2016年10月29日

ここ3日ほどポルトは、29度、27度とまるで夏日再来のような気温です。小春日和は、ポルトガルでは「Dia de são Martinho(聖マーチンの日)」に当たり11月の半ばで、この日は不思議なくらい、決まって気温が上がるのですが、今年は2週間も早すぎ。少し軽い汗をかきながら、家事をこなしていますが、みなさまのところはいかに?

さて、三日前に朝一で血液検査をしにダウンタウンのクリニックに行った帰りのことです。

Sá da Bandeira通りに停めてあった車の助手席にわたしは乗り込み、運転席に座ってハンドルをにぎろうかという夫が、「はい」とわたしに差し出してくれたのは、少し大きめの美しい2枚の落ち葉でした。

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落ち葉の季節には、出かけた先で時折地面に落ちている枯葉の美しいのを見つけては、拾い上げて持って帰るわたしの習慣を、夫は気づいていたようですが、「もうちょっと小さいのが・・・」と可愛げのないことを言いかけて、その言葉を飲み込みましたっけ。はははは。

その場で、持っていた黒いバッグの上に載せてスマホで写してみると、思いがけなくきれいな画像になりました。今年もこんな季節になったなぁ、日本の秋を見なくなってもうどのくらいの月日が流れたでしょうか。来年こそは晩秋に帰国しよう!と毎年この時期になると思うのですが、さくら花咲く春が近づくや気もそぞろ、我慢できなくなって帰国しちゃうんですね、春に^^;

2回帰ればいいじゃないのって? いやいや、夫と5匹ネコ、おまけに外の野良猫たちを抱える身、お金もかかることですしそんな訳にも行きません。

拾い上げた落ち葉をどうするかと言うと、わたしの、一年に一度書くか書かないかの、今では日記とは名ばかりになってしまった、記録の始まりが1978年11月17日の古いノートの間に挟んで押し葉にするのです。

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中には小さな押し花もありますが、写真の銀杏の葉は日本時代のものでしょう、ポルトガルに銀杏の木はほとんどありませんから。

下の紅葉は2005年にコペンハーゲンを訪れたときの散策中に拾ったものです。

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北欧の秋は本当にきれいでした。

コペンハーゲンのを除くと、これらの押し葉、押し花をどこで拾ったのかどんな思い出があったのか、40年近くも日記に挟まれいると言うことと、日本から持ってきたと言うこと以外は、記憶にありません。記録の主であるわたしが、時折、手に取ってみる押し葉は、色褪せながらもその乾いてしまった葉脈の中に、40年の時の流れにじっと堪えてきたのでしょうか。

夫に贈られた2枚の落ち葉を挿し込もうと、何年ぶりかにノートを本棚から取り出し開いてみると、ひらりとページの間から落ちた一枚のアジサイの花びら、指で拾い上げたら、粉々に崩れてしまいました。

oshiba

あら~、と言いようのない残念な気持ち。ふとその時、西条八十の「蝶」という詩を思い浮かべたのでした。

やがて地獄へ下るとき、
そこに待つ父母や友人に
私は何を持つて行こう。

たぶん私は懐から
蒼白め、破れた
蝶の死骸をとり出すだろう。
そうして渡しながら言うだらう。

一生を
子供のやうに、さみしく
これを追つてゐました、と。

これはわたしの最初のホームページ、2005年の「片言隻句」の中に書き取ってある詩です。父母や友人たちが待つ場所を「地獄」とうたったところが、とても斬新に感じられ、心に残った詩のひとつです。「蝶の死骸」は、ひょっとして「破れた」よりも「粉々」になって、彼の手のひらにのっていたのではないかと、詩を読んだ時、わたしは少しこだわったのでした。そのこだわりが今日の押し花につながったのです。

押し花のなんて儚い。もしかしたら、40年の時を含んできた押し花は、ページから滑り落ちて粉々になるこの日を待っていたのかしら?

2枚の落ち葉は、こんなロマンチックなことをわたしに綴らせる(自分で言うかw)夫からの秋の贈り物でした。

本日もお付き合いくださり、ありがとうございます。
では、また。

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2016年10月26日 

年に少なくとも一度は夫と二人して血液検査を受けています。

出されたデータを見てもわたしはちんぷんかんぷんですが、夫は数値を見ては、血圧が上がってるだのカルシウムやビタミンDが足りないだのと言っては、補給の錠剤を用意してくれます。

これが有難いんだかシチめんどくさいんだか。薬を飲むことにかけては怠け者のわたしです。ポルトガルのお年寄りたちを観察して、実に多くの人が色々な錠剤を食前食事中に飲むのを見ては、「あれじゃ、薬でお腹一杯になるわい。自分はあんな風にはしたくない。体調が悪いときは、できれば薬を服用せず自然治癒に頼りたい」との考えも影響するのだろうと思います。

