2017年1月29日 

間もなく受験シーズンがやってくる日本ですが、この時期になると決まってモイケル娘が日本の大学受験を目指して学業と父親のゴーサイン獲得に格闘していた日々のことが思い出されます。

長年、拙ブログにおいでの方々はすでにご存知のことですが、夢を目指して彼女が日本へ行ってから、早や13年になろうとしています。「日本へ行こう!」と娘が決心したであろう中学3年から、最終的に早稲田大学への入学を果たし一人住まいを始めるまでのいきさつは「ズッコケ親子の受験戦記」(後記)にて記録していますが、時々、一人クスクス笑いながら拙文を読み返しては、娘の夢の実現を目指して、いつの間にか自分も彼女とともに煌いていたようなあの頃を懐かしんだりしています。

もしあの本に出会っていなければ、どんな風になっていただろうか、もしかすると父親を説得できず、モイケル娘はおっかさんのわずかばかりのヘソクリを持って、強引に家出の形をとって日本へ飛んでいたかもしれないなぁ、と思ったりしています。それはそれで面白い展開になり、物語性に富むのですがね。

さて、金欠病の親子がいかにして受験、入学した場合の学費、日本での生活費を工面できるかと、暗中模索のひと夏に偶然出会ったのが、たそがれ親父さんこと、吉本康永さんの本でした↓
tadadedaigaku

出会いについては下記エッセイ「ずっこけ親子の受験戦記」のエピソード6「運命の夏の出会い」」と7「ただで大学を卒業させる法」に書いております。

ずっこけ親子の受験戦記」  

娘が無事合格し、すっかり有頂天のわたしは調子付いて、件の軽薄な「ズッコケ親子の受験戦記」なるエッセイを書くに至ったのですが、彼の本へのお礼を兼ねて、著作権の関係上、吉本氏の著書写真と文引用の許可お願いのメールを厚かましくも送ったのでありました。氏は快く承諾してくれ、「お互いのサイトリンクをすること」が条件でした。ついでにメールの返事には、「吉永」ではなくて「吉本です」と書かれてあり、あちゃ~~、名前の「吉本康永」の最初と最後をくっつけて「吉永様」なんてやっていた、粗忽者のわたしでした。

氏は「たそがれ親父」のハンドルネームでホームページ「たそがれ親父の人生ノート」を運営しており、そのような訳で右の我がリンクサイトに名が上げられています。2006年のことでした。

以来、時々、サイトを訪問していたのですが、それが2008年頃だったでしょうか、突如「お知らせ」と称して、

管理人の個人的事情により休止中です。
休止しましたた4月以降何度か皆様から病気でもしたのかとメールによる
お問い合わせをいだだきましたが管理人はいたって元気であります。
残念ながらはっきりとした再開の目処はたっておりませんが
機会があればまた再開したいとも考えております。

との告知があり、新しい本の執筆か、もしくは塾講師の仕事が忙しくなったのだろうな、くらいに思っていたのでした。

そうして月日が流れ、実はつい2日前に久しぶりに氏のサイトを訪れてみたのですが、相変わらず更新はなく、ふと思いついて、グーグル検索を試みました。飛び込んできた最初の文字が「たそがれ親父さん、逝去」 えー!嘘やん!しかも亡くなられたのは2011年と、もう5年も前ではありませんか!ああ、なんと言うこと。

たそがれ親父さんは「せどり」の仕事をしていたようですが、わたしにとり初耳の言葉です。調べてみると、「せどり」とは「競取り」と書き、主に「古書店で安く売っている古書を買いとり、ネットで売ること」とあります。その世界ではかなりなの知られた人だったとのこと。プロフィールを拾ってみるとわたしと同年、1947年生まれでした。

存命だと思っていた人が実は既に鬼籍に入っていたという話は、近頃耳にすることが多くなってきたような気がします。自分のをも含めて、人生は一寸先は見えないものなのだ、と知らされたことではありました。

最後に失礼ながらネットにあげられている著書「大金持ちも驚いた105円という大金」にあるプロフィールを。

■吉本康永(ヨシモトヤスナガ)1947年生まれ。東京外国語大学中退。現在群馬県の予備校で教鞭をとっている。歯に衣着せぬ物言いに隠れる圧倒的な愛情に、学生のみならず父母の間からも信望が厚い(らし)かったが、少子化と不況の影響を受け、還暦直前にして授業数が激減。月々のローン返済40万円を抱えた中で見いだした答えが「せどり」だった。

その笑いと涙の闘いの二年間を著書、『大金持ちも驚いた105円という大金ー救われたローン人生』にまとめた(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) ローン地獄/アマゾンへの出品/せどり生活のスタート/訪れる失敗/アコーディオン買い/せどりの日々/著名人本の価値/車の買い替え/パソコンと本の分類/アマゾン一人勝ち/せどりのジャンル/税理士登場/古物商許可証取得/さまざまなお客様/売り上げ記録は更新中だが…/せどりの技術/ある日のせどり旅/ローン地獄からの脱出/本の運命 どんなピンチだって、ちょっとの工夫と行動で乗り越えられる!リストラ間近・還暦直前・月々ローン返済40万円…!崖っぷち予備校講師が選んだ手段は、ほんのちょっとした事だった。ヒント満載の、貧乏克服ノンフィクション。

