2016年8月28日 

マカロネシアの島のひとつ、アソーレスのサン・ミゲル島には三つの大きなカルデラ湖がありますが、今日はその二つ目のフルナ
ス(Furnas)カルデラ湖とフルナス温泉地帯です。

Furnas Azores

フルナスはFurnaの複数形で岩穴、穴の意味です。名にあるように、周囲600メートルのフルナス湖執念半分は林、もう半分は日本の温泉地帯で見られるように噴気孔がたくさんあります。アソーレス諸島そのものが火山島なので当然でしょうが、フルナス湖畔は噴気孔の観光地として知られています。

Furnas Azores

地下からドロッとした溶岩がブツブツと湧き上がっています。Furnas Azores

下は高温度の湯水がボコボコと。
Furnas Azores

フルナスは温泉の地熱を利用した料理、Cozido nas Furnas(フルナスの肉野菜の煮物料理)でも知られています。温泉地には写真のような穴が開けられており、

Furnas Azores

この中に肉野菜が入ったアルミニウムの鍋を蓋をして入れます。

Furnas Azores
上に立てられた木札にはどのレストランのものか番号が書かれてあります。

この料理を食するには地熱での料理が5時間ほどかかるので、取り扱うレストランでの予約が必要なのですが、満席で残念ながら体験できませんでした。下の写真は、見逃した、料理を地中から取り出しているところです。

Furnas Azores
この写真はWikiより。

下は料理が取り出された後です。
Furnas Azores

レストランで出されるCosido nas Furnasはこうなります。 見た目はCozido à Portuguesa(ポルトガル伝統煮物料理)と同じですね。
cozidofurnas.png
Wikiより。

すぐ側は静かなフルナス湖。

Furnas Azores

湖の周辺の林は苔が生えており、ネコもたくさん見かけました。
Furnas Azores

本日はこれにて。 アソーレスはまだ続きます。

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2016年8月25日 

今日はアソーレス案内を休んで、気になったフランスのニュースを取り上げてみます。

息子のガールフレンドも先週日本へ帰国し、テレビニュースを見ながら3人で食卓を囲んでいたところ、フランスのとある海岸で、ブルキニを着ていた女性が、警官に脱ぐように促されている画像がありました。ブルキニというのは、ムスリム女性のために考案された水着のこと。ビキニとブルカをあわせた造語です。

ご存知の方が多いと思いますが、「ブルカ」はムスリムの女性が顔を隠すために用いるもので、現在では主にアフガニスタンで強要されています。女性の服装は下の図のように、国によって呼称もデザインも違いがありますが、いつのまにか「ブルカ」がムスリム女性の服装を代表する言葉にされていることが多いようです。

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わが妹夫婦は3年ほどサウジ・アラビアのジェッダに仕事で滞在したことがあり、その際に初めて彼女から外国人女性でも外出時には必ず着なければならないと言う「アバヤ」の衣装を見せてもらったことがあります。「チャドル」に似ています。

ムスリムの女性は顔と手足の先を除いては隠さなければいけない国が多いそうです。そんな規定のなか、レバノン系オーストラリア人のデザイナーによって発案されたのが、下の画像ブルキニです。

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  これがニースやカンヌやコルシカ島など南フランスの12の自治体で禁止されている、というのです。公共の海岸でブルキニを着る女性は、退場するか別の水着に着替えるよう強要され、38ユーロの罰金を払うことになるのだそうです。下はニュースで流された画像です。

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普段から水着と言えば、ビキニ類を想像するわたしたちからすると、ブルキニは確かに、見た目少し違和感がありますが、別に禁止するとまで行かなくてもいいのでは?とはわたしの思うところです。かほどに、テロへの警戒が厳しいのでしょうが、自由の国、世界のファッションをリードするフランス国がねぇ、との感が否めません。

フランスでは全ての宗教での宗教的シンボルは、公の場所での着用を禁止されているそうです。ヒジャブもその「宗教的シンボル」と認定されているわけですが、では、俗に言うスカーフとヒジャブの違いは?となると、
どうも紛らわしい。

今でこそ、そのファッション性が失われてしまいましたが、わたしが若いときは、エヴァ・ガードナー、ヘップバーン等のハリウッドスターがよく使用しており、憧れたものです。
         
brukini2.jpgbrukini4.png

↓これもヒジャブによくにています。一世を風靡したと言われるドラマ「君の名は」で岸恵子さんがしている「真知子巻き」ファッション。現代ファッションでは、こんな風にも使われるスカーフ。

brukini5.jpg brukini6.jpg
   
スカーフは髪の毛を隠すというより、寒さを防いだり強い風から髪を守るという用途であったと思います。スカーフが好きなわたしは冬夏用と色々持っており、ポルトの海岸へ散歩に出かける時や、髪の毛がしっかり落ち着かない時等は車の運転を場合に、真知子巻きや、写真のヘップバーンのように後ろで結んだりしますが、ふと、これはフランスではできないのかも知れない、あるいは、ムスリム女性に見られるかも?と、思ったりするこの頃、うかつに好きな格好もできない。

フランスのヒジャブ使用禁止には、国内に住むイスラム世界の女性、ムスリム女性の解放の意味があったのかもしれません。が、自由であろうとするがために、自由にしようとするがために、元来はしなくてもいい規律を作る不自由について、考える必要があるのではないか。自分の自由があると同様に他人の自由もあります。

このニュースを見て、上述のことを考えると同時に、昔は肌を露出するビキニはダメだった、今は肌を隠してはダメなのか、と、なんだか可笑しくなったわたしでした。
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最後に、上の写真はイタリアのとある海岸で戯れているカトリック尼僧たちだそうです。なんとも楽しそうな雰囲気で思わず微笑みが浮かんで来そうですが、フランスではこれも禁止されるというのでしょうか。

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2016年8月23日 

アソーレス諸島はポルトガルの大航海時代、15世紀に発見されました。しかし、発見者には、Gonçalo Velho Cabral(ゴンサロ・ヴェリュ・カブラル)と Diogo de Silves(ディオゴ・デ・シルヴェス)の二つの説があります。