しかし、もしかしたら、これは日本にいたときの自分がお年寄りを観察したことがなく気づかなかっただけで、日本でも同じことが言えるのかも知れません。

さて、夫が気にして「これは、朝食前に、これは夕食中に、こっちは月に一度に」と出してくれても、いつの間にその言に従わず飲んだり飲まなかったりして、叱られているのが現状です。

「最近、全く飲んでないだろ?病気があるからではなくて予防のためなんだ」と言うので、午前中の日本語教室がなかった今朝は、夫に引っ張られてダウンタウンの血液検査クリニックへ今年2度目の検査にいってきました。

12時からは日本語授業があるので、朝8時半頃に車でダウンタウンに向かいました。ラッシュ時も終わる頃だとは言え、道はまだまだ込んでいましたが、店舗が10時から始まるダウンタウンはこれから迎える賑やかな時間前の静かなひと時を装っており、ダウンタウンの通りも秋たけなわの感深く。

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検査のため朝食抜きで行きましたから、終わってからいつものカフェでカフェオレとバタートーストを注文。「二人とも完全に仕事を退いたら、こうしてのんびりカフェでの朝食もいいねぇ」などと、話しながら、座った窓際の席から向かいのカペラに目が行きました。

ず~っと昔から見慣れてきたカペラなのに、実は一度も入ったことがなかったのです。見ると、入り口は開いており日課としているのでしょうか何人かが入っては出て行きます。検査は思ったよりもずっと早く終わったことだし、昼までには十分な余裕があり、「ちょっと入ってみようか」と、今日は仕事が午後しか入れていない夫が言います。

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ダウンタウンのフラデロス礼拝堂(Capela de Fradelos)。後ろに見える緑の建物は、円形の立体駐車場です。ファサードに見られる青タイルのアズレージュ絵は、ジョルジュ・コラソ(サン・ベント駅構内の青タイル壁画の作者の手によるものです。

名の由来は礼拝堂が建築された19世紀終わりに、近辺を流れていたフラデロス川からくるとのこと。内装のアズレージュ模様「山に三つの星」を一目見て、「カルメリタ(カトリックのカルメル修道会)のシンボルだと分かりました。

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当時の古い写真

1887年、ローマ教皇レオ13世に謁見しカルメル会入会の特別許可を懇請する14歳のテレーザ。この時の願いは若すぎるということで諭されますが、2年後にカルメル会に入会し24歳で他界し、後に聖人とされます。マザーテレサはこのリジューのテレサから洗礼名を選んだと言われます。

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壁一面の青タイルが美しい。

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礼拝堂出掛けて入り口のシンプルなステンドグラスの色彩が壁に美しく影を落としているのに、ハッとさせられました。格別宗教に属さないわたしですが、血液検査時のチクリとした痛みも忘れ、礼拝堂で朝の小さな喜びを手にした清々しい思いを抱いて我が家へと帰ったのでした。

なんか今朝は得した気分だったな^^

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2016年10月24日 

この数年、欧州では「行って見たい街」のトップを飾ってきたポルトです。あらよあらよと言う間に旧市街のあちこちにカフェと土産物屋が増え、格安ペンションやレンタルアパートもたくさん現れました。

今まではヨーロッパの端っこにあって目の前がすぐアフリカ大陸だと言う、スペインの陰に隠れたような穴場だったポルトガル。それが突如として脚光を浴び、しかも首都リスボンを頭越しに、一躍訪れてみたい街のトップに踊りでたのが北部にある小さな都市ポルトというわけです。

ツーリストが多いということは、経済も潤み街の活性化につながります。長年、ポルトの魅力を、友人知人に宣伝してきたわたしも、やっと我が街が脚光を浴びることになったかと当初は喜んでいたものの、ツーリストを呼び込まんがため、街の光景がどんどん変えられて行くのを見て、あれれ?
これではせっかくのポルトが放つ「古いからこそ」の魅力が失われるではないの?と相成ったのであります。

もうひとつ気がかりなのは、ブームに乗るということは遅かれ早かれ廃れる日がくるということでもあります。わんさか増えているカフェ、レストランやホテルがその後どうなるかは目に見えています。
何しろ、ポルトガル全体がヨーロッパにある他の国と比べて人口が少ないのです。ましてポルトはポルトメトロポリタン区域(ポルトを中心とした周辺の16市を含む)を見ても180万人ほどで、ポルトの人口となると24万人です。ヨーロッパの大都市と違い、ブームが去った後に起こることは想像できると言うもの。

このブームにより一時的にでも雇用率が上がる点をよしと見るべきなのか。わたしがどうのこうのと心配してもどうなるものではないのですが、せめて今のうちに消え行くものの歴史をメモとして書きとめて行こうと思っているところです。

