2017年2月21日 

月曜日は自宅日本語教室が忙しい日です。

10時半から1時まで2クラス、そして、3時半から6時まで2クラスあり、授業準備も入れると7時間ほど縛られることになります。

昨日がそれで、「うへ、今日は日本語が4つだ。近頃はこれがちょっときつくなってきたなぁ」と、起きてきた夫の顔を見て、問わず語り。苦笑いしてました、彼(笑)

月曜日午前中の2クラスの生徒さんは、長年日本語学習を続けてきたGGズ、二人です。GGズとはわたしの彼らへの呼称。年配者こと、じいちゃんたち、からジィジィズともじったのですが、考えてみたら自分もそれに入る年代になっていたのでしたっけ(爆)ま、教わるも教えるもGGズ、ということですわ。

月曜日のGGズには紅一点、76歳のマリアさんがいるのですが、彼らの授業がおいそれとは行かず。十分な下調べを要します。しかし、下調べをすることで、自分の勉強、確認にもなり、楽しい部分でもあります。

一つは、この間から百人一首の勉強でブログに登場している83歳のアルフレッドさん、そしてもう一人が上述のマリアさんで、彼女とは目下、森鴎外の「高瀬舟」を読んでいます。これまでの日本語教室で「高瀬舟」を取り上げるのは、マリアさんで3人目です。

彼女は、コインブラ大学で言語学を選考し、当時、教授に「マスターコースを取って大学に残らないか」と声がかかったほどの優等生でした。が、結婚により、ポルトガル語、英語、ドイツ語の高校教師の職を選択した人で、時にポルトガル語で翻訳本も出したりしています。

そんな人ですから、ツッコミが細かいのであります。 加えて彼女、今回は「高瀬舟」を自分用にポルトガル語に翻訳したいと言い出し、実は毎回たじたじのわたしであります。

翻訳となると、適切なポルトガル語を探ることになり、そのためには時代背景の理解も必要になります。日本語の動作、表現の機微も、説明を要します。

語彙で言うと、町奉行ひとつをとっても、「現代で言うと警察と裁判所のようなものです」とこれまでのような説明に終わるわけに行かず、「え~とですね、寺社奉行、勘定奉行とあわせてこの時代の三奉行のひとつが町奉行です。町奉行には、北町奉行、南町奉行がありました、交代で業務を行っていたのです。」というところまで説明していきます。

「お白洲」にいたっては、今の法廷に当たり、ここでお裁きがなされます、と、かつて子供たちと訪れた時の「日光江戸村」での「遠山の金さん」お白洲の画像を出してきて、「これがお奉行様、そして両脇でお白洲に座っているのが多分同心です」

日光江戸村「遠山の金さん」

これは日本の時代劇のお奉行さまこと、「遠山の金さん」のお白洲場面ですよ。と付け加え、ふふふふ、ついでにこのシーンの名セリフ、

「おうおうおう!!!あの日あの時あの場所で、うぬらの悪の一部始終、この遠山桜がしっかと お見通しなんでえぃ。おぅ、これでもしらぁ切ろうとでもぬかしやがるのか!? どぉなんでぇい。さっきまでの威勢のいい剣幕、どこいっちまったんだょおぅ!」
と言うのまで披露しちゃったお調子者でありました。

こりゃいかんなぁ、高瀬舟にもどらないと、この決め台詞を面白がって書き取ろうとするマリアさんを制止し、再び真面目な顔で、「高瀬舟」に戻ろうとしたところで丁度時間と相成ったのでありました。お粗末さまでございます。

本日はこれにて一件落着だぃ!
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2017年2月19日 

ポルトの美しい街並みを見るにはドン・ルイス1世橋を渡り、向こう側の「カイス・デ・ガイア」から眺めるに限る。それこそが絶景なのだ。これを見ずしてポルトを見たというべからず。赤レンガの屋根が段々畑のように重なり、他を抜きん出て建つのがポルトの象徴、クレリゴス塔である。

