2017年4月24日 (月)

今日明日と、4月25日の休日に因んで、二つの過去記事に少し手を加えたエントリーをあげたいと思います。

4月25日の明日は、俗にVinte-cindo de Abril(ヴィンテスィンコ・デ・アブリル=4月25日)、或いはカーネーション革命と呼ばれ、ポルトガル人に取って特別の日にあたります。

1974年に、ヨーロッパでも最も長かった独裁政治を終わらせた無血軍事クーデターが起こった日です。わたしがポルトに来たのは1979年の春でしたから、ポルトガルがサラザール独裁政権から自由を奪回してまだたった5年しか経っていなかったことになります。

当時のポルトを振り返れば、街全体が薄汚れた感が否めず、好きな人の国とは言え、「大変なところに来ちゃったなぁ」と索漠とした思いを抱いたのが正直なところです。近所の年端もいかぬ子供の口から、野良犬を相手に棒っきれを振り回しながら「ファシスタ!」と言う言葉が聞かれたのには、ギョッとしたものです。その野良犬は、後にわたしの愛犬になるというオチがあるわけですが。

日本語を学ぶわたしの若い生徒たちはそんな時代のポルトを知らないわけで、時に授業の流れで当時のポルトを語ることもあり、今やわたしは語りべのグランマ(Grandmother)もどきです。また、同年代の生徒さんたちとは、あんな時代があったと話し合えたりして、授業の潤滑油になること、しばしばです。

一度、日本からポルトガルにやってきた甥をコインブラ大学に案内した際、学生下宿が多く並ぶ昔のままの姿を残す大学周辺の細い路地を散策したことがあります。夫もコインブラ大学医学部に籍を置き学んでいたのだそうですが、その折に一軒の下宿屋の外壁に、人の顔を描いた青タイル絵がはめ込まれているのを見つけました。 

「Zeca Afonso、学生時代にここに下宿」と書かれてありました。カーネーション革命に彼の名は欠かせないのです。

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本名はJose Manuel Cerqueira Afonso dos Santosですが、Zeca Afonso(ゼカ・アフォンソ)若しくは単にZecaとして知られます。

幼い頃から健康に恵まれず、裁判官として当時のポルトガル領アフリカ・モサンビークに赴任した親兄弟と離れて、本土の親戚の家で育ちました。

学生時代にコインブラ・ファドを歌い、地方の人々の暮らしや伝統にまつわる音楽を自作し、後にAlcobaça(アルコバッサ)の高校でフランス語と歴史の教師を勤めながら(この職もやがて追われる)、社会問題を取り上げた作品を多く自作して歌い、この頃からZecaはサラザール独裁政権に対する反ファシスト地下運動のシンボルにされて行きます。

やがて、Zecaの歌は放送禁止となり、コンサートの多くは政治警察によってキャンセルされ、投獄されます。その名前も検閲にひっかかるようになり、そのため「Esoj Osnofa」というアナグラムを使ったり、レコーディングをフランスやロンドンでしたりします。この間、共産党入党に招待されているも、彼は断っています。

1974年3月29日、満席のリスボンのコリゼウ劇場で催されたZeca を始めその他多くのミュージシャン共演コンサートの最終幕で、彼の歌、 「Glandra ,Vila Morena」(you tube)が全員で高らかに歌われましたが、この時会場には密かに準備されていた4月革命のMFA(国軍運動)のメンバーが聴衆に混じっており、革命の「カウンターサイン」として、この「Grandla 」の歌を選んだと言われます。


  
註:Grândla =グランドラは南部アレンテージュ地方にある小さな町の名前。Zeca Afonsoはローカル色豊かで素朴なこの歌でグランドラの人々の同胞愛を歌っています。始めの部分は無音から入っていますが、辛抱強く待ってみてください。

1974年4月24日午後10時55分、革命開始の合図として最初にPaulo de Carvalhoの歌、「E depois do adeus」(そして、さようならの後で)がラジオで流され、それを合図に革命は静かに始まりました。約1時間後の翌4月25日真夜中00:20、ラジオルネッサンスで流された「Grândla 」は、「全て順調。行動に移れ」の二度目の合図で、これを聴いて左翼の若手将校たちが先頭になり無血革命の出撃が始まったのです。

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4月25日朝、クーデターを知った民衆は続々と町へ繰り出し、リスボンのアベニーダ・ドゥ・リベルダーデ(自由通り)は民衆と革命軍で埋め尽くされ、兵士たちの銃にはこの自由の勝利を祝って、民衆が投げたカーネーションの花が挿し込まれていました。以来、ポルトガルではカーネーションは自由のシンボルになりました。