我がモイケル娘に頼んで、この本を購入することにしました。

たそがれ親父の吉本康永さん、あなたのアイディアにあやかり、なんとか大学と院まで修めることができた娘がここに一人おります。何年もと遅くなりましたが、感謝とともに心からご冥福をお祈りいたします。

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2017年1月27日 

今年もディアス先生とのポルトガル語の勉強が始まりました。
この3年ほど、Germano Silva氏の本で先生とポルトの歴史を学んでいます。失われてしまった建築物や広場、道などの、いわばポルトの移り変わりが記述され、どのようにして街が開発されてきたかがよく分かります。わたしにとって興味深いトピックではあります。現在読んでいる本は氏の著書の2冊目です。

毎週火曜日の午後に先生のお宅にお邪魔して読むのですが、今回はわたしが一時、教会内部の文字の謎解きを試みた「Igreja de Cedofeita(セドフェイタ教会)が出てきました。正式には「Igreja São Martinho de Cedofeita(セドフェイタ・サンマルティーニュ教会)と呼び、São Martinho deTour(フランス、トゥールの聖マルティーニュ)に因んでいます。

サン・マルティーニュについては後記にて案内します。

cedefeita1.jpg

ポルト補習校の講師時代には、直ぐ側を車で通るので、毎度この教会を目にしており、その美しい姿に心惹かれていたのでした。拙ブログで一度取り上げていますが、これを機に今一度案内したいと思います。

romantico_cedofeita3.jpg
ひっそりとたたずむロマネスク風のセドフェイタ教会の正面で、同じ敷地内には、現代建築で建てられた大きな新セドフェイタ教会が建っています。

igrejanoba_cedofeita.jpg

さて、旧教会の559年に造られたとされてます。当時、ポルトガル国は未だ誕生しておらず、現在のポルトガル北部はカルタゴを破ったローマが進出し、その後、ゲルマン民族大移動により、古代ヨーロッパ民族のスエヴォ族が支配しました。

スエヴォ族の王テオドミーロは、多くのゲルマン諸族に広まっていたアウリス派(後に正統派から異端とされる宗派)を信仰していましたが、559年に正統カトリックに改宗しました。これについては次のような伝説があります。

王は息子のアリアミーロ王子の病の治らないのを苦にし、フランス、トゥールの聖マルティーニュに願をかけ、王子の体重と同じ重さの金銀を託し、使節を送ります。聖マリティーニュの遺骨を持って戻ったブラガ司教がそれを王子にかざすと、王子の病気は瞬く間に治り、テオドミーロ王は謝意を表すために、自分が支配する民を全てカトリックに改宗させ、聖マルティニュに捧げる教会を建築します。

その建築期間が短く、あっという間に出来上がった教会ゆえに人々にはラテン語で「Cito Facta」、つまり、ポルトガル語では「Feita Cedo(はやく完成された)」と知られました。これが現在の「Igreja de Cedofeita de Sao Martinho」の名の由来です。

igreja_cedodfeita
セドフェイタ教会の花崗岩の正門。上にはラテン数字でこの教会が建てられた年号559と彫られてある。

igreja_cedodfeita
 
正面入り口の3本の円柱に支えられた動物、鳥、草木の装飾の中に面白いものが見られる。真ん中は二頭のドラゴンに見えるのだが。右側の彫刻はなにを伝えようとするものなのか。

igreja_cedodfeita

北側上方に小さな鐘が二つ。その横にあ入り口にはモチーフAgnus Dei(=アニュス・デイouアグヌス・デイ)がある。

cedofeita.jpg
Agnus Deiはラテン語で、「神の子羊」ことイエス・キリストを表し、洗礼者ジョン(ヨハネ)がイエスに与えた名称だと言う。

夏にはこの教会で時々結婚式をここで見かけられることがありますが、普段は閉め切ったままのチャペルまがいの小さな教会です。が、2014年に、わたしは偶然の幸運に恵まれ、中に入ることができました。

その日、わたしは教会をカメラに収めるためパチパチやっていると、中年の一組のカップルと鍵を携えた教会関係者がやってきて戸が開けられました。それで遠慮して写真を撮る手を止めて見ているとカップルの男性が手招きして「どうぞ、入ってみませんか?」と誘ってくれるではないか!