リベイラRibeira

このドウロ河岸ポルト側をリベイラ(Ribeira=川岸)と呼ぶのだが、ユネスコ世界遺産指定区域であり、式を通して訪れる人々を魅了し続けている。

リベイラ

川岸にはオープンカフェ、ポルトガル料理の老舗レストランや土産店が軒を並べ、その前方には二重橋のドン・ルイス1世橋が美しい弧を描き、二重橋の上段を黄色のメトロ、ユーロトラムがゆっくり渡る。

ribeira

天気が良い午前中に訪れると、こんな光景も見られる。
リベイラribeira

さて、リベイラの中ほどに、壁に埋め込まれた青銅盤「Alminhas da Ponte (alminhas=記念碑、記念盤)に気づく人はいるだろうか。

リベイラのAlminhas da Ponte↓
リベイラ

青銅版の上にはキリストの姿が描かれ中間には渡し舟も見られる。

1809年3月29日、ナポレオンの命を受けてフランス軍は二度目のポルトガル侵攻を試みた。この時、Soult将軍は前回目指したリスボンを避け、北部から侵入、ポルトへと向かった。

フランス軍侵入の噂を耳にしたポルト市民達はドウロ川を渡って対岸のガイア市に活路を開こうと、いっせいにPonte das Barcasを目指したのである。

pontedasbascas1.jpg
手前がリベイラ、向こう側がガイア。Wikiより。

もとよりたかが20艘の渡し舟からできている橋だ。波のように押し寄せる人々の重さには到底耐え切れず、橋はもろくも崩れ多くの一般市民が溺れ死んだと言われる。その人々の鎮魂のためにこの銅像版は作られ、今日も祈りの火を絶やされないでいる。

付け加えたいのは、ドウロ川の夕暮れもまた、えも言われぬ美しさがあることだ。

リベイラ

リベイラ

本日はこれにて。
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2017年2月15日 

以前にも少し触れたことがあるのですが、我が生徒の最年長者83歳のアルフレッドさんとの日本語授業でのことです。

現在、二人で600ページ近くに及ぶ「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」を勉強しているのですが、先週は、9世紀から10世紀初頭にかけて生きた、在原業平の甥、大江千里(おおえのちさと)の23番歌を読み終えたところです。

余談になりますが、在原業平とくれば、今で言う「イケメンもて男」。人気漫画のタイトルともなっている「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くくるとは」の作者でもあります。また、古今和歌集に納められている業平の歌にはわたしの好きな、「名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」もあり、優れた歌人だと言われます。

しかるに、このもて男の業平は小野小町を口説いて、実は振られていたのだそうですよ。この本で知ったことですが、単なる歌の解説に終わっていない点が面白く、アルフレッドさんとああだ、こうだと言い合いながら(ポルトガル語、英語でのディスカッションです)、楽しんで学んでいます。

話をもどしまして、その業平の甥、大江千里の歌、

月見れば
千々に物こそ 悲しけれ
我が身ひとつの 秋にはあらねど

つきを見上げると、心が千々にに乱れて悲しくなるなぁ。わたし一人の秋ではないのだけれど
(現代語訳:「ねずさんのねずさんの日本の心で読み解く百人一首」引用)

大江千里は漢学者でもあり、この歌も「燕子楼(えんしろう)」という漢詩が元歌なのだそうです。
下に読み下しを記してみます。

満窓(まんさう)の明月、
満簾(まんれん)の霜

被(ひ)は冷やかに、燈(とう)は
残(うす)れて臥床(ふしど)を払ふ

燕子楼(えんしろう)の中(うち)の
霜月(さうげつ)の夜

秋来(きた)つて只
一人(いちじん)の為に長し

この漢詩を機に、アルフレッドさんの提案で、李白の「月下独酌」なる詩を勉強してみました。下記、ネットで拾ったものです。

花間一壺酒  花間 一壺の酒
独酌無相親  独り酌みて相ひ親しむ無し
挙杯邀明月  杯を挙げて明月を邀へ
対影成三人  影に対して三人と成る
月既不解飲  月既に飲むを解せず
影徒随我身  影徒らに我が身に随ふ
暫伴月将影  暫らく月と影とを伴って
行樂須及春  行樂須らく春に及ぶべし
我歌月徘徊  我歌へば月徘徊し
我舞影零乱  我舞へば影零乱す
醒時同交歓  醒むる時同(とも)に交歓し
醉后各分散  醉ひて后は各おの分散す
永結無情遊  永く無情の遊を結び
相期獏雲漢  相ひ期せん 獏(はる)かなる雲漢に