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Zecaは1983年に、かつて追われた教師の職を再認定され復帰しています。この年にはその功労をねぎらう行賞が与えられましたが辞退し、1987年2月23日Setubal(セトゥーバル)にて病没。3万人が葬列をなし、棺は遺言通り何のシンボルも持たない真っ赤な旗で被われたと言われます。

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享年58才、どんな党への所属なく勲章なく、ポルトガルの自由を夢見、歌を武器に闘った抵抗の歌人です。

思想の右、左関係なく、貧しくとも自由のある生活をわたしは望みます。生活を向上させたいとがんばり努力できる自由。書物を選び読みすることができる自由。枠にとらわれず自己表現ができる自由。国の政策を言葉や態度で批判できる自由。

この当たり前に思われる自由を、わたしは今毎日空気のごとく全身で吸っています。、ポルトガルが40年ほど前は言論の自由がない国だったとは思えないほど、それは歴史の一部になりました。秘密警察がいたサラザールの独裁政治時代をわたしは知りませんが、おぞましい社会であったろうことは想像してみることができます。

自由であることがどんなに素晴らしいかを今再び思い出すために、わたしたちは歴史を振り返る必要があるのです。

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2017年4月21日 

幼い息子とわたしがかつて滞在したことがある木造の母屋は雨戸が閉められており、戸板はかなり傷んでいて廃屋です。

わたしに劣らずネコ好きな宝木嬢です、常に5、6匹は居候していた広い庭も荒れ放題です。母屋のすぐ後ろにあるモダンな玄関を持つ離れに足を運び、ひょっとして老人ホームに入っている可能性もあると考えていたので、いるかな?と思いながら呼び鈴を2、3度押しました。

しばらくすると、「ちょっと待ってね」と家の中から声が聞こえます。紛れもない宝木嬢の声です。じっと待つこと数分、ドアが開けられ白髪のパジャマ姿に杖をつく彼女の姿が目の前にありました。

「こんにちは。宝木さん、わたしを覚えていますか?」
かけていたサングラスを外しながら言うと、「え、ソデバヤシさん!」と大いに驚いた様子です。上がりかまちを上がるとすぐがリビングになっています。

昔から整理が苦手な彼女です、相変わらず者が散在しており、リビングの真ん中にある大きなテーブルはなにやかにやで一杯です。わたしが滞在した間は、せっせと家の中を磨き、後片付けをしていたもので、「ソデバヤシさん、あれはどこやの?」と言うことがしょっちゅう。一体が誰の家だったのか(笑)

母屋にあったピアノはそのリビングの隅に置かれ、3匹のネコが椅子を占領していました。

何度電話をしても通じないので、こんな風に突然の訪問になってしまったとのわたしの話に、宝木嬢、
キョトンとしております。そのうち、電話番号が変わったかなぁ、などと言い出しましたが、変わった電話番号も覚えていません。

なにやかにやで一杯のテーブル、その中に携帯電話があるのが目に付きました。ははん、なるほど、携帯があるとなると固定電話は恐らく必要なくなったのであろう。 これは多分、あまりああだこうだと、物事をしつこく聞いたりしないほうがいいのではないかと思い始め、仕方がない、電話番号の件は諦めたのでした。

同居人のマックの姿が見えないので、「マックは今日お出かけ?」と問うと、「マックは去年の11月に亡くなりました」

え!予想もつかなかったその言葉に一瞬言葉を失ったわたしです。なにしろマックと言えば、のらりくらりと定職にもつかず、趣味で絵を描いてみたりピアノを弾いてみたりと好き勝手な暮らしをしていた彼をわたしも周囲も知っているのですから、言うなればマックはジゴロであるよ、と宝木嬢の手前、皆、口には出さねど、心中そう思っていたはずです。

わたしと息子が数ヶ月滞在した間には二人の口喧嘩も耳にしており、宝木嬢も時にお手上げ状態がなきにしもあらず。何度か別れ話に及んでも結局また元の鞘におさまるという関係でした。

もはやマックの好き勝手なジゴロ生活を支える余裕がなくなったであろう宝木嬢です、一回り以上の歳の差も気になります。わたしが今回訪れたのには、ひょっとして、宝木嬢、彼からムゲな扱いを受けてはいないだろうかとの懸念があったからです。
それが、なんだって?マックが先に・・・・享年65才。

「周りからは奇異な目でみられるけれど、音楽や絵の話もできるし山登りも共通の趣味やし、ボクは宝木さん、好きやねん」
と、弁解でもするかのように聞かされたことがあります。その時は、エディット・ピアフと20歳も年下の夫、テオのことを思い出し、「いいやないの、それで」と、答えたものだが、病身のピアフに献身的で、彼女の死後ピアフが残した借金を全て返済したというテオを考えると、ジゴロもどきのマックを見るにつけ、なにやら徐々に心配になっていたのが本心でした。

