2016年11月26日 

土曜日はクリスタル公園内にある市立図書館で初級と中級の日本語クラスを持っています。10時から始まる授業は3時間をほぼぶっ通しです。

本来は一クラス終わった後に10分のコーヒーブレイクを入れているのですが、最初の中級クラスが終わると、すぐに初級クラスの生徒たちが待ち構えていたかのように入室してきます。それで結局家で用意していくコーヒーを飲む暇がないというわけです。

さて、今日もそんな具合で初級クラスの生徒たちが入って来、生徒が席に着いたところで、「みなさん、おはようございます。」の挨拶で始まったクラスですが、すぐ、質問が出ました。

「先生、オイランってなんですか」
「んん?オイランとな?」

どこでそんな語彙を仕入れてきたのだ?最少年齢15才の生徒もいるので、一瞬、どないしようかと心中思わなかったわけでもないが、少しはその知識があったので、手っ取り早く説明することにしました。こういう時、大衆時代劇の知識は却ってジャマをするなぁ、なんてエラそうに(笑)

オイランとは江戸時代の吉原と呼ばれた区域にあった遊郭の遊女のことですね。今で言えば高級娼婦とでも言えましょう、と、何年か前に、子どもたちと訪れた日光にある「江戸村」でオイラン劇を見た経験もあり、自分の知るポルトガル語をあれやこれやと使って、なんとか説明したのでした。

江戸村5
2009年に行った日光江戸村にて。


で、件の質問した生徒に、「これでいいですか?」と確認すると、「せ、せんせい。意味がなんかちがいます。オイラン、オイラン、オイラ?」
えーーーー!オイランじゃなくて、オイラなのん? それならそうと、ちゃんと言ってよぉ、ティアゴ君^^;
と、自らの早とちりを棚に上げて、生徒たちを目の前に思わず吹いた今日の教室でした。

時折、生徒から思いもよらぬ質問が出たりするので、こちらからすれば、いかがなものかと多少思うようは言葉も知っている範囲で極力説明するように努めるのですが、オイラとオイラン、参ったなぁ(笑)

思い出しては可笑しくなって一人クスクス笑いながら車のハンドルを握る自宅への帰路、我が家の近くの消防署がある並木道の紅葉が美しく、道端に車を停めてカメラを向けた土曜日の午後でした。ポルトも近年は紅葉する木々が増え、季節感がない街だと思った昔がまるで嘘のようです。

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本日はこれにて。
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2016年11月22日 

何気なく目が覚めて枕もとのデジタル時計を見ると、まだ朝5時前でした。

一度目が覚めると寝付かれなくなる性分です、二日降り続いた雨も止んだようだし、星でも見てみるかと起き出して、台所のベランダの大窓を開けました。窓から体を半分乗り出して空を仰ぐと、ひんやり澄んだ空気が肌に触れ、頭上にはくっきりとオリオン星座が空を陣取っていました。

昨夜寝る前に、ケータイをオフにするのを忘れたことを思い出し、リビングに置きっぱなしのケータイを手にすると、メッセージの青いサインが点滅しています。見ると、息子からのもので、「地震大丈夫。東京はたいしたことなし」とあります。

え!と思いすぐパソコンをつけてニュースを読んだのですが、みなさまのところは、大丈夫でしょうか。
「のど元過ぎれば熱さを忘る」「震災は忘れた頃にやってくる」と諺もあります。いざと言うときの準備を日頃からしておくように、大事な書類はまとめてすぐ手の届くところに、また非常時リュックも点検しておくようにと、改めて子どもたちに注意を促したところでした。

娘には、いざという時に、何はともあれ持ち出すであろう、3匹の飼い猫の運び方も訓練しておいたほうがいいと言う必要があるような・・・ネコのキャリーバッグは用意しているらしいが、いざ、3匹を場合によっては一人で持ち出さなければならないこともあり得ますもんね。

さて、ネコの話ついでにわたしが近頃気がついたネコについてのことを、メモしておきたいと思います。
拙ブログには何度か登場してもらってる、近所のジョアキンおじさんの畑の野良猫たちですが、そのネコたちの餌運びを朝晩し始めてかれこれ10年にもなるでしょうか。

一時は10匹をも超える数の野良猫たちが畑に住み着き、我が家の5匹ネコよりもはるかに多いエサを作ってはせっせと運んだものでした。できればカリカリエサが買出しにも、持って行くのにも楽なのでそれにしたかったのですが、当初、猫たちは食べませんでした。

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黄色と黒猫ちゃんは保護されて、引き取り手が見つかったと聞きます。矢印の黒猫ちゃんはわたしに因んで「Yoko」と日本名が付けられたそうです。

そこで、朝はカリカリエサ、夜は猫缶という風にして徐々に慣らそうと考え、やっと数匹がカリカリエサを食べるようになっていたのでした。

2年ほど前から、動物保護ボランティアの人たちが、ジョアキンおじさんの畑をコロニーとしてネコを捕獲し、去勢手術を施しては子猫以外は再びここに返して置いて行くのでした。成猫は引き取り手がいないからです。コロニー(Colony)とは、同一種の生物が形成する集団、もしくはその集団が住み着く特定の場所のこと。方耳の先が少し切られてあるネコは手術済みの印です。