前置きが長くなりましたが、本日は「花通り」ことRua das floresの「Casa das Maias」について。

ポルト

随分昔から石の紋章に興味惹かれ、何度もカメラを向けてはきましたが、バロック建築のこの廃屋、ルネサンス時代、16世紀に建築された貴族Martins Ferrazの屋敷でした。後にCasa dos Ferrazes Bravos家に、そして19世紀にはOliveira Maiaと言う人の手に渡り、以来、「マイア一族の家(Casa das Maias)」として知られて来ました。

「Ferraz」の家名は現在この家のすぐ横の坂道、Rua de Ferrasにも使われています。
  
ポルト
Rua de Ferrazから見えるSéこと大寺院。
上り切ると 「Igreja da Vitória」へ続くVitória通りに出ます。

ポルト
ヴィトリア通りの古い共同水道。

写真のブラザォン(Brasáo)こと紋章ですが、調べてみると、これはマイア一族のものではなく、
Ferraz家とそのパートナーで同じく貴族のBravo家、つまり、Ferrazes Bravo両家の紋章と判明。

ポルト

屋敷は18世紀には改築され、裏のパテオにはニコラウ・ナゾニの手による噴水と礼拝堂(カペラ)があったとのこと、これは初耳なのでした。18世紀のポルトと言えばイタリアのトスカーナからやってきたナゾニの建築ブームですから、いかにもと頷けるところではあります。

現在、礼拝堂はラメゴにあるQuinta de Vale Abraãoに移動されてあるとのこと。内装もパテオも覗き見ることができないのは残念。ネット検索でもこの屋敷の画像は正面のみです。

さて、Casa das Maiasは2013年には四つ星のホテルになるとのニュースが流れましたが、今のところ廃墟のままになっています。近年のポルト観光ブームでいつ改築の工事が始まるやも知れず。
そう思い、今回は思い切って、調べてみたのですが、もうひとつ、この屋敷の両端に見られるのがこのシンボルです。

ポルト

シンボルもどきを目にすると、これはいったい何ぞや?と興味をそそられ、意味を知らずしてすごせないわたしのが性格ゆえ、次回はこの調査結果を記してみたいと思います。

本日もお付き合いいただき、ありがとうございます。
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2016年10月22日 

歩くことが好きなわたしですが、日本語教室が忙しくて、ポルトの街を散策する機会がめっきり減ったこの2年ほどです。

しかし、このまま忙しいだけではいけないと思い、今年度、この秋からは思い切ってスケジュールを変えてみました。これまで、金曜日は時に三つの日本語授業に加え、Dias先生とのポルトガル語レッスンがありました。夜は翌日土曜日の図書館での授業準備と、キリキリ舞いする毎金曜日でした。

これをポルトガル語レッスンを火曜日の午後に移し、金曜日は午前中に二つの日本語のみにしてみました。こうすることで、金曜日の午後が自由に使えるというわけです。

本当を言うと、これまでのようにメトロ駅の側に車が駐車できたら、まだ街の散策にも出やすかったのですが、2年ほど前から、いつ行っても場所が空いておらず、一度などはうっかり停めたところが、メトロ職員の駐車するところだったというので、罰金を払わされる羽目になったのです。

我が家の近くからバス路線もあるのですが、忙しい身、とてもバスで行き来するわけには行かない、というのも、ついつい街を散策する機会が減ったことの理由でもあります。

それで、いつも利用していたメトロ駅をまず変えて、車も駅の近くの有料パーキング場に入れることにしました。駐車する場所を苦労して探すのや罰金を科せられるのよりも気が楽です。

さて、図書館での授業の準備も前日に終わらせた昨日の午後、車はサン・ジュアン病院駅の側に乗り捨て、久しぶりに街を歩いてきました。

サン・ベント駅で降り、地上へ出たところが、まぁ、旅行シーズンは終わったはずなのにツーリストのなんと多いこと!そして、しばらく来ないうちに、ツーリスト相手のオープンカフェがやたら増えていました。

ポルト
 
数年前までは、こんな時期にはほとんどなかった光景です。それと、いつのまにやら、昔11月の寒いときに訪れたコペンハーゲンでよく見かけたことがある野外暖房器具、パテオヒーターと言うのでしょうか、それがあちこちで出ているのに気づきました。

う~む、と思いながら、サン・ベント駅から続く「花通り」こと「Rua das Flores」を通り、サン・ドミンゴス広場(Laogo de São Domingos)に出ると、あらら?この辺りも様子が随分変わっていました。