うわ~、チャンスが転がり込んできた!この教会に入れる人はざらにいるものではありません。ひょっとするとわたしはこの教会の内部を見る最初で最後の日本人かもよ!と、男性の親切に大いに甘えて、撮影許可も得て内部を見学させていただきました。

igrejadecedofeita_dentro
 
さて、めったに見られる機会がない質素なプレ・ロマネスク建築のセドフェイタ教会内部ですが、概観同様、装飾を殆ど持たないシンプルな建築様式に却って祈りのためだけの教会の美しさを感じました。あちらをパチリ、こちらをパチリ。内部撮影のチャンスをくれた男性が写っています。

セドフェイタ教会は559年に建設された後、8世紀初期には、スペインのサン・チアゴ・コンポステラに向かう巡礼の宿泊所や避難所として利用され、12世紀には修道院になり、その都度、建物の様式は少しずつ変わり、18世紀に入って初期の教会をもとに現在見られる形になりました。

内部には初期の教会のオーナメントが幾つか置かれています↓

igrejadecedofeita_dentro
トップに十字架を頂いた石版。十字架の上三方それぞれが丸みを帯びており、これはテオドミーロ王が改宗した正統カトリックの十字架でしょうか?

igrejadecedofeita_dentro

ほとんど装飾がない中で目に付いたのは柱のトップにある鳥のシンボル。
igrejadecedofeita_dentro

が、その横の石壁に刻まれた記号にわたしは大いに惹かれました。

igrejadecedofeita_dentro

意味するところは何なのか、検索すれど引っかかって来ず。大体が、「画像」を検索してもヒットするのは、外部の画像のみで、内部写真はほとんどありません。何しろ通常は内部見学ができないのですから、無理からぬこと。一件、内部撮影できた人のブログにあたったのですが、この方は残念ながらこのシンボルを見逃していました。

そこで、今回、画像をアップロードするにあたり、ポルトガル語で画像タイトルをつけて見ました。

数日の検索を続けてこれは「イエス、マリア、マルティーニュ(聖マルティーニュ。この教会が彼に捧げられている)」を意味するのではないかとの解釈に到達しました。

少し説明を試みてみましょう。まず、右から三つ目。これは「A.Ω=アルファ、オメガ」の古い文字。新約聖書黙示録にある次の神もしくはイエスの言葉から来ます。

I am Alpha and Omega,the beginning and the ending,the first and the last。
<訳>:わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。

アルファはギリシャ語のアルファベットの最初の文字、オメガは最後の文字です。

一番右上のOもしくは円も永遠を表すもの。或いはヘブライ語からくるかもしれません(疑問)。右下は三つ目と同じ「オメガ」。真ん中は数字8で無限∞とどれも神、イエスのシンボルと言えます。

さて、では一番左はと言うとどうもどこかの古代文字に思えて仕方がなく、ヘブライ文字をさぐって見たのですが、迷路にはまり込んで疲れました(笑)

自分の性分としては、「イエス、マリア、マルティーニュ」の説明だけでは足りないのです。どの文字が誰を意味し、何語なのか知りたい虫が頭をもたげ、よっし!と5日ほど取り組んで見たものの素人の手に負えず敢えなく撃沈と相成りました。

こういう時は少し間をおいて再びトライすると、案外ヒットすることがあります。初期建設が6世紀という時代から、わたしはヘブライ語だと判断し、向かって右側から文字分析に取り組んだのですが、もしかするとイエスのシンボルは左側からと言う可能性もなきにしもあらず。

この謎の文字を、実はこの間、ポルトガル語のディアス先生と話し合ったのですが、右から三つ目の「アルファ、オメガ」については同意見。しかし、一つ目と二つ目は意見が違いました。先生は二つ目は「時間(これはわたしも考えてみた)」、一つ目は「人間」だと推測。

つまり、神が天地、時間、そして、人間を順に創造し、この人間の出現が「終わり」である、と^^;
え~~~!と異を唱えたいと思う反面、20世紀から21世紀の世の移り変わりを見るにつけ、人間が現れた時が、「Endingである」との黙示録の言葉に重なるような気がしないでもなく、なんだかガツンを
頭を殴られたような気がして、ポルトガル語の授業から帰ったわたしなのでした。

もし、考察できる方がおられましたらご一報を。

というわけで、この一件、再び棚上げと相成ります。新しいセドフェイタ教会内には博物館があるようで、
この謎解きのヒントがあるかも知れない由、いずれ、訪れてみようと考えています。

今日は長い勝手考察、推理にお付き合いいただき、ありがとうございました。お口直しに、わたしの好きなクラリネット奏者アッカー・ビルクの「Aria」を聴いていただきご勘弁願いたい。

素晴らしい宇宙の画像とビルクのアリアの組み合わせは、無宗教のわたしでも思わず、かの聖書の言葉を思い浮かべ、the Almightyこと「大いなるもの」の存在を意識せずにはおられません。

I am Alpha and Omega, the beginning and the ending,the first
and the last, saith(said) the Lord, which(who) is, and which(who) was,
and which(who) is to come, the Almighty.
Revelation 1-8

「which is, which was, and which is to come 」は「King Jame Bible」より。 多くは「who is, who was, and who is to come」とされている。



聖マルティーニュについてはこちら↓
ポルトガルの小春日和「サン・マルティーニュの日

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ではまた!