ジョアキン猫2
一時期黒猫の時代であった。

最初は、これ以上、畑に住み着くノラ猫を増やさないためにいい方法だと思ってきたのですが、この数ヶ月でノラ猫の数があっというまに減ったのです。夏には、食事の合図で集まるネコが4匹になってしまいました。そうしているうちに、この頃、見かけないなぁと思い、ジョアキンおじさんに聞いてみる一匹は交通事故に、もう一匹は畑で、もう一匹はまだ見かけていない、というので、とうとう赤トラちゃんが一匹になってしまいました。

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残ったのは左の赤トラちゃんだけ・・・

可哀相に一人ぼっちです。雨と寒さしのぎのために、屋根付きトイレを買い、中にクッションと毛布を敷いてそれをおじさんの庭にある大きなドラム缶の中に入れました。赤トラよ、夜はここで寝るんだぞ、と言い聞かせています。

思うのです。こうして去勢手術をするのはいいのだが、今や室内猫たちもその手術をさせるわけですから、気がつけば猫の人口がバッタリ減ってしまって、わたしたちが猫という動物そのものをめったに目にすることがなくなった、という日が遠からずくるのではないか、と。それは犬にも言えます。

思えばポルトガルに住んで38年になりますが、最初の3年程を除けば、わが家族はワンちゃんや猫たちが常に一緒におり、フラットに移る前の古い家には庭があったので、台所のドアは開けっぱなし。猫たちはいつでも自由自在に出入りできる状態でした。

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他の猫達に一目置かれていた「たんぽぽ」

気位の高かった真っ白いメス猫の「たんぽぽちゃん」は、そんな具合でしたから3回ほど子猫たちを産みました。3回目には、さすが、「いい加減、止めておくれじゃない?たんぽぽちゃん!」と文句をたれたものです。

貰い手を見つけるのに苦労しましたが、なんとかなり、あとはそれぞれの子猫、子犬たちの幸運を祈るのが精一杯でした。その頃は飼いネコたちに去勢手術を施しませんでしたが、今のフラットに引っ越した祭に、「これはまずいかも」と言うので、当時、病気だったたんぽぽちゃんを除いては全員手術をしたというわけです。

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たんぽぽの子猫たち

ジョアキンおじさんの畑も当時は今の2倍くらいの広さで、いったい何匹の猫がいたことでしょう。正にノラ猫たちの天国と言えたような気がします。室内猫は外の世界を知らないまま一生を終えるのですね。

我が家の5匹猫のうち、4匹はそうです。盲目のゴンタだけは、前の家にいた時から外を自由に歩き回り、フラットに移ってからも目が見えなくなるまで、毎週末には1時間ほど、外へ出していました。必ず帰ってきては、外でわたしたちを呼んだものです。他の4匹は子猫でフラットに入りましたから、外出は無理です。

時代が変わり人間の生活様式も地面から上に住むことが多くなりました。ノラネコたちに去勢手術をするのが、果たしていいことなのか。人間が他の生物の生態の変化に大いに関わっているのだと深く思い知り、少し沈んだ気持ちのここ数日です。

そうそう、ジョアキンおじさんの畑の住人ではないのですが、春先から許可を得て、ジョアキンおじさんの庭に毎夜食べにくる猫がいます。
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これは5月ころの写真です。面魂がすごいでしょ?決まった時間に必ずわたしを、いや、エサを待っております。エサをあげ始めて6ヶ月になる今、少し痩せていたのが、現在はぷっくぷく。毛もふわ~っとなり、なかなかに見事なライオンのような成猫になってきました。

この猫は一度も猫らしい鳴き声を発したことがなく、てっきり鳴き方を知らないのだと娘にも話していたら、なんとまぁ、ついしばらく初めて「ニャ~」と鳴いて足元に体を摺り寄せて、ついでにパシッと引っかいていくのであります。危なくてスカートなど履いていけません。ものの本によると、ノラ猫が心を開くのに4年かかったという話もあります。なるほどなぁ、と、こやつを見ていると頷けることではあります。

我が家の一番若い猫ゴロー君が8才ですから、最高20年生きるとして、見送るまで後12年はわたしも頑張らないと。猫たちにして見れば、「エサ運びがいなくなる日」が、一番怖いところでありましょう。

今日は病上がりゆえ、ダラダラと書いてしまいましたが、ご勘弁。猫の話でありました。

下記は、ジョアキンおじさんの猫たちについての過去記事です。興味あらばどうぞ。

「ジョアキンおじさんの、鍵、貸します」
ジョアキンおじさんの猫たち


では、みなさま、また!
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2016年11月18日 

時折ふっと、後10年若かったら、日本語教室もボランティアの影絵ももう少し形作ることができるだろうなと、せん無いことを思ったりします。
後10年若かったら、と、後10年あったら、とは体力の有無の面で大いに違うのです。それらをもっと早くに始めればよかったのではないか?と問われるかも知れませんが、物事を始めるには自分が気づかない好機があるとわたしは思っています。

