は三畳、それに小さな押入れがついているだけだ。机を入れたらベッドは入らない、ベッドを入れたら机は入らないのである。一階には大きな食堂があり、まかない付き、トイレは共同で、風呂はなし。よってみな近所の銭湯へ出かける。

さて、下宿人だが、これが200人くらいの中に女性はわたしも含め、たったの5、6人。残りは全部男性である。下宿人たちの職業は様々で、夜間高校生、大学生、各種学校生、予備校生、若い高校教師、写真家、サラリーマン、そしてわたしのような、今で言うフリーター(そう言えば、わたしなどフリーターのハシリかも知れないw)といった具合の集まりであった。
わずかの衣類と借り物である寝具を引っさげて、わたしはとあるきっかけでその下宿屋に紛れ込んだのである。

職業からわかるように、津国ビルは若人の花盛り。多少年齢がいったとしてもせいぜい30歳を少し超えるである。年配の管理人夫婦がいて、玄関口を入って左側に事務所があり、電話は呼び出しだ。電話が入ると校内放送ならず、下宿内放送で、「○○号室のspacesisさん、電話です。事務所までお出でください。」と呼び出しされる。話の内容は、管理人には筒抜けである。まかないは朝6時から9時までの朝食と、夕方6時から9時までの夕食の2食である。

これだけ若者が集まっていると、外での交友よりその下宿屋内での友だちづきあいが多くなり、わたしはよく大阪市大や私立の学生たち、イラストレーターのタマゴ、タイプ学校の学生たちの仲間に入っては、毎晩のように一部屋に集り、明け方まで人生論にふけこむこと、日常茶飯事であった。そして、朝一番、6時の朝食めがけてわたし達はドドッと食堂になだれ込むのであった。

朝食にはまだ早い6時前、この時間になると眠気はすっかり吹っ飛んでしまうものだが、しかし、話もだいたいおさまってひとまず解散、各々の部屋に引きあげようとなったある朝、玄関口の板場に座り、靴紐の結びをほどいている若者に出会った。

「おや、朝帰りですか?」と無遠慮に尋ねたわたしに、「いや、今一仕事終えてきたとこです」。
どこか幼さを残すがしっかりしたような印象を受けたその人は、聞いてみると新聞配達をしながら下宿生活をしている夜間高校生であった。わたしと同じ棟に住むのであるが、そのときわたしは初めて彼と顔を合わしたのであった。I君、16歳、両親をとうに亡くしていた。

早朝に玄関先で言葉を交わしたこの時がきっかけとなり、お互いの時間が空いている暇を見ては、色々な話ををしたり本を貸しあったりする付き合いが始まった。二人の逢瀬の場所は(笑)、日中は洗濯ものだらけでも、夜はあまり人が行かない屋上である。
そこからは少し離れて杉本町の操車場が見えた。今と違って一晩中開いているコンビニやファーストフード店などなかった時代だ。下宿屋ビルの屋上から見下ろす町はしんとして、街灯も理不尽なこの世界から若者をかばおうとでもするかのように、そこそこに明るいものであった。わたしは時々思う。今の街の灯りは煌々とし過ぎて夜昼の区別がつかない。安全性のためとはいえ、実に優しさがない。

下宿屋の屋上でI君と話すようにしたことの理由は、ひとつに、狭い部屋は若い男女2人きりというのはどうも具合がよくない。それと、わたしがつるんでいた予備校生や大学生のグループに彼は入りたがらなかったのである。

I君はギターを弾く少年であった。夜更けの誰もいない屋上で、話の合間に開く、聴衆者はわたし一人のミニコンサート。ギターを一度でも手がけた人なら誰でも知っているであろう、ギター名曲、ソルの「月光」
「アストリアス」そして、タルレガの「アルハンブラの思い出」。
夜のしじまを縫って奏でるギターは、16歳のI君の内面がちょこっと見えるようで、わたしは切なく思ったものである。

I君との交友は長くは続かなかった。
ある日の本の交換でわたしが彼から手にした本には「紅岩」という題がついていた。それは中国の文化大革命を背景に当時の中国の若い人たちを主人公にした物語であった。

わたしはどこか本能で、「紅岩」の持つ思想とは、相容れない自分を知っていた。わたしは行動も考えも他から縛られるのは、全くもってごめんだと思う人間なのだ。 I君の本にある思想は、「民衆の自由を勝ち取る」とは謳うものの、19のわたしではあったが、それが謳いあげていることとは逆に個人の自由を、思想を否応なくむしりとるよう見えた思想だった。
相容れない思想の相違は、それ以上付き合いを続けるには障害だった。

まだ世界を見ていない16歳の少年を、その思想にかりたてた環境がわたしには残酷に思えたものである。

後年、白いギターを手に入れたわたしは、あの頃のI君を思い、彼がよく弾いていたギター曲3曲の楽譜を探し出し、独学で挑戦してみた。しかし、わたしが一応弾けたのは「月光」だけである。

「アルハンブラの思い出」を耳にすると、そのトレモロにどうにも歯がたたなくて弾くのを諦めたのと同時に、身寄りの少なかった16歳の少年の心中を思いやって、わたしは切なくなってしまうのだ。

屋上で別れてから40年近い月日が流れてしまった。君はあれから、どんな人生を歩んだのだろうか。

下記では、2011年に訪れたアルハンブラを案内しています。

旅行記「アルハンブラ宮殿

こちらでは、ギター名曲「アルハンブラの思い出」が聴けます。



本日はこれにて。

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2016年5月31日 コインブラ:ホテルQuinta das Lágrimas

公園を回って、ホテル内でコーヒーをと思い立ち寄りました。ファサードがある正面玄関のアプローチは工事中で、横から来るまで入りました。

quintadaslagrimas

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館の左側にある新しい建物は「Spa」でしょうか。ホテル内のカフェにはSpaの横から涙の館に入ります。