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2017年1月24日  

1952年以来、120店舗を有する生鮮市場として、ブリャォン・マーケットと並んで、長年市民に利用されてきた、ボアヴィスタ地区のボンスセッソ・マーケット。老朽化に伴い改築され、軽食グルメスポットとしてオープンされて3年ほどになります。

hotel da musica Porto

中央フロアにはカフェやポルトガル伝統菓子店、オードブルカウンター、チーズ、生ハムの専門店などの小さな店舗が所狭しと並んでいます。平日の昼食時には近隣のオフィスの勤め人たちで、また週末にはカップルや家族連れで賑わいます。

hotel da musica Porto
週末はライブも楽しめる。

さて、その中に入り口を別にして、85室の客室を持つ四つ星の「Hotel da Musica」があります。実は先だって、北部日本人会の新年会がここで催され、夫と出かけて来ました。

hotel da musica Porto
ロビーへの階段絨毯には音符模。

赤と白を基調にしたホテルには、ロビーから客室まで楽譜や音符などの音楽をモチーフにした装飾が施されています。

hotel da musica Porto
白の空間に真紅の一対の真紅のコントラバスが目に鮮やか。

hoteol ca musica porto
レセプションの天井からのライトも音符を象っています。

客室にはモーツアルトの楽譜が施されて。
hotel da musica Porto
この画像のみWikiより

hotel da musica Porto
レセプションにつながるパヴァロッティ・バー。

hotel da musica Porto

ボサノバを創り出したアントニオ・ジョビンの名曲[Águas de Março(三月の水)」の楽譜も廊下の壁に見られます。

♪São as águas de março fechando o verao,  
 É a promessa de vida no teu coracao     

1行目を「三月の水、夏を閉じ」と勝手翻訳し、三月の水がなんで夏を閉じるんだ? 夏を閉じたら秋ではないか、変なの・・・と思ったのですが、ハッと気がつきました。南半球にあるブラジルの3月は北半球と違って秋に入るのでありました。

「Águas de Março」はこちらで。



では、本日もお付き合いいただき、ありがとうございます。
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2017年1月19日 夢をおいかけて(2)

わたしの日本語教室の生徒は15才から85才と年齢層が広い。

85才は先日拙ブログでも取り上げたドイツ系ポルトガル人のアルフレッドさんで、目下、わたしと一緒に「日本の心で読む百人一首」なる本を読んでいる人だ。ポルト、ドイツとそれぞれ離れて暮らした10年ほどを入れると、随分長い付き合いになる。

他は、高校生、大学生、サラリーマン、医者、料理人さん、空手道場の人達など、職種は様々だが、中には是非日本で働きたい、という若者たちもいる。

その中に、日本で働くことを夢見、わたしの元に通い始めて三年少しになる若者がいる。大学を出ていて英語ができるならば、日本で講師の仕事を得ることもさほど難しくないと思われるのだが、彼は大学向きではないようである。しかし、自分が興味を持つことには、実に熱心に取り組むタイプで、日本語の勉強はしっかりとして来る。

わたしは生徒が自分から言い出さない限り、彼らの職業云々はあまり質問しない。時に、日本語の授業をすすめる中で、その方面に話が向いたりすることがあり、若者H君の職業は、そういう話の成り行きで知ったのである。

意を決したように話したH君は、夜10時から明け方4時まで、市から請け負うゴミ収集処理業者での仕事をしているとのことであった。雨の日も風の日も、週6日、日曜日を除いては毎晩の仕事である。 「何も恥ずかしがる仕事じゃないですよ。」と言うと、「母も、何もしないで家にいるよりもしっかり仕事をする方がはるかに立派だと、言います」と返してきた。

ポルトガルで決められた最低賃金で働くのだが、いつか日本へ行きたいとの夢があり、そのための日本語勉強なのだと言う。大学は出ていないので、ゼロから始めなければならないのは承知だと、覚悟の言葉であった。

この話を聞いたとき、わたしは、随分昔のTVドラマだが、倉本聡が手がけて絶大な人気を得た長期ドラマ「北の国から」の主人公黒板五郎の息子、純と姿にH君を重ねた。

「北の国から95・秘密」で、純はH君同様、市のゴミ収集員の仕事をしており、ドラマの中で自分の匂いをしきりに気にした。H君もわたしのところに来ると、かすかにコロンの香りがしており、匂いを気にしてるんだな。匂いなどしないのに。と密かに思っているのである。

最低賃金で働き、わたしのところには週2回通いたいという。個人レッスンもわたしはかなり安く設定しているのだが、それでも彼の月の稼ぎの2割以上になることを知ったとき、「レッスン料半分値引き」を申し出た。
遠慮するH君に「値引きの分は日本行きの資金として貯めなさい」

こうして1年2年と教えていうるうちに、人擦れしておらず真面目、時におっちょこちょいの性格も分かり、普段はよそ様に対してあまり世話を焼くことをしないわたしが、何か手伝ってあげられることがないかと、ネット検索をし始めたのが、事の始まりである。