漢字が分かる日本人にとって、漢詩はなんとなく意味がつかめますね。月と自分の影を相手に酒を楽しんでいる訳ですが、興味ある方はネットで検索していただくとして、普段は山で生活をし、日本語授業がある時にポルトに下りて来るアルフレッドさん曰く、
「この詩はまるでわたしの山での生活を歌っているようです」。

聞けば、彼の山の家の周囲にはポルトガルでは見られない桜の木や銀杏の木が植えられ、ベランダからは月が昇ってくるのが見えるのだそうな。「いらっしゃい、いらっしゃい」と言われながらも、まだお邪魔していないわたしです。

この時わたしはかれこれ10年以上も昔、木彫家の我が親友の山房での一夜を思い出しました。日本庭園を前に、和室の縁側で向こうに見える山並みと煌々たる月を眺め、漬物を肴にして和歌山の地酒「黒牛」を飲みながら、ポルトガルの、そして、彼女の四方山話をお互いポツポツと夜通し語り合った忘れられぬ夜のことです。

かつらぎ山房
庭から山を望む

気が付けば、いつの間にか二人で一升瓶を空にしていたのでした。それが不思議と酔うこともなく、「酒は静かに飲むべかりけり」とはこういうことかと思ったものです。

かつらぎ山房

座敷の横の縁側で一晩中静かに杯を傾け。
 
かつらぎ山房

漢詩の最後、「ともあれ月と影と親しく交友し、遥かな銀河での再会を誓おう」と訳せる「相ひ期せん 獏(はる)かなる雲漢に」は、胸にジンと響きます。

この春の帰国では、3年ぶりに親友を訪ねるのですが、この詩のにわか講釈を披露しようかと目論んでいます。そして、ワインよりも、ビールよりも、美味しいお酒を素敵な酒器でいただきたいと思うこの頃、毎晩軽く日本酒を晩酌とする妹との再会も、楽しみの一つなのであります。

親友の山房はいずれ改めて紹介したいと思います。

本日もお付き合いいただき、ありがとうございます。では!

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2017年2月14日  

前回、ナポレオン軍のイベリア半島侵入戦争について述べましたが、それに因んだ記念碑について。

ボアヴィスタ(Avenida da Boavista。Boavista=よい眺め)は、ポルトの比較的新しい中心街、ビジネス地区です。ボアヴィスタ大通りには五つ星のシェラトンホテルやパレスホテルがあり、ロータリーからその道をどこまでも下りて行くと、大西洋にぶつかります。

Porto Boavista

ボアヴィスタ地区はロータリーのMouzinho Albuqueruque広場から放射状に道が広がっていますが、下の画像のように、どの道からも広場の中心にある記念碑が見えます。

Porto Boavista
Rua Álvares Cabralからの眺め。

これが、ナポレオン軍を追い払ったポルトガル人、正確に言えばポルト人の記念碑「Monumento ás Guerra Peninsular(Peninsular=イベリア半島)」、「イベリア半島戦争の英雄たちの記念碑」なのです。
Porto Boavista

Porto boavista
記念碑が頂上に頂くのは、この戦いを援助したイギリス国章のシンボル、同時にポルトガル(ポルト人)の勝利を表すライオン。組み敷かれているのはナポレオンオ皇帝の象徴、鷲です。

1909年に建築家Marques da Silvaと彫刻家Alves de Sousaによって製作が始められましたが、が完成したのは1952年です。高さは45メートル。