そうしてみると、わたしの好機到来はいずれも遅い。遅咲きがわたしの人生を飾ってきたようなものです。
ビアハウス歌姫のバイト話が舞い込んだのが28歳、一念発起してアメリカへ行ったのは31歳で、結婚もわたしの世代からすれば遅いと言える32歳です。補習校初代講師の依頼が来たのは40歳を目前にしたころで、大学卒、院卒の人たちが周囲にたくさんいる今では、高卒のわたしにくる話ではありません。まぁ、言ってみれば他に人材がいなかったのでわたしに話が来たということです。

引き受けるにおいて、高卒でいいのかと勿論確認はしましたが、子どもたちの学習を見ることが、意外や、わたしの性に合っていました。わたしの教室の原則は、日本語教室もそうですが、「基本を楽しく学ぶ」です。基本以上のことを学びたいとなったときに、専門の先生につけばいいのです。

補習校8

22年間に渡る補習校での経験を活かして、今度はポルトガルの人たちに日本語を教えられないか、と考えたのが、土曜日の日本語教室につながりました。前年2010年のポルト市と国際親善協会の共催で催された「ポルトJapan Week2010」のコーディネーターをしたのがきっかけで、市立図書館での日本語教室オープンにつながりました。

このコーディネーターを止む無く引き受ける羽目になったのが、ちょうど補習校を退いた後の63歳のときです。ほぼ1年間を通して一週間のポルトの街を巻き込んだ大規模なイヴェントに関する市と協会とのやりとりは、かなりの体力を消耗しぶっ倒れる寸前まで行きましたが、相棒のOちゃんの助けがあり、なんとか無事やり終えました。わたしとOちゃんの仕事は表にでない黒子なのです。
この仕事で、無様なポルトガル語も英語もなんのその、心臓に毛を生やすことも時には必要なのだと学びました。振り返ると今でもよくぞできたと冷や汗をかきます。補習校の仕事をしていたら、とてもできないことでした。

イベント開催日にはサングラス、もしくはめがねをかけなければならないほど、目のクマがひどかった。

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ポルト市でのオープニングセレモニー。当時のルイ・リウ市長。

当時の市のスタッフとの交流があり、日本語コースを開いてみないかとの話がもちあがって、市立図書館での日本語コースが開講されましたときは、64才になっていました。

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日本語開講最初の年。時に教室が使えず、図書館の隅っこを利用。これはこれで開放感がありなかなかなによかった^^

教室の原則は上述したように、「基本を楽しく」そして、授業料を安く設定しました。事情がある生徒はわたしから無料という奨学金が与えられます。そうして始まったYY-日本語塾はあしかけ6年になります。

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毎年春に開かれる生徒全員集合のNihongo wo Hanasu Kaiパーティー。

その間、数年はOちゃん宅を教室にして、図書館とOちゃん宅の二クラスを行き来すると言う状態がつづきましたが、今年は図書館で初級、中級の二クラスを開いています。

さて、近頃は夜間コースがないのか、との問い合わせが増えました。また、ポルトから遠く離れた町に住む人からの問い合わせもあり、これをなんとかできないものかと対策に頭を悩ませています。ポルト大学文学部に夜間コースはあるのですが、年間授業料を一括して払うのには、今のポルトガルの世の中、厳しい人もいるでしょう。

古希にしてもう一踏ん張り、夜間コース開講に持ち込むか、Oちゃん、後を継いでもらえるかな?
と、思索しているのですが、実は火曜日から風邪でダウン、こうしておられんわ、エイヤ!と昨日起き出して、夫の止めるのも聞かず、某企業の日本語、自宅での個人授業を午後ふたつ終えるや否や、ぶっ倒れて寝ていたのであります。

よって、古希の昨日の誕生日は、夕食なし、お祝いなし。あっはっは。夫からもらった真っ赤な大輪のバラの花は、花好きのゴローが食べかけておりました。

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やっぱり、体力的に後10年、若返りたいな、と思う次第ではあります。

ブログ書いてる元気があるやん?はっはっは、寝てばかりだと背中が痛くなるのであります。この風邪を抜け出して、これからがんばろっと!

本日もお付き合いくださり、ありがとうございます。では、また!
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2016年11月16日 

大切な子どもが二人います。異国で二人の子育てをしながら多くを学んできました。子育てから特に忍耐力と前向きの姿勢で生きることを培うことができ、彼らと共に自分も成長してきたと思います。子育ては自分育てだとわたしが言う所以です。この子達がいなかったら、わたしの今日はポルトガルになかったであろうかと時折思ったりします。

ポルトガルに生まれ育ち、息子はポルトガルの大学卒業後、モイケル娘は高校卒業後、二人とも母の国である日本へ向かって以来、むすこは8年、娘は12年の滞在になります。夫婦二人の生活になり、家族4人が住めるようにと求めたフラットが一時はだだっ広く感じられましたが、彼らの部屋にはわたしの日本語関係の本や、影絵作成の資料等が占領し、今では子供たちが帰国してくるたびに、それらを別の場所に移動するのでおおわらわです。