アソーレス諸島

Ponta Delgada市の広場にあるPortas da Cidade(ポルタス・ダ・シダーデ=町の門)の前にはGonçalo Velho Cabralの像が建っていますので、彼を発見者とする説が強いのでしょう。

アソーレス諸島の気候は年中温暖だとありますが、実は湿気が多く曇りがち。空港に降り立つなり、「あ、日本の初夏の気候だ」と思いました。自分の髪の毛がサラッとしないので、すぐ分かります。わたしたちが滞在した4日間も3日目を除いては曇り、霧、霧雨と、二日目に上ったセッテシダーデ・カルデラ湖へはご覧の写真の通り。

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アソーレスはアジサイが山道の両脇にたくさん植えられていて、とてもきれいでした。天気がよかったらどんなにか美しいだろうか、と思ったのですが、時期的にアジサイもそろそろ色あせた部分が見られ、曇った天気がそれを覆い隠していて、却ってよかったのかも知れません。アジサイの道は恐らく6、7月が一番美しいのでしょう。

アソーレス諸島

セッテシダーデ・カルデラ湖は、下の写真に見るように、Lagoa Azul( 写真右。青い湖の意味) と Lagoa Verde(写真左。緑の湖の意味)の二つの湖からなっています。その名の通り、曇った天気で撮った写真でも色の違いが分かります。セッテシダーデス(Sete Cidades)とは「七つの町」と言う意味です。写真の青い湖湖畔に見える人口800人足らずの村に小さな村の名前でもあります。

アソーレス諸島

山頂にある湖を見て、村に下りてきた頃は霧が雨に変わり、かろうじて村にひとつあるネオゴチック建築のサン・ニコラウ教会を撮影しました。

アソーレス諸島

この他にもこの山には小さな湖がたくさんあります。そのひとつ、下は「サン・チアゴ湖」。人を寄せ付けない美しい緑色の陥没カルデラ湖です。

アソーレス諸島

本日はこれにて。アソーレス旅行はまだ続きます。
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2016年8月21日  

家族で訪れてきたサン・ミゲル島を本日は紹介。

本土ポルトガルから飛行機で2時間少し。サン・ミゲル島は大西洋にあるアソーレス諸島のひとつです。 

アソーレス

アソーレス諸島は火山島で、9つの島から成り立ち、最大の島がサン・ミゲル島。面積759km、人口13万人です。英語ではZAzores、ポルトガル語ではAçores(アソーレス)と呼びます。Açorは「オオタカ」を意味し、島の名前の由来はこれにあります。

何年も前から、夫には「イルカと鯨を見に行こう」と誘われていたのですが、わたしはカナヅチ、大型船で行くならともかく、波の荒い大西洋をあんな小さなボートで3時間も、イヤだ。もしも鯨が近づいてきて体当たりし、ボートが転覆でもしたら、救命具を着けていたとしてもわたしゃ一巻の終わりであるよ、冗談じゃない、とガイド写真を見て避けてきたのです↓

アソーレス

が、30数年もポルトガルにいればマデイラ島を含みポルトガル国内はほぼ周ってしまい、息子もアソーレスには行った事がないといいます。そこで、イルカ、鯨見物にわたしは参加しないということで、しぶしぶ承知したのでした。

今回はレンタカーで下記の場所を周ってきました。
アソーレス

ポルトのサ・カルネイロ飛行場からは、案の定(笑)、1時間遅れで出発し、島で一番大きな町、Ponta Delgada(ポンタ・デルガーダ)に到着。天気は曇り。

そんなわけで、夕方、市内を歩いて撮った写真もいまいちです。

アソーレス
Ponta DelgadaのPortas da Cidade(ポルタス・ダ・シダーデ=町の門)

しかし、画像が暗く感じられるのは、天気のせいのみならず。火山島のアソーレスの多くの建物には黒い火山岩が使用されており、それも原因のひとつです。

アソーレス

アソーレス

こちらは町の中心にあるサン・セバスチャン教会。ファサーダ(正門)、横門もマヌエル建築様式です。

アソーレス

ここでこの様式に出会うとは思いませんでした。正門は白い石ですが、横門のひとつは画像で分かる通り、火山岩を使った黒色です。黒のマヌエル建築様式は初めてです。
アソーレス

  
ダウンタウンにあるMarinaこと、ヨットハーバー。
アソーレス

夕方のダウンタウン。ほとんど人が歩いておらず、ツーリストが少ないのには少し驚いた。その分、まだ観光ずれしていないということです。

アソーレス

明日は、翌日訪れた湖を紹介します。では、本日はこれにて。

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2016年8月19日 

東京に住む我が息子が帰省しており、数日前にはGFもポルト到着、夫も10日ほどの夏季休暇を取って我が家は目下、図体の大きい大人があっちでゴロ、こっちでゴロしている毎日です。夫婦二人の静かだった生活がとたんに賑やかになり、わたしも日本語教室を休んで、得意でもない料理にいそしんでいます。

さて、今年5月の弾劾裁判で180日間の職務停止を受けたブラジルのルセフ女性大統領ですが、オリンピック開催期間がその中に入り、彼女としては残念なことになりました。我が家も普段は朝テレビをつけるなど、まずないのですが、休暇中の夫がずっと見ています。そのリオオリンピックも今週で終わりますが、わたしは何と言っても最後のマラソンを見るのが好きです。

今日は、多くのシーンでも、わたしにとり忘れられないマラソン選手について、2008年の記事を書き直して再アップさせてください。

以下。

「北京オリンピック、ボイコットよ。」などと偉そうに言っているわたしですが、なに、もともとスポーツ観戦にはあまり興味を持たない人間で、さほど苦にもならない。見ると言えばせいぜい国がらみのユーロカップ、ワールドカップくらいで、それも「にわかファン」そのものです。

マラソンは一度たりとも長距離を走ってみたことがある人は、それがいかに過酷な競技であるかを知っていると思います。高校時代の学校恒例行事で女生徒は否応無しに全員5000mを走らされましたが、単に走ることがこんなに苦しいことかと、このときの体験は生涯忘れるものではありません。後で振り返ってみると、これは人生に似ていると思わされた大きな体験でした。