わたしのアメリカ行きは、もちろん、誰の手も借りなかったと言えばウソになるが、全て自力だったため、都会で一人暮らしをしながらの留学資金到達には時間がかかった。手が届くのに難しい夢も、ちょっとした手助けで実現に至ることもある。

H君とわたしとで、話し合ったり検索しあったりして、日本に1年間滞在でき、その間、バイトもできるというワーキングホリデイビザをようやく得、この春にH君は日本のとある場所で働くことができる。

H君、これがね、羽田空港のロビー、こっちは品川駅構内の地図、新幹線のホームはこっちの方向だよ、など等、ネットから地図を探し出しては、あれこれ口を挟んでいる近頃、世間をあまり知らなさそうなH君に、彼の母親同様、わたしも実は心配で仕方がないのだ。

が、若いのだ、夢を追って今できることを目一杯してみるといい。なぁに、ダメだなと思ったら、いつでも日本同様に美しいポルトガルに帰ってくればいいのだ。

porto

身長190センチのH君が、ひょろひょろと日本で活動する姿を思い浮かべると、どんな人生を拓いていくのか、楽しみでもあるのだが。渡日まで後6週間ほど、最後まで日本語授業で出来る限りのことを仕込みたいと思っている。

昨年結婚した娘には、「息子がひとり増えたみたいだね」と言われる始末であった。
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2017年1月17日 

小学生の頃は、毎晩奇抜な夢ばかり見ていたが、わたしはああなりたいこうなりたいとの夢は持たなかった気がする。この辺の記憶はあいまいなのだ。

ただ、一度読んだ本、「怪盗ルパン」に憧れて、「ルパンのように、わたしも世界をまたに架ける大怪盗になりたい。」という風なことを作文に書いて朗読し、担任に母が呼ばれたことがあるが、それは夢と言える類のものではない。

中学時代から歌うことが好きではあったが、歌手になりたいという切実な思いは持たなかった。歌手になれるほどの歌の上手さも容貌もないと、子供ながらに身の程を知っていたのか。しかし、今ならこう言える。身の程を忘れて夢を耕す人に、その夢の実現は来る、と。

子ども時代から大人になるまで、わたしたちは色んな夢を着ては脱ぎ捨てる。 私の場合を見れば、カラオケなどなかった当時だが、歌うのが好きでよく一人でギター片手に歌っていたのが、「芸は身を助く」とは言ったものである、プロとは言いがたいが素人にちょっと毛が生えたような歌いぶりでビアハウスの歌姫パートで稼ぎ(後記にて案内)、それを資金に、これもまた夢であった渡米を果たした。

わが子たちに日本語や初級英語を教えているうちに、楽しく教えるノーハウを自己流で身につけ、気が付けば補習校の講師をしていた。これなどは、なまじっか頭がよかったら考えが及ばなかったかも知れないと今でも思ったりしている。

つまり、「できない」というのが、子供のころ「できなかった」わたしには手にとるように分かり、では、自分ならどうしてもらったら「できるようになるか?」と反問できるのであり、そこから自分で指導資料を作成するのだ。

そして、その後は、「日本語ってほんま、奥深いんねぇ」と今ではポルトガルの生徒に教えながら自分も学べることを楽しんでいる。

2010年にはびびりながらも、ポルト市と日本の国際親善協会の共催で催された一週間を日本文化祭で市内を彩る「Japan Week 2010」の大プロジェクトのコーディネーターの仕事を約1年かけて引き受けさせられ、ラジオCMの声出演もしたりと、「豚もおだてリャ木の登る」を地でやったこともある。

こうして振り向けば、大学進学の夢こそ砕かれたが、わたしは幸いにして、夢のかけらを少し手にした部類だということが言える。なんだか自慢のオンパレードになったみたいだが、今日の本題はこれではなくて、息子達なのであります。

あれ?「たち」って、spacesisさん、息子二人いたっけ?まぁまぁ、ちょっとお聞きくだされ。

子供たちが小学校3年生くらいまでは、ベッドタイムストーリーと称して寝付く前のひと時、ずっと日本語英語の本を読んであげていた。とある冬の日に、息子に読んで聞かしたのは、ノルウェーの探検家で、イギリスのスコット大佐と競い、人類初の南極点到達を果たしたアムンゼンの子供時代の話であった。

北欧では寒さを防ぐために二重窓になっていると言う。少年アムンゼンは、体を鍛えるために冬の最中、その窓を開けっ放しにして上半身裸で寝たというような話だった。黙って聞いていた息子、その日もいつもとおなじように「おやすみ」と明かりを消してわたしは彼の部屋を出た。

しばらくすると、息子の部屋から灯りがもれている。ん?眠れないのかな?と思い、ドアを開けて見ると、あらら、息子!上半身裸でベッドに座り、なんと、部屋の窓を開けっ放しにしているではないか!説得してやっと息子が寝静まった後で、夫とわたしは腹を抱えてひとしきり笑った、遠い昔の我が家のアムンゼン事件であった。