去年11月の、とある金曜日に入院し月曜日にはみまかったと宝木嬢、何の病気だったのかと聞いても思い出せない様子で、ショックであったろうに、わたしはここでもしつこく問いただすのは止めました。

週に何度か介護支援の人が食事を作りに来、デイケアサービスも受けている84歳の宝木嬢、パジャマ姿でいたものの、両手の指には大きな石がついた指輪をはめていました。ビアハウス時代から宝石好きだものね^^

恐らく、彼女は長年のビアハウス常連でよく知っていた一人、コジマ氏がしばらく前に鬼籍に入ったのを知らないであろう、一人、また一人と、あの頃の懐かしい面々が去っていくのを目の当たりにするのはどんな思いであろうかと、少しは想像できる年代に入ったわたしである。そっとしておくことにしました。

息子と娘の写真を見せながら彼らの近況を知らせ、長居は無用、かえって宝木嬢を疲れさせるであろうと腰をあげました。転ぶと危ないから見送らなくてもいいというわたしを、「山登りで足腰を鍛えてきたんだから」と、杖をついて庭まで出てくれた宝木嬢、遠国に住み何もしてあげられないもどかしさと、これから先の彼女のことに後ろ髪を引かれる思いで三宝町を後にして来ました。

恐らく返事がこないであろうが連絡の手段は手紙にしよう、そう思っています。

最後に、マックが生前わたしにくれた彼の父御の死を悼んで編集出版した昭和の時代を語る写真集の一部を紹介して、わたしのマックへのレクエイムにしたいと思います。表紙の編集者の名前から分かるように、マックとは「牧雄」に因みます。

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2002年発行

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祖母が来た日

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まんがとテレビの夜

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紙芝居

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紙芝居

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三ノ宮駅

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水辺

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春の庭(幼児期のマックであろうと推測)

昭和の残像を心に刻みながら、同時代を生きたマックよ、さらば。

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2017年4月20日(木)

日本からポルトに戻りました。日本滞在記は後日ぼちぼちと綴って参りたいと思います。

今回は大阪に気になることがあり、どうしても行かずんばなるまいと数年ぶりに行って来ました。
それ故、故郷の弘前へは時間的経済的に余裕なく、訪問できなかったのですが、シマ、タコ君、もし、このブログを読んでいたとしたら、許されよ。次回は必ずと思っています。

今日は、その、気になっていた大阪は堺でのことを書いてみたいと思います。

ポルトガルに来て以来、近況を報告がてらご本人の様子を知りたいと思い、時折、国際電話をかけて話していた、梅新アサヒビアハウスでの歌姫バイト時代の先輩、宝木嬢がいます。

息子が2歳、5歳の時は、帰国して所沢の妹宅から堺の宝木嬢宅に移動し、数ヶ月も親子で滞在したことがあり、子どもがいない彼女は「ジュアン君、ジュアン君」と随分と息子を可愛がってくれたものでした。

それが、日本語教室の仕事やボランティアの影絵上映、日本文化展示などでポルトでの日常生活が忙しくなり、この2年ほど連絡をつい怠ってしまったのでした。これはいかん!と思い出し、宝木嬢宅へダイヤルを回したところが、何度電話を試みても、その電話番号は現在使われていないとの電話局のアナウンスです。

当時のビアハウス時代の知人たちを介して訊ねてもらっても、どうも近年は宝木嬢との付き合いが途絶えたようで、ハテ、どうしようかと思っていたのです。和歌山にアトリエを構える木彫家である我が親友のみち子は堺市に住むのですが、彼女ともここ数年会っておらず、今回の帰国を機に、堺を訪ねることにしたのでした。

宝木嬢については、「あの頃、ビアハウス」シリーズで綴っていますので、本題に入る前に紹介させてください。以下、引用。

―あの頃、ビアハウス:すみれの花咲く頃―
    
♪ 春すみれ咲き 春をつげる
  人なぜみな 春を憧れ待つ
  楽しくもなやましき春
  愛の夢にいつも 人の心甘く酔わす
  そは すみれ咲く春

 すみれの花咲く頃~ 

ご存知、「宝塚歌劇団の歌」として広く世に知られている「すみれの花咲く頃」のイントロです。おそらく誰もがこの歌を耳にした記憶があるのではないでしょうか。宝塚歌劇「パリゼット」の主題歌として取り上げられ流行しましたが、もとはといえば、オーストりアの歌がシャンソンとして歌われたとも言われます。