Porto Boavista
↑記念碑には、ナポレオンが送ったフランス軍と戦うために北部のポルト、ブラガンサなどで蜂起した民衆の様子も見られます。

Porto boavista
左手に国旗を右手には剣を持ち、勇敢に民衆を率いる女性、Victória(victóriaはポルトガル語で勝利の意味でもある)の姿が描かれ、この記念碑に光を放っています。軍や男たちに混じって大砲を押す女性も。

Porto boavista
こちらは転覆するボート。

当時ポルトとガイアを結ぶのに小船をつないで架けられていた橋「Ponte das barcas」(ポンテ・デ・バルカス)です。ナポレオン侵入の噂に驚愕した一般市民が対岸の町ガイアに逃げようと押し寄せた多くの市民が命を落とした「Ponte das barcas」悲劇を表しています。これについては後日案内します。

記念碑を取り囲む公園内は近隣の人々の休息場でもあり、時にアミューズメントパークになったりします。↓

Porto boavista

ロータリー公園の向かい側にはあるCasa da Musica(音楽堂)。こちらも後日案内。

Porto boavista

が、待ちきれんのよ、という方は少し情報が古くなりますが画像はたくさん、こちらまでどぞ↓
http://www.geocities.jp/spacesis_porto/html/cidade_do_porto/casa_da_musica.htm

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2017年2月12日 

毎年、投票によって選ばれる「European Best Destination 2017」、つまり、「ヨーロッパで一番行ってみたい街」のコンペなのですが、2017年はポルトがトップに選ばれました。

ポルト

ポルトガルはこのコンペの上位常連になっているのですが、2012年、2014年に続き、ポルトは三度目のトップです。今回はアメリカ、ヨーロッパ諸国、南アフリカ、カナダなど、世界174カ国からの投票者の支持を得てトップの栄冠獲得となりました。

拙ブログ、また、別サイト「ポルトガル・ロマン(現在は休止)」では、ポルトをはじめ、自分が訪れたポルトガルの町々、またヨーロッパの国々をその都度紹介してきましたが、それもこの2月で12年目に入ろうとしています。ひょっとしたら、日本人観光客の勧誘に少しは貢献してるかな?と、一人嬉しい気分になっているのです。

地元ではポルトを別名で、「Cidade Invicta(シダーデ・インヴィクタ)」と呼びますが、「征服されざる街」という意味で、これは、19世紀始め、ナポレオン軍の三度のポルトガル侵入(イベリア半島戦争)の歴史に因む名称です。以下、歴史話です。

ポルトガルの18世紀、マリア一世の統治時代。フランス革命後、ナポレオンは皇帝を戴冠、イギリスを封じ込めるためヨーロッパ諸国にイギリス船への港閉鎖を通達します。が、イギリスとは古くからの同盟国であるポルトガルはこれに従いません。そこで、ナポレオンはポルトガル侵略政策をとります。

第一回が1807年、スペインを味方に引き込んだフランス軍ジュノー将軍の率いる3万の軍がスペインと国境を分かつベイラ・バイシャから浸入し、リスボンを手中に収めます。

このとき、マリア一世と後継者ドン・ジュアンは15隻もの海洋船に貴族や軍隊、大商人らおよそ1万人のポルトガル人を引き連れ、ブラジルへと逃れたわけです(なんちゅう・・・^^;腰が引けてましたぞ)。ポルトガル王室が再び本国ポルトガルの地を踏むのは、それから約20年後の1821年です。

リスボンを手に入れたものの、フランス軍の暴虐ぶりに、やがて各地で民衆蜂起が起こり、ポルトガルは盟友イギリス軍と合流してフランス軍を破り、ここで休戦協定を結び、フランス軍は撤退します。

しかし、ナポレオンは尚も諦めず、2度目の進入を試みます。1809年、今度は北部(スペイン、ガリシア地方)から浸入、ポルトに進入しますがイギリス・ポルトガルの連合軍、さらに民衆も参戦して、終にはフランス軍を敗退させました。 