宇宙考古学云々とわたしが言い出すと、今では長じた息子から、からかわれてしまうのだが、碌な知識もないのに、真夜中に起き出してわたしがミニ天体望遠鏡で月面を見たり、木星の衛星を見たりしてきたことは子供たちも知っている。

息子が子供のころは、ちょびっとであるけれど、おっかさんは自分のできない宇宙への夢を息子に重ねてみたことがあるのだ。

宇宙飛行士は虫歯があってはならない、とどこかで読んだ。それで、虫歯をつくらないためにチョコレートやジュースは子供のころはクリスマスの時期を除いては口にさせなかった。これはモイケル娘も同様であった。我が家の二人がジュースやコーラを口にするようになったのは、恐らく高校生になってからではないかと思う。それまでは、幼い時からの習慣で他所で出されても飲まなかったのである。

わたしが見る宇宙関係の映画は小さいころから息子を一緒に連れていったし、銀河系宇宙やスペースシャトル、パイオニア10号、そして、そのパラボラアンテナの裏にとりつけられたカール・セーガン博士の「宇宙人への手紙」なども一緒に遊びながら勉強したものだ。

息子は小学時代にブリティッシュ・スクールのプロジェクトで「Spaceship」に取り組み、見事学校長賞を射たことがある。かほどまでに、我ら母子の宇宙熱は盛んだったのだが・・・・

ある日見た宇宙関係の映画で、息子の宇宙熱は即、冷却・・・・(笑)8歳の息子の夢は、映像から伝わった恐怖で、あっけなくボツ、宇宙飛行士の夢はしぼんでしまった。何事もほどほどに・・であるわぃ^^; 以後、アメリカへ行って宇宙飛行士云々は一言も言わなくなった息子だ。

息子はその後どれだけの夢を見ては捨ててきただろうか。彼が望む人生は、世間一般で言う、ネクタイを締め月曜日から金曜日まで勤務し、その給料で暮らし、時にはおしゃれしたり旅行したり、趣味にお金をつぎ込んだりの生活ではないらしい。

「平凡な生活が退屈なようだけれど、それを持続させるのは本当はなかなか大変なのだよ。」と、わたしは思っているのだが、彼には彼の夢があろうと、時々口を挟みたくなることを抑えて、今は黙って見てることにしている。

さて、次回はもう一人の息子についてである。

「あの頃、ビアハウス」は、こちらで。エピソードを始めから読むには日付を遡っていただかなければなりません。

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2017年1月12日 

石を積んだ塀で囲まれたご近所のジョアキンおじさんの畑の鍵をもらうほどの、わたしは畑常連であります(笑)

つい先だっても、買ったばかりの子豚2頭をまたもや盗まれてしまったとブツブツいっていたジョアキンおじさんが、わたしに畑へ入る鍵をくれたのは、そこに住み着いているノラ猫のエサ運びをかれこれ10年近くも続けているからであります。

ジョアキンおじさんにすれば、猫のエサ運びはお任せしまっせ、ということでして^^;こうしていつのまにか猫のみならず、おじさんの畑のニワトリまでがわたしの餌呼びの合図を覚えて、両羽を動かし今にも飛ぶかと思われるほどのスピードで一目散に翔けてくるようになり、わたしとしては実は予想外のことで、ちょっと困ったりしているのが真情なのです。

しかし、たくさんいたその鶏も、おじさん曰く、秋にごっそり盗まれ、今では数羽しか見かけません。猫といえば通りへ出て事故にあうやら、老衰もしくは病気で死ぬやらで、いつの間にか赤猫ちゃんが一匹残るのみになったのです。

これには、ここへやってきては捕まえて避妊手術をし、また畑に戻すというのを繰り返してきた動物愛護ボランティア協会も関係していると思います。なにしろ、子猫が生まれなくなったのですから。野良猫がいなくなるのはいいことなのですが、これは実質的に猫の数が減るということにもなり、わたしはどこかに不安が残るのです。

さて、畑にただ一匹残った成猫の赤猫ちゃんですが、今までになかった行動に出ました。朝晩えさを運ぶのですが、ご飯より撫でて欲しいみたいで、やたら甘えてくるようになりました。それもそうでしょうね。今まで何匹も一緒に生活してきたのが、ひとりぼっちになってしまったんですもの。

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朝ごはんのカリカリを食べる赤猫ちゃん。晩御飯は猫缶です。

食べるよりもまず撫でてもらったり抱っこしてもらったりして、ひとしきり甘えてからやっと食べるもので、急いでいる時は、こまったちゃんなのですw 早よ食え~~、と(笑)

と、数日前に畑に入ると、え?うさぎ?なにやら赤ネコちゃんの周りをちょろちょろ動き回っている小さな動物が目に付きました↓赤猫ちゃん、ちっとも気にしないようです。きっとエサも分けてあげてることでしょう。