その二人のうちモイケル娘が、先だってこれまでのMMSだった頭文字をMMIに変え、お嫁に行きました。頭文字が三つあるのは、ファーストネームが二つあるからです。

去る4月にはあちらのご家族に会い、9月に、娘は婚約者を伴ってポルトに戻り、シェラトンホテルでポルトガルの近しい親戚と顔合わせしました。そして、ポルトガル南部を、言うなればハネムーンともいえるのですが、娘たちとわたしたしたちとで旅行しました。
なんのことはない、遠い昔にわたしと夫が、広島大学病院で夫が親しかったドクターと3人でポルトガルでハネムーンをしたのを思い出し、娘も似たようなことを繰り返しているのが、おかしいったらありませんでした。

今日はモイケル娘の成長を写真を通じて振り返ってみたいなと思います。言うなれば親バカさせていただきます。写真については、こうして掲載するのが少し気になるところもあるのですが、当ブログも気が付けば足掛け11年。ブログを通して長い間、お付き合いくださっている方たちもおりますので、二日ほどで大人になってからの数枚は削除しますが思い切って掲載することにしました。

子どもたちの色々なハプニングはブログ左メニューのカテゴリ、「家族ねた」や「帰国子女ねた」「バイリンガル物語」「ポルトガル日常生活ねた」または、別サイト、Spacesisのホームページに綴ってありますので、興味のある方はそちらの日記へどぞ。

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息子と娘5月の明るい日に生まれました。      

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生後3~4ヶ月。

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日本人の友達と遊ぶのが本当に楽しかったみたいです。表情に溢れています。
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大好きだったポピーと
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少し大人っぽくなってきたころ。  
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ポルトの土曜日だけの日本語補習校小学校卒業です。

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たった一人の習校中学部卒業生。

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18才、ポルトの空港で。そして、とうとう日本の大学入学を目指して日本へ飛び立ちました。

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大学入学後、夫がとうとう娘に会いに一人で日本へ(笑)初めてのことでした。

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東京で一人暮らしの時代。

これからは独身時代とは違った苦労があるでしょう。でも、持ち前の「エイヤ!」という前向きの気持ちで良く生きてほしい。おっかさんこと、わたしがHPやブログで綴ってきたことが、いつの日にか何かの役に立つとしたら、本当に嬉しい。
ありふれた言葉ですが、娘よ、おっかさんは感無量です。結婚おめでとう。
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2016年11月13日 

さて、1978年にアメリカで出会った歌が「Send in the Clowns」だということを発見したと書いたのは前回。今回、舞台はアメリカからケンブリッジに移っての歌の話です。

ケンブリッジはわたしにとり、初めての外国でした。1975年6月で、大阪のOL時代です。一ヶ月の語学留学でしたが、ローンを組んでの借金でした。オフィス勤めでしたから一ヶ月の休暇をとるのに多少苦労しましたが、持ち前の度胸で東京本社に「給料は要らないので一ヶ月の休暇をくれ。仕事は同僚と話をつけてある」と直談判し、会社創立以来、一ヶ月もの長期休暇をとった最初で最後の社員でした。

で、その休暇で何をしたかというとローンでイギリスのケンブリッジ・ホームステイの語学留学をしたのであります。

この頃はビアハウスの歌姫バイトはしておらず、もう27歳になっていましたが、日頃から独学していた英語、どうしても本場に行って見たいとの思いが強く、思い立ったらぶつかるのみ、の性格です。そうやってゴネて借金を作り出かけたケンブリッジ語学学校留学でした。

今から40年以上も昔のことです。現代のように多くの人が海外旅行をしている時代とは違い、なかなか勇気のいる決断でした。乗ったフライトもほんとにひどいアエロフロートでしたしね(笑)

ケンブリッジ1975
コースで同級生だったスイス人のブリジット。キングス・カレッジにて。

さて、成田空港はまだない時代で、男女6、7人の留学グループが羽田空港に集合です。中の一人に同年輩で九州宮崎からの女性が母親に見送られて来ていました。彼女とは留学中に仲良くなり、帰国して後は宮崎で当時のボーイフレンドであった現夫もいっしょに、お世話になったこともあったのですが、その彼女が聞かせてくれた話。

空港であなたを見かけた母が、「しっかりしていそうなあの人にくっついて行けば間違いない。安心だ」と言ったのだけど、友達になって分かった。どこがしっかりしてるのよ~。おっちょこちょいそのものじゃない。がはははは!・・・・・・・・・・^^;

すぐ化けの皮がはがれるのも、わたしである。いや、もともと、「しっかりしている」化けの皮を被っているつもりが本人のわたしにはなく、それは人様が勝手にわたしと言う人間を買いかぶってしまうのであって^^;なんともやっかいな話ではある。