上述したように、スポーツ祭典はあまり熱心に見るほうではありません。1984年にロス・アンジェルスオリンピックの時のこと。この年、わたしは4歳になる息子を伴って帰国し、大阪は堺にあるアサヒビアハウスの歌姫時代の大先輩、宝木嬢のお宅に数ヶ月居候していたのでした。

宝木嬢もかつてのわたしと同じように、日中はオフィス勤め、夜はビアハウスで歌姫に変身。居候中の日中、わたしは彼女の家の留守番役をしていました。

ある日のこと、オフイスで仕事中の彼女から電話、
「テレビ観てる?マラソンでポルトガル人選手がトップを走ってるわよ!」

その日もオリンピックなどどこ吹く風、鼻歌など歌いながら、宝木家の掃除やら洗濯やらをしていたのんきなわたし、慌ててつけたテレビの画面から、おおお!競技場に今や入らんとするカルロス・ロペスの姿が目に飛び込んで来ました!

やるじゃない、ポルトガル!と、いつもの如く、にわかに声援しました。37歳のカルロス・ロペス、この年は金メダルを獲得したのでした。

わたしは、帰国中に再びバイトとしてアサヒビアハウスで週に2度ほど歌っていたのですが、数日後、常連仲間で、○サヒ放送のK氏の話で耳にしたのは、通常は競技が終わり次第すぐ報道できるようにと、主だったル優勝候補者の写真を前もって各社が入手、用意しておくのだそうです。

ところが、ポルトガルのカルロス・ロペスなど優勝候補に上がってもいなかったので、どこの報道社も彼の写真を持っていなかった。だからメディアで使用された写真はロペスのゴールを切るものばかりだった、との裏話。

この後、ポルトガルはソウルオリンピックの女子マラソンで優勝し、世界記録も保持するロザ・モタ(ポルト出身)というヒロインを生むわけですが、これらにも増して、わたしが今でも思い起こすたびに胸が熱くなってしまう忘れられない光景が、ロスアンジェルスオリンピックにあるのです。

それまで女子マラソンはリスクがあるということで、オリンピック競技には入れられていなかったそうですが、この年、初めて女子マラソンが登場しました。なんの拍子でか、わたしはたまたま女子マラソンの後半を見ていたのですが、このとき、競技のほとんど終わりのころ、会場に熱中症でふらふらになりながら入ってきた選手がいました。観衆は騒然とし、テレビを見ていたわたしも思わず目を凝らしました。

彼女は、先の一歩を踏み出すのもようやくのことで、今にも倒れそうです。トラックサイドの係員が手を打ひて彼女を支えたが最後、競技からは失格です。それを拒みながら、重病人のようなアンデルセンは一歩一歩と左右によろめきながら進んでいきます。会場の観衆は一丸となり彼女を声援します。もちろんテレビを見ていたわたしも、がんばれ!がんばれ!と応援しながらいつの間にか涙が頬をつたっていました。

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画像はwikiから。

スタジアムに入場してからの一周を意識朦朧とした状態でヨロヨロ進みながら6分ほど。彼女がついにゴールした時、会場の観客は総立ちで嵐のような拍手が鳴り止みませんでした。熱中症は非常に危険であり、ゴールと同時にアンデルセン選手は係員に抱きかかえられ、恐らく病院直行だったことでしょう。

このとき39歳だったアンデルセン選手(スイス)は、後日語っています。
「普通のマラソンならば棄権していました。初女子マラソンという歴史的大会だったので、どうしてもゴールしたかったのです」と。

長距離マラソンは孤独との闘いと言えるのではないでしょうか。このときの彼女の姿は、ヨロヨロになりながらも誰をも寄せ付けない自分との厳しい闘いに極限状態で挑み、Never give upの精神を観衆に知らしめたのです。人間てすごいなぁ、と30数年経っても感動を思い起こさせるオリンピックの一幕です。

この時は誰が優勝したか?それがです、このアンデルセン女子を覚えていてもゴールドメダリストを覚えていないのです。

下記サイトでその時の様子が見られます。
https://www.youtube.com/watch?v=0Hjm29CmMfg

本日はこれにて。
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2016年8月15日 終戦記念日:忘れてしまったもの

今日は71回目の終戦記念日です。世界のどこかでまだ戦争が行われているという悲しい事実はあるのですが、終戦後に生まれ育ち、少なくとも今、戦争がない国に住んでいる自分の幸運を噛み締めています。
この幸せは、過去の歴史で命を落とした人たちの犠牲に立っているものだと、わたしは思っています。

そして、8月になるといつも思い出される話があります。2007年に産経新聞の「やばいぞ日本」で紹介された終戦直後のアメリカ人による体験談です。記事をプリントアウトしていますので、自身のための戒めとして今日はその記事を二つ載せたいと思います。長文になりますが読んでいただけたらと思います。

【忘れてしまったもの】靴磨きの少年・一片のパン、幼いマリコに

81歳、進駐軍兵士だった元ハワイ州知事、ジョージ・アリヨシ氏から手紙(英文)が、記者の手元に届いたのは今年10月中旬だった。親殺し、子殺し、数々の不正や偽装が伝えられる中、元知事の訴えは、「義理、恩、おかげさま、国のために」、日本人がもう一度思いをはせてほしいというものだった。終戦直後に出会った少年がみせた日本人の心が今も、アリヨシ氏の胸に刻まれているからだ。
 
手紙によると、陸軍に入隊したばかりのアリヨシ氏は1945年秋、初めて東京の土を踏んだ。丸の内の旧郵船ビルを兵舎にしていた彼が最初に出会った日本人は、靴を磨いてれくれた7歳の少年だった。言葉を交わすうち、少年が両親を失い、妹と二人で過酷な時代を生きていかねばならないことを知った。
 
東京は焼け野原だった。その年は大凶作で、1000万人の日本人が餓死するといわれていた。少年は背筋を伸ばし、しっかりと受け答えしていたが、空腹の様子は隠しようもなかった。

彼は兵舎に戻り、食事に出されたパンにバターとジャムを塗るとナプキンで包んだ。持ち出しは禁じられていた。だが、彼はすぐさま少年のところにとって返し、包みを渡した。少年は「ありがとうございます」と言い、包みを箱に入れた。
 