このイントロの後に、「すみれのは~な~咲く~ころ~」と歌が始まる時には、ビアハウス場内がみな一斉の合唱になるのでした。春を待ち焦がれる者と、遠き春をしのぶ者と、馳せる心は皆違うだろうが、それぞれの思い入れがこの大合唱からうかがわれるのでした。

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アサヒビアハウス梅田時代の我が先輩歌姫宝木嬢

「アサヒ・ビアハウスは人生のるつぼである」とわたしは常に思ってきました。ここは恋あり歌ありの人生劇場で、ビアホールを訪れる多くの客を目の当たりにし、少なからず数編の恋物語をビアハウスで読んだ感がわたしにはあります。

ここで出会って別れた人たち、出会ってハッピーエンドに結ばれた人たち、苦しい恋をずっとここでひきずった人たち。さまざまな歌の合間合間に、アサヒ・ビア・ハウス人生劇場の登場人物たちが思い出の中でフラッシュ・バックする古き梅新アサヒビアハウスはその魅力で未だにわたしを捕えて放しません。

宝木嬢が歌う「すみれの花咲く頃」は、素晴らしかった。

わたしより一回り以上年上の彼女は、当時すでに40代半ばを過ぎていたと思う。その独身の彼女と一回り以上も年下の男性、(と言うことは、わたしと同年代)マックとの恋は周囲をドキドキ冷や冷やさせながら、数年間、ビアハウスの客たちの話題をさらっていました。

ビアハウスのバイトが終わると、わたしはその二人と連れ立って、梅田地下街あった、京美人の姉妹が営む小さなカウンターの食事処に腹ごしらえに誘われて行ったことも何度かあります。

アメリカ移住の夢を放り出し急遽アリゾナから日本に帰国し、その後、ポルトガルに嫁いだわたしは、2度ほど、一時帰国中、堺にある宝木嬢の家に、幼児の息子を伴い数ヶ月滞在しながら、ビアハウスでカムバックしては歌っていましたが、この時期、宝木嬢と恋人マックが同居している中に加わったのでした。

少し面白い同居人構成ではありましたが、宝木嬢の自宅は、上空から見ると、ひしめき合った民家の中で、そこだけ緑がこんもりとしていると言われるほど、結構広い自然体の庭があったのです。そして、その庭たるや、何匹もの猫たちが住人でもありました。ネコ好きのわたしも息子も大いに数ヶ月の滞在を楽しんだものです。

恐らく未だに同居していると思われるのだが、あれから四半世紀以上を経た今、果たして宝木嬢とマックの恋の結論はどう出たのだろうか、と、春まだ浅い頃には、この歌に思いを馳せるのです。
  
♪すみれの花咲く頃 今も心ふるうよ
 忘れな君 我らが恋 すみれの花咲くころ

この恋物語だけは、わたしの中で未完なのです。―
引用終わりー

帰国した翌週に、今回は新幹線でなくANAの飛行機で、親友が車で迎えに来てくれるという関空に降り立ちました。「この時間ならまだ間に合う、ソデさん、行こう!」と、そのまま高野山へ行き、その日は古い屋敷に手を入れた彼女の和歌山のアトリエに泊まり、事情を話して翌日宝木嬢宅へみちこの車で向かいました。

わたしがバイトで歌っていたことから、みちこもビアハウスとは少なからず縁があり、宝木嬢を知っているのです。

宝木嬢が住む通りの家並みは、新しくコンビニができたりしていたものの、わたしが滞在した頃と大きな変化はなく、コンビニの二軒先の彼女の家は、小さな門が寂れてはいるものの、ほぼ昔のままに。

連絡の手立てが立たなかったもので、突然の訪問です。80歳をとうに越したであろう宝木嬢は、果たして元気でいるのか。マックが同居しているとしたら、彼女の面倒をきちんとみているのだろうか、そんな不安な思いで、半開きのままの寂れた門をギィ~と音をたて、懐かしい庭が広がる敷地内に足を踏み入れたのでした。

―続くー

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2017年4月13日

前回の我が愛犬、クラウディウにまつわる話です。2006年に書いた過去記事に少し手を加えました。
今日の記事は長いです。

しばらく前に、友人のゴッチが、「クラウディウのその後を知りたいなぁ」とメッセージがありました。「うん、近々エピソードであげるね」と言いながら、長い間、書かずに来てしまいまし。本心を明かすと少し辛い思い出もあり、それを超えるのに時間がかかったのです。

クラウディウと言うのは、わたしがポルトガルに来た27年前に出会った野良犬です。「ポルトガルの犬:我が友クラウディウ」に出てきますが、クラウディウは左目が少しつぶれているのと、左の口元から白い牙がかすかに出ている、いわゆる出っ歯でした。
 