6月、大学は休暇に入っており街にはケンブリッジ大学生の姿もなく静かで、わたしのそこでの生活は女の子が二人いるイギリス人家族の家でのホームステイでした。その時初めてイギリス人の食卓が随分と質素だと言うことを知りました。そして夕食のメニューのほとんどは鶏肉と茹でた野菜類でした。小食のわたしが、ホームステイ先での食事では足りなかったのでありましたっけ(笑

ケンブリッジ1975

写真のように市やスーパーマーケットで小さなりんごを買い置きしては、夜、部屋でそれを食べて腹をふくらましたものです。
前書きが長くなりましたが、Judy Collinsの歌に出会ったのは、このホームステイ先でした。週末をリビングでのんびり過ごしていたホームステイ先の夫妻といっしょにわたしも同席していました。この時、ミセスがかけてくれたレコードが「Amazing Grace」だったのです。

この歌はわたしの心に深く残り、この後1年後に始めたアサヒビアハウス歌姫バイト先で知り合ったキャセイ航空のクルー仲間とのおしゃべりの祭にこの歌が話題に上り、その中の一人が、楽譜を探し出してイギリスだったか香港だったかから持ってきてくれたのでした。

ビアハウスで歌ったのかって?と、とんでもござらん。飲む席で賛美歌など、バチがあたるというもんでしょう。ギターを弾きながら一人家で歌っていたのであります。

1970年にJudy Collinsが歌って大ヒットしたのだそうですが、これはイギリス人の牧師、ジョン・ニュートンが作詞した賛美歌だということを後に知りました。18世紀半ば、奴隷貿易に携わり富を得ていたニュートンは船が嵐に遭ったとき、生まれて初めて真剣に神に祈り生死に一生を得ます。やがて牧師になり、後に奴隷廃止法案をイギリス国会で進めたウイリアム・ウイルバーフォース(William Wilberforce)は、このニュートンの影響を受けています。映画「Amazing Grace」では、政治家ウイルバーフォースの奮闘が描かれています。

Judy CollinsのAmazing Graceを見つけました。


最後におまけでケンブリッジ語学留学時、週末を利用したロンドン見学の当時の写真をば。

ケンブリッジ1975
 
ロンドンの安宿B&B宿泊。いやぁ、ここ、部屋の状態がひどかったなぁ。ロンドンの町をただひたすら歩き、目には見えなかったけれどスモッグのせいでしょう、一日の終わりには手足の爪が黒くなったものです。

ケンブリッジ1975

当時から歩くのが好きだったわたしが同伴した上の彼女に言われた一言が、「もうあんたとは一緒に観光で歩きたくない・・・疲労で足が死ぬよ」で、ありました。

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2016年11月9日 

昨日の朝は起きて一番にパソコンに直行、アメリカの大統領選結果はどうなったかとウェブ新聞をクリック。思わず画面に跳ねた文字「トランプ」に、うわ!と驚き、まだ寝入っている夫のところへ行き、「トランプだってよー!」と、叫んだしだいであります。

いえね、自分の国のことではないのだけれど、その昔はアメリカに憧れて一念発起、都会で女一人暮らしをしながら、渡米の資金作りのためにオフィスとビアハウスの歌姫バイトで骨身を削って、ついに渡米。結局は、現夫と結婚するが故に移住とまでは行かず半年ほどお世話になった国です。それ故、何かと気になる存在なのであります。

好き嫌いは別にして「やはり次期大統領はクリントン氏であろう」と予想していたものですから。
トランプ氏に対しては毎日のようにこちらのテレビでキャンペーン中の歯に衣着せぬ暴言如きを目にして、これはいかんがな、大統領としての品格に欠けていそうやなぁ・・・と心中思ってきたのです。ポルトガルではTempestado(テンペスタード=暴風雨)をもじって「Trunpestado(トランペスタード)」などと言われているトランプ氏、果たしてこれから先、世界にどんな旋風を巻き起こすのか、心配でもあり楽しみでもある複雑な気持ちです。

「Change」を売り物に座に着いたオバマ大統領が、恐らく彼の思うどおりには行かず、大きなチェンジをもたらさなかったのと同様、トランプ大統領になっても案外大変化がないということもありえます。

さて、昨日はネット内でちょっとした出会いがありました。出会いと言っても、相手は人ではなく音楽なのです。1978年、アメリカのアリゾナにいた時に、蚤市だった、かどこか野外で耳にした曲なのですが、メロディーの美しいのに惹かれたものの、曲名が分からない。歌詞も聞き取れず「crown」 もしくは「clown」だけが検索のキーで(rとlの聞き取りは今でも弱点なりw)、以来探し続けてきたのです。

それがついに見つかった!