彼は少年に、なぜ箱にしまったのか、おなかはすいていないのかと尋ねた。少年は「おなかはすいています」といい、「3歳のマリコが家で待っています。一緒に食べたいんです」といった。アリヨシ氏は手紙にこのときのことをつづった。「この7歳のおなかをすかせた少年が、3歳の妹のマリコとわずか一片のパンを分かち合おうとしたことに深く感動した」と。
 
彼はこのあとも、ハワイ出身の仲間とともに少年を手助けした。しかし、日本には2ヵ月しかいなかった。再入隊せず、本国で法律を学ぶことを選んだからだ。そして、1974年、日系入として初めてハワイ州知事に就任した。

のち、アリヨシ氏は日本に旅行するたび、この少年のその後の人生を心配した。メディアとともに消息を探したが、見つからなかった。「妹の名前がマリコであることは覚えていたが、靴磨きの少年の名前は知らなかった。私は彼に会いたかった」
 
記者がハワイ在住のアリヨシ氏に手紙を書いたのは先月、大阪防衛協会が発行した機関紙「まもり」のコラムを見たからだ。筆者は少年と同年齢の蛯原康治同協会事務局長(70)。五百旗頭真防衛大学校長が4月の講演で、元知事と少年の交流を紹介した。

それを聞いた蛯原氏は「毅然とした日本人の存在を知ってもらいたかったため」と語った。記者は経緯を確認したかった。
 
アリヨシ氏の手紙は「荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概と心情を思いだす。それは『国のために』という日本国民の精神と犠牲を象徴するものだ」と記されていた。今を生きる日本人へのメッセージが最後にしたためられていた。
 
「幾星霜が過ぎ、日本は変わった。今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。ほとんどの人びとは、両親や祖父母が新しい日本を作るために払った努力と犠牲のことを知らない。すべてのことは容易に手に入る。そうした人たちは今こそ、7歳の靴磨きの少年の家族や国を思う気概と苦闘をもう一度考えるべきである。義理、責任、恩、おかげさまで、という言葉が思い浮かぶ」

凛とした日本人たれ。父母が福岡県豊前市出身だった有吉氏の“祖国”への思いが凝縮されていた。

焼き場の少年

終戦直後、米海軍カメラマンのジョー・オダネル氏(今年=2007年8月、85歳で死去)の心を揺さぶったのも、靴磨きの少年と似た年回りの「焼き場の少年」であった。(この物語は日本の中学生の国語教科書でも紹介されており、ポルト補習校時代に担当の子どもたちと学んだことがある)

shuusenkinenbi
Wikiより

 原爆が投下された長崎市の浦上川周辺の焼き場で、少年は亡くなった弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待っている。素足が痛々しい。オダネル氏はその姿を1995年刊行の写真集「トランクの中の日本」(小学学館発行)でこう回想している。

 「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。(略)
 
少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足下の燃えさかる火の上に乗せた。
(略)
 私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。私はカメラのファインダーを通して涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った」
 
この写真は、今も見た人の心をとらえて離さない。フジテレビ系列の「写真物語」が先月映した「焼き場の少年」に対し、1週間で200件近くのメールが届いたことにもうかがえる。フジテレビによると、その内容はこうだった。

 「軽い気持ちでチャンネルを合わせたのですが、冒頭から心が締め付けられ号泣してしまいました」(30代主婦)、「精いっぱい生きるという一番大切なことを改めて教えてもらったような気がします」(20代男性)。
 
 1枚の写真からそれぞれがなにかを学び取っているようだ。オダネル氏は前記の写真集で、もう一つの日本人の物語を語っている。
 
激しい雨の真夜中、事務所で当直についていたオダネル氏の前に、若い女性が入ってきた。「ほっそりとした体はびしょぬれで、黒髪もべったりと頭にはりついていた。おじぎを繰り返しながら、私たちになにかしきり
に訴えていた。どうやら、どこかへ連れていこうとしているらしい」
 
それは踏切事故で10人の海兵隊員が死亡した凄惨な現場を教えるための命がけともいえる行動だった。オダネル氏は「あの夜、私を事故現場まで連れていった日本女性はそのまま姿を消した。彼女の名前も住所も知らない。一言のお礼さえ伝えられなかった」と述べている。
 
苦難にたじろがない、乏しさを分かつ、思いやり、無私、隣人愛・・・。こうして日本人は、敗戦に飢餓という未曾有の危機を乗り切ることができた。それは自らの努力と気概、そして米軍放出やララ(LARA、国際
NGO)救援物資などのためだった。
 
 当時、米国民の中には、今日はランチを食べたことにして、その費用を日本への募金にする人が少なくなかった。日本がララ物資の援助に感謝して、誰一人物資を横流しすることがないという外国特派員の報道が、援助の機運をさらに盛り上げたのだった。

 こうした苦しい時代の物語を、親から子、子から孫へともう一度語り継ぐことが、今の社会に広がる病巣を少しでも食い止めることになる。(中静敬一郎)

2007.11.06産経新聞「やばいぞ日本」より
                                     
本日はこれにて。
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2016年8月13日 

山林火災の影響を受け、ポルトの空は煙っぽく曇っていますが、匂いは大分消えている今日です。

さて、随分昔に書いた記事に、お手伝いのベルミーラおばさんの話があります。今日はまず、その引用から。

―ここから引用

ポルトガルよもやま話から:46話「コネ社会」

週に2度、午前中の3時間、大きくもない我がフラットの掃除を頼んでる、仮に解雇しようにも解雇できない、Dona Belmira(ドナ・ベルミラ)というおばさんがおります。

Donaと言うのは、ポルトガル語で既婚女性の名前の前につけられます。例えばわたしの場合は、「Dona Yuko」と言う具合に。ま、奥さんということでしょうか。

さて、そのD.(Donaの略)Belmira、今朝我がフラットのドアを入るなり、自分が先日行った血液検査クリニックでの不満をまくしたてた。

ポルトガルでは血液検査は病院ではしない。検査専門のクリニックがあり、そこで採血してもらい、後日検査結果を受け取りに行き、それから、その結果を病院の担当医にもって行って診断を仰ぐのである。