名前の所以はローマ帝国皇帝の中で、体に少し不具合があったが故、最も皇帝らしからぬ皇帝と言われた「クラウディウ皇帝」にちなむのですが、我がクラウディウもとても皇帝の名からは程遠い、臆病な犬ではありました。庭無しの義母に家です、夜や雨 の日はベランダで休みますが、日中は外です。これがクラウディウを我が友にする際の義母との約束でしたからね。

息子のお産でわたしが4日ほど入院した時は、ほとんどエサも食べず、夫とわたしの部屋のドアの前に座りこんで、叱られてもガンとしてそこから動かなかったそうです。

退院して息子のジュアン・ボーイを腕に抱き家の階段を上りましたら、クラウディウが尾を振って待ち構えておりました。が、わたしの腕に抱かれている赤ん坊を見た瞬間、彼は悟ったのでしょう、「あのちっちゃなものが、若奥さんの大切なものなのだ」ということを。声をかけるわたしに擦り寄ってくるでもなく、スーッと席を外したのでした。
   
クラウディウのエピソードはたくさんありますが、なんと言っても忘れられないのは、「我が友クラウディウ」にある大晦日の出来事と次のハプニングです。

毎年夏になると、わたしたちは2週間をポルトガルの北部山中にある、ミネラルウォーターでも有名なPedras Salgadas(塩っ辛い石の意味)と言う保養地で過ごしました。そこは空気もよく、プール、テニス場、公園があります。ホテルを含む広い公園一帯が自動車乗り入れ禁止になっており、安心して散歩もできます。

この年はわたしたち親子3人と(モイケル娘はこの4年後に生まれるのであります)、夫の母も同行の休暇でした。

さて、クラウディウはどうする?当時はさほど心配もいりませんでした。もともとがバガブンド(放浪者)のクラウディウ、路上寝はお手のものです。すぐ近くに住んでいた義兄に夜呼び入れるのを、日中のエサは近所の人にと頼み、休暇に出かけました。

二週間後、夜8時ころに休暇先から帰って来、クラウディウを呼んだところが、エライことになっておりました。恐らくその日に起こったのでしょう、あちこち噛み傷があり出血して息も絶え絶え!荷をほどくのもそっちのけで、夫はすぐ自分の病院と薬局へ走りました。

麻酔薬、注射針その他を買い込んで来た彼、呼ばれてやってきた義兄を助手に、クラウディの傷口10数箇所を縫うこと、3時間!
何しろ、大事なタマタマちゃんまで、破れかかっておりましたです・・^^;
「んもう!いい歳して、きっと雌犬争奪戦に自分も加わったのね!ったく、男ったらしようがないんだから!」と、
一段落ついて後の皆の大笑い。
   
動物の回復力は素晴らしいものです。わたしたちの心配をよそに、クラウディウは見る間に回復し、傷も癒えて、またいつもの生活パターンに戻りました。これ以来、夏の2週間の休暇は、申し訳ないが義母が家に残ることとなったのでした^^

それから4年、この間に我が家にはもう一匹、ルルと言う捨て猫がペットとして加わり、モイケル娘が誕生」しようとしていました。

義母の家はモイケル娘が生まれることで手狭になり、わたしたち親子は同じ通りの20数メートルほど先にある庭付きの古い借家へと引越しすることになりました。

ところが、家猫のルル、庭があると言うのに庭へ出るのを怖がり、とうとう死ぬまで一度も庭へ降りることはありませんでした。
クラウディウに至っては、これでやっと自由に家で飼えると思ったのに、なだめてもすかしても、これまた新しい住居の庭にはテコでも入ろうとしません。結局義母の家で夜寝るという、これまでの習慣通りにすることにしました。

そんなある日のこと、保健所が再びやってきて2匹の野良犬を捕獲して行った、そのうちの一匹がまたしてもクラウディウということが分かりました。ドンくさい犬なのです・・・

その日の夕方、夫はわたしたちの区域マイア市の保健所へ出かけ、クラウディともう一匹、この通りではお馴染の大型犬で、向かいの人が可愛がっていた野良犬が捕獲されたのを知ったのでした。

このとき、初めてわたし達は、クラウディウを我が家の犬として登録することにしました。かなりの老犬だということで、もう予防接種も不必要だと言われ、翌日、引き取りに行くことになりました。

翌日、夫が引き取りに行ったところ、保健所の言うことには、夜のうちに二匹の犬が入れられていた檻のドアが、何者かによってこじ開けられ、犬の姿はなし。してみると、クラウディと一緒に捕まったと言うお向かいのお気に入りの大型犬、いつの間にか、ちゃんと帰っているではないか!そんなバカな!・・・