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廊下に入ったコーナーにおいてあるのは顔のないイネスの人形です。イネス所以のホテルとは言え、少し興ざめするんではないの?と思いながら、どんどん進んで階下に下ります。

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カフェ・バー横の廊下。
 
庭を目の前に、しばしコーヒーをば。
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ホテルから前回紹介した泉にも行けるのですが、工事のため通行止めです。噂では、イネスの霊が今でもこの館の周りをさ迷っているのだそうな。

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さて、「涙の館」の悲恋はイネスの死によって終わったかと思いきや、実はとんでもない後日談があるのです。ガブリエル・ガルシア・マルケスの「コレラの時代の愛」を上回る「狂気の愛」を見ることになります。

以下、過去記事を再度載せてコインブラ「涙の館」を終えたいと思います。

さても、こうなりますとペドロ王子の顔とやらを見てみたいと思うのが人情と言うもの。写真はイネス殺害2年後に戴冠してポルトガル王8代目ドン・ペドロ一世となった王子です。

ペドロ

イネスの死を知ったペドロ王子は激怒、二度程父王への反乱を試みますが、母后の 取り計らいで父子は和解します。(いつの世にも見られる親子の確執です。ここで 思うのは、父王、側近ともに後継者である一人息子のペドロに「王道」のなんたるかを教えこまなかったというのが大きな失敗だったことです。甘やかしすぎたのである(笑)

イネスと結婚するとなると、ペドロ王子が王位を継いだ暁には、イネスが王妃となります。すると恐らく、正妻コンスタンスとの間に生まれたフェルナンド小王子は暗殺され、ガリシア人=カステーィリャ人であるイネスやその兄、更に母国から亡命していた取り巻きガリシア人たちの思惑でイネスとの間に生まれた子供が王位を継ぎ、初代王アフォンソ一世がせっかく築いたポルトガル独立国は混乱に陥り、再び隣接国に従属しなけらばならない羽目に陥ることが目に見えています。

父王の憂慮はここにあり、イネス処刑はやむを得ない事情でもありました。しかし、親の心、子知らず、恋は盲目で、ペドロ王子は恋の熱病に冒されてしまったとも言えますね。

王位についたペドロ一世、「実は自分はイネスと既に秘密裏に正式な結婚していたのだ。よってイネスは王妃である」などど血迷いごとを言い出します。しかし、そのような登録はないことから、これは愛したイネスをポルトガル王妃として人々の記憶に残って欲しいとのペドロの切ない願望と、もうひとつ、復讐心が絡んでいたのではないでしょうか?

ペドロとイネス4
ペドロとイネスの秘密の結婚の場面

この後ペドロ一世王は埋葬されてある墓からイネスの遺体を掘りおこし、それに冠させ、ポルトガル王妃への礼節を取る様に、膝まづいて椅子に座った遺体の手へのキスを家臣に要求します。こうなるともう、悲恋も行きすぎて、なにをかいわんや^^;とても尋常の神経とは思えません。

父王とは和解したものの、イネスを処刑した3人の騎士を王は許すことはしませんでした。王位につくや、隣国に逃げていたそのうちの二人をすぐひっつかまえ、自分の目の前で一人は胸から、もう一人は背中からその心臓をえぐりぬいたといいます。3人は、父王の「イネスの処分は任せる」と任せられ、国思うゆえの行動ではあったわけで、ペドロさん、父を許さなければならない羽目になり、その分の憎しみが、こちらの3人に向けられてしまったと、思われ。

もう一人はと言うと、Diogo Lopes Pachecoと言うのですが、運よく追手を逃れたとか、自殺に追いやられたなどと言われています。後に分かったことですが、彼は数年前に我らが訪れたポルトガルの深い山奥にある孤立した村、ピオーダンに隠れ住んだとの謂れが現在に引き継がれています)

これらの所業から、ペドロ一世は「残酷王、復讐王、法の厳格王」との称号をもらいます。

さて、ペドロさん、これでもまだ気がすまない。やがて訪れるであろう死に備えて、イネスと自分の棺を造らせます。しかしこの棺が素晴らしいのです!ペドロさん、イネスさんには悪いけれど、「悲恋」と後の世が謳うこの物語、どうもわたしゃ気に食わないのであります。で、唯一、「あら、いいじゃないの^^」と思うのが、この棺です(爆)

16世紀のポルトガルの大詩人カモインスを始め、多くの詩人や文学者が後世の文学で取り上げてきた宮中恋物語ではありますが、「あんたら二人、ちょっと勝手すぎん?」という思いから逃れられん(笑)

だってね、今も昔もある不倫の恋ではありますが、一国が傾くかどうかになるのでっせ。イネスにいたっては美貌を武器にして、おとなしい女主人をいいことに、ま、取り巻きもいたのであろうが、次期王をまんまと丸め込み。ひょっとして、ポルトガルに入る前に、既に隣国の謀略が噛んでいたのではないかとさえ、わたしは見たりするのです。

ほんじゃ、コンスタンスさんはどないなりまんねん?少し気の利いたお方なら、イネス暗殺の刺客もむけましょう。コンスタンスさん、そんなこともなさらんと、ご自分の侍女のところに入り浸りの夫の仕打ちにひたすら耐えて、3人のお子を残しましたです。

って、あれ?ペドロさん、こっちでもしっかりやっとったんやん!

ということで突っ込みが多い記事になりましてすみません^^;わたしを「あら、いいじゃないの^^」と思わせたこのお二人の「棺の」ご紹介記事はこちらです↓

アルコバッサ:ペドロとイネスの石棺1

アルコバッサ:ペドロとイネスの石棺2

本日はこれにて。
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