おいおい、これじゃオープンカフェが多すぎで、ポルトの趣が失われてるではないかいな?市長を呼べ市長を!なぁんてことは勿論申しませんが、昔のポルトの街を知っているわたしとしては、あまりの様変わりに、正直言って違和感を覚えたのであります。

ポルト

上のブティックができたあたりまでは、この区域もまだよかったのだが。
(ブティックはこちらにて案内→ 「ベルエポックスタイルのカフェ

そして、広場の角っこにある肉屋さん~、と思ってあるべき場所に目を向けると、あれ?ない?@@ 肉屋は跡形もなく消え、そこに陣取っているのはモダンなカフェ。

ポルト

この広場を中心とするかなり拾い一帯は13世紀頃にゴチック建築の「サン・ドミンゴス修道院」があった所です。広場の名前もそれから来ています。故に広場には修道院の建物の痕跡や石の紋章(ポルトガル語でbrasão=ブラザォンと言う)が今でも見られるのです。ここにあった肉屋が気に入っていたのは、入り口の上部にその紋章の一つがあったからで、ミスマッチがなんとも面白いなぁと思っていたのでした。

ポルト

紋章が取り払われなかったというだけでも、満足だと捉えるべきか。してみると、広場に面した興味深いアズレージュで覆われた文具店も、外装はそのままにしてはいるが、いつの間にかホテルと化していました。ガビ~ン、ではあります。

ポルト
サン・ドミンゴス広場

数年でのこの様変わりを目の当たりにした昨日、幾度となく写真に撮ってきた街並みではあるが、ポルトの魅力をこれまで伝えてきた古い物たちが消し去られる前にと、わたしはもう一度この周辺をゆっくり歩いてデジカメを向けることにしたのでした。

次回は、変わり行くポルトのシリーズの一編として、この周辺を案内したいと思います。

上述の文具店についてはこちらの記事にてどぞ→「サン・ドミンス広場の面白い文具屋さん

本日はこれにて。

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2016年10月17日

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長年我が家に通ってくれたベルミラおばさんが置いていったベランダの名知らぬ花
 
インターネットの世界は刺激的である。
瞬時に情報が得られるのは大きな魅力だ。しかし、色々な事件やスキャンダルを目にしては、時に大きな不安にかられたり、イライラしたりするのも事実だ。そして、もしもこのツールがなかったら、わたしのポルトガルでの日々の生活はもっと心穏やかだったのではないかと、思ったりもする。

ポルトガルに来た頃は、今のようにインターネットが一般的に普及していなかったがため、多くを知らされずに済んだのである。知らない、知らされないということは、毎日の自分の生活以外に心を乱されないということだ。

多量の情報が世界中から放たれ、それらのニュースを見聞きしてはわたしたちは一喜一憂する。
知らない方がいいと言うつもりはないが、それら多量の情報にズルズル引きずられては、イライラしたり不安になったりするのである。一度その便利さを知ってしまうと、ネット世界を自分の生活から切り離すことは、実はできそうでできないが困る点でもある。

しかし、インターネットはマイナス面もあるが、勉強したいと思う人には、格好の世界でもある。ひとつの出来事に対して賛否様々な意見を探ることができる。後はそれを咀嚼して自分がどう思うかだ。その利点に魅せられて、ネットをろくすっぽ知らないわたしが、娘の手引きをきっかけに、なんとか自分なりに使えるようになり、ネットサーフィンをし始めてから15年にはなる。ニュースにしても、かなりな日遅れの新聞を読むのとは違い、ネットで即、得る情報は臨場感があるというものだ。

インターネットの利点のもうひとつに、20年、30年と音沙汰が絶えていた友人知人と巡り合えることがある。わたしはこれまでにこの経験を何度もしている。これもまた懐かしく嬉しいことだ。

人との巡り合わせと言えば、今では古い言葉になってしまったが、チャットや掲示板、ブログ等を通してインターネット上で知り合う、「ネ友」の存在もあげられよう。そんな顔が見えないのは友達と呼べないだろうという意見もあろうが、わたしの場合、そうした経緯を経て友達になった人が現に何人かいて今も交友が続いていたりする。

なにしろ日本とポルトガルのことゆえ、簡単に「じゃ、今度一度お会いしましょうか」と言うわけにはいかないが、それが却っていいところもあったりするのである。もうひとつ、わたしは年齢を隠さないので、色目を使って近づいてくる異性の対象にはならないことだ。残念な気持ちもなきにしもあらずだが(笑)

しばらく前のことだ。10数年来のそのネ友のひとりの誕生日だった。「まちゃ、お誕生日、おめでとう!このところ、あまり見かけないけど(ネット内で)、元気にしてる?」とメッセージを残した数日後、そのご兄弟と友人だと言うひとから、「昨年脳出血で他界しました」との連絡を受けたのである。