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翌朝ジョアキンおじさんに、「Senhor ジョアキン、今度はうさぎを飼ったの?」と聞くと、「ありゃウサギじゃない。けど、なんと言うのか名前、忘れちまったよ」^^;そう聞いて思ったのが「ギニアピッグ」ではないか?見たことないけど。

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ですよね?ギニアピッグは「ギニーちゃん」と名づけw んで、昨日行ったら、もう一匹いましたっけw 同種ではないけど、仲間ができて赤猫ちゃん、少し嬉しそうでしして、数日前から黒い野良ねこがやってきて、畑の外でえさの時間に待っているようになったので、こちらにも置いてきます。赤猫ちゃんはわたしがいる間、畑の門が開いている者で、時々外へ出ては、この黒猫に挨拶をしています。まったく威嚇しません。

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わたしがエサ運びをしているもう一匹の猫がいます↓

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数ヶ月前の写真ですが、この人間不信の目つき!

ジョアキンおじさんの家の庭にやってきては、毎晩食べていきます。かれこれ7,8ヶ月になるでしょうか。これもノラちゃんなのですが、気が荒い。なかなか心を開かず威嚇しながら食べていたのです。そのくせ、毎日必ず同じ時間帯におじさんの庭の隅っこでエサ待ちしています。

ジョアキンおじさんとどんな関係にあるのか、もう近頃ではどうでもよくなり、「うちの庭にも好きに入っていいよ~」と言うフリーパスを得て、せっせとエサ運びをしていますが、こやつだけが、いつもの時間に遅れて行ったりすると、「シャーシャッ!」とまるで、「遅いじゃないか、今日の飯!」とでも言うかのように、威嚇しながらもすりよってきます。

しかし、まだまだ触るは不可!どさくさに紛れてちょこっと尻尾に触るくらいが関の山です。

そして、ご覧あれ、表情が大分柔らかくなりましたぞ。しかも以前に比べてふっくらとモフモフ猫ちゃんになりつつあります。

fofinho1.jpg

先の赤猫ちゃんについては、夫の反対さえなければ、わたしはとっくに家に連れ帰っているのです。もう5匹いることだし、言い出しにくいのではありましたが、ちょっと打診してみました。

「ねね、一匹だけになったし、うちへ連れて来るのはどう?5匹も6匹も同じじゃない?」
夫の即答、「同じじゃない!ゴンタの介護だってありうるぞ。(全盲の年配猫) 目下、空席はない!」
がびーーーん!

ポルトの冬は雨も多いので、この先、春まで2ヶ月ほど、お前たち、お頑張りね、と、本日は猫たちの話でした。
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2017年1月7日 

忙しい金曜日、合間を縫って、IKEAと併設するMar shoppingのブティックに依頼していたコートを受け取りに行き、ついでに他店で探し物をしながら商品を手にして見ていたところ。

突然横から「ワッ!」と大声で声をかけられ、びっくりして相手を見ると、????若い男の子です。「し、知らんがな、あんたを。はぁ?」と言う表情をしていると、相手も真っ赤な顔をして、「す、すんません。人違いでした」ですって(笑)

一瞬、日本語クラスの生徒だっけ?と思ったものの、いかなわたしでも、生徒の顔くらいは覚えていますぜ。わたし、グラサンはかけていましたが、横から見たって東洋人だよ?いったい誰を驚かしたつもりだったのだろうかと思うと、ついつい可笑しくなって、謝ってそそくさと去って行こうとする若者の後姿を見ては一人プップップと笑ってしまいました。

新年から、ささいなことで初笑い、愉快な出来事に、今年はいい1年になるかな?などと気をよくしています。

さて、今日は年末に渋る夫を連れて入ってきた、市庁舎通り新開店の「Hard Rock Cafe」の紹介です。spacesisさん、その御歳でハードロックですかいと笑うなかれ。ロックが好きというのではないが、ロックのリズムは人の体を動かす力があると思うのであります。リズムについ乗ってしまう自分を発見します。

Hard Rock Caféと言うのは、ロンドンからアメリカ人によって展開されたハンバーガーを中心としたチェーン・レストランです。一度行っただけなので、恒常的にこうなのかは分かりませんが、その日は店内をボリューム一杯のロックミュージックが支配していました。

Hard Rock Cafe Porto
ポルトのハードロックカフェ入り口

Hard Rock Cafe Porto
↑受付。右がカフェ、レストランへのドア、左は全てのハードロックカフェで併設されているロックショップ。

Hard Rock Cafe Porto
世界各店のTシャツ、アクセサリーなどのオリジナル商品が販売されています。ハードロックショップの特徴は、通信販売がないことだそうで、限定アイテムは、各地の店でしか入手できない。

一階のカフェへ。

Hard Rock Cafe Porto
壁を飾る有名ミュージシャンたちのギター

Hard Rock Cafe Porto
わたしたちがカフェを飲んだ一階のバーハウス・カウンター。カフェは2ユーロ。若い子が淹れてくれたのだが、あまり熱くなくておいしくなかった

子連れの若いカップルもいる。が、年配者は我らのみ(笑)
Hard Rock Cafe Porto

階上がレストランなのだが、ふと階段の壁に目をやると、ぬぬ?
Hard Rock Cafe Porto

マドンナの靴ですと?