D.Belmiraが何に立腹してるかといいますと、こうです。

どこもそういう検査のクリニックは人でいっぱいになるのは目に見えているので、家を朝早く出た。それでも自分の番号札は44番。じ~っと我慢の子、自分の番号が呼ばれるのを待っていたのだそうです。

だんだん44番に近くなり、いよいよ42番が呼ばれた。すると、42番から43番、44番をすっとばして50番54番を看護婦さんが呼んだのだそうだ。

こういうことはよくあるのです^^;これは看護さんが番号を間違えるのではなくて、間に知り合いとか、知り合いの紹介とかの人をサーッと入れるのでして^^;言うなれば、コネの割り込みですね。

D.Belmira、黙っておりませんです。なんでよ。なんで43の次が50になるの!と、早速その場で看護婦をひっつかまえて、一席ぶった。

「ちょっと、看護婦さん、お待ちよ。今、呼んだ番号、何番と何番?この番号札、順番でしょ?」
「そうですよ」と看護婦。
「あたしゃ、44番なのよ。43の次がなんで50になるの?」
「あたしの里じゃ、43の次は44が来る。50は49の後と学校で習った。ここは違うのかい?」

ここまで聞いてわたしはキャハハハハと大笑いしてしまった。更にD.Belmiraは続ける。

さすがの看護婦もこれには抗しきれず、仕方なく43、44と呼び直し。しかし、その後がいけまへん^^;

「見てくださいよ、D.Yuko!」と採血の痕がついてる腕をわたしの目前に突き出し、
「あの看護婦ったら、腹いせに2度も間違った振りして、針が通らないとこに突き立てて!」
見ると、腕の同じ箇所に3つの注射針の痕が(爆)

必ずしも故意にしたとは思われないが、なんともわかりまへん^^;えらい気の毒なことではありましたが、わたしは、D.Belmiraがプリプリ怒っているのに拘わらず、「あっはははは」と大声で笑わずにおれないのでした。

こういう小さなことから大きなことまで、ポルトガルがコネ社会であるのは間違いない。フェアじゃないと知っていながら、時々わたしも夫の七光りを受けて、43番の次に50番が来るようなことをしてもらってることが
残念ながら・・・ある^^;

そのようなことを自ら頼みはしないが、亭主を知っている人たちは、知らぬ間にそういう計らいをしてくれてるはずです。そう思ったら、「あっはははは」と笑った後で、気がひけてしまいましたっけ・
・・

―引用終わり

拙ブログにこんな風に時々登場願っているベルミーラおばさんだが、2ヶ月ほど前にのっぴきならぬ事情で30年間通った我が家の掃除の仕事を退職したいと申し出てきました。 その事情を聞いていたし方ないなと納得、了承せざるを得ません。

ベルミーラおばさんとの付き合いは我がモイケル娘が生まれる前からと長く、当時は彼女は近所に住んでおり、姑宅と我が家に通っていたのですが、5年ほど前に、ポルトから離れたEspinhoという町に二人の娘さんの家族とともに引越ししていきました。以来今日まで、それまで同様、週に2回を片道1時間半かけてずっと来てくれていたのです。

通うことができない事情とは、娘さん二人は共稼ぎなのですが、3人目の孫が半年ほどに生まれ、近所の保育所に預けて、彼女はまだ我が家へ通うつもりだったそうですが、受け入れはOKだったものの、開園時間が7時半。

二人の娘さんはわたしが住む区域マイア市で8時半から働いており、日によっては車でくることもありますが、通常はその3人で早朝に家を出て電車バスと乗り継ぎくるわけです。自分が住む町の近くに仕事が見つかればいいのですが、それは今のポルトガルではぜいたくと言うもの。今の仕事を手放さないため、娘さんたちも1時間半の通勤時間をかけてでも通っています。

7時半の保育園開園だと電車バスの時間を変えざるを得なく、わたしのほうは10時からきてもらってもいいとして、娘さんたちはそんなわけにはいきません。

そこで家族で話し合った結果、ベルミーラおばさんが家に残り、孫の面倒をみる、という結論に達したとのことでした。これを聞いたときは、ガーーーンでした。

ここ数年、日本語クラスを増やしてしまい、外での授業も結構多いゆえ、ベルミーラおばさんなしでは家の掃除が行き届かない。彼女が来る日は、家の中を任せて出かけることがほとんどと言えるほど、30年もの付き合いで信頼を培ったおばさんなのです。

ベルミーラおばさんは、この近所の他の数軒にも通ってきたのですが、8月に入ると全て他を辞めて、娘さんたちが夏休みの今、我が家のみに通ってきています。ひとつには、8月9月と、我が子たちが帰省してくるゆえ、久しぶりに会いたいというのと、もうひとつ、この夏は子どもたちと数日間の家族旅行を8月9月とするのですが、留守中の我が家の5匹ネコとノラちゃんたちのエサやりのためには、ベルミーラおばさんなしではできません。彼女もその辺のことを承知しており、8月で通うのは終わりですが、9月の旅行中は留守に来てくれることになりました。

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世話がやける猫たちめ~~w

そんな訳でとても残念なのですが、ベルミーラおばさんとは間もなくお別れです。
目下、新しいお手伝いさんを探しているのですが、大阪出身の友人とこの話をしたところ、曰く
「あんた、気ぃつけや。今時のは信用でけへんで。某日本企業のあの家族、おぼえてるっしょ?同じマンションの隣に通っていたお手伝いさんに声をかけて家にきてもらうことになり、帰国時に鍵を預けて帰ってきたところ、家の中がモヌケの空だったんよ!そのお手伝いと仲間が、金目の物を全て持ち去っていたんだから!」

ポルトガルに来て、お姑さんと同居中から今日まで、ドナ・ベルミーラも含む4人の我が家のお手伝いさんを知っていますが、そのうち一人はあまりにも動作が鈍く掃除に埒があかない、もう一人はどうも物がなくなるというので辞めてもらった人が二人います。

みなさん、住み込みででもない限り、通常は通いのお手伝いさんに家を任せて外出するなど、まずないようです。
ベルミーラおばさんとの信頼関係のようなのは稀で、今まで本当にラッキーだったのだとの思いに至っているこのごろです。

この数年、自宅の日本語個人授業と外での日本語教室とで、家を出たり入ったりの働き方に多少疲れを感じたりするこの頃、今年は古希を迎えるわたしです、彼女の退職を機に、好きな日本語の仕事も、退職とまで行かなくとも、働き方を考え直す時がきたかな?