夜中に保健所に忍び込み、檻のドアをこじ開けたのは一体誰か、一目瞭然。それならば何ゆえ我がクラウディウも一緒に連れて来なかったのか。人を恐れる犬でしたから、怖がって自ら逃げたのかも知れません。

その日から、わたし達は幾度も機会を見てはマイア市まで出かけて行き、保健所のあたりを車でグルグル回っては、クラウディウの姿を目で探しました。近所の人が、「あの辺りで見かけた、この辺りで見かけた」と言う話を聞いては、出かけて行き、行方を探したものです。

その年の冬が来て、春が来て、夏が来・・・いつしかわたし達は探すのを諦めてしまいました。
   
フランスの「ラ・フォンテーヌ」の寓話集に「狼と犬の話」があります。
   
骨と皮とに成り果てた狼は肥えた番犬に出会う。犬は狼に言う。「一緒に来ないか。ずっと楽に暮らせるよ」 
狼は一時、幸福を夢見て犬に従うが、ふとその首筋に禿げたあとを見る。
訊ねると、「なに、つながれている首輪のあとさ。」
「つながれて?それではお前は好きなところへ走っても行けないのか?
どんなご馳走ずくめでも、俺はごめんだ」
狼はそう言うなり逃げ去った。

クラウディウの思い出は、すっかり遠い懐かしいものになってしまいましたが、その最後を思う時、わたしの胸は今でもキリッと痛むのです。しかし、ラ・フォンテーヌの狼の話を思い出し、野垂れ死にもまた、自由であったことの代償であろう、と自分の気持ちを少し誤魔化すことにしています。

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2017年4月11日

前回話に出ました「クラウディウ」という犬について今日は書きます。もう38年も昔の話になります。

ポルトガル語も分からず、英語もほとんど通じない環境で、しかも当時は夫の家族である、義母、その姉二人、つまり3人のお年寄りとの同居でありました。 いやぁ~、この6年間はもう大変なものでありましたよ。今日のわたしの隠された我慢強さ、したたかさはこの同居時代に培われたものと自負してますです^^ おっと、話がついそちらの方に流れそうだ。

さて、日本人が一人もいなかったそんな環境での明け暮れでした。近所の5、6歳の子供たちに「ファシスタ!」とののしられていた老犬が路上で寝ているのを表通りに面したわたしたち夫婦の部屋のベランダから毎日見ていたのでありました。今と違って当時はのんびりしたものです。ねの通りは5、6匹の野良犬が道路のあちこちでゴロ寝している光景は当たり前でした。

老犬は小柄でビッコをひいており、右側の牙が少々突き出ていて、見るからに醜い。「犬だってイジメの対象になるのは、こんなのなのか」と思うと、当時の自分の孤独感も手伝って、俄然わたしはその犬に近づき始めたのです。

初めは近づくわたしを恐れて、逃げ隠れしていた老犬が次第に警戒心を解いていき、やがてわたしが玄関口で、「ヒューッ!」と口笛を吹くとすぐやってくるようになりました。それからです、庭がないからだめだ、と嫌がる義母さまを説き伏せ(ん?言葉がわからないのに、どうやって説き伏せた?そりゃぁ、あなた、身振り手振りですよん^^)、義母さま、ついに根負けして、「じゃぁ、日中は外、夜寝るときは仕方ないベランダ」ってことに相成りましてね。

「ヤッター」の気分のわたし、名前は迷うことなく、ローマ帝国の歴史上、小柄でビッコをひきもっとも皇帝らしくないと言われた
「クラウディウ皇帝」からいただいて、「クラウディウ」と名づけたのでした。

忘れもしない、わたしがポルトガルに来た年の12月31日。その日の夕暮れ時、いつもなら飛んでくるはずなのに、いくら呼んでもクラウディウは現れず。すると、近所の人が、「午前中保健所が犬捕りにやってきて他の犬たちはみな逃げたのに、クラウディウだけはその場にうずくまってしまい、網にかかってしまい連れていかれた」と言うではないか!