美しいこの曲は1973年にブロードウエイで上演されたミュージカル「A little night Music」の中で歌われたのだそうで「Send in the Clowns」だと言うのです。このミュージカルは1977年に映画化されたとありまるので、ちょうどわたしが渡米した時期と重なります。

映画はどうやら日本での上映はなかったようです。出演がエリザベス・テーラーでYoutubeで彼女が歌うのを初めて聞きました。歌は名だたる多くの歌手が歌っていますが、わたしが初めて耳にしたのはエリザベス・テーラーではありませんでした。
わたしは音感がいいので(と、自分では思っている)、このメロディはすぐおぼえました。

この先自分の人生はどうなるのかと不安を抱えながら、広島とツーソン、遠く離れた当時の恋人(現夫)を思い、よくこのメロディを心の中で奏でていたものです。上記のはイギリスの歌手「Judy Collins」ですが、彼女は1977年にこの歌をリリースしていますから、アリゾナで耳にしたのは恐らくこれでしょう。

「Judy Collins」の名を目にし、思い出したことがあります。この人の楽譜をわたしは持っているのであった、と。玄関ホールの娘のピアノの下にある埃をかぶった楽譜類の中に色褪せたそれを見つけました。

Amazinggrace

なんて懐かしい。Judy Collinsの「Amazing Grace」です。この楽譜にもいきさつがあるのですが、それはこの次にまわしましょう。
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2016年11月6日 

12月のボランティア、市立図書館での影絵上映の作品の切り絵作業を、娘の部屋でする昨今。部屋そのものは大きくないのだが、ベランダがあるので部屋が明るく開放感があり、娘がいない今、ここで勉強や作業をしている。

丸いテーブルに座って作業していると、何かの拍子に向かいにあるソファの背もたれにはべる縫いぐるみの「クラウディウ」に目が行く。

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昨日は作業の手をしばし止めてクラウディウに近づきつくづく眺めてみた。このクラウディウは、もともと
息子のものだった。

現在日本に住む息子が、まだリスボンにいた頃のこと、クリスマス休暇でポルトに帰省した息子、翌春の日本行きの準備でリスボンのアパートにある持ち物の整理をし始め、その日は、わたしのお下がりの赤いオンボロFIATに荷物を詰め込んでの帰省だった。

途中で車が故障しないかと気をもんだが、夜無事に到着、荷物を家に運び込んだあと、ぎっしり入っている大きな袋からはみ出た茶色いものが目に入った。

はて?と思い引っ張り出して、それがなんだか分かった一瞬、わたしは大笑いしてしまった。それは写真の犬の縫いぐるみの耳だったのだ。息子よ。あんた、まだこのクラウディウ持ってたんか~~

息子が5歳くらいの時だ、Tio Zeこと「ゼおじさん(独身でアーティストの夫の兄)」から贈られた縫いぐるみの人形で、わたしたちみんなはこれを「クラウディウ(Claudio)」と呼んでいた。

「クラウディウ」と言うのは、息子がまだ生まれる前からいた、野良犬だったのをわたしが手なずけて、義母が渋るのを無理やり頼んで、夜寝るときにだけ家の中に呼び込み、ねぐらを作ってやった半飼いしていた牡犬のことだ。

縫いぐるみを息子に贈った義兄も、この色具合がクラウディウによく似ていたがゆえに面白がって買ったのであった。

ポルトガルでは一般的に、赤ん坊に縫いぐるみの人形をたくさん贈る。子供のベッドの上には日中、これらの人形がきれいに並べられるのだが、わたしの二人の子供たちも贈られたたくさんの縫いぐるみを持っていたものである。

成長するに及んで、少しずつ人に差し上げたりして、残ったのがこのクラウディウであった。大学入学でリスボンへ移るときに息子は遊び心でに一緒に持っていったようだ。思うにきっとアパートに遊びに来た友人たちと、クラウディウを投げたり足枕にしたりして遊んでいたのだろう。それきりわたしはこのクラウディ人形を忘れてしまい、こうして再び我が家に戻ってくるとは思いもしなかった。

今やもう30歳くらいの縫いぐるみクラウディウ、よく見ると、人形なのになんだかやけに歳取ったように見える。それだけではない、こうしてベッドに置いてみると、人形とは思えないほど表情が寂しそうではないか・・・

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全体もずず黒くなっており、ところどころ破れて中のスポンジが見えている。この月には古希を迎えるわたしである。思わず「お前もわたしと同じように歳とったんだねぇ」と感慨深い気持ちに襲われた。

スマホで撮影していると、ネコのペトがやってきて、「なんだ、コイツ」とでも言いたげに、しきりにクラウディウの匂いを嗅いでいる。

claudio

どれ、年季の入ったクラウディウの、今日はほころびをなおしてあげようか。

下記はクラウディウの思い出話です。よかったらどぞ。

「我が心のクラウディウ」

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2016年11月4日 

今日は、つい先だってこちらのテレビニュースで流れた「ガロ」の話です。
ポルトガル通には「ガロ」で通じますが、知らない人のために拙過去記事引用でちょっと説明をば。

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↑これがガロ(ポルトガル語でgalo)、一般的にガロと言えばこの雄鶏の人形のことです。

―ここから過去ログ引用
ガロ」が世にでたのは、1966年にイギリスで行われたワールドサッカーのイギリス対ポルトガル戦の準決勝時です。このガロはポルトガルチームのマスコットとして登場、準決勝では惜しくもイギリスに下され、三位に甘んじたのですが、それでもワールドサッカーでポルトガルが上位に躍り出たのはこの時が初めて。