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2016年8月10日 

毎年のことなのだが、夏になると国内のあちこちで起こる山林火災、特に今年は酷いことになっています。9日現在でポルトガル国内の山火事は122ヶ所にも及び、北部はその被害が大きいと報道されています。

二日前には、ポルトから19キロほどのヴァロンゴ(Valongo)で火災による死者を出しているのですが、真っ青で一点の曇りがない夏の空が、山火事で見る間に煙に被われ、夕方には太陽が不気味に赤く、放つ光もまるでブラックホールにでも入っているかのように見えました。

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by spacesis

家の窓を開けると煙の匂いと火事が引き起こす独特の熱気とで、慌てて窓を閉める始末です。

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wiki.より、フンシャル

また、ツーリストでにぎわう大西洋の花の島、マデイラ島(Madeira)の都市フンシャル(Funchal)も大きな山路火事が発生、すでに町も火に襲われ、3人の死者が出ています。

最新情報によると、マデイラのホテル、商店、家々などにも火が及び、二つの病院も避難を強いられたとのこと、毎年毎年よくもまぁ、と、わたしなどはハシタナクモも心中、舌打ちです。

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水害も怖いが火は全てを嘗め尽くしていくので本当に恐ろしい。

日本語の個人授業の生徒さんにドイツ系ポルトガル人のアルフレッドさんという方がいます。この方、ドイツとポルトガルに住まいがあり、夏を含める1年の半分はポルトに住みます。ポルトにいる間は、わたしのところに通って、「平家物語」、「奥の細道」などのさわりや「論語」などを共に読み、近頃ではわたしが薦めた吉川英治の「宮本武蔵」を読み始め質問してくる、齢84歳の生徒さんなのですが、山間部に別荘を持ち、ポルト滞在中はほとんどそこで自分の土地の掃除をしていて、一週間に一度、日本語授業のために山を下りてくるという生活をしています。

昨日、授業に来たアルフレッドさんに、Valongoの山林火災が大きいので、山の家は大丈夫かと問うてみたところ、今のところ彼の別荘区域には被害が及んでいないとのこと。その時に、毎年夏場に起こるポルトガルの火災に話が及びました。

これは、以前に拙ブログで取り上げたことなのですが、ポルトガルは夏は雨が降らずかなりの乾燥気候ですから、この時期に入る前に農林省が山林の枯葉や枯れ枝を除いたり植林の空間に配慮したり等の山林の手入れをして置くなどして、自然発火を防ぐべく手を打つべきなのです。

また、山火事は毎年発生するとわかりきっているのですから、それに備えて消防員を増やし訓練する、消化剤を散布するためのヘリを国、地方自治が購入するなどの対策を積極的にとるべきなのです。国土消失は大きな環境破壊を招き、国力衰退につながります。予算を惜しんでなどおられんで、ポルトガル!

加えて、昔から人の口にのぼっている話が、山火事は自然発火、失火もあるだろうが、放火よるものも多いとのこと。山が焼けることによって焼けた樹木の値段が暴落し叩き売りになります。買う方からして見るとダントツの安値で手に入ると言うことです。火事泥棒するがための雇い火付けだと我は呼ばん。本当に腹がたちます。

さて、件のアルフレッドさんに、何か火災予防策をとっているのかと聞きますと、そのために週のほとんどを山の家で過ごし、朝から夕方まで一日中、土地の掃除をしているのだそうです。そして、隣の土地との境界には木を植えず、空間を作るために空き地にするとのこと。そうすることで、火災が及ぶのを少しでも防げるのです。

ところが、隣人はお隣に空き地を見るとこれ幸いにと、自分たちの土地の境界線ぎりぎりにまで植樹するのだそうです。そして土地の掃除はしない。アルフレッドさんは、もしもの時のために少しでも自分の土地への火災防止をしようと、自分の手が届く隣人の土地の枯葉等を集めて掃除するとのこと。

それと、もうひとつ、彼がしていることには、さすがドイツ人だなぁとと感心しました。

実は火災ニュースの映像を見ていてわたしが「なんばしとっと!」と腹立つのが、延焼がいよいよと自分たちの土地にも及ぼうかと思われるのに、突っ立ってじっと向こうの火事を見ているのです。他人事じゃあれへんで!なんでホースを使って放水し、少しでも努力せんの!ホースがない?そんなの、山間に住んでいるならば、山火事は予測できることではないか。用意して当たり前である。人事ながら情けない。

アルフレッドさん曰く、自分の土地の周囲にはグルリと水道管のごときを巡らし、いざという時にはそこから消防署のホースをつなぎ放水できるようにつなぎ目もそれに合わせているのだそうです。もちろん、ご自分も消防署用のホースを予備として持っているとのこと。

思うに、国は、地方自治体は、山間に家を造るときの条件として、隣家との境界線に空き地を置くこと、消火のための水道管を家屋の周囲に設けることを義務付けるべき。

今日はFacebook上で、これまでは最高8年の放火罪を「25年にしろ!」との請願が始まりました。これらの山林火事が放火でもあると見て、人々が怒っているのです。

ドラマ「鬼平犯科帳」でも見るように、木材の住宅の日本は昔から火付け盗賊は重罪とされており、わたしなどもその見方なのですが、ポルトガルもこれまでにないような今回の火災に、恐れを抱き始めたのでしょう。わたしからすれば、遅いんだよ!なのですが。

最後に、サッカーの天才、ロナウドはマデイラ出身ですが、経済的支援をオファーしたとのことです。


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2016年8月9日 

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弘前市プロモーションから。

8月1日から一週間続く故郷弘前の今年のねぶた祭りも一昨日で終わった。初日から6日間、ねぶたは夜に町を練り歩くのだが、七日目の最終日は「なのかび」と言い、朝からねぶた囃子が聞こえ、日中の練り歩き、そして、岩木川原で今年のねぶたに火を放ち、炎で清めて川に流すのである。