他界?わたしの息子と言ってもいいくらい、まだ若かったではないか。プライバシーがあるので彼の個人的なことは書けないが、チャットで知り合ったころは家族と自分自身の問題を抱えていて、そこから抜け出せないままだったことも想像できる。

「ママに(ネット仲間内では最年長者のわたしは、みなからそう呼ばれていた)一度は会ってみたい。今度帰国した時は、大阪までがんばって出て行くから連絡して」「うん、そうだね。」と言いながら、結局、この3年ほどは大阪へ足を運べなかった。10数年来のネ友でありながら、一度も顔を合わさなかったのである。

わたしよりずっと若いのに、先に逝ってしまうのは失礼千万だぞ、と心中呟きながら、会ったところでわたしはどうという人間でもないが、彼に会いたいなぁと言われた年に、こちらが頑張って大阪まで行けばよかったと、会った事のない友を思い、しばらく心が沈んだ。

ずっとそのままにしてきたFBもスカイプも、まちゃ、「チャットルーム不夜城」の思い出をもう一度綴って、君とのコンタクトをそろそろ消すよ。君に別れを告げて、「ママは100までも生きると思うよ」とかつて君が言ってたように、わたしは100歳までがんばってみるさ。

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2016年10月16日 

キンタ・ダ・レガレイラをブログに取り上げてから8年になります。

今では多くの観光客が訪れ、森の中では人声があちこちから聞こえて賑やかゆえ、神秘的どころではなくなってしまいました。2008年夏にわたしが訪れたときは人影もなく、ひっそりとした森の中で我が目に入る全てのものが謎に満ちて不思議な魅力を感じたものです。

以来、まるで魔法にかけられたかのように、この森の追っかけを始めたのですが、キンタ・ダ・レガレイラをブログに取り上げたのは、日本人では恐らくわたしが初めてではないかと思っています。日本から帰省した娘と婿殿と共に訪れた今夏、6回目になります。

Quinta da Regaleira
2016年夏撮影

いつの日にか、この本(↓)を読んでから自分の推測と併せて、キンタ・ダ・レガレイラ集大成の如きブログ記事をあげたいものだと思っており、そのためにこの秋からもディアス先生と週一のポルトガル語の本を読みながらの学習を続けています。

quinta da Regaleira

将来のレガレイラ集大成記事のためのメモ、または過去記事の書き改めとして、今回も案内したいと思います。

まず、キンタ(Quinta)の意味ですが、日本語に訳せず実は困るところなのです。農園とも言えるのですが、むしろ「森」とわたしは考えています。では、レガレイラ(Regaleira)は、と言うと、これもなかなかに難しい言葉で一言で表すには、わたしの語彙力が乏しいことを認めざるを得ません。

が、「金銭に困らない、解き放された自由な精神の、魅惑的な人生」と解することができます。この森の名前は、億万長者アントニオ・モンテイロ氏の、大金持ちだからこそできたであろう、宗教から解放された自由な精神をそのまま表現していると思うわたしであります。

さて、今回行って、あら?と思ったのは入り口が変えられていたことです。少なくとも妹夫婦と訪れた2年前までは、シントラの旧市街から徒歩で5分足らず、この六芒星(ろくぼうせい)が敷かれた狭い歩道を歩いたところにあったのです。

キンタ・ダ・レガレイラ


旧入り口
キンタ・ダ・レガレイラ

それが、道を上り更に数分歩いたところにありました。この門はかつては閉め切ったままでした。

Quinta da Regaleira

8年前に一度入って「十分だ」と、この手のことには興味がない夫、「見るのに少なくとも2時間はかかるわよ」とわたしが言うも、構わないと町中のカフェで待つことにし、わたしは娘と婿殿を連れて、できるだけ2時間以内で全部を案内したいと思ったのですが。

入り口が違ったもので、歩きなれた森の中が今回はあちらへウロ、こちらへウロと、傾斜の多い森の道を何度も上り下りすることになり、いい脚の運動になりました(珍しく汗をかき、実はぜぇぜぇ言ったのでありました^^;)

本日はこれにて、次回は森の中の案内をば。
お付き合いくださりありがとうございます。

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2016年10月11日 

今日はシントラ、モンセラー、続きです。


ロンドンに生まれたフランシス・クックは、若いうちからヨーロッパやアジアを旅行し、やがて父親の後を継ぎ、イギリスで指折りの富豪になります。

19世紀半ばには、シントラのモンセラーを買い取り、インド・ムガル帝国の影響深いネオアラブ・スタイルの宮殿を作り、クック一家は夏にここに滞在しました。

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これが館の正面ですが、多くの人は森の散策を経て、バルコニーがある館の横口から入ることになります。