ポルト
地図はwikiより

上図、赤線が第一回目、オレンジ線が2回目のポルト進入、青線が三回目。

ポルト、Boavistaロータリーの「Mouzinho広場」中心にあるモニュメントはこの時の戦いを記念したものですが、これは次回にご案内します。

さて、ナポレオンは、懲りずに三度目のポルトガル征服を試み、リスボンに再度兵を送るのですが、最後には敗退、1814年にスペインからも撤退することで、ナポレオン軍とのイベリア半島戦争は終了します。

ポルトガル独立戦争の時もそうですが、大軍を相手にいざという時にポルトガル人が出す底力は、愛国心のなす業でしょう。ワールドサッカーを見ても、それがどことなく表れているような気がます。

「ピレネー山脈から先はヨーロッパではない、アフリカだ。」と言ったのはナポレオンだったと記憶しますが、三度もポルトガル侵入に失敗した歴史上の事実を知ると、「ナポレオンの負け惜しみだな」とわた
しは思ってしまいます(笑)


長年、拙ブログで取り上げてきた我が街ポルトですが、写真も情報も一新したいと目下考えています。春なったら、何とか時間をと作って「spacesisが歩くポルトの街」を、再開するつもりです。みなさま、これからもどうぞよろしくお付き合いくださいませ!

最後に、「ヨーロッパで一番行ってみたい街」トップに選ばれたポルトの街の画像をお楽しみください。 そして、ポルトの町角でもしも、茶髪、グラサンのデジカメ、もしくはスマホを構えているわたしを見かけましたら、「spacesisさん」と、どうぞ、ご遠慮なく声をかけてみてください。

ではみなさま、また!







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2017年2月9日 
記憶の中から取り出せる母の思い出が凝固したような一枚の写真がある。

mother

数年前に帰国した折、投宿先にしていた妹宅の机の上に飾られていたものだ。こんな写真があるとは思いもよらなかったものだから、それを目にした時はちょっとした驚きで、しばらくこの写真に見入ったのであった。母がよりかかっている橋の欄干からすると、写真は弘前公園であろう。

手前で目を伏せてしまっているのが妹だ。わたしは母の横で愛想もなく突っ立っている。これが、やがて近所のガキ大将になってチャンバラするがごとく棒っきれを振り回し、ビアハウスの歌姫、アメリカ行きの青春時代を経て、ポルトガルに定着した自分であろうかと、この写真からは少し考え難いのである。いったい誰が想像したであろうか。だから、人生は面白いと言える。

この写真を目にすると、決まって我が脳裏にこの歌が聞こえて来、幼い頃の思い出がとても懐かしくグルグル巡ってくるのである。




随分前のことになるが、知人が好意で送ってくれた本に斉藤孝氏の「声に出して読みたい日本語」というのがある。その本の一ページ目を開くと、
     
    「知らざあ言って聞かせやしょう。浜の真砂と五右衛門が、
     歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ガ浜」

と、眼に飛び込んできた。おお、知ってる!ご存知、白波五人男の一人、弁天小僧菊之助」が歌舞伎
「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)、浜松屋の場」での語りの部分である。興奮で高鳴る胸おさえながら、ザーッと急いでページを繰ってみると、あるわあるわ、七五調の語呂良い歌舞伎がらみ浪曲がらみのセリフが。

 「赤城の山も今宵を限り 生まれ故郷の国定の村や、縄張りを捨て
  国を捨て、可愛いこぶんのてめえたちとも別れ別れになる門出だ~」
                   (国定忠治 赤城山)

 「旅ゆけば、駿河の国に茶の香り、名代なる東海道、名所古跡の多い
  ところ、中に知られる羽衣の、松と並んでその名を残す、海道一の
  親分は清水港の次郎長の~」
                   (森の石松 金毘羅代参)
                   

わたしはこれらのセリフの面白さと懐かしさに引き込まれ、「ねね、ちょっとおいでよ」と娘を傍らに呼び、これも覚えてる、これも!と大声出して一気に読んだものである。

これら18番のセリフをわたしは学校の教科書で覚えたわけではない。更に言えば、歌舞伎など生まれてこの方、まだ一度も観劇したことはない。子供のころからこれらのセリフをわたしは母を通して耳にし、自然に覚えたのだ。