大喜びのポルトガルチームは会場でマスコットのガロを掲げ、以後、これはポルトガルの象徴となったのでした。ちなみに、この時のワールドサッカーの得点王は、故ポルトガル選手、Eusebio(エウゼビウ)なのです。

ガロはポルトガルでは「真実の証、バルセロスの雄鶏」として知れらています。
バルセロスは地理上ではポルトの上部、ミーニュ地方にあり、当地ポルトのサン・ベント駅から約1時間ほどでいくことができます。「真実の証の雄鶏」には、昔から次のような伝説があります。

バルセロスは今でもそうですが、ポルトガルからサンチアゴ巡礼をする時の中継地になり、この話は16世紀のこと。

ある日、この地に一人のガリシア人が通りかかり、宿をとります。ちょうどこの当時、町では盗みが横行し、なかなか泥棒がつかまらない。なんの因果でか、このガリシア人に容疑がかかり逮捕されます。
男は無実を訴えるのですが誰にも信じてもらえず、とうとう絞首刑を言い渡されます。

聞き届けられる最後の願いとして、男は自分にその判決を言い渡した裁判官を訪ねたいと言います。
町の名士を集めて宴を開いていた裁判官に男は再度自分の無実を訴えますが、居合わせた誰もがこれを聞いて信じはしませんでした。

テーブルの上に載せられている丸焼きの雄鶏のご馳走を目にした男は言います。「明日の朝、刑に処せられる時、わたしの無実の証として、この丸焼きの雄鶏が鳴きだすだろう」これを聞いた人々は大笑いしますが、それでもその雄鶏の丸焼きのご馳走に手をつけないで、明朝まで置いておくことにします。

翌朝、処刑の時間が来たとき突如として、テーブルに載っていたご馳走の雄鶏が起き上がり、「コケコッコー!」と鳴いたのでありました。裁判官は即座に男の無実を悟り、自分の判決を翻したのでした。

数年経ち、ガリシア人の男は再びバルセロスに立ち寄り、自分の信仰に応えてくれた聖母マリアとサンチアゴを讃えるために十字架を掲げる石碑を建てたということです。その石碑は現在もバルセロスの町に残っています。

と言う訳で、これがガロが「真実の証」と言われる所以なのですが、色鮮やかなバルセロスのガロは、現在ではポルトガルの土産物屋では、飾り物、栓抜き、テーブルセンター等等、色々なものにこのデザインが使われ、サイズも大小様々です。

そうそう、日本では恐らく一箇所、このバルセロスの雄鶏の一番大きいのが、所沢市小手指の北中小学校で、見られるかもしれません。なんとならば、昔、我が息子が小学校2年生の時に、北中小学校で約1ヶ月間、海外からの体験入学生として受け入れていただき、そのお礼にと、わたしが置いて来たものなのです

―引用ここまで


さて、このガロですが、Pop Galoとの名前をもらい、今月6日から月末Mまでリスボンのテージュ川沿いにお目見えするとのこと。17000枚のアズレージュと16000のLEDからなり、高さ10メートル、重さ4トンの大きさ!

joanavasconcelos

このガロを手がけたのは、いまやポルトガルのビッグアーティスト、Joana Vasconcelos(スザナ・ヴァスコンセーロス)です。彼女は2005年のヴェネツィア・ビエンナーレでデビューし、現代美術アーティストとして脚光を浴び、以来、パリ、モスクワ、サンパウロなど、各地で作品展を開いてきました。

彼女の作品を検索して、あれ?実際に見た事があるぞ、と思われたのにこのオブジェがあります。

joanavasconcelos
2012年にベルサイユ宮殿での展示会にて。Pavillion de Thé.

さる6月に行ったコインブラにある「子供の国(Portugal dos Pequenitos)」の庭に置かれていたのでした↓

joanavasconcelos

パリで生まれ、ポルトガルで創作活動をしているJoana Vasconcelosの作品をいくつかネットで拾いましたので紹介します。

joanavasconcelos

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最後に、ご本人です。

joanavasconcelos

今日の画像はコインブラのを除いては全てWikiからです。

本日はこれにて。

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2016年11月1日 

毎年のことですが、 10月最後の土曜日にポルトガルは夏時間から冬時間に移行します。どういうことかと言うと、時計の針を1時間遅らせて、これまで12時だったのが11時になり、日本との時差も8時間から9時間になるのです。

それが先週末に行われ、今日はカトリック教会の祝日、「Dia de Todos-os-Santos(全ての聖人の日)」で休みです。同時に1755年11月1日に大地震がリスボンを襲った日でもあります。

何度か拙ブログで取り上げてきた件ですが、再度、四方山話としてアップしたいと思います。

地震はマグネチュード8.7を記録し、リスボンの街はほぼ破壊。当時の街の人口30万人のうち、9万人が犠牲になったと言われます。強度のこの地震は、南フランスや北アフリカでさえも揺れが感じられたと伝えられます。

地震の被害がかくも大きくなったのには、次の理由が挙げられています。
「聖人の日」の前夜から習慣として、多くの家や教会ではロウソクの灯が灯されていました。更にこの日は非常に寒かったので、各家庭では暖炉の火を炊いて家で暖を取っていたそうです。