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弘前プロモーションから。

ねぶたは「ねぷた」とも呼ばれるらしいのだが、幼い頃からわたしが呼んできたのは「ねぶた」だ。「ねぶた、ねぷた」は津軽人の標記しがたい独特な発音からであろう、わたしは定義はない思っている。

今日は、かれこれ10年ほども前に綴ったねぶたに関連する記事を再度載せてみたい。以下。


手元にわたしがこれまで一度も目にしたことのない幼い頃の写真がある。

2007年3月に東京のW大学から九州の公立大学に転校し、山口県の下関に移動した娘に会いに、一ヶ月ほど日本に滞在した時のことである。ポルトに帰る前の10日間ほどを所沢の妹宅で過ごしたのだが、お茶を飲みながらのある日のこと、妹が「こんな写真を小倉の叔父さんのところで見つけた。それでもらって来た。」と、数枚の白黒写真を持ち出して来た。

小倉の叔父というのは、3年ほど前に亡くなった、9人兄弟だった母の末の妹でわたしたちの叔母にあたる人の連れ合いである。本サイトエッセイ「思い出のオルゴール」の「急行日本海でも登場しており、当時は大阪に転勤で住んでいたのだが、わたしはこの叔父たちと多感な中学時代の最後の1年を弘前から転校して過ごしたのだ。
      
写真を見たわたしは思わず感嘆の声をあげた。祖母を始め、我が母、父、叔母の、今は亡き人たちの懐かしい顔が数枚の写真の中でにこやかに微笑んでいる。写真の背景も、わたしの記憶に残っており、妹と二人、時間のたつのも忘れて、ひとしきり昔話に花を咲かせたのだった。

hirosaki
わが祖母と祖母の9人の子どものうちの娘3人。右端がわが母である。左端に移っているのは、大家族として当時祖母の家に同居していた従弟のひとり。
  
そして、妹が「もう一枚!」と取り出してきたB3くらいのサイズの大きな写真がこれである。

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これには、うわぁ~と、それこそ歓声をあげずにおらりょうか!今では日本の三大祭のひとつに数えられる、遠い昔の町内ねぶた祭りの一夜の写真なのだ。右のプラカードには「上新児童福祉協会」(上新=上新町)と書か
れ、左には「三国志 張飛奮戦○上新町」とある。○の字は読めない・・・

「この中にわたしたちがいるのよ。見つけられる?」と我が妹。
50数年も前の自分を探して、しばらく写真に見入るわたし。妹は言う、「わたしはすぐに分かった。」
わたしたちの幼い頃に関する二歳下の妹の記憶は素晴らしく、「あの時、こうだったああだった」との話を聞かされては、よく驚かされるのである。思うに、無鉄砲なわたしと違い、妹は子どものころからよく周囲を観察できたのであろう。

大勢のなかで、なぜだか一人だけ小首をかしげている女の子に出会った。
「こ、これじゃない?」と自信なさそうに指差す小さな顔。
「うん。それがゆうだ。で、わたしはこれ。」

hirosaki
小首をかしげているのが60数年前のわたし、下が妹。

背景は真っ黒でよく分からないが、左端にやぐらのようなものと幕が見えるところから、ねぶたの置き場から出た場所だとうかがえる。はしっこにちょこっと当時の自転車も見える。

ねぶた祭りは毎年あったのに、一枚だけがこうして残っているのは、恐らくこの年がわが祖母タマさんが町内のねぶた祭り世話係だったのだろう。一晩上町を練り歩いてねぶたを引っ張って帰ってくると、祖母が家でわたしたち子供のためや大人のために握り飯や菓子、飲み水などを用意して待っていたのを覚えている。

夏休みの8月1日から6日間、日が暮れ始めるとねぶた囃子が聞こえてき、わたしたちは、鼻にスーッと水白粉で白い線を引き、半纏を着て鉢巻しめ、中にろうそくの火をともされたこの巨大なねぶたを「ヤーヤドー!」と引いて下町から坂を上り上町へ出、弘前の夜の町を練り歩くのである。疲れて眠くなり、足元がおぼつかなくなると、ねぶたを乗せた台車に座らせてもらえた。

数台の大きな和太鼓は、ねぶたの後ろに積まれ、笛吹きたちも加わり「歩け」のリズム、「止まって休め」のリズム、「帰路」のリズムと、ねぶたを引くものたちに合図する。帰路には「ヤーレヤレヤーレヤ、ねんぷたのもんどりこ!」(ねぶたの戻り)と、眠気を吹き飛ばして掛け声かけて帰るのだ。

「ダカダン ダカダン」と、太鼓のリズムと笛から流れる音色は、今もわたしの耳に残っている。雪国の夏の六夜の、ほとばしる津軽縄文人の熱き血潮がふつふつと湧いてくるような祭りである。

この写真には、それから数年後、内弁慶のわたしが棒っきれ振り回し、やおらガキ大将になって泣かしていた子分たちもこの中にいるはずである。半世紀以上も昔の少女をかろうじて見つけられたわたしは、何度この写真を見直しても、あの頃の子分たちを見つけられないでいる。

小首をかしげている古い写真の少女を見ると、わたしは少し目が潤む。そして、静かに語りかけて見る。

「ハロー。あなた、随分歩いて、ここまで来たのね。」


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2016年8月6日 

独り身ならいざ知らず、家族がいての「ミニマリズム」生活は不可能ではないか、とはわたしの考えである。

生活を共にする相手も同じ考えなら可能だろうが、子どもがいるとなると、難しいと思うのだ。ミニマリズム生活は、ホテル住まいに似ていると思われるのだが、わたしの場合、ホテル住まいは休暇中の滞在で十分。

「あれがない、これがない」と日々の生活で利用している便利物も、せいぜい1、2週間のホテル滞在と思えばなんとか我慢ができる。これは、「なくてもいい」というのとは違うとわたしは思う。またホテルの部屋は、部屋を利用する自分が、寝るか休憩かに使うのみで、わたしには殺風景で生活感覚とは全く離れていると思われる。