母は大正生まれであったが、当時の人にしてはモダンでわたしたち姉妹を連れては、よく外国映画を見に行ったものである。しかしその母は任侠物も好きだったようで、機会あるごとにわたしたちを前にしては朗朗と詠んだものだ。幼かったわたしはそれを耳にして覚えたに違いない。

尋常小学校4年を出ただけにしては書物が好きな人であった。晩年まで枕元に文庫本を目にしない日はなかった。読んでいた本は、池波正太郎、柴田錬三郎、平岩弓枝、藤沢周平と時代物がほとんどで、母は言ってみれば、好みが和洋折衷の人だったのだ。

サウジアラビアのジェッダに赴任することになった妹夫婦の家族と長年同居してきた母を厳しい気候条件の砂漠の国に連れて行くことはできないと、当初は妹たちが帰国するまでポルトガルのわたしたちと住む予定になっていた母だったが、渡航前になり「異国で死ぬのはイヤだ。」と言い出して結局学生二人の甥たちと所沢の家に残ることになった。

しかし、それが軽痴呆症の引き金になったようである。それまで妹夫婦の4人家族とワイワイ一緒に生活してきたのが、家にいるかいないか分からないような甥たちとの同居である。突然ひとりぽっちのようになってしまったのだ。80才になっていた母にこの孤独感はさぞかし堪(こた)えたに違いない。

当時大学院に通っていた甥からある日ジェッダの妹に、「おばあちゃんがおかしい。」と連絡が入った。公務員の規定で、またサウジアラビアという国柄故、すぐには出国できなというので、急遽わたしが一時帰国することになった。

それまでわたしが子供や夫を伴って帰国する毎に長い滞在をさせてくれ、ワイワイガヤガヤの思い出深い所沢の妹宅は、初夏だというのに冷え冷えとしていた。妹夫婦がジェッダに赴任してたった4ヶ月後のことだった。

母は夏だというのに、まだ冬の服を着たままでちょこんとリビングのソファに座って見るともなしにテレビを見ていた。その時初めてわたしは母に何が起こったか知った。

もはやポルトガルに連れて来るわけにもいかず、妹夫婦も赴任したばかりで帰国もならず、それでも急いでわたしの後に1週間の休暇をとり帰国してきた妹夫婦と3人で話し合った結果、母には「下宿」と称して軽痴呆の人だけ(自分の周りのことができるという条件がある施設)を受け入れる施設に入ってもらうことになった。

急なことだと言うのに施設が見つかったこと事態が幸運であったと思う。施設は幸い妹宅からそう遠く離れていないところにあり、入居する前に母も連れて行き、入居者20名くらいの施設の中を案内してもらい、「ひとりぽっちだど寂しくなるし、わたしたちも心配だからね」と母を説得して入居してもらうしかなかった。

妹夫婦が先にジェッダに帰り、母の引越しはわたしと甥とですましたのだが、いよいよわたしがポルトガルに帰る段になり、それまで毎日訪問してきた施設に母を最後に訪問した日のこと。

「大丈夫。わたしもしょっちゅうおばあちゃんの顔を見に行きますから。」と親切にも車で施設まで一緒に行ってくれたお隣の奥さんの車に乗り込んだのだが、玄関前まで出てきて、小さな姿でわたしに手を振る母を見て、お隣の奥さんが運転する側でわたしは溢れ出る涙を何度も何度もぬぐった。

母は施設に2年ほどもいただろうか、2003年2月9日にみまかった。今日は母の命日である。母の葬儀は、読経のない花と音楽の葬だった。費用の高い戒名はいらぬと同居していた妹の話では、自分の葬儀はそのようにできたら嬉しいと洩らしていたようだ。

わたし達は市の斎場の一室を、そして、棺の周りをたくさんの花で飾り、母の好きだったタンゴの音楽を流し続けた。蒼空、黒い瞳、ブルータンゴ、奥様お手をどうぞ、真珠採りのタンゴ・・・それを聴いていると、パートナーなしでも、まるでそれがいるかのようにわたしたちの前で一人踊っていた母の姿が思い起こされる。