常日頃から、日本に比べてポルトガルのいい所は、何と言っても地震がないことだとわたしは思ってきたのですが、地震を予期するなどいったい誰ができるでしょうか。1755年午前9時45分頃、地震はそれまで何の前触れも無く、突然リスボンの街に襲いかかり、石造りの建物からはレンガや石が人々の頭上に降り注ぎ、「聖人の日」のこの朝、ミサのため多くのに教会来ていたたくさんの人が崩れ落ちた教会で生き埋めになりました。 

ポルトガルは大西洋に面した海洋国です。海がすぐ目の前のリスボンは高さ20メートルの津波に襲われ、地面が裂け、その地割れが水を、風を蒸気を呼び、被害を更に大きくしました。
これは3日間続き街の85%が崩壊し、壊滅状態になりました。

この時、かろうじて残った一画が、今では観光地となっていて中世のたたずまいとその狭い路地に家々が密集しているアルファマ地区です。
       
リスボンの街はこの後、ドン・ジュゼ一世王の命令でポンバル公爵によって再建されるわけですが、Convento do Carmo(カルモ修道院)を代表とするいくつかの建物は、この惨劇の象徴として、手を加えられることなく当時のまま保存され今に至っています。

因みに、地震はポルトガル語で「Sismo もしくはTerramoto」と言います。Terraは地球、土地、 moto=運動、運行の意味があります。下の画像は2014年に訪れたときのカルモ教会です。
carmo1[1]

また、興味あらば、下記の関連記事がありますので、どぞ。

リスボンのアルファマ区域
リスボン大地震の爪あと:カルモ教会


本日もお付き合いくださり、ありがとうございます。


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2016年10月31日 

今年は個人的に色々な変化があり人生のターニングポイントだな?と少し気を引き締めています。

数えで行くと、わたしも齢70であります。故郷弘前では同窓生たちが「古希祝」と称して第一回卒業生たちと恩師たちが集って同窓会を開いたそうな。

「ソデ(我が呼び名)、来る?」と、わたしにも声はかかったものの、いかんせん、ポルトガルからでは「ほいきた」と飛んでいくわけにも行きません。それに今年はモイケル娘のおめでたい事もあり、気と共に財布の紐もちょいと締めているのであります。

母校のウエブサイトに掲載されている写真から会の様子を想像して行った気になっております。で、写真を見て気がついたのは、いったいが、生徒か恩師かもう区別がつかないような状態だってば^^; あははは。
さて、変化のひとつに、「ちょっと困ったかな?」という類もありました。ポルトの市立図書館にて毎年ボランティアで影絵上映をしているのですが、中心は日本の絵本なのです。故に作成にはポルトガル語の翻訳とナレーターが欠かせません。
翻訳は毎回、我が日本語塾の長年の生徒であり友人でもある、我が塾の2番目の最年長者であるマリアさんにお願いしているのですが、彼女、どういう拍子でか、6月のサンジュアン前夜祭で前のめりに転び左手指と手の甲にかけて骨折しちゃったのです。翻訳はそれ以前に頼んでいたものの、そのまま6月末から日本語授業には来ることができず。手指の手術を2、3度繰り返す羽目になったようです。

そのような状態では翻訳もできないかも知れないと思いながらも、少しの期待があったのですが、音沙汰なし。翻訳が出来上がらないことには、切り絵にもなかなか本気が出ず、実はこの数週間、ダラダラと切り絵をしていたのでした。

これはいかんかも?というので、最近翻訳の仕事も手がけ始めた息子に依頼した矢先のことです。
「来週月曜日、行きまっせ。翻訳で意味がいまいちつかめない箇所があるのでいっしょにお願い!」とやっとこさ彼女から連絡が入ったのが先週のこと。

それで、今朝は二人でポルトガル語訳の推敲です。マリアさんはこれまでにドイツ語、ロシア語、英語等の本の翻訳を手がけてきた人で、日本語もある程度理解するので、やはり、文意をつかんでうまい訳をしてくれます。

今年の影絵は「かたあしだちょうのエルフ」
BGMは出だしに「Circle of Life(ライオンキングから)」、語っている間は「Born Fee(野生のエルザから)」と「Out of Africa(アカデミー賞を獲得したロバート・レッドフォードとメルリ・ストリープの映画から)で、訳20分くらいの影絵になります。

↓翻訳がどうなるかまだ分からなくて、のらりくらりとやってきた切り絵。
kagee

よっしゃ!と気合入れだした切り絵です。

kagee

これからセロファン紙はったり細かい切込みを入れたりしていきます。ボランティアですから、作成費用は全て自己負担になるのですが、題材、曲の選定、場面の設定など等、通常は約1年ほど案をあたためて取り掛かります。気を盛り上げるため3曲のBGMを聴きながら日本語教室の仕事の合間や夜なべをして作成していく。

影絵を一番楽しんでいるのは、見る人たちよりも実は作成するわたしであったりしましょうか^^

本日はこれにて。
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