「快適に暮らす」とは、便利さととらえるか、空間ととらえるか、かも知れない。しかし、豪邸でもないかぎり、
子どもが生まれれば家の中はあれよあれよと言う間に物は増え、子供が遊び出し始めると家のなかの乱雑は片付けても片付けてもなかなか納まらないものだ。それが「子どもがいる家庭」でもあると思う。

思うに、日本の家が狭くなるのは和洋折衷だからではないか。昔の家には余計な家具はなく広かったはずだ。

我が家も38年も生活していると物はどうしても増え、移った時には随分広いと思われた家も、いつのまにか物に囲まれてしまっていることに気づく。日々を忙しくしていると、それらを見直す時間もなく、ズルズル今日まで来てしまったわたしである。そして、やはり、置き物を初め、食器類、衣類の和服洋服と和洋折衷の如くなっている。文具類、台所、洗濯場関係の細かい物となると、数え切れない。

このままでは、自分にもしものことがあって、子供たちが整理しなければならないとしたら、日本に住んでいる彼らのことを考えると、エライことになると思ったのが、きっかけで、実は今年に入ってから少しずつ、世に言う「断捨離」と言うものを始めたのである。

使わない、飾らないけど捨てられないというものは、人にもらっていただいている。その例が下。

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すず製のオーナメント一式とポルトガルの有名なガラス、Marinha Grande 社製の金魚。可愛くて、ネコの飲み水用にどうかと、思わず衝動買いしてしまったが、これではネコが首を突っ込めないことに気づく^^;

衣類もお掃除のおばさんに欲しいものは持って行ってもらい、残ったのは、欲しい人が持って行くことができる古着のリサイクル場に置いてくる。しかし、衣類はまだまだ整理する必要がある。

写真類もかなり処分した。問題は我がダンナです。
え?spacesisさん、だんなさんも思い切って?って、ご冗談でしょw夫の書斎のものですってばw 夫はなんというか、念のためにと、箱まで取っておくタイプで、書斎の本棚の一番上には大きな箱が数個ドーン。万が一を考えていると断捨離は進まない。これをなんとかして欲しいのです。

今年の夏は息子も娘も連れが来るので、彼らが衣類を入れるのに整理ダンスを空ける必要があり、断捨離にはちょうどいい機会になると、せっせと整理にいそしんでいるだが、果たしてどこまで捨て切れるか、捨てるからには、どうしても必要な物以外は買うまいと決心しつつある この頃だ。


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2016年8月4日 

やっぱりなぁ、の感です。

ドウロ川を挟んでポルト市と隣町ガイアを結ぶドン・ルイス1世橋は、クレリゴス塔に継ぐポルトの象徴ともされます。

Metro

写真はガイア側にあるテレフェリコ上からの撮影です。ドン・ルイス1世橋は長さ385m、幅8m2重橋になっており、下段は車と人が、上段はメトロと人が通れるようになっています。1886年にエッフェル(エッフェル塔の建築家)の弟子、テオフィロ・セイリングの設計で造られました。

Metro
ポルト側からガイアへ。両脇に1.25mの 狭い歩道があります。

Metro

橋の上段中央をメトロ・イエロー線が渡り両脇が歩道。橋からのリベイラの眺めは絶景です。メトロはガイアのAvenida da Republica大通りの地上を走り、ドン・ルイス一世橋を渡ってこのトンネルをくぐり、ポルトのサン・ベントメトロ駅に入ります。

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橋を渡ってポルト側のトンネルの入り口。

Metro

さて、上の写真はポルト側からガイアのAvenida da Republica大通りを撮影しています。左にはSerra do Pilarの高い石垣が、右側には小さな公園が見えます。メトロが走るまでこの大通りはポルトとガイアを結ぶ
幹線道路で、交通停滞がひどい状態でしたが、現在では2都市間を結ぶ「フレイシュ橋」「サン・ジュアン橋」「インファンテ橋」の三つの新しい橋が利用されるようになり、ドン・ルイス一世橋は車の乗り入れが禁止になりました。

ところが、「Avenida da Republica」大通りは橋の少し手前まで、車が来られるようになっており、これが問題を引き起こすのです。メトロが開通したてのころは、何度か、知らずに車が橋を渡りトンネルをくぐって、地下のサン・ベントメトロ駅のホームに入ってしまう、と言うアッと驚く際どい事件が起こっています。

地方から出てきたりするとよく事情を知らなかったり、あるいは、わたしなどのような粗忽者などが、「この橋から向こうは車の乗り入れ禁止」の小さなサインを見落とし、これまで通り橋を渡ってポルト市内に入れると思い、行っちゃう人間がいたのです^^;

Metro

トンネルをくぐってからきっとウワワワーッと慌てふためくんだでしょうねぇ。上記、2007年の写真の如しです。これまで事が起こらずに済んだのが不思議なくらい。真正面に地下鉄が向かってきた!なんてことになってたら、と想像するだけで背筋が寒くなります。

この事件が重なったことで、不注意でこんなことをしでかしたら10年の刑になると当時はお達しがでました。もちろん、現在ではこんなことはもう起こり得ません、と言いたいところですが、起こっちゃってるんですね、これが^^;

新聞記事を要約してみます。

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―8月2日未明、Avenida da Republica大通りを走っていたオランダ人夫婦の車が「車乗り入れ禁止」の交通標記に気づかず、ドン・ルイス一世橋を渡りサン・ベントメトロ駅に続くトンネルに入り込んでしまった。レッカー車で引き上げたが、これによる事故は起こっていない。―

平日の未明でよかったものの、これがメトロ運行24時間の週末だったら、と思うと冷や汗がでます。

それにしても、大きな事故が起こらない内に、単なる「車乗り入れ禁止」標記だけでなく、「この先危険!」とか何か夜中でも人目に付く工夫がいるのではないか?そういうことは考えないのかなぁ。
たまにではあるけど、下の写真のように日中でも起こっていることなので、「標記がちゃんとあるぞ」、では済ませない件だとわたしは思うのだが。

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