近所や行きつけの店の人達の間では、ちょっとおしゃれで元気のいいおばあちゃんとして知られていたようで、わたしたち家族の他にそういう方たちが集まって母をしのんでくれた。

間もなく今年も、所沢の妹宅のすぐ側にある母が愛した桜並木の花が咲き始めるだろう。自然はこうして一年をぐるりと経て、再び芽吹く。人間の生は、と思い巡らすとき、わたしは遥かな宇宙の神秘に心を馳せずにはいられない。肉体が滅びた時にわたしたちの生命の種は終わるのだろうか。それとも子孫を経て巡り巡って再び植物のように芽吹くのだろうか。

Maktub。「全ては書かれてある」というアラブの言葉にあるように、宇宙の全ては、大いなるものの手による法則で始めから定められているのだろうか。

母がみまかって今年で14年になる。待てよかし。母よ、やがて我もまた逝かん。

本日の記事は過去に書いたものに少し手を入れました。
長い拙文を読んでいただき、ありがとうございます。

では、また!

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2017年2月7日 

雨が降るやも知れぬという曇り空の下、昨日の日曜日は、4人仲間の定例昼食会があったのですが、待ち合わせ小一時間ほど前に家を出て、久方ぶりにポルトの街にカメラを向けてみました。

今日は、レプブリカ広場(Praça da Repubulica)から始まる「Rua de Almada(アルマーダ通り)」の紹介です。一昨年までわたしは毎土曜日、Lapa 教会前にあったYY日本語塾の授業を終えるなり、次の日本語授業が待ち構えていた市立図書館へ向かうのに、この道を車で通るのが習慣でしたが、起点から805mの長い坂道を歩くのは、今回が初めてです。

18世紀半ばに開通したアルマーダ通りは、ポルト中心がフェルナンディーナ城壁(Muralhas Fernandina)に囲まれていた当時、城壁外で一番最初の大きな通りだったと言われます。

余談を言えばフェルナンディーナ城壁の追っかけは、20年ほど前からしたいと思いながら、まずは街の勉強からしようと言うので、少し資料を集めながらも今日までそのままになってきました。自分としては、そろそろ、城壁調査を始める時期だと思っています。

さて、写真でご覧のように、坂道の向こうにはドウロ川を挟んだ隣町ガイアの街並みも窺えます。

Rua Almada Porto

この通りのハイライトは、入って直ぐ左にある、通称ぺスターナス礼拝堂「Capela dos Pestanas」です。一目見て以来ずっと興味をもってきたのですが、こうして取り上げるのは初めてではないかな?

「Pestanas」は何かと言うと、「まつげ」こと「pestana」の複数。礼拝堂の名前としては、少しひっかかったのですが、以前この前を素通りしたときに、「面白そうなカペラだ」と言うわたしに、夫が「病院の同僚の一族のだ」との答えが返って来、「へぇ、すごいのね」と思ったことがありました。ひょっとすると、これは一族の名前からとったのかも?と、夫に今回きいてみましたら、案の定、同僚の苗字はPestanasなり。正式名はCapela do Divino Coração de Jesus。

rua almada Porto

正面から撮ったネオゴチック建築のぺスターナス礼拝堂。下は裏からの撮影です。後ろから見た感じからですが、内部は八角形になっていると予測します。

Rua Almada Porto

通称名「ぺスターナ礼拝堂」の由来を調べてみました。実は礼拝堂のすぐ横、アルマーダ通りは始まる角にある建物が、かつては一族の住まいでぺスターナ邸宅(Palacete (小宮殿、邸宅の意味) dos Pestana. )↓

Rua Almada Porto
この画像はWikiより。後ろに礼拝堂が見える。

1974年4月25日のサラザール独裁体制を倒した「カーネーション革命」の際に、暴徒たちによる破壊を受け、その後、修繕されて現在は市が所有しています。写真右の建物がそれです。

Rua Almada Porto

向かいに見える黄色の建物は、「Casa das Aguias(鷲の家)」。屋根には鷲の像が見られます。現在は弁護士会の建物になっているようですが、かつては富豪の邸宅でした。