Hard Rock Cafe Porto
1985年の映画Desperately Seeking Susanでマドンナが履いた靴だそうです。

Hard Rock Cafe Porto
こちらは歌手シェリル・クローの靴。
 
Hard Rock Cafe Porto
ウイトニー・ヒューストンの衣装。             

Hard Rock Cafe Porto
オーストラリアのロックバンドAC/DCのギタリスト、アンガス・ヤングのサイン入りのキャップ。

ハードロックカフェは、ミュージシャンや家族などからの寄贈品、またオークションなどでぬ入札したコレクションを「メモラビリア」と称して店内に展示してあるのも特徴です。

Hard Rock Cafe Porto

階上のレストランの様子。メインメニューのハンバーグは10ユーロ以上とのこと、予算をマクドのつもりで行ってはダメです。音楽とハンバーグに興味がある方は是非一度どうぞ。

インフォメーション
所在地:Rua do Dr. Artur de Magalhães Basto 38, Porto(市庁舎通りの横道)
営業:12:00-01:00

Hard Rock Cafe Porto
夜のハードロックカフェ・ポルト(この画像はWikiより)

では、また。
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2017年1月3日

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新年明けましておめでとうございます。
旧年と変わらず本年度もよろしくお願いいたします。

クリスマス、元日といい天気だったのが、昨日今日は小雨の静かな正月です。

ポルトガルの正月は元日のみが祭日で、昨日の月曜日から会社員は仕事始め、学校も今日から登校です。わたしも明日からいつも通りの日本語教室開始、新しい年の到来をしみじみ噛み締める間もなく、今年もあたふた出発と相成ります。

ところで、考えて見ますと拙ブログも早や11年目に、手始めにと訳も分からぬまま盲滅法始めたホームページ時代も数えますと13年目というネット暦になり、我ながら長期続いたことに少し驚いています。

当初はポルトガルから日本へ行った遠く離れて住む子どもたちへの遺言代わりのつもりだったのと、自分が日本語を忘れないがために、日々考えたことや、彼らとの思い出話、自らの青春時代を記録として綴っていたこのブログですが、いつの間にか途中からポルトの街の写真撮影と案内が主の、ガイド風になっていたりもしました。

その頃は、今日のように日本語授業も多く受けておらず、子どもたち不在の寂しさを紛らわすために、ポルト一人探検と称して暇を見ては街へ繰り出しました。長年住むものの、子育てに夢中になり見向きもせず生きて来たポルトでの生活でしたが、街をほっつき歩いては様々な発見に出会いブログ記事にせっせとあげてきました。

おかげさまで、ロンドンを拠点とする、とある会員雑誌の編集者に拙ブログに興味を持っていただき、ポルトガル案内記事執筆の仕事が舞い込むという幸運に恵まれ、恐々引き受けたライター歴も今に及んで10年になりますが、続ければ続けるほど、文章を書く才のない自分に四苦八苦しております。

が、ブログは自分の好きな文体で書けますゆえ、皆様にはつたない記事であると思いますが、その点はどうぞお見逃しの上、本年度もお付き合いのほどを宜しくお願いいたします。

また、これまで忙しさにかまけて、ついつい更新が長く滞ったりしましたが、今年は毎日とは行かないでしょうが、できるだけ綴りたいと思っておりますゆえ、乞うご期待!

本日は新年のご挨拶にて。では、みなさま、また明日!
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2016年12月31日 

おおつごもりの今日、例年通りであれば、ふぅふぅ言いながら、ひとりで大掃除をしているところなのですが、昨日、30日まで仕事をしていたゆえ、今年は早々に掃除を引き上げ、夫と昼食、買い物がてら、ダウンタウンへ出てみました。

年の終わりにダウンタウンなど、ポルトに住んで以来、多分始めてのことではないかな?

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街は地元の人間、ツーリストで溢れ、暖かめの大晦日の午後、たくさんの人がオープンカフェでくつろいでいました。

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さて、市庁舎通りことアリアードスに来ると、突然腹にびんびん響くビートがものすごい音量で聞こえてきます
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今宵、ロックコンサートを聴きながら年越ししようと、この市庁舎通りの中央歩道レーンを埋め尽くす若者たちに用意される野外ステージです。除夜の鐘がうるさいどころじゃ、あらへんで(笑)

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腹にも頭にも心臓にもビンビン響いてくるこのビート、自ずと体がリズムに乗りそうですが、この音を数時間聞くのは持たないな、と、そそくさと用を済まし、賑やかなダウンタウンを後にしました。

さて、日本は新年を迎えたことでしょう。本日はこれを2016年の最後の記事にいたします。
この1年、拙ブログにお付き合いくださり、ありがとうございました。

ではみなさま、Bom fim do Ano!(よいお年を!)
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