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7年前の訪問時にはまだ彫りかけだった廊下のアラベスク模様の壁も天井も完成していました。
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アラバスターを利用したムガール調のアラベスク模様を拡大撮影してみました。

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廊下の突き当たりは音響がきく音楽の部屋になっており、壁上部にはギリシャ神話のたくさんの女神像が飾られてある。

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ドームの天井模様は豪華で美しい。

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1949年にポルトガルはモンセラーを買い取り2010年に修繕事業が始められましたが、まだ上階は修繕が完成しておらず、全館の公開には及んでいません。

グラナダのアルハンブラ宮殿を訪れた時に、美しい、豪華だ、ついに見た!との感動と共に思ったのは、こんな豪華で緻密なアラベスク模様の館で毎日生活するのは、恐らく自分は落ち着かないな、でしたが、モンセラーの館にも同様のことを感じながら、後にしたのでした。

散策コースの出口近く、カフェ周辺にあるアルコ・インディア門。クックがインドから運んだと言われる。
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こちらは「Casa de Oedra(石の家)」↓

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散策コース終わりで見かけた大好きなコスモスの花。

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ポルトガルにはめったになく、今回初めて見ました。

本日はこれにて。

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2016年10月5日 

今日はモンセラーを休んで、ポルトガルの歴史の話です。

毎年10月5日は共和革命記念日に当たり、休日のポルトガル。この日は「1910年10月5日革命」とも言われいます。スペインからの独立を果たし、アフォンソ1世初代国王を頂くポルトガル最初のブルゴーニャ王朝から始まり1910年10月4日で幕を閉じた最後のブラガンサ王朝で、ポルトガルは王国から共和国になります。ブラガンサ王朝は、1640年のジュアン4世からマヌエル2世のその日まで約300年続きました。

そこで、王国最後の様子を、拙文で再現してみたいと思います。題して「ペナ宮殿に住んだポルトガル王家最後の王妃」、この日、ドン・マヌエル2世と皇太后、ドナ・アメリアは、シントラにある王家の離宮ペナ城にいました。

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ドナ・アメリア王妃  Wikiより。

フランス、オルレアン家出身のアメリア王妃はポルトガルのカルロス1世に嫁ぎ、2人の王子と姫を設けますが、1908年2月1日、リスボンからヴィラ・ヴィソーザに構える宮殿に帰ろうとするところを、国王一家は共和党およびメーソンのメンバーに襲われ、アメリア王妃の夫である国王ドン・カルロス1世と後継者の長男を殺害されます。

次男で後のドン・マヌエル2世(ポルトガル最後の王)が王位につきますが、19世紀後半から台頭してきた共和党主義による革命が起こります。1910年10月5日の朝、ペナ宮殿でポルトガル共和党国樹立の報せを受けた王家は即宮殿を後にして英国へ亡命。

息子である、ポルトガル34代目のドン・マヌエル2世は1932年に英国で没、母であり、ポルトガル王家最後の王妃、ドナ・アメリアはフランスに移り1951年に87歳にフランスで生涯を終えます。

第二次世界大戦中にポルトガル国から帰国の招待を受けますがこれを拒否、王妃がポルトガルの地を踏んだのは亡命から35年後の1945年です。住む主もなく灰色に色褪せた35年ぶりの宮殿に足を踏み入れたアメリア王妃は、案内人にかつての自分の部屋でしばしの間、独りにしてくれるよう頼んだそうです。

昔の栄華に思いを馳せ時代の移り変わりを身をもって感じたことでしょうか。以後、ポルトガル王家最後のアメリア王妃が母国を訪れることはありませんでした。

王家の離宮ペナ城は、1990年代に修繕されたとき、ピンクと黄色に色塗りされた宮殿を見上げたシントラ市民は大いに驚いたと言われます。何しろ、それまで見てきた城は長い間放置され色彩を失って、ドナ・アメリアが最後に訪れたとき同様、灰色だったのですから無理からぬこと。

pena

王妃の悲運に比して、今、眼にも鮮やかなペナ城は、多くのツーリストを惹き付けて脚光を浴び、蘇ったように山頂にそそり立っています。しかし、その陰にある歴史を知ってみると人の世の栄枯盛衰を感じずにはおられませんね。

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2016年10月3日  

この10月から、グループ向けの日本語教室はポルト市立図書館に移動しました。これまで教えてきた生徒たちも引き連れて、初級コースと中級コースを新たに開講しての出発です。

ここ数年、相棒のOちゃん宅の広いリビングを彼女と二人で教室代わりに利用してきたのですが、そのOちゃん一家が夏に引越しと相成り、教室がなくなってしまったのでありました^^; 新たに場所を探すにも、多くが夏休みになっており、時期が悪い。