Casa das Aguiasは、その美しい天窓で過去に拙ブログでとりあげています。よろしかったらどぞ。

美しいポルトの天窓

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2017年2月3日 

bebyclothes1.jpg

トップにこんな写真なんぞを載せると、「spacesisさん、ついにお孫さんが!」と来そうです(笑)

そうではなくて、これらのベビー服は赤ん坊の我がモイケル娘に着せた物で、ほとんど新品に近いのでずっと今日まで取ってきた衣服の一部です。写真は全て一歳未満の時に着せた服です。

それを今、こうして懐かしんでお蔵入りだったのを引っ張りだしてきた、という訳ではありません。

少し前に、日本へ行くのが目標だった日本語の生徒、H君の話を書きましたが、日本へ行くとなると色々物入りなのと、できるだけ渡日前に散在しないようにと、今わたしが使っていないキャリーバッグの寄付を申し出たのです。それを渡すために中身を取り出したら、出てきたのがこれだったということなのです。

「ひゃ!なんてちっちゃい、なんて可愛い!」と並べて、思わず写真を撮らずにはおられませんでした。子どもたち二人がそれぞれ所帯を持ったら、手渡そうと手元に置いてきたアルバムがあります。

album

アルバムは写真入の成長の記録です。息子、誕生時の体重は3300g、モイケル娘3200gとあり、どちらも問題なく生まれ、大病することなく成長してきました。息子の記録は比較的細かにとってあるものの、6年後に生まれた娘の記録は、二人の子育てにおおわらわで、いい加減になってしまいました。

内容はどんな風になっているかと言うと、こんな感じで、初めての誕生パーティーのお客さんやもらったプレゼント、それに体重、身長の記録、初めての言葉、初めての友達(娘の場合は、当時買っていたネコ、息子は犬のクラウディウ)などなど、この記録を満載に持っていけなかったのが、今にして見れば少し残念です。

album_joao.jpg
息子のベビーアルバム

保存するものに関しては、どちらかと言えばアナログ思考のわたしです。かつて補習校で、年に一度発行する学校の写真アルバムを、CDに切り替えようと言うデジタル提案がもちあがりました。予算節約と編集の手間がかかるということ、それに、CDの方が現代的であるというのが理由でしたが、子どもの記録をパソコンで見る老いた自分の姿を想像するにつけ、なんだかなぁと、大いに反対したことがありました。

写真そのものならば、手近にあるアルバムを開けばすぐ見られるのに、CDに収めると、まずパソコンを開かないといけない、そして、パソコンの前でアルバムを見るというのも、感慨がいまいちやなぁなんてわたしには思われたのですが、時代の流れに適わず、結局、多数決で押し切られてしまったものです。

書棚に並んである何冊もの補習校の写真アルバムは、折々手に取り開いて懐かしんだりするのですが、パソコンは毎日のように開くとくのに、CDに収められた写真集は、正直なところ、どれもまだ一度とてパソコンに挿入したことはなく、薄いケースに入ったままです。人の好き好きによるのでしょうか。

こんなにもちっちゃな靴下、こんなにもちっちゃな服、そしてベビーアルバムを開きながら、息子よ、娘よ、思えば無事に大きくなったものです。娘は昨秋、ようよう片付きましたが、後は、意外と癖の多い息子、愚や愚や、汝をいかんせん。おーっと、字違いなり!虞や虞や汝をいかんせん、でありましたっけ(笑)

モイケル娘よ、これは、項羽と劉邦の中国楚漢戦争の折、劉邦の漢軍に囲まれた「四面楚歌」の最後の場面、別れの宴席で、心残りになる愛妾の美女、虞美人と愛馬の騅(すい)を思い、「虞や虞や、お前をいったいどうしたらいいものか」と涙した項羽の歌なのであるよ。

断捨離を始めたと言いながらも、捨てられないものがあるのであります。

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人からは駄作と思われようと、我が人生の傑作なり(笑)

本日もお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは!



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