孤独な異国での生活で初めて心を通い合わせた相棒です、半ベソをかいて夫になんとかしてくれと泣きつきました。夫が保健所に電話で問い合わせしたところ、すでに病院送りになったとの返事。 「病院ってどこの病院?サン・ジュアン病院!あなたの病院じゃないの!」

日も落ちかけた大晦日、わたしは夫とともに人がいなくなった病院の実験薬殺用の犬たちが入れられている檻のある棟に忍び込みました・・・

建物と続いて周りが高い網でとりかこまれたその大きな檻には何十匹もの犬たちがうろうろ不安な眼をして動き回ったりうずくまったり。それは心の痛む光景でした。

「こんなたくさんの犬の中に本当にクラウディウはいるのだろうか」と思いながら低い声で必死に叫びました。「クラウディウ、クラウディウ」

やがて檻のずっと奥の方からヨロヨロと出てきたクラウディウはわたしたちを見るなり喜び吠えです。しかし、どうやって檻から出すのか?・・・・・ すると、あった!犬が逃げようと試みでもしたのだろうか、網の一部が破れてる!夫が素手でそこをこじあけこじあけ、やっと小柄なクラウディウが出られるくらいの大きさに押し広げ、ついにクラウディウを抱き上げたわたし達は、外に止めてあった車に押し込め、逃げること一目散!

破られた網に穴から他の犬たちも逃げたのは言うまでもないでありましょう。あとは野となれ山となれ。いずれ殺処分されるであろう犬たちへ、大晦日の贈り物だい!

そうして自宅へ着いたわたしたちも、そして車も、檻の中でウンコまみれになっていたクラウディウの匂いがしっかりついていたのでした。1979年12月31日大晦日のハプニングでした。

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2017年4月6日

これは、今から30数年ほど以上も前の、わたしが住んでいたポルトの通りでの話です。

この頃は、ポルトの街の至る所で野良犬を見かけました。当時はまだ犬を放し飼いにしてはいけない、という法律ができていなかったのです。ちょっと見だけでは、野良犬なのか飼い犬なのか見分けがつかないことも多かったのでした。犬はたいていは、近所の子供たちの良き遊び相手でした。

今では、日本同様、近所の子供達が外で遊んでいる姿も見かけなくなりましたが、当時は表通りで、サッカーをしたり祭りの焚き火をしたりして、子どもたちは暗くなるまで大声を出して遊んでおり、野良犬たちも一緒にボールを追いかけたり、焚き火の周りをぐるぐる走り回って喜んでいたものです。しかし、ご近所みなさんが犬好きだと思うのは間違いです。

決まって、とある犬嫌いのおばさんが、定期的に保健所へ電話をするのです。そうやって捕獲されて二度と通りに帰らない犬はたくさんいました。

さて、わたしのお気に入りだった野良犬の「クラウディウ」がそうやって捕獲されて、夫と二人で、(この事件については、次回に^^)とある病院からこっそり救出した事件以来、誰が言い出したのか、いつのまにかこの通りでは次のような不文律ができあがっていました。

すなわち、保健所の犬捕獲車を見かけたら、すぐさま表通りに面したそれぞれの家の小さな鉄格子ドアを開けて、路上の野良犬たちをドアの内側に引き入れること。ドアの内側にはたいてい小さな庭があり、そこは私有地になるのですから、捕獲車は侵入するわけにはいきません。

野良犬と言えども近隣の大人子供たちから、どの犬もめいめい勝手な名前をつけられて呼ばれ、えさを差し入れてもらっているのです。飼い犬ではないにしろご近所共有の路上に住む犬たちです。

通りに放されていない限り、犬を捕獲することはできないのですから、なかなかいいアイディアではありませんか^^で、捕獲車が去ってしまった後に、再びドアを開けて通りへ出す、というわけです。

ある日のこと、やってきました捕獲車!目ざとく見つけた人から順繰りにドアを開けて、早々とそこら辺の犬たちを呼んで各々の庭に招き入れました。これで安心だと思いきや、一匹が入り遅れてウロウロしてるではありませんか!しまった!と皆思ったものの、時すでに遅し。

黄色い制服を着た犬獲りびとが二人、大きな捕獲網を張りながらジリジリとその犬を追い込んで行きます。窓から顔を出しながらこの光景をわたしたちはみな固唾を飲んで見ていました。
「おお、coitadinho!」(コイタディーニュ=可哀相に)。
ポルトガル語で哀れみを表す言葉があちこちの窓辺やベランダから聞こえてきます

追い詰められてとうとう網にかかってしまった犬は網の中でまだ必死にもがいて抵抗していました。しかし、敵は扱い慣れて見事なものです、あらよあらよという間に網を絡めたまま、捕獲車の方へ運んで行き、檻に入れようと二人の犬獲りびとが網を空中に持ち上げた、まさに瞬間、奇跡は起こった!