しかも授業料は格安になっているので、私設の教室など借りたら足が出るやもしれません。ふと思い出したのが、「そうだ、図書館でのコース、5月開講申請をしていたのが、7月以降でないと教室が空かない、というので、申請にはゴーサインが出ていたのを思い出し、係の人にコンタクト。

ついでに中級コース開講もと申請したのですが、これがなかなか手間取りました。中級クラスには8人ほどいるのです。ここまで学んできて「教室ないからお仕舞い!」はないでしょう。生徒たちは私に取りもはや我が子のようなものですし、元はと言えば、このクラスは図書館の初級授業から始まったのです。

そんなこんなで、いつもなら九月初めには始めている日本語教室の目どが立たずジクジク胃痛が始まりつつあったのでしたが、先週木曜日にやっとゴーサインが出て、昨日開講に漕ぎつけました。ハレルヤ!ホンマにもう、誰のせいでもないけれど、焦ったで~。

今年は夏に入るなり、上述の教室の問題を始め、私生活ではちょっとした変化があったのでした。

30年以上も我が家に通ってくれたお手伝いのベルミラおばさんが、のっぴきならぬ事情で辞めなければならず。人の出入りが多い我が家です、出張日本語の仕事もあるので朝から家を空けることなどがあり、全部家事をやりきるのにはかなりの体力が要ります。今のわたしの年齢では無理が出る。お手伝いさん、必要です。

が、今時、家の鍵を預けて出かけるほど、信用がおけるお手伝いさんは、そうそういるわけではありません。
運よく、つてを得て、同じ通りに住む女性を夫が探し出してくれました。わたしが午後授業で家にいる日に、様子見として、しばらく彼女に来てもらうことになり、こちらもなんとか見通しがつきました。

おっと、今日のトピックと関係ない話が続きましたが、さて、今、老齢の生徒と学んでいる「百人一首」、これが今面白くてしようがない!

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今年の春だったか、少し値段がはるのとハードカバーで重いので送料も気にはなったのだが、思い切って日本に住むモイケル娘に送ってもらったのが、写真の本「百人一首」です。副題に「ねずさんの日本の心で読み解く」とあります。ここが大事なところなのだと、読み始めて分かりました。

古典をきちんと学んだわけではないのですが、高校時代から日本語の美しいリズム感が好きでしたから、古文や短歌が授業でとりあげられると、暗記してソラで言えるのが嬉しく楽しみでもありました。日本語学習者の年長者には、古文、短歌に興味を持つ人が二人いるので、機会をみては授業でとりあげます。

その一人、我が日本語塾生の最年長者、85歳のドイツ系ポルトガル人のアルフレッドさん。すでに何度も日本へ行ったことがあり、2年前には、わたしが歩いてみたいと思っていた「熊野古道」を5日間計画で友人と歩いてきた人です。先をこされた~と、悔しいことしきり(笑

その彼との授業中、百人一首の歌がるたを持っているという。いくつかの有名な歌は既に知っているようでしたが、ちょうどその日、ねずさんの「百人一首」を詠み始めたところだったので、「それでは」と、その本を持ち出し、歌の意味について少し話し合ったのでした。

実を言うと、アルフレッドさんに本を見せたのには、この本を開き、一番歌にある天智天皇の、
「秋の田の かりほの庵のとまをあらみ 我が衣手は 露に濡れつつ」

の解釈を読んでわたしはひどく興奮していたという理由もあったのです。

な、習った解釈「仮小屋の屋根を葺いた苫(とま)の目が粗いので、わたし(天智天皇)の衣の袖は露に濡れてしまったではないか」というのと、違うジャン!なのであります。

短歌、俳句もまた詩もそうですが、読み側の受け取り方が多少違うというのを踏まえても、これはあまりにも違うレベルの解釈の違いなのです。

この本によると、「わが国の最高権威であり一番尊い方が、外が暗い時刻に、粗末な庵の中で自らの手をぬらし、袖をぬらしながら、家族が使うゴザを編んでいる」と言うのです。更に続けて「作業場でゴザを編むくらいだから、おそらく天智天皇は、田植えから、他の雑草取り、稲の刈り入れなどの農作業もしていたであろう」と、あります。

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してみると、テレビで「天皇陛下が皇居の中にある水田で恒例の田植えをされました」とのニュースを見たことがあります。皇居での稲作は、農家の苦労を感じるために昭和天皇が1929年に始められ、収穫されたコメは祭祀で使われるほか、稲は伊勢神宮にも供えられるのだそうです。
ひゃ~。ということは、この天皇陛下の稲作は、7世紀の天智天皇(=中大兄皇子)の・・・・・

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この歌の真意は「上に立つ者から率先して働く、上に立つ者は常に民と共にある」というもので、それ故、百人一首の筆頭を飾る一番歌にふさわしく、千年の長きに渡り人々に愛されて続けてきたのだと言っています。目からうろこです。

解釈するにあたり、当時の時代背景の解説もあり、加えて、それまで中国皇帝が決めた元号を使っていたのが、西暦645年にわたしたちの国の最初の元号「大化」が制定された。つまり、「大化の改新」は中華文明と決別し、わが国独自の文明社会を築こうとした7世紀の大革命であったと、今まで知らなかった歴史の一部をこの歌から知り、自分の無知を恥じ入ったのでした。

さて、二番歌は女性天皇、持統天皇の御製、多くの人に知られている「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の・・・」ですが、わたしが学校で習ったのと違うこの解説もおもしろや。そして、わたしがこの歌の解説の言葉の意味を調べたりして知ったのは、持統天皇は日本書紀の最後を飾る天皇であり、その時代に、わが国で始めて『愛国』の文字が使われている」と言うことです。

絶対的王が領土領民を私的に支配し、民衆は隷民であったヨーロッパにナショナリズムが登場するのは19世紀以降のこと。日本を思う心が築いた、中世社会の姿を一大抒情詩として綴っているのが「百人一首」であり、歌の順番には明確な意図があるのだ、と明かしています。

この歌の解説を読みながら今まで知らなかった歴史まで学ぶことになり、一番歌を終えるなり「先生、自分の生存中に終えられるかどうかいささか疑問ではあるが、この本を最後まで続けて読みたい」と申し出があり、今日は、中納言家持こと大伴家持の六番歌の解説を読んだのでした。

あたかも、ミステリーを読んでいるが如くの錯覚に陥りそうな、またそれくらいの歴史知識、洞察力、鑑賞力なくしては、解き明かせない「百人一首」。知らぬ言葉や歴史的出来事もあり、色々調べながら毎週一回読むのですが、面白くて興奮しているこの頃、この調子で行くとアルフレッドさん、少なくともわたしたちがこの解説書を読み終えるのに4年はかかりそうですぞ(笑

本日もお付き合いっくださり、ありがとうございます。
では、また明日!
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2016年10月1日 

ポルトガル語ではParque(あるいはQuinta ) de Monserrateとなるモンセラーの森だが、16世紀半ばにはスペインのモンセラー修道院の黒いマリアに捧げられるとして、森の中にカペラ(礼拝堂)が造られている。

シントラ・モンセラー

7年前に訪れた時とほぼ同じ様相で、建物自体には人の手がかけられていなかったが、礼拝堂内にわずかに生えている草木の手入れをする庭師が見られた。朽ち果てていく礼拝堂の姿も栄枯盛衰の世の移り変わりを反映して趣きあり、願わくは修復せず現状のままの保存を望むのだが、果たして将来どうなるだろうか。

シントラ・モンセラー

森のコースをしばらく歩いて行くとやがて小高い丘に美しい館が見えてくる。

シントラ・モンセラー

詩人バイロン卿が滞在中にここで、「チャイルド・ハロルドの遍歴(Childe Harold's Pilgrimage)」という詩集の一部を書いた。バイロンが「ポルトガル王国で最も美しい場所、地上のエデンだ」と言った話は有名である。手元にあるバイロンの詩集を紐解いてみると、彼は1809年、21歳の時に、2年間のヨーロッパ放浪の旅に出ており、その頃、この詩の原稿を書き始めている。

「チャイルド・ハロルドの遍歴」は1812年にロンドンで出版され、当時としてはベストセラーにあたるであろう、3日間で500部が売れたとある。これにより、バイロンはたちまちにして、ロンドンに熱狂をまきおこしたのである。

また、その生涯も思想もエキセントリックだったベックフォード(William Beckford)が住んだモンセラーの森であるが、館の原型を今日の華麗なものに仕上げたもう一人の立役者がいる。イギリス人豪商、フランシス・クックである。

モンセラーの森は19世紀半ばにクックに売却されている。インドに造詣が深いクックは、朽ち果てていた館を、ペルシャの建築影響を持つインド・ムガル帝国時代(トルコ系イスラム王朝)の様式に改築しする。インドの「タジ・マハール」もその建築様式のひとつである。そして、森や庭園にはイギリスのロマンチシズムを取り入れる。
では、以下、インド系アラベスクの世界を写真でお楽しみあれ。

なだらかな芝生の丘には時を物語る巨大な木があった。

mariana
ドサクサにまぎれて、モイケル娘と婿殿を(笑)

館の裏門にたどり着き石段をのぼって、
シントラ・モンセラー

宮殿のバルコニーに  
シントラ・モンセラー

美しいアーチの窓。マヌエル建築様式も少し見られます。

シントラ・モンセラー

本日はこれにて。次回は館の内部をご案内します。

ではまた!
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