犬が暴れて網が破れでもしたのでしょうか、スルリと犬が地面に投げ出されるように抜け落ちたのです!その瞬間、固唾を飲んで見ていた人々の口から、「ワー!」っと大きな歓声と拍手があがりました。もちろんわたしもその一人です。九死に一生を得たその犬は、一目散にいずこかへと逃げ去ったのでした。

大きな歓声があがった方向をギロリ睨みながら、苦虫をつぶした顔をして二人の犬獲りびとは我が通りを後にしたのでした。

今はと言えば、野良犬への規制もすっかり厳しくなり、路上で見かけることはなり、かつて生ごみは路上に置いていたのが、コンテナに入れて出すようになり、野良犬、野良猫、カモメまで、餌を得るのは簡単ではありません。

道路が清潔なことに、勿論異を唱えるのではありませんが、あの頃のことを思い出すにつけ、環境がきれいになって住みよいのは確かにいいのだけれど、あまりにも整然としてしまうと、犬猫好きなわたしなどは、どこか冷たく感じられたりします。

人間の生活もそこそこに整い、抜けているところがあった方が生きやすい、というのがわたしの思うところであります。

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2017年4月1日

昨年9月まで30年ほど狭い我が家を掃除に来てくれたお手伝いさんの、今日は話です。

週に2度、もう解雇したくも解雇できず、ずるずる今日まで19年間午前中の3時間、大きくもない我がフラットの掃除を頼んでるDona Belmiraが(ドナ・ベルミーラ)おります。倹約のために、もういいかな?と思ったりすることもあるのですが家族の一員みたいなもので解雇などもう出来なくなってしまいました。

Donaと言うのは、ポルトガル語で既婚女性の名前の前につけられます。例えばわたしの場合は、「Dona Spacesis」と言う具合です。奥さんということでしょうか。

さて、そのD.(Donaの略)Belmira、今朝我がフラットのドアを入るなり、自分が先日行った血液検査クリニックでの不満をまくし始めた。

ポルトガルでは血液検査は病院ではしない。それ用のクリニックがあり、そこで採血してもらい、後日検査結果を受け取けりに行き、それから、その結果を病院の担当医にもって行って診断を仰ぐのである。

何に立腹してるかといいますと、こうです。

どこもそういう検査のクリニックは人でいっぱいになるのは目に見えているので、家を朝早く出た。それでも自分の番号札は44番。じ~っと我慢の子、自分の番号が呼ばれるのを待っていたのだそうです。

段々44番に近くなり42番が呼ばれた。いよいよ自分の番だと思いきや42番から43番、44番をスッ飛んで50番と54番を看護婦さんが呼んだのだそうだ。

実を言えばこういうことはよくあるのです^^;
看護さんが番号を間違えるのではなくて、間に例えば知り合いとか、知り合いの紹介とかの人をサーッと間にいれるのでして^^;言うなればコネですね(笑)

しかし、D.Belmira、黙っておりませんです(笑)なんでよ。なんで43の次が50になるの!早速その場で看護婦をひっつかまえて、一席ぶった。

「ちょ、ちょっと、看護婦さん、お待ちよ。今、呼んだ番号、何番と何番?」
「この番号札、順番でしょ?」 「そうですよ」と看護婦。
「あたしゃ、44番なのよ。43の次がなんで50になるの?」
「あたしの里じゃ、43の次は44が来る。50は49の後と学校で習った。ここは違うのかい?」

ここまで聞いてわたしはキャハハハハと大笑いしてしまった。D.Belmiraは続ける。

さすがの看護婦もこれには抗しきれず仕方なく43、44と呼びなおした。しかし、Dona Yuko,その後がいけまへん。

「見てくださいよ、D.spacesis」と採血の痕がついてる腕をつきだして、「あの看護婦ったら、腹いせに2度も間違った振りして、針が通らないとこに突き立てて!」  見ると、腕の同じ箇所に3つの注射針の痕が確かにある。

必ずしも故意にしたとは思われないが、なんともわかりません^^; えらい気の毒なことではありましたが、わたしは、D.Belmiraがプリプリ怒っているに拘わらず、「あっはははは」と大声で笑わずにおれないのでした。

こういう小さなことから大きなことまで、ポルトガルがコネ社会であるのは間違いない。フェアじゃないと知っていながら、夫の同業の医者や看護婦から、わたしも時々夫の七光りを受けて、43番の次に50番が来るようなことをしてもらってることが残念ながら・・・ある。そのようなことを自ら頼みはしないが、夫を知っている人たちは知らぬ間にそういう計らいをしてくれてるはずです。

そう思ったら、「あっはははは」とひとしきり笑った後で気がひけてしまいましたっけ・・・
いやぁ、わたしもエラそうなことは言えませんて。

ベルミーラおばさんが我が家を去って後、新しいお手伝いさんが通って来ていますが、こんな楽しい話が聞けたりするようないい関係になるといいなと、楽しみにしているわたしです。

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